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タグ:ナルトサブド ( 20 ) タグの人気記事

ナルトサブドの生涯 その20・用語集

ジャワ語・用語集

ada-ada オド・オド:一〜三種あるダランの歌で、通常グンデル・ブサール gender besar とクプラ keprak 、またチュムポロ cempala の打音で伴奏される。躍動感・緊迫感を表現する。

Ada-ada Hastakuswala Ageng オド・オド・ハストクスウォロ・アグン:オド・オドの一種で、特にワヤンのパセバン・ジャウィ paseban jawi (軍隊の出陣の場)で、 パティ patih(大臣)やトゥムングン Tumenggung (指揮官)が兵たちの準備が整った後に歌われる。

Ada-ada Hastakuswala Alit オド・オド・ハストクスウォロ・アリット:オド・オドの一種で、特に王宮前広場(パセバン・ジャウィ paseban jawi )からパティ patih(大臣)やトゥムングン Tumenggung (指揮官)が出て、兵たちに出立の準備を命じる際に歌われる。

Ada-ada Slendro Nem オド・オド・スレンドロ・ヌム:ワヤン・クリ上演の最初の部分〈パッテト・ヌム Pthet Nem〉で使われるオド・オド。紛争が勃発し、戦いのために軍が出立する際、躍動感・緊張感を演出するためにダランが歌う。歌の長さの異なる三種がある。オド・オド・スラムバハン Ada-ada Srambahan は六連、オド・オド・ジュガ Ada-ada Jugag は三連、オド・オド・チェカ Ada-ada Cekak は二連から成る。

Ada-ada Slendro Sanga オド・オド・スレンドロ・ソゴ:ワヤン・クリ上演の第二部分、パテット・ソゴ pathet sanga で使われるオド・オド。歌の長さが異なる四種がある。オド・オド・ジャンクップ Ada-ada Jangkep は九詩節、他の三種の名と詩節数はオド・オド・スレンドロ・ヌムと同様である。

Adegan Limbuk-Cangik アドゥガン(場面)・リムブ・チャンギ:王と妃が食事のためにイスタナ Istana (後宮)へ入った後、ワヤンの人物、リムブとチャンギが王宮内でお喋りする場面。

adiluhung アディルフン:美しく高貴なること。伝統を守る人々にとって、舞踊、カラウィタン、ワヤンといった藝術に付されるべき性質である。

anting-anting sesotya アンティン・アンティン.スソティヤ:カルノが持つ耳飾りのプソコ(宝物)で、カルノが誕生した時、バトロ・スルヨ(太陽神)から授かった。このプソコには、これを身に付けている者にはどんな武器も通用しない、という魔力がある。このプソコは肉・皮と一体となっている。

banjaran バンジャラン:ワヤンの一人物の誕生から死までを描いた伝記的構成のラコン(演目)。

banyol バニョル:ユーモア

beksan ブサン:踊り

blangkon ブランコン:冠れるように型取りされた頭巾。そこから専門用語として発展し、語りや会話の定められた型を言う。ダランが自分で考えなくともすむようになっている。第一場面での語りや、定型の会話、ガプラン(gapuran 後宮)の場面、説教の場面などで用いられる。

blencong ブレンチョン:ワヤン・クリ上演用の伝統的ランプ。椰子油を燃料とする。

breh-weh ブレ・ウェ:寛大。過剰なまでに人に物を与えるのを好むこと。

burik ブリック:天然痘による顔のあばた。

cantrik チャントリック:ブラフマン(僧侶)の弟子。そこから専門用語として発展し、ダラン、カラウィタン、シンデンの修行のため、師の家に住み込んで学ぶ者たちのこともこう言う。授業料代わりに彼らは師匠の家の手伝いをし、師匠が上演に赴く際には従者としてついて行く。

catur チャトゥル:ワヤンにおける地語り、人物の会話、といったダランのすべての語りをチャトゥルという。

gara-gara ゴロ・ゴロ:(1)文字通りの意味では、事件のけっかとしての世界の変化、騒動、混沌を意味する。(2)ポノカワンの場面の最初で、語りとグヌンガンの動きで世界の混沌の様を描写すること。

garap ガラップ:(1)文字通りの意味は仕事。(2)藝術においては、最大限のクオリティを達成するための努力。

garap bedhayan ガラップ・ベダヤン:あるカラウィタンの歌にブドヨ budhaya 舞踊の伴奏のガラップ・グンディン・イリンガン garap gendhing iringan 〈伴奏音楽〉のパターンを使うこと。

gambyongan ガムビヨンガン:ガムビヨン舞踊をまねた四人から十人の女性による舞踊。通常はワヤン・ウォンやクトプラの上演開始用に演じられる。

gendhing グンディン:カラウィタンの曲。

gendhing budhayan グンディン・ブダヤン:ブドヨ舞踊のカラウィタンの伴奏曲。

gendhin ketawan グンディン・クタワン:カラウィタンの曲の一形式。一回のゴングgong に対し、クノン kenong が二回打たれ、一回のクノンに対してスレンテム slentem とドゥムン demung のバルンガン balungan が八音鳴るのが特徴。

gendhing ladrang グンディン・ラドラン:カラウィタンの曲の一形式。一回のゴングに対し、クノンが四回打たれ、一回のクノンに対して、八音のバルンガンが奏される。

gendhing dolanan グンディン・ドラナン:華やかな印象のカラウィタンの曲の種類。通常はヴォーカルが必要とされる。

ginem buka ギネム・ブカ:問題と直結する内容のワヤン人物たちの会話。

ginem blangkon ギネム・ブランコン:blanfkon ブランコンを見よ。

girisa ギリソ:sekar tengahan スカル・トゥガハンの一種。一編が八連からなる詩形式で、一連は八音節からなる。a の脚韻を持つ。

gerget グルグット:真摯な活気にみちていること。

janturan ジャントゥラン:二種類あるダランの語りのうち、カラウィタンが静かに演奏される中(シルプ sirep )で語られるもの。もう一つはポチョパン Pocopan といい、カラウィタンの伴奏がつかず、グンデルだけか、クプラを打ち鳴らす音のみで語る。

jejer ジェジェル:スラカルタ・スタイルのワヤン上演における最初の場面。ヨグヤカルタ・スタイルでは、王宮内の場面ごとにジェジェルと呼ぶ。

jimat ジマット:お守り。

Kawin Sikairni カウィン・シカリニ:ヨグヤカルタ・スタイルのスロアンの一種。第一場面でダランに歌われ、第二場面へつなげる。

kawula alit カウロ・アリット:平民。貴族やプリヤイではない人。

kebyar クビャール:バリのガムランの一種。

keprakan クプラアン:金属板とコタック〈ワヤン人形を入れる箱でダランの左隣に置かれる〉を足の指で挟んだチュムポロ cempala (箱やクプラを叩く木槌状の道具)もしくは足の指で叩いて音を出すこと。クプラアンの型には、バニュ・トゥムトゥス banyu tumetes 、ロムボ lamba 、シングタン singgetan がある。

kelenengan クルネガン:カラウィタンのコンサート。

kotang kawaca コタン・カウォチョ:誕生の時に、スルヨ神から授けられたカルノのプソコの襦袢。

kungkum クンクム:苦行の一種で水に浸かること。ジャワの伝統では二つの川の合流する場所が良いとされる。

Lagon Slendro Pathet Sanga ラゴン・スレンドロ・パテット・ソゴ:ヨグヤカルタ・スタイルのスロアンの一種。第一部・パテット・ヌムから第二部・パテット・ソゴへ移る合図として歌われる。

laku brata ラク・ブロト:苦行すること。

mutih ムティ:苦行のひとつ。白米以外何も食べない苦行。この種の苦行は数日間、たとえば、三日三晩、七日七夜に渡って続けられる。

ngelit グリット:苦行の一種で、真夜中に川の流れに身を浮かせる苦行。

niyaga ニヨゴ:ジャワ・ガムラン奏者。しばしばプングラウィト pengrawit と呼ばれる。

pakem パクム:ダランの手引書。ラコン(演目)のあらすじ、完全写本、ダランの手順・作業の解説など。

panakawan ポノカワン:パンダワの従者。スマル Semar 、ガレン Gareng 、ペトル Petruk 、バゴン Bagong。〈パンダワに限らず正方のクサトリアの従者である。〉

parikan パリカン:ジャワの伝統詩の一種。二連からなり最初の連はサムピラン sampiran と呼ばれ、二連目はイシ isi と呼ばれる。各連は八音節からなる。

Paseban Jawi パセバン・ジャウィ:ワヤン上演での場面のひとつ。王宮前広場の場面。

Pathet Nem Agung パテット・ヌム・アグン:スロアンの一種。パテタンの種類に入る。ワヤン上演の第一場面において、毎回最初のスロアンとして歌われる。このスロアンは13連からなる。最初の連から7連までは独立して歌われ、パテット・ヌム・ワンタ Pathet Nem Wantah と呼ばれる。

Pathet Nem Jugag パッテト・ヌム・ジュガ:パテタン・スロアンの一種。定型の会話から本筋へと雰囲気を変えるためにダランによって歌われる。

penatah プナタ:ワヤン・クリ人形の透かし彫りをする人。

pengrawit プングラウィト:niyaga ニヨゴを見よ。

penyungging プニュンギン:ワヤン人形の色を塗る専門の職人。

Perang Ampyak プラン・アムピャック:ワヤンの軍隊人形とブヌンガンの戦い。軍隊が道を切り開く様を描写する。

Perang Kembang プラン・クムバン:(1)ヨグヤカルタ・スタイルでは最初のジェジェルで起こる戦いを言う。(2)スラカルタ・スタイルのワヤンではパテット・ソゴにおける最初の戦いで、サトリアとラクササが戦う。

pesindhen プシンデン:(1)男性・女性の歌手。ブドヨ budhaya やスリムピ srimpi 舞踊の伴奏で歌う。(2)カラウィタンの女性歌手。

pucung プチュン:モチョパット macapat の一種。各連は四節からなり、第一連は12音節で脚韻は u(スク suku)、第二連は6音節からなり、脚韻は a (グレグノ nglegena )、第三連は8音節で脚韻は i (ウル wulu)、最後の連は12音節で脚韻は a である。

rangka ランコ:(1)枠。(2)クリスやトムバ tombak (槍)の鞘。

sabet サブット:(1)剣。(2)上演でのすべての人形の操作。たとえば、歩く、戦う、立つ、飛ぶ、跳ねるなど。

Sabrangan サブランガン:プラン・アムピャックの後の場面。ウィビソノやデウォスラニといった類いの王、サトリアが登場した場合はサブラン・アルン Sabran Alung と呼ばれ、体躯の大きな人物の場合は、サブラン・ガガ Sabrang Gagah という。

sajen サジェン:儀式に必要とされる供物。

sulukan スロアン:場面や人物の心情の雰囲気を盛り上げるためのダランの歌。伝統的スラカルタ・スタイルのワヤンでは、パテタン pathetan 、スンドン sendhon 、オド・オド ada-ada の三種がある。

Suluk Jingking スロ・ジンキン:ヨグヤカルタ・スタイルのスロアンの一種。通常ゴロ・ゴロの場面でスマルが退場する際の伴奏に使われる。

Suluk Plencung スロ・プレンチュン:ヨグヤカルタ・スタイルのスロアンの一種。プラン・アムピャックの終わりに歌われる。

sunggingan スンギンガン:ワヤン・クリの色構成。

tancep kayon タンチュップ・カヨン:ワヤン上演の最終場面。クリル kelir (スクリーン)中央にカヨン(グヌンガン)を立てて終わりを告げる。

wanda ウォンド:ワヤン図像を介してワヤンの人物の雰囲気や感情を表現すること。

waton ワトン:伝統藝術における基本規定。

wiraswara ウィラスウォロ:カラウィタンの男性歌手。

(スマント Sumanto 著
「ナルトサブド ワヤン界における位置付け その伝記 Narto Sabdo kehadirannya dalam dunia Pedalangan sebuah Biografi 」 終わり)
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by gatotkaca | 2012-03-22 16:13 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナルトサブドの生涯 その19

5
ナルトサブドとワヤン界:終わりに


 ワヤン界にナルトサブドが身をおいた時期は、1950年と1955年の間に始まり、1985年10月初旬までとトレースでき、推定できる。30年以上に渡ってそのワヤンとライフ・スタイルが環境の変化の様々な側面の変化と共に形を成したのである。それゆえ、それらの問題に対する説明・回答を与えることができるよう、社会の観念・教義を継承する歴史的事実のトピックに肉薄することが必要とされる。
 ナルトサブドは、当時プングラウィトたちよりもより豊かで、高い社会的地位にあったダランの生活を思って、ワヤン・クリのダランになることを目指した。さらに、彼はダランに必要とされる能力・条件をすでに身に付けていたということもある。ダランになることを決めたのには、サストロサブドの精神的励ましも含んだ後押しもあり、生活の向上、安定、社会的地位の獲得という目的のためであった。この外面的目的は、つねに低い地位にある者は高みを目指すという、人間の性質に基づいている。
 登場した始めの頃、1960年代までの彼のワヤンはキ・プジョスマルトのワヤン・スタイルに倣ったものであった。それは、プングラウィトから転身する過程において、ダランという新しい職業の適格がどのようなものであるかを見極めるため、そのワヤン・スタイルを基準としたからである。彼のワヤンの独自性は1961年あたりから形を成し始め、ワヤンの諸要素の変革が見られるようになる。語りと会話(チャトゥル catur )、スロアン、グンディン、クプラアン、上演の構成、またワヤン人物のキャラクターの確立、そして『伝記物(バンジャラン) banjaran 』のラコンの創案などである。
 こういった変革は、ナルトサブドがワヤンの中に、他の地域のワヤン・スタイル、カラウィタンといった諸要素を吸収し、活用する道を開いたことで可能となったものである。その時代の新しい視点は、特に政府の政策プログラムの色合いをもったカラウィタンの作品に表れている。幾多の変革でナルトサブドは、その時代のワヤン・スタイルのレパートリーに公有財産をもたらしたと言えよう。これらは、プングラウィト、プシンデンの役割を拡大したことも含めて、彼の革新的芸術的才能があってなし得たことである。
 ナルトサブドが彼の時代において高額の報酬を得られる著名なダランとなり、成功したのは、大衆の嗜好を知り、ラジオやカセットといったメディア市場を利用する才能に長けていたからである。一般の伝統的ダランと同様に、彼もまた超自然や神秘主義的事柄に対する信仰を持っていた。成功を得るために苦行をし、上演の際には幸運と安寧の到来を祈願して供物(サジェン)を捧げ、プソコの魔力を信じ、死ぬ日を知らせる予兆を信じていた。
 地方のワヤン・スタイルやカラウィタンの要素を取り入れたナルトサブドのワヤン・スタイルは、ワヤンの世界に新たな大空を開き、地域性への固執を弱めることとなった。彼に共感したダランたちや、ナルトサブドのような名声を得たいと考える若いダランたちは、彼のワヤン・スタイルを模倣した。そうしてナルトサブドのワヤン・スタイルは、その当時とそれに続く時代のワヤンの発展に影響を与えたのである。
 彼の後に続く他のダランたちが、ナルトサブドのワヤン・スタイルを模倣したため、ナルトサブドのワヤンの特徴は見えにくくなってしまった。しかし、模倣し難い四つの特徴を挙げることができる。

1. 上演の最初から最後まで継続する精神力(スマンガット semangat=グルグット gerget )。
2. 会話における台詞や章句の繰り返し。これはガガ(gagah=立派な体躯)の人物やアルス(halus=物腰の柔らかい)の人物で、顔を上に向けたもの(ラニャップ Lanyap)によって話され、特にシリアスな会話の中に見られる。
3. 語り、会話の中に多用される「詩」。
4. それぞれの人物に合わせた声、歌の声色の多彩さ。

 ナルトサブドはそのワヤンで、一方では定型の会話のような関係の無い部分を取り除くという試みをしたが、一方では、物語の進行を止めるほどゴロ・ゴロの場面を引き延ばした。
 ナルトサブドの名声と高額の報酬は、主催者にとっては、大勢の客と見物人が訪れることの保証となったと同時に、主催者の社会的地位を上げることにもなった。
 ナルトサブドはブン・カルノの崇拝者の一人であった。ワヤンのカルノからその名をとった人物に対する崇拝の念は、彼のワヤンでのカルノの扱いを通して視覚化された。
 ナルトサブドは日々の生活において、高級プリヤイ(priyayi=王族・高級官吏)や貴族のライフ・スタイルで過ごし、一般のダランの身分から見れば、過剰なものといえる。こういった彼の行動は、当時、最も著名で、高額の報酬を受けるダランとしての威信を守るためのものであった。

(第5章 おわり。次回はジャワ語・ワヤン用語集)
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by gatotkaca | 2012-03-21 21:39 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナルトサブドの生涯 その18

4
偶像、そしてナルトサブドのライフ・スタイル

A.偶像


 前章で、ナルトサブドが、彼のワヤンにユーモアをたっぷりと入れるダランとして有名になったことを記した。ナルトサブドは、お笑い担当の人物だけでなく、クレスノ、ジャノコ、ボロデウォ、ガトゥコチョ、ウルクドロといったシリアスな役柄の人物たちにもユーモアを生かした。しかし、シリアスな人物たちをユーモラスに扱う習いは、カルノに対してはしなかった。ナルトサブドのワヤンの中では、カルノはつねにシリアスであり、観客の笑いを誘うような言葉を発することはなかった。さらに言えば、カルノという人物を介して、しばしば意図的に見解や態度を表明したのである。
 我々が知っているように、カルノはパンダワたちの長兄である。状況的に彼はパンダワとつねに敵対するコラワ側にあることを余儀なくされている。ナルトサブドの描くカルノは、地位と栄誉、そして豊かなる愛を与えてくれた王国、ならびに王に対して忠実な人物である。ドゥルユドノに対するカルノの忠誠は、盲目的な忠誠ではなく、公正、真実、人間性に対する深い理解に基づいたものである。この基本姿勢のゆえに、カルノはつねに、公正、真実、人間性に反するコラワの態度、行為を承認してはいない。ラコン「ビモ・スチ Bima Suci 」において 1)、ドゥルユドノは、アルゴクロソ Argakelasa でプンデト(僧侶)となっているビモが、コワラに災厄をもたらし、滅ぼそうとしていると考えた。カルノはその意見に強く反対する。アスティの国の民も含む人間世界の魂の成長を助けることのできる真の賢者を非難するドゥルユドノは賢明とは言えない、と。アマルト国とその領域の支配権を得ようとして、コラワたちがいかさまサイコロ賭博を企んだことに対しても、カルノは反対し、かようなる下劣な行為はクサトリアに相応しくないと看做した。コラワに対してカルノは、同じ人間として認め、寛容の態度(アムンディ・スカル・トゥプス・カキ amundhi sekar tepus kaki )を持ち、人間性に反する行いは慎むように求めた 3)。
 ナルトサブドの描く、アスティノ王に仕えるカルノの態度は、以下に挙げるようなパクブウォノ四世の描いた、王に服従する家臣の姿に反するものであった。

  Wong ngawula ing ratu luwih pakewuh,
  nora kena minggarang-minggring,
  kudu mantep sartanipun,
  setya tuhu marang Gusti,
  dipun miturut sapakon. ........

  setya tuhu saparetahe pan manut,
  ywa lenggana karseng Gusti,
  wong ngawula paminipun,
  lir sarah mungging jaladri,
  darma lumampah sapakon. .......

  (王に仕える者はとても難しい、
   優柔不断であってはならず、
   落ち着いていなければならない、
   そして王に対しては忠誠をもって
   すべての命に服すのだ……

   忠誠をもってすべての命に服し、
   王の望みに背いてはならぬ。
   王の想いは仕える者の務め、
   たとえ海で乾いた葉を見つけよと言われても、
   命に服さねばならぬ……)

 上に述べたような、プラブ・ドゥルユドノの意向に反するカルノの態度は、アスティの国とその王に対する忠誠を損ねることを意味しない。ナルトサブドの演じたラコン群で、アスティノにおけるカルノの存在は、たんなる戦闘指揮官(セノパティ・プラン senapati Perang )ではなく、プラブ・ドゥルユドノが精神的な危機に陥った時の庇護者であり、活力と倫理を授ける者である。たとえば、プラブ・ドゥルユドノがガトゥコチョをアルゴクロソから立ち退かせようとして、ボロデゥオにその仕事を頼み、断られて落胆した時 5)、また12年間の森への追放で死んだと思っていたパンダワたちが無事であったという知らせを聞いて驚いた時 6)、それからプラブ・サルヨ、ビスモ、ドゥルノたちにアスティノ国の半分を、パンダワたちに与えるようにと迫られた時 7)。カルノは最後までドゥルユドノにアスティノの王位に止まるよう、強く励ました。論争となり、躊躇なく、心臆することなくサルヨ、ビスモ、ドゥルノたちがアスティノに潜り込んだパンダワのスパイだと非難するほどであった。
 実際は、カルノもコラワが間違っており、パンダワが正しいことは自覚していた。しかしセノパティ(軍司令官)として誓いを立て、ドゥルユドノからの恩義に報いるために、彼は自身の誓いに殉じたのである 8)。カルノにとって、戦場に立つセノパティとは善悪を問題にしてはならない者であった。そういった価値は、戦争が終了してはじめて表に現れる。実際、徳を持ち、責務に忠実なるセノパティであっても、戦場で敗れれば世間から嘲笑され、一族と国を貶めたと言われる。逆に強欲で、民と国から奪うことを好むセノパティでも、戦いに勝利すれば賞賛される 9)。こうした考えから、カルノはコラワにつくことを選んだのである。その心は堅く、クレスノ、ジャノコ、そしてクンティのパンダワについてほしいという説得を受けても変わることはなかった 10)。彼は、師であるブガワン・ディポヨソの、カルノはバラタユダにおいて超能力を失い、ジャティスロ Jatisura という名の伝来の戦車の残骸の上で死にいたるであろう、という呪いを受けても、心を揺るがすことはなかった 11)。
 カルノはパンダワの敵であり続けたが、自身がパンダワの兄であることに気付いていた。長兄として彼は、豊かな愛を与え、弟たちを幸せにしてやらなければならない、と感じていた。このことは、バトロ・インドロの望みで、彼と一体となっている二つのプソコ(pusaka 伝来の武器)、アンティン・アンティン・スソティヤ anting-anting sesotya とコタン・カウォチョ kotang kawaca を差し出すように乞われた時に証される。カルノとバトロ・インドロの会話。

  jer kula mangertos, wantenipun paduka alampah makaten, awit anggenipun kuwatos. Manawi pusaka kalih wau taksih kula angge, boten wurunga Janaka badhe kawon wonten in Bratayudo.......
  Aluwung kula ingkang ngurbanaken jiwa raga ngraosaken panandhang, waton kadang-kadang kula pun Harjuna miwah Pandawa sanes-sanesipun ing benjang ngraosaken kamukten.........

  (私は存じております。あなた様が恐れから、かようなことをなさる、と。二つのプソコを私が使用することあれば、ハルジュノ(アルジュノ)がバラタユダに敗れることは必定……。我が魂と肉体を苦悩のうちに犠牲として捧げるほうがよい。さすれば、我が兄弟、ハルジュノとパンダワ、その他の者たちは、後の日に幸福となることができましょうものを……)

 弟たちへの愛の証として、カルノはバラタユダにおいてアルジュノの手によって死ぬことを望んだ 13)。
 ナルトサブドの視点によるカルノの評価で、さまざまな人生の試練を通して、カルノは完全なる人間を表す人物像となったのである。スディロ・サトトによれば、カルノは人生の多様な経験からその魂を成長・成熟させ、完全性とダイナミクスを備えたカルノという特性を獲得するのである。カルノの積み上げた様々な人生経験は、彼をより人間的にした 14)。こうした特徴がカルノという人物像を、完全なるサトリヨ像として描かれて来たアルジュノという人物像よりも、さらに魅力的なものにしたのである 15)。
 ナルトサブドは、ユーモアをまじえて描くふつうの人物たちとは、別格のものとしてカルノを登場させた。カルノは偶像たる人物であった16)。カルノが崇拝されるべき人物として選ばれたのは理由のないことではない。グスティ・パンダワでクンダン奏者として活躍していたナルトサブドの存在は、ブン・カルノの知るところとなった。イスタナ・ヌガラでの舞踊バムバンガン・チャキル上演で、グスティ・パンダワが呼ばれる度、ナルトサブドはクンダン奏者として必ず指名された。ダランとなった後も、ナルトサブドはブン・カルノのお気に入りのダランの一人として、個人的にそのワヤンを通して大衆に見解を表明するよう託されたこともあった。ナルトサブドの、こうしたブン・カルノへの強い敬意は、ブン・カルノからお守りとして衣装を賜ったことからも明らかである。ブン・カルノの愛称で呼ばれたスカルノ Soekarno の名が、父の希望で与えられたものであることは、知れ渡っていた。彼の父は、民衆の大いなる戦士、英雄となるように、との願いをこめて、クンソ Kunso という名をカルノに代えさせたのである。スカルノの父がカルノという人物を愛したのは、カルノこそがマハバラタにおける偉大な英雄であり、仲間に忠実であり、結果を求めない誠実さを持ち、勇気と超能力で知られた国家の戦士であったからである 17)。ナルトサブドが、カルノを偶像として選び、卑しい扱いをしなかったのは、明らかにブン・カルノの影響に負うところが大きいと言えるだろう。
 こういった影響は、ブン・カルノの演説を再考してみても明らかであろう。その演説は、炎のような情熱に溢れ、何度も繰り返される言葉から始まって、だんだん熱を帯び、クライマックスに達する。このような手法は、ナルトサブドのワヤンでの特徴として、カルノの台詞の表現、見解、論説に見出せる 18)。例としてカルノとドゥルユドノの会話を挙げてみよう。ラコン「ビモ・スチ」で、カルノが、真実に反するドゥルユドノの意見に反対した時である。正しい者をも負かすことのできる王たるドゥルユドノによって、カルノの意見がすべて拒否された後、彼は非難めいた口調でこう言う。

  Menawi ngaten 'inggih sampun, Werkudara punika tiyang awon ngaten kemawon. Werkudara punika tiyang awon, Werkudara punika tiyang lepat, Werkudara punika tiyang dosa, Werkudara punika tiyang minger kebalating panembah, Werkudara punika 'nggpn dursila, 'nggon culika ........ 19)

  (そうでありましょうとも。ウルクドロは悪人であります。ウルクドロは悪人。ウルクドロは過ちを犯した者。ウルクドロは罪を負った者。ウルクドロは信仰を破る者。ウルクドロとは犯罪のあるところ。泥棒のいるところ。詐欺師のいるところ……)

 ナルトサブドのワヤンでは、カルノはつねにシリアスに描かれた。それは、このワヤンの人物と同じ名を持ち、民族の英雄と讃えられる偉大な人物に対する畏敬の念からくるものであった。このような態度は、ゴロンガン・カルヤがインドネシア第一党となってからのスラカルタのダランたちにも見られる。ラコン「コンソの死 Kongsa Lena 」またの名「コンソの御前試合 Kangsa Adu Jago 」で、ラデン・コクロソノがその超能力を見せつけて象と虎を殺し、ブリンギン(バニヤン)の巨木を引き抜く場面が登場する 20)。ブリンギンの樹をマークとするゴロンガン・カルヤの全盛期以来、この場面はもう見られなくなった。これはゴロンガン・カルヤを非難するものと看做されるのを恐れてのことである。彼らは反ゴロンガン・カルヤの烙印を押され、上演許可が取り消されることを恐れているのである。

B. ナルトサブドのライフ・スタイル

 ナルトサブドは生前、著名で高い報酬を得るダランであり、一般のダランたちとは異なる生活スタイルを持っていた。1957年以来、彼は甘ったれの性格を表し、いつもマッサージを受け、扇いでもらっていた。この傾向はついに血肉と化し、臨終の時まで続いた。いつでも、どこでも暇さえあれば、彼はマッサージと扇いでもらうことを所望した。特に夜は、この二つが無いと眠れないのであった。眠り始めたと思って手を休めると、起きてしまうのであった。そういうわけで、彼はこの二つのために特別に二人の人間を雇っていた。1976年イリアン・ジャヤ知事の要請で、ジャヤプールでの上演があった時、コストを考慮して、ナルトサブドはこの二人のポノカワンを連れて行かなかった。ジャヤプールで彼は落ち着かず、眠れなかったという。ナルトサブドがリラックスして上演が成功できるよう、イリアン・ジャヤの行政府は特別機をチャーターし、マッサージ師と団扇で扇ぐ要員を雇うことにした 21)。この二つのサービスは、外国人でなければ、プングラウィト、プシンデン、またチャントリック(弟子)でもよかった。彼らは例外なく皆その仕事をさせられた。笑い話に、ナルトサブドの一族になった者は、手の皮が厚くなる(カパレン kapalen )、といったものだった。
 すべて日々に必要なことをナルトサブドは自分は動かずにすませていた。マンディしたいと思えば、すぐに三人の人間が石けん、タオル、着物を用意した。同じように、タバコが吸いたいときはすぐ火がつけられた。顔を洗うといった何でもないことでも、一人ではせず、他の者、いつもなら妻に手伝わせた。ナルトサブドは顔を上げたまま、妻が温かいお湯で濡らしたタオルで顔を拭いてくれるのであった。

〈以下105、106頁は落丁のため欠損。107頁へ飛ぶ〉

出会った人々と関連づけて、この信仰を強くするのであった。ナルトサブドはワヤン上演の度に、21束のジャスミンの花、5本の黒サトウキビ(ウルン wulung )、そして一かたまりのクパラ・ガディン(椰子の実)の蕾を供物とした。この供物(スサジ sesaji )の調達は、スマランにいたブン・カルノのクバティナン(民間信仰)のグル(導師)の指示に基づくものであった。他に彼は、キヤイ・ジャラ Kyai Jalak 、キヤイ・ノゴロジョ Kyai nagaraja と名付けられたクリスを二振り、キヤイ・ルジェキ Kyai Rejeki と名付けられたクンダンをプソコとして持っていた 28)。ナルトサブドはまた、夢のお告げ、正夢というものを信じていた。1985年6月、死の数ヶ月前に、彼は九人のスマルと出会う夢を見た。この夢は、彼の人生がもうすぐ終わることを意味していた。この夢を見た後、彼はプソコの二振りのクリスとクンダン、そしてペトルのワヤン人形をジャロト・サブドノ Jarot Sabdono に与えるよう命じた。さらにスマルの人形をスティアジ Setiaji に、クレスノをダルミント Darminto に与えるよう命じた 29)。夢を見た四ヶ月後、運命の時が訪れた。ナルトサブドは兆しを受け、最後の日を分かっていた。ラコン「カルノの生涯 Banjaran Karna 」でカルノを通して言っていたように、臨終に際しての覚悟は出来ていた。アルジュノとの対決のため戦場へ赴くカルノは、義理の父サルヨに御者になってほしいと頼む。この願いをサルヨは侮蔑と受け取った。自身の死を覚悟したカルノの言葉を聞き、ようやくサルヨは快く御者となることを引き受ける。その覚悟は次のように語られる。

Karna : Rama sak derengipun kula nyuwun pangapunten, rama. Mila kula wantun matur makaten menika, estonipun sampun wonten titik ingkang nyata, sampun wonten raos keketeg, jaja butl prapteng walikat ........ 30)

(カルノ :父よ、まずはお許しを乞う、父よ。私は心を鼓舞してこのように言うでありましょう。真実、明らかなることがあります。心がざわめくのです。胸の奥から背中まで……)

 生の完全性(サムプルナニン・ウリップ sampurnaning urip )の探求はジャワ人にとって、深く信仰されており、それは最後の予兆を確認することでもある。神秘主義のガイドとなった本のひとつ、ウィリット・ヒダヤット・ジャティ Wirit Hidayat Jati には、ある人の運命の兆しとして、関係する事柄のある年の中頃に、普段聞こえないものや、一度も聞いたことのないことが聞こえる、という 31)。ナルトサブドの内心の目に捉えられた九人のスマルは、かつて見たことのないものであり、彼の人生の終わりを知らせる兆しであったのだ。
 ナルトサブドは親族、プングラウィト、プシンデン、チャントリクといった友人・世話人たちに囲まれて暮らすことを好んだ。彼らは親族のように扱われ、飲食を始めとしてあらゆることで離れることは無かった。彼は大勢の人に囲まれていることが好きであった。結果として日常の費用は大変嵩むこととなった。チャントリク、その他の人々との親密さを増すために名を与えることもあった。スラゲンの女性ダラン、スハルニ Suharni はサブドワティ Sabdawati の名を与えられ、クディリのプシンデンのひとり、ティニ Tini はサブドシ Sabdasih の名を与えられた 32)。
 ナルトサブドは外面は仲間たちと穏やかに親しげにふるまっていたが、人に見下されると容易く気分を害した。ある時、サロン(腰巻)、バジュ(上着)、黒い帽子といった出で立ちで、彼はある服飾店に外套を買いに来たことがあった。店の者がいくつかのタイプを見せたが、どれも良くないといって断った。いらいらした店員は一番上等で一番高価なものを差し出してこう言った。「これが一番素敵です。バパ Bapak (旦那)はお買いになれますか?」ナルトサブドは自分から売値に送料を上乗せした金を払った。名前を住所を書いた後、彼は何も言わずに店から出て行った。この種の出来事は、1976年8月頃にもまた起こった。マゲラン Magelang でのワヤン公演が終わったときのことである。お土産にナシ・グデ Nasi Gudeg がひとつあった。マゲランから同行したナルトサブドの一行がヨグヤカルタでの乗り継ぎの際、お土産として買ったのである。到着すると、彼は売り子に、一箱いくらか、とたずねた。卵のおかず付きでいくら、鶏のもも肉のおかずでは、半羽では、一羽まるごとではいくらか。売り子はふざけて質問しているのだと思って、おどけた調子で言った。「このバパは、買いたいのか、それとも、値段が知りたいだけなのかねぇ。」すぐさまナルトサブドは言った。売っている物を全部買ってやる。売り子はビックリして黙ってしまった。勘定を計算して、売り物はすべて車の中に運びこまれた。ナルトサブド一行はすぐにそこから去って行った 33)。このナルトサブドの奇妙な行動は、彼が外見や話し方で、人から見下されないようにしていたことを示しているのではないかと思われる 34)。
 以上、ナルトサブドのライフ・スタイルを見て来たが、ダランの基準からみれば、それは贅沢すぎた。ナルトサブドは生きるために喜びを得る(スナン・カンゴ・ウリップ senang kanggo urip )という見解ではなく、楽しむために生きる(ウリップ・カンゴ・スナン urip kanggo senang )ことを選んだ。そしてこうも言っている。「楽しもう、そして栄光を使い果たそう (ngaji pupung, ngentek-enteke kamukten )」。この処世観は最終的には良い結果とはならなかった。その証として、ナルトサブドが亡くなった後、彼の楽団員の一部は、他のダランに従うのを良しとしなかった。というのも、それまでナルトサブドから得ていた報酬に見合う額を得られなかったからである 35)。
 奇妙でユニークなナルトサブドのライフ・スタイルはジャワ藝術という分野で戦い続けることのできる後継者が存在しないという失望感との葛藤であった。彼は甥を子として迎え、公証人に確定してもらったが、彼の失望感は癒されることはなかった。ナルトサブド自身はかつて、彼の努力の成果は、そのようなことでなければ、一体何のために使えばよいのだろう、と言っていた 36)。子どものたくさんいるチャントリックの一人が、家に訪れた時、彼は目に涙をためながら言った。彼は外面的にはひじょうに豊かであり、ダランたちの中でも最高の報酬で著名であるが、本当は貧しいのである。ひじょうに貧しいのだ、と 37)。
 そのおかれた境遇から離れてナルトサブドのユニークなライフ・スタイルでの態度・行動を見てみれば、著名なダランとしての外見の裏で、偉大なスタイルに覆われたある環境を作り上げることで、自身の尊厳を守ろうと努めていたのである。その目的は広範囲に及び、大きな屋敷、たくさんの資材もそうである。その全ては、高い社会的地位を得た者としての、彼のアイデンティティーを強調する。マッサージを受け、扇いでもらうことに熱中し、日常のすべての用を他人にサービスさせ、出で立ちをつねに綺麗にして、質の高いワヤン人形を所有し、プソコや神秘主義的事柄を信仰し、世話人・友人に囲まれていることが好きで、人から見下されることを嫌う。すべては自身のアイデンティティーの拡大を象徴している。
 社会的認知を得ようとし、経済的面からでなく威信とプロジョ(praja 領地)を守ろうとしたナルトサブドの生き方は、高貴なるプリヤイ(priyayi 王統の者・貴族・高級官吏階級)また貴族の生き方であったと言えよう 38)。

脚注
1〜21は、115-116頁落丁のため欠損

22. サミヨト Samiyoto へのインタビュー、1989年5月19日、スラゲン
23. スハルニ・サブドワティへのインタビュー、1989年5月20日、スラゲン
24. ムルヨノ Muryono へのインタビュー、1989年4月28日、クラテン
25. ムジョコ・ジョコラハルジョ Mudjoko Djokoraharjo へのインタビュー、1989年4月15日、クラテン
26. トゥミニへのインタビュー、1989年4月25日、スマラン
27. ダルマン・ゴンドダルソノ Darman Gondodarsono へのインタビュー、1989年5月18日、スラゲン
28. ルジャール・スブロト Lejar Subroto へのインタビュー、1989年6月30日、ヨグヤカルタ
29. "Impian Sembilan Semar", dalam Jakarta, No 12, 19 Oktober-1 Nopember 1985, 17頁
30. 「カルノの生涯 Banjaran Karna 」kaset Ⅷ B.
31.  ロンゴワルシト Ronggowarsito, t.t. Wirid Hidayat Jati , Surabaya : Trimurti, 30頁
32. スヤディ Suyadi へのインタビュー、1989年6月5日、クラテン
33. アドモディハルジョ Admodihardjo へのインタビュー、1989年6月3日、クラテン
34. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年5月1日、クラテン
35. ダルマン・ゴンドダルソノへのインタビュー、1989年5月18日、スラゲン
36. ルジャール・スブロトへのインタビュー、1989年6月30日、ヨグヤカルタ
37. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年4月15日、クラテン
38. プリヤイ Priyayi (貴族)のプロジョ praja(領地)と威信に特別な価値を持たせる生き方については、サルトノ・カルトディルジョ Sartono Kartodirdjo を参照。
Sartono Kartodirdjo, et,al. 1987. Perkembangan Peradaban Priyayi. Yogyakarta : Gadjah Mada University Press, 54頁

(第5章へつづく)
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by gatotkaca | 2012-03-20 16:47 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナルトサブドの生涯 その17

C. ナルトサブドのワヤンの特徴

 ワヤン愛好家たちには、ダランたちに、そのワヤンの顕著な特徴を取り上げてあだ名を付ける伝統がある。スラカルタのダラン、ウィグニョスタルノ Wigyosutarno は、悲しい場面で観衆の心を釘付けにしたので、ダラン・ゲス Dhalang nges (nges=悲しみ、喜びで心を引きつける)と呼ばれた。悲しい場面が始まると、多くの観衆がワヤンの人物の悲哀を自分のことのように感じ、涙を流す者も少なくなかった。カルトスロのニョトチャリト Nyototjarito はダラン・バゴン Dhalang bagong と呼ばれた。ユーモアにあふれ、彼のワヤンに登場するバゴンがとても印象的であったからである。ウォノギリ Wonogiri のワルシノ Warsino はダラン・クテ Dhalang kethek と呼ばれた。彼の猿の人物の動きに人々が魅了されたからである。最近ではカランガニャル Karanganyar のマンタップ・スダルソノ Mantep Sudarsono がダラン・セタン Dhalang setan と呼ばれた。ワヤン人形の操作にひじょうに熟達した職人芸を見せたからである。ダランたちに与えられるあだ名は、彼らのワヤンの特殊な才能、唯一無比の特徴を表している。あだ名を付ける伝統はむろんすべてのダランに適用されるわけではなく、著名なダランにのみ与えられるものである。
 ナルトサブドも例外ではなかった。彼もまた人々からあだ名をつけられた。上に挙げた他のダランたちと違って、彼のあだ名は一つではなく、四つのあだ名がつけられた。ダラン・エダン Dhalang edan(edan=気違いじみた) 、ダラン・クンディル Dhalang kendhil(kendhil=鍋などの器) 、ダラン・バニョル Dhalang banyol(banyol=滑稽) 、そしてダラン・グンディン Dhalang gendhing(gendhing=カラウィタンの楽曲) である。先の二つのあだ名には蔑みの含みがある。後の二つのあだ名は、彼のワヤンに見られる秀でた才能を指している。ダラン・エダンとダラン・クンディルという、彼のワヤン・スタイルに人々から与えられたあだ名には同意しかねる。しかしダラン・バニョルとダラン・グンディンについては、より中立的といえよう。
 人々がつけた四つのあだ名は、蔑みが含まれていると同時に、人々がその感性でナルトサブドのワヤンの独自性を表現できなかったことを意味する。ダラン・エダンというあだ名は、ナルトサブドのワヤンが既成の伝統的規範から外れているように見えることを指している。ダランガン・クンディル Dhalangan kendhil には、ナルトサブドが彼のワヤンで鍋売りのようなまねをしている、つまり、下層階級の人々におもねって自身の貞節を売っていると思われたという含みがある。これは彼のファンたちに分かり易く、親しみ易いワヤンを目指す、という意図であった。この親しみ易さは、特にワヤンの人物たちをリアリティを持って描写し、パリカンを使って観客たちとコミュニケーションを図ったり、バニュマスのグンディンを用いたりすることで達成された。ダラン・バニョルというあだ名は、ナルトサブドのワヤンに頻出するユーモアの側面を指している。ユーモアはポノカワンの場面だけでなく、宮廷の場面や他のあらたまった場面においても、リラックスした雰囲気でもシリアスな雰囲気の中でも表れた。ダラン・グンディンは、彼のワヤンの中に新作のグンディンや彼の創作曲がたくさん使われたことによる。これは、主に一時間半ほども時間を費やすゴロゴロの場面に見られた。
 ナルトサブドのワヤンの四つの特徴は、この章の始めに見たような、ナルトサブドが行ったワヤンの変革の反映であると言えよう。これらの特徴の他にもまだいくつかの特記すべき事項がある。ダルマン・ゴンドダルソノ Darman Gondodarsono によれば、ナルトサブドのワヤンはラメ rame(混雑している)で、グルグット gerget (怒り)に満ち、活気が溢れていた、という。上演の最初から最後まで、第一場面(ジェジェル)から始まり、最後の場面(タンチュプ・カヨン tancep kayon )まで、その活気がたるみを見せることは無かった。悲哀の場面までも活気に満ちあふれ、場合によっては情感(ゲス nges)を損ねるほどであった 82)。
 ほかの特徴としては、章句の繰り返し、あるいはいくつかの言葉をひとまとめにして、ある文脈における重要な章句、言葉を強調し、提示する手法がある。会話における繰り返しは、通常深刻な雰囲気の中で見られ、顔を上に向けたワヤンの人物(ラニャップ lanyap 、ロンゴ longok )だけに用いられる。たとえば、カルノ、クレスノ、サルヨ、そしてボロデウォなどである。顔を下向きにしている人物たち(ルルフ Luruh )、たとえばジャノコ、ウルクドロ、ガトゥコチョやアビマニュでは、このような言葉、章句の繰り返しは見られない。言葉や章句の繰り返しが強調されると、それに従って音量も強くなって行く。繰り返しの例を挙げてみよう。

Baladewa;.....Kula boten sageg minangkani pamundhutipu yayi Prabu Duryudana, jalaran Gatutkaca dereng kantenan dosa lan lepatipun. Kula boten saged minangkani pamundutipun yayi Prabu Duryudana, jalaran Gatutkaca dereg kantenan dosa lan lepatipun. Sampun ngantos kula satunggaling nalendra pun wastani boten tepang tatakrami.......... 83)

ボロデウォ:(私は弟プラブ・ドゥルユドノの望みに追従することはできない。というのも、ガトゥコチョはいまだ罪を犯しておらず、過ちを犯していないからだ。私は弟プラブ・ドゥルユドノの望みに追従することはできない。というのも、ガトゥコチョはいまだ罪を犯しておらず、過ちを犯していないからだ。私は礼儀をわきまえぬ王と呼ばれるわけにはいかぬ……)

Salya : .......Negari Ngastina menika boten perlu dipun ewah-ewah, boten perlu dipun palih, boten perlu dipun prapat, boten perlu rebut sarana regejegan. Negari Ngastina menika sawetahipu kula aturi maringaken dhateng kadang-kadang paduka para Pandhawa. Negari Ngastina menika sawetahioun kula aturi maringaken dhateng kadang-kadang paduka para Pandhawa....... 84)

サルヨ:  (……このアスティノ国が変わる必要は無い。二つに分けられることも必要も無い。四つに分けられることも必要も無い。互いに奪い合う必要も無いのだ。アスティノ国の全ては、そなたらの兄弟、パンダワたちに与えられるのが我が望みだ。アスティノ国の全ては、そなたらの兄弟、パンダワたちに与えられるのが我が望みだ……)

Karna : .........Menapa malih menawi ngengeti, para Pandhawa menika dudu wong 'mbuh kanane' , para Pandhawa menika sanes wong sudra sempali, para Pandhawa sanes wong loro saudhon telu sauruban, nanging para Pandhawa menika maksih trahing kusma renbesing madu tedhaking ngatapa, turune wong andanawarih........ 85)

カルノ:  (……思い返してみれば、パンダワたちは出自の朧げな者ではない。パンダワたちはスードラ〈奴隷階級〉の血を引く者ではない。パンダワたちはその辺りの誰かではなく、貴族の血を引く者、サトリヨの血を引く者だ……)

 その他のナルトサブドのワヤンの特徴は、特定の状況に合わせて、一連の語りの言葉に詩を用いることが多かったこと、また二人の人物の間で交わされる会話に、断片的な章句を用いる、ということがある。この詩は会話や地語りにより詩的なものにする。サブラン(海の向こうの国)の善からぬ王の様子を描く、詩的な地語りを挙げてみよう。

   ...........Ucape agal sugal kaduk 'mbedhungal, watake ugal-ugalan, Srogal-srogal tanpa gregel, muka kerep gagal. Yen lumampah saradane ngunggahake sabuk sarwi bekah-bekuh, kepara katon piyangkuh, sajak ngewak-ewake sapa wae kang weruh.....86)

   (……粗野にして礼儀をわきまえぬ者のことが語られる。無作法にして礼儀を知らぬゆえ、しばしば失敗の憂き目に遭う。歩く時は腰帯をずり上げ、アー、フーと声をあげながら。見るからに横柄で、見かけた者は誰でも目下の者と考えているようだ……)

 詩形式を用いた会話の例として、ラコン「パンダワの仕官 Pandawa Ngenger 」におけるアルジュノとバタリ・ウルワシの会話を挙げてみよう。ウルワシはアルジュノに恋人になってくれるよう求めるが、アルジュノはやんわりと断る。

Urwasi : Raden, satunggaling makhluk ingkang nandhang wuyung, badhe saged kabendung manawi tansah cinaket wong agung. Inggih amung paduka ingkang kadunungan cahya malengkung pindha kluwung. Namung paduka ingkang kula anggep pepayung, ingkang widagda anuntutn gesang kula saengga mbenjang suwarga agung.

Arjuna : Bathari, paduka sampun ngasoraken dhiri, ingkang dhasaripun anyeri-nyeri, dhateng tiyang ingkang dipun anggep saged nyunari, kados wujuding Sang Hyang Sitaresmi. Nanging kawuningana Bathari, kula punika namung titah limrah, sampun trep menawi gesang kula tumumpang lemah.

Urwasi : Raden, kumlawening tangan kula tengen, tetepa dados jampi kengen, dangu anggen kula ngangen-angen, kula rencangi rinten dalu jnem an talem, ing pamrih supados carem lan marem. Nanging punapa ta sababipun kula tinampik, menapa kula pu anggep ceplik mangka badan kula inggih boten burik, kapara resik, margi tansah kula isik-isik, murih alus mbaka sekedhik......... 87)

(ウルワシ:ラデン、恋に落ちたひとりのものが、偉大なる方のおそばに戻れますように。あなただけが虹のように弧を描く光をお持ちです。あなただけが我が傘となるお方。明日、大いなる天界に入る我が命を運ぶことのできる方。

アルジュノ : バタリ、謙遜なさってはなりませぬ。真実大いなるお力で、心に思った人を照らすことのできる、サン・ヒワン・シタルスミのようなお方よ。しかしながら知られよ、バタリ、この私は、大地の上に己を生かすべき、ごくふつうのものにすぎませぬ。

ウルワシ : ラデン、私の右手は波打ち、そのまま恋の薬となる。昼に夜に、私は静けさと穏やかさを用意いたしましょう。互いに愛し合い、幸せを得るように。私が受け入れられないのは何ゆえでしょう。私を蔑んでおられるのでしょうか。私の体は欠ける所なく、清らかです。というのも、いつも磨いているのです。すこしでも滑らかになるように、と……)

 ナルトサブドのワヤンの特徴は以上のようなものである。彼のワヤン・スタイルは他のダランたちに模倣され、最終的には曖昧なものとなってしまい、全体としても部分的にもこのような特徴はナルトサブドのワヤンにのみ見られるものではなくなった 88)。ここではアンドレ・ハルジョノの意見が適切であろうと思われる。つまり、ワヤンのような口承文芸などは共有財産とされる傾向にあり、時代の精神と合致する変革に重要な役割を果たした個人が改革者・創造者として認識されることはない、ということだ。このような成果も、個人の業績の特徴とはならず、他の者たちに模倣され、取り入れられて、共有財産と化すのである 89)。
 ナルトサブドのワヤンにおける最も顕著な特徴は、他のダランたちが模倣することは困難であった。ナルトサブドには、ワヤンの人物それぞれの話し方のアクセントと癖を自由に操る才能があった。彼は人物たちの声色の違いを正確に把握し、幾人かのワヤンの人物が話す、ひとつひとつの会話にすばやく反映させ、その会話が一人のダランによって語られているとは思えないほどだったのである 90)。

第三章:脚注
1. ルジャール・スブロト Lejar Subrotoへのインタビュー、1989年6月30日、ジョクジャカルタ
2. スリ・ススフナン・パクブウォノ四世 Sri Suhuhunan Pakubuwana Ⅳ『スラット・ウラン・レー・ジャンクップ Serat Wulang Reh Djangkep 』Badon Asli Saking Karaton Surakarta, t.k, t.p, 17頁
3. フランス・マグニスースセノ Frans Magnis-Suseno .1987. Etika Dasar, Masalah-masalah Pokok Filsafat Moral. Yogyakarta : Yayasan Kanisius, 79-80頁
4. K・P・A・クスモディロゴ Kusumadilaga . 1930. Pakem Sastramiruda, Jilid 1. Solo : De Bliksem, 68-69頁
5. ゴンドシギット Gondosigit へのインタビュー、1989年6月10日、クラテン
6. クレア・ホルト Claire Holt 1967. Art in Indonesia : Continuities and Change. New York : Cornel University Press, 132-133頁
7. ナルジョチャリト Narjotjarito へのインタビュー、1989年7月11日、カルトスロ
8. マグニスースセノ、前掲書、84頁
9. フランク・G・ゴーブル Frank.G.Goble 1987. Madzab Ketiga : Psikologi Humanistik Abraham Maslow. Terjemahan A. Supratiknya. Yogyakarta : Yayasan Kanisius, 72頁
10. C・C・ベルグ C.C. Berg 1975. Oenulisan Sejarah Jawa. Terjemahan S. Gunawan. Jakarta : Bharatara, 25-27頁
11. Babad Tanah Djawi, De Prozaversie van Ng. Kertaraja Ingeleid door J.J. Ras. 1987. Holland : Foris Publication, 35, 51, 72頁
12. ”Omong-omong Dengan Pentjipta Lagu : Swara Suling", dalam Suara Merdeka, tanggal 3 Dijuli 1955.
13. パンダム・グリトノ Pandam Gritno 1985. "Ki Nartosabdo Yang Saya Kenal", dalam Gatra, No 9 Tahun 1986.
14. ヴィクトリア・M・クララ・ヴァン・グルーネンディール Victoria M. Clara van Groenendael によって、ワヤン・クリ上演を見る子どもたちが、サルンにくるまって寝ているのは普通の光景であると報告されている。1987. Dalang di Balik Wayang. Terjemahan. Jakarta : Pustaka Utama Grafiti, 272頁
15. ルジャール・スブロトへのインタビュー、1989年7月30日、ヨグヤカルタ。トゥミニ Tumini へのインタビュー、1989年4月25日、スマラン
16. ジェームス・R・ブランドン James.R.Brandon 1989. "Seni Pertunjukan di Asia Tenggara" Terjemahan R.M.Soedarsono. Yogyakarta : ISI, 568-569頁
17. ムジョコ・ジョコラハルジョ Mudjoko Djokorahardjo へのインタビュー、1989年5月1日、クラテン
18. アドモディハルジョ Admodihardjo へのインタビュー、1989年5月25日、クラテン
19. ムジコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年4月15日、クラテン
20. クララ・ヴァン・グルーネンディール、前掲書、118頁
21. サルトノ・カルトディルジョ Sartono Kartodirdjo .1987. Kebudayaan Pembangunan dalam Perspektif Sejarah. Yogyakarta : Gadja Mada University Press, 175頁
22. ルジャール・スブロトへのインタビュー、1989年6月30日、ヨグヤカルタ。トゥミニへのインタビュー、1989年4月25日、スマラン。
23. サルトノ・カルトディルジョ、et al. 1987/1988. Beberapa Etika dan Etiket Jawa. Yogyakarta : Depertmen Pendidikan dan Kebudayaan, Direktorat Jendral Kebudayaan, Proyek Penelitian dan pengkajian Kebudayaan Nusantara, Bagian Jawa, 40頁
24. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年4月15日、クラテン
25. ”Ki Nartosabdo Dalang Temashyur Kini Telah Tiada", dalam Sarnah, 11 Nopember 1985; "Ceritera di Balik Ketenaran Dalang Ki Nartosabdo : Sebelum Meninggal Dibacakan Serat Kalatida", dalam Kartini, edisi 290, Dwsember 1985-12 Januari 1986.
26. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年5月1日、クラテン
27. トゥミニへのインタビュー、1989年4月25日、スマラン。
   ブランドン Brandon、前掲書、455頁、1963年の終わりの著名なダランの報酬は4万ルピア、中堅ダランは1万ルピア、零細ダランは1.500ルピアであったと述べられている。
28. ルジャール・スブロトへのインタビュー、1989年6月30日
29. Gatra, 前掲
30. トゥミニへのインタビュー、1989年4月25日、スマラン、チチュ・サストロスディルジョ Cicuk Sastrosudirdjo へのインタビュー、1989年4月26日、スマラン
31. アドモディハルジョ Admodihardjo "Pepenget" , 手書き写本1頁
32. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年5月1日、クラテン
33. 前掲書、2頁
34. クララ・ヴァン・グルーネンディール、前掲書、308頁
35. "Tanggapan Terhadap Umar Kayam 'Wayang Kulit Tetap Sakral", dalam Kompas, 17 Desember 1987 ; Bakdi Soemanto. 1988. "Wayang Kulit", dalam Kompas, 24 Januari 1988.
36. サルトノ・カルトディルジョ、前掲書、169頁
37. Kesusastraan Indonesia Modern (現代インドネシア文学)におけるサパルディ・ジョコ・ダモノ Sapardi Djoko Damono による引用。Kesusastraan Indonesia Modern : Beberapa Catatan. Jakarta : Gramedia, 93頁
38. ディック・ハルトコ Dick Hartoko , 1987. Manusia dan Seni , Yogyakarta : Yayasan Kanisius, 46-47頁
39. ワード・キーラー Ward Keeler . 1987. Javanese Shadow Plays, Javanese Selves. New Jerseya : Princeton University Press, 173頁
40. スヤディ Suyadi へのインタビュー、1989年7月5日、クラテン、ムルヨノ Muryono へのインタビュー、1989年4月28日、クラテン
41. R・M・スダルソノ R.M.Soedarsono 1985. Peranan Seni Pertunjukan dalam Sejarah Kehidupan Manusia Kontinuitas dan Perubahannya. Yogyakarta : Universitas Gadjah Mada, 23頁
42. アドモディハルジョ、前掲書、3頁
43. キーラー、前掲書、173-174頁
44. スルジョノ・スカント Soerjono Soekanto. 1987. Sosiologi Suatu Pengantar. Edisi Baruh Ketiga. Jakarta : Rajawali Press, 219頁
45. クララ・ヴァン・グルーネンディール、前掲書309頁
46. バムバン・ムルティヨソ Bambang Murtiyoso . 1988. "Perkembangan dan Penyesuaian dalam Sejarah Pewayangan", dalam wawasan, 30 Januari 1988.
47. Gatra, 前掲書、6頁; S・D・フマルダニ S.D. Humardani はこの見解に反対している。
48. "Dalang Paling Top Telah Berpulang", dalam Liberty 1637, 15 Nopember 1985, 33頁
49. スハルニ・サブドワティ Suharni Sabdowati へのインタビュー、1989年6月20日、スラゲン
50. ジャワ社会の伝統的作法については、サルトノ・カルトディルジョ 前掲書1987/1988 . 38、76、81,107頁を参照。
51. この決定書はWarta Wayang, No1, Mei 1979, 48-49頁においても報道された。
52. Gatra, 前掲書、7頁
53. トゥミニへのインタビュー、1989年4月25日、スマラン
54. "Isak Tangis dan Wajah-wajah Sendu Mewarnai Pemekaman Ki Narutosabdo", dalam Kompas, 9 Oktober 1985.
55. ルジャール・スブロトへのインタビュー、1989年6月30日、ヨグヤカルタ、スハルニ・サブドワティへのインタビュー、1989年6月20日、スラゲン、このような語りはつねに何のラコンでも、プラブ・ドゥルユドノの態度・行動を語る際には用いられた。
56. A・テーウ A.Teeuw. 1983. Membaca dan Menilai Sastra, Jakarta : Gramedia, 9頁
57. R・スラトノ R.Soeratno へのインタビュー、1989年5月30日、スラカルタ
58. カルノディハルジョ Karnodihardjo へのインタby−、1989年6月25日、ボヨラリ Boyolali
59. ルジャール・スブロトへのインタビュー、1989年6月30日、ヨグヤカルタ。スラカルタ・スタイル以外のグンディンの使用の萌芽は、ナルトサブド以前のダランたちにもすでにあった。
60. サジュリ Sajuri へのインタビュー、1989年6月25日
61. パムジ・M・S Pamudji N.S. "Genap Seribu Hari 'Sang Maestro Pergi' Ia Bukan Sekedar Dalang", dalam Wawasan, 27 Mei 1989.
62. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年5月1日、クラテン
63. ナルトサブド「パンダワの仕官 Pendawa Ngenger 」. Kusuma Recording, KWK-005, kaset ⅡB; ナルトサブド「サルヨ、ドゥルユドノの戦死 Salyapati, Duryudana Gugur 」, スハルニ・サブドワティ Suharni Sabdowati 聞き起こし、3頁
64. スハルニ・サブドワティへのインタビュー、1989年6月20日、スラゲン
65. ナルトサブド「カルノの一騎打ち Karna Tanding 」. Kusuma Recording, KWK-086, kaset V B ; 「サルヨ、ドゥルユドノの戦死」前掲書、40頁
66. キーラー、前掲書、193頁
67. Gatra、前掲書、5頁
68. バクディ・スマント Bakdi Soemanto . "Wayang Kulit", dalam Kompas, 24 Januari 1988.
69. サルトノ・カルトディルジョ、前掲書、1987/1988, op.cit., 12頁
70. クンチャラニングラト、前掲書、262-263頁
71. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年5月1日、クラテン。ルジャール・スブロトへのインタビュー、1989年6月30日、ヨグヤカルタ。スハルニ・サブドワティへのインタビュー、1989年6月20日、スラゲン。
72. ナルトサブド. 1978. "Pembantu dan Pendukung Pentas dalam Pegelaran Wayang Kulit" , dalam Warta Wayang, No.1 Mei 1979, 38頁
73. 1984年10月、著者がワヤン・ウォンの比較研究を行っていた時、ナルトサブドが著者に語った。
74. スジャトモコ Soedjatmoko. 1983. Dimensi Manusia dalam Pembangunan, Pilihan karangan. Jakarta : LP3ES, 60頁
75. ドイル・ポール・ジョンソン Doyle Paul Johmson の引用、1986. Teori Sosiologi Klasik dan Modern. Terjemahan Robert M..lawang. Jakarta : Gramedia, 251-292頁
76. ウマル・カヤム Umar Kayam. 1981. Seni, Tradisi, Masyarakat. Jakarta : Sinar Harapan, 134頁
77. アンドレ・ハルジャナ Andre Hardjana. 1981. Kritik Sastra, Sebuah Pengantar, Jakarta : Gramedia, 11頁
78. 1984年10月、スラカルタ、プサット・クスニアン・ジャワ・トゥガ Pusat Kesenian Jawa Tengah でのワヤン・オラン比較研究会におけるサルドノ・ムルヨウィバクソ Sardono Mllayawibakso の発言。
79. ルジャール・スブロトへのインタビュー、1989年6月30日、ヨグヤカルタ。アドモディハルジョへのインタビュー、1989年5月25日、クラテン。
80. ジュディス・ベッカー、1980. Tradisional Music in Modern Java, Gamelan Changing Society. Honolulu : The University Press Of Hawaii, 67頁
81. キーラー、前掲書、200頁
82. ダルマン・ゴンドダルソノ Darman Gondodarsono へのインタビュー、1989年5月18日、スラゲン
83. この会話は、ラコン「ガトゥコチョの絵付け Gatukaca Sungging 」において、アルゴクラソ Argakelasa からガトゥコチョを退去させようとするドゥルユドノに対して、ボロデゥオが言う。スハルニ・サブドワティによる聞き起こし、45頁。
84. ナルトサブド「クレスノ使者に立つ Kresna Duta 」スハルニ・サブドワティによる聞き起こし、45頁
85. ナルトサブド「パンダワの仕官 Pendawa Ngenger 」Kusuma Recording, KWK005, kaset ⅡA.
86. スハルニ・サブドワティへのインタビュー、1989年6月20日、スラゲン
87. ナルトサブド「パンダワの仕官 Pendawa Ngenger 」Kusuma Recording, KWK005, kaset Ⅶ A.
88. ムジョコ・ジョコラハルジョへのインタビュー、1989年4月15日、クラテン
89. アンドレ・ハルジョノ、前掲書
90. キーラー、前掲書、197頁、Wawasan, 27 Mei 1988.
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by gatotkaca | 2012-03-19 17:25 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナルトサブドの生涯 その16

2. 外的要因

 ナルトサブドによってなされたワヤン変革が外的要因から多大な影響を受けたことは否定できない。それは、ナルトサブド個人の外部とワヤンの伝統外からの要因である。
 アンドレ・ハルジョノ Andre Hardjana によれば、ワヤンは口承文芸の一種に含まれる。他の文学作品と同様、ワヤンもつねにその成長と発展の場において、その時代の精神と環境の息吹を呼吸している。ワヤンの変容はもちろん、時代の息吹と導きによってつねに変化し続ける 77)。これはナルトサブドのワヤン変革もまた、時代の精神と環境の息吹からの影響が多少なりとも受けているということである。
 すでに知られているように、ナルトサブドは1940年頃から1945年まで、さまざまなクトプラ一座に関わり、その後1945年からはグスティ・パンダワの一座に移った。むろんクトプラやワヤン・ウォンの伝統もまたナルトサブドのワヤン変革に大きな影響を与えた。ヨグヤカルタ・スタイルのクトプラのグンディンでは、シルプ・ソゴ、マニュロの使用がその特徴である。このようなヨグヤカルタのグンディンの使い方の伝統も、1961年あたりから、ナルトサブドは自己のワヤンに新しく取り入れた。これはもちろん、彼の伴奏を務めるプングラウィトたちの才能と開放性に関連する。
 グスティ・パンダワのワヤン・ウォン公演では特に、また一般の商業的ワヤン・ウォンも四時間から五時間続く。このようなタイプの上演はワヤン・クリの傾向に倣ったものであるが、上演時間の短縮に伴い、スロアンやワヤンの人物の対話といった、構成要素の変化がおおきい。ワヤン・ウォンのダランは、ワヤン役者が登場するのにあたって、スロアンが長くなりすぎて役者の台詞まで間が開きすぎないように、むりやり減らしたり、短い種類のものと代えたりしなければならない。パテット・ヌム・アグンのような第一場面のものはふつう全て歌われることはなく、パテット・ヌム・ワンタと呼ばれる最初の部分のみを取り上げて歌うか、パテット・ヌム・ジュガ Pathet Nem Jugag を代りに歌う。ワヤン・ウォンの第一場面では、時間がかかり過ぎるため、またラコンの主題と関係がないから、クリシェの会話(ブランコン)は省かれる。この種の会話の他では、登場する国が直面する問題にしばしば言及する。であるから、ワヤン・ウォンではクリシェの会話はいつも省かれるのである 78)。ワヤン・ウォンで行われているようなスロアンの変更や定型会話の削除は、ナルトサブドも自身のワヤンで行っている。1945年以来人生の最後まで受けたグスティ・パンダワの庇護を思えば、ワヤン・ウォンでなされていた伝統が、彼のワヤンに影響を与えたであろうことは否定できない。
 バニュマス、パスンダン、ヨグヤカルタ、バリ、スラバヤといった地域のスタイルのカラウィタン、そしてスラカルタ王宮の舞踊のカラウィタンもナルトサブドのワヤン伴奏に影響を与えた。グスティ・パンダワ一座に参加したナルトサブドはつねに上演のため、街から街へと移動した。ナルトサブドはそれぞれの街で、そこに息づいているカラウィタンに関心を示した。さらに、サストロサブドによって、彼は地方で師について、その地方のカラウィタンを吸収するよう命じられた。バニュマス、パスンダン、スラバヤ、そしてバリなど。客観的に見ると、ナルトサブドのカラウィタン作品は地方のカラウィタンに影響を受けていることがわかる。ワヤンでも地方のグンディンを取り入れている。地方の影響を受けていると思われるナルトサブドのグンディンは、例えばワンダリ wandali ージャワ、スンダ、バリ、アルマニス Armanis やサプタガン Saptanganである。
 1958年7月から9月まで、グスティ・パンダワのワヤン・ウォンはヨグヤカルタのコタ・ヨグヤカルタ・ハディニングラト200年記念式典での上演を行った。このときヨグヤカルタ地方では、殆ど毎晩ワヤンが上演された。同様のことがスマランであった時も、グスティ・パンダワの仕事を終えるとナルトサブドは必ずワヤンの上演がある時は観に出掛けた 79)。ヨグヤカルタ・スタイルのワヤンへのナルトサブドの親近感から、彼のワヤンにはたくさんのヨグヤカルタ・スタイルのワヤンからの影響が見られる。いくつかのスロアン、グンディン、クプラアンの型、さらにゴロゴロの場面とウィサングニという人物の採用などである。スラカルタ・スタイルのワヤンでは、ウィサングニは重要な人物とは看做されず、ごく稀に登場するだけである。これと異なり、ヨグヤカルタ・スタイルではウィサングニはサン・ヒワン・ウェナンの化身であり、重要な人物とされている。そしてこの人物はパンダワが困難に陥った時は必ず登場する。ナルトサブドは、いくつかのラコン、「清きガトゥコチョ Gatukaca Wisuda 〈wisudha=清らか〉」、「ガトゥコチョの絵付け Gatukaca Sungging 〈sunggin=描く、絵付け〉」そして「ウィサングニの誕生 Lahire Wisanggeni 」などで、ウィサングニを登場させ、ヨグヤカルタ・スタイルに準じたダランのように扱った。
 1961年、ナルトサブドは、そのメンバーの大部分がダランである、カラウィタン楽団グリプト・ララス Ngripta Raras と出会った。グリプト・ララスは抜きん出た技倆のカラウィタン楽団であった。それ以来ナルトサブドは、しばしば彼のワヤン上演の伴奏者として、この楽団の多くのメンバーを起用した。その後1969年に、ナルトサブドはグリプト・ララスからその大部分のメンバーを採用して、チョンドン・ラオス Condong Raos を結成した。ワヤン上演の成功は、伴奏者たちの能力によるところが大きいとの考えからであった。そしてプングラウィトの技倆を必要とする新作のグンディンを用いた。グンディンの面からのナルトサブドのワヤン変革にとって、伴奏者たちの才能という要因が大きな影響力を持っていたことは確実であろう。
 他に、ワヤン変革に影響を与えた外的要因として、政治的状況が挙げられる。1965年9月30日のPKI(インドネシア共産党)の反乱の失敗の結果、旧体制 Orde Lama から新体制 Orde Baru へ政府は交代した。政府勧告に従い、ダランたちは一所、つまりガナシディ Ganasidi (Lembaga Seni Pedalangan Indonesia インドネシア・ダラン藝術機関)に集められた。1969年4月1日から五カ年国家開発計画(Repelita=Rencana Pembangunan Lima Tahun )が実施に沿って、ダランたちは開発計画のプログラムに則っり、その普及を担う仕事を誘われた。この開発計画プログラムはナルトサブドのワヤン変革、特にグンディン・ドラナン gendhing dolanan において多少の影響を与えた。ナルトサブド作曲のグンディン・ドラナンには開発計画を参照したものがある。グンディン・パリウィソト gendhin Pariwisata 、クルアルガ・ブルンチャナ keluarga Berencana 、タニ・マジュ Tani Maju 、P4、イデンティタス・ジャワ・トウガ Identitas Jawa Tengah などである。政党の一つであるゴロンガン・カルヤ(Golongan Karya(職能集団)ゴルカル)もナルトサブドのワヤン変革に影響を与えた。新作のラコン、特に政党のキャンペーン用のラコン、「ワフユ・ワリンギン・クンチョノ Wahyu Waringing Kencana 」、「ワフユ・リンギン・エマス Wahyu Ringinn Emas」が挙げられる。
 ジュディス・ベッカー Judith Becker によれば、ナルトサブドの新作のグンディンはーーワシトディプロもまたーー上層階級の新しい視点・態度から多大な影響を受けている、という〈ワシトディプロ=K.P.H(カンジェン・パンゲラン・アルヨ)・ノトプロジョ Notoprojo (1909〜2007)ジャワ・ガムランの奏者。クラトン・パク・アラマンやRRI・ジョクジャカルタのガムランを率いて世界中の大学でガムランを教えた。作曲家・バイオリン奏者としても著名〉。ナルトサブドは西洋文化の影響を受けた新世代のインドネシア人たちと交流を持った。この新しい潮流を認め、そこから吸収して、ナルトサブドは自身のグンディン作品に新しいテーマとインスピレーションを与えたのである 80)。また、ナルトサブド自身もかつてこう言ったことがある(ワード・キーラー Ward Keeler に対して)。革新への能力、突出した藝術的才能というものは、スナン・カリジョゴのような超越的力を持つ伝説の人物との対話によって得たものであり、それは19年間にわたる苦行から始まった、と。自身の直面した新しい観点の影響がどれほど強いものであっても、彼はジャワの伝統的要素を強く残していたのである 81)。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-03-18 23:42 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナルトサブドの生涯 その15

 また、ナルトサブドはそのワヤン上演で、つねにユーモアの要素を忘れなかった。そのユーモアは、ポノカワンだけでなく、クレスノ、ボロデウォ、ウルクドロ、そしてジャノコといった主要人物たちにも及んだ。とてもシリアスな会話の中にもユーモアが散りばめられ、高尚ぶった者に対するからかい、経済に対する風刺、また彼自身の個人的事柄も滑稽に扱われた。高尚ぶった人物に対するおちょくりは、ラコン「クレスノ使者に立つ Kresna Duta 」の中にも現れる。アスティノの王の謁見所から出たクレスノは、カルノを探すが見つからない。唐突にスティヤキが口走る。『おお、あれか?……いや、カルノではなかった。でも可愛い娘だったなぁ』。むろんクレスノは所をわきまえず美しい娘に気をやるスティヤキに怒る。と、急にクレスノは好奇心に満ちた口調で、スティヤキに、その可愛い娘の家がどこか尋ねるのである 67)。他のラコンでは逆に、クレスノがアルジュノら弟たちと一緒にいる時に、突然バゴンが鼻をこすりながらガレンに囁く。クレスノのような偉い王様でもおならをすると臭いんだな、と。こういったさまざまなユーモアで、ナルトサブドは人物たちにさらなるリアリティを与えた。ワヤンの神秘主義的側面は姿を消し、香水、臭い消し、グラスの飲み物、ハンカチを同居させることで、彼のワヤンは現実世界に接近して行ったのである 68)。
 彼のユーモア精神はペトルにも及んだ。ナルトサブドはしばしばペトルがトップだと言っていた。見物人たちに笑いで迎えられた後、新たにトップというのは一番有名という意味ではなくトゥウォ・オムポン・ペロー Tuwa-Ompong-Perot 〈歯抜けのじじい (tuwa=tua、ompong=歯が無い、perot=口)〉である、と説明された。ステージ上の人たちにも機会があればペトルはからみ、ゲスト、プングラウィト、プシンデンは〈上演中〉食べていられるのに、彼一人だけ夕方から何も食べていない、などど言った〈他の出演者たちは、一夜を徹する上演で、自分の出番以外では、食事ができるが、ダランは上演中食事はできないから〉。さらにペトルは家の主人や主催者たちが上演終了後に食べ物を取って置いてくれるだろう、などと言うのだった。
 伝統芸術の一形態としてのワヤン・プルウォ上演には観客との間に距離感というものが存在しーーこの距離とは、物理的距離ではなく感覚としての距離であるーー観客はただちに上演される物語の中に入り込むわけではない。しかしナルトサブドは、ゴロゴロの場面でしばしば見物人を直接巻き込んで、上演への興味を惹くことをした。よくやったのは、ペトルが有名なパリカン parikan 〈2節から構成される詩形式。サムピラン sampiran (皆で朗唱する部分)を含む〉を示す、というものであった。このパリカンは全部言わないで、後半は黙る。後半は見物人たちが声を合わせて朗誦するのである。パリカンの例を挙げてみよう。

 Manuk grija leng-ulengan, nemu beja (見物人たちが続けて)
 neng petengan.

 Bisa nggambang 'ra bisa ryuling, bisa nyawang (見物人たちが続けて)
 'ra bisa nyandhing.

 Bisa nggender 'ra bisa ngempul, bisa jejer (見物人たちが続けて)
 'ra wani kumpul.

 (雀が相撲をとる、幸せを得る、
  (見物人)暗闇の中で)

 (ガムバンは弾けるけど、スリンは吹けない、見るのはできるけど
 (見物)合わせられない)

 (グンデルは弾けるけど、クムプルは叩けない、隣に座るのはいいけど
 (見物)一緒に寝る度胸はない)

 ワヤン・クリの上演は、他の伝統的上演藝術の舞台とは異なる。ワヤンにおける女性ヴォーカル(プシンデン)はパングラウィトのような、助演者のひとりである。助演者として、伝統的ワヤンでは、ワヤンのときのプシンデンは、ダランの後ろでルバーブ奏者やグンデル奏者と並んで座る。ナルトサブドのワヤンでは、プシンデンはルバーブや男性ヴォーカル(ウィラスウォロ wiraswara )と一緒にダランの右側、コタック(人形の収納箱)のぎりぎりの場所に移されている。またナルトサブドは、ふつうのダランのようにプシンデンが一人か二人ということは無く、各々の地方の特徴を備えた四人ほどのプシンデンを使った。
 ナルトサブドによってなされた変革は以上のようなものであった。伝統的ワヤンの基準から見れば、彼は改革者であった。スラカルタ、またヨグヤカルタ双方の規範に準じるダランには、ナルトサブドはパクム pakem の破壊者、剽窃者、男娼とも看做された。彼らにとって重要なワヤンの形式を浅薄にしたのである。ユーモアを入れ込み、低俗さを溶かし込むことで。こういった拒絶反応は、サルトノ・カルトディルジョによれば、思想としての伝統主義は一般にネガティヴな価値観に変容するものである。共同体に対する脅威と秩序に対する衝撃は、バランスと調和を要求するものなのである 69)。
 ナルトサブドのワヤン・スタイルは大衆の支持を得た。変革は伝統的ダラン界によって規範の変革の参考とされ、共感を得た。ナルトサブドはついに著名で高価なダランとして看做されるに至ったのである。彼のワヤン・スタイルは、ナルトサブドのような成功を得たいダランたち、また彼に真に共感(コンジェム konjem )を持ったダランたちによって模倣されたのも無理は無い。またナルトサブドのワヤン・スタイルは、他の地域のワヤンの要素を取り込み、1970年代まではまだ感じられた、スラカルタやヨグヤカルタのスタイルに対する狂信的傾向を減衰させた。
 ナルトサブド・ワヤンの変革・発展には、彼自身の存在だけでなく、他の理由も存在する。この変革の要因は二つの側面から見出されるだろう。内的要因と外的要因である。

1.内的要因

 ここでの内的要因とは、彼が果たしたワヤン変革・変容のナルトサブド自身に起因する理由を言う。クンチョラニングラトによれば、変革を推進する要因は文化に対する個人的不満、創作活動としてのある文化における専門知識と社会内から受けるシステムへの刺激を基盤とする。社会における新たな変革は、個人の彼を取り巻く環境への不足感、ならびに自身が置かれている状況への不満に基づいて萌芽する。専門家たちの質の向上への切望は、仕事・作品の改良・改善の努力となり、誰もなし得なかった成果へ到達する。この種の努力はもちろん目的あってのものであるが、社会に還元され、模範となり、財産となり、敬意の対象となる 70)。
 クンチャラニングラトの見解では、ナルトサブドのワヤンにおける業績は三つの要因から理解できる。ナルトサブドによれば、ワヤンは進行する時代に沿って(ヌティン・ジャマン・クラコネ nuting jaman kelakone )いなければならない。ワヤンは死んだものではなく、時代と合致して生きているものである 71)。この見解は、ナルトサブドが、規範に縛られ、時代の発展を牽引し合致するように展開できなくなった、伝統的ワヤンに対して満足していなかった、ということを意味する。
 ナルトサブドは、彼の希望に合致していない一般のワヤン上演の、助成者・支援者たらんとしたのである。たとえば、彼はスロアンの詩句がしばしば上演されているラコンに合っていないことを指摘した。ラマヤナ・エピソードのラコンを上演しながら、マハバラタ物語のスロアンの詩句使い、またその逆もある。さらにプシンデンやウィラスウォロの歌う詩句も、しばしばダランが上演しているラコンと合っていない。ナルトサブドはダラン、プシンデン、ウィラスウォロたちに、上演されているラコンに沿った詩句を用い、上演によりいっそうの一体感を持たせるよう求めた 72)。これはワヤンが内包する一つの要素の質を向上させようとする提言である。ナルトサブドの指導は明白な一貫性を持っていた。ワヤンの各上演において、彼はつねに、上演されているラコンに沿った内容のスロアンの詩句を用いた。
 ナルトサブドによる変革は目的から逸れることなく、還元され、模範となり、財産となり、敬意の対象となった。このような意識は彼の談話の中に暗示的に示されている。

 「.....Anggenkula lelumban wonten jagading pedalangan saha kabudayan, kajiwai ngleluri lan ngudi indhaking kabudayan Jawa, ugi kepengin njegaken kendhil.....73)」

 (……私はワヤンと文化の世界に手を染めてからはいつも、ジャワ文化の維持と向上に努めて来たが、鍋だの壷だのを無理強いしようともしている……)

 変革を推進するもうひとつの要因は、ナルトサブドの芸術家としての才能である。彼はダランとしてだけでなく、カラウィタン、クトプラ、ワヤン・ウォンにおいてもその才能を発揮した。こういった才能は変革を推進する重要な資本となった。理想の追求への勇気を与えるのみならず、侮蔑や社会的批判、特に彼と道を同じゅうしないダランたちからの批判に耐える気概を維持するのに必要なものであった。
 ナルトサブドはスラカルタ・スタイルのワヤンだけでなく、ヨグヤカルタやバニュマスのような他の地域のスタイルも研究した。他のスタイルのワヤンの諸要素を、スラカルタ/スタイルを基本とする自分のワヤンに取り込んで活用した。ナルトサブドが開いた方向性は、ワヤンの変革を推進する者の重要な要因を形成したのである。
 ナルトサブドのワヤンへの変革は、伝統的ワヤンに残っていた他の地域のスタイルとの溝を埋めていった。ナルトサブドのワヤンは、既存のワヤンで維持されてきた要素と新しい要素、二つの要素を含んでいたと言うことができる。ナルトサブドは、眼前にある二つの要素、つまり継続されている伝統と自身の才能を、変革のための肥やしとしてワヤンの活性化を導いた。これはスジャトモコ Soedjatmoko の言う、藝術を含む文化の活性化は、継承という生命力と、変容の受容という二つの要素を糧として活性化する、という見解と一致する 74)。
 ゲオルグ・シムメル George Simmel は個人的創造力対既成の文化規範に関して語っている。主観的人生観と個人的創造への欲求は、既成の文化の諸要素を血肉とすることで成長し展開する。このように、個人は主観的創造性を既成の文化の形式と合致させて推進することを強制される 75)。この見解から、公正に見れば、ナルトサブドによってなされたワヤンへの変革もまた、既存のワヤンに拘束されていると言える。とはいえ、この変革はダランの存続への試みとして、ウマル・カヤム Umar Kayam が推奨するものと一致する。

 「……第一に、彼(ワヤン)は新しいイディオムの獲得を必須としている。というのも、現在の次元、言語・時間がそのように要求しているからである。第二に、彼は新しいイメージとアイデンティティへの遷移を必須としている。次元と言語・時間の側面からそのように要求されているからである……76)」

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-03-17 00:24 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナルトサブドの生涯 その14

B. ナルトサブド・ワヤンの開花

 すでに述べたように、ナルトサブドは1950年代、1955年頃までにダランとしての活動を開始した。ワヤン界に参入した初期の頃から1960年代までは、キ・プジョスマルトのワヤン・スタイルに倣い、そのワヤン・スタイルはスラカルタ・スタイルに準じたものであった。とはいえ、変化の兆しは既に表れていて、特にアスティノ王国の最初の場面(ジェジェル)での語りに顕著であった。プラブ・ドゥルユドノを悪者として描写した語りは次のようなものである。

 「 ......Ratu ber bandha, ber bandhu. Ber bandha tegese numpuk brana picis, ber bandhu sugih sedulur. Nagari ana cacade sawetara Prabu Duryudana kurang marsudi rehing tatakrami. Apa ta tandhane? Kadang satus kang nyentana denugung sakrasanira, mula keladuk denya hanggadhani ambeg semonggah sesongaran....... 55)」

 (……王はブル・ボンドにしてブル・バンドゥである。ブル・ボンドとは富を蓄えていることを意味し、ブル・バンドゥとは兄弟の多いことを言う。申し分の無いものとは言え、プラブ・ドゥルユドノは礼儀に意を払うこと、欠けるところあり。何をもってそう言うのか? 百の兄弟は甘やかされ、ほしいまま、その心根は驕り高ぶっている……)

 プラブ・ドゥルユドノの悪人としての描写は、この王が瞑想に入るときの語りにも現れる。祈りが神に受け入れられず、がっかりした様子はこのように語られる。「 ......ati gempung turu njingkrung kudhung sarung........ 」(……怒りにまかせて丸まって眠る……)。全体の表現から見れば、これらはごく小さな一部分でしかないが、A・テーウ A. Teeuw によれば、伝統芸術における些末な変化は、近代藝術でのラディカルな変化に匹敵する効果があるという。というのも、伝統芸術における規範は、近代藝術の規範に比してはるかに厳格なものであるからである 56)。これはまさしく本当のことである。ナルトサブドが施した変化の問題は、ダランたちの間で、第一の場面に内包される哲学的価値観をないがしろにしているものと看做された。第一の場面は象徴的意味を担っている。それは一人の人間が赤子として誕生することを描いているのである。そして赤子から成人へと成長し、善人また悪人となる。誕生の時、年長者はつねにその子が善人となることを願う。こうした見解に基づいて、第一の場面に登場する王はつねにその善き面のみを描写され、負の側面を語ることはタブーとされていた 57)。
 1961年以来ナルトサブドは、しばしばプングラウィトのグループ、グリプト・ララスを使って、スラカルタ・スタイルに縛られない上演を始めた。彼はワヤン上演の諸要素を変え始めた。たとえば、スロアン sulukan 、アドゥガン adegang (場面構成)、グンディン gendhing 、ワヤンの人物の会話にも。第一場面(ジェジェル〈王の謁見所の場〉)での最初のスロアンに通常用いるパテット・ヌム・ワンタ Pathet Nem Wantha は、パテット・ヌム・アグン Pathet nem Ageng に代えられた。パティ Patih 〈大臣〉やトゥムングン Tumenggung 〈司令官〉が軍を招集するパセバン・ジャウィ Paseban Jawi の場では、伝統的ワヤンに従えばオド・オド・ハストクスウォロ・アリット Ada-ada Hastakuswala Alit とハストクスウォロ・アグン Hastakuswala Ageng を続けて奏するのだが、彼はハストクスウォロ・アリットのみを使用した。その他に、彼はスラカルタ・スタイルのワヤンでは「チプトウェニン Ciptawening 〈アルジュノ・ウィウォホ Arjuna wiwaha 『アルジュノの響宴』〉」のような特殊なラコン(演目)でしか挿入されなかったゴロゴロ gara-gara の場面を、ほとんど全ての上演で挿入した 58)。ナルトサブドはまた、ヨウグヤカルタ・スタイルのワヤンの要素を取り入れ始めた。特にスロアン、グンディン、そしてクプラアン keprakan 〈効果音・楽団への指示に用いる金属板の鳴らし方〉などである。ヨグヤカルタ・スタイルのスロアンでは、カウィン・シカリニ・スレンドロ・ヌム Kawin sikarini Slendro Nem 、スロ・プルンチュン Suluk Plencung 、ラゴン・スレンドロ・パテット・ソゴ Lagong Slendro Pathet Sanga 、スロ・ジンキン Suluk Jingking 、カウィ・スカル・プチュン・スレンドロ・マニュロ Kawi Sekar Pucung Slendro Manyura 、そしてオド・オド・スレンドロ・ヌム Ada-ada SlendroNem またソゴ Sanga などがしばしば用いられた。ヨグヤカルタ・スタイルのグンディンでよく用いられたのは、スルパ・スレンドロ・ヌム Srepeg Slendro Nem〈通常はスルパガン srepegan という〉 、スルパ・ソゴ Srepeg Sanga 、アヤ・アヤアン・ソゴ Ayak-ayakan Sanga とサムパ・ソゴ Sampak Sanga であった。ヨグヤカルタ・スタイルのクプラアンはもちろんグンディンと合わせて用いられ、その時のグンディンはヨグヤカルタ・スタイルのものであった。
 ナルトサブドは1952年以来、ジャワのグンディンを作曲する力を示していた。1968年頃までは、彼の作曲した曲はワヤンであまり使用されなかったが、グスティ・パンダワのワヤン・ウォンの上演には活用されていた。1969年半ば頃以降彼の作品がワヤン上演でも用いられるようになった。それ以来、上演では少なくともグンディン・ドラナン Gendhin dolanan 、クタワン ketawang 、またラドラン ladrang で、四曲程度の新曲が使用されるようになった。ナルトサブドの手掛けたドラナンのグンディン曲はゴロゴロの場面だけでなく、リムブ・チャンギ Limbuk-Cangik 〈後宮の場に登場する女の道化〉の場面でも用いられた。リムブ・チャンギの場面で気晴らしにドラナンの歌を奏するというナルトサブドの方式は、後に他のダランたちもまねるようになった。第二の王国の場面(サブランガン Sabrangan )の伴奏では、既存のガラップ・ブダヤン garap bedhayan 〈王宮の舞踊、ブドヨの曲〉に詩(チャクパン cakepan )を歌うシンデン sindhenan の歌を入れるのは、ナルトサブド独自のアレンジであった。ナルトサブド作品はグンディン・ガラップ・ブダヤンの他、マニク・マニンテンManik Mninten 、ロロ・ロロ・グンドン Loro-loro Gendhong 、グロンドン・プリン Glondhong Pring 、ロゴンダン Logondhang 、ウダン・ソレ Udan Sore 、バンディロリ Bandhilori などがある。また彼はワヤンに、クムバン・グルパン Kembang Glepang 、イロゴンダン Ilogondhang 、ランダ・ヌヌ Randha Nunut 、そしてエリン・エリン Eling-eling といった、バニュマス Banyumas のグンディンを取り入れることも始めた 60)。ナルトサブドはジャワ・グンディンのレパートリーの中に、ダンドゥット dangdut やルムバのようにダイナミックな世界の音楽の息吹を取り入れるという革新を行ったのである。彼の作ったさまざまなグンディン曲はカラウィタンの世界に多大な影響を与え、政府公認のプログラムにも紹介されている 61)。
 ナルトサブドのスロアンは基本的にはスラカルタ・スタイルのスロアンで、所々にヨグヤカルタ・スタイルのものを混ぜる、というものであった。一般のダランと同様に、彼もペログ pelog 音階のスロ suluk ではペログ音階の伴奏を用いた。さらに、ペログ音階のスロ以外の、本来スレンドロ Slendro 音階のスロもペログ音階の調性(laras )で歌った。ペログ音階のスロは通常ワヤン・ゲド wayang gedog やスカル・トゥガハン sekar tengahan で用いられるものであった。サブラン・アルス Sabrang Alus 〈海外の王国で、王が優男の場合を言う〉の場面では、伴奏にペログのグンディンを用いた。通常、ワヤン・ゲドのスロアンはパテット・リモ・ワンタ Pathet Lima Wantah を奏し、サブラン・ガガ Sabrang Gagah 〈ガガは逞しい勇壮な人物〉には、スカル・トゥガハンの一種、スカル・トゥガハン・ギリソ Sekar Tengahan Girisa を用いた 62)。
 その他、第一場面でのスロアンの変化で顕著なものを挙げよう。スラカルタの伝統的ワヤンでは、第一の場面においてはスロアン・パテット・ヌム・アグン sulukan Pathet Nem Ageng に続けてオド・オド・ギリソ Ada-ada Girisa を奏する。ナルトサブドは時折第二のスロを省き、パテット・ヌム・アグンの一部を用いた。このスロの第九節から十三節までを歌うのが普通であった。それは、以下のようなものである。

 「..... tawingnya sinawung,
sasat sekar sunuji,
unggyan Banuwati,
ywan amremalangen,
lan nata Duryudana,
lan nata Duryudana
  (……花束のような
   幕で覆われた
   バヌワティのおわすところ、
   幸福な眠りのうちに、
   プラブ・ドゥルユドノと
   プラブ・ドゥルユドノとともに)

 このアスティノ王宮の場面でのパテット・ヌム・アグンの一部によるスロアンを、ナルトサブドはしばしばパテット・マニュロ・アグン Pathet Manyuwa Ageng に代えた 63)。
 ワヤン人物の対話、チャカパン cakapan でもナルトサブドは顕著な変更を行った。それまでのダランは、アスティノ国、またドロワティ Dwarawati 国のジェジェルにおいて、プラブ・ボロデウォを客として登場させることはしなかった。国王からの、ようこその挨拶の後、プラブ・ボロデゥオは必ずこう言うのである。どのラコンでも彼はいつも客になっており、迎える側になったことがないのが不思議だ、と。だからボロデウォはたまには客ではなく、ホストとして国への訪問客を迎えてみたいものだ、と。
 ワヤンの伝統によれば、第一の場面の王こそが、つねに話の口火を切る者でなければならず、それは込み入った問題を抱えて悲しみや困難に苦しんでいるからである。これは統一的支配者としての王の権威と偉大さを示す意味がある。ナルトサブドはそのようにはしなかった。第一の場面で話の口火を切るのは、悲しみや困難に苦しむ王その人ではなく、一族の年長者や格上の別の人物なのである。
 ふつう第一場面の対話は、クリシェ〈定型〉の会話(ギネム・ブランコン Ginem blangkon )で始められる。つまり王とパティ(大臣)、あるいは王子の間に交わされる王国の状況に関する儀礼的、定型的なものであることが一般である。この会話には、王の政治や国民の安寧に対する心遣いが示される。実際には会話に入ってすぐに主題(ポコ pokok、 Jawa; baku)に入ることも多く、すぐさま当面の問題に関する会話になる。例を挙げてみると、大臣または王子のクリシェの会話で、国は平穏な状況で、国民も安寧に過ごしていると報告したすぐ後に、話が主題に入ると国が他国からの敵の脅威にさらされているとか、国民が災害に苦しんでいるという話が続く。ナルトサブドは異なり、第一の場面でクリシェの会話を用いることはなかった 64)。
 バラタユダ演目群は、スラカルタ・スタイルの伝統に従えば、他のラコン群のような場面構成の規則に縛られないものである。特にプラン・クムバン Perang Kembang 、つまりラクササとサトリヨの戦いの場面は、決して異なること無く、バラタユダのエピソードのラコンには必ずプラン・クムバンが挿入される 65)。ナルトサブドによってなされた場面構成の定型への変更は、バンジャラン banjaran という形式のラコン群において明確に表れている。たとえば、バンジャラン・カルノ Banjaran Karna やバンジャラン・ビスモ Banjaran Bisma である。この形式のラコンでは一人の人物の生涯を、誕生からその死にいたるまで描く。もちろん、その人物の一生の出来事全てを描くわけでは無く、精神の成長に重要な役割を果たした出来事や、その人生を彩る出来事を選んで描くのである。キーラー Keeler によれば、バラタユダ演目群とナルトサブドの作ったバンジャランは、既存の場面構成を覆すものである 66)。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-03-16 15:25 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナルトサブドの生涯 その13

 1970年代はナルトサブドのダランとしての新時代である。録音分野への進出は、ワヤン上演に活力を与え、同時に記録としても有用であった。最初の録音は、ロカナンタLokananta で行われた、演目(ラコン)「バヌワティの誓い Banuwati Janji 」(1971年)であった。続いて「描かれたガトゥコチョ Gatukaca Sungging 」(1972年)、そして「クレスノ使者に立つ Kresna Duta 」(1973年)となる。ワヤンの演目と共に、ナルトサブドはグンディンの録音も行った。特に彼自身の創作曲を。ロカナンタの成功はワヤン録音の市場に拍車をかけ、他の制作者たちもナルトサブドのワヤン録音を競って行った。イラ・レコーディング Ira Recording 、ウィサンダ・レコーディング Wisanda Recording 、クスモ・レコーディング Kusuma Recording などである 33)。
 ナルトサブドはその才能でインドネシアの大衆の中心的存在となり、大衆の嗜好に合わせて、近代的メディアであるラジオやカセット業界にも進出して成功を治めた 34)。新たな段階に入ったナルトサブドのワヤンは、過去のワヤンの伝統的規則からの逸脱に満ちている。しかし、その逸脱も、たしかな説得力をもって表現されれば、大衆によって正当なものと看做されるようになる。ポノカワンのお笑い場面に限らず、全ての人物において価値の逆転が起こり、宮廷(クラトン)も村の一つになってしまった。プラブ・ドゥルユドノやガトゥコチョだけでなく、パ・ルラ(Pak Lurah 村長)やパ・Rt (RT=Rukun Tetangga=近所、地域地縁団体の長)その他の者たちもお笑いの対象になった。こうしてナルトサブドのワヤンは民衆に近しいものとなったのである 35)。
 当時のインドネシアは近代化の過程にあった。その影響で、インドネシアの大衆は全般的な社会の変化の結果、さまざまな困難を抱えていた。全体としての問題は、古い世代と若い世代との価値観の相違であった 36)。古い世代の者たちは、若い世代の中で進んで行く価値観の変化に対応しきれなくなっていた。一方、若い世代の者たちは、古い世代が持ち出す、古い価値観に理解を示さなくなった 37)。そのはざまで、ラジオやテレビのような近代的メディアは世界のさまざまな場所から驚きと緊張で我々大衆の心を揺さぶるのであった。それらは若い世代にとって、古い世代の古い価値観よりも意味あるものと考えられたのである 38)。既成の価値観の動揺、衝撃、緊張の表れは、ワヤンを愛する人々にも押し寄せた。伝統的規範に縛られていたワヤンは最早コミュニケーション能力を失い、価値の逆転と驚きに満ちたナルトサブドのワヤンがワヤンを愛する大衆により身近なものとして受け入れられたのである。
 ナルトサブドは物議を醸すダランとしてだけでなく、人気があり、値段の高いダランとしても有名になった。1978年と1979年の間、米1キロが100ルピアから130ルピア、一日の労働賃金が350ルピアから500ルピア、著名なダランの得る報酬が35万ルピアから50万ルピアであった頃、ナルトサブドは一回の上演で80万ルピア程度の報酬を受けていた 39)。1980年代にはさらに上がって250万ルピア、1984年から1985年には300万から500万ルピアにまで至った 40)。ナルトサブドの報酬は少ないとはとても言えない。これはサストロサブドを手がかりとすることが出来る。インドネシア人は儀式的機能を持つ上演藝術が好きなのである。ワヤン上演が普通の娯楽に移行していった時、主催者たちは喜んでできるかぎりの金銭を手放したのである 41)。
 ナルトサブドによって受け取られる巨額の報酬は、公演を減らすどころか、逆に大きな需要を作り出すことになったのである。ジャワのほとんどの街、ジャワ島以外の都市も回った。たとえばメトロ Metroで三回、コタ・ブミ kota Bumi 一回、タンジュン・カラン Tanjung Karang 一回、ジャムビ Jambi 一回、ポンティアナク Pontianak とバリクパパン Balikpapan でそれぞれ一回、さらにジャヤプラ Jayapura で二回。ジャカルタでは、タマン・ミニ・インドネシア・インダ Taman Mini Indonesia Indah 、バライ・シダン・スナヤン Balai Sidang Senayan 、そしてイスタナ・ヌガラ、また大きなホテルのほとんどを回った。1971年から毎年8月27日には、ジー・サム・スー Dji Sam Soe タバコ工場で上演が催された。1973年から毎年7月21日にはラジオ・ワンチャラ・スラバヤ Radio Wancala Surabaya が顧客となった 42)。
 キーラー Keeler によれば、ダランが受け取るような、名声によって巨額の報酬を得ることは、享受する側にとってポジティブな影響を及ぼす。多くの招待客と十分な見物人を約束し、それが大衆の目から見た主催者の権威付けともなるからである 43)。娯楽に多大な費用を供出する余裕があるということは、その人のステータス・シムボルともなる。こういった多大な費用は社会的地位の高い者にしか担えないものだからである。低い階層の者がこういった費用を供出しようとすれば、社会的地位の高い者にくらべ、長い準備期間を必要とするだろう 44)。このように考えれば、ナルトサブドへの需要は、主催者の社会的地位を上げるものであったのだ。
 ナルトサブドの成功と巨額の報酬は、ダランたちの驚きと羨望の的となり、多くの者が彼のような成功を夢見て、その上演・スタイルをまねた。しかし、ナルトサブドを批判し非難するダランたちも多かった。彼のワヤンが伝統を軽んじ、ワヤンを安直な娯楽に貶めたというのである 45)。しかし皮肉なことに、画期的なグンディンと表現技術を擁して伝統的ワヤンの規則から飛び出したダランは生き残り、伝統的規範に縛られた者たちは消えて行った 46)。
 ダラン業界に賛否両論を生むナルトサブドのワヤン・スタイルの存在は、プサット・プワヤンガン・インドネシア Pusat Pewayangan Indonesia が客観的評価を下すにあったて悩ましいものであった。この仕事をナルトサブドは受けた。1976年5月にクバンキタン・ナショナル・ジャカルタ Kebangkitan Nasional Jakarta のビルで、ナルトサブドは、ジャワ文学研究者、カラウィタンの専門家、ダラン、ワヤン研究者、一般人、哲学者などからなる24人のジャッジの前でワヤン上演を行った。招集の後、パンダム・ギリノトが議長を務めるジャッジたちは、ナルトサブドは「最高のダランのひとり」であると決定した。1978年、ヤヤサン・ナワンギ Yayasan Nawangi は週刊ブアナ・ミング Buana Minggu と協力して1978年トップ・ダランを決めるアンケートを求めた。アンケートの結果、一位はナルトサブドで、『お気に入りのダラン Dalang Kesayangan 』の称号を勝ち取った。1972年以来ナルトサブドは政府の藝術賞の候補であったが、1982年にようやく与えられたのであった 47)。
 千万ルピアの報酬とうなぎ上りの人気を博したナルトサブドだが、仲間内ではつねに気を使って話をした。慎重に言葉を選び、他人を批判することは無かった。ワヤン上演の無い余暇の日には、同僚たちへの訪問に時間を裂き、ワヤン・ウォンやクトプラ、ダランの公演に足を運んだ 48)。師と仰いだキ・プジョスマルトに対してはことさら、遠方の上演にも駆けつけ、自分の公演が無い無い時には必ず赴いた。到着するとすぐにガムラン奏者の中に入り、クンダンを交替した 49)。
 ジャワ社会の視点において、ナルトサブドの態度は、各人が仲間内において名誉を守るに必要な理想的態度であった。つねに気を使って話し、慎重に言葉を選ぶことは、成熟した態度であると見なされるのである。余暇を割いて他の芸術家たちを訪問する時は横柄にならず、打ち解けられるよう気を使った 50)。
 ナルトサブドはダランの組織化に積極的であった。1978年、スラット・クプトゥサン・セクレタリアット・ナショナル・プワヤンガン・インドネシア Srat Keputusan Sekretariat Nasional Pewayangan Indonesia (セノ・ワンギ Sena Wangi )、No.2/Kep/Team Formatur/1978でナルトサブドはセノ・ワンギ政策理事会のメンバーに任命され、任期は1978年から1983年まで務めた 51)。またナルトサブドは、パンダアン・ジャワ・ティムール Pandaan Jawa Timur で1977年に始まったインドネシアのあらゆる種類のワヤンのワークショップを行い、積極的にその見識を披露した 52)。
 1983年、ナルトサブドは病をえて腎臓病、糖尿病、高血圧に苦しんだ。一年後、彼はサストロスディルジョ亡き後の、グスティ・パンダワの会長に任命された。1970年代からの大幅な衰退からグスティ・パンダワの栄光を回復する望みが、彼の肩に掛かることとなったのである。一方、ナルトサブドの態度に変化が起こり始めていた。しばしば理由も無く家族に怒りをぶつけることが多くなった。彼はまた以前は決してしなかった家の修繕や、家電の取り替え、修理などをするようになった。これらは、大勢の人たちが彼を訪問した際に恥をかかないようにと気持ちからだった。1985年8月、健康を損ねてはいたが、スラバヤ、マラン、トゥバン Tuban 、ルマジャン Lumajang、クディリで五回の公演を行うことができた。翌月16日にはスマランのカントル・グブルヌル Kantor Gubrnur で、21日にはジャラン・プムダ Jalan Pemuda の2回公演を行った。1985年10月7日月曜日午後7時45分、ナルトサブドはこの世を去った 53)。
 1985年10月8日火曜日、ナルトサブドの遺骸は、午後14時、アングレック十番No.7の家から出発し、悲しみの道を通って、タマン・プマカマン・ウムム・ブルゴタ・スマラン Taman Pemakaman Umum Bergota Semarang に埋葬された。数千の会葬者が墓まで連なり、そこには情報大臣ハジ・ブディアルジョ Haji Budiardjo を初めとする様々な地域の文化人たちが参列していた。インドネシア共和国軍インドネシア陸軍参謀(KASAD Jenderal TNI)ルンディニ Rudini 、陸軍参謀次長(WAKASAD)レチェン・トゥリ・ストリスノ Ltjen Tri Soetrisno 、大統領侍従長(Kepala Rumah Tangga Kepersidenan )サムプルノ Sampurno 、教育文化庁総書記らの弔電があった。花々の降りしきる中、情報大臣ハルモコ Harmoko と内務大臣スパルジョ・ルスタム Soepardjo Rustam の姿も見えた。故人から受け継いだ護符となる、H・イスマイル H.Ismail の「グンディン・イデンティタス・ジャワ・トゥガ Gendhing Identitas Jawa Tengah が演奏される中、中部ジャワ知事の命令に呼号して棺は車に乗せられた 54)。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-03-13 23:30 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナルトサブドの生涯 その12

 ナルトサブドへのワヤン上演依頼は増加していったが、グスティ・パンダワへの誠意がないがしろにされることは無かった。彼は規則に殉じて、時として自身のダランとしてのキャリアを損ねることもいとわなかった。幸いナルトサブドの名声は観衆に影響を及ぼしたので、ナルトサブドの方でグスティ・パンダワの仕事を考える決定権を持つに至った。収入から見れば、ワヤン上演で得る方がグスティ・パンダワから受け取る謝礼金よりはるかに多かった 22)。このナルトサブドの態度は、かつてサストロサブドから受けた恩を思えば過ぎたものではなかった。今、彼の持つ芸術家としての才能は、サストロサブドの手助け、後押し、指示、援助あってのものだったからである。彼の持つ才能は、サストロサブドへの恩返しとして、グスティ・パンダワを助けるために用いるのが相応しい。現行の社会において、『相互扶助のシステム』はすべての構成員によって活かされなければならない。他の人から受けた恩は、つねに受けた恩よりも多いお返しで報いられる。というのも、社会での通説は『名声を失うよりも、より多く返すほうが良い』(ティニムバン・カラ・ウウォン・アルウン・カラ・ウワン tinimbang kalah uwong aluwung kalah uwang )のである。社会におけるこのシステムは、とても敏感なものである。このシステムに違反すれば、結果的には社会から排除されることになる。
 1961年頃ナルトサブドはバライ・コタ・スラカルタ Balai Kota Surakarta 〈スラカルタ市庁舎〉でコンセルファトリ・インドネシア Pengajar Konservatori Indonesia 〈インドネシア音楽院〉(現在のスコラ・ムヌンガ・クスニアン・インドネシア Sekolah Menengah Kesenian Indonesia 〈インドネシア藝術高等学校〉)の教員スタッフたちとの上演を行った。サウィト・ボヨラリ Sawit Boyolali 〈中部ジャワの村、サウィトは村規模の行政区画〉のグリプト・ララス Ngripta Raras の一団とウィスモ・ヌグロホ Wisma Nugraha でカラウィタンの共演もあった。メンバーの大部分がダランであるグリプト・ララスは、公演が終わると、時間を割いてバライ・コタへワヤンを見に来てくれた。仲間のダランの上演を見に来たダランはふつう、ガムラン奏者たちの中に入って演奏に加わるものである。グリプト・ララスの団長、スリ・モロ・モロチャリト Sri Mara Maracarito  はクンダン奏者と代り、他のメンバーたちも、ボナン、グンデル、ルバーブなどの奏者と入れ替わった。上演が終わると、ナルトサブドはグリプト・ララスの団長と会い、お礼を述べて、グリプト・ララスのメンバーの演奏について語り合った。それから、一緒に仕事をしないか、と提案した。この申し出をグリプト・ララスは受けて、それ以来ナルトサブドのワヤン上演の大部分をグリプト・ララスのメンバーが伴奏することとなった。
 ナルトサブドはブン・カルノに愛されたダランの一人であった 25)。ブン・カルノ個人の持ち物である上着とズボンのセットを贈られたこともあった。この贈り物はブン・カルノ個人によるもので、1960年代初め、ナルトサブドがイスタナ・ヌガラでワヤン公演を行った後のことであった。インドネシア中のダランたちは、彼がそのような報償を受けるに値するアジマット(宝)として尊ばれることをもっともであると考えた。ナルトサブド個人としても、ブン・カルノに呼ばれることはダランとして認められたことの証であった。ブン・カルノによれば、人間は生きるにおいて四つの行いを為さねばならない。つまり、タウヒード tauid 、イバダー ibadah 、アフラック akhlak 、そしてブルイルム berilmuである。タウヒードとは、トゥハン・ヤン・マハ・エサ〈唯一神〉への堅固な信仰である。イバダーとは、トゥハンの名を讃え、その命に服し、その禁忌を避けることである。アフラックとは、人間は真実と虚偽、善と悪を理解し、社会生活において非難されることのない称賛に値する行為を為さねばならない、ということである。ブルイルムとは、人間は生きる糧として食料を求めるのと同じように、多くの知識を求めなければならない、ということである。ナルトサブドによってブン・カルノの教えは、プンデト(僧侶)が弟子や孫子に説教をする場面でしばしば語られた 26)。
 1963年、ナルトサブドは一箱のワヤン・クリを作り終え、スマランのジャラン・アングレック Jalan Anggrek Ⅹ No.7に一筆の土地を購入した。ワヤン上演での稼ぎによるものだった。その後家を建てるために貯金を始めた。むろん家を建てるのにもワヤン上演での稼ぎをあてにしていた。日常生活にはグスティ・パンダワからの報酬で十分だったからである。グスティ・パンダワからの報酬は、カラウィタンのリーダー、クンダン奏者、演目のアレンジ、ワヤン・ウォンの場面構成作者としての地位として十分なものであったし、仲間たちともお馴染みであった。毎日三四人の仲間の面倒も見ていた。日々の必要には十分な収入を得ていたからである。ワヤン上演の際、ナルトサブドは25,000ルピアから30,000ルピアの報酬を得ていた。当時、他の新人ダランは15,000ルピア程度であった。毎月10回弱の上演があり、2年半ほどで新しい家が建った 27)。ナルトサブドは、プングラウィトの報酬を他のダランの倍にして、プングラウィトたちが常に上演に参加するよう束ねていた。能力以上の報酬を得たと感じた彼らは、他のダランとナルトサブドの上演がぶつかったときには、必ずナルトサブドに従ったのである。
 1965年9月30日のPKI(インドネシア共産党)のクーデター未遂の結果、全インドネシアの藝術活動は、ほぼ半年間停止した。共産主義活動に関係したダランたちは、ある者は殺され、ある者は投獄された。ナルトサブドは他のダランたちのように、この運動には関係しなかった。新政府は藝術活動の再開を支持し、ワヤン上演も再開された。まさにそのあとに、ナルトサブドの飛翔があったのである 28)。
 ダランとしてのキャリアが登り調子になったナルトサブドは、個人的利益だけでなく、他人の手助け、芸術家たち、特にワヤンの発展に寄与することを喜びとした。彼は熱心に、ミシガン大学のワヤン教育プロジェクトを支援し、その担当者、パンダン・グリトノ Pandam Guritno にワヤンのパクムの書を貸し与えた。さらにデモンストレーション用に30体のワヤン人形をミシガン大学に快く売ったのである 29)。
 ナルトサブドとグスティ・パンダワの座長、サストロサブドの関係はますます親密になって行った。ナルトサブドはサストロサブド亡きあとは、グスティ・パンダワの座長となることを期待されていた。しかし、サストロサブドの希望は実現しなかった。彼が亡くなった後(1966年)、グスティ・パンダワの座長を引き継いだのは弟のサストロスディルジョ Sastrosudirdjo であった。ナルトサブドには公演のリーダーとしての仕事のみが与えられた。グスティ・パンダワに対する方針はサストロサブドとは異なっていたので、ナルトサブドとの間に緊張関係が生じた。家が建ったので、ナルトサブドと家族はグスティ・パンダワの宿舎からスマランのジャラン・アングレック十番-7の家へ越した。それ以来、ダラン業に忙しくなり、グスティ・パンダワの公演に行くことが稀になっていった 30)。
 1969年4月1日、ナルトサブドはカラウィタン楽団チョンドン・ラオス condong Raos を結成する。ナルトサブドはそのリーダーとなった。楽団員の大部分はグリプト・ララスの者であり、スマランとスラカルタの RRIからのメンバーも追加された 31)。チョンドン・ラオスはプロのカラウィタン楽団であった。メンバー全員がグンディン、クルネガン、踊りの伴奏、ワヤンの伴奏の訓練を積んだ者であった。チョンドン・ラオスを擁したナルトサブド一座は、さらに人気を博して行った 32)。これは、ワヤン上演の成功がダラン個人の能力によるものだけでなく、プングラウィトたちの力にもあることを知らしめることとなった。ナルトサブドが彼の指導の元にチョンドン・ラオスを結成したことは、プングラウィトのメンバーとの靭帯の強化が、プロのダランとして成功するために重要であるとの考えの表れである。
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by gatotkaca | 2012-03-12 23:21 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナルトサブドの生涯 その11

 1955年、1950年以来のワヤン・クリのダランになるというナルトサブドの努力と希望は叶えられた。彼はすでに大衆に、面白おかしいワヤン・クリのダランとして知られていた 12)。滑稽さの他に、プラブ・ドゥルユドノを悪く描写する語りも見られた。一般的なダランの間では、王を悪い人間としてネガティヴに描写することは、禁忌とされていたが、ナルトサブドはそれに反した表現をしたのである。祈りを神に取り上げてもらえなかったプラブ・ドゥルユドノの失望の様は、次のように描かれる……。『 ... ati gempung turu njingkrung kudhung sarung ....... 13)』(……怒りにまかせてサルン(腰布)にくるまって丸くなって眠る……)。
 このようなプラブ・ドゥルユドノの失望の描写は、当然ワヤンの伝統に無い出来事を見た観衆にショックを与えることを意図していた。観衆の気を引くことを目的としていたのである。『怒りにまかせてサルンにくるまって丸くなって眠る』という表現は、ナルトサブド自身の心のうちから現れたものであり、自身の境遇に対する思いでもあった。彼の生まれ育った村での境遇、子どもたちや人々が眠る時、サルンにくるまっていた習慣を当てはめたのである。ワヤンが上演される所でも同じであった。お客たちの後ろに、子どもたちは眠る場所を求めて、それぞれのサルンにくるまるのであった 14)。サルンにくるまって、丸くなって眠るプラブ・ドゥルユドノの描写は、ふつうの人々が眠る様子と同じように描写され、それはナルトサブドが自身の周囲の有様を五感で捉え、意識化した成果なのである。このようにして、ナルトサブドのワヤンは結果的に大衆の身近なものとなったのである。
 普段はプングラウィトとして、またプロのダランとして、ふたつの職を兼業した。たんなるプングラウィトだけでなく、ダランとしても大衆に認められて行ったのである。ワヤンの公演が無い時は、もとのプングラウィトに戻るのである。またナルトサブドは、ワヤンの公演が無い時はグスティ・パンダワのワヤン・ウォンのダランを勤め、ルーチンワークをこなして責任を果たした。
第二章で記したナルトサブドとRRIジャカルタのカラウィタンのリーダー、スキマンの関係は、ナルトサブドのダランとしての活動に新局面を開いた。ナルトサブドに世話になったと感じていたスキマンは、恩返しがしたいと思っていたが、どうすればいいかまだ分からなかった。こうしたスキマンの立場をナルトサブドは活用し、RRIジャカルタのワヤン放送の機会を得ることができた。1958年4月28日、ついにRRIジャカルタのワヤン放送でナルトサブドの演ずる「クレスノ使者に立つ Kresna Duta 」が放送された 14)。
 RRIジャカルタでのワヤン放送という、ナルトサブドの念願が叶ったのである。ブランドン Brandon によれば、1958年から1963年までインドネシア全土には220万個のラジオがあり、それは当時のインドネシアの人口の2パーセントにあたる。1958年、近代的コミュニケーション・メディアはラジオと映画であり、テレビがインドネシアに流通するのは1962年になってからである 16)。ラジオが最も広範囲に及ぶ近代的メディアであることは否めない事実であり、大衆向け放送の効果は絶大であった。ワヤンの放送がラジオで始まると、ムジョコ・ジョコラハルジョ Mudjoko Djokorahardjo によれば、ダランたちの誇りとなった、という。彼のワヤンは政府も認めるところとなり、彼自身も有名になり、そのワヤンは大衆に愛された 18)。RRIジャカルタで始まったナルトサブドのワヤン放送の目的は、政府にも彼の才能を認めさせ、同時にワヤンを愛する大衆に彼自身を知らしめることにあった。
 RRIジャカルタの放送以来、ナルトサブドのワヤン上演依頼が多くなった。もちろん、彼のワヤン上演は、サストロサブドに知らせ、許可を得てのものだった。というのも、彼はまだグスティ・パンダワのワヤン・ウォンの重要なメンバーであったからである。プロの商業組織として、グスティ・パンダワはつねに上演のクオリティーに気を使っていた。それにはメンバーたちの強力が必要であった。メンバーを安定させるために厳しい規則が定められていた。全メンバーが、土曜の夜と祝日、グスティ・パンダワが公職者の訪問を受けた時の外部公演は禁止であった。この規則は、ナルトサブドのプロ・ダランとしての活動に少々影響を与えた。結果的に、土曜の夜のワヤン上演に呼ばれる度に、彼はまず代理人を送らねばならず、そのあとグスティ・パンダワの仕事を終えてから、彼が改めて代理人に代ってダランを務めることとなった。
 グスティ・パンダワへの公職者の来訪では、ナルトサブドのワヤン上演がしばしばプログラムにのった。訪問が事前に報告され、ワヤンの上演日とぶつかってしまった時は、ナルトサブドは、上演に代理人を送ることを受け入れてもらうか、上演の日を延期してもらうのであった。1960年代、ナルトサブドは、官僚の訪問の日が変わったため、三度も上演日を遅らせてもらったこともあった。たびたび代理人を立てたり、日を延期したりが重なったので、上演の主催者は失望させられたが、大衆の支持と信頼は減ることはなく、ワヤンでのナルトサブドの実績は人々の知るところとなっていった 18)。
 登場以来1960年代まで、ナルトサブドのワヤンは、クワサ・クラテンで著名だったダラン、キ・プジョスマルトのダラン・スタイルを模倣したスラカルタ・スタイルのワヤンであった。ナルトサブドは、彼にワヤンを習ったことはなかったが、キ・プジョスマルトを師と考えていた。1936年から1939年まで、ナルトサブドは彼のクンダン奏者を務めていたから、ダランとして登場した初期の頃にこの人のスタイルに倣ったのは、ごく自然なことであった 19)。
 ダランたちの世界では、ひじょうに著名なダランたちのスタイルが、若いダランたちのスタイルに影響を及ぼすのがひとつの慣習であった。若いダランたちは意識的に、手本とするのに相応しい、著名なダランたちのスタイルを見て模倣したのである(ウグラン ugeran )。それがダランとして成功する鍵であった 20)。別の見地から言えば、ナルトサブドは当時、プロのプングラウィトからダランという新しいプロフェッショナルになる途中経過の中にあった。この過程で、彼はそれまでの職と新しい職の両方に対する自己の態勢に迷いがあったのである。キ・プジョスマルトのワヤン・スタイルを手本として選んだことは、正鵠を射た判断であったと言える。というのも、ダランという新しいプロの道に対して自問自答する手立てとなったからである。移行時のモデル活用について、サルトノ Sartono は言う。

 「……変化の時、人は、それまでのものと、新しいものとに対する姿勢と行為においてまだ迷いをもっており、調性を見出す指針としてモデル(手本)の存在を必要とする…… 21)」
 
(つづく)
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by gatotkaca | 2012-03-11 23:17 | 影絵・ワヤン | Comments(0)