ブログトップ

木から落ちた猿

gatotkaca.exblog.jp

2011年 08月 03日 ( 1 )

ビモの肖像全史 その2

(承前)

 またアディパルワからは、「キドゥン・ビーマスワルガ」に発展するパンドゥ逝去のエピソードもある。これはモジョパイト末期に成立し、後のジャワ新王朝時代に演目「パンドゥ・ポポ」となる。この物語でビモは、父パンドゥ、義母マドリムをルワットし、ブレグボドBlegebada の地獄から天界へと昇らせるのである。1500〜1619年に「キタブ・ナワルチ」が成立する。その内容は以下のようなものである。ビモは、師ダンヒワン・ドゥルノの命令で『ブルマハ・パウィトロ』を探すこととなった。それは物質的生命に対する教えを見つけるための要求だった。探索の旅の途中で彼は、呪いをかけられた神々やビダダラ、ビダダリ(天界の妖精)たちをルワットする。
 「キタブ・ナワルチ」には興味深い点がいくつかある。著者はどこからこの作品の発想を得たのか?「バヌマハパウィトロ」という要素、ルワットという要素、登場人物の行為とその選択、会話、そして各々のエピソードの主題など。
 「バヌマハパウィトロ」の要素は、アディパルワにある神々とアスラたちがクシラルナワ Ksirarnawa の中にアムリタを探すというのがある。「ナワルチ」では、アマルタを探すのは神々やアスラたちではなく、探すことを命じられるのはビモである。ルワットは「キタブ・ビーマスワルガ」と「ビマ・ブンクス」に見いだせる。「ナワルチ」と先の二作品はどちらがより古いものなのであろうか?
 ビモが主役として取り上げられたのは、おそらく彼がマハーバラタの登場人物として著名であったことによる。ビモがナワルチの体内に入って会話するのは、ワナ・パルワにおいてルシ・マールカデーヤがウィスヌの体内に入る場面と相似する。各エピソードのテーマは古代メソポタミアのギルガメシュ叙事詩と類似している。半神半人のギルガメシュ王が永遠の生命を探しに行く、洪水から助かることの出来た者ウトナピシュティムと出会う、ギルガメシュが島に到着する、彼が見つけた生命の木を盗む蛇と出会うといったように。ギルガメシュ叙事詩はバビロニアを征服した際、ペルシアにもたらされた。
 この叙事詩の主題がインドネシアにもたらされたのはおそらく、13世紀にモジョパイトと交易したクラメシュ Kuramesh の商人たちによってであろう。あるいは、ペルシアからインド経由でグジャラートの商人たちによるものか?そのようにしてギルガメシュ叙事詩の諸要素はナワルチに混入されたのであろう。
ルワットを主題とした文学作品、ナワルチ、ビーマスワルゴ、ビモ・ブンクスはほぼ同じ時期、すなわちモジョパイト末期に成立したと思われる。
 同時代にはビモの石像や浮き彫りが多数製作された。それらは一般的には山の斜面に対面して設置されている。モジョパイト末期には少なくとも十体のビモ像が存在する。中でもチャンディ・スクの石像や浮き彫りは、「ビーマスワルガ」「ビモブンクス」「ソドモロ」のエピソードを描いている。それはルワットの物語を構成する(サデウォによるルワットも含む)。グヌン・プナングンガンでは、浮き彫りにおいては、ビモが海に向かう場面、キタブ・ナワルチの一エピソードが描かれ、それはクンダリソド寺院群に彫られている。残念なことにそれらの浮き彫りは現在失われてしまった。ビモの石像群はディクソdiksa の儀式(罪業を滅失させる儀式)の場所にある。チャンディ・スクの石像のように(サンティコ Santiko 1995:133)。それらは敬神とご利益、ナダル nadarとカウル kaul の場のために用いられた。これはトゥンガングリ Tunggangri、グヌット Ngunut のビモの石像にクムバン・ボレ Kembang boreh(クリーム色の花)がおかれることで示される。研究者のひとり、ネーベルKnebel がその石像を訪問した時に(これを発見した? 訳者追補)(Stutterheim 1956:112)。
 研究されたビモの石像の80%以上が性器を露出していた。これは、すでに存在したリンガ崇拝と関係があると考えられる。モジョパイト時代にはリンガ崇拝に関わる五つの行事があった。すなわち、グムポル Gempol 村に対するプラサスティ・グラワン Prasasti Nglawan、サカ歴1370年のプラサスティ・サミロノ Prasasti Samirono、サカ歴1371年のプラサスティ・パレマラン Palemaran、サカ歴1380年のプラサスティ・タミアジェン Tamiajeng、そして西暦1296年のプラサスティ・スカマルト Sukamarta である(Santiko1994:12-14)
 ここにおいて、ビモはなぜリンガ崇拝と関連するのだろうか?一方でリンガつまりファルス(ペニス)はシヴァイズムにおける崇拝の対象であり(バンダルカル 1913:114)、デワンダルマハートミヤ Dewandarumahatmya において考えられているように、確かにシヴァのファルスから生じた。
 ブラフマンダプラーナ Brahmandapurana において、シヴァは九つの名を持つと語られる。すなわち、ルドラ、バヴァ、シャルヴァ、イーシャ(パシュパティ)、ビーマ、ウグラ、そしてマハーデーヴァである。一目でビーマ(パンダワの一員、ヒワン・バユの息子)とビーマ(シヴァ)は結びつく。バーンダルカルBhandarkar の書(1913:102)において、ルドラと呼ばれる憤怒相のシヴァは、咆哮しながら回転し、ハリケーン(マルト)をもたらし、子供たち(ルドリヤ)をつくる。マルトもまた、バユと同じく風を意味するのである。
 真実、モジョパイト時代よりもはるか以前、リンガ崇拝に関連するプラサスティが発見されている。それはプラサスティ・チャンガル Canggal とプラサスティ・ディノヨ Dinoyo である。プラサスティ・チャンガルはサカ歴654年(西暦732年)に形成され、マタラム古王国のサンジャヤ王によって発布された。このプラサスティはグヌン・ウキル、マゲランのサラム地区、カディルウィ村チャンガル村落のチャンディの廃墟から発見された(Sangkar, 1971:15)。プロボチャロコはヨグヤカルタ,スレマン地区のチャンガルという。一方プササスティ・ディノヨまたプラサスティ・カンジュルハン Kanjuruhan はサカ歴682年(西暦760年)に形成された。このプラサスティは発見されたとき、破損して三つの部分に分かれていたが、一部分が1904年にディノヨ村でレイディエ・マルヴィル Leydie Malville によって発見された。二つ目の部分は1923年ムルジョサリ Merjosari 村でC.W.モーレンブレッシャー Maurenbrecher によって発見された(Sdr.M.Cahyono からの口頭での情報によれば、一部分がKejuron村から、[おそらく先のKanjuruhanよりも古い、このプラサスティはプラサスティ・カンジュルハンとも呼ばれる]、もう一部分がディノヨ村とムルジョヨ村から発見された)。現在このプラサスティはジャカルタ民族博物館にある。であるから、モジョパイト末期のビモ像は、「ルワットする者」ということになる。
 初期スラカルタ時代に、キヤイ・ヨソディプロ一世によって「カカウィン・バラタユダ」をもとにして、「スラット・バラタユダ」が作られた。その内容は「カカウィン・バラタユダ」と大きな差はなく、ビモの造形も同様である。しかし、削除されたところもある。それは、パンダワが戦争の途中で、一時停戦しバイラヴァに拝跪する儀式を行ったと語られる部分である(詩編23. 7−8)。同じ著者による「スラット・デウォルチ」も「キタブ・ナワルチ」を基にしているが、同様である。「スラット・バラタユダ」同様に、ヒンドゥー的要素は排除され、「スラット・デウォルチ」においては「スルク suluk」の書で通常使用される用語、パモリン・カウロ・グスティ Pamoring Kawulo Gusti が語られる。スラット・スルク作品は大部分が、ジャワ北海岸のイスラム諸王国で書かれた。それゆえ、それらの作品は「海岸文化」と呼ばれる。「スラット・デウォルチ」は文学作品にイスラム神秘主義を付加する種類のものとして発展した。それで初期スラカルタ時代には、ビモの人物像は戦争における英雄であり、イスラム教の教えに基づく人生の真理を探究する者となった。
 19-20世紀には、「スラット・バラタユダ」のエピソードを取り上げたワヤンの演目群が発展した。また、「ビーマスワルゴ」(ラコン「パンドゥ・ポポ」)「ビモ・ブンクス」(ラコン「ビモ・ブンクス」)また「スラット・デウォルチ」の物語からのものもある。ワヤンの演目群におけるビモ像は変化せず、初期スラカルタ時代のビモ像と合致している。
 1930年代、このようなビモ像を反映する演目群は、Ir.Moensの収集したラコン群の写本としてまとめられた。ラコン群は500弱にもおよぶ大量のものであり、その大部分はヨグヤカルタ、スントロ Sentolo のダラン、ウィディ・プライトノ Widi Prayitna によって上演(執筆?)されたものである。グルントゥン Grenteng 、パクトウォジョ pakutwaja 、ポンチョ・カキ Panca Kaki kak 各村のダランたちも記されている。その際、Ir.Moensは中部ジャワで一般民衆に信じられているビモ像が動物の姿をした良き精霊として作物の害虫と関わる役割を担っている、ということについて調べていた。現在このコレクションはオランダ、ライデン大学出版にある。そこでの物語には神話学的関連を持つ民話と動物の物語を当てはめて形成されている。
 試みに五つのラコンを取り上げてみよう。「ラコン・ビモ・ビロウォ」、「ラコン・ビモ・カチュップ」、「ワコン・ビモ・トゥラック」、「ラコン・ビモ・メダムル」そして「ラコン・ダムリプン・レパン・スラユ」である。
 ラコンBima Birawaのコンセプトはルワットであり、ラクササ王ビモ・ビロウォがウルクドロの体内に入り一体化する。ビロウォの名は「カカウィン・バラタユダ」におけるバイラヴァへの敬神を想起させる。また、シンゴサリ、モジョパイト時代の、バイラヴァ流派と関連する石像やプラサスティも。チャンディ・シンゴサリではバイラヴァ像が発見されている(バイラヴァ像は三体あり、一つはライデン博物館、これに並んでいたパールヴァーティ像はシンゴサリにある。チャムンディ(チャームンダー=ドゥルガーの憤怒相)を従えていたものはトロウラン博物館にある)。ジャカルタ・ナチョナル博物館のバイラヴァ像は、アディーティヤヴァルマン(アディーティヤ神群)のシムボルとしてひじょうに巨大なものである。
 ラコンBima Kacepではビモがデウィ・ウモと結婚することが語られる。これはバトロ・グルの知るところとなり、ビモの性器は切り落とされる。後にそれは、アンキン・ゴブルAngking Gobel というクリスとなる。そのクリスは害虫、とくに稲の害虫を除くものとして使われる。
  ラコン Bima Tulak はビモとその子ども、妻たちが水田の稲の害虫を、裸になって田を囲んで駆除する。ビモは先頭に立ち、最後にはその性器が光り、水田の害虫たちを焼き尽くす。
 ラコン Bima Medamel ではビモとパンダワたちが水田を開拓する。ビモはデウォルチからの啓示でクタン・ゴンディル( ketan Gondhil=ketan もち米、gondhil はげ)の稲を植える。彼はそれをジャワの王たちに伝えることに成功する。
 ラコンDamelipun Lepen Serayu の物語ではクロウォたちと運河建設の競争をする。クロウォたち百人はボゴウォント Bogowonto川を作る。パンダワはスラユ Serayu 川を作るが、その仕事のほとんどはビモひとりが行う。ビモは素早く性器を勃起させ、大地を掘り起こし、クロウォたちより早く川ができる。
 これらの演目群は、民話や民間信仰と関わりがある。ー今にいたるも、村の母たちによって夜から朝への旅路で幼い子どもに与えられ、受け渡される。精霊たちの邪魔だてがないようにカインは膝上に上げらるー。リンガ崇拝のコンセプトや、神話の肥沃さが、性器の機能を強調するのである。このことは、リンガ崇拝が、モジョパイト末期のみならず、8世紀のプラサスティ・チャンガルやプラサスティ・ディノヨにおいても見いだせることを想起させる。
 Ir.Moensのコレクションした演目群には、ビモと様々な怪物たちのセックスが強調されている。セックスの儀式は、生殖活動のみならず、バイラヴァ派の儀式の一部でもある。これはマハスカMahasuka (究極の至福)のコンセプトとも関連する。「スカ」に感謝を捧げるセックスは喜びの俗事である。これはマテリアルとフィジカルからなる一時性を認識する方法を説明する。制限を認識するために、人はある種の儀式を行う。限りある地上の喜びを感じることができるように。たとえばセックス、飲食。他に結婚もまたルワットの儀式として取り上げられる。それは低いレベルにある生き物たちをより高いレベルへと押し上げるのである。
 これらの演目群の存在は、モジョパイト末期のリンガ崇拝、バイラヴァ崇拝、そしてルワットにある「カレパサン・ジウォ kalepasan jiwa =魂の解放」と関連すると理解される。
 イスラムの到来で、バイラヴァ派によって行われていた儀式やヨーガの実践はもはや行われなくなった。しかしセックスにはじまる「kalepasan jiwa」の概念はまだ忘れられていない。これは「ダルモガンドゥル Darmogandul」 、「ガトロチョ Gaatholoco」「スラット・スルク」(Akkeren 1951)、「スルク・レベ・ロンタン Suluk Lebe Lontang 」(Zoetmulder,1990:2274-8; 280-1)など数種のスラット・スルクの存在によって示される。セックスと関連する演目群は、kalepasan jiwaの概念がヒンドゥー・ブッダ時代にも存在したことを示している。しかしイスラムの到来で、その概念の応用と知識は閉じ込められた。だが、全てを知る者が少数存在し、その概念は物語に現れもしたが、もはや断片的で完全なものではなかった。神話的要素は潜在的な底流となり、時折現れることとなった。
 Moensコレクションの諸ラコンの語りの手法は、「スラット・バラタユダ」また「スラット・デウォルチ」から採られたラコン群とは異なって見える。言葉も描き方も同様にこの写本集では定型的で、単純である。これらの物語の基づく環境は、村落のものであり、これらは村のダランたちによって作られたものであると考えられる。
 独立後の時代、1970年代には、一人の人物の誕生から死までを語る、バンジャラン演目群が現れる。これらの演目は既にある演目に基づいて構成される。スラカルタ王国時代に創案された諸演目が取り上げられるため、ビモの人物像に変化は生じていない。


1)Wibowo(1992:150)によれば、ラコン「Bima Kumara」は現在のラコン「ビモ・ブンクス」とほとんど同じものであり、チュリタ・ルワットに属する。バリでは今も『Bima Kumara」と題するラコンがあり、上演される内容に変わりがない。
2)これについてヴァーユは最初、ナーラヤナが目覚め、宇宙の夜が終わったとき、ブラフマから変化したという(Zimmer, 1953:51)。ブラフマはヴァーユとなり、海上に移動し、海中に入って大海から陸地を持ち上げた。これは生命と運動の起源であり、ここで風が完全なるものとして吸入される。(The Salvation of the King in the Mahabharata."dalam contributions to the Indian Sociology.New Series. Vol.15 Numbers 1 and 2.January-December 1981,p.91)
(了)
[PR]
by gatotkaca | 2011-08-03 17:37 | 影絵・ワヤン | Comments(0)