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木から落ちた猿

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ナルトサブドの生涯 その18

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偶像、そしてナルトサブドのライフ・スタイル

A.偶像


 前章で、ナルトサブドが、彼のワヤンにユーモアをたっぷりと入れるダランとして有名になったことを記した。ナルトサブドは、お笑い担当の人物だけでなく、クレスノ、ジャノコ、ボロデウォ、ガトゥコチョ、ウルクドロといったシリアスな役柄の人物たちにもユーモアを生かした。しかし、シリアスな人物たちをユーモラスに扱う習いは、カルノに対してはしなかった。ナルトサブドのワヤンの中では、カルノはつねにシリアスであり、観客の笑いを誘うような言葉を発することはなかった。さらに言えば、カルノという人物を介して、しばしば意図的に見解や態度を表明したのである。
 我々が知っているように、カルノはパンダワたちの長兄である。状況的に彼はパンダワとつねに敵対するコラワ側にあることを余儀なくされている。ナルトサブドの描くカルノは、地位と栄誉、そして豊かなる愛を与えてくれた王国、ならびに王に対して忠実な人物である。ドゥルユドノに対するカルノの忠誠は、盲目的な忠誠ではなく、公正、真実、人間性に対する深い理解に基づいたものである。この基本姿勢のゆえに、カルノはつねに、公正、真実、人間性に反するコラワの態度、行為を承認してはいない。ラコン「ビモ・スチ Bima Suci 」において 1)、ドゥルユドノは、アルゴクロソ Argakelasa でプンデト(僧侶)となっているビモが、コワラに災厄をもたらし、滅ぼそうとしていると考えた。カルノはその意見に強く反対する。アスティの国の民も含む人間世界の魂の成長を助けることのできる真の賢者を非難するドゥルユドノは賢明とは言えない、と。アマルト国とその領域の支配権を得ようとして、コラワたちがいかさまサイコロ賭博を企んだことに対しても、カルノは反対し、かようなる下劣な行為はクサトリアに相応しくないと看做した。コラワに対してカルノは、同じ人間として認め、寛容の態度(アムンディ・スカル・トゥプス・カキ amundhi sekar tepus kaki )を持ち、人間性に反する行いは慎むように求めた 3)。
 ナルトサブドの描く、アスティノ王に仕えるカルノの態度は、以下に挙げるようなパクブウォノ四世の描いた、王に服従する家臣の姿に反するものであった。

  Wong ngawula ing ratu luwih pakewuh,
  nora kena minggarang-minggring,
  kudu mantep sartanipun,
  setya tuhu marang Gusti,
  dipun miturut sapakon. ........

  setya tuhu saparetahe pan manut,
  ywa lenggana karseng Gusti,
  wong ngawula paminipun,
  lir sarah mungging jaladri,
  darma lumampah sapakon. .......

  (王に仕える者はとても難しい、
   優柔不断であってはならず、
   落ち着いていなければならない、
   そして王に対しては忠誠をもって
   すべての命に服すのだ……

   忠誠をもってすべての命に服し、
   王の望みに背いてはならぬ。
   王の想いは仕える者の務め、
   たとえ海で乾いた葉を見つけよと言われても、
   命に服さねばならぬ……)

 上に述べたような、プラブ・ドゥルユドノの意向に反するカルノの態度は、アスティの国とその王に対する忠誠を損ねることを意味しない。ナルトサブドの演じたラコン群で、アスティノにおけるカルノの存在は、たんなる戦闘指揮官(セノパティ・プラン senapati Perang )ではなく、プラブ・ドゥルユドノが精神的な危機に陥った時の庇護者であり、活力と倫理を授ける者である。たとえば、プラブ・ドゥルユドノがガトゥコチョをアルゴクロソから立ち退かせようとして、ボロデゥオにその仕事を頼み、断られて落胆した時 5)、また12年間の森への追放で死んだと思っていたパンダワたちが無事であったという知らせを聞いて驚いた時 6)、それからプラブ・サルヨ、ビスモ、ドゥルノたちにアスティノ国の半分を、パンダワたちに与えるようにと迫られた時 7)。カルノは最後までドゥルユドノにアスティノの王位に止まるよう、強く励ました。論争となり、躊躇なく、心臆することなくサルヨ、ビスモ、ドゥルノたちがアスティノに潜り込んだパンダワのスパイだと非難するほどであった。
 実際は、カルノもコラワが間違っており、パンダワが正しいことは自覚していた。しかしセノパティ(軍司令官)として誓いを立て、ドゥルユドノからの恩義に報いるために、彼は自身の誓いに殉じたのである 8)。カルノにとって、戦場に立つセノパティとは善悪を問題にしてはならない者であった。そういった価値は、戦争が終了してはじめて表に現れる。実際、徳を持ち、責務に忠実なるセノパティであっても、戦場で敗れれば世間から嘲笑され、一族と国を貶めたと言われる。逆に強欲で、民と国から奪うことを好むセノパティでも、戦いに勝利すれば賞賛される 9)。こうした考えから、カルノはコラワにつくことを選んだのである。その心は堅く、クレスノ、ジャノコ、そしてクンティのパンダワについてほしいという説得を受けても変わることはなかった 10)。彼は、師であるブガワン・ディポヨソの、カルノはバラタユダにおいて超能力を失い、ジャティスロ Jatisura という名の伝来の戦車の残骸の上で死にいたるであろう、という呪いを受けても、心を揺るがすことはなかった 11)。
 カルノはパンダワの敵であり続けたが、自身がパンダワの兄であることに気付いていた。長兄として彼は、豊かな愛を与え、弟たちを幸せにしてやらなければならない、と感じていた。このことは、バトロ・インドロの望みで、彼と一体となっている二つのプソコ(pusaka 伝来の武器)、アンティン・アンティン・スソティヤ anting-anting sesotya とコタン・カウォチョ kotang kawaca を差し出すように乞われた時に証される。カルノとバトロ・インドロの会話。

  jer kula mangertos, wantenipun paduka alampah makaten, awit anggenipun kuwatos. Manawi pusaka kalih wau taksih kula angge, boten wurunga Janaka badhe kawon wonten in Bratayudo.......
  Aluwung kula ingkang ngurbanaken jiwa raga ngraosaken panandhang, waton kadang-kadang kula pun Harjuna miwah Pandawa sanes-sanesipun ing benjang ngraosaken kamukten.........

  (私は存じております。あなた様が恐れから、かようなことをなさる、と。二つのプソコを私が使用することあれば、ハルジュノ(アルジュノ)がバラタユダに敗れることは必定……。我が魂と肉体を苦悩のうちに犠牲として捧げるほうがよい。さすれば、我が兄弟、ハルジュノとパンダワ、その他の者たちは、後の日に幸福となることができましょうものを……)

 弟たちへの愛の証として、カルノはバラタユダにおいてアルジュノの手によって死ぬことを望んだ 13)。
 ナルトサブドの視点によるカルノの評価で、さまざまな人生の試練を通して、カルノは完全なる人間を表す人物像となったのである。スディロ・サトトによれば、カルノは人生の多様な経験からその魂を成長・成熟させ、完全性とダイナミクスを備えたカルノという特性を獲得するのである。カルノの積み上げた様々な人生経験は、彼をより人間的にした 14)。こうした特徴がカルノという人物像を、完全なるサトリヨ像として描かれて来たアルジュノという人物像よりも、さらに魅力的なものにしたのである 15)。
 ナルトサブドは、ユーモアをまじえて描くふつうの人物たちとは、別格のものとしてカルノを登場させた。カルノは偶像たる人物であった16)。カルノが崇拝されるべき人物として選ばれたのは理由のないことではない。グスティ・パンダワでクンダン奏者として活躍していたナルトサブドの存在は、ブン・カルノの知るところとなった。イスタナ・ヌガラでの舞踊バムバンガン・チャキル上演で、グスティ・パンダワが呼ばれる度、ナルトサブドはクンダン奏者として必ず指名された。ダランとなった後も、ナルトサブドはブン・カルノのお気に入りのダランの一人として、個人的にそのワヤンを通して大衆に見解を表明するよう託されたこともあった。ナルトサブドの、こうしたブン・カルノへの強い敬意は、ブン・カルノからお守りとして衣装を賜ったことからも明らかである。ブン・カルノの愛称で呼ばれたスカルノ Soekarno の名が、父の希望で与えられたものであることは、知れ渡っていた。彼の父は、民衆の大いなる戦士、英雄となるように、との願いをこめて、クンソ Kunso という名をカルノに代えさせたのである。スカルノの父がカルノという人物を愛したのは、カルノこそがマハバラタにおける偉大な英雄であり、仲間に忠実であり、結果を求めない誠実さを持ち、勇気と超能力で知られた国家の戦士であったからである 17)。ナルトサブドが、カルノを偶像として選び、卑しい扱いをしなかったのは、明らかにブン・カルノの影響に負うところが大きいと言えるだろう。
 こういった影響は、ブン・カルノの演説を再考してみても明らかであろう。その演説は、炎のような情熱に溢れ、何度も繰り返される言葉から始まって、だんだん熱を帯び、クライマックスに達する。このような手法は、ナルトサブドのワヤンでの特徴として、カルノの台詞の表現、見解、論説に見出せる 18)。例としてカルノとドゥルユドノの会話を挙げてみよう。ラコン「ビモ・スチ」で、カルノが、真実に反するドゥルユドノの意見に反対した時である。正しい者をも負かすことのできる王たるドゥルユドノによって、カルノの意見がすべて拒否された後、彼は非難めいた口調でこう言う。

  Menawi ngaten 'inggih sampun, Werkudara punika tiyang awon ngaten kemawon. Werkudara punika tiyang awon, Werkudara punika tiyang lepat, Werkudara punika tiyang dosa, Werkudara punika tiyang minger kebalating panembah, Werkudara punika 'nggpn dursila, 'nggon culika ........ 19)

  (そうでありましょうとも。ウルクドロは悪人であります。ウルクドロは悪人。ウルクドロは過ちを犯した者。ウルクドロは罪を負った者。ウルクドロは信仰を破る者。ウルクドロとは犯罪のあるところ。泥棒のいるところ。詐欺師のいるところ……)

 ナルトサブドのワヤンでは、カルノはつねにシリアスに描かれた。それは、このワヤンの人物と同じ名を持ち、民族の英雄と讃えられる偉大な人物に対する畏敬の念からくるものであった。このような態度は、ゴロンガン・カルヤがインドネシア第一党となってからのスラカルタのダランたちにも見られる。ラコン「コンソの死 Kongsa Lena 」またの名「コンソの御前試合 Kangsa Adu Jago 」で、ラデン・コクロソノがその超能力を見せつけて象と虎を殺し、ブリンギン(バニヤン)の巨木を引き抜く場面が登場する 20)。ブリンギンの樹をマークとするゴロンガン・カルヤの全盛期以来、この場面はもう見られなくなった。これはゴロンガン・カルヤを非難するものと看做されるのを恐れてのことである。彼らは反ゴロンガン・カルヤの烙印を押され、上演許可が取り消されることを恐れているのである。

B. ナルトサブドのライフ・スタイル

 ナルトサブドは生前、著名で高い報酬を得るダランであり、一般のダランたちとは異なる生活スタイルを持っていた。1957年以来、彼は甘ったれの性格を表し、いつもマッサージを受け、扇いでもらっていた。この傾向はついに血肉と化し、臨終の時まで続いた。いつでも、どこでも暇さえあれば、彼はマッサージと扇いでもらうことを所望した。特に夜は、この二つが無いと眠れないのであった。眠り始めたと思って手を休めると、起きてしまうのであった。そういうわけで、彼はこの二つのために特別に二人の人間を雇っていた。1976年イリアン・ジャヤ知事の要請で、ジャヤプールでの上演があった時、コストを考慮して、ナルトサブドはこの二人のポノカワンを連れて行かなかった。ジャヤプールで彼は落ち着かず、眠れなかったという。ナルトサブドがリラックスして上演が成功できるよう、イリアン・ジャヤの行政府は特別機をチャーターし、マッサージ師と団扇で扇ぐ要員を雇うことにした 21)。この二つのサービスは、外国人でなければ、プングラウィト、プシンデン、またチャントリック(弟子)でもよかった。彼らは例外なく皆その仕事をさせられた。笑い話に、ナルトサブドの一族になった者は、手の皮が厚くなる(カパレン kapalen )、といったものだった。
 すべて日々に必要なことをナルトサブドは自分は動かずにすませていた。マンディしたいと思えば、すぐに三人の人間が石けん、タオル、着物を用意した。同じように、タバコが吸いたいときはすぐ火がつけられた。顔を洗うといった何でもないことでも、一人ではせず、他の者、いつもなら妻に手伝わせた。ナルトサブドは顔を上げたまま、妻が温かいお湯で濡らしたタオルで顔を拭いてくれるのであった。

〈以下105、106頁は落丁のため欠損。107頁へ飛ぶ〉

出会った人々と関連づけて、この信仰を強くするのであった。ナルトサブドはワヤン上演の度に、21束のジャスミンの花、5本の黒サトウキビ(ウルン wulung )、そして一かたまりのクパラ・ガディン(椰子の実)の蕾を供物とした。この供物(スサジ sesaji )の調達は、スマランにいたブン・カルノのクバティナン(民間信仰)のグル(導師)の指示に基づくものであった。他に彼は、キヤイ・ジャラ Kyai Jalak 、キヤイ・ノゴロジョ Kyai nagaraja と名付けられたクリスを二振り、キヤイ・ルジェキ Kyai Rejeki と名付けられたクンダンをプソコとして持っていた 28)。ナルトサブドはまた、夢のお告げ、正夢というものを信じていた。1985年6月、死の数ヶ月前に、彼は九人のスマルと出会う夢を見た。この夢は、彼の人生がもうすぐ終わることを意味していた。この夢を見た後、彼はプソコの二振りのクリスとクンダン、そしてペトルのワヤン人形をジャロト・サブドノ Jarot Sabdono に与えるよう命じた。さらにスマルの人形をスティアジ Setiaji に、クレスノをダルミント Darminto に与えるよう命じた 29)。夢を見た四ヶ月後、運命の時が訪れた。ナルトサブドは兆しを受け、最後の日を分かっていた。ラコン「カルノの生涯 Banjaran Karna 」でカルノを通して言っていたように、臨終に際しての覚悟は出来ていた。アルジュノとの対決のため戦場へ赴くカルノは、義理の父サルヨに御者になってほしいと頼む。この願いをサルヨは侮蔑と受け取った。自身の死を覚悟したカルノの言葉を聞き、ようやくサルヨは快く御者となることを引き受ける。その覚悟は次のように語られる。

Karna : Rama sak derengipun kula nyuwun pangapunten, rama. Mila kula wantun matur makaten menika, estonipun sampun wonten titik ingkang nyata, sampun wonten raos keketeg, jaja butl prapteng walikat ........ 30)

(カルノ :父よ、まずはお許しを乞う、父よ。私は心を鼓舞してこのように言うでありましょう。真実、明らかなることがあります。心がざわめくのです。胸の奥から背中まで……)

 生の完全性(サムプルナニン・ウリップ sampurnaning urip )の探求はジャワ人にとって、深く信仰されており、それは最後の予兆を確認することでもある。神秘主義のガイドとなった本のひとつ、ウィリット・ヒダヤット・ジャティ Wirit Hidayat Jati には、ある人の運命の兆しとして、関係する事柄のある年の中頃に、普段聞こえないものや、一度も聞いたことのないことが聞こえる、という 31)。ナルトサブドの内心の目に捉えられた九人のスマルは、かつて見たことのないものであり、彼の人生の終わりを知らせる兆しであったのだ。
 ナルトサブドは親族、プングラウィト、プシンデン、チャントリクといった友人・世話人たちに囲まれて暮らすことを好んだ。彼らは親族のように扱われ、飲食を始めとしてあらゆることで離れることは無かった。彼は大勢の人に囲まれていることが好きであった。結果として日常の費用は大変嵩むこととなった。チャントリク、その他の人々との親密さを増すために名を与えることもあった。スラゲンの女性ダラン、スハルニ Suharni はサブドワティ Sabdawati の名を与えられ、クディリのプシンデンのひとり、ティニ Tini はサブドシ Sabdasih の名を与えられた 32)。
 ナルトサブドは外面は仲間たちと穏やかに親しげにふるまっていたが、人に見下されると容易く気分を害した。ある時、サロン(腰巻)、バジュ(上着)、黒い帽子といった出で立ちで、彼はある服飾店に外套を買いに来たことがあった。店の者がいくつかのタイプを見せたが、どれも良くないといって断った。いらいらした店員は一番上等で一番高価なものを差し出してこう言った。「これが一番素敵です。バパ Bapak (旦那)はお買いになれますか?」ナルトサブドは自分から売値に送料を上乗せした金を払った。名前を住所を書いた後、彼は何も言わずに店から出て行った。この種の出来事は、1976年8月頃にもまた起こった。マゲラン Magelang でのワヤン公演が終わったときのことである。お土産にナシ・グデ Nasi Gudeg がひとつあった。マゲランから同行したナルトサブドの一行がヨグヤカルタでの乗り継ぎの際、お土産として買ったのである。到着すると、彼は売り子に、一箱いくらか、とたずねた。卵のおかず付きでいくら、鶏のもも肉のおかずでは、半羽では、一羽まるごとではいくらか。売り子はふざけて質問しているのだと思って、おどけた調子で言った。「このバパは、買いたいのか、それとも、値段が知りたいだけなのかねぇ。」すぐさまナルトサブドは言った。売っている物を全部買ってやる。売り子はビックリして黙ってしまった。勘定を計算して、売り物はすべて車の中に運びこまれた。ナルトサブド一行はすぐにそこから去って行った 33)。このナルトサブドの奇妙な行動は、彼が外見や話し方で、人から見下されないようにしていたことを示しているのではないかと思われる 34)。
 以上、ナルトサブドのライフ・スタイルを見て来たが、ダランの基準からみれば、それは贅沢すぎた。ナルトサブドは生きるために喜びを得る(スナン・カンゴ・ウリップ senang kanggo urip )という見解ではなく、楽しむために生きる(ウリップ・カンゴ・スナン urip kanggo senang )ことを選んだ。そしてこうも言っている。「楽しもう、そして栄光を使い果たそう (ngaji pupung, ngentek-enteke kamukten )」。この処世観は最終的には良い結果とはならなかった。その証として、ナルトサブドが亡くなった後、彼の楽団員の一部は、他のダランに従うのを良しとしなかった。というのも、それまでナルトサブドから得ていた報酬に見合う額を得られなかったからである 35)。
 奇妙でユニークなナルトサブドのライフ・スタイルはジャワ藝術という分野で戦い続けることのできる後継者が存在しないという失望感との葛藤であった。彼は甥を子として迎え、公証人に確定してもらったが、彼の失望感は癒されることはなかった。ナルトサブド自身はかつて、彼の努力の成果は、そのようなことでなければ、一体何のために使えばよいのだろう、と言っていた 36)。子どものたくさんいるチャントリックの一人が、家に訪れた時、彼は目に涙をためながら言った。彼は外面的にはひじょうに豊かであり、ダランたちの中でも最高の報酬で著名であるが、本当は貧しいのである。ひじょうに貧しいのだ、と 37)。
 そのおかれた境遇から離れてナルトサブドのユニークなライフ・スタイルでの態度・行動を見てみれば、著名なダランとしての外見の裏で、偉大なスタイルに覆われたある環境を作り上げることで、自身の尊厳を守ろうと努めていたのである。その目的は広範囲に及び、大きな屋敷、たくさんの資材もそうである。その全ては、高い社会的地位を得た者としての、彼のアイデンティティーを強調する。マッサージを受け、扇いでもらうことに熱中し、日常のすべての用を他人にサービスさせ、出で立ちをつねに綺麗にして、質の高いワヤン人形を所有し、プソコや神秘主義的事柄を信仰し、世話人・友人に囲まれていることが好きで、人から見下されることを嫌う。すべては自身のアイデンティティーの拡大を象徴している。
 社会的認知を得ようとし、経済的面からでなく威信とプロジョ(praja 領地)を守ろうとしたナルトサブドの生き方は、高貴なるプリヤイ(priyayi 王統の者・貴族・高級官吏階級)また貴族の生き方であったと言えよう 38)。

脚注
1〜21は、115-116頁落丁のため欠損

22. サミヨト Samiyoto へのインタビュー、1989年5月19日、スラゲン
23. スハルニ・サブドワティへのインタビュー、1989年5月20日、スラゲン
24. ムルヨノ Muryono へのインタビュー、1989年4月28日、クラテン
25. ムジョコ・ジョコラハルジョ Mudjoko Djokoraharjo へのインタビュー、1989年4月15日、クラテン
26. トゥミニへのインタビュー、1989年4月25日、スマラン
27. ダルマン・ゴンドダルソノ Darman Gondodarsono へのインタビュー、1989年5月18日、スラゲン
28. ルジャール・スブロト Lejar Subroto へのインタビュー、1989年6月30日、ヨグヤカルタ
29. "Impian Sembilan Semar", dalam Jakarta, No 12, 19 Oktober-1 Nopember 1985, 17頁
30. 「カルノの生涯 Banjaran Karna 」kaset Ⅷ B.
31.  ロンゴワルシト Ronggowarsito, t.t. Wirid Hidayat Jati , Surabaya : Trimurti, 30頁
32. スヤディ Suyadi へのインタビュー、1989年6月5日、クラテン
33. アドモディハルジョ Admodihardjo へのインタビュー、1989年6月3日、クラテン
34. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年5月1日、クラテン
35. ダルマン・ゴンドダルソノへのインタビュー、1989年5月18日、スラゲン
36. ルジャール・スブロトへのインタビュー、1989年6月30日、ヨグヤカルタ
37. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年4月15日、クラテン
38. プリヤイ Priyayi (貴族)のプロジョ praja(領地)と威信に特別な価値を持たせる生き方については、サルトノ・カルトディルジョ Sartono Kartodirdjo を参照。
Sartono Kartodirdjo, et,al. 1987. Perkembangan Peradaban Priyayi. Yogyakarta : Gadjah Mada University Press, 54頁

(第5章へつづく)
by gatotkaca | 2012-03-20 16:47 | 影絵・ワヤン
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