人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

木から落ちた猿

gatotkaca.exblog.jp

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 第17章

17. デストロストロは盲目、パンドゥはアルビノ、それは『性急』な行為のせいである

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 第17章 _a0203553_92372.jpg

 新婚の時、クレスノ・ドゥウィポヨノは黒い肌、あご髭が伸び、目は光って恐ろしい姿だった。彼がアムビコの前に姿を現すと、アムビコはブガワン・アビヨソの顔を見るのが恐ろしくて目を閉じた。しかしゴンドワティの希望である。彼女はアビヨソのなすがままに身を投げ出した。アビヨソは言った。
 「そなたはめくらの男の子を産むであろう。彼の名はデストロストロだ。」
 アムバリコはどうなったか?アビヨソがアムバリコと会った時も同様であった。彼女はとても驚き、その顔は青ざめた。アビヨソは言った。
 「アムバリコよ、そなたの息子はそなたが私を見た時と同じように青ざめた顔であろう。そなたの息子はパンドゥと名付けられよう。」
 この状況にゴンドワティは不満であった。今度は不具でない息子をもうけてほしいと、もう一度アビヨソに頼んだ。ダトリ Datri という侍女がアビヨソの相手を命じられた。彼女は喜んで応じ、何も思わなかった。彼女の産んだ子は美しく、心清く、賢くてダルマ〈法〉に忠実な人であった。しかし彼女がアビヨソを受け入れた時、つま先立ちで歩いたので、その子は跛であった。
 母の希望を遂げて、アビヨソは再び苦行を続けるため苦行所へ帰り、世俗から離れた。
 さて、アディパルワによる物語はこのようであった。プラブ・ダルマワンサ・テグ・ハナンタ・ウィクラマによって11世紀に作られたこの書は、19世紀になってから偉大な宮廷詩人R・Ng・ロンドワルシトによって改作された。彼は基本的には変更を加えず、思想と哲学的世界観をヌサンタラ〈ジャワ、インドネシア〉のものに変えただけに止めた。汎神論から人間中心主義に変えたのである。すべてを人間中心の観点から見たもの、つまり『ドゥマディ dumadi 』(実存)の観点でとらえ直したのである。
 人間とはまさしく自分自身と対峙するものである。その性格には「ドゥルユドノ、ドゥルマガティ Durmagati 、ドゥルチトロ Durcitra 、そしてドゥルシロ Dursila 〈いずれもクロウォ百王子〉」が住んでおり、それは人間自身の邪な欲望の側面に他ならない。これらは自身の心の働き、聖性によって滅せられなければならない。つまり『スティヨ・ブディヨ・パンゲクセ・ドゥル・アンコロ Setya budya pangekese dur angkara 〈善なる認識を強化し、悪しき欲望を滅する〉』ということだ。スティヨ・ブディヨとは『善なる認識(ワヤンではパンダワに象徴される)を強化すること』、パンゲクセとは『滅すること(ワヤンではバロトユドに象徴される)』、そしてドゥル・アンコロとは『悪しき欲望=クロウォ』である。
 また、人間は存在の源泉たる創造主を求め、探す生き物でもある。だからスナン・ボナン Sunan Bonang はスナン・カリジョゴ Sunan Kalijaga とウジル Wujil にこう言った。〈スナン・ボナンとスナン・カリジョゴは、15世紀から16世紀にかけ、イスラームを 布教するのに重要な役割を果たしたとして現在でも崇敬されるイスラームの9人の聖者ワリ・ソゴ Wali Sanga のメンバー〉
 「おお弟よ、バロトユドのラコンで左(クリル〈スクリーン〉の裏側から見て)にいる者、つまりクロウォ〈訳注:原文パンダワだが文脈からみるとクロウォである〉はナフィ nafi (神に背く者)を表していて、右側の者はイスバート isbat (啓発する者)を表している。ナフィはイスバートによって生じ、またイスバートはナフィによって生ずる。彼らはムスバート musbat (絶対的存在)をかけて戦い続ける。その勝敗は鏡(クレスノ)にかかっているのだ。」
 それゆえ人間はいつの時代も戦い続ける。その戦いはナフィとイスバートの戦いに他ならず、ムスバートをかけた戦いなのである。
 さて、ここに来て、これ以上は続けられなくなってしまった。というのも『sinengker 』(難解)な『古の教え ilmu tua 』に至ってしまったからだ。ロロ・アミスの性急さゆえの過ちの問題に戻ろう。
 ロロ・アミスが『せっついた notol 』せいで、孫たちは因果を受けなければならなくなった。罪の無い赤子が一生障碍を背負わねばならなくなったのである。(ワヤンの世界では)赤子の優劣は父のウィジ wiji (種)で決まるが、母、つまり器にも清めと準備が必要とされる。何があろうとも、『wuswaspadeng semu 』/先を見通す賢者は、一時はアンバランスな状態を生じたとしても、性急であってはならないのだ。『 tumibanig mangsa kala 〈時が熟す〉』のを待たなければならない。人生ではあらゆることに潮時というものがある(『ふたたび、スマントリは〈見苦しい男か、それとも手本となる男か?〉』〈『ワヤンとその登場人物たち〜ハルジュノソスロとラマヤナ』第14章〉参照のこと)。つまり闇にはかならず光が指すということである。
 光(真実)を求めるなら、闇(夜)はいずれ明けて日の光に代ると知らねばならぬ。自覚してじっと待てば、闇はやがて光に代る。『闇』の中を無理矢理『光』で照らそうとするなら、その『光』は偽物、つまり『真実』ではないのだ。であるから、バロトユドの勃発は早めることも遅らせることもできない。それは我々自身の人生の過程すべての象徴でもある。
 日の出を見たければ、朝6時を待つのだ。満月を見たければ半月を待つのだ。
 本質的に、人生とは社会的実存としての自分自身と対峙することである。ワヤンは欲望を抑えるために、渇きと空腹を我慢して『苦行 tapa brata 』するよう教えるが、それは世俗の問題に背を向け、逃げて、海岸で孤独になったり、川の『流れ tempuran 』に身を浸せと言っているわけではない。貪欲にならぬよう、欲張りにならぬよう、物質的なものがすべてだと思わぬようにと諭しているのである。人生は具体的実存的に見詰めなければならない。人間の行動原理はトーマス・ホッブスの理屈のように、欲望を追いかけることのみではなく、人間性そのものによっても定められるものなのだ。
 だから人間は悪しき欲望を退けなくてはならない。なぜか?それは『ホモ・ホミニ・ルプス』(人間は人間にとって狼である)に陥らないためである。アビヨソは人間が疑念無しに自分自身の内面に進んでいくことを提唱した。深く進めばさらに奥があり、もっと奥深い。最も奥深い所に本当の自分自身がいるのである。
 アビヨソがバロト族の中に入れられた理由はここにある。インドネシアの人々によってアビヨソは重要な役割を担う人物として、宮廷詩人たちの手でバロトユドの物語に入れ込まれたのである。アビヨソは孫たちの身の上に起こる出来事のすべてを知っていた。しかし、彼は時の来るのを待っていたのである。
 今一度言おう。アビヨソは人間が人間にとって狼とならぬように、マハバラタの中に入れられた人物なのである。

1976年11月12日 ブアナ・ミング
by gatotkaca | 2013-05-11 09:04 | 影絵・ワヤン
<< ワヤンとその登場人物〜マハバラ... ワヤンとその登場人物〜マハバラ... >>