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木から落ちた猿

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ビモの肖像全史 その1

 続いて、ウォロ・アルヤンディニ氏の "CITRA BIMA SEPANJANG ZAMAN" を紹介する。
 これはビモ説話通史ともいえる内容で、とっても便利かつ貴重な資料である。

ビモの肖像全史
Woro Aryandini S.(FSUI)

ビモの名が最初に言及されるのは、908年、マタラム古王国のディヤ・バリトゥン Dyah Balitung 王の治世に成立したプラサスティ(碑文)・ウカジョノ Wukajana においてである。
 その碑文では以下の如く語られる。
 「かくて希望に応じて、タンキルスギ Tangkilsugih 村でマミドゥmamidu (歌)の上演があった。シ・ナル Si Nalu がビーマ・クマラ Bhima Kmara を語りながら、キーチャカ Kicaka (の役)を踊る。シ・ジャル Jaluk はラマヤナを物語りながら、楽器を奏し、冗談を言う。シ・ムム Mukmuk とシ・ガリギGaligi がヒワン(神)のためにビーマ・クマラの物語のダランをした。」(Titi S.Nastiti,1995:383)

 この碑文には、ビーマとキーチャカの名がある。この二人の人物は、ウィロトパルウォの物語に現れる。これがジャワ古語に訳され、著されるのはカウリパン(クリパン) Kahuripan 王国のダルモウォンソ王の時代になってからであり、その治世は991〜1016年であるから、この時点ではビーマとキーチャカに関する物語は口承のものであると考えられる。
 碑文作成の行事は、ダリンナン Dalinnan 村がこの地域の僧院の維持費に割り当てられる税の徴収を免れるという王の決定に関連している。
 ウカジョノ碑文に述べられている、演目ビーマ・クマラの採用は、これがどんな演目でもいいというものではなく、この催しに合致するものだからであり、これがルワタンの物語だからである。ここでルワットされるのは、この行政区に移動する、ウカジョノ村、トゥムパン村、ウルトゥル村である。この行政地域移動は、その三つの村の生活に物理的にも精神的にも動揺を引き起こした。望まぬ自体を起こさぬための処置のひとつとして、上記演目を採用したワヤン上演が催されたのである。(Wibowo1992:159) ウィボウォの結論は、ヒワン(神)を対象とするワヤン上演について述べる碑文の文章によって強化される。
 809年に作成された碑文が、ワヤン上演に言及しているということは、アイルランガ王(治世1019〜1042年)の時代の「カカウィン・アルジュノ・ウィウォホ」でのそれがワヤン上演に対する最初の言及であるとするのは適切ではないことが仮定される。
 碑文はまた同時にビーマの人物像に、彼の物語がいくつかの村をルワットすることができると看做されるほどの超自然的な強さをもたせようとしている。
 ダルモウォンソ王(在位991〜1016年)の時代に、マハーバーラタの諸パルワ(パルヴァン=編)がジャワ古語に翻訳された。ビモの物語が含まれているパルワは、アディ・パルワ、ウィロト・パルワ、ウディヨーガ・パルワそしてプラスタニカ・パルワである。前述の三つのパルワでビモの物語は強靭な人間、肉体も精神もすぐれ、一族と社会の保護者、一族の希望を叶える者、そして戦における英雄としての彼を描く。この物語は、1157年、クディリ国王ジョヨボヨの時代にムプ・スダとムプ・パヌルにによって書かれた「カカウィン・バラタユダ」によって強化される。このカカウィンはウディヨーガ・パルワのあるエピソードを展開,発展させて作られた。肉体的強靭さは、彼が母と兄弟たちを焼かれた樹脂でできた家から助け、運び出す場面においてことさら示される。このエピソードでは、彼がいかに一族を愛し、大切にするかが示されている。その精神的強さは、彼がガンダルウォに変身してヨガをおこない、キーチャカ将軍の虐待からサイリンドリ(本当はドゥルパディ)を守るさまを通して描かれている。
 追加部分がビモの物語を補っている。ビモはバユ(ヴァーユ)神の「息子」である。かの神は生きとし生けるもの全てを吸い込む大気の支配者である。ウダラ(大気)とは、活力の源であり、生命の始まりと終わりの顕現であり、欲望を支配し浮かび上がらせる運動である。欲望(コモ=カーマ)の諸要素の存在なくして生じる大地の生命は存在しない。ヴァーユはまた破壊者プラバンジャナとしても知られる。それは最も恐るべきその姿において物理的力の象徴である。カーマはあきらかに、ビーマがシヴァ・バイラワとして認識されるときに示される(モジョパイト時代)。彼はエロス的人物でありながら、同時に禁欲的人物でもある(石像、浮き彫り、そして後述するIr.モーエンス Moens の収集した演目集において示されている)。生への渇望には強靭さが必要である。というのもそれぞれの生き物はより強いものによって脅かされ続ける存在であるからだ。なかでもビモ・コモ kama は人間の最大の目的となる。コモを召喚して自身と他の人を聖化するのである。これこそがヴァーユからビモが生まれた意味である。何故彼は戦争において、敵に対して残酷で恐るべき行為をなすのか(ドゥルソソノ、ドゥルユドノその他に対して)。また戦争の外においても(ジョロソンド、キーチャカ、そしてたくさんのラクササに対して)。それが、弱い者を守るという、サトリヨのダルマとして必要とされる行為だからである。虐待から民を守るということ、例えば、特に石器作りのバラモンを保護し、ラクササのボコからエコチョクロの民を守り、キーチャカの権力からサイリンドリを守る、などである。この一見残酷な行いは、クレスノによってダルマに合致するものであると説明される。
 プラスタニカパルワにおけるビモ像は、宗教的な事柄、つまり死の問題について知ることを切望する人物として描かれる。その兄弟たちがたおれていく度に、彼はユディスティロに尋ねる。兄弟それぞれの死の原因は何なのか、と。
 彼がまだ母に抱かれる赤ん坊であった頃の物語が、アディパルワにある。クンティーが虎の声を聞いて驚き、ビマセナは石の上に放り投げられてしまった。しかし、その石は砕け散ったのであった。モジョパイト末期に、この秘跡は、「ビモブンクス」という物語に展開し、ジャワ新王朝時代、KGPAA・マンクヌゴロ7世によって、演目「ビモ・ブンクス」として構成された。1936年にはイスラム(理念)を取り入れた「スラット・ビモ・ブンクス」が現れる。モジョパイト時代の「ビモ・ブンクス」、またワヤンの演目におけるビモの人物像は、超自然的な強靭さをそなえた人物とされた。それゆえ、ブンクスの中の彼はストラゴンドマユの森で苦行する。その後、ヒワン・グルの息子、ガジャセノの魂を体内に宿すことになる。ガジャセノはブンクスを破ることに成功したが、彼自身は消えてしまったのである。この物語はルワットの行事と関連がある。獣の姿のガジャセノはビモと一体となることで、ルワットされる。「スラット・ビモ・ブンクス」においてビモはインサン・カミル、完全なる人間となる、と語られる。
(つづく)
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by gatotkaca | 2011-08-02 21:39 | 影絵・ワヤン | Comments(0)
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