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木から落ちた猿

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ジャワ・ワヤンの図像変容要因 その2

 ジャワに流入したイスラム教は、スーフィズムが西インドのグジャラート地方で体系化され伝えられたものである。モジョパイト末期から1478年、ジャワ最初のイスラム王国デマクの成立を経て、ジャワでのイスラム布教に大きな役割を果たしたのが、ワリ・ソゴ(9人の布教者)といわれる。彼らはヒンドゥー世界のイスラム化へむけて、数々の文化革命的活動を行ったとされる。その範疇に当然ワヤンも入っていた。ワヤンがイスラム布教に利用された際の最も鮮烈な成果をおさめた演目が「デウォ・ルチ」であるといわれ、この演目がワヤン・クリとして成立したのは、諸説あるが、セノ・サストロアミジョヨによれば、1450年とされる(「デウォ・ルチ」説話の成立自体は、先の論文にみられるように実際にはイスラム布教以前である)。前回紹介したワヤン・ベベルは、「パンジ物語」を描いており、ワヤンにこの物語を導入したのは、ワリ・ソゴであるとされる。であれば、このワヤン・ベベルに見られる、造形変容には、ワリ・ソゴの意志が働いているといえる。ジャワのワヤン図像の変容に関して、 松本亮氏は、あくまでも仮説としながら、ワリ・ソゴのメンバーに、スナン・イブラヒムやスナン・ギリといったアラブ出身者がいることから、彼らの行ったワヤン変革のイメージに古代エジプトの側面画像の面影が見られるのではないか?と述べている(「ワヤン図像の由来をめぐって」松本亮)
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 たしかに、切れ長の目元、やや長めの鼻など、今日のワヤンを思わせるところもある。しかし、紀元前はるか彼方のこれら古代エジプト美術における表現が、15世紀のジャワに影響を与える可能性については疑問が残らざるを得ない。
 以下、私見を述べる。まだ資料等の研究が不十分であるので、これも仮説にすぎないが……。
 ジャワへのイスラム到来が、インド、グジャラート経由であることは定説といってよいだろう。グジャラートでは11世紀〜16世紀ころまでジャイナ教写本教典が多数作られ、独特の画風が発達していた。15世紀、グジャラートにはイスラムのと共に、ペルシャから紙の製法が伝えられた。これはいわゆる”インド細密画”の前身と考えられているものである。ここでは、「強い輪郭線で人物像を描き、顔は左右同じ角度に斜め向きに描写(一般に四分の三側面描写という)され、鼻やあごがとがり、少し斜めを向いた顔の向こう側の目が輪郭線から飛び出すように描かれる(一種のキュビズム的描写)のが特徴(「インド細密画への招待」p.18 浅原昌明 PHP新書2008)である。
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 顔の部分を拡大して、ワヤン・ベベルと比較してみよう。
 まずグジャラート。
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 これはワヤン・ベベル。
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 よく見て頂くと、ワヤン・ベベルにおいても、四分の三側面描写が行われていることがわかると思う。ジャワにおいてもベベル成立期に紙の製法が確立したようであるし、その図像の類似性から考えても、グジャラートの細密画(内容はイスラムかもしれないが、描写技法はジャイナ教典のそれを引き継いでいたと思う)がジャワに入り、ワヤン図像の変容に影響を与えた可能性は高いのではないかと思う。
by gatotkaca | 2011-08-10 13:47 | 影絵・ワヤン
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