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木から落ちた猿

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ビモのお宝をさがせ!

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 チャンディ・スク(15世紀モジョパイト時代の遺跡)にあるビモのレリーフ。
 真ん中がビモでふたりのラクササ(羅刹)と闘っている。おそらく「デウォ・ルチ」の物語における、森のラクササと闘う場面であろう。15世紀には「デウォ・ルチ」の物語のプロットが完備されていたことの証である。
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 これもチャンディ・スクのもの。クリス(ジャワの短剣)を鍛造する場面が描かれている。
 右端はアルジュノ、大きな鞴(ふいご)で空気を送り、火をおこしている。中央はガネシャ。左端で大股を広げているのが我らがビモである。上方にはクリスほかの刃物類が見え、彼がクリスを鍛造しているということらしい。ビモのチンコがクリスになる「ビモ・カチュップ」と関連するのであろうか?農耕機具らしきものもあるかな?後に展開するビモが水田を(チンポの光で)守る「ビモ・トゥラック」を予告するような場面でしょうか(今は上演されないらしいが、「ビモ・トゥラック」はぜひ見てみたい演目である)。
 サンティコ氏の論文を見てすごく期待したのだが、ふたつともファルス(チンコ)は別に露出していないようだ(ふんどしが、それっぽいけれど)。モジョパイト時代のビモ石像の80%は珍宝出しって書いてあったのに!

 というわけで、はなはだ残念ながら今回、ビモのお宝画像は見つからなかったのである(そのうち必ず見つけるぞ!)。
 そのかわりといってはなんですが……。

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 これはスラカルタ・スタイルのビモの図像。彼の手をよ〜くご覧ください。握り拳から親指が出ていますよね。これはクク・ポンチョノコといって、この長い親指の爪がビモの目印なのです。他にもビモの神格上の父、バユ(風の神)とお猿のアノマン(これもバユの子ども)にも、この爪はありますが、多分ビモの影響で後から付けられたのだと思う。「ポンチョノコとは親指に生える巨大な爪で、五本の指にしっかりと握られている。一つの手の中の五本の指は一つの完全性を形づくるものである。すべての力、希望、能力、意志の完全性などサン・ビモの内心の力の集中を象徴している(『ワヤンの基礎』セノ・サストロアミジョヨ 松本亮・竹内弘道・疋田弘子訳 めこん1982)」という、なにやらすごい(らしい)ものなのだ。ところが、これを実際にやってみると……。

こうなる↓

どうなる?
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by gatotkaca | 2011-08-08 01:21 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

スラット・デウォ・ルチにおけるイスラム神秘主義の影響

 イスラーム到来後の状況を概説したウォロ・アルタンディニ氏の論説。

スラット・デウォ・ルチにおけるイスラム神秘主義の影響
ウォロ・アルタンディニ(FSUI)

「スラット・デウォルチ」は、スラカルタ・ハディニングラト王国のカンジェン・ススフナン・パク・ブウォノ4世の時代、ジャワ歴1730年、西暦1803年にキヤイ・ヨソディプロ1世が構成した。
このキタブは、モジョパイト王国最盛期に現れた、中世ジャワ語を用いた「キタブ・ナワルチ」に基づく。「キタブ・ナワルチ」は1500〜1619年の間に、ムプ・シワムルティ Ciwamurti (自身はムプ・ドゥスン Dusun と称した)によって書かれた。であるから、「ナワルチ」は宮廷(クラトン)外の環境において成立したものである。「キタブ・ナワルチ」の別名は「サンヒワン・タットワジュノノ Sanghyan Tattwajnana 」といい、訳せば『生命の根源に関する知識の書』となる。その内容は、ビモが完全なる人間となるために、その師、ダンヒワン・ドゥルノの命を受け、バヌマハパウィトロを探さなければならなくなる。様々な試練を経験した後、ついに彼はサンヒワン・アチンティヤ Acntya またナワルチという、「真実なる師」と巡り会うのである。
 その名だけでは、そのキタブはいまだヒンドゥーの息吹を感じさせるが、物語の内容を見てみると変化を見て取ることが出来る。ヒンドゥーの神々がおわすその下に、聖なる人物、すなわちビモがおかれている。多くの神々、ビダダラ・ビダダリたちが呪いや災厄から解放され、彼によってルワットされるのである。このキタブにはサンヒワン・ナワルチ、またサンヒワン・アチンティヤなる『言葉で言い表すことのできない存在』が最高位におかれ、つねにビモを守るのである。
 スラカルタ・ハディニングラト王国時代の宮廷詩人、キヤイ・ヨソディプロ1世による「キタブ・ナワルチ」は、その内部にイスラームの諸要素を挿入されて「スラット・デウォルチ」となった。それらの要素は「パモリン・カウロ・グスティPamoring Kawula Gusti 」また「マヌンガリン・カウロ・グスティ Manunggaling Kawula Gusti 」の語で、イスラーム教を奉じた「海岸」諸王国において創作されたキタブ・スルクにおいて多く用いられている。スルク suluk の語自体は、アラビア語のサラカ salaka からきており、「(トゥハン=神への)道」を意味する。
 ビモがデウォルチの体内に入ることは、「トゥハンに創られしものが、トゥハンと一体化する」ということを意味する。デウォルチの体内ではじめビモは混乱するが、デウォルチに促されて、そのジャガッド・ワリカン jagad walikan (宇宙の守護者)の中に自身を発見する。様々な教訓が与えられ、さらにビモは光るヴジョンを見る。彼は赤、黒、黄、そして白の色(の光)を見る。そして精神の本質(tyas sejati) であると語られる「ポンチョモヨ pancamaya 五つのヴィジョン」を見る。先の三つの色はヒワン・スクスモと一体になろうとする、良き行いを妨げ、抗うもの(ドゥルガマニン・ティヤス durgamaning tyas 真の障碍 )である。三つのものを滅したとき、彼は神と一つになる(白色に象徴される)。白色だけが「トゥハンと人間の合一」(Pamoring Kawulo Gusti)を指し示すのである。「スラット・デウォルチ」ではビモはポレン・バン・ビントゥル polrng bang bintulu (赤と青の格子縞)のふんどしを身に付けている。それは赤,黒、黄、白の色をもち、デウォルチの guwa garba (体内)で見たものと同じである。
 宮廷外の環境で生じたキタブの内包する(いまだヒンドゥーの息吹をもつ)思想がどうして宮廷内(イスラーム)の内に入り込んだのであろうか?

 ブリューネッセン Bruinessenは言う(1994:1-5)。
 『インドネシアにイスラームが到来したとき、スーフィズムは全盛の時代を迎えていた。結果的に、インドネシアに入った後のイスラームもその影響を受けずにはいられなかったのである。これはインドネシアでのイスラーム思想の発展がスーフィー的色合いを帯びていることから明らかである……。
 ヒンドゥー・ブッダの神秘主義になれた島々の共同体は、イスラーム原理主義に比して、このイスラーム神秘主義を採用するほうが無理がなかったであろう。ヒンドゥー・ブッダ神秘主義の伝統とスフィーは類似点が多く、この近似が宮廷文化圏がイスラームを採用し、従来の伝統を用いてそれを育むことを容易ならしめたのである。

 イブン・アラビ Ibn 'Arabi' のスーフィズムの形而上的教義や宇宙観は容易に神秘主義の観念と同化した。インサン・カミル Insan Kamil の概念は、地域の権力者に、神秘主義の正当性に寄与するポテンシャルを与えたのである……。』

 インドネシアへのイスラームの到来は、スーフィズムの発展と同時期でありタレカット tarekat (神秘的道標)と呼ばれるものが現れる。この流派は、イスラームの導入を展開させる役割を担い、東部地域からインドネシアに入った。マルタバット・トゥジュ Martabat Tujuh の学説に基づいた形而上的、象徴的理念として発展したスーフィズム的イスラームの教義はジャワの人々の支持を得て信仰されるようになった。(Bruinessen1994:10-11)
 早期スラカルタ王国時代、「スラット・デウォルチ」は、おおいに支持された。民衆からの多くの反応と需要を得て、フィードバックを受けて変換され、様々な文学作品を生み出し、そこではイスラームの教義が想起されたのである。そのひとつが、キヤイ・ヨソディプロの孫 R.Ng.ロンゴワルシトが1845-1875年に構成した「ビモ・スチ」である。
R.Ng.ロンゴワルシトの「ビモ・スチ」以外にも「ビモスチ」は Bima Suci Ing Dalem Pustakaraja Oancakrama、Bima Suci Ing Dalem Pustakaraja Mahadarma、Bima Suci Sinuraos Imaratipun Ing Dalem Wewiridan(簡略版 Bima Suci Wirid)等多くのテキストが「スラット・デウォルチ」の教義に基づく後続として生まれた。
 ビモ・スチ・ウィリッドでは、ビモはティルト・パウィトロをグヌン・レクソムコへ探しに行く。これはマーリファ(Maklifat 霊知・神秘的知識)を求める道程であると語られる。ラクササ、ルクムコとルクモコロを殺すことは、バイタル・マクムル Bait-al-Makmur とバイタル・ムカダス Bait-al-Mukaddas (天国の門)を開くことになぞらえられる。大蛇ヌムブルウォノ殺害は感情を殺すことであると語られ、サン・デウォ・ルチと出会うことはザット・スジャティ Dzat Sejati (真実なる身体)と出会うことである。デウォ・ルチへのguwagarba(体内に入る)はビモがインサン・カミル、すなわち完全なる人間となったことを意味する。
 1923年にKRT ウレクソディニングラト Wreksadiningrat の構成した「スラット・ランパハン・ビモロドロSerat Lampahan Bima Rodra」が出た。このキタブではビモはイスラーム教を教えるプンデタ(僧侶)となる。彼はシャリカット Syarikat、タリカット Tarikat、ハケカット Hakekat、マーリファ Ma'rifat を教える。このキタブによれば、シャリカットとは『身体の行為』であり、タレカットとは『精神の行為』、ハケカットは『トゥハンの存在』を知ることを意味する。そしてマーリファとは『ふたつがひとつになること(roroning atungal)』である。ビモの腰巻きの色、ポレン・バン・ビントゥルの意味するところは次のようなものである。黒はアラマ alamah (傲慢)の欲望の象徴であり、赤はアマラ amarah の欲望で怒りにつながる。黄はスピヤ supiyah の欲望すなわち肉欲を象徴する。一方、白はムトマイナ mutmainah すなわち、トゥハンから与えられる全てに対する感謝を象徴する。
 その後、ジャワ歴1867年、西暦1936年にTjan Tju An によって「スラット・ビモ・ブンクス」が書かれ、サンコロ sankala (言葉や文字に隠された神の(トゥルス・ガティ・エスティ・トゥンガル Trus gati esti tunggal 真摯に唯一のものを求めること)が付加された。その内容はモジョパイト時代の「ビモ・ブンクス」の物語から生まれた幾多のものを組み合わせて構成されている。「ビモ・ブンクス」は20世紀初頭に、幾多の変容を経験した。KGPAA マンクヌガラン4世による「LampahanBima Bungkus」、R.Ng.ロンゴワルシトの「Bima Suci Wirid」は「インサン・カミル」の誕生を語った。キヤイ・ヨソディプロの「スラット・デウォルチ」におけるパモリン・カウロ・グスティに対するデウォルチの教えは、零からの人間形成過程の諸段階、完全なる人間「インサン・カミル」の段階に到達するまでの「マルタバト・アカディアト martabat akhadiyat」を説明する「マルタバト・トゥジュ」を増補している。完全なる人間を目指す者は、八種の精神状態を得る。「ロ・イラピ」、「ロ・ロバニ」、「ロ・ロカニ」、「ロ・ヌラニ」、「ロ・クドゥス」、「ロ・ラフマニ」、「ロ・ジャスマニ」、「ロ・ナバティ」、そして「ロ・ルワニ」である。
このイスラーム・スーフィズムの教義を内包する、「スラット・デウォルチ」の核心部分が発展し続けたことは、さまざまな文学作品やその作品で語られる部分部分を見ることで証明される。「スルク・ビモスチ」、「Bima Suci Kawewahan Bawarasanipun Peksi gemak,Berkutut,lan Platuk」のように。「ババッド・タナ・ジャウィ Banad Tana Jawi」でセ・マグリビ Seh mahgribi がセ・マラヤ Seh Malaya にした説教、「スラット・ワリソノ Serat Walisana」ナビ・キリル Nabi Kilir がセ・マラヤにした説教「スラット・カンチル・アモンプロジョ Serat Kancil Aongpraja」と『スラット・カンチル・クリドマルトノ Serat Kancil Kridhamartana 」でサン・ケオン Sang Keong がサン・カンチル Sang Kancil にした説教、「スラット・プストコロジョ・マハパトロ Serat pustakaraja Mahaparta 」においてルシ・ビヨソ Resi Byasa が不具の子イリヤ Ilya に出会う、「チプト・グガ Cipta-gugah 」においてワデン・アビヨソが不具の人と出会う、そして、「スラット・ヒダヤットジャティ Serat Hidayatjati 」でのスナン・カリジョゴの教え。すべてはビモとデウォルチの場合と同じく、二人の当事者の間で交わされる対話である。また、「スラット・チェボレ Serat Cebolek 」においても、イスラームから外れた教義を教えられたキヤイ・ムットマキン Kyai Nuttamakin は許され、罰をうけることはない。デウォルチの教えを用いて自身を保つことが出来たからであるとされる。
 たとえばビモが海に入ってデウォルチと出会い、その体内に入るといった、デウォルチにおいて述べられたような物語のパターンをわれわれはさまざまなテキストに見いだすことが出来る。「スラット・デウォルチ」において、ビモが彼の小指よりも小さなデウォルチに入るよう命じられた時、ビモはかたくなになり、拒もうとした。しかしついにデウォルチを信じて彼の体内に入り、教理を得る。
 セ・マラヤがその師、スナン・ボナンにメッカ巡礼を命じられたときの話にもほとんど同じ文言がみられる。セ・マラヤが海に飛び込むことを逡巡すると、そこにナビ・キリルが訪れ、生の真理と完全性の摂理を説く。その文言は「スラット・デウォルチ」で見られるものとほぼ同じである。以下に記す。

 ナビ・キリルはまっすぐに問うた
 山々と
 海と森
 それらすべてを包む大地
 そして汝
 いずれがより大きなものか
 まだいっぱいになってはいない
 我が体内に入れ
 セ・マラヤはこれを聞き
 おそれおののいたが、承知し
 サン・マルブドゥンガルに入った

 「スラット・カンチル・クリドマルトノ」の写本には、カンチルにたいして、師であるカタツムリが教説をあたえる。それは文言の音によって魂に直接理解させるものである(ゆえに翻訳不可能である)。

Garbaningsun lebonana,
kancil kagyat matur aris,
ing pundi margi kawula,
reh amba ageng tur inggil,
tinimbang ian kiyai,
buntut kawula kang pucuk,
yekti mangsa sedhenga,
keyong mesem nabda ris,
gedhe endi sira lan gumlaring jagad
Sakurebing dirga loka,
kang isi surya sitengsi,
salimah isining donya,
tan sesak ring garba mami,
yen manjing lobok pasthi,
 (……等々)

 比較として、ここに示す「スラット・チェボレック」から抜粋したテキストもまた「スラット・デウォルチ」の引用である(意味するところは同じであるから、翻訳は示さない)。

Angandika malih Dewaruci,
gedhe endi sira lawan jagad,
kabeh iki saisine,
kalawun gunungipun,
samodra alase sami,
tan sesak lumebuwa,
guwa garbaningsung,.......

 以上、イスラーム・スーフィズムの教義がどのように「スラット・デウォルチ」に魂をこめたのか、また、そのとき民衆が「スラット・デウォルチ」において示された教義を彼らの生活の哲学と一致させて感じ取り、「スラット・デウォルチ」がおおきなレスポンスを受けたということを示した。
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by gatotkaca | 2011-08-05 00:54 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ビモの肖像全史 その2

(承前)

 またアディパルワからは、「キドゥン・ビーマスワルガ」に発展するパンドゥ逝去のエピソードもある。これはモジョパイト末期に成立し、後のジャワ新王朝時代に演目「パンドゥ・ポポ」となる。この物語でビモは、父パンドゥ、義母マドリムをルワットし、ブレグボドBlegebada の地獄から天界へと昇らせるのである。1500〜1619年に「キタブ・ナワルチ」が成立する。その内容は以下のようなものである。ビモは、師ダンヒワン・ドゥルノの命令で『ブルマハ・パウィトロ』を探すこととなった。それは物質的生命に対する教えを見つけるための要求だった。探索の旅の途中で彼は、呪いをかけられた神々やビダダラ、ビダダリ(天界の妖精)たちをルワットする。
 「キタブ・ナワルチ」には興味深い点がいくつかある。著者はどこからこの作品の発想を得たのか?「バヌマハパウィトロ」という要素、ルワットという要素、登場人物の行為とその選択、会話、そして各々のエピソードの主題など。
 「バヌマハパウィトロ」の要素は、アディパルワにある神々とアスラたちがクシラルナワ Ksirarnawa の中にアムリタを探すというのがある。「ナワルチ」では、アマルタを探すのは神々やアスラたちではなく、探すことを命じられるのはビモである。ルワットは「キタブ・ビーマスワルガ」と「ビマ・ブンクス」に見いだせる。「ナワルチ」と先の二作品はどちらがより古いものなのであろうか?
 ビモが主役として取り上げられたのは、おそらく彼がマハーバラタの登場人物として著名であったことによる。ビモがナワルチの体内に入って会話するのは、ワナ・パルワにおいてルシ・マールカデーヤがウィスヌの体内に入る場面と相似する。各エピソードのテーマは古代メソポタミアのギルガメシュ叙事詩と類似している。半神半人のギルガメシュ王が永遠の生命を探しに行く、洪水から助かることの出来た者ウトナピシュティムと出会う、ギルガメシュが島に到着する、彼が見つけた生命の木を盗む蛇と出会うといったように。ギルガメシュ叙事詩はバビロニアを征服した際、ペルシアにもたらされた。
 この叙事詩の主題がインドネシアにもたらされたのはおそらく、13世紀にモジョパイトと交易したクラメシュ Kuramesh の商人たちによってであろう。あるいは、ペルシアからインド経由でグジャラートの商人たちによるものか?そのようにしてギルガメシュ叙事詩の諸要素はナワルチに混入されたのであろう。
ルワットを主題とした文学作品、ナワルチ、ビーマスワルゴ、ビモ・ブンクスはほぼ同じ時期、すなわちモジョパイト末期に成立したと思われる。
 同時代にはビモの石像や浮き彫りが多数製作された。それらは一般的には山の斜面に対面して設置されている。モジョパイト末期には少なくとも十体のビモ像が存在する。中でもチャンディ・スクの石像や浮き彫りは、「ビーマスワルガ」「ビモブンクス」「ソドモロ」のエピソードを描いている。それはルワットの物語を構成する(サデウォによるルワットも含む)。グヌン・プナングンガンでは、浮き彫りにおいては、ビモが海に向かう場面、キタブ・ナワルチの一エピソードが描かれ、それはクンダリソド寺院群に彫られている。残念なことにそれらの浮き彫りは現在失われてしまった。ビモの石像群はディクソdiksa の儀式(罪業を滅失させる儀式)の場所にある。チャンディ・スクの石像のように(サンティコ Santiko 1995:133)。それらは敬神とご利益、ナダル nadarとカウル kaul の場のために用いられた。これはトゥンガングリ Tunggangri、グヌット Ngunut のビモの石像にクムバン・ボレ Kembang boreh(クリーム色の花)がおかれることで示される。研究者のひとり、ネーベルKnebel がその石像を訪問した時に(これを発見した? 訳者追補)(Stutterheim 1956:112)。
 研究されたビモの石像の80%以上が性器を露出していた。これは、すでに存在したリンガ崇拝と関係があると考えられる。モジョパイト時代にはリンガ崇拝に関わる五つの行事があった。すなわち、グムポル Gempol 村に対するプラサスティ・グラワン Prasasti Nglawan、サカ歴1370年のプラサスティ・サミロノ Prasasti Samirono、サカ歴1371年のプラサスティ・パレマラン Palemaran、サカ歴1380年のプラサスティ・タミアジェン Tamiajeng、そして西暦1296年のプラサスティ・スカマルト Sukamarta である(Santiko1994:12-14)
 ここにおいて、ビモはなぜリンガ崇拝と関連するのだろうか?一方でリンガつまりファルス(ペニス)はシヴァイズムにおける崇拝の対象であり(バンダルカル 1913:114)、デワンダルマハートミヤ Dewandarumahatmya において考えられているように、確かにシヴァのファルスから生じた。
 ブラフマンダプラーナ Brahmandapurana において、シヴァは九つの名を持つと語られる。すなわち、ルドラ、バヴァ、シャルヴァ、イーシャ(パシュパティ)、ビーマ、ウグラ、そしてマハーデーヴァである。一目でビーマ(パンダワの一員、ヒワン・バユの息子)とビーマ(シヴァ)は結びつく。バーンダルカルBhandarkar の書(1913:102)において、ルドラと呼ばれる憤怒相のシヴァは、咆哮しながら回転し、ハリケーン(マルト)をもたらし、子供たち(ルドリヤ)をつくる。マルトもまた、バユと同じく風を意味するのである。
 真実、モジョパイト時代よりもはるか以前、リンガ崇拝に関連するプラサスティが発見されている。それはプラサスティ・チャンガル Canggal とプラサスティ・ディノヨ Dinoyo である。プラサスティ・チャンガルはサカ歴654年(西暦732年)に形成され、マタラム古王国のサンジャヤ王によって発布された。このプラサスティはグヌン・ウキル、マゲランのサラム地区、カディルウィ村チャンガル村落のチャンディの廃墟から発見された(Sangkar, 1971:15)。プロボチャロコはヨグヤカルタ,スレマン地区のチャンガルという。一方プササスティ・ディノヨまたプラサスティ・カンジュルハン Kanjuruhan はサカ歴682年(西暦760年)に形成された。このプラサスティは発見されたとき、破損して三つの部分に分かれていたが、一部分が1904年にディノヨ村でレイディエ・マルヴィル Leydie Malville によって発見された。二つ目の部分は1923年ムルジョサリ Merjosari 村でC.W.モーレンブレッシャー Maurenbrecher によって発見された(Sdr.M.Cahyono からの口頭での情報によれば、一部分がKejuron村から、[おそらく先のKanjuruhanよりも古い、このプラサスティはプラサスティ・カンジュルハンとも呼ばれる]、もう一部分がディノヨ村とムルジョヨ村から発見された)。現在このプラサスティはジャカルタ民族博物館にある。であるから、モジョパイト末期のビモ像は、「ルワットする者」ということになる。
 初期スラカルタ時代に、キヤイ・ヨソディプロ一世によって「カカウィン・バラタユダ」をもとにして、「スラット・バラタユダ」が作られた。その内容は「カカウィン・バラタユダ」と大きな差はなく、ビモの造形も同様である。しかし、削除されたところもある。それは、パンダワが戦争の途中で、一時停戦しバイラヴァに拝跪する儀式を行ったと語られる部分である(詩編23. 7−8)。同じ著者による「スラット・デウォルチ」も「キタブ・ナワルチ」を基にしているが、同様である。「スラット・バラタユダ」同様に、ヒンドゥー的要素は排除され、「スラット・デウォルチ」においては「スルク suluk」の書で通常使用される用語、パモリン・カウロ・グスティ Pamoring Kawulo Gusti が語られる。スラット・スルク作品は大部分が、ジャワ北海岸のイスラム諸王国で書かれた。それゆえ、それらの作品は「海岸文化」と呼ばれる。「スラット・デウォルチ」は文学作品にイスラム神秘主義を付加する種類のものとして発展した。それで初期スラカルタ時代には、ビモの人物像は戦争における英雄であり、イスラム教の教えに基づく人生の真理を探究する者となった。
 19-20世紀には、「スラット・バラタユダ」のエピソードを取り上げたワヤンの演目群が発展した。また、「ビーマスワルゴ」(ラコン「パンドゥ・ポポ」)「ビモ・ブンクス」(ラコン「ビモ・ブンクス」)また「スラット・デウォルチ」の物語からのものもある。ワヤンの演目群におけるビモ像は変化せず、初期スラカルタ時代のビモ像と合致している。
 1930年代、このようなビモ像を反映する演目群は、Ir.Moensの収集したラコン群の写本としてまとめられた。ラコン群は500弱にもおよぶ大量のものであり、その大部分はヨグヤカルタ、スントロ Sentolo のダラン、ウィディ・プライトノ Widi Prayitna によって上演(執筆?)されたものである。グルントゥン Grenteng 、パクトウォジョ pakutwaja 、ポンチョ・カキ Panca Kaki kak 各村のダランたちも記されている。その際、Ir.Moensは中部ジャワで一般民衆に信じられているビモ像が動物の姿をした良き精霊として作物の害虫と関わる役割を担っている、ということについて調べていた。現在このコレクションはオランダ、ライデン大学出版にある。そこでの物語には神話学的関連を持つ民話と動物の物語を当てはめて形成されている。
 試みに五つのラコンを取り上げてみよう。「ラコン・ビモ・ビロウォ」、「ラコン・ビモ・カチュップ」、「ワコン・ビモ・トゥラック」、「ラコン・ビモ・メダムル」そして「ラコン・ダムリプン・レパン・スラユ」である。
 ラコンBima Birawaのコンセプトはルワットであり、ラクササ王ビモ・ビロウォがウルクドロの体内に入り一体化する。ビロウォの名は「カカウィン・バラタユダ」におけるバイラヴァへの敬神を想起させる。また、シンゴサリ、モジョパイト時代の、バイラヴァ流派と関連する石像やプラサスティも。チャンディ・シンゴサリではバイラヴァ像が発見されている(バイラヴァ像は三体あり、一つはライデン博物館、これに並んでいたパールヴァーティ像はシンゴサリにある。チャムンディ(チャームンダー=ドゥルガーの憤怒相)を従えていたものはトロウラン博物館にある)。ジャカルタ・ナチョナル博物館のバイラヴァ像は、アディーティヤヴァルマン(アディーティヤ神群)のシムボルとしてひじょうに巨大なものである。
 ラコンBima Kacepではビモがデウィ・ウモと結婚することが語られる。これはバトロ・グルの知るところとなり、ビモの性器は切り落とされる。後にそれは、アンキン・ゴブルAngking Gobel というクリスとなる。そのクリスは害虫、とくに稲の害虫を除くものとして使われる。
  ラコン Bima Tulak はビモとその子ども、妻たちが水田の稲の害虫を、裸になって田を囲んで駆除する。ビモは先頭に立ち、最後にはその性器が光り、水田の害虫たちを焼き尽くす。
 ラコン Bima Medamel ではビモとパンダワたちが水田を開拓する。ビモはデウォルチからの啓示でクタン・ゴンディル( ketan Gondhil=ketan もち米、gondhil はげ)の稲を植える。彼はそれをジャワの王たちに伝えることに成功する。
 ラコンDamelipun Lepen Serayu の物語ではクロウォたちと運河建設の競争をする。クロウォたち百人はボゴウォント Bogowonto川を作る。パンダワはスラユ Serayu 川を作るが、その仕事のほとんどはビモひとりが行う。ビモは素早く性器を勃起させ、大地を掘り起こし、クロウォたちより早く川ができる。
 これらの演目群は、民話や民間信仰と関わりがある。ー今にいたるも、村の母たちによって夜から朝への旅路で幼い子どもに与えられ、受け渡される。精霊たちの邪魔だてがないようにカインは膝上に上げらるー。リンガ崇拝のコンセプトや、神話の肥沃さが、性器の機能を強調するのである。このことは、リンガ崇拝が、モジョパイト末期のみならず、8世紀のプラサスティ・チャンガルやプラサスティ・ディノヨにおいても見いだせることを想起させる。
 Ir.Moensのコレクションした演目群には、ビモと様々な怪物たちのセックスが強調されている。セックスの儀式は、生殖活動のみならず、バイラヴァ派の儀式の一部でもある。これはマハスカMahasuka (究極の至福)のコンセプトとも関連する。「スカ」に感謝を捧げるセックスは喜びの俗事である。これはマテリアルとフィジカルからなる一時性を認識する方法を説明する。制限を認識するために、人はある種の儀式を行う。限りある地上の喜びを感じることができるように。たとえばセックス、飲食。他に結婚もまたルワットの儀式として取り上げられる。それは低いレベルにある生き物たちをより高いレベルへと押し上げるのである。
 これらの演目群の存在は、モジョパイト末期のリンガ崇拝、バイラヴァ崇拝、そしてルワットにある「カレパサン・ジウォ kalepasan jiwa =魂の解放」と関連すると理解される。
 イスラムの到来で、バイラヴァ派によって行われていた儀式やヨーガの実践はもはや行われなくなった。しかしセックスにはじまる「kalepasan jiwa」の概念はまだ忘れられていない。これは「ダルモガンドゥル Darmogandul」 、「ガトロチョ Gaatholoco」「スラット・スルク」(Akkeren 1951)、「スルク・レベ・ロンタン Suluk Lebe Lontang 」(Zoetmulder,1990:2274-8; 280-1)など数種のスラット・スルクの存在によって示される。セックスと関連する演目群は、kalepasan jiwaの概念がヒンドゥー・ブッダ時代にも存在したことを示している。しかしイスラムの到来で、その概念の応用と知識は閉じ込められた。だが、全てを知る者が少数存在し、その概念は物語に現れもしたが、もはや断片的で完全なものではなかった。神話的要素は潜在的な底流となり、時折現れることとなった。
 Moensコレクションの諸ラコンの語りの手法は、「スラット・バラタユダ」また「スラット・デウォルチ」から採られたラコン群とは異なって見える。言葉も描き方も同様にこの写本集では定型的で、単純である。これらの物語の基づく環境は、村落のものであり、これらは村のダランたちによって作られたものであると考えられる。
 独立後の時代、1970年代には、一人の人物の誕生から死までを語る、バンジャラン演目群が現れる。これらの演目は既にある演目に基づいて構成される。スラカルタ王国時代に創案された諸演目が取り上げられるため、ビモの人物像に変化は生じていない。


1)Wibowo(1992:150)によれば、ラコン「Bima Kumara」は現在のラコン「ビモ・ブンクス」とほとんど同じものであり、チュリタ・ルワットに属する。バリでは今も『Bima Kumara」と題するラコンがあり、上演される内容に変わりがない。
2)これについてヴァーユは最初、ナーラヤナが目覚め、宇宙の夜が終わったとき、ブラフマから変化したという(Zimmer, 1953:51)。ブラフマはヴァーユとなり、海上に移動し、海中に入って大海から陸地を持ち上げた。これは生命と運動の起源であり、ここで風が完全なるものとして吸入される。(The Salvation of the King in the Mahabharata."dalam contributions to the Indian Sociology.New Series. Vol.15 Numbers 1 and 2.January-December 1981,p.91)
(了)
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by gatotkaca | 2011-08-03 17:37 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ビモの肖像全史 その1

 続いて、ウォロ・アルヤンディニ氏の "CITRA BIMA SEPANJANG ZAMAN" を紹介する。
 これはビモ説話通史ともいえる内容で、とっても便利かつ貴重な資料である。

ビモの肖像全史
Woro Aryandini S.(FSUI)

ビモの名が最初に言及されるのは、908年、マタラム古王国のディヤ・バリトゥン Dyah Balitung 王の治世に成立したプラサスティ(碑文)・ウカジョノ Wukajana においてである。
 その碑文では以下の如く語られる。
 「かくて希望に応じて、タンキルスギ Tangkilsugih 村でマミドゥmamidu (歌)の上演があった。シ・ナル Si Nalu がビーマ・クマラ Bhima Kmara を語りながら、キーチャカ Kicaka (の役)を踊る。シ・ジャル Jaluk はラマヤナを物語りながら、楽器を奏し、冗談を言う。シ・ムム Mukmuk とシ・ガリギGaligi がヒワン(神)のためにビーマ・クマラの物語のダランをした。」(Titi S.Nastiti,1995:383)

 この碑文には、ビーマとキーチャカの名がある。この二人の人物は、ウィロトパルウォの物語に現れる。これがジャワ古語に訳され、著されるのはカウリパン(クリパン) Kahuripan 王国のダルモウォンソ王の時代になってからであり、その治世は991〜1016年であるから、この時点ではビーマとキーチャカに関する物語は口承のものであると考えられる。
 碑文作成の行事は、ダリンナン Dalinnan 村がこの地域の僧院の維持費に割り当てられる税の徴収を免れるという王の決定に関連している。
 ウカジョノ碑文に述べられている、演目ビーマ・クマラの採用は、これがどんな演目でもいいというものではなく、この催しに合致するものだからであり、これがルワタンの物語だからである。ここでルワットされるのは、この行政区に移動する、ウカジョノ村、トゥムパン村、ウルトゥル村である。この行政地域移動は、その三つの村の生活に物理的にも精神的にも動揺を引き起こした。望まぬ自体を起こさぬための処置のひとつとして、上記演目を採用したワヤン上演が催されたのである。(Wibowo1992:159) ウィボウォの結論は、ヒワン(神)を対象とするワヤン上演について述べる碑文の文章によって強化される。
 809年に作成された碑文が、ワヤン上演に言及しているということは、アイルランガ王(治世1019〜1042年)の時代の「カカウィン・アルジュノ・ウィウォホ」でのそれがワヤン上演に対する最初の言及であるとするのは適切ではないことが仮定される。
 碑文はまた同時にビーマの人物像に、彼の物語がいくつかの村をルワットすることができると看做されるほどの超自然的な強さをもたせようとしている。
 ダルモウォンソ王(在位991〜1016年)の時代に、マハーバーラタの諸パルワ(パルヴァン=編)がジャワ古語に翻訳された。ビモの物語が含まれているパルワは、アディ・パルワ、ウィロト・パルワ、ウディヨーガ・パルワそしてプラスタニカ・パルワである。前述の三つのパルワでビモの物語は強靭な人間、肉体も精神もすぐれ、一族と社会の保護者、一族の希望を叶える者、そして戦における英雄としての彼を描く。この物語は、1157年、クディリ国王ジョヨボヨの時代にムプ・スダとムプ・パヌルにによって書かれた「カカウィン・バラタユダ」によって強化される。このカカウィンはウディヨーガ・パルワのあるエピソードを展開,発展させて作られた。肉体的強靭さは、彼が母と兄弟たちを焼かれた樹脂でできた家から助け、運び出す場面においてことさら示される。このエピソードでは、彼がいかに一族を愛し、大切にするかが示されている。その精神的強さは、彼がガンダルウォに変身してヨガをおこない、キーチャカ将軍の虐待からサイリンドリ(本当はドゥルパディ)を守るさまを通して描かれている。
 追加部分がビモの物語を補っている。ビモはバユ(ヴァーユ)神の「息子」である。かの神は生きとし生けるもの全てを吸い込む大気の支配者である。ウダラ(大気)とは、活力の源であり、生命の始まりと終わりの顕現であり、欲望を支配し浮かび上がらせる運動である。欲望(コモ=カーマ)の諸要素の存在なくして生じる大地の生命は存在しない。ヴァーユはまた破壊者プラバンジャナとしても知られる。それは最も恐るべきその姿において物理的力の象徴である。カーマはあきらかに、ビーマがシヴァ・バイラワとして認識されるときに示される(モジョパイト時代)。彼はエロス的人物でありながら、同時に禁欲的人物でもある(石像、浮き彫り、そして後述するIr.モーエンス Moens の収集した演目集において示されている)。生への渇望には強靭さが必要である。というのもそれぞれの生き物はより強いものによって脅かされ続ける存在であるからだ。なかでもビモ・コモ kama は人間の最大の目的となる。コモを召喚して自身と他の人を聖化するのである。これこそがヴァーユからビモが生まれた意味である。何故彼は戦争において、敵に対して残酷で恐るべき行為をなすのか(ドゥルソソノ、ドゥルユドノその他に対して)。また戦争の外においても(ジョロソンド、キーチャカ、そしてたくさんのラクササに対して)。それが、弱い者を守るという、サトリヨのダルマとして必要とされる行為だからである。虐待から民を守るということ、例えば、特に石器作りのバラモンを保護し、ラクササのボコからエコチョクロの民を守り、キーチャカの権力からサイリンドリを守る、などである。この一見残酷な行いは、クレスノによってダルマに合致するものであると説明される。
 プラスタニカパルワにおけるビモ像は、宗教的な事柄、つまり死の問題について知ることを切望する人物として描かれる。その兄弟たちがたおれていく度に、彼はユディスティロに尋ねる。兄弟それぞれの死の原因は何なのか、と。
 彼がまだ母に抱かれる赤ん坊であった頃の物語が、アディパルワにある。クンティーが虎の声を聞いて驚き、ビマセナは石の上に放り投げられてしまった。しかし、その石は砕け散ったのであった。モジョパイト末期に、この秘跡は、「ビモブンクス」という物語に展開し、ジャワ新王朝時代、KGPAA・マンクヌゴロ7世によって、演目「ビモ・ブンクス」として構成された。1936年にはイスラム(理念)を取り入れた「スラット・ビモ・ブンクス」が現れる。モジョパイト時代の「ビモ・ブンクス」、またワヤンの演目におけるビモの人物像は、超自然的な強靭さをそなえた人物とされた。それゆえ、ブンクスの中の彼はストラゴンドマユの森で苦行する。その後、ヒワン・グルの息子、ガジャセノの魂を体内に宿すことになる。ガジャセノはブンクスを破ることに成功したが、彼自身は消えてしまったのである。この物語はルワットの行事と関連がある。獣の姿のガジャセノはビモと一体となることで、ルワットされる。「スラット・ビモ・ブンクス」においてビモはインサン・カミル、完全なる人間となる、と語られる。
(つづく)
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by gatotkaca | 2011-08-02 21:39 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

モジョパイト時代のビーマ

 ビモのラコン(演目)を調べようと「チュムポロ ビモ特集号」( Cempala edisi:Bima 1996,Humas PEPADI Pusat ,Jakarta)を読んでいたら、目から鱗がぼろぼろ落ちる事態となった。
 ビモの図像的特徴であるポンチョノコ(ビモの拳から出る一本の長い爪)の説明ひとつでも、間違い・認識不足が多々あることがわかった。というわけで、「チュムポロ ビモ特集号」に掲載されていた各論文をもとに、もう一度ビモというキャラクターを整理しておきたい。こちらの私見に対する批判を受けるための準備として、知識共有を前提とするために、以下参考論文の拙訳をまずはご紹介しておく(引用と解釈してください)。そのうえで、あらためてビモのキャラクター論を整理してみたい。

 まずは、第一弾。サンティコ氏の論説は、モジョパイト時代のビーマ(ビモ)の需要のありかたを概説してくれている。この人の論文は前回のドゥルガー論もそうであったが、わりとわかりやすく、面白い。この論文には驚愕の事実(ぼくにとっては)が書いてありました。

モジョパイト時代のビーマ
ヒンドゥー・シヴァ教における仲介者としての姿

Hariani Santiko(UI)

前書き

 ジャワではパンダワ、コラワのキャラクターはワヤン上演(ワヤン・オラン、ワヤン・クリ)においてよく知られているし、古代ジャワ、中世ジャワの文学作品においてもまた同様である。ワヤン上演についての最古の文献は、ウコジョノ Wukajana 碑文にある。それは9世紀の古マタラム王国バリトゥンBalitung 王の治世の碑文である。その碑文は、タンキルスギ Tangkilsugih 村の村落領地確定の儀式を記している。そこでは、ウィロトパルウォ物語から採られた、ビーマ・クマラ Bhima Kumara の話が舞踊(ワヤン・トペン?)として上演されたとある。また、ワヤン・オランの上演、われわれがアイルランガ王(1019-1049年)の治世にムプ・カンワが著したアルジュノ・ウィウォホの写本に見られる、ワヤン・クリ上演についての記載もある。
 ワヤン上演以外にも、マハーバーラタの物語は文学作品としても著名である。サンスクリットで書かれたマハーバーラタの諸パルヴァン(編)が、ダルモウォンソ・トゥグ Dharmawansa Tguh の治世(10世紀)には、古代ジャワ語に訳されていた。今日見ることのできる写本は、アディパルウォ Adiparwa 、ウィロトパルウォ Wirataparwa、ウディヨガパルウォUdyogaparwa 、ビスモパルウォ Bhismaparwa 、アスロモウォソパルウォ Asramawasaparuwa 、モサラパルウォ mosalaparwa 、プラスタニコパルウォ Prasthanikaparwa 、スワルゴロハナパルウォ Swargarohahaparwa である。上記写本の物語以外でも、古代ジャワまた中世ジャワのさまざまな写本にパンダワたちを中心とした物語がある。とりわけアイルランガ王の治世にムプ・カンワによって編まれた「アルジュノ・ウィウォホ」、ムプ・スダとパヌルによって編まれた「カカウィン・バラタユダ」、ムプ・パヌルによって編まれた「カカウィン・ガトコチョスロヨ」、この二つのカカウィンは12世紀ごろ、クディリ(パンジャル)王国のジョヨボヨ王の治世に編まれた。モジョパイト時代以降、カカウィン・パルトジャジュノParthayajna 、カカウィン・コロヨウォノントコ Kalayawanantaka 、カカウィン・スバドゥラウィウォホ Subadrawiwaha 、カカウィン・クリシュノカラントコ Krsnakalantaka その他が編纂された。それらの物語の大部分は、特にモジョパイト時代のジャワのチャンディ(寺院)の壁面に刻まれている。

モジョパイト期におけるビーマの位置

 モジョパイト期のパンダワの五人の人物像において、ビーマの姿は特記すべきものである。いくつかのチャンディの壁面に彫刻された姿以外にも、ビーマの石像がいくつかあり、それはワヤンにおけるビモの姿に近い特徴を持っている。その石像の主な特徴とは次のようなものである。がっちりした体付き、直立し、大きく見開いた目、口ひげをはやし、親指に長く伸びて曲がった爪を持つ(クク・ポンチョノコ)。着衣や装飾品は最低限のものであり、ビーマが身につけているのは大きな格子縞のふんどし(ポレン poleng)だけで、これらの石像で奇妙なのは、ビーマの性器がそのふんどしからあられもなく出ていることである。ビーマの髪は「グルン・スピット・ウラン」型、また稀に「グルン・クリン」型に丸く結い上げられている。耳飾り(スンピン)を付け、いかり肩、腕輪、蛇と魚の型の腰を飾るウパウィタ(カーストを示す紐)を身に付けている。
 それらが発見された際の記録によると、それらの石像は、山の斜面に設けられた階段状のテラスに対面していたという。例えば、ラウ山の斜面にあるチャンディ・スクとチャンディ・チェト、ウィリス山の斜面にあるチャンディ・プナムピハン、後にはプナングンガン山とアルジュノ山の斜面にあるテラス状の建築物である。それらの建築物は、ルシ(僧侶)として知られる、プンデト(苦行僧)たちの所有する、聖なる建築物であった。何がビーマを他の四兄弟から突出して取り上げさせ、ルシたちからの信仰において果たした役割は何だったのだろうか?
 上記二つの問題を解決するため、我々はより以前の時代のルシたちの身元調査をしてみたい。著者の行った調査によれば、ジャワのルシには2種類ある。第一は、神話の登場人物たちで、神々と同列に扱われる者たちである。たとえば、ナーラダ、マリーチ、カシュヤパ、ヴィシュヴァミトラ、バラドヴァージャその他である。ふたつ目は、人生の第三段階(ヴァーナプラスタ)と第四段階(サンニャーサ)にある者たちである。ヒンドゥー教では、人間はその人生において四つの段階を経なければならない。第一はブラフマチャルヤ(学生期)であり、一人もしくはそれ以上の師(グル)の弟子として生きること。教育が終了した後は、子孫をもうけ、社会における役割を果たすために家庭をつくらねばならない。この人生の段階をガールハスティヤ(家住期)という。この仕事を終えた後、人は身を辞して静かなる場所、森から森、山から山へ、さまざまな所へ行き苦行する。この人生の段階をヴァーナプラスタ(林棲期)と呼ぶ。かくて第四の段階、サンニャーサとなる。悟達を得た人はどこにいても世俗的な諸事に影響を受けない。ヴァーナプラスタのレベルに達した者たちは、ルシと呼ばれる。一方、サンニャーサの者たちは、シッダルシ、マハルシ、またブラフマルシと呼ばれる。ルシたちは森の中や、他の者と離れた場所に住み、木の皮の着物(ヴァルカラダーラ)を着る。洞窟の苦行所や聖なるため池(パティルタン)の近くに住む。あるいはマンダラ(カデウォグルアン)の名で知られる、教えを伝える場所に住む。ワヤンでいう「パデポカンpadepokan 」のたぐいであろうか。マンダラ(カデウォグルアン)でルシたちは聖なる知識(ガンス・カウル Ngangsu Kawruh )をデウォグルdewaguru たるシッダルシたちから学ぶ。しかし、マンダラ(カデウォグルアン Kadewaguruan )の弟子たちは、ルシたちのみで構成されるだけでなく、他にもカキ、またエンダンと呼ばれるブラフマチャーリヤの青年たち、若い婦人たちがいる(ワヤンにおけるチャントリやエンダンの類いか?)。マンダラ(カデウォグルアン)で学ばれるのは明確な情報ではなく、彼らの宗教に関連する、シヴァシッダーンタ派のシヴァ教であった。シヴァシッダーンタ派の教えは、当初南インドからもたらされたが、ジャワにおいて変化した。サンキーヤ哲学とウパニシャッド哲学が混成したのである。この「サイヴァシッダーンタ・ジャワ」教は、シヴァ神を、3つのタットヴァ(本質)を持つクニャタアン(物質)・トゥルティンギ Kenyataan Tertinggi (至高の存在)と説く。第一のタットヴァとはすなわちシヴァタットヴァであり、ニスカラ niskala (無形)の性質を持つ。第二のタットヴァは、サダシヴァタットヴァであり、サカラ・ニスカラ sakala-niskala (有形にして無形)の性質を持つ。第三のタットヴァはサカラ sakala(有形)の性質を持ち、直接的体験と関連する。すなわち、世界の創造(ブラフマーとして表される)、世界の維持(ヴィシュヌとして表される)、そして世界の破壊(イシュラヴァとして表される)である。タットヴァの三つの象形は、ブラフマー、ヴィシュヌ、イシュラヴァの三位一体すなわちトリムルティー、あるいはトリサーマヤとして知られる。このシヴァの3サットヴァの教義は、サイヴァ・シッダンタにおいて、高位の精神的知識はすなわち瞑想に始まるモークシャ(解脱)に至る方法である。その到達にいたるため、人は至高なるザット(存在)についての聖なる知識を自分自身に与え、必要に応じて宗教儀式を具体化しなければならない。これらこそ、マンダラ(カデウォグルアン)のシッダルシたちによって説かれるところのものであろう。
そのルシたちが行うのは苦行以外に、パラマシヴァ(サン・ヒワン・アチャラパティ、サン・ヒワン・ジャガッドプラマナ、バトロ・グルその他としても表される)に対する礼拝であり、それは山の斜面、プナングンガン山、ラウ山、アルジュノ山などに設けられた聖なる建築物、階段状のテラスを通って山頂におわすものである。

 では何故、ビーマの浮き彫りや石像が、その階段状のテラスに対峙しているのか?モジョパイト時代末期、ビーマに関連する宗教説話が知られた。ナワルチ(デウォ・ルチ)とビーマ・スワルゴである。これらの物語の写本は確かに新しいものであり、モジョパイト崩潰後の時代のものであるが、二つの物語は、モジョパイト時代にすでに著名であった。チャンディ・スクでビーマ・スワルゴの浮き彫りが見られ、プナングンガン山クンダリソノの苦行所の壁にはナワルチ(デウォ・ルチ)の浮き彫りが彫られているからである。

 ビーマ・スワルゴは、ビーマが地獄の苦しみの中にいる、パンドゥとマドリムの魂を解放しようとする物語である。物語によれば、パンドウとマドリムは12年の間地獄におちている。というのも、パンドゥが生前、鹿に変じて妻と愛し合っていたあるプンデト(ブラフマハティヤ)を殺したからである。クンティの願いで、ビーマは、パンドゥとマドリムの魂を地獄から解放するため、ビーマはクンティと兄弟たちと共にヤマ神のもとへ赴いた。ビーマはヤマの軍勢と戦い、勝利した。ビーマの勝利により、パンドゥ、マドリム、その他の魂たちが解放されるという約束であった。しかし、ビーマが勝利したにもかかわらず、ヤマは約束を履行しなかった。そして魂たちは再び地獄におとされた。これを見たビーマは、直ちにシヴァ(バタラ・グル)に助けを求めた。困難を乗り越え、ビーマはパンドゥ、マドリム、そして他の魂たちを解放することに成功した。かくて全ての者は天界へ入ることができたのである。

 ナワルチ(デウォ・ルチ)の物語では、ビーマはドローナから、命の水(バニュ・パウィトロ)を探すことを命じられた。その道中でビーマは、呪いによって動物やラサクサ(ラクササ)に変身させられていた多くの神々を、呪いから解放した。ビーマはついに命の水が大海にあることを知った。そして恐れることなくビーマは海に入っていった。大蛇と格闘したのち、ビーマはある被造物と出会った。それはひじょうに小さく、親指ほどの大きさで、その姿は彼自身とそっくりであった。その被造物こそが、ヒワン・マハスクスモの顕現したデウォ・ルチであったのだ。かくてビーマは、彼の左耳からその身体の中に入った。最初彼は、果てしのない空間で自分自身と出会う。そして、太陽、大地、水、その他、世界を構成するものを見る。そしてビーマは4つの色を見た。それは、黄、赤、黒、そして白である。黄、赤、そして黒の色は良くない性質、つまり、人間がヒワン・マハスクスマと合一しようとする努力の妨げとなるものを象徴する。一方、白は平静を象徴する。それからビーマは真珠のように輝く白い人形を見る。それはヒワン・プルマナと呼ばれる。その人形こそが、自身の中にあるヒワン・スクスモの生の指針である。「カウラとグスティ」すなわち、内なるスクスモとマハスクスモを再び合一させることこそが、被造物(たる人間の生の)目的である。教訓を手にしたビーマはデウォ・ルチの体内から出て、兄弟たちのもとへ帰還した。

 上記二つの物語にでビーマは、高位の精神的英知とクルパサンkelepasan (モークシャ=解脱)を手に入れる。デウォ・ルチの物語において、ビーマは師としてのデウォ・ルチから教訓を授かる。それは生の秘議とジャガッド・アグン=大いなる世界(マクロ・コスモス)とジャガッド・アリット=極小世界(ミクロ・コスモス)の関係の本質であり、クルパサン(モークシャ)に達しようとする、知者が獲得しなければならないものなのである。それゆえ、モジョパイト末期においてルシたちによって、パナングンガン山斜面のクンダリソノの苦行所の壁面に、ビーマが海の中にいる場面の浮き彫り(デウォ・ルチ物語)が刻まれ、ビーマは成功者として掲げられ、パヌタン(グル=いわゆる師?)とされたのである。
 パヌタンとしての他、ビーマは人間とパラマシヴァの「架け橋」たる仲介者(メディエーター)として掲げられもした。先の見地から、ビーマスワルゴの物語においてパンドゥ,マドリム他の魂を地獄から解放し、バトロ・グル(パラマシヴァ)に彼らが天界へ入れるようにと願い、叶えられるという、ビーマの役割が結果として浮かび上がる。クルパサン(モークシャ)を目指すルシたちによって、聖なる仲介者、ビーマの石像が造られ、チャンディ・スクその他に設けられた階段状のテラスの前に置かれた。さらに、コロムルゴ kalamrga (カーラの頭の装飾がアーチ状にあり、その上に一対の鹿の頭がアーチ状に連なる)に縁取られたパネルにバトロ・グルに対面するビーマの場面を描いたビーマスワルゴの浮き彫りが、チャンディ・スクの入り口の扉の前に置かれてもいる。ビーマとパラマシヴァとの堅固な関係性は、ビーマの生殖器(ファルス=ペニス)があらわになっていることにも見いだせるだろう。それは、シヴァリンガとして掲げられているのである。

結論

 クンティとパンドゥの息子、ビーマは、このようにしてモジョパイト時代のルシ(苦行者)たちの間で、ひじょうに高い地位を獲得したのである。その師デウォ・ルチから生の秘議に関する英知を獲得したビーマに関連する物語は、ルシたちの心をつよくとらえた。生の秘議こそ彼らの探し求めるものだからである。それゆえビーマは、成功者の象徴また彼らのパヌタン(師)たる人物像として掲げられたのである。
 そうしてビーマは、人間とパラマシヴァの「架け橋」たる仲介者(メディエーター)となった。彼らは、ビーマスワルゴの物語で、パンドゥ、マドリムその他の魂たちを助けてくれたように、人間がクルパサン(モークシャ=解脱)に達することの手助けをもとめて祈りを捧げるのである。
Cempala edisi:Bima 1996,Humas PEPADI Pusat ,Jakarta
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by gatotkaca | 2011-08-01 10:23 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ビモ・スチ別ヴァージョン

「ビモ・スチ」のヴァージョンでエンシクロペディ版とスラット・プダランガン版は、ほぼ同じ内容だったのだが、チュムポロ版はかなり異なったプロットを採用しているので、参考までに下記に概説する。

ビモ・スチ Cempala版
 アスティノ国、プラブ・ドゥルユドノが家臣達と会議している。ビモはプダック・スミラットという庵にあり、ブガワン・ビモ・スチというプンデトとして暮らしている。彼は人生に幸福をもたらす、「魂の聖性」を全うするイルムを教えている、どうするべきかと。ワフユ・ヒダーヤト(Hidayat=手引き、指針)を手に入れ、これを解き明かすビモに教えを乞うのが良いとドゥルノがいう。しかし、スンクニは言う。コラワにとっての脅威である。ビモが弟子達を動員してコラワ殲滅を画するかもしれない。ビモのプンデトとしての活動を阻止し、滅するべきであると。ドゥルユドノはスンクニの意見をいれ、パデポアン・プダック・スミラットを攻撃することにした。
 一方、バタリ・ドゥルゴは神に拮抗しうる聖性を身につけたビモを滅するため、息子たちをパデポアン・プダック・スミラットに送る。
 プダック・スミラット山に集結したアスティノ軍を、ルシ・プラチョンドセトが迎え撃つ。カルノがルシ・プラチョンドセトを追いつめるが、アノマンが現れ、アスティノ軍は撃退される。
 アルジュノは祖父マハルシ・ウィヨソから、ビモを連れ戻すよう要請される。ウィヨソはいう。ビモにはクサトリアとしての使命がある。それは、パンダワ一族への責務である。デウィ・クンティはスンクニの皮で作った胸飾りを得るまでは胸当てをしないし、ドゥルパディは、ドゥルソソノの血で洗うまでは、その髪を結い上げることはない。これらはビモによって達成されなければならないのだ。ビモの本分はサトリヨであり、プンデトではない、と。プダック・スミラットへ向かうアルジュノはドゥルゴの息子たちを倒す。
 クルンドヨノの森にビモのアリ・アリ(胎盤)を守る黒いラクササがいた。バタリ・ドゥルゴは彼から、アリ・アリを奪い取る。バタリ・ドゥルゴがアリ・アリに生命の水、ティルト・パウィトロ をふりかけると、アリ・アリはビモと瓜二つの武将の姿となる。ドゥルゴは彼にビモ・トゥノヨの名を与え、プダック・スミラットに向かい、ビモに自分を森に打ち捨てておいた罪を問えと命じる。
パデポアン・プダック・スミラット。ブガワン・ビモ・スチが弟子たち「トゥンガル・バユ Tunggal Bayu 」に教えを説いている。弟子の顔ぶれは、アノマン、シトゥボンド象、ガルーダ・マハムビロ、ヤクソ・ジョヨウレクソである。ビモの教えは「スチ・ラハユ Suci Rahayu 」。人間のもつ五つの特性と、避けるべき六つの行為、日々行うべき八つの行為を説く。そこへビモ・トゥノヨがやって来る。ルシ・プラチョンドセト、ジョヨウレクソが迎え撃つが敗退し、ビモ・スチとビモ・トゥノヨの戦いとなる。両者の力は拮抗し、激しい戦いとなるが、ビモトゥノヨはビモスチのクク・ポンチョノコ(親指から生える長い爪)に指し貫かれる。ビモ・トゥノヨは元のアリ・アリに戻る。
 アルジュノとスマルがビモ・スチのもとへ現れ、ウィヨソの言葉を伝え、ビモを説得する。ビモは改心し、サトリヨの使命を全うするため山を下りる決意をする。プダック・スミラットはビモのアリ・アリ埋葬の地としてルシ・プラチョンドセトに託される。 
 かくてビモはアマルトに帰還し、パンダワ一族により祝福の宴が催される。(Cempala edisi:Bima 1996,Humas PEPADI Pusat ,Jakarta)

 前の2ヴァージョンでは、ビモが出家し、そのイルムを誇示することで、天界のブトロ・グルを動かす。ビモに降下したサン・ヒワン・ウェナンが、パンドゥたちの解放を約定させ、ビモは通常に戻る、という展開である。ビモがブガワンとなり出家する動機は、父たちの救済にあり、用が済めば通常に戻るつもりがある。
 このチュムポロ版では、ビモは自身の意思で出家しているようだ。アビヨソ(ウィヨソ)の反応などから察するに、ビモは出家して俗界と縁を切ろうとしているかのようである。そのビモをよってたかって、俗界へ戻し、バラタユダ(最後の大戦争)での仕事をさせようというわけである。個人的にはチュムポロ版(以下C版)のプロットの方が古態のように思える。「デウォ・ルチ」において覚醒したビモの聖性を強化しようとして、「ビモ・スチ」が作られ、C版のプロットが成立した。後にC版でのビモにある種の軟弱さを感じて、「パンドゥ・スワルゴ」の動機を取り込み、ビモの男振りを強化し直した、という成立順である。あくまで推定だが。
 ところで、C版で気になるのは、バタリ・ドゥルゴがビモと敵対するプロットが存するということである。おかげで、以前書いた「ドゥルゴ総論2011-07-23」を訂正するはめになった。
 ただ、ここでのドゥルゴの介入は、アルジュノへの敵対とは若干ニュアンスが異なるのではないかと思う。アルジュノを滅して、自身の息子デウォ・スラニをジャゴニン・デウォ(神の戦士)に据えたいという動機は、あくまでヒンドゥー世界内での敵役の範疇を出ない。C版「ビモ・スチ」でのドゥルゴの役割は、ビモがサトリヨの本分と責務(ヒンドゥー世界)を放棄してバラモンになろうとすることを止めることである。彼女は便宜上悪意を示すが、一族との絆を象徴するアリ・アリ(胎盤)をビモの分身として送り込み、彼をヒンドゥー世界に引き戻す。ビモの出家がイスラームの世界観を反映するともいえないが、少なくともワヤンの世界を崩壊させる契機にはなる(ビモが出家したままでは、お話にならないのである)。アルジュノへの敵対は、ワヤン世界のバランスを崩す契機として発動し、それが失敗に帰すことで世界が元の状態に収束する、というプロットである。それに対して、C版「ビモ・スチ」では世界のバランスを崩そうとするのは、ビモ自身の意思であり、ドゥルゴの介入と一族の説得で世界がもとにもどる。これは、本来的な意味での敵対とは異なると思うのだが、いかがなものだろう?
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by gatotkaca | 2011-07-26 08:35 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

パンダワ・ピトゥ その3 ビモ・スチ

 前回の項目2.について考えてみたい。
2.ビモが会得したイルム・カウル・パヌンガルニに対する天界との確執
 まず、イルム・カウル・パヌンガルニについてだが、さっぱりわからない。名称からすると、イルムIlum=教訓 カウル Kawruh=知識・英知に関するイルム パヌンガルニ Panunggalni=Tunggal 合一させる ということであろうから、「英知合一の教訓」となるのだろうか?いづれにしても、「デウォ・ルチ」における、ビモの覚醒を踏まえての設定ということにはなるだろう。そして、ビモが得た自身の教訓を、世界に広めようとして、天界との間(特にブトロ・グル)に確執が生じるという、このプロットには先行する演目「ビモ・スチ」がある。以下、「ビモ・スチ」のあらすじを紹介する。(エンシクロペディのヴァージョン)

ビモ・スチ Bimasuci
 ウルクドロはビモ・スチと称して、アルゴ・クロソの苦行所でプンデト(僧)となった。多くのサトリヨやプンデト(僧)は畏れと尊敬で対した。ビモがイルム・カサムプルナン、即ち生の完全生を解明する教義を体得したからである。(人は何処から来て、何処へ行くのか)。この事はバトロ・グルに邪推を起こさせた。人間たちが神に敬意を払わなくなるのではないか、と。
 バトロ・グルは、ビモ・スチのイルム(教義)を探るようバトロ・インドロに命じた。インドロは、ルシ・ドゥルポロというプンデトに姿を変えた。しかし、アルゴ・クロソに着くと、インドロはビモ・スチに心臆して、自身の任務を果たせなかった。さらにバトロ・グルとナロドでも、ビモ・スチの超能力と威厳には対抗し得ず、彼らはクレスノとプントデウォに助けを求めた。
 クレスノ、プントデウォそしてバトロ・グルは、ビモ・スチと対峙した時、彼らはサン・ルシ(ビモスチ)の額のひよめきから、輝く光が放射されるのを見た。この時、サン・ヒワン・ウェナン(唯一至高の神)がビモ・スチの体内にあり、全ての者は皆彼に跪いた。ビモスチはパンドゥとマドリムの霊魂が奈落から移されるよう求めた。バトロ・グルは了承した。かくてサン・ヒワン・ウェナンはビモ・スチの身体から去り、バトロ・グルとナロドも従ってカヤンガンへ帰った。ビモ・スチは再びウルクドロに戻った。
 このラコンはひじょうにポピュラーである。

 ここには 3.地獄におとされたパンダワの父,パンドゥと第二夫人マドリムの救出 のプロットも入っている。筆者の手元にある別ヴァージョン二種ではこのプロットは入っていないから、3.の話素は、「ビモ・スチ」の必須プロットではないと考えられる(チュムポロ「ビモ特集号」と、Srat Pedhalangan "Lampahan BIMO SUCI " Anom Sukatno ,Cendrawasih Surakarta)。筆者の手元に三種のヴァージョンがあるが、エンシクロペディ版とSrat Pedhalangan "Lampahan BIMO SUCI " Anom Sukatno ,Cendrawasih Surakarta版は3.の話素を含み、チュムポロ「ビモ特集号」版にはない。とはいえ、近年「ビモ・スチ」が「パンドゥ・スワルゴ」をプロットの一部として吸収しつつある、ということは言える。三種のヴァージョンの成立の前後は不確定ではあるが、元来は3.の話素を含まなかったのだが、近年「ビモ・スチ」が「パンドゥ・スワルゴ」をプロットの一部として吸収しつつある、ということが言えるかもしれない。*そしてその発展型として「パンダワ・ピトゥ」が現れたということではないだろうか。

 というわけで、ラコン(演目)「パンダワ・ピトゥ」は「パンドゥ・スワルゴ」+「ビモ・スチ」+αで出来た、いわば美味しいとこ取り、見せ場いっぱいの豪華新作ということになる。
 ただ、松本亮「ジャワ影絵芝居考」には、「パンドゥ・ポポ」での、パンダワの父パンドゥ・デウォノトが、イルム・サストロ・ジェンドロ・ユニングラトを広めようとしてブトロ・グルと対立し、ついには地獄に落とされるというプロットが紹介されているから、「パンダワ・ピトゥ」でのイルムをめぐる天界との確執、というプロットは、このパンドゥ関連のプロットをビモに当てはめたものなのかもしれない。そうであれば、「パンダワ・ピトゥ」の粉本となるのは「パンドゥ・スワルゴ」+「パンドゥ・ポポ」+αということになるだろう。

 なぜ、イルムを広めようとすると、天界との確執がおこるのか? という点は、いずれ改めて。今回はとりあえず、ラコン「パンダワ・ピトゥ」の構成要素を検討するに止めた。

*Srat Pedhalangan "Lampahan BIMO SUCI " Anom Sukatno ,Cendrawasih Surakarta はジャワ語の本なので読み落としていました。面目ない。筆者はジャワ語はまだ読めません(インドネシア語も幼児並みですが)。訂正しておきます。2011/7/26
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by gatotkaca | 2011-07-25 10:58 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

パンダワ・ピトゥ その2 パンドゥ・スワルゴ

 演目「パンダワ・ピトゥ」は、いくつかの主題を複合的に構成しているので、以下に整理してみたい。
1.パンダワとクレスノ、ボロデウォの結束=パンダワ・ピトゥ
2.ビモが会得したイルム・カウル・パヌンガルニに対する天界との確執
3.地獄におとされたパンダワの父,パンドゥと第二夫人マドリムの救出
4.残されたアルジュノの妻二人が変身して天界をおそい、結果的にはパンダワを救出する

 1.については、演目名にもなっている「パンダワ・ピトゥ」が宣言される、ということだけであって、実質的には、この演目の内容にほとんど影響しないので検討するまでもない。
 2.は別の演目「ビモ・スチ」と関連するか、あるいはパンドゥデウォノト関連のプロットを借用していると考えられる。これは次回とりあげる。

 今回は3.の主題を考えてみたい。この部分は本来、「パンダワ・ピトゥ」より以前に成立していたと思われる演目、「パンドゥ・スワルゴ Pandu Swarga」のプロットである。スワルゴは「天国」を意味し、ここではパンドゥが地獄の責め苦から解放されて、天界へ迎え入れられることとなる。「パンダワ・ピトゥ」の別名が「ビモ・スワルゴ」であることは、この演目が「パンドゥ・スワルゴ」を踏まえていることの傍証となるだろう(Bima Swarga だとビモが昇天するように誤解しそうであるが、先行する「パンドゥ・スワルゴ」との差別化のため、ビモの名を冠したのだろう)。以下、『チュムポロ』「ビモ特集号」の記載に基づき、「パンドゥ・スワルゴ」の展開を概説する。が、その前に前提となっているプロットをあらまし紹介しておく。
 パンダワ五王子の父、パンドゥデウォノト(パンドゥ)は、デウィ・クンティとデウィ・マドリムという二人の妃を迎え、盲目の兄、ダストロストロに代ってアスティノ国王に即位する。ある日、森へ狩りにでかけ、交合中の鹿を仕留める。鹿はルシ・キンドマニ(キミンドノ)の変身した姿であった(ルシは僧侶)。パンドゥの矢を受けたルシは、女と接すると死ぬという呪いをかける。呪いによって世継ぎをつくれなくなったパンドゥは、デウィ・クンティのもつ護符、神との間に子をもうけることのできるちからを借りて、ふたりの妻に子をもうけさせる。これがパンダワ五王子である。その後、パンドゥは肉欲に耐えきれなくなり、デウィ・マドリムに触れてこの世を去る。マドリムは夫の後を追い、残ったクンティが五王子を育てることとなる。

パンドゥ・スワルゴ
 アマルト国。パンダワ五王子の次男、ビモは、生前の罪により、地獄におちている父、パンドゥデウォノトを救うため、カヤンガン(天界)に昇ることを決意していた。パンドゥは、鹿に変身していたルシ・キミンドノを、それとは知らず誤って殺害した。その罪により、彼と第二夫人マドリムは、共に地獄におとされていたのである。パンドゥはかつて二度にわたって、カヤンガンを救ったことがある。ビダダリ(天界の妖精)、デウィ・スプロボとの結婚を望んで天界に攻め入ったキスケンド国王プラブ・ノゴポヨを打倒した。また、マンドゥラの武将、アルヨ・ウグロセノとデウィ・ワルシニを争った、パラングバルジョ国のプラブ・コロルチの侵略から、カヤンガンを守った。ルシ・キミンドノは鹿に変身したりしなければ、パンドゥの矢を受けて死ぬことはなかった。あくまで誤って犯した罪である。二度にわたる天界への貢献に比して、パンドゥが受けている罪は重すぎる、というのがビモの考えであった。母デウィ・クンティと兄弟たちは同意し、共にカヤンガンへ昇り、ブトロ・グルと交渉することとなったのである。
 一方、アスティノ国のプラブ・ドゥルユドノは、パンダワ五王子の不在につけ込み、アマルト国を攻めようと図るが、パンダワの息子たちに撃退される。(プラン・ガガル)
 道化たちプノカワンによるゴロゴロの場面を経て、ウィヨソとの対面を終え、その祝福を得たアルジュノは、苦行所をあとにする。
 カヤンガンへ向かうアルジュノを妨害するため、バタリ・ドゥルゴの息子、デウォスラニは配下を差し向ける。
 クルンドヨノの森でアルジュノはデウォスラニの手下をたおす。(プラン・クムバン)
 天界カヤンガン・ジュングリンサロコでパンダワたちはブトロ・グルと対面した。ビモは、パンドゥデウォノトのキミンドノ殺害への罰は、彼の天界への貢献に比して重すぎることを詰問した。その問いに対してブトロ・グルは答えた。パンドゥの罪は、キミンドノ殺害のみではない。彼はかつて、傲慢にもブトロ・グルの乗用牛、ルムブ・アンディニを借り受けたことがあり、その際神々に対して不敬をはたらいたのだ、と。しかしブトロ・グルは、息子たちのだれか一人が、天界の火山チョンドロディムコの地獄からパンドゥを救い出すことができたならば、その罪は許そうと約束した。息子の自己犠牲が、親の罪を相殺する、と。かくてビモはパンドゥを救い出すため、チョンドロディムコの火口に降りていった。兄弟たちと、デウィ・クンティも彼のあとを追った。
 危険きわまりないチョンドロディムコに飛び込もうとするビモを、クンティは止めようとする。ビモは、人の生き死には、サン・マハ・プンチプト(トゥハン・ヤン・マハ・エサ 唯一至高の神)の手の中にあるのだ、そしてひとりひとりの敬虔な神への思いをサン・マハ・プンチプトはご存知なのだ、と答え、四人の兄弟たちとスマルと共に、チョンドロディムコの火口へ飛び込んでいった。彼らが飛び込むと、パンドゥとマドリムの魂を苦しめ、猛っていた炎が静まった。スマルは言う。この奇跡は、ビモの聖性とサン・マハ・プンチプトへの敬虔さが起こしたものである、と。ビモはパンドゥとデウィ・マドリムの身体を高々と掲げ、チョンドロディムコの火口を後にした。ブトロ・グルはパンドゥとマドリムの罪を許し、彼らに天界でのすみかを用意した。かくてパンダワとクンティはアマルトへ帰還し、祝福と感謝の宴が催されたのである。

 ビモのまっすぐな気性と、親への献身を描いて、感動的な演目であると思う。ヒンドゥー世界が与える最高刑たるチョンドロディムコの炎を鎮めるのが、トゥハン・ヤン・マハ・エサを讃えるビモであるところが重要であろう。
 これが「パンダワ・ピトゥ」では、イルムを広めることに異議を申し立てたグルの意向で、まずビモとパンダワが地獄に落とされ、そこでパンドゥたちと出会う。そして天界へ攻め上って来たスムボドロ、スリカンディの変身したラクササを撃退するかわりに、父たちを解放させる、という手順になる。パンドゥ救出はなんとなく付けたしのようになっていしまい、パンドゥ救出を直接目的として天界にのり込む「パンドゥ・スワルゴ」の力強さに遠く及ばない。それにスムボドロ、スリカンディのくだりは、物語の展開がマッチポンプ式で、安易な感を否めない。パンドゥ救出のプロットは「パンドゥ・スワルゴ」のほうが優れていると思える。

(つづく)
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by gatotkaca | 2011-07-24 16:05 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

演目「パンダワ・ピトゥ」について その1

 先日、ガムラン・グループ『ランバン・サリ』のスタジオにて催された、「アジア文化講座『ワヤンの魅力を知ろう』第1回「ジャワのワヤン~上演現場から」講師:折田美木」に行ってきました。いろいろ ためになりました。ご自身が録画された、実際のワヤン上演の映像にあわせて折田さんが場面ごとに解説してくださる、という内容。折田さんの誠実なお人柄を感じさせる、好感のもてる話し振りがGood Job!な講座でした。
 さて、そこで今回取り上げられた演目が「パンドウォ(パンダワ)・ピトゥ」だったわけですが(ダランはキ・プルボ・アスモロ)、これはジャワ・オリジナルのチャランガン(ダランによる創作もの)のひとつで、けっこう著名なもの。Pituはジャワ語で数の「七」を意味します。「パンダワセブン」もしくは「パンダワ七人衆」というわけ。(カッコイイ!)わりと人気のある演目で、(多分題名がカッコイイからだと思う)、続編として「パンダワ・ソゴ(パンダワ九人衆)」というのもある。パンダワ五王子+クレスノとその兄ボロデウォ(プルボ版ではクレスノの従兄弟で子分のスティアキ)で七人衆を結成するのである(ソゴはこの七人+スマルとアノマンで九人)。でも七人衆自体はあんまり中身と関係なかったりする。
 というわけで、ルワタンの話が途中ではあるけれど、こちらを先にやることにしました。

 まずはあらすじ(またまたエンシクロペディによる)。

パンダワ・ピトゥ(パンダワ・セブン)Pandawa Pitu

 このラコンはわりと有名で、よく上演される。物語はアスティノの権力者ドゥルユドノの失望のさまから始まる。というのも、プラブ・ボロデウォが、プラブ・クレスノ同様に、とうとうパンダワと固い絆をむすんだからである。
 今やパンダワは五人ではなく七人となったのだ。(Pandawa Pitu. Pitu=7)
アマルトの宮殿で、プラブ・ボロデウォ、プラブ・クレスノはパンダワの五人とともに集まっていた。彼らはビモの話すイルム・カウル・パヌンガルニに関する教えに耳を傾けていた。
 そのイルムが広まることに神々は怒り、ブトロ・グルはブトロ・ナロドを遣わし、ビモに罰を与えるため、カヤンガンへ呼んだ。ビモは同意した。他のパンダワたちとプラブ・ボロデウォ、プラブ・クレスノは一族の運命に殉じることとした。彼らもまたカヤンガンへ共に行き、罰を受けることにしたのである。
 その頃トゥングルマラヤ国のバタリ・ドゥルゴはパンダワが罰を受けるためカヤンガンへ向った事を知り、デウォスラニにアマルト征服を命じた。デウォスラニがアルジュノに代わって、〈神の戦士=Jagoning Dewa〉となれるように。しかしデウォスラニはパンダワの息子たちに撃退されてしまった。
 マドゥコロではデウィ・スムボドロとデウィ・スリカンディが、パンダワが神の罰を受けなければならないことを大いに悲しみ、怒りを感じていた。彼女たちはかくてティウィクロモし、ブラホロ(巨大なラクササ)バドロヤクソとカンディヤクソとなった。
 二人のラスクシ(女ラクササ)はパンダワ返還を求めてカヤンガンへ向った。
 カヤンガンでは、パンダワとブトロ・グルが言い争いとなり、大いに怒ったブトロ・グルはパンダワをチョンドロディムコ火山に入れてしまった。アルジュノがチョンドロディムコの火口に入ると、全てのビダダリ(天界の美女)も後を追って飛び込んだ。
 その時、バドロヤクソとカンディヤクソがカヤンガンに到来し暴れ回った。神々は手に負えなかった。
 ブトロ・グルの許可を得て、ブトロ・ナロドはパンダワを、暴れ回る二人のブラホロに当たらせた。(ブラホロ鎮静に)成功すればパンダワの罪は無効となる。ビモは望まなかった。彼と兄弟たちは、パンドゥ・デウォノトとデウィ・マドリムが奈落から解放され天界に移されるならば、戦いに身を投じると言った。要求は満たされた。
 パンダワたちがバドロヤクソとカンディヤクソに対峙すると、二人のブラホロはデウィ・スムボドロとデウィ・スリカンディに戻った。

 プルボ版では、ボロデウォがスティアキに代えられ、スマルが超能力を使って、アルジュノのふたりの妻をラクササに変身させる。ほかは大体エンシクロペディに紹介されているプロットで上演していた。スティアキでは役不足な感があるが、まあ許せる範囲。スマルの扱いには異議がある。だいたいこのプルボ・アスモロという人は、ランバン・サリとの日本公演での「アルジュノ・ウィウォホ」でもそうだったが、スマルというキャラクターの大事な部分が分かっていない気がする。この件についても、いずれ書く。というわけで、ランバン・サリの方々には申し訳ないが、僕はこの人を一流のダラン(ダラン・スジャティ)だとは思っていない。あくまで私見だけど。
 この話は、核になる部分に元ネタ、というか別の演目があるので、その件は次回。
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by gatotkaca | 2011-07-23 17:20 | 影絵・ワヤン | Comments(0)