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木から落ちた猿

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ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 最終回

40.ガトコチョ、夜戦ドクトリンの先駆けとなった天空の戦士

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 ガトコチョは生まれたときラクササ〈羅刹〉の姿であった。名はプトゥット・トゥトゥコ Putut Tutuka という。両親のビモとアリムビ Arimbi はガトコチョがラクササ姿で生まれたことをとても悲しく思ったが、不平は言わなかった。
 トゥトゥコの誕生と時を同じくして、天界カヤンガンはサキプ Sakipu に率いられたラクササ〈羅刹〉の軍勢からの攻撃を受けた。神々は敗れ、散り散りになって逃げ、地上に助けを求めた。そして神はサキプに対抗する戦士としてトゥトゥコを借り受けるためビモのもとを訪れたのである。両親は承知し、快く息子の養育を神に委ねた。ナロド神が引き受け、鍛錬のためにチョンドロディムコ Candradimuka 火山にガトコチョを放り込んだ。
 さすがにビモ(1976年2月22日 ブアナ・ミング参照)の息子であるから、彼は試練に『優等 cum laude 』で合格した。カヤンガン・ティンジョモヨ Kahyangan Tinjumaya の訓練場でトゥトゥコは立派なサトリアに成長した。そして三つの戦士としてのライセンスを賜ったのである。『クタン・オントクスモ Kotang /Kutang Antakusma 』の上着は、ガトコチョが翼をもたなくとも、悪天候であっても、音速の三倍で空を飛ぶことのできるライセンスである。コンコルドより速いのだ。騒音をたてることもなく、有毒ガスを撒き散らすこともない。第二のライセンスは『チャピン・バスノンド Caping Basunanda 』という名の帽子である。これはどんなに熱くとも熱を感じず、どんな雨でも濡れることのない超能力を持つ。第三のライセンスは『ポド・カチャルモ Pada Kacarma 』の靴である。これはどんな『妖し angker 』のいる場所を通っても呪われることのない超能力を持つ。現代風に言えばさしずめ宇宙服のようなものである。
 彼は目指す場所へ、空からあっという間に行ける。惑星や月も、ガトコチョにとってはゴルフのグリーンのようなものなのだ。だから彼がサキプとプラブ・コロ・プラチョノ Kala Pracana の率いるラクササ軍との空中戦に勝利し得たのも驚くほどのことではない。彼の最初の任務は輝かしい成功に終わった。二人のラクササの首はガトコチョの手であっさりと打ち落とされたのである。
 彼のキャリアは昇り続ける。特筆すべきは、ガトコチョがプリンゴダニ Pringgadani 国の若き王となったことだろう。プラブ・アノム・コチョヌゴロ Prabu Anom Kacanegara がその称号である。コチョとは鏡を意味する。つまりガトコチョが国のための手本となる人であることを意味するのだ。むろんガトコチョの行動、性格は手本とするに値するものである。高い地位にありながらも、彼は側近もつけず、特別車も使わなかった。すべては国に還元されたのである。『クタン・オントクスモ』を履いていれば、どこへ行くにも彼は徒歩で十分であった。
 キ・ダランの語りによれば、ガトコチョは鋼の筋肉を持つサトリア、その骨は鋼鉄、指ははさみのよう、足は鋤のよう鋭く、その汗はミルク・コーヒーより甘い、と語られる。けれどこれらはすべて象徴的・比喩的表現であることを忘れてはならない。つまりガトコチョとは、何を為すにおいても、鉄のように強い意志を持ち、冷静で鋭い手足〈の動作〉をすることのできる人間の象徴なのである。退くこと無く、たゆみなく前進し、負けを知らない『シカタン Sikatan 〈ヒタキ〉』鳥のごとき熟練した者の謂いである。
 それゆえ大戦争バラタユダにおいて、彼はアスティノ国の戦士プラブ・カルノに対抗しうる者として信頼されたのだ。そこでガトコチョは夜間戦闘の先駆けとなった。夜襲は昼の戦闘よりも成功率が高いのだ。
  The future security of our nation is dependent upon an adequate Air-force (将来の我が国の防衛は十全な空軍力に依存している)。T・ネヴィット・ドュピュイ〈トレヴァー・ネヴィット・デュピュイ(Trevor Nevitt Dupuy、1916年5月3日 - 1995年6月5日)は、アメリカの退役陸軍大佐・軍事史家。原文; F.Nevitt Dupuy だが綴り誤り〉大佐はその著『第二次世界大戦軍事史 The Military History of World War Ⅱ 』でこのように言っている。「 Thus the final Blows that caused Japan to acknowledge, defeat were delivered from the air. (かくて日本に敗北を認めさせるにいたった最後の一息は、空から放たれたのであった)、と。そして歴史は証明している。海(太平洋)から始まった戦争は、空爆で終わりを告げたのである。

1976年4月11日 ブアナ・ミング


最後に著者イル・スリ・ムルヨノの略歴を記す(セノ・ワンギ刊『エンシクロペディ・ワヤン・インドネシア』による)。

イル・スリ・ムルヨノ・ジョヨスパドモ Ir. SRI MULYONO DJOJOSUPADMO
Marsekal Pertama TNI (Tentara Nasional Indonesia ) 〈インドネシア国軍・空軍准将〉

 イル・スリ・ムルヨノ・ジョヨスパドモは1930年6月14日、〈中部ジャワ、〉スラカルタ、クラテン Klaten 、ワンゲン Wangen 生まれ。1959年ジョクジャカルタ・ガジャマダ大学土木工学教員課程 Fakltas Teknik jurusan Sipil Unuversitas Gajah Mada Yogyakarta 卒。その年TNI〈インドネシア国軍〉空軍将校となり後、TNI空軍准将。
 文化人としてインドネシアのワヤン藝術に多大な貢献をした。卓越したダランとして知られ、またワヤン文化に関する多くの著作を残した。
 著作に『ワヤンの女たち Wayang dan Karakter Wanita 』、『ワヤン、起源、哲学、その未来 Wayang, Asal Usul, Folsafat, dan Masa Depannya 』、『ワヤンとその登場人物 Human Character in Wayang (英語版)』、『トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ Tripama, Watak Satria, dan Sastrajendra 』、『スマルとは何者か Apa dan Siapa Semar 』、『ワヤンとヌサンタラの哲学 Wayang dan Filsafat Nusantara 』、またジャカルタの週刊誌『ブアナ・ミング』のコラム『ワヤンとその登場人物 Wayang dan Karakter Manusia 』でも知られる。
 1975年「セノ・ワンギ SENA WANGI 〈Sekertariat Nasional Pewayangan Indonesia インドネシア・ワヤン国立事務局〉事務総長として初代首長となる。彼はワヤン文化普及にワヤンのコミック本を用いることを提唱した人物でもある。この時代セノ・ワンギはPT・イナルトゥ PT Inaltu 出版と提携し、数々のワヤン本、とくにコミック本を出版した。
 空軍准将でありダランでもあった彼は、スカルノ大統領の命で、イスタナ・ヌガラ Istana Negara とイスタナ・ボゴール Istana Bogor において数次ダランを務めた。1964年スラカルタ王宮でダランを務めた際には、王家の家宝キヤイ・カドゥン Kyai Kadung を使用した。
 イル・スリ・ムルヨノはスラカルタのPDMN(マンクヌガラン・ダラン教練 Pasinaon Dalang Mangku Negaran )でダラン術を学んだ。


(おわり)
by gatotkaca | 2013-06-10 00:20 | 影絵・ワヤン
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