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木から落ちた猿

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ワヤンとその登場人物〜ハルジュノソスロとラマヤナ 第2章

2.ワヤン・クリ・プルウォのダランの評価

はじめに
 1. 長い間ワヤン・クリ・プルウォは愛好家たちによって取り上げられ、議論されてきた。議論の内容自体は真新しいものではなく、過去から続いて来た問題が反復され、充実させられてきたのである。ワヤンの問題は1962年から1693年に、著者とセノ・サストロ・アミジョヨ Seno Sastra Amijaya 氏、サントソ Santosa 氏によって六ヶ月ほどの間「ブリタ・ユダ Berita Yudha 」紙上で「試されるワヤン Wayang dalam Ujian 」と題され、議論の中心命題となった。
 なぜダランは今日にいたるまで人々、さらには学者たちの関心を引き続けているのだろうか? むろんワヤンが見物人の心を感動させ、藝術家や学者たちの関心を引く伝統的古典的演劇であることは、文化的感性を持った誰もが否定しえないことである。ダランの藝には多くの人生の側面が内包されており、さまざまな精神的有用性/象徴、娯楽や教育/教説が含まれている。
 いつも著者とワヤンの作り手たちは、ワヤン・クリ・プルウォのダラン術 pedalangan がたんなる娯楽的上演だけでなく、精神的性質をより多く内包していることを話してきた。さらにワヤン・クリ・プルウォのダラン術が伝統的古典藝術の語を冠するに相応しいという点で意見は一致している。アディルフン adiluhung (高貴)な伝統的古典藝術という語を冠するものも稀ではない。つまりその文化的価値が世代から世代へと受け継がれ、高められて来たということである。
 こういった語が冠せられることから、ワヤンが多面的・複合的機能を持った演劇形態であると理解できる。ダラン術におけるそれぞれの側面は、ダラン術の価値を完全なものとするために働く要素と言える。
 ダラン術の評価に含まれる諸要素とは、
a. 娯楽的要素
b. 藝術的要素
c. 教育的・教説的要素
d. 知識・教養的要素
e. 精神的/霊的、神秘主義的そして象徴的要素
 ワヤン上演の過程や実行において、上記の側面や要素は独立したものではなく、相互に等価なものであり、どれか一つが突出してはならない。さらには他の上演の諸々の手段で混ぜ合わされ、組み立てられて一体とされ、欠けること無く結合されなければならない。この一体化されたものこそがワヤン・クリ・プルウォのダラン術なのである。
 ひとつの側面だけが協調され、光を浴びてしまうと、それは偽物あるいは形だけのものになってしまうのである。

娯楽的評価
 2. ワヤン・クリはインドネシアの民衆、特にジャワ島の人々の心に大きな場を占めている。今日にいたるまで明らかに好まれているのだ。最も輝かしい大衆娯楽となっている。ワヤン・オランもまたそのようである。ワヤン・クリの上演があるごとに観客たちの注目を集めていることからもわかるだろう。下町 kampung でも、村々でも、市街でも、ほとんど80パーセントの人たちが一晩中座り続けて見ている(9時間弱)。ワヤン・クリを愛好家たちにとって、座してうなづきながらワヤン・クリに見入ることは喜びなのである。

藝術的評価
 3. 成熟したダランの手による藝術性の役割は主要な要素となる。とはいえ、そのような藝術性も、それ自体はワヤン・クリ・プルウォ全体のダラン術に含まれているものの、ひとつの要素にすぎない。
 ワヤン・クリ・プルウォの藝術性は、いくつかの副次的要素からなる。藝術的側面からの観点に限っても、ワヤンは感動的なドラマ性との調和のとれた混合体ということができる。ワヤン・クリ・プルウォの藝術性は『サプトムコ〈saptamuka=七つの顔〉』の藝術と呼ばれる。そこに含まれる要素は次のようなものである。
a. 劇的藝術性 ワヤン・クリの本質はそのドラマ性にあり、ワヤン・クリのすべてのラコン〈lakon=演目〉には少なくとも哲学者やクバティナン〈kebatinan=ジャワ教・ジャワ神秘主義〉の専門家たちの心をとらえるドラマの核となる主要なモティーフが内包されている。
b. 絵画的/デザイン的藝術性 調和のとれた、皮への透かし彫りや彩色の構成は十分美的感性に働きかけるものである。
c. 造形的藝術性 十分に乾燥された水牛の皮は、それから『ジルムット jlimet(徹底的・慎重に)』透かし彫りが施され、特定のワヤンの人物の姿へと形づくられて行く。
d. 文学的藝術性 ダランの用いる言葉は美しく、文学者や文化人の関心をおおいに魅くものである。
e. 声楽的藝術性 ダランの声、歌声 nyanian swarawati 、ガムランの音楽が溶け合って感性を刺激して藝術的満足をあたえてくれる。
f. カラウィタン〈ジャワ古典音楽〉の藝術性 グンディン〈ガムランの古典曲〉は高貴で、繊細、神聖、協調性をもった素晴らしい性質を有し、喜びをあたえ、美的感性を育み、ラコンに示された神秘主義への理解を導く。
g. (動作の)様式美の藝術性 うすっぺらな皮にすぎないワヤンの動きが、形式を備えた動きによって、まるで意志を持って生きているかのように動かされる。

 ワヤンにおけるこれら藝術性の枝葉は、ひとつが突出することなく相互に調和し合い、一体となって表現される。
 これら各々の藝術的要素は他から突出して目立ってはならなず、他の舞台上の要素と組み合わされ、円熟した一体として扱われなければならないのである。この一体化したものこそが、ワヤン・クリ・プルウォのダラン術というものであり、提示される様々な藝術性のコンビネーションのことではないのだ。
 とりわけウォンド〈wanda=同じ人物の造形に若干の差異をもうけてムードを作り出し、場面によって使い分けることがあり、そのタイプをウォンドと呼ぶ〉、彫りは造形的藝術性の混合体であり、彫琢的藝術性『ジルムット〈徹底的〉な』透かし彫りを生み、劇的藝術性はラコン〈演目〉の物語を、声楽的藝術性はスロ〈suluk=ダランの歌う短い唄〉、オド・オド〈ada-ada=烈しい場面・感情的場面を表す時のスロの一種〉、オントワチョノ〈antawacana=ダランの語り・登場人物の会話〉、シンデナン〈sindenanガムランの女性歌手プシンデンの歌〉を形成し、カラウィタンの藝術性はゆるやかなリズムの心地よいグンディン曲を、文学的藝術性は流麗な言い回し、お笑い、おかしみを、そして様式的藝術性はワヤン人形の熟達し、機敏な動きを生む。こららがぶつかり合い、組み立てられ、混ぜ合わされて一つのドラマとなり、形をなす。かくてワダッグ wadag /形あるものの性質とラン・ワダッグ〈形無きもの〉/精神性の性質が一体化 manunggal し、溶け合ってひとつとなり、見る者聞くものの心を喚起し、心に触れるのである。

 ワヤン・クリ・プルウォは表現・装飾・写実的藝術の最高の精華である。それは多くの人々が変革を試み、あるいはこれに代るものを創り出そうと試みてきたが、今日にいたるまでこれを超える、または同等のものは現れていない。著名な芸術家ソダラ・クスナディ Saudara Kusnadi はその講義、『1956年ヨグヤカルタ、ガジャ・マダ大学、文化・科学セミナー Seminar Ilmu dan Budaya Universitas Gajah Mada Yogyakarta 1956 』において、次のような意見を述べている。
「古の物語の人物たちに形を与えようとする欲求が、板人形に皮の手を付けたワヤン・クルチル wayang Krucil となり、布切れにラコンの場面を描くワヤン・ベベルを生んだ(ソノブドヨ Sonobudoyo 博物館の写真で、その活き活きとした構成を見ることが出来る)。ワヤン・ゴレ wayang golek 〈木偶人形のワヤン〉はリアリズムとプロミティヴの中間であり、アラブの説話をリアルに描こうとするものである。またインドの古典であるマハーバーラタとラーマーヤナはスラカルタ、ジョクジャカルタ、バリのワヤン・クリ藝術を生み出した。バリのワヤン・クリで注目するべきは、それがチャンディ〈ヒンドゥー教、仏教の祀堂〉のレリーフの造形に準拠したものであり、その造形は装飾的表現がなされているとはいえ、十分に写実的なものであると言えることである。中部ジャワのワヤン・クリは絶え間ないstillering〈語意不明〉を経て普通の人間とは似ても似つかない造形となった。そこでは精緻に定められた『ウォンド』という技術が見出され、一人一人の人物の体型や顔を形づくっているのである。これは大枠では三種類に分類できる。勇猛な人物を表すもの、高貴で勇猛な人物を表すもの、そして高貴な人物を表すものである。例をあげれば、穏やかで忍耐強いプントデウォ puntadewa のような人物からガトゥコチョ Gatutkaca のような勇敢な人物、ボロデウォ Baladewa のような怒りっぽい者まで。そしてアルジュノのようにクサトリア〈武将〉の性質を備えた者から、性急で荒々しい者(チャキル Cakil )や小心で恐がりの者(ビルン/ソロイト Bilung/Sarahita )まで。皮への透かし彫りの技巧によって途切れること無く微妙な穴開け『アジョウル ajour 』が果たされている。色とりどりの彩色と金箔を施すことで品位と誇らしさが達成されているのである。」
 このインドネシアの芸術家の誠実で率直な認識はひとつの指針とすることができよう。ワヤン・クリ・プルウォは『誇るべき』藝術性を持つものである、と。成熟したワヤン・クリの造形は一気に出来上がったものではなく、相応の時間と過程を経たものである。まずは基本となる図像ができ、チャンディのレリーフとなり、絵画/ベベル、イラサン irasan(胴体と手が一体化したもの)な二次元的 dua dimensi/miring 造形となった。そして今日我々が目にするような、コンセプトに基づいて良質で高貴な、人物の性質を表す水準へといたったのである。
 ワヤン・クリ・プルウォ藝術の発展と推進は、造形のみならず、ワヤンの上演法、シムピンガン〈simpingan=ワヤン上演の際、スクリーンの両側に並べられる人形〉の配置、赤く燻るクリル〈スクリーン〉、ガムランの構成もまたそうである。これらの構成が調和のとれた色彩とコンポジションを形づくり眼前に現れる素晴らしさをいや増すのである。

教育的、教説的評価
 4. ワヤン・クリ・プルウォはインドネシアの大衆、とくにジャワ人、中でも村落の人々の心の血肉となって息づいている藝術である。さまざまな種類のワヤンがあるが、ワヤン・クリ・プルウォこそが真に大衆の共感をもって心を惹き付けるものである。というのもワヤン・クリにはインドネシアの大衆の生活感と共鳴する生の英知、導きとなる手本 tepa palupi が内包されているからである。教育的諸要素、文明化され道徳化された精神的教え(美意識)、作法(倫理)、愛国心、英雄性といった要素が、ハルジュノ・ソスロバウ、ラマヤナ、バラタユダやその他のラコン〈演目〉のうちに見出されるのである。

科学的評価
 5. 19世紀初頭、ワヤン・クリ・プルウォはインドネシアの学者のみならず、西洋の学者たちからもおおいなる関心を引いた。学者たちが特に注目した側面は科学的見地である。19世紀初頭、ワヤンもまた文化の分野における科学的研究の対象とされたのは驚くことではあるまい。
 ワヤン・クリとダランが学者や知識人たちにとって、民族学、哲学、人類学、言語学その他のインスピレーションと知識の源泉となったのである。
 幾多の西洋、東洋(インドネシア)の学者たちが、ワヤン・クリをめぐる研究、調査、分析、学術批評によって学位を得るにいたったのだ。誰もがワヤン・クリの偉大な価値と科学への貢献を認めるにやぶさかではないだろう。

哲学、象徴、霊的評価
 6. ワヤンのラコン(物語)それぞれに、神の創り賜いし世界の根幹となる原理が内包されている。
 そこにはタサウフ tasawuf 、つまり完全なる生の聖性を目指す葛藤としての『生の奮闘』というものが象徴されているのである。著名な宮廷詩人たちによって作られ、ワヤンの世界で文学、科学、精神性を認められた、著名な哲学的モチーフをもったラコン(演目)を二つ紹介しよう。

a. ラコン『デウォ・ルチ Dewa Ruci 』。これは哲学的・精神的意味合いに満ちた、文学的成果のひとつである。ここでは、ビモ〈パンダワ五王子の次兄〉が命の水を求めて旅に出る。それは生の始まりからその目的へと到達するための道、『サンカン・パラン sangkan paran 』である。このキタブ Kitab 〈書〉はモジョパイト Majapahit 王国末期(1473年頃)に書かれた。
b. ラコン『アルジュノ・ウィウォホ Arjuna Wiwaha 〈アルジュノ(パンダワ五王子の三男)の婚礼宴〉』 このラコンもまた、文学作品として成立したものであり、高貴なる存在から力を得るためにサン・アルジュノが苦行する姿が描かれる。アルジュノは世界を治めるために無敵の力を得ようとする。ラコン『アルジュノ・ウィウォホ』はアイルランガ Airlangga 王の統治時代にエムプ・カンワ Empu Kanwa によって書かれたものである。

 ワヤンは生、人生の象徴としての言葉であり、ワヤンで示されるシムボルが人間なのではない。ワヤンを研究し、知ることで、我々は我々自身の生、人生を知ることができるのである。そうした哲学的手段の必要性を知っていれば、混沌とした迷路に踏み迷うことはないのである。
 「哲学」はそれを初めて知ったばかりの者にとってはむろん、理解するのが難しく複雑なものである。しかし「哲学」は学ばなければ理解できない。
 哲学から確実に得ることのできるものとは、第一に、現実を覆う謎のベールを開いて行く努力である。第二は、ラディカルな思考、すなわちある徴候の根幹が何なのかを求めることで、普遍的(一般的)結論に到達することである。第三は、原因と結果の関係(因果)を知ることである。第四は、システムトメソッドを知ることであり、第五には、対象〈オブジェクト〉と目的を知ることである。
 哲学から得られるシシテムとメソッドは様々であるとはいえ、目的とするオブジェクトは同じである。つまり実際には普遍的事象の結果なのだ。
 哲学をもつことは(因果を知る)思考を持つことである。しかし思考することがすなわち哲学ではない。哲学は自由な思索であるが、責任感を持ち、秩序と規則を備えた思考法を用いる必要がある。であるから、哲学とは責任ある思考であり、メソッドを備え、システムを持ち、秩序立って、理論的であり、普遍的な謎を解き明かし、結論を探し求めるものである。それは単なる因果に留まらない概念的内面の活動なのである。
 手短かに言えば哲学とは、第一に哲学とは、生への見識であり、生の哲学とは正しいかそうでないかを調べるまでもなく、感性と一致するものなのである。第二に、哲学とは科学的でなければならないものである。であるから、哲学とは存在する、あるは存在するであろうものすべてに対してその深層を解き明かそうとする試みとしての科学であり、因果律や感性に留まらないものである。
 それゆえ、深くワヤン・クリを知ろうとするなら、その深層にある謎のベールを剥がして行かなければならない。そうすれば、我々はワヤンが生と人生の百科事典であることが分かるだろう。
 人がダランの評価に含まれる諸要素を知る段階を球に喩えてれば、下の図のようになるだろう。

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 ワヤンを初めて知った人は、たくさんの見物人たちを見てそれが娯楽であると考えるだろう。たくさんの人たちが笑い、拍手しているのだから。より深く知れば、ワヤンが『サプトムコ〈七つの顔をもつ〉』藝術であることを知るだろう。
 さらに成熟し、ワヤンをより深く知る品位のある人となれば、ワヤンには教育的・教説的価値があることを知る。愛好家としてさらに高いインテリジェンスを増せば、ワヤンを論文の対象とすることにもなるだろう。彼の内なる霊性が高まれば、ワヤンが生と人間の生を象徴することが分かる。それはサンカン・パラン(オントロジー=存在論)と神秘主義の教えを象徴するものであり、人間の祈りが創造主へいたるための道なのである。
 ワヤンを知り、精通し、適した人にとって、ワヤンは薄っぺらな図像ではなく、そこには必要に応じてさまざまな側面、要素、次元、そして機能が見えるのである。ワヤンとはマルチな機能を持つものであり、マルチな次元(複合的)のものなのである。
 さあ、ひとつひとつの側面からワヤンを包んでいるミステリーを解き明かして行こう。それはワヤンが、我々自身の生と人生を象徴する言葉であることを教えてくれるだろう。

1971年4月25日 ユダ・ミング YUDHA MINGGU
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by gatotkaca | 2013-03-31 01:02 | 影絵・ワヤン | Comments(0)
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