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木から落ちた猿

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パムクソ〈パムソ Pamuksa〉(パンドゥの戦死)

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 パンドゥはマハーバーラタの主役パンダワ五王子の父である。今回はパンドゥをめぐる物語について下記のブログを紹介する。

 Radio Nusantara; Pamuksa ( Pandu Gugur)

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パムクソ〈パムソ Pamuksa〉(パンドゥの戦死)

 パンドゥ(サンスクリット語ではपाण्‍डु:Pāṇḍu パーンドゥ)は叙事詩マハーバーラタに登場する人物のひとりで、パンダワ Pandawa 五王子の父である。パンドゥは三人兄弟の次男であったが、クル族の王位継承者であり、ハスティナプラの王位を継承するはずの、長男ドゥレストロスト〈 Dretarasta ダストロストロ:ドリタラーシュトラ〉が盲目であったため、王位はパンドゥに継承された。パンドゥは超能力のイルム〈教義〉、英知に長けていたが、とりわけ政治的資質に恵まれていたからである。
 パンドゥは二人の妃をもった。クンティ Kunti とマドリ Madri 〈マドリム〉である。パンドゥ・デウォノト Pandu Dewanata 〈パンドゥの別名〉は、ひとりのルシ resi 〈僧侶〉に呪われ、子をつくることが出来なくなった。そのルシが鹿に変身して愛の営みを為している際に、パンドゥが射殺してしまったからである。パンドゥ・デウォノトの二人の妃は神に願って子を授かることになる。その後、パンドゥ・デウォノトは、かけられた呪いによって死んだ。マドリは炎に身を焼き、夫の後を追った。
 彼の名パーンドゥとは、サンスクリット語で青白いことを意味する。彼の肌が青白かったためである。そのわけは、母(アムバリカー Ambalika )が子をもうける際のプトロトパダナ Putrotpadana の儀式の時、顔を青ざめさせたからと言われる。
 ジャワ文化圏(古代ジャワ、スンダ)では、パンドゥはワンドゥ Wandu 、すなわち男でも女でも半陰陽でもない者から生まれたとされる。つまり sajeroning lanang ana wadon, sajeroning wadon ana lanang 、すなわち自身の内に両性を持つ者である。これはグスティ〈Gusti=主〉と僕(しもべ)がつねに信仰において一体であることを意味する。
 マハーバーラタによれば、ヴィチタラーヴィルヤ Wicitrawirya 〈ウィチトロウィルヨ〉はパンドゥの血を分けた父ではない。アムバリカーは子を得るためにビヤーサ Byasa 〈アビヨソ〉に委ねられるのである。アムバリカーはサティヤワティー Satyawati の命令で、ビヤーサの家を訪ね、恩寵を賜る。彼女は身を委ねようとした時、目を見開いていた。アムビカ Ambika 〈アムビコ〉の時、彼女が目を閉じたために生まれた子が盲目の子(ドリタラーシュトラ)となったからである。アムバリカーは目を開けたままでいたが、サン・ブガワン(ビヤーサ)の容貌魁偉なのを見て、その顔が青ざめた。こうして(彼女の子)パーンドゥは青白い姿で生まれたのである。

 パーンドゥは弓矢の技に優れていた。彼はドリタラーシュトラの軍を率い、彼のために王国を治めた。パーンドゥはダサルナ Dasarna 、カーシー Kashi 、アンガ Anga 、ヴァンガ Wanga 、カリンガ Kalinga 、マガダ Magadha 、その他の国々を征服した。パーンドゥはワンサ・ウレスニ Wangsa Wresni のクンティボジャーKuntibhoja 王の娘、クンティーとマドゥラ Madra 王の娘、マドリーと結婚した。森へ狩りに出掛けたとき、パンドゥは過って、妻と愛の営みをしている最中のルシを矢で射てしまった。サン・ルシはパーンドゥに、妻と交われば死ぬという呪いをかけた。失意のパーンドゥは森に入り、妻たちと共に苦行者のように暮らした。森の中でクンティーは彼女のもつ秘密の呪文を使って三人の神々を呼んだ。ヤーマ、ヴァーユ、そしてインドラである。三人の神々からそれぞれ息子を授かった。三人の息子とは、ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナである。〈一般にはクンティーが呼び出すのはダルマ、ヴァーユ、インドラの三神である。〉クンティーはマドリーにも神を呼び出す呪文を貸し与え、マドリーはアシュヴィン双神を呼んだ。この神からマドリーは双子を授かり、彼らはナクラ、サハデーヴァと名付けられた。
 彼らが森に暮らして15年たった。クンティーと五人の息子たちが離れている時に、パーンドゥはマドリーと交合しようとした。これによって、パーンドゥはかつてかけられたルシの呪いを受けて死にいたった。マドリーはナクラとサハデーヴァの双子に祝福を与え、クンティーに委ねると、自ら身を焼いて冥界へ旅立った夫の後を追ったのである。
 ワヤンではパーンドゥ(ジャワ語でパンドゥ Pandhu)はアビヨソ(ビヤーサ)とウィチトロウィルヨの未亡人アムバリコとの間の子である。さらにアビヨソはパンドゥ・デウォノトが成人するまでアスティノ王国の王位を継承する。
 パンドゥは美丈夫であったが、首が曲がっていたとされる。母がアビヨソを見た時、顔を背けたからであるとされる。ダラン〈ワヤンの上演者〉たちはマハーバーラタでは簡潔に描かれる若き日のパンドゥの物語を発展させた。
 たとえば、マトゥロ Mathura の従兄弟たちの結婚を手助けするなど、パンドゥが積極的に活躍する物語が展開する。パンドゥは神々に求められて、グオバロン Goabarong 国の蛇の化身たるラクササ王、プラブ・ノゴポヨ Nagapaya を倒す。その功績により、パンドゥはミニャ・トロ minyak Tala の香油という宝具 Pusaka を手に入れるのである。
 その後、パンドゥはマトゥロ国のサユムボロ〈嫁取り競技〉に勝利してクンティと結婚する。さらにサルヨ Salya 王を破り、その妹マドリムを獲得する。その帰途で、プロソジュナル Plasajenar 国のプラブ・グンドロ Gendara を負かして妹のグンダリ Gendari も手に入れる。このグンダリは、パンドゥの兄ダストロストロに委ねられることとなる。
 パンドゥはアビヨソに代って王位に就き、『プラブ・パンドゥ・デウォノト』また『プラブ・ゴンドワストロ Gandawakstra 』と称した。彼はポンチョロ Panchala 国の王子ゴンドモノ Gandamana を大臣として共に国を治めた。このゴンドモノという人物は、後にグンダリの弟でずる賢いスンクニ Sangkuni (Sengkuni)によって追い落とされることになる。
 二人の妃とパンドゥから、パンダワと呼ばれる五人の息子たちが生まれる。マハバラタの書によれば、この五人はパンドゥ実の子であり、神から授かった子ではない。神々は彼らの誕生を手助けしただけであると語られる。たとえば、バトロ・ダルモ Dharma はユディスティロの誕生を、バトロ・バユはビモの誕生を手助けするのである。パンドゥの五人の息子たちは〈インド版〉マハーバーラタに語られるように、森の中で生まれるのではなく、すべてアスティノ国で生まれる。
 ワヤンにおけるパンドゥの死は、マドリムとの交合ではなく、自身の弟子であるプラブ・トルムボコ Trembokoとの戦いによるものである。

 その物語によれば、あるとき、マドリムがバトロ・グルの乗用獣であるルムブ・アンディニ牛に乗って遊興したいと望んだ。パンドゥは妃の望みを叶えるため天界に願い出た。寿命を縮められ、地獄 neraka に落とされることを条件として、バトロ・グルは許しを与えた。パンドゥとマドリムはルムブ・アンディニの背に乗って遊興に出掛けた。彼らは満足して、牛をバトロ・グルに返した。幾月か後にマドリムはナクロとサデウォの双子を生んだ。
 こうしてパンドゥの短命は運命づけられたのである。スンクニの煽動によって、パンドゥは自身の弟子であるプリンゴダニ国のラクササ王トルムボコとの戦いに巻き込まれた。この戦いはパモクソ〈パムソ Pamoksa、Pamuksa〉の名で知られる。この戦いでトルムボコはパンドゥの矢に斃れたが、パンドゥも敵のクリス(短剣)『キヤイ・コロナダ Kyai Kalanadah 』で傷を負った。この傷が原因でパンドゥは病に伏せた。彼が亡くなったので、アスティノ国は、パンダワたちが成長するまで、デストロストロの手に委ねられたのである。パンドゥとトルムボコの息子と娘は後の日に結婚することになる。ビモとヒディムビ Hidimbi (アリムビ)である。彼らの間にラクササと人間の血を引く混血のクサトリア、ガトコチョが生まれることになる。

Prabu Tremboko
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 パンドゥの死の物語を指すパムクソという語は、ヒンドゥー教のモクシャ moksa という語に由来すると思われる。『パムクソ』において、パンドゥの肉体は滅んだが、その魂は地獄に落とされた。その救済は、後の日における彼の次男、ビモの奮闘による。数年の後、パンドゥは天界 surga 〈ショルガ〉に入ることを許されるのである。よりドラマティックな別のヴァージョンもある。そこでは、パンドゥとマドリムは神との約束を違えず地獄にとどまる。彼らが地獄にとどまることで息子たちが地上で成功を得ることができるなら、自分たちのことは問題ない、というのである。息子たちパンダワの献身を目の当たりにして、すでに彼は天界をその身に感じていたのである。

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 このラコン(演目)名『Pamuksa』の語は、先に紹介した"Perang Kritik Pamuksa; Rohmad Hadiwijoyo "の記事ではpamuk(英雄)+sa(同等の)からなる語との説をとっていたが、こちらでは名詞形を作る接頭辞 Pa+muksa (moksya)=解脱ではないか、との説である。
 しかし、このラコンの中でパンドゥは死ぬが、まだ天界には入らない。バトロ・グルとの約定によって地獄 Naraka もしくは天界の火山チョンドロディムコの火口に落とされるのである。通常の解釈では、彼が昇天するのは、ラコン『ビモ・スワルゴ Bima Swarga 』もしくは『パンドゥ・ポポ Pandhu Papa 』〈近年の変容では『プンドウォ・ピトゥ Pandawa Pitu』〉において、ビモを始めとする息子たちパンダワ五王子からの救済を得た後である。パンドゥ戦死を扱うこのラコンでは、彼と匹敵しうる強敵トルムボコとの戦いが描かれるわけだから、Pamuk+sa 説の方が理論整合性は高いのではないかと思われるが、正確なところは、現段階ではわからない。
 ラクササの国プリンゴダニは、マハバラタ演目群の人気者、ガトコチョの故国として著名だが、インド版マハーバーラタには存在しない。ジャワでもカカウィンの時代にはまだ設定が無い。中世以降の変容の中で生まれた設定のようである。プリンゴダニとガトコチョの話はそのうち項を改めて話したいと思っている。今回はここまで。
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by gatotkaca | 2012-12-05 00:13 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ビモの肖像全史 その2

(承前)

 またアディパルワからは、「キドゥン・ビーマスワルガ」に発展するパンドゥ逝去のエピソードもある。これはモジョパイト末期に成立し、後のジャワ新王朝時代に演目「パンドゥ・ポポ」となる。この物語でビモは、父パンドゥ、義母マドリムをルワットし、ブレグボドBlegebada の地獄から天界へと昇らせるのである。1500〜1619年に「キタブ・ナワルチ」が成立する。その内容は以下のようなものである。ビモは、師ダンヒワン・ドゥルノの命令で『ブルマハ・パウィトロ』を探すこととなった。それは物質的生命に対する教えを見つけるための要求だった。探索の旅の途中で彼は、呪いをかけられた神々やビダダラ、ビダダリ(天界の妖精)たちをルワットする。
 「キタブ・ナワルチ」には興味深い点がいくつかある。著者はどこからこの作品の発想を得たのか?「バヌマハパウィトロ」という要素、ルワットという要素、登場人物の行為とその選択、会話、そして各々のエピソードの主題など。
 「バヌマハパウィトロ」の要素は、アディパルワにある神々とアスラたちがクシラルナワ Ksirarnawa の中にアムリタを探すというのがある。「ナワルチ」では、アマルタを探すのは神々やアスラたちではなく、探すことを命じられるのはビモである。ルワットは「キタブ・ビーマスワルガ」と「ビマ・ブンクス」に見いだせる。「ナワルチ」と先の二作品はどちらがより古いものなのであろうか?
 ビモが主役として取り上げられたのは、おそらく彼がマハーバラタの登場人物として著名であったことによる。ビモがナワルチの体内に入って会話するのは、ワナ・パルワにおいてルシ・マールカデーヤがウィスヌの体内に入る場面と相似する。各エピソードのテーマは古代メソポタミアのギルガメシュ叙事詩と類似している。半神半人のギルガメシュ王が永遠の生命を探しに行く、洪水から助かることの出来た者ウトナピシュティムと出会う、ギルガメシュが島に到着する、彼が見つけた生命の木を盗む蛇と出会うといったように。ギルガメシュ叙事詩はバビロニアを征服した際、ペルシアにもたらされた。
 この叙事詩の主題がインドネシアにもたらされたのはおそらく、13世紀にモジョパイトと交易したクラメシュ Kuramesh の商人たちによってであろう。あるいは、ペルシアからインド経由でグジャラートの商人たちによるものか?そのようにしてギルガメシュ叙事詩の諸要素はナワルチに混入されたのであろう。
ルワットを主題とした文学作品、ナワルチ、ビーマスワルゴ、ビモ・ブンクスはほぼ同じ時期、すなわちモジョパイト末期に成立したと思われる。
 同時代にはビモの石像や浮き彫りが多数製作された。それらは一般的には山の斜面に対面して設置されている。モジョパイト末期には少なくとも十体のビモ像が存在する。中でもチャンディ・スクの石像や浮き彫りは、「ビーマスワルガ」「ビモブンクス」「ソドモロ」のエピソードを描いている。それはルワットの物語を構成する(サデウォによるルワットも含む)。グヌン・プナングンガンでは、浮き彫りにおいては、ビモが海に向かう場面、キタブ・ナワルチの一エピソードが描かれ、それはクンダリソド寺院群に彫られている。残念なことにそれらの浮き彫りは現在失われてしまった。ビモの石像群はディクソdiksa の儀式(罪業を滅失させる儀式)の場所にある。チャンディ・スクの石像のように(サンティコ Santiko 1995:133)。それらは敬神とご利益、ナダル nadarとカウル kaul の場のために用いられた。これはトゥンガングリ Tunggangri、グヌット Ngunut のビモの石像にクムバン・ボレ Kembang boreh(クリーム色の花)がおかれることで示される。研究者のひとり、ネーベルKnebel がその石像を訪問した時に(これを発見した? 訳者追補)(Stutterheim 1956:112)。
 研究されたビモの石像の80%以上が性器を露出していた。これは、すでに存在したリンガ崇拝と関係があると考えられる。モジョパイト時代にはリンガ崇拝に関わる五つの行事があった。すなわち、グムポル Gempol 村に対するプラサスティ・グラワン Prasasti Nglawan、サカ歴1370年のプラサスティ・サミロノ Prasasti Samirono、サカ歴1371年のプラサスティ・パレマラン Palemaran、サカ歴1380年のプラサスティ・タミアジェン Tamiajeng、そして西暦1296年のプラサスティ・スカマルト Sukamarta である(Santiko1994:12-14)
 ここにおいて、ビモはなぜリンガ崇拝と関連するのだろうか?一方でリンガつまりファルス(ペニス)はシヴァイズムにおける崇拝の対象であり(バンダルカル 1913:114)、デワンダルマハートミヤ Dewandarumahatmya において考えられているように、確かにシヴァのファルスから生じた。
 ブラフマンダプラーナ Brahmandapurana において、シヴァは九つの名を持つと語られる。すなわち、ルドラ、バヴァ、シャルヴァ、イーシャ(パシュパティ)、ビーマ、ウグラ、そしてマハーデーヴァである。一目でビーマ(パンダワの一員、ヒワン・バユの息子)とビーマ(シヴァ)は結びつく。バーンダルカルBhandarkar の書(1913:102)において、ルドラと呼ばれる憤怒相のシヴァは、咆哮しながら回転し、ハリケーン(マルト)をもたらし、子供たち(ルドリヤ)をつくる。マルトもまた、バユと同じく風を意味するのである。
 真実、モジョパイト時代よりもはるか以前、リンガ崇拝に関連するプラサスティが発見されている。それはプラサスティ・チャンガル Canggal とプラサスティ・ディノヨ Dinoyo である。プラサスティ・チャンガルはサカ歴654年(西暦732年)に形成され、マタラム古王国のサンジャヤ王によって発布された。このプラサスティはグヌン・ウキル、マゲランのサラム地区、カディルウィ村チャンガル村落のチャンディの廃墟から発見された(Sangkar, 1971:15)。プロボチャロコはヨグヤカルタ,スレマン地区のチャンガルという。一方プササスティ・ディノヨまたプラサスティ・カンジュルハン Kanjuruhan はサカ歴682年(西暦760年)に形成された。このプラサスティは発見されたとき、破損して三つの部分に分かれていたが、一部分が1904年にディノヨ村でレイディエ・マルヴィル Leydie Malville によって発見された。二つ目の部分は1923年ムルジョサリ Merjosari 村でC.W.モーレンブレッシャー Maurenbrecher によって発見された(Sdr.M.Cahyono からの口頭での情報によれば、一部分がKejuron村から、[おそらく先のKanjuruhanよりも古い、このプラサスティはプラサスティ・カンジュルハンとも呼ばれる]、もう一部分がディノヨ村とムルジョヨ村から発見された)。現在このプラサスティはジャカルタ民族博物館にある。であるから、モジョパイト末期のビモ像は、「ルワットする者」ということになる。
 初期スラカルタ時代に、キヤイ・ヨソディプロ一世によって「カカウィン・バラタユダ」をもとにして、「スラット・バラタユダ」が作られた。その内容は「カカウィン・バラタユダ」と大きな差はなく、ビモの造形も同様である。しかし、削除されたところもある。それは、パンダワが戦争の途中で、一時停戦しバイラヴァに拝跪する儀式を行ったと語られる部分である(詩編23. 7−8)。同じ著者による「スラット・デウォルチ」も「キタブ・ナワルチ」を基にしているが、同様である。「スラット・バラタユダ」同様に、ヒンドゥー的要素は排除され、「スラット・デウォルチ」においては「スルク suluk」の書で通常使用される用語、パモリン・カウロ・グスティ Pamoring Kawulo Gusti が語られる。スラット・スルク作品は大部分が、ジャワ北海岸のイスラム諸王国で書かれた。それゆえ、それらの作品は「海岸文化」と呼ばれる。「スラット・デウォルチ」は文学作品にイスラム神秘主義を付加する種類のものとして発展した。それで初期スラカルタ時代には、ビモの人物像は戦争における英雄であり、イスラム教の教えに基づく人生の真理を探究する者となった。
 19-20世紀には、「スラット・バラタユダ」のエピソードを取り上げたワヤンの演目群が発展した。また、「ビーマスワルゴ」(ラコン「パンドゥ・ポポ」)「ビモ・ブンクス」(ラコン「ビモ・ブンクス」)また「スラット・デウォルチ」の物語からのものもある。ワヤンの演目群におけるビモ像は変化せず、初期スラカルタ時代のビモ像と合致している。
 1930年代、このようなビモ像を反映する演目群は、Ir.Moensの収集したラコン群の写本としてまとめられた。ラコン群は500弱にもおよぶ大量のものであり、その大部分はヨグヤカルタ、スントロ Sentolo のダラン、ウィディ・プライトノ Widi Prayitna によって上演(執筆?)されたものである。グルントゥン Grenteng 、パクトウォジョ pakutwaja 、ポンチョ・カキ Panca Kaki kak 各村のダランたちも記されている。その際、Ir.Moensは中部ジャワで一般民衆に信じられているビモ像が動物の姿をした良き精霊として作物の害虫と関わる役割を担っている、ということについて調べていた。現在このコレクションはオランダ、ライデン大学出版にある。そこでの物語には神話学的関連を持つ民話と動物の物語を当てはめて形成されている。
 試みに五つのラコンを取り上げてみよう。「ラコン・ビモ・ビロウォ」、「ラコン・ビモ・カチュップ」、「ワコン・ビモ・トゥラック」、「ラコン・ビモ・メダムル」そして「ラコン・ダムリプン・レパン・スラユ」である。
 ラコンBima Birawaのコンセプトはルワットであり、ラクササ王ビモ・ビロウォがウルクドロの体内に入り一体化する。ビロウォの名は「カカウィン・バラタユダ」におけるバイラヴァへの敬神を想起させる。また、シンゴサリ、モジョパイト時代の、バイラヴァ流派と関連する石像やプラサスティも。チャンディ・シンゴサリではバイラヴァ像が発見されている(バイラヴァ像は三体あり、一つはライデン博物館、これに並んでいたパールヴァーティ像はシンゴサリにある。チャムンディ(チャームンダー=ドゥルガーの憤怒相)を従えていたものはトロウラン博物館にある)。ジャカルタ・ナチョナル博物館のバイラヴァ像は、アディーティヤヴァルマン(アディーティヤ神群)のシムボルとしてひじょうに巨大なものである。
 ラコンBima Kacepではビモがデウィ・ウモと結婚することが語られる。これはバトロ・グルの知るところとなり、ビモの性器は切り落とされる。後にそれは、アンキン・ゴブルAngking Gobel というクリスとなる。そのクリスは害虫、とくに稲の害虫を除くものとして使われる。
  ラコン Bima Tulak はビモとその子ども、妻たちが水田の稲の害虫を、裸になって田を囲んで駆除する。ビモは先頭に立ち、最後にはその性器が光り、水田の害虫たちを焼き尽くす。
 ラコン Bima Medamel ではビモとパンダワたちが水田を開拓する。ビモはデウォルチからの啓示でクタン・ゴンディル( ketan Gondhil=ketan もち米、gondhil はげ)の稲を植える。彼はそれをジャワの王たちに伝えることに成功する。
 ラコンDamelipun Lepen Serayu の物語ではクロウォたちと運河建設の競争をする。クロウォたち百人はボゴウォント Bogowonto川を作る。パンダワはスラユ Serayu 川を作るが、その仕事のほとんどはビモひとりが行う。ビモは素早く性器を勃起させ、大地を掘り起こし、クロウォたちより早く川ができる。
 これらの演目群は、民話や民間信仰と関わりがある。ー今にいたるも、村の母たちによって夜から朝への旅路で幼い子どもに与えられ、受け渡される。精霊たちの邪魔だてがないようにカインは膝上に上げらるー。リンガ崇拝のコンセプトや、神話の肥沃さが、性器の機能を強調するのである。このことは、リンガ崇拝が、モジョパイト末期のみならず、8世紀のプラサスティ・チャンガルやプラサスティ・ディノヨにおいても見いだせることを想起させる。
 Ir.Moensのコレクションした演目群には、ビモと様々な怪物たちのセックスが強調されている。セックスの儀式は、生殖活動のみならず、バイラヴァ派の儀式の一部でもある。これはマハスカMahasuka (究極の至福)のコンセプトとも関連する。「スカ」に感謝を捧げるセックスは喜びの俗事である。これはマテリアルとフィジカルからなる一時性を認識する方法を説明する。制限を認識するために、人はある種の儀式を行う。限りある地上の喜びを感じることができるように。たとえばセックス、飲食。他に結婚もまたルワットの儀式として取り上げられる。それは低いレベルにある生き物たちをより高いレベルへと押し上げるのである。
 これらの演目群の存在は、モジョパイト末期のリンガ崇拝、バイラヴァ崇拝、そしてルワットにある「カレパサン・ジウォ kalepasan jiwa =魂の解放」と関連すると理解される。
 イスラムの到来で、バイラヴァ派によって行われていた儀式やヨーガの実践はもはや行われなくなった。しかしセックスにはじまる「kalepasan jiwa」の概念はまだ忘れられていない。これは「ダルモガンドゥル Darmogandul」 、「ガトロチョ Gaatholoco」「スラット・スルク」(Akkeren 1951)、「スルク・レベ・ロンタン Suluk Lebe Lontang 」(Zoetmulder,1990:2274-8; 280-1)など数種のスラット・スルクの存在によって示される。セックスと関連する演目群は、kalepasan jiwaの概念がヒンドゥー・ブッダ時代にも存在したことを示している。しかしイスラムの到来で、その概念の応用と知識は閉じ込められた。だが、全てを知る者が少数存在し、その概念は物語に現れもしたが、もはや断片的で完全なものではなかった。神話的要素は潜在的な底流となり、時折現れることとなった。
 Moensコレクションの諸ラコンの語りの手法は、「スラット・バラタユダ」また「スラット・デウォルチ」から採られたラコン群とは異なって見える。言葉も描き方も同様にこの写本集では定型的で、単純である。これらの物語の基づく環境は、村落のものであり、これらは村のダランたちによって作られたものであると考えられる。
 独立後の時代、1970年代には、一人の人物の誕生から死までを語る、バンジャラン演目群が現れる。これらの演目は既にある演目に基づいて構成される。スラカルタ王国時代に創案された諸演目が取り上げられるため、ビモの人物像に変化は生じていない。


1)Wibowo(1992:150)によれば、ラコン「Bima Kumara」は現在のラコン「ビモ・ブンクス」とほとんど同じものであり、チュリタ・ルワットに属する。バリでは今も『Bima Kumara」と題するラコンがあり、上演される内容に変わりがない。
2)これについてヴァーユは最初、ナーラヤナが目覚め、宇宙の夜が終わったとき、ブラフマから変化したという(Zimmer, 1953:51)。ブラフマはヴァーユとなり、海上に移動し、海中に入って大海から陸地を持ち上げた。これは生命と運動の起源であり、ここで風が完全なるものとして吸入される。(The Salvation of the King in the Mahabharata."dalam contributions to the Indian Sociology.New Series. Vol.15 Numbers 1 and 2.January-December 1981,p.91)
(了)
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by gatotkaca | 2011-08-03 17:37 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ビモの肖像全史 その1

 続いて、ウォロ・アルヤンディニ氏の "CITRA BIMA SEPANJANG ZAMAN" を紹介する。
 これはビモ説話通史ともいえる内容で、とっても便利かつ貴重な資料である。

ビモの肖像全史
Woro Aryandini S.(FSUI)

ビモの名が最初に言及されるのは、908年、マタラム古王国のディヤ・バリトゥン Dyah Balitung 王の治世に成立したプラサスティ(碑文)・ウカジョノ Wukajana においてである。
 その碑文では以下の如く語られる。
 「かくて希望に応じて、タンキルスギ Tangkilsugih 村でマミドゥmamidu (歌)の上演があった。シ・ナル Si Nalu がビーマ・クマラ Bhima Kmara を語りながら、キーチャカ Kicaka (の役)を踊る。シ・ジャル Jaluk はラマヤナを物語りながら、楽器を奏し、冗談を言う。シ・ムム Mukmuk とシ・ガリギGaligi がヒワン(神)のためにビーマ・クマラの物語のダランをした。」(Titi S.Nastiti,1995:383)

 この碑文には、ビーマとキーチャカの名がある。この二人の人物は、ウィロトパルウォの物語に現れる。これがジャワ古語に訳され、著されるのはカウリパン(クリパン) Kahuripan 王国のダルモウォンソ王の時代になってからであり、その治世は991〜1016年であるから、この時点ではビーマとキーチャカに関する物語は口承のものであると考えられる。
 碑文作成の行事は、ダリンナン Dalinnan 村がこの地域の僧院の維持費に割り当てられる税の徴収を免れるという王の決定に関連している。
 ウカジョノ碑文に述べられている、演目ビーマ・クマラの採用は、これがどんな演目でもいいというものではなく、この催しに合致するものだからであり、これがルワタンの物語だからである。ここでルワットされるのは、この行政区に移動する、ウカジョノ村、トゥムパン村、ウルトゥル村である。この行政地域移動は、その三つの村の生活に物理的にも精神的にも動揺を引き起こした。望まぬ自体を起こさぬための処置のひとつとして、上記演目を採用したワヤン上演が催されたのである。(Wibowo1992:159) ウィボウォの結論は、ヒワン(神)を対象とするワヤン上演について述べる碑文の文章によって強化される。
 809年に作成された碑文が、ワヤン上演に言及しているということは、アイルランガ王(治世1019〜1042年)の時代の「カカウィン・アルジュノ・ウィウォホ」でのそれがワヤン上演に対する最初の言及であるとするのは適切ではないことが仮定される。
 碑文はまた同時にビーマの人物像に、彼の物語がいくつかの村をルワットすることができると看做されるほどの超自然的な強さをもたせようとしている。
 ダルモウォンソ王(在位991〜1016年)の時代に、マハーバーラタの諸パルワ(パルヴァン=編)がジャワ古語に翻訳された。ビモの物語が含まれているパルワは、アディ・パルワ、ウィロト・パルワ、ウディヨーガ・パルワそしてプラスタニカ・パルワである。前述の三つのパルワでビモの物語は強靭な人間、肉体も精神もすぐれ、一族と社会の保護者、一族の希望を叶える者、そして戦における英雄としての彼を描く。この物語は、1157年、クディリ国王ジョヨボヨの時代にムプ・スダとムプ・パヌルにによって書かれた「カカウィン・バラタユダ」によって強化される。このカカウィンはウディヨーガ・パルワのあるエピソードを展開,発展させて作られた。肉体的強靭さは、彼が母と兄弟たちを焼かれた樹脂でできた家から助け、運び出す場面においてことさら示される。このエピソードでは、彼がいかに一族を愛し、大切にするかが示されている。その精神的強さは、彼がガンダルウォに変身してヨガをおこない、キーチャカ将軍の虐待からサイリンドリ(本当はドゥルパディ)を守るさまを通して描かれている。
 追加部分がビモの物語を補っている。ビモはバユ(ヴァーユ)神の「息子」である。かの神は生きとし生けるもの全てを吸い込む大気の支配者である。ウダラ(大気)とは、活力の源であり、生命の始まりと終わりの顕現であり、欲望を支配し浮かび上がらせる運動である。欲望(コモ=カーマ)の諸要素の存在なくして生じる大地の生命は存在しない。ヴァーユはまた破壊者プラバンジャナとしても知られる。それは最も恐るべきその姿において物理的力の象徴である。カーマはあきらかに、ビーマがシヴァ・バイラワとして認識されるときに示される(モジョパイト時代)。彼はエロス的人物でありながら、同時に禁欲的人物でもある(石像、浮き彫り、そして後述するIr.モーエンス Moens の収集した演目集において示されている)。生への渇望には強靭さが必要である。というのもそれぞれの生き物はより強いものによって脅かされ続ける存在であるからだ。なかでもビモ・コモ kama は人間の最大の目的となる。コモを召喚して自身と他の人を聖化するのである。これこそがヴァーユからビモが生まれた意味である。何故彼は戦争において、敵に対して残酷で恐るべき行為をなすのか(ドゥルソソノ、ドゥルユドノその他に対して)。また戦争の外においても(ジョロソンド、キーチャカ、そしてたくさんのラクササに対して)。それが、弱い者を守るという、サトリヨのダルマとして必要とされる行為だからである。虐待から民を守るということ、例えば、特に石器作りのバラモンを保護し、ラクササのボコからエコチョクロの民を守り、キーチャカの権力からサイリンドリを守る、などである。この一見残酷な行いは、クレスノによってダルマに合致するものであると説明される。
 プラスタニカパルワにおけるビモ像は、宗教的な事柄、つまり死の問題について知ることを切望する人物として描かれる。その兄弟たちがたおれていく度に、彼はユディスティロに尋ねる。兄弟それぞれの死の原因は何なのか、と。
 彼がまだ母に抱かれる赤ん坊であった頃の物語が、アディパルワにある。クンティーが虎の声を聞いて驚き、ビマセナは石の上に放り投げられてしまった。しかし、その石は砕け散ったのであった。モジョパイト末期に、この秘跡は、「ビモブンクス」という物語に展開し、ジャワ新王朝時代、KGPAA・マンクヌゴロ7世によって、演目「ビモ・ブンクス」として構成された。1936年にはイスラム(理念)を取り入れた「スラット・ビモ・ブンクス」が現れる。モジョパイト時代の「ビモ・ブンクス」、またワヤンの演目におけるビモの人物像は、超自然的な強靭さをそなえた人物とされた。それゆえ、ブンクスの中の彼はストラゴンドマユの森で苦行する。その後、ヒワン・グルの息子、ガジャセノの魂を体内に宿すことになる。ガジャセノはブンクスを破ることに成功したが、彼自身は消えてしまったのである。この物語はルワットの行事と関連がある。獣の姿のガジャセノはビモと一体となることで、ルワットされる。「スラット・ビモ・ブンクス」においてビモはインサン・カミル、完全なる人間となる、と語られる。
(つづく)
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by gatotkaca | 2011-08-02 21:39 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

モジョパイト時代のビーマ

 ビモのラコン(演目)を調べようと「チュムポロ ビモ特集号」( Cempala edisi:Bima 1996,Humas PEPADI Pusat ,Jakarta)を読んでいたら、目から鱗がぼろぼろ落ちる事態となった。
 ビモの図像的特徴であるポンチョノコ(ビモの拳から出る一本の長い爪)の説明ひとつでも、間違い・認識不足が多々あることがわかった。というわけで、「チュムポロ ビモ特集号」に掲載されていた各論文をもとに、もう一度ビモというキャラクターを整理しておきたい。こちらの私見に対する批判を受けるための準備として、知識共有を前提とするために、以下参考論文の拙訳をまずはご紹介しておく(引用と解釈してください)。そのうえで、あらためてビモのキャラクター論を整理してみたい。

 まずは、第一弾。サンティコ氏の論説は、モジョパイト時代のビーマ(ビモ)の需要のありかたを概説してくれている。この人の論文は前回のドゥルガー論もそうであったが、わりとわかりやすく、面白い。この論文には驚愕の事実(ぼくにとっては)が書いてありました。

モジョパイト時代のビーマ
ヒンドゥー・シヴァ教における仲介者としての姿

Hariani Santiko(UI)

前書き

 ジャワではパンダワ、コラワのキャラクターはワヤン上演(ワヤン・オラン、ワヤン・クリ)においてよく知られているし、古代ジャワ、中世ジャワの文学作品においてもまた同様である。ワヤン上演についての最古の文献は、ウコジョノ Wukajana 碑文にある。それは9世紀の古マタラム王国バリトゥンBalitung 王の治世の碑文である。その碑文は、タンキルスギ Tangkilsugih 村の村落領地確定の儀式を記している。そこでは、ウィロトパルウォ物語から採られた、ビーマ・クマラ Bhima Kumara の話が舞踊(ワヤン・トペン?)として上演されたとある。また、ワヤン・オランの上演、われわれがアイルランガ王(1019-1049年)の治世にムプ・カンワが著したアルジュノ・ウィウォホの写本に見られる、ワヤン・クリ上演についての記載もある。
 ワヤン上演以外にも、マハーバーラタの物語は文学作品としても著名である。サンスクリットで書かれたマハーバーラタの諸パルヴァン(編)が、ダルモウォンソ・トゥグ Dharmawansa Tguh の治世(10世紀)には、古代ジャワ語に訳されていた。今日見ることのできる写本は、アディパルウォ Adiparwa 、ウィロトパルウォ Wirataparwa、ウディヨガパルウォUdyogaparwa 、ビスモパルウォ Bhismaparwa 、アスロモウォソパルウォ Asramawasaparuwa 、モサラパルウォ mosalaparwa 、プラスタニコパルウォ Prasthanikaparwa 、スワルゴロハナパルウォ Swargarohahaparwa である。上記写本の物語以外でも、古代ジャワまた中世ジャワのさまざまな写本にパンダワたちを中心とした物語がある。とりわけアイルランガ王の治世にムプ・カンワによって編まれた「アルジュノ・ウィウォホ」、ムプ・スダとパヌルによって編まれた「カカウィン・バラタユダ」、ムプ・パヌルによって編まれた「カカウィン・ガトコチョスロヨ」、この二つのカカウィンは12世紀ごろ、クディリ(パンジャル)王国のジョヨボヨ王の治世に編まれた。モジョパイト時代以降、カカウィン・パルトジャジュノParthayajna 、カカウィン・コロヨウォノントコ Kalayawanantaka 、カカウィン・スバドゥラウィウォホ Subadrawiwaha 、カカウィン・クリシュノカラントコ Krsnakalantaka その他が編纂された。それらの物語の大部分は、特にモジョパイト時代のジャワのチャンディ(寺院)の壁面に刻まれている。

モジョパイト期におけるビーマの位置

 モジョパイト期のパンダワの五人の人物像において、ビーマの姿は特記すべきものである。いくつかのチャンディの壁面に彫刻された姿以外にも、ビーマの石像がいくつかあり、それはワヤンにおけるビモの姿に近い特徴を持っている。その石像の主な特徴とは次のようなものである。がっちりした体付き、直立し、大きく見開いた目、口ひげをはやし、親指に長く伸びて曲がった爪を持つ(クク・ポンチョノコ)。着衣や装飾品は最低限のものであり、ビーマが身につけているのは大きな格子縞のふんどし(ポレン poleng)だけで、これらの石像で奇妙なのは、ビーマの性器がそのふんどしからあられもなく出ていることである。ビーマの髪は「グルン・スピット・ウラン」型、また稀に「グルン・クリン」型に丸く結い上げられている。耳飾り(スンピン)を付け、いかり肩、腕輪、蛇と魚の型の腰を飾るウパウィタ(カーストを示す紐)を身に付けている。
 それらが発見された際の記録によると、それらの石像は、山の斜面に設けられた階段状のテラスに対面していたという。例えば、ラウ山の斜面にあるチャンディ・スクとチャンディ・チェト、ウィリス山の斜面にあるチャンディ・プナムピハン、後にはプナングンガン山とアルジュノ山の斜面にあるテラス状の建築物である。それらの建築物は、ルシ(僧侶)として知られる、プンデト(苦行僧)たちの所有する、聖なる建築物であった。何がビーマを他の四兄弟から突出して取り上げさせ、ルシたちからの信仰において果たした役割は何だったのだろうか?
 上記二つの問題を解決するため、我々はより以前の時代のルシたちの身元調査をしてみたい。著者の行った調査によれば、ジャワのルシには2種類ある。第一は、神話の登場人物たちで、神々と同列に扱われる者たちである。たとえば、ナーラダ、マリーチ、カシュヤパ、ヴィシュヴァミトラ、バラドヴァージャその他である。ふたつ目は、人生の第三段階(ヴァーナプラスタ)と第四段階(サンニャーサ)にある者たちである。ヒンドゥー教では、人間はその人生において四つの段階を経なければならない。第一はブラフマチャルヤ(学生期)であり、一人もしくはそれ以上の師(グル)の弟子として生きること。教育が終了した後は、子孫をもうけ、社会における役割を果たすために家庭をつくらねばならない。この人生の段階をガールハスティヤ(家住期)という。この仕事を終えた後、人は身を辞して静かなる場所、森から森、山から山へ、さまざまな所へ行き苦行する。この人生の段階をヴァーナプラスタ(林棲期)と呼ぶ。かくて第四の段階、サンニャーサとなる。悟達を得た人はどこにいても世俗的な諸事に影響を受けない。ヴァーナプラスタのレベルに達した者たちは、ルシと呼ばれる。一方、サンニャーサの者たちは、シッダルシ、マハルシ、またブラフマルシと呼ばれる。ルシたちは森の中や、他の者と離れた場所に住み、木の皮の着物(ヴァルカラダーラ)を着る。洞窟の苦行所や聖なるため池(パティルタン)の近くに住む。あるいはマンダラ(カデウォグルアン)の名で知られる、教えを伝える場所に住む。ワヤンでいう「パデポカンpadepokan 」のたぐいであろうか。マンダラ(カデウォグルアン)でルシたちは聖なる知識(ガンス・カウル Ngangsu Kawruh )をデウォグルdewaguru たるシッダルシたちから学ぶ。しかし、マンダラ(カデウォグルアン Kadewaguruan )の弟子たちは、ルシたちのみで構成されるだけでなく、他にもカキ、またエンダンと呼ばれるブラフマチャーリヤの青年たち、若い婦人たちがいる(ワヤンにおけるチャントリやエンダンの類いか?)。マンダラ(カデウォグルアン)で学ばれるのは明確な情報ではなく、彼らの宗教に関連する、シヴァシッダーンタ派のシヴァ教であった。シヴァシッダーンタ派の教えは、当初南インドからもたらされたが、ジャワにおいて変化した。サンキーヤ哲学とウパニシャッド哲学が混成したのである。この「サイヴァシッダーンタ・ジャワ」教は、シヴァ神を、3つのタットヴァ(本質)を持つクニャタアン(物質)・トゥルティンギ Kenyataan Tertinggi (至高の存在)と説く。第一のタットヴァとはすなわちシヴァタットヴァであり、ニスカラ niskala (無形)の性質を持つ。第二のタットヴァは、サダシヴァタットヴァであり、サカラ・ニスカラ sakala-niskala (有形にして無形)の性質を持つ。第三のタットヴァはサカラ sakala(有形)の性質を持ち、直接的体験と関連する。すなわち、世界の創造(ブラフマーとして表される)、世界の維持(ヴィシュヌとして表される)、そして世界の破壊(イシュラヴァとして表される)である。タットヴァの三つの象形は、ブラフマー、ヴィシュヌ、イシュラヴァの三位一体すなわちトリムルティー、あるいはトリサーマヤとして知られる。このシヴァの3サットヴァの教義は、サイヴァ・シッダンタにおいて、高位の精神的知識はすなわち瞑想に始まるモークシャ(解脱)に至る方法である。その到達にいたるため、人は至高なるザット(存在)についての聖なる知識を自分自身に与え、必要に応じて宗教儀式を具体化しなければならない。これらこそ、マンダラ(カデウォグルアン)のシッダルシたちによって説かれるところのものであろう。
そのルシたちが行うのは苦行以外に、パラマシヴァ(サン・ヒワン・アチャラパティ、サン・ヒワン・ジャガッドプラマナ、バトロ・グルその他としても表される)に対する礼拝であり、それは山の斜面、プナングンガン山、ラウ山、アルジュノ山などに設けられた聖なる建築物、階段状のテラスを通って山頂におわすものである。

 では何故、ビーマの浮き彫りや石像が、その階段状のテラスに対峙しているのか?モジョパイト時代末期、ビーマに関連する宗教説話が知られた。ナワルチ(デウォ・ルチ)とビーマ・スワルゴである。これらの物語の写本は確かに新しいものであり、モジョパイト崩潰後の時代のものであるが、二つの物語は、モジョパイト時代にすでに著名であった。チャンディ・スクでビーマ・スワルゴの浮き彫りが見られ、プナングンガン山クンダリソノの苦行所の壁にはナワルチ(デウォ・ルチ)の浮き彫りが彫られているからである。

 ビーマ・スワルゴは、ビーマが地獄の苦しみの中にいる、パンドゥとマドリムの魂を解放しようとする物語である。物語によれば、パンドウとマドリムは12年の間地獄におちている。というのも、パンドゥが生前、鹿に変じて妻と愛し合っていたあるプンデト(ブラフマハティヤ)を殺したからである。クンティの願いで、ビーマは、パンドゥとマドリムの魂を地獄から解放するため、ビーマはクンティと兄弟たちと共にヤマ神のもとへ赴いた。ビーマはヤマの軍勢と戦い、勝利した。ビーマの勝利により、パンドゥ、マドリム、その他の魂たちが解放されるという約束であった。しかし、ビーマが勝利したにもかかわらず、ヤマは約束を履行しなかった。そして魂たちは再び地獄におとされた。これを見たビーマは、直ちにシヴァ(バタラ・グル)に助けを求めた。困難を乗り越え、ビーマはパンドゥ、マドリム、そして他の魂たちを解放することに成功した。かくて全ての者は天界へ入ることができたのである。

 ナワルチ(デウォ・ルチ)の物語では、ビーマはドローナから、命の水(バニュ・パウィトロ)を探すことを命じられた。その道中でビーマは、呪いによって動物やラサクサ(ラクササ)に変身させられていた多くの神々を、呪いから解放した。ビーマはついに命の水が大海にあることを知った。そして恐れることなくビーマは海に入っていった。大蛇と格闘したのち、ビーマはある被造物と出会った。それはひじょうに小さく、親指ほどの大きさで、その姿は彼自身とそっくりであった。その被造物こそが、ヒワン・マハスクスモの顕現したデウォ・ルチであったのだ。かくてビーマは、彼の左耳からその身体の中に入った。最初彼は、果てしのない空間で自分自身と出会う。そして、太陽、大地、水、その他、世界を構成するものを見る。そしてビーマは4つの色を見た。それは、黄、赤、黒、そして白である。黄、赤、そして黒の色は良くない性質、つまり、人間がヒワン・マハスクスマと合一しようとする努力の妨げとなるものを象徴する。一方、白は平静を象徴する。それからビーマは真珠のように輝く白い人形を見る。それはヒワン・プルマナと呼ばれる。その人形こそが、自身の中にあるヒワン・スクスモの生の指針である。「カウラとグスティ」すなわち、内なるスクスモとマハスクスモを再び合一させることこそが、被造物(たる人間の生の)目的である。教訓を手にしたビーマはデウォ・ルチの体内から出て、兄弟たちのもとへ帰還した。

 上記二つの物語にでビーマは、高位の精神的英知とクルパサンkelepasan (モークシャ=解脱)を手に入れる。デウォ・ルチの物語において、ビーマは師としてのデウォ・ルチから教訓を授かる。それは生の秘議とジャガッド・アグン=大いなる世界(マクロ・コスモス)とジャガッド・アリット=極小世界(ミクロ・コスモス)の関係の本質であり、クルパサン(モークシャ)に達しようとする、知者が獲得しなければならないものなのである。それゆえ、モジョパイト末期においてルシたちによって、パナングンガン山斜面のクンダリソノの苦行所の壁面に、ビーマが海の中にいる場面の浮き彫り(デウォ・ルチ物語)が刻まれ、ビーマは成功者として掲げられ、パヌタン(グル=いわゆる師?)とされたのである。
 パヌタンとしての他、ビーマは人間とパラマシヴァの「架け橋」たる仲介者(メディエーター)として掲げられもした。先の見地から、ビーマスワルゴの物語においてパンドゥ,マドリム他の魂を地獄から解放し、バトロ・グル(パラマシヴァ)に彼らが天界へ入れるようにと願い、叶えられるという、ビーマの役割が結果として浮かび上がる。クルパサン(モークシャ)を目指すルシたちによって、聖なる仲介者、ビーマの石像が造られ、チャンディ・スクその他に設けられた階段状のテラスの前に置かれた。さらに、コロムルゴ kalamrga (カーラの頭の装飾がアーチ状にあり、その上に一対の鹿の頭がアーチ状に連なる)に縁取られたパネルにバトロ・グルに対面するビーマの場面を描いたビーマスワルゴの浮き彫りが、チャンディ・スクの入り口の扉の前に置かれてもいる。ビーマとパラマシヴァとの堅固な関係性は、ビーマの生殖器(ファルス=ペニス)があらわになっていることにも見いだせるだろう。それは、シヴァリンガとして掲げられているのである。

結論

 クンティとパンドゥの息子、ビーマは、このようにしてモジョパイト時代のルシ(苦行者)たちの間で、ひじょうに高い地位を獲得したのである。その師デウォ・ルチから生の秘議に関する英知を獲得したビーマに関連する物語は、ルシたちの心をつよくとらえた。生の秘議こそ彼らの探し求めるものだからである。それゆえビーマは、成功者の象徴また彼らのパヌタン(師)たる人物像として掲げられたのである。
 そうしてビーマは、人間とパラマシヴァの「架け橋」たる仲介者(メディエーター)となった。彼らは、ビーマスワルゴの物語で、パンドゥ、マドリムその他の魂たちを助けてくれたように、人間がクルパサン(モークシャ=解脱)に達することの手助けをもとめて祈りを捧げるのである。
Cempala edisi:Bima 1996,Humas PEPADI Pusat ,Jakarta
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by gatotkaca | 2011-08-01 10:23 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

演目「パンダワ・ピトゥ」について その1

 先日、ガムラン・グループ『ランバン・サリ』のスタジオにて催された、「アジア文化講座『ワヤンの魅力を知ろう』第1回「ジャワのワヤン~上演現場から」講師:折田美木」に行ってきました。いろいろ ためになりました。ご自身が録画された、実際のワヤン上演の映像にあわせて折田さんが場面ごとに解説してくださる、という内容。折田さんの誠実なお人柄を感じさせる、好感のもてる話し振りがGood Job!な講座でした。
 さて、そこで今回取り上げられた演目が「パンドウォ(パンダワ)・ピトゥ」だったわけですが(ダランはキ・プルボ・アスモロ)、これはジャワ・オリジナルのチャランガン(ダランによる創作もの)のひとつで、けっこう著名なもの。Pituはジャワ語で数の「七」を意味します。「パンダワセブン」もしくは「パンダワ七人衆」というわけ。(カッコイイ!)わりと人気のある演目で、(多分題名がカッコイイからだと思う)、続編として「パンダワ・ソゴ(パンダワ九人衆)」というのもある。パンダワ五王子+クレスノとその兄ボロデウォ(プルボ版ではクレスノの従兄弟で子分のスティアキ)で七人衆を結成するのである(ソゴはこの七人+スマルとアノマンで九人)。でも七人衆自体はあんまり中身と関係なかったりする。
 というわけで、ルワタンの話が途中ではあるけれど、こちらを先にやることにしました。

 まずはあらすじ(またまたエンシクロペディによる)。

パンダワ・ピトゥ(パンダワ・セブン)Pandawa Pitu

 このラコンはわりと有名で、よく上演される。物語はアスティノの権力者ドゥルユドノの失望のさまから始まる。というのも、プラブ・ボロデウォが、プラブ・クレスノ同様に、とうとうパンダワと固い絆をむすんだからである。
 今やパンダワは五人ではなく七人となったのだ。(Pandawa Pitu. Pitu=7)
アマルトの宮殿で、プラブ・ボロデウォ、プラブ・クレスノはパンダワの五人とともに集まっていた。彼らはビモの話すイルム・カウル・パヌンガルニに関する教えに耳を傾けていた。
 そのイルムが広まることに神々は怒り、ブトロ・グルはブトロ・ナロドを遣わし、ビモに罰を与えるため、カヤンガンへ呼んだ。ビモは同意した。他のパンダワたちとプラブ・ボロデウォ、プラブ・クレスノは一族の運命に殉じることとした。彼らもまたカヤンガンへ共に行き、罰を受けることにしたのである。
 その頃トゥングルマラヤ国のバタリ・ドゥルゴはパンダワが罰を受けるためカヤンガンへ向った事を知り、デウォスラニにアマルト征服を命じた。デウォスラニがアルジュノに代わって、〈神の戦士=Jagoning Dewa〉となれるように。しかしデウォスラニはパンダワの息子たちに撃退されてしまった。
 マドゥコロではデウィ・スムボドロとデウィ・スリカンディが、パンダワが神の罰を受けなければならないことを大いに悲しみ、怒りを感じていた。彼女たちはかくてティウィクロモし、ブラホロ(巨大なラクササ)バドロヤクソとカンディヤクソとなった。
 二人のラスクシ(女ラクササ)はパンダワ返還を求めてカヤンガンへ向った。
 カヤンガンでは、パンダワとブトロ・グルが言い争いとなり、大いに怒ったブトロ・グルはパンダワをチョンドロディムコ火山に入れてしまった。アルジュノがチョンドロディムコの火口に入ると、全てのビダダリ(天界の美女)も後を追って飛び込んだ。
 その時、バドロヤクソとカンディヤクソがカヤンガンに到来し暴れ回った。神々は手に負えなかった。
 ブトロ・グルの許可を得て、ブトロ・ナロドはパンダワを、暴れ回る二人のブラホロに当たらせた。(ブラホロ鎮静に)成功すればパンダワの罪は無効となる。ビモは望まなかった。彼と兄弟たちは、パンドゥ・デウォノトとデウィ・マドリムが奈落から解放され天界に移されるならば、戦いに身を投じると言った。要求は満たされた。
 パンダワたちがバドロヤクソとカンディヤクソに対峙すると、二人のブラホロはデウィ・スムボドロとデウィ・スリカンディに戻った。

 プルボ版では、ボロデウォがスティアキに代えられ、スマルが超能力を使って、アルジュノのふたりの妻をラクササに変身させる。ほかは大体エンシクロペディに紹介されているプロットで上演していた。スティアキでは役不足な感があるが、まあ許せる範囲。スマルの扱いには異議がある。だいたいこのプルボ・アスモロという人は、ランバン・サリとの日本公演での「アルジュノ・ウィウォホ」でもそうだったが、スマルというキャラクターの大事な部分が分かっていない気がする。この件についても、いずれ書く。というわけで、ランバン・サリの方々には申し訳ないが、僕はこの人を一流のダラン(ダラン・スジャティ)だとは思っていない。あくまで私見だけど。
 この話は、核になる部分に元ネタ、というか別の演目があるので、その件は次回。
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by gatotkaca | 2011-07-23 17:20 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

前川輝光著「マハーバーラタの世界」

 ワヤン、とくにワヤン・プルウォと呼ばれる部類のワヤンにおいて、その物語は、ジャワにおいて多大な変遷をみせるとはいえ、もともとはマハーバーラタとラーマーヤナ(ラーマーヤナ前史を含む)を扱う。これらは共にインドの古代叙事詩であり、とくにマハーバーラタはその膨大な長さと、深遠な哲学、内包される神話の多さから、邦訳といえど、一朝一夕に読み通すこともできないしろものである。
 マハーバーラタの邦訳は、三一書房から英語版の重訳である山際素男訳全九巻とちくま学芸文庫から原典訳として上村勝彦訳八巻(未完)が出ているが、研究書となるとまだまだ一般人の目に触れるものが少ない。
 ここでは一冊のすぐれた研究書を紹介したい。

 マハーバーラタの世界 前川 輝光 めこん (2006/08)刊
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 前川先生とは、ワヤン協会でお会いしたこともあり、直接お話を伺うこともできた。真摯かつ、ものごとを総合的、俯瞰的にみることのできるすぐれた見識を持つ方である。
 日本のマハーバーラタ研究の多くが、その一部分、例えばバガヴァッド・ギーターや、挿話として組み込まれた神話を個別に取り出して扱うことが多いのに対して、本書はマハーバーラタという書物をひとつの有機的一体として考察しようとする。一例をあげれば、「誓い」というキーワードをもちいて、マハーバーラタの主役たち、ビーシュマ、アルジュナ、カルナらのキャラクター解析を試み、彼らが物語全体で果たす役割・機能を明晰に解き明かしてくれる。
 それまでの、悪くいえば重箱の隅をつつくような研究と異なり、マハーバーラタという物語をひとつの有機体として活写しつつ、物語全体での人物の立ち位置、役割には、これを成立させた共同体のどのような要請、希求が込められているのか?という根源的疑問にまで肉薄する。そして本書において、もっともスリリングな見解は、第一部第五章、ヒルテバイテルの論考を踏まえて、さらに展開される「五人のクリシュナ」論であろう。この論考を読んだ時、「目から鱗が落ちる」とはまさにこのことだと感じ入った。
 そして第二部での現代インドにおけるマハーバーラタの需要のありかたに対する研究は、これからのインド文芸研究への多くの示唆に富み、現代インドにおいて「悲劇の英雄」として受け入れられているカルノのあり方のレポートは、後進へさらなる研究課題を提出している。またシヴァージー・サーヴァントや、著者と親交のあった研究者たちに対する筆致も、著者の人柄、人情を感じさせ、単に堅苦しい研究書とはことなるあたたかな余韻を本書に加えている。
 巨視的観点からの考察であっても、デュメジル神話学におけるヨーロッパ神話との対称といった、興味深くはあるが、どこか漠然としすぎた研究とはことなり、マハーバーラタそのものを見失わぬ著者の真摯かつ絶妙の距離感は、日本における(世界的にみても)マハーバーラタ研究のまさに、金字塔といっても過言ではあるまい。
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by gatotkaca | 2011-07-04 03:36 | 影絵・ワヤン | Comments(0)