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木から落ちた猿

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「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その13

読者の意見

12.祖国のための純粋なクムボカルノの闘いは手本に相応しい

 イル・スリ・ムルヨノ氏の『ワヤンとその登場人物たち』の記事を楽しみにしている購読者のひとりとして、スラット・トリポモの三人の人物のうち、誰が最上のクサトリア、戦士になるかというレヴュー/意見を提出できることをうれしく思っています。私の意見は次のようなものです。

1. スラット・トリポモの著者氏にとって、ワヤンの登場人物たちが手本として取り上げられた。これは教育的目的と共に、国家(とりわけ支配者)への忠誠心を刷り込むためのものだと考えられる。それは当時の状況、社会条件によるものである。作者、(当時の政府における)その地位、そして行政機構の様態を想起しなければならない。

 当時の政府は絶対君主制(Monarchi Absolut )を採用し、それは唯一絶対の支配者、最高者としての王を戴くものであった。であるから手本とされた三人の人物は、とりわけ国家に対して運命的献身〈 darma bakti 〉を果たした人物像として利用されたのである。王こそがそれ〈献身〉を受ける者なのだ。それゆえ、トリポモにおいては、三人の人物の背景は強調されていない(言及されない)のである。強調されるのは、「王と国家」に対する闘いぶり、運命的献身、忠誠心である。
 我々が『マンクヌガランの子 Bocah Mangkunegaran 』であったなら、当時、スマントリやアディパティ・カルノはサトリヨの手本ではない、などと言うことはよほどの勇気のいることであっただろう。

2. とはいえ、当時の状況・状態に合致した三人物の分析を行うには準備不足である。私としては、パンチャシラとU.U.D 45(人民主権)〈U.U.D.45=Undang-undang Dasar 1945=1945年に制定された『インドネシア共和国憲法』のこと。その後1949年の独立戦争終結後『インドネシア共和国連邦憲法 Konstitusi Republik Indonesia Serikat (197条からなる)』→1950年『暫定憲法 UUD Sementara 』→1966年スハルト体制下では45年憲法回帰→1999〜2002年まで毎年憲法改正が行われた〉に基づく共和国の体制に合わせる。これらを考慮して、私が『手本』として挙げる人物は『サン・クムボカルノ』のみである。

 根拠を以下に述べる。
a. クムボカルノの闘いは純粋なものであった。利益を度外視したという意味である。物質的利や地位のためではなかった。また兄(ラウォノ)への忠誠心によるものでもなかったのである。彼は兄が誤っていることを知っており、彼が対峙すべき役割を知っていた(激怒するほどに)。彼はもっぱら祖国への愛と国(Nusa)と民( Bangsa )のために身を捧げたのである。
b. 私はクムボカルノがショービズム〈狂信的愛国主義〉の思想を持っていたとは思わない。私は彼を真の愛国主義者(ナショナリスト)だと考える。彼は祖国を守護し、敵の攻撃から護ろうとしたのだ。彼は祖国が善なるものではないと承知していた。彼はまた、兄が過ちを犯していることも自覚し、目を覚まさせようと努力した。彼は勝利のために戦ったのではない。彼は白装束で戦に赴いた。それは祖国に殉じる彼の意志なのである。
c. クムボカルノはラクササ姿ではあるが、その心は優しかった。彼はその生涯を悪事で汚すことはなかった。苦行を愛した。彼は最高の食いしん坊(貪欲)として描かれるけれど、それは彼がラクササであったからにすぎない。彼は兄弟たち、一族、そして祖国とその民を愛した。彼は眠ることを好んだが、祖国が直面している問題に対して無視すること無く、覚醒(目を開いて)していたのである。
d. クムボカルノは今日における手本として相応しい。彼は過ちを犯した権力者に対して勇気を持って対峙した(兄に反対して呪われ、クムボカルノは心傷つき、食べた物をすべて吐き戻してしまったほどだ)。とはいえ、クムボカルノは敵に祖国が破壊されることに耐えられなかった。たとえその敵がウィスヌであっても。彼は身と魂を祖国のために犠牲にした。敗れ、死ぬと分かっていても、喜んで。

 さて、他の人物たち、つまりスマントリとバスカルノはどうであろうか?私の意見では、今日の状況、状態に合った手本とは言えないと思う。以下に理由を述べる。
a. 大きな野心を伴った高貴な理想、それは偉大にして超能力の王に仕えることであった。職務遂行の成功は彼に大地〈自身の立場〉を忘れさせた。超能力を戦わせ、王を試そうとするなど、無礼なことではないか?
b. 彼は自分の弟を殺した(故意にではないとしても)。弟の助けがなければ、彼はスリ・ハルジュノソスロバウに仕えることはできなかっただろう。この事件は彼が、小人のラクササである弟(スコスロノ)の超能力の助けを得てタマン・スリウェダリ(スリウェダリの園)を移動させることに成功したことを隠すため、〈弟の存在を〉恥として彼を殺したのである。こんな類いの人物を手本とされては迷惑である。スマントリは真のクサトリアとは言えまい。彼が高い精神性を持たねばならぬ真のクサトリアであったなら、弟を王に紹介し、弟こそがそれらを成し遂げた者であることを告げるだろう。不思議なことにウィスヌの化身であるはずのスリ・ハルジュノソスロバウは、なぜかこの出来事に気付かず、ついにはスマントリを大臣に取り立てるのである。
c. スマントリの成功は、成功を手助けしてくれた人の犠牲のうえにある。弟こそが手本となる人なのではないだろうか?
d. このスマントリのありようは、現代の我々には適用し得ない。スマントリはスコサロノを忘れた(ジャルウォ・ドソク〈jarwa dhosok=カウィ語をジャワ語に訳すこと〉ではスコ・サラナ suko sarana とは名誉の因を意味する)。たとえば、民衆の代表たる者が、彼を支持してくれた民衆を忘れるようなものだ。

 とはいえ、スマントリの物語の続きでは、スマントリはその行為の結果として、高貴な生活はつかの間、(ラウォノの牙に入魂した)弟の報復によって死に至ることを我々は知っている。
 であるから、私はスマントリの『物語』を手本と看做すことには賛成するけれど、スマントリ個人を手本とすることには賛成しない。この『物語』はある人間が、他者の援助によって偉くなり、後に恩人を忘れてついには自身の行為の業〈カルマ〉を引き受けるさまを描いているからである。

バスカルノの人物像
a. バスカルノは地位と富に仕えた野心の人である。私は彼がABS〈Asal Bapak Senang=おべっか使い〉のイエスマンとして描かれている人物であると考える。この家なき子〈broken home〉である人物は、心の傷と復讐のために戦った。母デウィ・クンティはむろん過ちを犯したけれど、彼女は許しを乞うたではないか。
b. 彼は自身の兄弟たちを敵に回したが、それは地位と名誉を得たことが『気まずいこと〈rikuh〉』であったからだ。彼は地位と財産に目が眩んだのである。バスカルノはむろん立派で勇猛な戦士であったが、サトリヨの鑑とは言えない。彼はスルティカンティと結婚できたのがアルジュノのお陰であることを想起すべきである。
c. 実際、多くの人々はバスカルノに憧れを抱いている。彼が自己犠牲の人だからである。彼がコラワに味方しなければ、多分バラタ族の戦争はおこらず、悪の治世が続いたであろう(コラワが権力を持ち続けた)。

 この見解に私は同意しない。というのも、サン・ドゥルユドノ(アスティノ王)に尊重される人として、彼はアスティノを二つに分ける(シガル・スマンカ sigar semangka )ことを進言している。そうすれば兄弟戦争は必要なくなるのだ。バラタ族の戦争はまさしく正義を確立するための戦争なのだ。とはいえこの戦争は兄弟同士の戦争でもある。兄弟戦争はすべての戦争のうち最も呪われた戦争なのだ。
 アディパティ・カルノは血を分けた兄弟を敵として司令官となる。ぞっとするほど酷いことである。さらに彼は自身の組するがわが悪であると知りながら、司令官となるのだ

 以上がトリポモの人物たちに対する私の答え/意見です。もう一度繰り返しますが、私はワヤンにおいては素人です。イル・スリ・ムルヨノ氏の本もまだ読んでおりません。あの方の文章をブアナ・ミングで読んでいるに過ぎません。
 私は物書きでもありません。ですから私の文がみっともないものであることをお詫びいたします。この文章を私は取り急ぎ書きました。時間をかけて練り上げたものではないことにお詫びいたします。多くの書き手に応えるイル・スリ・ムルヨノ氏のお誘いに敬意を表します。とは言え、残念ながら私は良い書き手とは言えませんが。イル・スリ・ムルヨノ氏が討論の機会を設けて下さったことは大いに喜ばしくおもいます。このお誘いに感謝いたします。

1977年7月11日、ブアナ・ミング
ワラスモ・ブロトディニングラト Warasmo Brotodiningrat
ジャカルタ

(つづく)
by gatotkaca | 2012-10-11 08:17 | 影絵・ワヤン
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