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木から落ちた猿

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ワヤン・クリの歴史 デマク〜現代 その3(最終)

Ⅸ.カルトスロのマンクラットⅢ世(1703-1704年/1620-1629年)とパンゲラン・プグルまたはパク・ブウォノⅠ世(1704-1719年/1629-1644年)時代

 ワヤン造形の発展
a. ワヤン・サブランガン(海外の武将・王)、リイェパンの目で腕にバジュ、クリスを持つ。
b. クニョワンドゥの製作
c. パンゲラン・プグルの命でワヤン・マタラムが製作される。特に下記のウォンドが重要。
 1.スユドノ(ドゥルユドノ)、ウォンド・ジョコ Jaka
 2.プントデウォ、ウォンド・パヌクスモ Panuksma
 3.ガトゥコチョ、ウォンド・キラット Kilat

クニョ・ワンドゥにチョンドロ・スンコロが銘うたれる。
ブト・ヌムバ・ワヤンギ・サトリア Buta(ラクササ)=5 Nembah(拝跪)=2 Wayang(影)=6 Satria(クシャトリア)=1 →サカ歴1625年

Ⅹ.カルトスロのPB(パク・ブウォノ)Ⅱ世時代

 プロムコニョ Pramukanya と名付けられたワヤンが製作された。これは今もワヤン・プソコ(宝物)としてスラカルタの宮殿に保存されており、ワヤン・インドゥク induk(親)(babon=雌鶏)とされている。

 PB Ⅱ世自身によって製作されたワヤンがある。
a. チュルマングラウィット cermangrawit
b. チュルモゴンド Cermaganda である。

 ワヤンのウォンドは
1.ボロデウォ、ウォンド・パリプクソ Paripeksa (激しい/冷酷な)
2.スティアキ、ウォンド・ウィスノ Wisna(穏やかでない気分)
3.ビモ、ウォンド・リンタン Lntang
4.スバドゥロ(スムボドロ)、ウォンド・ランチェン Lanceng
5.スマル、ウォンド・ギヌック Ginuk
6.スマル、ウォンド・ムンドゥン Mendung
7.ペトル、ウォンド・ジャムブラン Jamblang (バティック・スタイルの名)
8.バゴン、ウォンド・グムボル Gembor
9.ラクササ、ウォンド・マチャン Macan(虎)
10.ドソムコ(ラウォノ)、ウォンド・ブンギス Bengis
11.ソムボ、ウォンド・スムボド Sembada
12.ノロヨノ、ウォンド・グブラッグ Geblag
13.コクロソノ、ウォンド・キラット kilat
14.ガトゥコチョ,ウォンド・タティット Tathit
15.バムバンガン(アルジュノの子ども役の若い武将の人形)、ウォンド・パダシ Padasih (慈しみを表す)
16.アビマニュ、ウォンド・ランクン Rangkung

 PB Ⅱ世時代、プロムコニョと名付けられたワヤンが200体作られ、ブト・テロンの人形にチョンドロ・スンコロが記された。
ブト・リモ・モンサ・ジャンマ Buta(ラクササ)=5 Lima=5 Mongsa(食べる)=6 Janma(人)=1 →サカ歴1655年

Ⅺ. PB Ⅲ世時代

 1745年、PB Ⅱ世は王国の首都をカルトスロからスラカルタへ移した。1749年、PB Ⅱ世はVOC(オランダ東インド会社)に強制されてPB Ⅲ世に王位を移譲した。以来、オランダによる植民地化が始まったのである。

 PB Ⅲ世は、息子のアディパティ・アノムに、ワヤン・プロムコニョを規範としたワヤンの製作を命じた。それにはいくつかの変更が加えられた。
a. いくつかのワヤン・ウォンドの製作。
b. 目が一つのラクササと猿。
c. 200体のワヤンに、主役ではないものを追加した。このワヤンはキヤイ・マング Kiyai Mangu と名付けられ、下記の銘が打たれた。
ーゴンドタルノ Gandataruna
ーチュルモパングラウィト Cermapangrawit

 アディパティ・アノムもまた、プロムコニョを手本としたワヤンの製作を命じた。
a. ビモがギリンウェシの王となった時の人形、トゥグ・ワセソ Tugu Wasesa が加えられた。
b. ドソムコの、目が一つのウォンド・ブリス Belis(悪魔)の製作。
c. クムボカルノ、目が一つのウォンド・ムンドゥン Mendung (黒雲)
d. ロロイルン(若い日のスムボドロ)、ウォンド・ランチュン Lanceng

 これらのワヤンは1708年(サカ歴)に揃えられた。チョンドロ・スンコロは与えられなかった。しかし、人形の足の間(大地を表す)に、ワヤンの名と年が記されている。
 このワヤンは、キヤイ・カニュット Kanyut と名付けられた。
 キヤイ・マングとキヤイ・カヌットの違いは
1. キヤイ・マング  プロムコニョを引き継いだものである。
  キヤイ・カニュット プロムコニョとは系統が異なるが、造形は類似する。
2. 装飾
 キヤイ・マングの装飾(花飾り)は大きく、グムパラン(gempal=破裂する)やパテカン(Patek=くさび)の装飾法による。
 キヤイ・カニュットの花飾りは小さく、ブルディラン(bludir=金糸で綴られた花)の装飾法による。

Ⅻ. 1710年

 アディパティ・アノムがワヤン製作を命じた。これはカルトスロのワヤンよりも大きく、背の高い(ジュジュット jujut)ものであった。

 このワヤン・ジュジュタンで注目すべきは
1.プルマディ、ウォンド・キナンティ Kinanthi。
2.プルマディ,ウォンド・カドゥンKadung。
3.アビマニュ、ウォンド・ボンティット Bontit.
4.ビモ、ウォンド・グルナット Gurnat。
5.コクロソノ、ウォンド・カゲット Kaget。
6.ペトル、ウォンド・ムスム Mesem(驚愕する)。
7.バゴン、ウォンド・ゲンケル Ngenker またロティ Roti(敗北しても負けをみとめない)。

 ワヤンの形態は
ーラクササと猿の目が一つになる。
ーラクササ・サブランガン sabrangan(海外の)はバジュ(上着)を着けている。
アルンコ国の王子たちはボコンガンではなくドドタン・クンチョを着ける。
キヤイ・プロムコニョ・カディパテン Kiya Pramukanya Kadipatenと名付けられる。
印は
1.チュルモ・パングロウィット Crema Pangrawit
2.ゴンドタルノ Gandataruna
3.チュルモナタス Cremanatas
4.チュルモドゥロノ Cremadrana
5.チュルモタルノ Cremataruna
6.チュルモジョヨ Cremajaya

 この年以降(1710-1784年)ワヤンの二本の足の間(大地)に黒を塗ることは禁止された。

ⅩⅢ.PB Ⅳ世時代

 1755年に、王国はスラカルタとヨグヤカルタに分裂した(HB=ハマンク・ブウォノⅠ世)。間もなくRM・サイド Said の抵抗で、スラカルタはカスナナンとマンクヌガランに分裂、RM・サイドはマンクヌゴロⅠ世となる(1757年前後)。

 1788-1820年、スラカルタはPB Ⅳ世が治めた。PB Ⅳ世時代に作られたワヤンは
1.キヤイ・ジマット Jiamt
 キヤイ・ジマットはキヤイ・マングを手本とし、2〜5cmほど丈が高い。1タナ tanah (1ルマ lemah=ワヤンの足の間の幅)
 その他の変化
ーすべての王は、トポン・マフコタ(帽子型の王冠)を着ける。
ーいくつかのウォンドが追加された。
ーワヤン・リチカンが追加され、独立して作られた(ricikan=人物でないワヤン)
 このワヤンにはチュルモ・パングラウィト Crema Pangrawit またキヤイ・ゴンド Kiyai Gandaの銘が付された。キヤイ・ジマット製作後のことである。

2.キヤイ・カドゥン Kadung
 PB Ⅳ世はキヤイ・カニュットを手本としたワヤンも製作した。これらは1タナ(3-5cm前後)大きいサイズである。
 その他の発展としては
ーいくつかのワヤン・ウォンドの追加。
ーワヤンの小道具,着衣がキヤイ・ジマットのパターンから多く作られた。
ー女性もキヤイ・ジマットを手本に、サイズが大きくなった。
この時、PB Ⅳ世は、パラル・クラテンからサドンサ Sadonsa というダランを召した。彼は宮廷外でワヤンの作り手として著名であった。サドンサはウォンド・クレノ Krena (クレスノ)のバトロ・グルのサイズを拡大するよう注文された。
 キヤイ・カドゥンは、サカ歴1721年(西暦1795年)に完成した。総数はリチカンを除いて202体である。サドンサ製作のものも含めて、チュルモ・パングラウィト・Cs Crema Pangrawit Cs の銘が与えられた。
 PB Ⅳ世は、ワヤン・ゲドグの作成も命じ、キヤイ・デウォ・カトン Dewa Katong と名付けられた。

3.PB Ⅳ世の時代、カルトスロ・プロムコニョまたパンゲラン・シンゴサリⅠ世 Pangeran Singasariのプロムコニョ・カディパテンを手本としたワヤンも作られた。
 このワヤンはラクササと猿の目は二つであり、(カセプハンの)老ダランたちに採用された。
 ワヤン製作時にはプロムコニョを手本とするのが一般的であった。一方、若いダランはキヤイ・マングかキヤイ・カニュットを採用した。
 ワヤン上演でダランが使用するのは、サイズの大きくなる以前のワヤンであった。キヤイ・プロモコニョ、キヤイ・マング、キヤイ・カニュットを手本とするサイズのものである。
 この時代のワヤン業は、ワヤン制作時にはサドンサを師とした。

4.ワヤン・ロモ
 PB Ⅳ世はワヤン・ロモ Rama も製作した。このワヤンはラマヤナ専用で、アルジュノサスロ・バウ、ロコポロ、ロモの物語に用いる。このワヤンは猿とラクササがたくさんある。
 ワヤン・ロモの形状は
a. ドソムコ、クムボカルノ、アルンコの兵といった全てのラクササはひとつの目で、腕は二本であった。
b. ロモとレクスモノはサムプルを着ける。
c. 王はマフコタを冠る。
d. 王になったスグリウォはマフコタをつける。
e. 王になる前のスグリウォとスバリは、グルン(の髪型)である。
f. すべての猿の目はひとつである。
g. スマル、ガレン、ペトルはロモとレスモノに従う。
h. ワヤン・ロモのウォンドはワヤン・プルウォ・マハバラタを手本とする。

 ロモのウォンドはクレスノを、レスモノはアルジュノのパターンを採用した。
 サカ歴1728年(1804年)に完成。

ⅩⅣ. PB Ⅴ世時代

 1820-1823年、スラカルタはPB Ⅴ世の統治下にあった。
 この時代にワヤンはひじょうに普及し、ジャワ全土に広まった。民衆の間で、各々に名の無いワヤンが製作された。
 ワヤンは大衆のものとなり、すみずみまで広がり花開いたのである。

ⅩⅤ.マンクヌゴロ時代

 1850-1860年前後にマンクヌガランでワヤン・プルウォが製作された。キヤイ・サブ Kiyai Sabetと呼ばれる。
 ワヤン・クリは独立時代までも生き残り、形状は今日も変わらない。

ⅩⅥ.独立後の時代

 独立後、ワヤン・クリ・プルウォは、保存されなければならない国家的文化遺産として認識された。
 形状は固定され、今日まで維持され、全インドネシア民族のものとなった。

 インドネシアのワヤン、特にワヤン・クリ・プルウォが注目され、今日も議論され開拓されている。こうしてワヤン・クリ・プルウォという国家的文化はすべてのインドネシアの民衆の心の中にあるものとなったのである。

(了)
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by gatotkaca | 2011-09-02 23:45 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤン・クリの歴史 デマク〜現代 その2

Ⅵ.スルタン・アグンの時代(1613-1645年/1538-1570年)

 ワヤンの目の形状・種類に発展があった。リイェパン liyepan 、ドンドンガン dondongan 、テレンガン Thelengan その他。サストロ・グンディン Sastra Gending の名で知られる哲学作品による。

 ワヤンのウォンドが作成された。
1.ボロデウォ、ウォンド・ゲゲル (geger=騒動)。
2.クレスノ、ウォンド・グンドゥレ(gendreh=気高い行為)
3.アルジュノ、ウォンド・マング(mangu=ためらい)
4.スムボドロ、ウォンド・ランクン(rangkung=スリム、タイトなボディ)
5.バヌワティ、ウォンド・ゴレ(golek=人形)
6.スマル、ウォンド・ブルブス(berbus=涙が出る、泣く)
7.バゴン、ウォンド・ギルット(gilut=追求する、歯がない=権力をもたない)
8.スマル、ウォンド・ドゥクン(dukun=医師)
9.ペトル、ウォンド・ジュレゴン(jlegong=胸が小さい、腹が大きい)

 炎の髪のラクササ=ブト・ラムブット・グニにチョンドロ・スンコロ candra sengkala が与えられる。
ウルビン・ワヤン・グムニン・トゥンガル Urubing(urub=炎)=3 Wayang=6 Gumuling(転がる)=5 Tunggal(一)=1 →サカ暦1563年
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Ⅶ.アマンクラット・トゥガル・アルムの時代

 ワヤンの進展は以下の通り。
1.プノカワンにバゴンが使われる(1680年前後)。
 に種類の物語(ラコン)が存在する。
a. ラコン・カセプハン kasepuhanは、キヤイ・パンジャン・マス Kiya Panjang Masに集められた。この物語は王宮で上演された(カセプハン/西)。プノカワンはスマル、ガレン、ペトルである。
b. ラコン・カノマン kanoman は、ニャイ・アンジャン・マス(カノマン/東)に集められた。この物語はカディパテン Kadipatenn (公国)で上演された。ポノカワンはスマル、ガレン、ペトル、バゴンである。

2.変化
a. 神々はスレンダン(肩掛け)を着け、クリスを持つ。チュラナ(ズボン)は着けず、バジュ(上着)を着て靴をはく。
b. プンデト(僧侶)はバジュと靴を身に着ける。

3.ワヤン・ウォンドの製作
a. ビモ、ウォンド・リンドゥ・パノン(lindu=振動、panon=ヴィジョン→激情や怒り、また激情にかられた憤怒)
b. アルジュノ、ウォンド・カニュット(kanyut=心惹かれる)
c. アルジュノ、ウォンド・パンガウェ(pangawe=手を振って呼ぶ)
d. ガトゥコチョ、ウォンド・グントゥル(guntur=雷=とんでもない強さ)
e. バヌワティ、ウォンド・ベロック(berok=髭が長いヤギ、大胆で挑戦的な態度をとることの多いもの)

 チス(鉤竿)を持ち、ルムブ・アンディニに乗ったバトロ・グルに、チョンドロ・スンコロが与えられる。
エスティニン・パンディト・マルガニン・デウォ Esthi(思考)=8 pandita(僧侶)=7 marga(道)=5 デウォ(神)=1 →サカ歴1578年
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Ⅷ.マンクラットⅡ世時代

 ワヤン製作で特記すべきは
a. アルジュノ、ウォンド・マング mangu(疑い)
b. クレスノ、ウォンド・ランドンrandon(葉)
c. ボロデウォ、ウォンド・カゲット kaget(驚愕する)

 アルジュノ・ジマット、カニュットそしてマングの製作にはタブーがあった。それで、ダランたちはアルジュノのワヤンにウォンド・キナンティ kinanthi を作った。
 マンクラット・カルトスロのワヤンが完成した後、記念のチョンドロ・スンコロが与えられた。
ラクササ・エンドグ Endog(卵)に
マルゴ・スルノ・ワヤンギン・ジャンマ Marga(道)=5 Sirna(滅する)=0 Wayang=6 Janma(公け)=1 →サカ歴1605年
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 このマンクラットⅡ世時代に王国が、プレレット(ジョクジャ、バントゥル地域)からカルトスロへ、オランダによって移された。以来、ジャワ王国の王の戴冠はオランダの入植者によって行われた。

(つづく)
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by gatotkaca | 2011-09-01 22:43 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤン・クリの歴史 デマク〜現代 その1

 ワヤンの歴史は千年というのですが、影絵芝居ワヤン・クリそのもので現在確認できるものは、1478年に成立したデマク王国の時代以降のものです。それ以前のモジョパイト時代は多分、絵巻物のワヤン・ベベルであっただろうと思われます。以前載せたH・グリトノの論文よりもやや、細かい説明のある、「Mengnal Wayang Kulit Purwa oleh Soekatno,B.A. Aneka Ilmu ,Semarang 1992」の記載に基づいて、影絵芝居人形として成立したワヤン・クリ・プルウォの歴史を概括します。

ワヤン・クリ・プルウォの歴史

Ⅰ.デマク王国時代

 「現在」の形状の、中部ジャワ・スラカルタ・スタイルのワヤン・クリ・プルウォの歴史は、デマク時代から始まる。

 1478年、モジョパイトが滅亡する。デマクが立国し、ラデン・パタが初代の王となった。その治世は1478年-1518年である。その後1520年-1521年にパンゲラン・サブランガンが代って王となった。

 ジャワ島の王やワリ(宗教指導者)たちは、この地の藝術を愛し、ワヤンも愛した。彼らは積極的にワヤンの完成度を高めた。チャンディのレリーフの中に描かれたワヤン・プルウォは、ワヤン・ベベルの形態をとり、形を変え、より完成度を高めた。この変化は、その形状、デザイン、そして上演形式、道具類、そして意味合いもモジョパイトのものから変化した。むろんイスラム教と衝突しないようにである。

 チャンディのレリーフに見られるワヤン・プルウォの形状の規範は、バリ島に受け継がれ、今に至っている。デマクのイスラムの人々、特に王やワリたちは下記のような変化を与えた。
1. 1520年以前、ワヤンは絵で描かれ(2次元)たが、斜めに描かれ、チャンディのレリーフとは異なる。
2. 材料はなめらかな水牛の皮で、上品な装飾が施されている。
3. ワヤンは二つの色で描かれている。それは、
 ー基本としての白,白色は焼いたりなめらかに砕いたりした骨から作られる。
 ー黒色で部分を描く、黒はオヤンOyan (ランプのすす)から作られる。
4. 斜めの顔で描かれ、胴体に付く手はまだ一本である。握りとしてのガピットが付き、穴の開いた木に刺すようになっていた。
5. 図像の規範は通常モジョパイトのワヤン・ベベルから採られている。各々の独自のパーソナリティが作られ、ダランの左右に並べられる。

Ⅱ.1521年

 ワヤンの形状は、ラマヤナ、マハバラタの物語の上演に合わせて人物の数が増やされた。上演は徹夜で行われた。ワヤン人形の人物は追加されていった。

 追加されたワヤンの種類は
1.ワヤン・リチカン、たとえばグヌンガン、プラムポガン、動物,猿。
2.上演用の道具・設備類も増えた。カイン(布)からクリル(スクリーン)が創られ、ワヤンの保管用にコタック(箱)が、人形を立てたり並べたりするためにはバナナの幹が使われるようになった。照明はブレンチョンが使われるようになった。ワヤンはクリルに、ダランの左右に並べられた。スロ(ダランの朗唱)やパテット(ガムランの旋法)も定められた。楽器はスレンドロ調のガムランが用いられた。
3.さらにデマク王国時代には、ワヤンに彩色と金箔が施された。

Ⅲ.パジャン王国時代
 1546年、ジョコ・ティンキルがパジャン王国のスルタンに即位した。崩潰しかかっていたデマクは征服された。ジョコ・ティンキルは1546-1586年(40年間)の間、王位にあった。
 1556年、芸術家たちを集めて、スルタン・パジャンはワヤンを製作した。それは、当時の他のワヤンよりも小ぶりのサイズのものであった。このワヤンには「ワヤン・キダン・クンチョノ wayang Kidang Kencana (黄金の鹿)」の名が与えられた。

 このワヤンには、以下のような発展がみられる。
1.王の人形たちはマフコタ(トポン・マフコタ 王冠)を着けている。
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2.クサトリア(武将)はその髪型がグルン gelung またンゴレ ngore で、ドドトとチェラナを着ける。(訳注:グルンはアルジュノのように巻き上げた髪型、ドドトは足下に靡かせたカイン、チュラナはズボン)a0203553_7314929.jpg
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3.矢やゴド(棍棒)、クリス(短剣)などの武器が作られた。

Ⅳ.マタラム(ストウィジョヨ)時代

 1582-1586年、マタラムのアディパティ(領主)・ストウィジョヨ Sutawijaya とスルタン・パジャンの間に戦いが起こり、ストウィジョヨが勝利した。ストウィジョヨはパヌンバハン・セノパティ Panembahan Senopati と名乗り、マタラムの王となった。1586-1601年(サカ暦1511-1526年)のことである。

 ワヤンの発展は
1.象やガルダといった、動物の人形が加えられた。
2.髪の透かし彫りが、細かい細工になった。

Ⅴ.マス・ジョラン(パンゲラン・セド・クラピヤ)統治時代

 1526-1838年/1601-1613年マタラムで、ワヤン・キダン・クンチョノを拡大するワヤンの製作があり、ウォンドも創られた。創られたウォンドは
a.アルジュノ、ウォンド・ジマット(jimat=azimat 聖性)。
b.ビモ、ウォンド・ミミス(mimis=弾丸=ハンサム=器用)
c.スユドノ(ドゥルユドノ)、ウォンド・ジャンクン(jangkung=守る)。
d.ラクササ・ラトン、ウォンド・バロン(barong=毛の長い獅子・バロン)。
e.ガピット(支え棒)の改良。
f.武器類の製作、矢、クリス、チョクロ、ゴドその他。

 製作後,記念のスンカラン Sengkalan がブト・チャキルの人形に与えられた。
タンガン・ヤクソ・タタニン・ジャルモ Tngan yaksa tataning jalma (ヤクソ=ラクササの手が人間を制する) tangan (手)=2 yaksa(ラクササ)=5 tataning(制御)=5 jalma(人間)=1 →サカ暦1552年。
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(つづく)
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by gatotkaca | 2011-08-31 07:35 | 影絵・ワヤン | Comments(1)

パンダワ・ピトゥ その3 ビモ・スチ

 前回の項目2.について考えてみたい。
2.ビモが会得したイルム・カウル・パヌンガルニに対する天界との確執
 まず、イルム・カウル・パヌンガルニについてだが、さっぱりわからない。名称からすると、イルムIlum=教訓 カウル Kawruh=知識・英知に関するイルム パヌンガルニ Panunggalni=Tunggal 合一させる ということであろうから、「英知合一の教訓」となるのだろうか?いづれにしても、「デウォ・ルチ」における、ビモの覚醒を踏まえての設定ということにはなるだろう。そして、ビモが得た自身の教訓を、世界に広めようとして、天界との間(特にブトロ・グル)に確執が生じるという、このプロットには先行する演目「ビモ・スチ」がある。以下、「ビモ・スチ」のあらすじを紹介する。(エンシクロペディのヴァージョン)

ビモ・スチ Bimasuci
 ウルクドロはビモ・スチと称して、アルゴ・クロソの苦行所でプンデト(僧)となった。多くのサトリヨやプンデト(僧)は畏れと尊敬で対した。ビモがイルム・カサムプルナン、即ち生の完全生を解明する教義を体得したからである。(人は何処から来て、何処へ行くのか)。この事はバトロ・グルに邪推を起こさせた。人間たちが神に敬意を払わなくなるのではないか、と。
 バトロ・グルは、ビモ・スチのイルム(教義)を探るようバトロ・インドロに命じた。インドロは、ルシ・ドゥルポロというプンデトに姿を変えた。しかし、アルゴ・クロソに着くと、インドロはビモ・スチに心臆して、自身の任務を果たせなかった。さらにバトロ・グルとナロドでも、ビモ・スチの超能力と威厳には対抗し得ず、彼らはクレスノとプントデウォに助けを求めた。
 クレスノ、プントデウォそしてバトロ・グルは、ビモ・スチと対峙した時、彼らはサン・ルシ(ビモスチ)の額のひよめきから、輝く光が放射されるのを見た。この時、サン・ヒワン・ウェナン(唯一至高の神)がビモ・スチの体内にあり、全ての者は皆彼に跪いた。ビモスチはパンドゥとマドリムの霊魂が奈落から移されるよう求めた。バトロ・グルは了承した。かくてサン・ヒワン・ウェナンはビモ・スチの身体から去り、バトロ・グルとナロドも従ってカヤンガンへ帰った。ビモ・スチは再びウルクドロに戻った。
 このラコンはひじょうにポピュラーである。

 ここには 3.地獄におとされたパンダワの父,パンドゥと第二夫人マドリムの救出 のプロットも入っている。筆者の手元にある別ヴァージョン二種ではこのプロットは入っていないから、3.の話素は、「ビモ・スチ」の必須プロットではないと考えられる(チュムポロ「ビモ特集号」と、Srat Pedhalangan "Lampahan BIMO SUCI " Anom Sukatno ,Cendrawasih Surakarta)。筆者の手元に三種のヴァージョンがあるが、エンシクロペディ版とSrat Pedhalangan "Lampahan BIMO SUCI " Anom Sukatno ,Cendrawasih Surakarta版は3.の話素を含み、チュムポロ「ビモ特集号」版にはない。とはいえ、近年「ビモ・スチ」が「パンドゥ・スワルゴ」をプロットの一部として吸収しつつある、ということは言える。三種のヴァージョンの成立の前後は不確定ではあるが、元来は3.の話素を含まなかったのだが、近年「ビモ・スチ」が「パンドゥ・スワルゴ」をプロットの一部として吸収しつつある、ということが言えるかもしれない。*そしてその発展型として「パンダワ・ピトゥ」が現れたということではないだろうか。

 というわけで、ラコン(演目)「パンダワ・ピトゥ」は「パンドゥ・スワルゴ」+「ビモ・スチ」+αで出来た、いわば美味しいとこ取り、見せ場いっぱいの豪華新作ということになる。
 ただ、松本亮「ジャワ影絵芝居考」には、「パンドゥ・ポポ」での、パンダワの父パンドゥ・デウォノトが、イルム・サストロ・ジェンドロ・ユニングラトを広めようとしてブトロ・グルと対立し、ついには地獄に落とされるというプロットが紹介されているから、「パンダワ・ピトゥ」でのイルムをめぐる天界との確執、というプロットは、このパンドゥ関連のプロットをビモに当てはめたものなのかもしれない。そうであれば、「パンダワ・ピトゥ」の粉本となるのは「パンドゥ・スワルゴ」+「パンドゥ・ポポ」+αということになるだろう。

 なぜ、イルムを広めようとすると、天界との確執がおこるのか? という点は、いずれ改めて。今回はとりあえず、ラコン「パンダワ・ピトゥ」の構成要素を検討するに止めた。

*Srat Pedhalangan "Lampahan BIMO SUCI " Anom Sukatno ,Cendrawasih Surakarta はジャワ語の本なので読み落としていました。面目ない。筆者はジャワ語はまだ読めません(インドネシア語も幼児並みですが)。訂正しておきます。2011/7/26
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by gatotkaca | 2011-07-25 10:58 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

パンダワ・ピトゥ その2 パンドゥ・スワルゴ

 演目「パンダワ・ピトゥ」は、いくつかの主題を複合的に構成しているので、以下に整理してみたい。
1.パンダワとクレスノ、ボロデウォの結束=パンダワ・ピトゥ
2.ビモが会得したイルム・カウル・パヌンガルニに対する天界との確執
3.地獄におとされたパンダワの父,パンドゥと第二夫人マドリムの救出
4.残されたアルジュノの妻二人が変身して天界をおそい、結果的にはパンダワを救出する

 1.については、演目名にもなっている「パンダワ・ピトゥ」が宣言される、ということだけであって、実質的には、この演目の内容にほとんど影響しないので検討するまでもない。
 2.は別の演目「ビモ・スチ」と関連するか、あるいはパンドゥデウォノト関連のプロットを借用していると考えられる。これは次回とりあげる。

 今回は3.の主題を考えてみたい。この部分は本来、「パンダワ・ピトゥ」より以前に成立していたと思われる演目、「パンドゥ・スワルゴ Pandu Swarga」のプロットである。スワルゴは「天国」を意味し、ここではパンドゥが地獄の責め苦から解放されて、天界へ迎え入れられることとなる。「パンダワ・ピトゥ」の別名が「ビモ・スワルゴ」であることは、この演目が「パンドゥ・スワルゴ」を踏まえていることの傍証となるだろう(Bima Swarga だとビモが昇天するように誤解しそうであるが、先行する「パンドゥ・スワルゴ」との差別化のため、ビモの名を冠したのだろう)。以下、『チュムポロ』「ビモ特集号」の記載に基づき、「パンドゥ・スワルゴ」の展開を概説する。が、その前に前提となっているプロットをあらまし紹介しておく。
 パンダワ五王子の父、パンドゥデウォノト(パンドゥ)は、デウィ・クンティとデウィ・マドリムという二人の妃を迎え、盲目の兄、ダストロストロに代ってアスティノ国王に即位する。ある日、森へ狩りにでかけ、交合中の鹿を仕留める。鹿はルシ・キンドマニ(キミンドノ)の変身した姿であった(ルシは僧侶)。パンドゥの矢を受けたルシは、女と接すると死ぬという呪いをかける。呪いによって世継ぎをつくれなくなったパンドゥは、デウィ・クンティのもつ護符、神との間に子をもうけることのできるちからを借りて、ふたりの妻に子をもうけさせる。これがパンダワ五王子である。その後、パンドゥは肉欲に耐えきれなくなり、デウィ・マドリムに触れてこの世を去る。マドリムは夫の後を追い、残ったクンティが五王子を育てることとなる。

パンドゥ・スワルゴ
 アマルト国。パンダワ五王子の次男、ビモは、生前の罪により、地獄におちている父、パンドゥデウォノトを救うため、カヤンガン(天界)に昇ることを決意していた。パンドゥは、鹿に変身していたルシ・キミンドノを、それとは知らず誤って殺害した。その罪により、彼と第二夫人マドリムは、共に地獄におとされていたのである。パンドゥはかつて二度にわたって、カヤンガンを救ったことがある。ビダダリ(天界の妖精)、デウィ・スプロボとの結婚を望んで天界に攻め入ったキスケンド国王プラブ・ノゴポヨを打倒した。また、マンドゥラの武将、アルヨ・ウグロセノとデウィ・ワルシニを争った、パラングバルジョ国のプラブ・コロルチの侵略から、カヤンガンを守った。ルシ・キミンドノは鹿に変身したりしなければ、パンドゥの矢を受けて死ぬことはなかった。あくまで誤って犯した罪である。二度にわたる天界への貢献に比して、パンドゥが受けている罪は重すぎる、というのがビモの考えであった。母デウィ・クンティと兄弟たちは同意し、共にカヤンガンへ昇り、ブトロ・グルと交渉することとなったのである。
 一方、アスティノ国のプラブ・ドゥルユドノは、パンダワ五王子の不在につけ込み、アマルト国を攻めようと図るが、パンダワの息子たちに撃退される。(プラン・ガガル)
 道化たちプノカワンによるゴロゴロの場面を経て、ウィヨソとの対面を終え、その祝福を得たアルジュノは、苦行所をあとにする。
 カヤンガンへ向かうアルジュノを妨害するため、バタリ・ドゥルゴの息子、デウォスラニは配下を差し向ける。
 クルンドヨノの森でアルジュノはデウォスラニの手下をたおす。(プラン・クムバン)
 天界カヤンガン・ジュングリンサロコでパンダワたちはブトロ・グルと対面した。ビモは、パンドゥデウォノトのキミンドノ殺害への罰は、彼の天界への貢献に比して重すぎることを詰問した。その問いに対してブトロ・グルは答えた。パンドゥの罪は、キミンドノ殺害のみではない。彼はかつて、傲慢にもブトロ・グルの乗用牛、ルムブ・アンディニを借り受けたことがあり、その際神々に対して不敬をはたらいたのだ、と。しかしブトロ・グルは、息子たちのだれか一人が、天界の火山チョンドロディムコの地獄からパンドゥを救い出すことができたならば、その罪は許そうと約束した。息子の自己犠牲が、親の罪を相殺する、と。かくてビモはパンドゥを救い出すため、チョンドロディムコの火口に降りていった。兄弟たちと、デウィ・クンティも彼のあとを追った。
 危険きわまりないチョンドロディムコに飛び込もうとするビモを、クンティは止めようとする。ビモは、人の生き死には、サン・マハ・プンチプト(トゥハン・ヤン・マハ・エサ 唯一至高の神)の手の中にあるのだ、そしてひとりひとりの敬虔な神への思いをサン・マハ・プンチプトはご存知なのだ、と答え、四人の兄弟たちとスマルと共に、チョンドロディムコの火口へ飛び込んでいった。彼らが飛び込むと、パンドゥとマドリムの魂を苦しめ、猛っていた炎が静まった。スマルは言う。この奇跡は、ビモの聖性とサン・マハ・プンチプトへの敬虔さが起こしたものである、と。ビモはパンドゥとデウィ・マドリムの身体を高々と掲げ、チョンドロディムコの火口を後にした。ブトロ・グルはパンドゥとマドリムの罪を許し、彼らに天界でのすみかを用意した。かくてパンダワとクンティはアマルトへ帰還し、祝福と感謝の宴が催されたのである。

 ビモのまっすぐな気性と、親への献身を描いて、感動的な演目であると思う。ヒンドゥー世界が与える最高刑たるチョンドロディムコの炎を鎮めるのが、トゥハン・ヤン・マハ・エサを讃えるビモであるところが重要であろう。
 これが「パンダワ・ピトゥ」では、イルムを広めることに異議を申し立てたグルの意向で、まずビモとパンダワが地獄に落とされ、そこでパンドゥたちと出会う。そして天界へ攻め上って来たスムボドロ、スリカンディの変身したラクササを撃退するかわりに、父たちを解放させる、という手順になる。パンドゥ救出はなんとなく付けたしのようになっていしまい、パンドゥ救出を直接目的として天界にのり込む「パンドゥ・スワルゴ」の力強さに遠く及ばない。それにスムボドロ、スリカンディのくだりは、物語の展開がマッチポンプ式で、安易な感を否めない。パンドゥ救出のプロットは「パンドゥ・スワルゴ」のほうが優れていると思える。

(つづく)
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by gatotkaca | 2011-07-24 16:05 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

トゥトゥップ・ケオンて何だ?

 ジャワにはルワタンという、いわば厄除けのような儀式がある。それは、人食いのブトロ・コロというラクササ(羅刹・おに)の餌食にならないようにお祓いしてもらう、というものなのだが、ブトロ・コロもやみくもに人を食う訳ではない。彼が餌食にしていい人間には条件があり、その条件にかなった人はスクルタ(スクルト Sukerta)と呼ばれる。たとえば、男の一人っ子とか、女,男,女の順の兄弟とか、釜をひっくりかえしたやつ、なんてのもある。スクルタじゃなければ大丈夫なのだが、スクルタの種類は16〜136、あるいはそれ以上種類があるというのだから、どれがスクルタで、どれが違うかなど分かりゃしないのである。だから大概のジャワ人はルワタンをやるようである。ここ十数年来は、経費節約のため、集団ルワタンというのが流行っているようだ。まあ、ルワタンのことは、回を改めて詳しくやるつもりなので、今回はこれ。

 スクルトの31.トゥトゥップ・ケオン tutup keong なしの家を建てた人

 である。(縛道の三十六!by Bleachみたいだな)これをやっちまった奴は、ブトロ・コロの餌食なのである(ルワタンしない限り)が、 tutup keongって何? tutupは閉じる、とか閉めるという意味で、 keongはカタツムリなのであるが、だから何?それがどうして家にくっついてるわけ?
 と、まあ長年、ここ十年くらいず〜っと分からなかったのだが、(鬼瓦ではないかと思っていた)  アハハッハハハハハッハハハッハハハッハハッハハ!分かりました!分かったのでありマス!

 それはこれ↓
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こちらよくあるジャワの村落住宅です。三角屋根がありましょう?その三角のここ!(赤いとこ)
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 これが、トゥトゥップ・ケオンなのでありました。日本でいうと「うだつ」?ちょっと違うか。
とにかく、瓦の部分ではなく、横にあるんだね。三角の基点になってるわけだ。ところで、なぜカタツムリなのかというと、よ〜く観ると、トゥトゥップ・ケオンの根元がクルリンと丸くなってるざんしょ。これをカタツムリに見立ててあるわけね。何はともあれ、長年のなぞが解けてめでたい!
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by gatotkaca | 2011-07-20 00:31 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンでのバタリ・ドゥルゴ その1

 以下、デウィ・ウモ(パールヴァーティー、ウマー)とバタリ・ドゥルゴ(ドゥルガー)説話のワヤン・プルウォにおけるプロットを紹介する。それと関連して、インドには見られないサン・ヒワン・プルモニ(グドゥン・プルモニ)の説話もあわせて紹介する。いづれもSENA WANGI刊「ワヤン・インドネシア百科事典 Ensiklopedi Wayang Indonesia」の記載に基づく。

Batara Guru Krama
ブトロ・グルの結婚


 オマラン(ウマラン)という名の商人があり、定住することなく、国々を巡り歩いていた。妻の名をデウィ・ヌルウェニといい、彼女はガンダルウォ(ジン=魔神)の王の娘であった。彼らにはウモという名の娘があった。
 母の子宮より産まれた時、彼女は普通の子供と異なり、赤い光の塊で、すばやく天へ飛び去った。光はあちらこちらに飛んだ。父はすぐさま追いかけ、それを捕らえようとしたが、果たせなかった。
 遂に光はガンダルウォ達の支配するグヌン・トゥングル山の頂に至った。そこでウマランは瞑想し、ヒワンマハ・クアサに乞うた。光の姿の彼の子が、普通の赤ん坊の姿になれますようにと。とはいえ、この時彼は、その光の姿の子が、男か女かを知らず、ウマランはただ男でも女でも構わぬ、人間の姿に変わって欲しいとだけ祈った。祈りは聞きとどけられた。その不思議な光は相違なく赤子に化身した。その赤子はふたなり(両性具有)であった。赤子を得た後、ウマランはその子をムルト国へ連れて行き、ウマイ(母の子の意)と名付けた。性別に難があることが気がかりとはいえ、ウマランと妻はその子を愛情いっぱいで育てた。
 ウマイはひじょうに美しい娘に成長した。しかしながら、彼女は未だにふたなりのままであった。年頃になってから、デウィ・ウマイ(ワヤンではしばしばデウィ・ウモとして知られる)は種々のイルム(知識)を追求することを好み、苦行を好み、ついには並ぶ者のない超能力を手に入れた。その超能力故に、デウィ・ウモは世界の支配者となることを望んだ。
 超能力を有し、美しいデウィ・ウモのことはついに天界の支配者バトロ・グルの耳に届いた。神々の指導者が、すでに聞き及んだ娘の美しさを確かめるためにやって来た。とはいえ、バトロ・グルの到来はウモによってすでに知られていた。
 バトロ・グルの超能力を試すため、その娘はトゥルバという魚(身体の長いインド洋の魚の一種)に姿を変え、海の底に飛び込んだ。はじめバトロ・グルは探している娘に会えないので困った。とはいえ、超能力を使い、デウィ・ウモが魚の姿になって海の中にいることを知った。
 バトロ・グルはすぐさまデウィ・ウモが化身した魚を海で狩りたてた。もうすこしで捕まりそうになった時、魚は再び美しい娘に変化して天に飛び去った。バトロ・グルは追いかけた。天での追いかけっこになった。とはいえ、捕まりそうになる度、デウィ・ウモはうなぎのようにつるつるした肌によって逃げることが出来た。そういうことで、バトロ・グルの、すばしこくて超能力の美女を捕まえる努力は徒労に終わった。
 くやしさと怒りで、バトロ・グルは祖父サン・ヒワン・ウェナンにデウィ・ウモを捕らえることができるよう、もう一対の腕を与えられるように、と乞うた。祈りは聞き届けられた。バトロ・グルの肩に新たな二本の腕が生えた。それ故この神は四本の腕を持っているのである。四本の腕を得て、とうとうデウィ・ウモを捕らえることができた。
 バトロ・グルを怒らせた罪によって、デウィ・ウモはその超能力の全てを失った。バトロ・グルはかくて娘の男性器をなくし、女性器のみが残された。
 完全な女性と成してのち、バトロ・グルは彼女を妻にしたのである。
 注) ジョグジャカルタの幾人かのダランによれば、デウィ・ウモはふたなりではなく、bagapuru(即ち女性器に穴がない)の障害をもつ。バトロ・グルがkeluwih (パンの木)の葉でゆっくりと叩いて、通常の女性器に回復させた。

Batari Durg
バタリ・ドゥルゴ


 本当の所、最初はバトロ・グルの妃であった。その時、彼女はまだ美しく、デウィ・ウモまたデウィ・ウマイという名であった。ある夕暮れ時、バトロ・グルとデウィ・ウモはルムブ・アンディニに乗って天上から世界を巡って楽しもうとした。ヌサカムバン近くの海上に至った時、風がデウィ・ウモの着物の裾を翻し、バトロ・グルは妃の脛を見て魅惑された。彼はルムブ・アンディニの背の上であるにも関わらず、デウィ・ウモに欲情し、愛の行為を持ち掛けた。しかしデウィ・ウモは、これをふしだらと感じて、彼の誘いを拒んだ。
 バトロ・グルは妃が拒否したにも関わらず、愛撫を止めようとせず、デウィ・ウモは避け続けた。ついに欲情に耐えきれず、バトロ・グルの精液が放出され、大海に落ちた。
 デウィ・ウモが拒んだ事はバトロ・グルを不機嫌にし、怒らせた。カヤンガンへの帰還の途路、彼らは言い争いになった。ルムブ・アンディニに気付かれないようにしていたが、互いにだんだん熱くなっていった。怒りにかられてデウィ・ウモは言った。「先のごとき行為は兄(けい)には相応しくありませぬ。かようなる行為は長き牙持つ怪物にこそ相応しいもの…」デウィ・ウモは優れた超能力の持ち主ゆえ、その言葉はいかなるものも現実となる。牙長く生えたバトロ・グルの怒りは本気のものとなった。考え無しに彼はデウィ・ウモを呪い返し、彼女はラスクシ(女ラクササ)となった。
 一説によれば、バトロ・グルがデウィ・ウモにラクササになるよう呪いをかけたのは、ヒワン・ウェナンから彼の妃は不実をなす者であるとの訴えをうけたからであるとする。しかし、ワヤン・クリ・プルウォ、またワヤン・ゴレ・プルウォ・スンダのダランでこの説に従う者は稀である。
 お互いに呪い合った後、二人は後悔した。デウィ・ウモがラクササとなってしまったので、バトロ・グルはもはや妃に相応しくないと判断した。それ故バトロ・グルは、美しいが貪欲で怠惰なサン・ヒワン・プルモニと(ドゥルゴの)肉体を交換した。(※ワヤンの書の一部ではデウィ・ウモはバタリ・グンドゥン・プルモニではなく、デウィ・ラクスミと交換される)そしてサン・ヒワン・プルモニの魂はラクササと化し、バトリ・ドゥルゴの名を与えられたデウィ・ウモの身体に入った。
 しばらくしてから、大海に落ちたバトロ・グルの精液から生まれた邪悪な怪物が現れた。この怪物はカヤンガンで大暴れし、三つの要求を突きつけた。それは、自分を息子として承認すること、名が与えられること、そして妻が与えられることであった。この要求はバトロ・グルに承認された。怪物にはバトロ・コロの名が与えられ、バタリ・ドゥルゴを妻に与えられた。彼らはクルドワホノの森のカヤンガン・ストラ・ゴンドマイ(ト)の地を与えられた。そこで彼らは全てのジン、ガンダルウォ、ハントゥ(悪鬼)、その他の怪物たちを統べることとなった。
 ワヤンにおいて、バタリ・ドゥルゴは、(人を)手助け(邪魔立てを含む)するのを好む性質を持つことから、「ススムバハン sesembahan(敬われる者)」となった。例えば、ブリスロウォは、アルジュノの妻、デウィ・スバドラ(スムボドロ)の恋慕を押さえきれなくなった時、バタリ・ドゥルゴに祈りを捧げ、手助けを乞うた。バタリ・ドゥルゴの助けで、ブリスロウォは知られる事無くカサトリアン(クサトリアの居住区)・マドゥコロへ侵入し、あやうくスバドゥラを穢すところであった。(ラコン、スムボドロ・ラルン)
 プラブ・アノム・ドゥルユドノの長子、レスモノ・モンドロクモロもまたアルジュノの娘、デウィ・プルギワティを妻にしようとしてバタリ・ドゥルゴの手助けを求めた。ドゥルゴの手助けを得たとはいえ、この企ては失敗し、デウィ・プルギワティはプラブ・ユディスティロの息子、ポンチョウォロの妻となった。
 バラタユダ勃発をひかえて、バタリ・ドゥルゴはデウィ・クンティに、カラントコとカランジョヨというガンダルウォの殲滅を求められた。この超能力の二人のガンダルウォはコラワに味方しようとして、パンダワの安寧を脅かしたのである。
 バタリ・ドゥルゴはクンティの願いを満たす事を承認したが、条件として、パンダワの母(クンティ)にサデウォを生贄に差し出すよう命じた。クンティはバタリ・ドゥルゴの要求を拒んだ。しかし、最後にはバタリ・ドゥルゴは、パンダワ一族の双子のひとり、サデウォによって魔除けされ(diruwat) 、美しいビダダリの姿を取り戻した。バトロ・グルが入魂してサデウォはバタリ・ドゥルゴの魔除けを承知したのである。(※一部のダランによれば、バトロ・グルに入魂されたサデウォをキ・ルラ・スマルが手助けしたとされる)
 これらの出来事はラコン・スドモロまた、ムルウォコロにおいて物語られる。
 ワヤン・プルウォでのバタリ・ドゥルゴの人物像はしばしば邪悪で、残酷、そして恐ろしい者として描かれるが、インドの宗教(ヒンドゥー)の信者たち、殊に北部地域において、ドゥルゴは守護女神として崇拝されている。彼らのドゥルゴへの信仰においては、受難者,不正な行為によって困苦を受けている者にとってのデウィ・プノロン Penoling(守護女神)であるとされる。

Sang Hyang Permoni
サン・ヒワン・プルモニ


 サン・ヒワン・プルモニは容姿端麗なビダダリであったが、その心は邪悪であった。彼女は野心家で、嫉妬深く、妬み深く、無知であった。それ故、その美しさはバトロ・グルを魅惑したが、神の長は彼女を妻にはしなかった。とはいえ、カヤンガンの支配者の妻になることはサン・ヒワン・プルモニの切望であった。
 望みを成就するため、サン・ヒワン・プルモニはカワ・チョンドロディムコで苦行するに至った。その苦行の目的を知ったサン・ヤン・ウェナンが到来した。サン・タン・プルモニに対し、サン・ヒワン・ウェナンは願いをかなえてやると約束した。カヤンガンの支配者の妻になるというサン・ヒワン・プルモニの願いは、部分的に実現された。しかし願いの成就まで、プルモニはしばし待たなければならなかった。サン・ヒワン・ウェナンの約束はプルモニを満足させた。
 後に起こったことはサン・ヒワン・プルモニをおおいに失望させた。バトロ・グルの妻になることに成功したのは、美しい身体の方だけだったのである。魂はちがった。どのようであったか、事件は以下のようである。
 バトロ・グルが美しい妃、デウィ・ウモを呪って、ラスクシ(女ラクササ)とした時、彼は真実ひじょうに後悔した。そこで彼は妃に美しい身体を取り戻してやるための知恵をしぼった。
 しばらくしてから、荒ぶる怪物がやって来てバトロ・グルに三つの要求を突きつけた。第一はその怪物を息子として承認し,名を与える事。第二には妃を与える事。そして第三は住処を与える事であった。バトロ・グルは全ての望みを認めた。怪物にはバトロ・コロの名が与えられ、さらにバタリ・ドゥルゴを妻に与え、妻と共にカヤンガン・ストラゴンドマイトに住まう事とされた。
 しかしバトロ・コロが(ウモがラクササとなった)バタリ・ドゥルゴと共にストラゴンドマイトへ出立する前に、バトロ・グルはデウィ・ウモの魂をサン・ヒワン・プルモニの身体に移し、プルモニの魂をドルゴの身体に入れた。こうしてドゥルゴとプルモニは魂を交換したのである。
 美しいプルモニの身体はバトロ・グルの妃となることに成功したが、魂はバトロ・コロの妻となったのである。
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by gatotkaca | 2011-07-15 02:13 | 影絵・ワヤン | Comments(0)