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木から落ちた猿

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ナルトサブドの生涯 その2

1
ナルトサブド:
導入


 スラカルタ王国とヨグヤカルタ王国は1755年に誕生した。インドネシア共和国建国前は、この二つの封建王国が各々の地域に存在した。二つの政治的中心地は文化的中心として成長・発展し、その支配地域に独自の型を形成した。一般的文化、特に伝統芸術において、各々の王国は、その独自性を確立するために、それぞれ異なったスタイルを発展させたのである。これにより、二つの王国はひとつの文化、つまりマタラム王国から生まれたが、ワヤンとその他の分野の藝術において著しい差異が生じた。
 それぞれのワヤン・スタイルの存在を正当化するため、二つの王国はその領土の王宮(クラトン)の外部のダランたちの伝統に影響を与え、そのスタイルを広めた。クラトンのワヤン・スタイルは、より良いものとして尊重されたと考えられる。というのも、ダランたちは、自らが持っていた地域のスタイルを捨てて、クラトンのスタイルに合わせようと努めたからである。厳格なクラトン様式に完全に従うことはできなかったとはいえ、自身をクラトン系列のワヤン・スタイルに近づけることに誇りを感じていたのである。このような状況が、ダランたちの間の連帯感を促進し成長させ、スラカルタ・スタイルとヨグヤカルタ・スタイルを信奉するダランのグループ化を生み出したのである。信奉するスタイルに対する誇りが、他のスタイルに対する不興を増進させる理由となった。互いを見下す風潮が生まれ、両者は排斥し合ったのである。
 スラカルタ・スタイルとヨグヤカルタ・スタイルのワヤン様式には、「ワトン waton 」 1)と呼ばれる各々の上演上のルールがあることが知られている。このルールは、その信奉者によって厳格に守られるか、少なくともつねに意識される。パダスカ padhasuka 、『パシナオン・ダラン・イン・スラカルタ Pasinaon Dhalang Ing Surakarta (スラカルタ式ダラン術の指南)』が1923年、ススフナン Susuhunan のパクブウォノ十世 Pakubuwana Ⅹ の命で、また『ハムルワニ・ビウォロ・ランチャガン・ダラン Hamurwani Biwara Rancangan Dhalang (ダラン養成指南事始め)』の略である、ハビランダ Habirandha がスルタン・ハマンク・ブウォノ八世 Sultan Hamengku Buwana Ⅷ の命のもとに確立され 2)、両スタイルのワヤン様式におけるワトンの設定の強化が図られた。伝統的ダラン界は、ワトンを美しい祖先の遺産、高い価値を持つもの(アディ・ルフン adi luhung)と看做し、変更を許されない厳格に維持されるべき規範として絶対視したのである。ワヤン様式の変更は、ワヤン界への損失、軽視と看做された 3)。
 一方、バニュマス、東部ジャワ、パスンダン、そしてプカロンガンといった、クラトン式ワヤン・スタイルの影響が少なかった地域では、その地域のワヤン様式がそのまま発展した。このようにワヤンの様式は分かれて行ったのである。さまざまなワヤンの様式は、スラカルタ・スタイルとヨグヤカルタ・スタイルに沿って大きく分かれることとなった。この分割の影響は、インドネシア共和国の庇護のもと25年を経て、1970年代までひじょうに強く感じられていた。
 ナルトサブドは、プングラウィト Pengrawit (ニヨゴ niyaga =ガムラン奏者)として始まり、1950年代からはプロのダランとして活動した。1960年代から名声を博し始め、ナルサブドはスラカルタ・スタイルとヨグヤカルタ・スタイルの橋渡しを試みるようになった。彼のダラン・スタイルは、スラカルタ・スタイルを残しながらも、各上演ではつねに、ヨグヤカルタのダラン様式の諸要素を取り入れていた。例をいくつかあげれば、スロアン sulukan (ダランが劇中で朗誦する短い歌で、場面情景・人物心理の雰囲気をつくる)、グンディン gendhinn(ガムランの曲) 、クプラアン keprakan (ダランが鳴らす、金属板をクプラといい、効果音、楽団への指示などの役割を果たす)などである。他にも、バニュマスや東部ジャワ、パスンダンなど、他の地域のグンディンやブドヨ(宮廷舞踊のひとつ)用のグンディンを彼のダラン・スタイルに活用することもあった。
 ナルトサブドは、厳格な規範にとらわれず、伝統的文化環境を拡大して、彼のダラン・スタイルに採用したのである。彼はワヤンの人物の民主化を開始した。偉大な王やサトリヨが、ふつうの人間として描写された。伝統的ダランたちが象徴をこめる最初の場面(ジェジェル jejer ) 4)の語り(ジャントゥラン janturan )は、その場面に登場する者を説明するためにふさわしいものに変えられた。最初の場面で王の悪しき様を語るのはタブーとされていたが、ナルトサブドははっきりと示した。ワヤン・クリの世界は、観衆の世界に近づいた。というのもゴロ・ゴロの場面に限らず、彼が望めばどの場面においても、日常の出来事が現れるからである 5)。
 ナルトサブドは、社会の規範とずれ始めていたワヤンの世界に、説得力を持って新しい地平を開いたのである。ワヤン世界に価値の逆転が生じた。ポノカワンによるお笑いだけでなく、すべての人物たちにも、新しいパターンのワヤンが現れたのである 6)。ワヤンの人物たちの中でも、特にカルノの人物像が特別視され、クレスノ、ボロデウォ、ウルクドロ、ジャノコ、ガトゥコチョのような他の人物たちには、そのようなこだわりは見られなかった。ことさらカルノは、しばしば明らかに、かつ意図的に扱われた。

(つづく)
by gatotkaca | 2012-03-02 23:04 | 影絵・ワヤン
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