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木から落ちた猿

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ワヤンとは?その7 〈ダラン-6〉

 1602年、東方貿易を統合したオランダは「連合東インド会社 (Vereenighde Oost Indische Compagnie)」いわゆる「オランダ東インド会社 (略称VOC)」設立し、貿易拠点を求めて、ジャワに進出をもくろむ。マタラム王国で18世紀前半に3回におよんだ王位継承権争いは、オランダ東インド会社(VOC)の介入を誘い、王国に終焉をもたらすこととなった。
 パクブウォノ2世の死後、パクブウォノ3世(位1749-1788)の即位をめぐってマタラム王国で起こった第3次ジャワ継承戦争(1749~1755)において王国は「スラカルタ王国」と「ジョクジャカルタ王国」に分割された。その後1757年にスラカルタ王国にマンクヌゴロ王家が、1813年にはジョクジャカルタ王国にもパクアラムという分家が生まれ、結局マタラム王国は四つの土候領に切り刻まれ、全く無力化されてしまった。フランス革命の影響で1795年オランダに革命政府が樹立、VOCは1798年に解散する。インドネシア地域はオランダ直轄領東インドとなった。東インド植民地となったこの地で1928年10月26~28日、バタヴィアで開かれた第2回インドネシア青年会議において、会議の最終日である10月28日、「青年の誓い (Sumpah Pemuda)」が採択さた。ここにおいて、本来学術用語として生み出された「インドネシア」という言葉が、自分たちのアイデンティティを表現する用語として採用されたのである。ジャワ、スンダ、ミナンカバウ、バタック……といった個別の民族の枠を越えた、東インド国家に住む原住民族の統一体としての「インドネシア人」という概念が、歴史上初めて誕生した。その後の日本軍政下からスカルノを中心とした独立運動を経て、インドネシア共和国が誕生する。
 上記概括をみてもわかるように、ジャワにおける社会・共同体の変動はその後も歴史の動乱の中で、とどまることなく今日に至っている。共同体のアイデンティティーの不安定が収まらぬ限り、「語り部」たるダランの機能も収束せず、ワヤンは世界に類をみない即興性をそなえた芸能として展開しつづけたのである。

 ワヤンにおいてダランがその上演の全権を掌握し、語りも即興性を駆使してなおかつ高い文学性を保っていたのは、キ・ナルトサブド Ki Naurtosabudo を最先端としていた1970年代頃までが最高潮であったように思う。ナルトサブドはワヤンに使用されるガムラン音楽を、それまでの地域密着の定型から解放し、さまざまな地域のスタイルを導入して独自のガムランスタイルを確立した。また、その語りも、地語りを重視した伝統的「語り部」の様式から、心理効果を重視した、より演劇的な演出を取り入れた。このことによって、ナルトサブドのワヤンは、それまでのリージョン・スタイル(地域様式)から大きく脱皮し、汎ジャワ、汎インドネシア的展開を可能にしたのである。
 その後、1980年代の実験的要素の導入期を経て、現在のワヤンは、大きく様変わりして来ている。1980年代から台頭して来たキ・マンタプ Ki Manteb は、演出をより視覚効果の面の充実に傾け、その人形操作の技倆と相まって絶大の人気を博した。点滅するブレンチョン(一灯の光源)、ストロボやスライドの使用。戦いの場面でのカンフー風の派手なアクション。それらは観る者の目を釘付けにし、言葉の壁、文化の壁さえもものともしない汎用性を備えていた。一方で語りの重要な部分については、ブレーンの書いた原稿を読み上げ、地語りはほぼナレーションと化し、登場人物達の会話のテンポはより演劇あるいはドラマ的になっていた。
 2000年代に入ってからのワヤンの動向については、「日本ワヤン協会」の会報「ゴロゴロ通信」によせられた、ジャワの地でプロのプシンデン(Pesindhen ガムラン音楽での女性歌手)として活躍されている狩野裕美氏の寄稿にくわしい。(ゴロゴロ通信60 近頃のジャワ・ワヤンゴロゴロ通信67 ワヤン・クリ上演の意味 狩野裕美)
 こうした変化を、マスメディアの台頭に押された、伝統芸能ワヤンの形骸化として嘆く向きもあるかもしれない。たしかにダランの「語り部(共同体の調整者)」としての役割は終焉に向かっているのかもしれない。しかし、「語り部」を必要とする社会は、アイデンティティーに揺らぎを内包する内部的に不安定な社会であり、「語り部」が機能を終えた社会は、たとえ外圧や政治的不安定を抱えていたとしても、共同体内のアイデンティティーは一定の安定を得ている社会であるといえよう。ワヤン一千年の歴史においてダランたちは、自らを必要としない安定した共同体の実現にその命をかけてきた。ゆえにワヤンは一晩にわたる上演の、その語りの終わりに「災いのないように、ひとたび独立を果たせば、ここに永久(とわ)なる独立を Sepisan Murdeka Tetap Murdeka, Lir in Sanbekara」と唱えてきたのである。ダランの終焉はその祈りが結実しつつあることの証でこそあれ、何人もそれを嘆く必要の無いものなのだ。                
by gatotkaca | 2011-06-30 22:21 | 影絵・ワヤン
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