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木から落ちた猿

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試訳「スマルとは何者か?」 第2章 その10

ワヤンにおけるダヤン・スマル

スマルはブトロ・グルを負かす

 いくつかのワヤンのラコンで、ダヤン・スマルはバトロ・グル、つまりマハデウォ(最高神)を敗る。
1. 『キラット・ブウォノ Kilat Bhuana 』このラコンにおいて、バトロ・グルはアスティノのプンデト、キラット・ブウォノになる。彼は大戦争バロトユドを失敗させようとして、『ボゴ・サムピル Baga Sampir(生贄)』(の人間)として キヤイ・ルラ・スマルを殺そうと謀った。その謀略は失敗し、バトロ・グルはチャハヤ・ブウォノ Cahaya Bhuana (天と地の光)と称する者となったスマルに打ち負かされた。
2. 『ガトゥコチョ・スンギン Gatutkaca Sungging (描く)』このラコンでバトロ・グルはラクササ姿のプンデト、ニロヤクソNilayaksa となる。彼は、パンダワのマンドロ・ユドの試合で、ガトゥコチョを殺そうとする。彼はまた大戦争バラタユダで、コラワ側を勝たせるために、スマルをも殺そうとする。しかしニロヤクソの、コワラを手助けしようとする望みは潰えた。彼の意図がスマル、つまりキヤイ・ルラ・バドロノヨによって妨げられ、打ち負かされたからである。
3. 『マクト・ロモ Makuta Rama ( makuta=王冠)』このラコンでは、バトロ・グルはアルジュノを殺そうとする。バトロ・グルは、ブバワン・キソウォシディからワフユ wahyu=(天啓)・マクトロモを受けようとするアルジュノの邪魔だてをする。バトロ・グルの善からぬ目的は、かくてスマルの知るところとなり、バトロ・グルは懲らしめられ、敗れるにいたる。
 スマルがバトロ・グルを負かす類いのラコンはまだまだあり、たとえば、『パンドゥ・ブラゴロ Pandu Bragala (bra=光、gala=gala-gala』、『スマル・ミンタ・バグス Semar Minta Bgus (スマル、元の美しい姿を求める)』といった具合である。
 これら、ワヤンにおけるスマルの役割を明らかにしていこう。
 さて、これから、キヤイ・ルラ・スマルとポノカワンの役割を見てみよう。

ポノカワンとしてのスマル

 通常ワヤンにおいて、各々のラコンの主役(leading man in the story)のサトリヨには、つねにポノカワンと呼ばれる召使いが付き従っている。ワヤンでのポノカワンとは、スマル、ノロ・ガレン、ペトルである(ここでは、バゴンはポノカワンには含まれない。というのも、バゴンは元の(yang pokok ) ポノカワンには見出せず、1680年前後に現れた新しい人物だからである。)。
 この本ではポノカワンの意味を、今日のダラン界での理解とは区別して概観する。今日の近代的生活組織の構造と比較しても無駄であろうと思われるからである。
 ワヤンの物語におけるスマル、ガレン、ペトルのポノカワンは、挫折したり敗北したりするサトリヨに付き従うことはない。つまり、彼らが付き従うサトリヨは、勝利し、成功するのである。そのサトリヨも、ポノカワンに見捨てられるようなことがあれば、敗北や挫折に直面することとなる。
 スマルは全く普通でなく、はっきりしない形をしている。彼は、男とも女ともつかない姿である(” ora lanang ora wadon " )。その表情は、笑って/喜んでいるようでもあり、また泣いて/困っているようでもある。彼は人間なのか、あるいは神なのか、はたまた神の性質を持つ人間なのか、また人間の身体を持った神なのか(矛盾した二面性)?
 スマルはまたの名をキヤイ・バドロノヨ、ナヤントコ Nayantaka ともいう。その意味は、バドロ Badra =丸、輝く光、ノヨ Naya =指導者、指導、また顔である。それでスマルの顔は輝く光を発する満月を思わせるのである。一方、ナヤントコの意味するところは、ノヨ Naya=指導者、顔であり、トコ Taka (antaka )=青白い/遺体である。だからスマルの顔は死体のように青白く見えるのである。スマルのポノカワンとしての職務は、時折、彼が付き従うサトリヨが困難にあった際の助言者である。しかし逆に、サトリヨが攻撃的になったり、感情的になったりし過ぎると、彼を止め、妨げ、邪魔だてすることもよくある。また、スマルはサトリヨが困って、悲しんでいる時には芸人のように振る舞い、サトリヨが淋しい時には良き友人ともなる。そしてしばしば、サトリヨが危険に陥った時には彼を救い、手助けするのである。
 これらの説明で、注意すべき問題は、ポノカワンとしてのスマルは矛盾した性質をもって描かれているということであり、ダラン界では、相反する力を持つ人として理解されている。( Ora lanang ora wadon, ora nangis ora ngguyu, dudu dewa, dudu manungsa, ora papan ora dunung, ora adoh ora cedak nanging mesti ana. 〈男ではなく、女でなく、泣いているでなく、歌っているでもなく、神でもなく、人でもなく、立っているでもなく、座っているでもなく、遠くもなく、近くもなく、いると決まったわけでもない〉)。だからスマルは人間でありながら、ザット Zat (神の本質)でもあり、困難と幸福、富裕と貧困を区別しないのである。このような人間は、不安や疑念を持たず、足るを知るのである。であるから、スマルというポノカワンの名は、来世におけるいかなる問題にも迷い/不明瞭さがない『神の被造物 makhuluk 』を意味する。スマルは対峙する全ての事象を溶かし込み、調和させるのである( Wus tan kasamaran marang ssambah mosking jagad )。
 ノロ・ガレン18)は、ほとんど奇形とも言える身体である。たとえば、その鼻は大きく、目は斜視、腕はチェコceka /曲がっており、脚は不具である(gejig/bubulen)。彼の身体の不具のすべては、対にあるものを思い起こさせるためにある。大きな鼻は、嗅覚が優れ、鋭いこと、上と回りを同時に見ていること〈斜視〉は、問題をひとつにまとめて見る、ということを意味する。ノロ・ガレンは彼の前にあるものだけを見たりしない。左右の状況、また彼の周囲に起こっていることの真実を見つめようとする(徹底すことを象徴する)。曲がった腕は、見て、欲したものを、独り占めすることはないことを意味する(公正さの象徴)。びっこの脚は、一挙手一投足が注意深く計算されていることを意味する。
 それゆえ、このポノカワンはノロ・ガレンと呼ばれる。ノロ Nala とは心を、ガレン Gareng とは乾き、を意味する。であるからノロ・ガレンとは、すべての過ちからのがれ得た人間の象徴/シムボルであり、公正なる人、ムリカン melikan でない(見たものをひとつとして所有しようと思わない)人を意味する。
 ペトル19)は、伸びきった/リラックスした身体をもつ。手は長く、鼻も長く、脚も長く、首も長く、顔つきは嬉しそうに笑っている。それゆえ、このポノカワンはカントン・ボロン Kantong Bolong とも呼ばれる。カントンとは袋、入れ物、ボロンは穴がある、漏れる、という意味である。あわせて、無くした物は何の痕跡も残さない、という意となる。であるから、ポノカワン・ペトルの姿と心持ちは、あらゆる問題に対して、いつも軽やかに/リラックスして考える人、を象徴し、表している。どんな状況にも、気分を害したり、動揺したりしない。今風に言えば、『ステル・クンチュン stel kenceng (せわしない・緊張している)』ではなく、『ステル・ララス stel laras (円滑・美しく)』とでも言えるだろう。問題に直面しても、いつでもリラックスし、穏やかな状況やコンディションで、自分を適用させる用意がある、ということである。
 ダラン界の説によるとポノカワンの語は、ポノ pana =賢い、ひじょうに明晰である、または注意深く観察する、の意と、カワン Kawan =友、の語からなる。であるからポノカワンとは、『賢い友/師』という意味となり、彼らは信頼され、広い視野を持つ、鋭く注意深い観察者とされる(具体的には、ポノカワンとは、pamong / orang yang dapat tanggap ing sasmita dan limpa pasang ing grahita 、兆しに応答し tanggap ing sasmita 、想念を用いること limpad pasang ing grahita〈思考・想念を使う専門家〉 のできる師/人である)。
 『ポノカワンの意味』と類似した現代思想は、アジュタント/ADC Ajutant/ADC、アジュタント/がある。意味は『a helper of junior in command who assists his superior、または an officer of the personal staff of a general, admiral or other high-ranking comander, who acts confidential secretary in routine matter, または Napoleon's staff such officer were frequently on high military qualiffication and acted both as his "eye" and interpreter of his mind to subordinate commanders even on actions exercising delegate authority』である。
 訳すと『アジュタント/ADCとは、高官が使用する仕官で、彼が仕える上官(ここではナポレオン)の目となり、また彼の意思の代理人/翻訳者の双方の役割を担う。彼の旗下にある軍に攻撃あるいは撤退司令の伝達を行う。またADCとは、彼が仕える上官の目となり、思考となり、手ともなる仕官である。(我が国の言葉で言えば、 orang yang dapat tanggap ing sasmita dan limpa pasang ing grahitaである。)
 上記の概観から興味深い結論が見出せる。それはポノカワンとは、理想的な『指導者的援助者 pembantu pimpinan 』の構造的典型の表出であるということである。ポノカワンとは『アブディ Abdi =奉仕者(召使いではない)』であるということである。この補佐官は『賢者 waicaksana 』の性質を持つことが望まれ、信頼され、正直で、目端が利き、リラックスし/穏やかで、状況・問題に立ち向かう勇気を持ち、込み入った状態に良く対応できる者である。また、ポノカワンの見た目の振る舞い、行動は次のような機能を持つ。
a. サトリヨが困難/躊躇や暗澹とした状況にある時の助言。
b. サトリヨが絶望した時の激励。
c. サトリヨが危険に陥った時の救助。
d. サトリヨが欲望にかられ、感情的になった時の抑止力。
e. サトリヨが淋しさにある時の友。
f. サトリヨが病に伏した際の治療。
g. サトリヨが困惑した際の芸能者(エンターティナー)。
 これらの機能を担ってポノカワンは、彼らが仕えるサトリヨと分ち難く常に同行する。サトリヨが王国の儀式に出席しなければならない時でさえ。またサトリヨがカヤンガンで裁かれるような時でも、ポノカワンと離れることはない。特にサトリヨが危機的状況にある時はことさらである。主役のサトリヨがポノカワンたちを見捨てたり、おざなりにしたりした時、また逆にサトリヨがポノカワンたちに見捨てられる、つまり『信頼すべき導き』をなおざりにした時は、敗北と災厄がサトリヨ(人間)のまわりの扉に近づいていることになる。
 上記の解説に関して、筆者はただ、読者諸賢各々の判断にお任せするのみである。

(つづく)
by gatotkaca | 2012-02-04 00:31 | 影絵・ワヤン
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