(承前)
Ⅳ.ワヤンとカラトン
1.王の文化としてのワヤン
ワヤンのもつ哲学のひじょうに高い意図は、この世と来世の不滅の生にとって、また個人のあるいは社会での人生の指針を内包する。ワヤンは種類、表現形式、達成度、その物語においては異なるが、平穏な状況での民衆の安寧にたいする思索を想起させるという目的は同じである。
そうはいっても、問題は、不滅の平和は総合的には、長続きしないだろうということである。なぜなら人間の性質はすべて同じではなく、求めるものもその能力も異なり、満足する成果もまた異なるからである。一方で、人間の性質と世界はつねに発展していく。それゆえ、各々の人間自身、能力と強さのバランスを取る判断をおおいに必要とするのである。つねに改善を目指すが、すべてにおいて不足を感じる。不足を改善し、能力の不足を補う。そうして、生のバランスを維持しうることが期待できるのである。
人間の性質が同一ではないということに基づき、共通の理解が必要となる。相互扶助の必要が理解されなければならない。つまり、強者の側にある民は、弱者を手助けしなければならない。弱者もまた強者による扶助を喜んで受け入れなければならない。多くの階層の民衆たちが互いに関心を持ち、コミュニケーションと理解を求め、格差を減少させ、平穏なる安寧を思索するのである。
民の為すべきことを理解し、社会の安寧を実現しようとするためには、自身とその他の人たちにとっての指導者たる「王」を指針とせねばならない。永遠なる平穏な安寧への思索の方向性に対する理解を持つ指導者である。
良識ある指導者とは、「王の魂」を持つ者である。王の文化としてのワヤンを理解することで、民衆の指導者は、ワヤンの人物像とラコンの本質を理解しなければならない。そうして日々の生活における人間の行為の意味を理解し、良識をもって実行することができるのである。ワヤンを理解する指導者とは、ワヤンの役を演ずることができる者、彼を選んだ民衆にとってのダランである。良きダランは、ワヤン(の人物たち)を喜ばせることができる。このアナロジーでいえば、良き指導者とは民衆に安寧をもたらす者、ということができよう。
ワヤンは、ある容器、国家の中にある人間の生の倫理を形成するということを想起しなければならない。国家は民衆個人個人の集合体である。個人の安寧はすなわち民衆の安寧である。であるから、民衆の指導者とは、一個人自身の指導者でもある、と言い換えることができる。ワヤンにおいては「自分自身を指導する者」も、人生の倫理としてのワヤンには用意されている。おおいなる高みにある生の哲学を、ワヤンからの良質の実行と理解を得ることで、人生での行為を実行できる各個人が、意志を持って、すべての民にとっての安寧を実現する選択することができるのである。
2.ワヤン文化の源泉としてのカラトン
人生の象徴としてのワヤンは、実際の生活における人間の行為(経済)、民衆(個人)の生活を設定する方法の本質、あるいは「王」(指導者、ワキル・ラヤ)といった、人生の節目の集積である。
王国時代には、カラトンは王のおわすところであった(経済のダイナミクスにおけるカラトンの役割についてはグナワン・スモディニングラト、1992を参照)。王国時代、王たちは生の目的を達成するため、民衆を導き、指示を与え、灯りとなって方向性を与え続け、ワヤンをメディアとして使用することを含めたさまざまな方法で民衆を指導した。
指導においては、民衆はワヤンの人物像に当てはめられ、聖なる王はダランとして振る舞った。これに関して「スラット・チュンティニ Serat Centini」やその他の書物は、王たちはワシス wasis(賢い・熟達の)なダランである、と述べている。この点において、ワヤンによる情報普及の質を王たちは、時代の展開に沿って、より興味深いものとなるようワヤンの形式や表現を増やしていった。ワヤンの表現形式に関しては、ワヤン・ゲドからベベル、そして現在に至るまで発展し続けている。(パドモスコジョ、1984)
その発展において、情報伝達の必要に適応し、民衆の欲求を満たし、物語に内包される趣旨も、イスラム教の要素を含んで発展していったのである。(ハルヤント、1992)
こういったワヤン文化の発展は、カラトンの領域で展開された。それゆえ、カラトンはワヤン文化の源泉であると言うことが出来よう。
Ⅴ.結び
ワヤンは実生活の原理(経済)に生きる人間を描く。経済原理は世界(そして来世)の安寧を達成する。安寧は実現可能な生活として描かれる。経済原理における実現可能な生活とは、結果的には相互扶助によって喜ばしい結果が得られるものである。この市場原理の作動の過程は、長期間を見通すことができないという問題を孕んでおり、生活(経済)の問題もあって、十分にして平等な民衆の安寧を実現することはできない。
平穏な安寧の達成を実現することで、格差をなくすことのできるワキル・ラヤとは、「王の魂」をもったワキル・ラヤである。それはワヤンの哲学を理解し、一貫して前進し続ける良識の実行者たるダランの役割を担える者である。
王国政府時代には、カラトンは、「王の魂」を持つ選ばれし行政執行者としての王の座であった。一方独立以降の時代において、政府機構は共和国となり、カラトンは副次的な政治機構となった。かつての政治的中心は、王権的文化がいまだに民族の指導者各々に繋がっているということを明らかにし、想起させるため、維持されなければならない。
ワヤン文化の源泉としてのカラトンの保存は、平穏なる民衆の安寧を実現するための、真実なる人間の生の倫理を保つことを意味するのである。ハムマユ・アユニン・バウォノ。
1992年8月9日 スラカルタ
(了)