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木から落ちた猿

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ナルトサブドの生涯 その6

2.
ナルトサブドの人生

A.放浪時代


 ナルトサブド、幼名スナルト Soenarto は1925年8月25日、クラテン県、ウェディ郡、パンドゥス、クランクンガン(Krangkungan, Pandes, Kecamatan Wedi, Kabupaten Klaten )に生まれた。父の名はカンタルスラン Kantaruslan 、クンチュル Kencur と結婚後は成人名パルトティノヨ Partatinoyo を授かった。カンタルスランはウェディの出身ではなく、スラカルタのハルジョプラン Harjopuran の王族の出であった。カンタルスランは、天然痘(ブリックberik)に罹り、あばた顔で醜かったため、家族と隔離された環境に育った。王族の一員と看做されず、兄弟たちと一緒にスラカルタの宮廷には入れなかった。長い間、彼は家族間で恥を忍んで生きていた。カラウィタン(伝統音楽)の演奏とクリスの鞘(ランカrangka )作りの技術を身に付け、彼は家族の元を去った。1912年、彼はウェディ村に着いた。この地方で彼はしばしばカラウィタンの演奏(クルネガン Kelenegan )に参加し、男性歌唱(ウィロスウォロ wiraswara )やクンダン gendang (太鼓)演奏、グンデル演奏などをし、人々に慣れ親しんだ。この新天地で彼はエンドン Endhong と名乗ったが、仲間たちはふつうパ・ブリク Pak Burik というあだ名で呼んだ。
 スナルトはパルトティノヨの家族の中の末っ子で、兄弟は七人であった。三歳からスナルトは藝術分野に心魅かれるようになった。マルダヌス Mardanus という名の兄と共に、彼はいつも父がクルネガンやペダン Pedan のダラン、キ・コンドディソノ Ki Kondhodisono 、チェペル Ceper のダラン、キ・ゴンドワルソノ Ki Gondowarsono のワヤンで演奏する時はついて行くのだった。こうしたことが続いて彼は1936年頃にはガムランのリチカン ricikan (楽器)のすべてを演奏できるようになっていた。その時、スナルトはルバーブ、クンダン、グンデルを誰にも教わることなく自由に演奏できるようになっていたのである 1)。
 プングラウィトやダランのような伝統藝術界では、子どもたちはふつう、特別な藝術指導を受けることは無かった。親や師と仰ぐ人の上演について行って、子どもたちは親や師のすることが出来るようになっていくのである。そこでは子どもの感度と持続力が大きな決定力をもつ要因となる。伝統芸術の芸術家たちの多くはこうしてその思考パターンをつかんでいくのである。プングラウィトの子どもはガムランの演奏ができるようになり、ダランの子どもはきっとワヤンが出来るようになる。とはいえ、実際にはふつうは、つねに上演について行くことが、間接的に教育の過程となる。子どもは親や師をまねることでそうなるのである 2)。
 ジュング Jung によれば、最も古い教育法が、最も効果的な教育法である。この見解は、子どもは多かれ少なかれ心理学的には、親や環境に合わせて自我を形成するという説に基づいている。ここでは、非集合無意識の領域は、子ども自身の見出す、両親や環境の有する非集合無意識の要素である。これこそが模倣から始まる教育が、最も効果的教育であることの主な理由である。であるから、スナルトが上演に随伴して模倣することでガムラン演奏の能力を身に付けたのも不思議ではない。
 スナルトは1933年、クラテン、ジョゴナラン Jogonalan のムハンマディヤ小学校 Standard School Muhannadiyah に入学した。夕方には姉のスマルシ Soemarsih と一緒に、ウェディのイロバンサン Irobangsan の舞踊クラスへ通い、スラカルタから来たラデン・マス・スラジ Raden Mas Suradji の手ほどきを受けた。二人は、両親が貧しく、費用を払えなかったのでクラスから外されそうになったが、スナルトとその姉の才能は、クラスの仲間たちの中でも突出していたので、ラデン・マス・スラジは彼らに対して費用を免除してくれた。一年後、スナルトとスマルシは、お祝い事がある時にはいつも出演するようになった。ムハムマディヤ学校にスナルトは二学年までしかいられなかった。両親が費用を払えなかったため、彼は退学となったのである。
 スナルトの藝術的才能は、カトリック学校の主宰、ロモハルジョスウォンド Ramahardjosuwondo の目に留まり、その世話により、学費免除で入学を許された。新しい学校でスナルトの藝術的才能はいよいよ開花した。彼は絵画、クロンチョンの歌、ギターとバイオリンの演奏などを学ぶ機会を得た。後に彼は、クロンチョン楽団シナル・プルマナ Sinar Purmana に参加した。上演の度に、彼はクロンチョンの歌と見事にマッチした、目もくらむようなバイオリン演奏や、魅惑的なギター演奏で観客を沸かせた。彼は足下の裏側、腰の後ろでギターを弾くことができた 4)。
 1936年、パルトティノヨ一家の経済状況は変わっていなかった。両親を助けるために、スナルトは毎夜、ウェディの夜の市場で上演されるスリ・チャフヤムルヨ Sri Cahyamulya のワヤン・ウォン Wayang Wong 一座に入れられた。彼はすでにルバーブ、グンデル、クンダンなどの演奏ができたが、ゴング奏者として一晩15セントの報酬を得ることができただけだった。スリ・チャフヤムルヨについて二ヶ月後、彼は、名声を博したクワサ・クラテン Kuwasa Klaten のダラン、キ・プジョスマルト Ki Pudjosumarto のもとについた。キ・プジョスマルトの上演はしばしばスナルトの住む所から遠くであったので、かれはしょっちゅう学校に行けなかった。そんなわけで、卒業まで彼は学年を上がることができなかったのである 5)。
 スナルトは三年ほどキ・プジョスマルトのクンダン奏者であった。一般的にそのような有名ダランの一座では、ガムラン奏者となって随行する若者はみな、他のことも学ばねばならなかった。たとえば、上演の段取りや搬送、サジェン(sajen 上演の供物)やワヤン上演用のラムプ(ブレンチョン blencong )の用意などである。スナルトは怠け者であったので、クンダンの演奏以外の仕事をしたがらなかった。キ・プジョスマルトに付き従う間、彼は上演に集中していた。上演から帰ると、同僚たちの非難や罵りも気にせずに、スロ、語り、人物たちの会話をまねた。とはいえ、クンダン奏者としての賃金は決して多くなく、両親を助けるには不十分であった。スナルトの着物は一組だけしかなく(gantung kepuh)、代えることは稀であった。乾くのを待つ間、スナルトは川の水に浸かって過ごした 6)。
 アドモディハルジョ Admodihardjo によれば、当時のガムラン奏者たちの経済的立場は弱いどころか、ガムラン奏者としての収入が途切れることも多かったという。ダランにとってプングラウィトは、単なる手伝いであって、その賃金はほんの少しであった。ダランたちは自身の名声や成功が、ガムラン奏者たちのおかげでもあるとは思っていなかったのである 7)。これはカルトスロの若きダラン、スリ・ジョコ・ラハジョ Sri Djoko Rahadjo の説である。彼は、「ダラン・バゴン」として著名であった亡き父、キ・ニョトチャリト Ki Nyototjarito の遺した家と庭は、父の汗の結晶ではなく、もっぱらプングラウィトたちの働きによるものだいう 8)。これとは逆に、ゴンドイジョヨ Gondoijoyo の説では、当時のガムラン奏者たちの賃金が低かったのは、ダランからの謝礼が不十分であったからではなく、ダラン自身の賃金も些少であったからである、と。ダランは謝礼金の多寡を決定したことはなく、すべては主催者側に任されていた。ダランとは大衆の持ち物であり、自身は大衆に奉仕しなければならないと考えられていたのである。であるから、主催者側の者たちは彼らの世話をしたのである。シ・ダランが経済的に困窮した時には仕事を与えたり、家を建てたりした。主催者たちから金銭、物、労力、心づくしを受け取るようなことは快く思わなかったのである 9)。サルトノ・カルトディルジョ Sartono Kartodirdjo によれば、相互扶助の原則に従って物を与えたり、報酬を渡したりしていたのである。この原則は一般に、債務のシステムに従う。これは双方の果たすべき役割に基づいて、間柄に相応しい感性に留意して、助け合い、可能な限りの礼をするというものである 10)。
 カトリック学校を卒業した後、スナルトはクンダンとグンデルの演奏技術を向上させる精進を重ねた。そうして両親の生活を楽にさせようと努めた。始め彼は肖像画家になろうとしたが、この職では稼げなかったので、牛乳配達に職替えしたが、これも利益が少なかった。最後に彼は、アーチェリーの矢拾い夫となった。しかし、彼の努力も家族の状況を変えることはできなかった。
(つづく)
by gatotkaca | 2012-03-06 23:02 | 影絵・ワヤン
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