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木から落ちた猿

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ナルトサブドの生涯 その3

 上演の構成パターンもまた、逃さず変革された。一般的にはダランの後ろに配置されていた女性歌手(プシンデン Pesindhen )、グンデル奏者は、ダランの右手に移動された。ダランとしてキャリアを積み、そばに居ながらにして彼はプングラウィトやプシンデンたちに高い寛容を有していた。これは他のダランたちの倍の謝礼金を受け取ることの証であった。
 伝統の規範に忠実なダランたちと、ナルトサブドのやり方は違っていた。そのようなやり方は許されず、ダランにとって恥ずべきものとされていたにも関わらず、場面にかまわずユーモアを散りばめ、王やサトリヨのような人物たちもユーモラスに扱った 7)。
 録音技術の進歩が、ナルトサブドワヤンの録音の製品化を後押しした。この救いの手をナルトサブドは歓迎し、彼のワヤン録音は間もなく世間に流通した。それはダランたちの間に動揺をもたらした。彼らは意見を異にする二派に分かれた。一方はナルトサブドの行動を強烈に批判した。身売りに等しい行為であり、他のダランたちが上演の機会を失う原因となる、というのである。一般市場では、ナルトサブドワヤンの録音は有効に市場を回転させると看做された。安いコストで有名ダランの録音を聞くことができるのである。逆の立場の一派は次のような見解を持っていた。それは、ナルトサブドワヤンの録音が出回れば、今や、特に若い世代の大衆になじみの薄くなってしまったワヤンが、再び一般化する助けとなるに違いない。また、ダランを目指す若者たちも活用することができるだろう、というのである 8)。
 両者の見解から離れて、ナルトサブドは、自身の利益を得るために録音製品を活用した。伝統的なラコン(演目)に加えて、彼はワヤンの人物たちの一代記をラコン化(バンジャラン banjaran )し始めた。この種のラコン作成はかつて他のダランたちによっては開拓されていなかった。これらのラコンには、「バンジャラン・カルノ(カルノの生涯)」、「バンジャラン・ビスモ(ビスモの生涯)」がある。特に「バンジャラン・カルノ」は、スディロ・サトト Soediro Satoto によって、散文的ロマン作品と看做されている。このラコンのドラマティックな指向と構造を読み取った意見である 9)。
 日常のナルトサブドはユニークな生活習慣を持っていた。彼が血肉に染みて愛したのは、マッサージされることと、扇いでもらうことであった。家にいる時に限らず、どこででも、いつでも、時間を惜しんでしてもらうのである。手紙や雑誌を読む時も自分ではせず、他の者に命じてさせた。タバコを吸ったり、顔を洗ったり、着物を着たりといった日々の必要のために、ナルトサブドはいつも他の人を使った。その習慣のため、彼の家にはつねに毎日20人以上の人間がいた。
 ふつうのダランたちのように、ナルトサブドもワヤン人形の収集に熱心であり、『タパブロト(tapabrata 禁欲)』を行うことを好んだ。素晴らしいワヤン人形を手に入れるため、ダランの格に応じて、彼はさまざまな方法を試みた。フェアな手段として高価で買い取ることもあれば、所有者の立場の弱さにつけ込むアンフェアな手段をとることもあった。ナルトサブドは成功を祈願して、激しい苦行を行うこともあった。若い頃から彼は水に浸かる苦行(クンクム Kungkum )、川の中に浮かぶ苦行(グリ ngeli )、霊廟の巡礼、断食などを好んだ。
 伝統的ワヤンの規範と大きく異なるナルトサブドのワヤンの登場は、それからのワヤンの発展に影響を及ぼした。クラテン Kelaten のムジョコ・ジョコラハルジョ Mudjoko Djokorahardjo 、ボヨラリ Boyolali のスパルノ Suparno 、スラゲン Seragenn のスハルニ・サブドワティ Suharni Sabdowati は、彼のワヤンの後継者たちの内の三巨頭である。
 上記に見出されたさまざまな現象は、探求を促すに十分である。浮上した問題としてさまざまな解明すべき命題が浮かんで来る。その全てが答えと説明を必要としている。最初の命題は、著名となり、大衆に支持されたナルトサブドの藝術的才能の背景に関わる。ある人の能力が、勉学、努力、環境の影響で到達されることの実例として、ナルトサブドの努力とその芸術的才能の形成に貢献したと考えられる環境は、考察の対象となるだろう。
 続く命題は、他のスタイルのワヤンの要素、ワヤン以外の要素を取り入れ、ワヤンの人物像に民主化とリアリティを付与するといった、伝統的規範の改変に対する彼の勇気と関わる。これは、伝統芸術、特にワヤンに対する視点を反映して形成され、チャントリク(cantrik 弟子)たちには明かされたが、そのワヤンの中では隠されたナルトサブドの視点が見出されるだろう。
 他の命題として、カルノの人物像のシリアスな取り扱いに関する解明と理解を探求する時見えて来る、日常での彼の生き方がある。彼のワヤンでのカルノの特殊性に対する考察と、ナルトサブドとブン・カルノ(Bung Karno スカルノ)との関係は、最初の問題を解き明かしてくれると期待できる。それに続く問題に対する解明は、幼年時代から、ダランとしてのキャリアを積むにいたるまでの彼の人生、家庭生活の影響、地域の環境の影響に対する観察からとらえられるだろう。
 このような様々な命題や問題に対する答えを要約すれば、ワヤンの世界におけるナルトサブドの存在、なぜダランという職業を選んだのか、そして彼のワヤンの発展がどのようなものであったのかについての様々な側面からの説明が与えられることが期待できよう。ナルトサブドのワヤン追求は1950年代から始まり、後に花開き、1985年10月初旬の彼の人生の最後まで、著名なダランであった。とはいえ、その最後を理解するには幼い時から死の直前までの、彼の背景を追求する必要がある。

(つづく)
by gatotkaca | 2012-03-03 23:31 | 影絵・ワヤン
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