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タマン・サリに隠されたスンカラン(クロノグラフ)

 タマン・サリはジョクジャカルタのクラトン(王宮)の近くにある離宮の跡で、観光地としても著名なものである。taman は庭園、sari は花を意味する。クラトンの西側300メートルほどのところにあり、ジョクジャ初代スルタン、ハマンク・ブウォノ一世が建設した。
 門を入るとすぐに見張り塔のようなところに登ることができ、そこから園内を一望できる。
 タマン・サリは「水の宮殿」とも呼ばれる。沐浴場として大きな池がおかれているからである。
 「堅牢な煉瓦造りの壁で囲まれた宮殿の内側には、三つの池の跡も残されている。かつてこの場所では、スルタンに仕える若い女性たちが水浴びを楽しみ、スルタンは宮殿の窓越しにその様子を眺めていたと伝えられている。」〈『NHKスペシャル アジア古都物語 ジョグジャカルタ』p.42
 かつて筆者が訪れた頃は、廃墟といってもよいくらい放置されたままで、ガッカリ観光地の代表のようなところであったが、近年修復され、大分きれいになったようである。

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クラトンとタマン・サリの俯瞰図



 筆者が訪れた際には何の予備知識も無く、ぼ〜っと見ただけであったが、ある程度知識を入れてから見るのもおもしろいと思い、以下の論文を紹介する。ジョクジャカルタに行く機会のある方は、ぜひタマン・サリも覗いてみてください。


http://download.portalgaruda.org/article.php?article=136202&val=5660&title=


タマン・サリのガプロにある美しきスンカラン・ムムット装飾の裏側

DI BALIK KEINDAHAN BENTUK HIASAN SENGKALAN MEMET PADA

GAPURA TAMAN SARI


アルヨ・スナルヨ Aryo Sunaryo

*著者はスマラン州立大学 Universitas Negeri Semarang 芸術学科講師、芸術教育学修士。



概要


 ヨグヤカルト Yogyakarta 〈ジョクジャカルタ〉王宮区にあるタマン・サリ Taman Sari は18世紀にスルタン・ハマンク・ブウォノ Sultan Hamengku Buwana 一世によって建てられた。離宮の一部は現在も残されており、その壮麗さを偲ぶことができる。その建設の年代 titimangsa はタマン建造物群のガプロ・パングン gapura Panggung 〈大門〉とガプロ・アグン gapura Agung 〈正門〉に刻まれたスンカラン・ムムット Sengkalan memet に記されている。ガプロ・パングンにあるスンカラン・ムムット装飾には門の入り口に向かい合う二匹の蛇が彫刻され、彼らはあたかも会話しているかのようである。これはチャトゥル・ノゴ・ロソ・トゥンガル Catur naga rasa tunggal (心を一つにした蛇の会話)と読むことができる。ガプロ・アグンの装飾レリーフには、さまざまな植物と花に吸い寄せられた鳥たちのモティーフが描かれている。このスンカランはラジェリン・スカル・シネセプ・プクシ lajering sekar sinesep peksi (花に吸い寄せられる鳥)と詠める。離宮の二つの門に施されたスンカラン・ムムットは、タマン・サリの建設年を示している。スンカラン・ムムットは、建築物の装飾、美化、建設年の表示のみならず、ガプロ建築全体で訓示、希望、そしてシムボルの示す意味を内包しているのである。


キーワード:スンカラン・ムムット、ティティモンソ titimangsa 、装飾、タマン〈庭園〉、ガプロ〈門〉


まえがき


Iki taman sari

tinanduran wit sarwa sri,

ceplok piring, mandakaki,

mawar, menur, lan melathi,

aja kok pethiki, aja kok undhuhi,

nyuda srining taman sari


これはタマン・サリなり

聖なる九人の少女

ピリンとマンダカキ

バラ、ムムル、そしてムラティの花模様

摘み取るなかれ、穫るなかれ

タマン・サリを損なうなかれ


 上記の詩は、筆者がまだ小学校 Sekolah Rakyat ( Sekolah Dasar Negeri ) にいた60年代頃のルラゴン・ドラナン lelagon dolanan (子どものための歌)の一節である。作者は不明だが、それは重要なことではない。この歌の歌詞はある庭園の美しさを歌ったものである。それはタマン・サリだ。このシムプルな歌には、タマン・サリに木々が植えられていること、そして建物が壮麗であることだ。そしてそこにある花や木の実を穫ることは、その美しさを損なうことだとされている。環境を愛し、芸術を理解するというメッセージが込められているのである。

 タマン・サリはヨグヤカルト王宮建築群のひとつで、ヨグヤカルト王家の始祖スルタン・ハマンク・ブウォノ一世の命により、18世紀に建設された離宮のひとつである。オランダ植民地時代には、『水上の城』Waterkasteel と呼ばれた。タマン・サリ区は王宮中心地の西側に位置し、いくつかのガプロ〈門〉、すなわち中庭や沐浴のための池に通じるゲートをそなえる。また、タマン・サリではスガラン segaran と呼ばれる人工の池があり、その真ん中に城が浮かんでいるように見える(ロムバード Lombard 1996、ムルティヨソ Moertiyoso 、ジョン・ミクシック John Miksic 2002)。水上の城の美しさは、1815年にこの周辺に住んでいたJ・ジークス J. Jeaks のアクアチントの作品にも描かれている(ライド 2002;104参照)。

 19世紀にタマン・サリは取り壊され、放棄された。今ここに残されているのは、いくつかの門と、すっかり汚れてしまった池だけであり、スガランは埋もれてしまっている。かつての水上の城には香りを放つ花々、クナンガ kenanga の樹々(cananga odorata )が生い茂りーーそれゆえ、プラウ・クナンガ〈クナンガの島〉と呼ばれるーー今やそこに住む人々の家々に取り囲まれている。いまだ栄光に輝いていた時には、王が金箔の舟で、仲間とともに人工の池に遊興していたのだが。

 残された遺跡は、ヨグヤカルト王宮地区の一部として興味を魅き、今も観光客たちに解放されている。東から入る道すがら、訪問客はガプロ・パングンを見ることができる。そこには互いに向き合った二匹の蛇のレリーフがスンカラン・ムムットとして刻まれている。タマン区域の西端に位置するガプロ・アグンにも同様に、門を美しく装飾するスンカラン・ムムットが施されている。スンカラン・ムムットはスンカランの一種である。スンカランとは、各語が一定の数値を示す章句や語句の配列によって、ある出来事、事件、重要な事柄のティティモンソ titimangsa 、つまり年代を表す。スンカラン・ムムットは視覚的造形、つまり絵画、レリーフ、その他の造形物によってスンカランの章句を示すものであり、一般的には建築物に施された装飾・目印としての機能を持つものである。これに関し、レーウー Leeuw (1965)によれば、ジャワの建築物は、もっぱら装飾としてよりも、その彫刻をテキストとしたシムボルを表示させるために彫刻が施されているのであり、そこに物語を読み込もうとするべきではない、ということである(Depdikbud 1999 / 2000 : 76)。

 以下の論説では、タマン・サリのスンカラン・ムムットの造形の様相が、いかなる芸術的・美学的価値を有するのか、ならびにその内に内包されるシムボリズムの意味が如何なるものかに焦点を当ててみたい。まずはタマン・サリ複合建築群の概略を述べ、さらに続けて、二つの門に施されたスンカラン・ムムットに関して論じることにする。


遊興場、瞑想所、防衛施設としてのタマン・サリ複合建築群


 タマン・サリ複合建築群は10ヘクタールの面積を有していた(トゥヌナイ Tnunay 1991 : 85 )が、現在は三分の一ほどが残るのみである。その建設はジャワ暦1684年、西暦1758年に開始された(リックレフス Ricklefs 2002 : 131 )。タマン・サリ複合建築群の完成には年月を要し、ハマンク・ブウォノ二世の治世に至っても建設は続けられ、いくつかの部分が追加された(アノニム Anonim tt : 88 参照)。

 タマン〈庭園〉、特に王宮城塞都市としての宮廷の複合建築群を囲む城壁の建設には、ポルトガルの建築士の技術的支援があったであろうと推測される(ウィルヨマルトノ Wiryomartono 1995)。タマン・サリ複合建築群は東西を軸とした幾つかの宮殿と庭、複数の池から成り、これらの池は後に拡張され、スガランと呼ばれる大きな池となった。スラガンの中央に人工の島が作られ、城が建てられた。それは一種のモスクとして意図されたものであり、水の下を通る通路で西側と接続していた。タマンとして、タマン・サリの区域は樹々や花々で飾られた。

 沐浴場と池がスラガンを構成し、「チャンディ・ティクス Candi Tikus 』のティルト tirta〈池〉、また、14世紀マジャパイト王国時代に建設されたトロウラン Trowlan 博物館近くのスラガンを思い起こさせる。水上の城がある池は、ロンバード Lombard によれば(1996:124)、このタマンで重要な役割を果たす、水のモチーフであり、スロカルト Surakarta 王宮の山のモチーフとの差異を示しているという。チレボン Cirebon 王国が18世紀に建設したタマン・スニャラギ Taman Sunyaragi には、山と水のモチーフが見出される。ロンバードによれば、ジャワのタマンは実際、二つの要素、つまり大地と水を象徴として用いるという。二つの要素が補完し合いタマンの意図するすべての要素が立ち現れるのである。タマンとは日常生活において重要な場であるだけでなく、より高い次元での人の生の象徴でもあるのだ。それは人間の場であり、創造主の場であり、宇宙の合一の場でもある(チャフヨノ Tyahyono におけるムルティヨソ、J・ミクシック 2002 : 98 )。従って、タマンの存在は物質的側面での享楽の場としての機能のみならず、むしろ特定のシムボリックな目的のためにある。同様の指摘をロンバードもしている(1991: 120)。一個のタマンは本質的に遊興の場としてではなく、王が外界から離れ、瞑想するための閉ざされ、隔絶された場であり、超能力を強化し、新たな生命力を得てそれを放出する場なのである。

 「ババッド・クラトン Babad Kraton〈王宮年代記〉」と「スラット・スルヨ・ロジョ・ヨグヤカルト Serat Surya Raja Yogyakarta 〈ジョクジャカルタ・太陽王の書〉」の写本において、タマン・サリはラトゥ・キドゥル Ratu Kidul の聖なる場の名であると言われている(ライド 2002 : 104参照)。リックレフスの言葉を借りれば、よりエキゾチックなレベルで、タマン・サリは宗教的・神秘的意味合いを持っているのである。ラトゥ・キドゥルとの関係を維持する方法としてのタマンの建設もまた、マタラム Mataram 王朝の王としてのスルタンの正当性を確認するための重要なステップである。というのも、マタラム王朝の始祖であるセノパティ Senapati の伝説においても、聖なる王は南海の支配者カンジェン・ラトゥ・キドゥル Kanjeng Ratu Kidul と関係を持つからである。

 より慎重な検討をするならば、明らかにタマン・サリもまた外敵に対する防備を意図して作られたものであると言える(プルウォクスモ Poerwokoesoemo 1985 : 46)。スランガンには地下(水下)廊下が設置され、幾つかの正規通路と支線が通っており、それは宮殿の中心部と市外に通じている。明らかにタマン・サリは、スルタンとその一族が危険に直面した際の避難所として建設されたのである。タマン・サリの区域はクマガンガン Kemagangan の庭から400メートルほどである。この庭は宮殿中央の庭 Pelataran から南の外にある。クマガンガン・クロン Kemagangan Kulon 通りからタマン通りを目指して南に曲がるか、複雑な路地から宮殿中心部の西側の密集地帯を抜けると、最終的にタマン・サリ区域に至る。

 十字路に立つと、訪れた人はタマン東端の門、ガプロ・パングンを見ることができる。管理事務所に入り、訪れた人はアーチ状で、ほどよい大きさの門の扉入ることができる。

 ガプロ・パングンは高さ9メートル弱の高さの建物で、上部には西向きの壇があり、王はそこでガムランを聞いたり、中庭で行われる上演を見る。前方(東)に向いた壇は目隠しとなるように柵で囲まれ、三つのアーチを形成する最上部の壁によって区分けされているため、全体として三角形に構成されている。

 約6メートルの壇までは、門扉に入る前に、前方にある階段を登らなければならない。つまり、ガプロ裏の左右どちらかに向かうことになる。二つの階段の手すりの上部には、それぞれ蛇の彫像が見える。二匹の蛇の彫像は、階段の守護とガプロの外観を装飾する機能を持ち、またチャトゥル・ノゴ・ロソ・トゥンガル (蛇が心を一つにして会話する)と読めるスンカラン・ムムットを表してもいる。

 ガプロ・パングンを抜けると、中庭があり、そこには四基のツインタワーが見える。これらの建物はとりわけガムランの場として使用される。この場所から北と南に向かうことができる。南に向かい警備の事務所を抜けると、スルタンとカンジェン・ラトゥ・キドゥルの逢瀬のための建物がある(トヌナイ Tnunay 1991 : 87 )。中庭から北に向かうとマスジッド・タマン・サリ masjid Taman Sari 、つまりスムル・グムリン Sumur Gumuling にいたる。プロウ・カネンガの廃墟、そしてかつてスガラン区の中心であったプロウ・パネムブン Plau Panembung がある。

 西へさらに進むと、高い塀に囲まれた沐浴用の池がある。沐浴場を囲む東西の壁の中央に、門扉へ通じる通路の上にアーチ状になったガプロが見え、そこにはコロ Kala 〈魔人〉の装飾が施されている。沐浴場は南北に伸びるいくつかの池で構成されており、それぞれウムブル・カウィタン Umbul Kawitan 、ウムブル・パムンチャル Umbul Pamuncar 、そしてウムブル・パングラス Umbul Pangras と呼ばれている。ウムブル・パムンチャルとパングラスの間には、かつて王専用であった塔 menara がある。その塔の窓から、スルタンはウムブル・パングラスで沐浴する者たちを見ることができた。沐浴場全体には、ブースや小部屋も備え付けられているが、現在は扉がなくなっている。特に、ウムブル・パングラスの端にあるのは、スルタンの妻たちの寝所であったと言われている。

 当初、タマンの沐浴場には、タマン・サリ複合建築の西側にある大きな門、ガプロ・アグンから、つまり西側から入るようになっていた。トヌナイによれば(1991)、タマン・サリの入り口は1814~1823年に統治したスルタン・ハマンク・グウォノ四世の時から東側に変更されたという。しかし王宮中央部に面したタマン・サリ複合建築のレイアウトを見ると、東側のガプロ・パングンが、建設当初からの入り口として構成されていたと考えるほうが妥当であろう。

 ガプロ・アグンは、タマン・サリ複合建築で、最も大きく壮麗なもんである。東へ向かう門の壁面には、植物と鳥のモチーフが浮き彫りされ、それはスンカラン・ムムットを表している。スンカラン・ムムットはラジェリン・スカル・シネセプ・プクシ (植物が鳥を吸い寄せる)と読むことができる。この門の上部にも雛壇があり、タマン複合建築群周辺の美しい景観を眺めることができるようになっている。


ガプロ・パングンのスンカラン・ムムット


 スンカラン sengkalan あるいはスンコロ sengkala の語は、シャカ Çaka とカラ kala から成り、シャカの時間(シャカ歴)を意味する、インド由来の言葉である(ブロトクソウォ Bratakesawa 1980、シドムルヨ Sidomulyo 1987)。サカ saka 歴と西暦には78年の開きがある。スルタン・アグン Sultan Agung がマタラム・イスラム国(1691~1645年)の王となった時代、西暦1633年に彼はサカ(ヒンドゥー)歴とヒジュラ Hijriah (イスラム)暦を整合させてジャワ歴を定めた(ウィスヌブロト Wisnubrata 1999)。陰暦を基礎とするジャワ歴を定め、西暦との差異をより縮めたのである。シャカ・カラ Çaka-kala (サカ歴)はジャワ語においてはサンコロ sangkala あるいはスンコロ sengkala となり、その後ジャワ歴と結びついてチョンドロスンコロ candrasengkala と呼ばれるようになった。同様にスンカランのより新しいものは、西暦と結びついてスルヨスンコロ suryasengkala と呼ばれる。

 スンカランまたチョンドロスンコロは後に、重要な事件・出来事のあった年を記録する、ティティモンソ〈年号〉としての時を意味するようになり、それは覚えやすい語句・章句を用いて表される。スンカランは語句・章句の配列によって、特定の年号をシムボライズし、表現するのである。通常、ジャワ古語の四つの語から構成され、その一つ一つが一の桁、十の桁、百の桁、千の桁に対応する。しかし、数字を示さない語、あるいは二桁にまたがる意味を持つ語が用いられることもある。

 スンカランの年号は、語彙の性質(価値・語彙のカテゴリー)を慣例的に解釈することによって得られる。たとえば、チョンドロ candra (月)、スルヨ surya (太陽)、ジャンモ janma (人)そしてアジ aji (王)という語彙は数字の1を示し、アスト asta (手)、カルノ karna (耳)、ネトロ netra (目)、クムバル kembar 〈双子〉などの語は2を表す、といった具合である。ティティモンソを示す年号であるスンカランは、逆順に読む。つまり最初の語は年号の最後の数字を示し、最後の語が年号の最初の数字を示すのである。

 語句を用いたスンカランはスンカラン・ラムボ sengkalan lamba と呼ばれる。また、その後造形的形象、つまり絵画やレリーフを用いて表されるスンカランは、スンカラン・ムムットと呼ばれる。ティティモンソの表示としてのスンカラン・ムムットを理解するためには、絵画的要素をスンカランの章句として読み直さなければならない。たとえば、一人の人が象に乗っているという画像があった場合、それはジャンモ・ワホノ・ディロドジュゴ janma wahana diradajuga (ジャンモ=人間=1、ワホノ=乗り物=7、ディロド=象=8、ジュゴ=一人で=1)と読み、年号は1871年(ジャワ暦)となる。人を乗せた翼を持つ蛇が描かれていれば、ノゴ・ムルク・ティンティハン・ジャンモ naga muluk tintihan janma (=ジャワ暦1708年)となる。このようにスンカラン・ムムットの解読は、まるで絵で描かれたパズルのような難しいものである。

 タマン・サリのガプロ・パングンに施されたスンカラン・ムムットは、互いに向かい合って会話するかのような二匹の蛇の彫像である。このスンカラン・ムムットはチャトゥル・ノゴ・ロソ・トゥンガルと詠まれる。チャトゥル catur の語は会話、また四を意味し、数字の四を表す。蛇の表す数字は8であり、十の桁を示し、ヒンドゥー神話の世界を支える八匹の蛇に由来する。ロソ rasa の語は、甘味、苦み、塩味、酸味、辛み、そして旨味あるいは無味の六つの味ということから六を示し、スンカランでの6(百の桁)を表す。そしてトゥンガル tunggal 〈合一・一つの〉の語が1を表すのは明白であろう。ここでは百の桁に当てられている。したがって、スンカラン・ムムットとしての、互いに向き合い会話する二匹の蛇の彫刻は、チャトゥル・ノゴ・ロソ・トゥンガルと詠まれ、1684年(ジャワ暦)を意味している。

 ジャワ歴1984年(西暦1758年)は、タマン・サリ複合建築群の建設開始を記録するティティモンソであり、前に引用したリックレフスの見解と一致する。形状的には、スンカラン・ムムット「チャトゥル・ノゴ・ロソ・トゥンガル」は、頭部を直立させ、互いに向かい合った二匹の蛇が門の入り口に隣接するものである。胴体部分は、次第に高くなる階段の壁に沿って5メートルほどの長さで、うねうねと波状に伸びている。胴体の基礎部分は直径30センチ弱であるが、頭部と首の部分はおよそ1メートルの高さを持つ(図1)。

 細かな部分は損壊したが、二匹の蛇の彫像は完全な姿を留めている。蛇の彫像は冠 mahkota をかぶっており、その冠はワヤン・クリ・プルウォ wayang kulit purwa のディパティ dipati 〈領主・藩王〉の冠と同種のものである。これはワヤンにおける蛇の王、つまりオントボゴ Antaboga 神という人物の印である。冠にはガルダ・ムンクル garda mungkur 〈ガルダ型の装飾〉またムラク・ムンクル merak mungkur 〈孔雀型の飾り〉と耳部分の房が無いスムピン sumping 〈スムピンは魚の形をした装飾〉があしらわれ、後頭部はスムピン・スカール sumping sekar の一種が装飾されている。これらの部分は頭部と胴体をつなげ、直立する頭部をしっかりと支えている。スムピンの尻尾の部分の装飾は顎の下から首の前部分に伸びて、顎のラインを補強する役割を担っている。その尾部は首飾りとなっている。

 蛇の口は開かれ、おそらく以前は金属製の舌を備えていたと思われる。レンガで作られた蛇は、石膏でコーティングされている。滑らかな表面加工は、細かな粒子に砕かれ、ココナッツミルクと卵を混ぜ合わせた石灰と赤石であろうと考えられる。

 装飾された蛇の彫像の下にある基礎部分は、長く継ぎ足され、蛇の胸部分でカールした花文様になっている。これらの装飾が一体と成って、階段の手すりと壁を補強しているのである。蛇の胴体はリズミカルにうねり、七つのルク luk 〈短剣の曲がり〉を持つクリス keris 〈ジャワの短剣〉を思わせる。蛇の胴体部分のリズミカルなうねりは、滑らかに掘られた蛇の鱗、首の部分の細かな湾曲する装飾パターン、スムピン、その他の装飾と相まって強調される。高く、広く平坦なガプロの壁が、二匹の蛇の背景となり、コントラストを形成して、このスンカラン・ムムットの存在を強調するのである。

 ガプロの頂上部分はリズミカルなアーチによって、山の形をなしている。二匹の蛇のガプロの入り口に向かう動的造形の構成は、水の要素を表現している。ガプロの全体的な設計は、対照的であるが、調和する二つの要素を配することで、山、つまり大地と水という宇宙の構成要素の統合を表しているのである。

 ノゴ〈ナーガ〉は蛇の王・神である。この概念はヒンドゥー神話に由来する。ヌサンタラ〈インドネシア〉における前ヒンドゥー文化において、一般にナーガは地中世界の象徴とみなされていた(ヴァン・デル・フープ van der Hoop 1949参照)。この概念は特にジャワにおいては、ヒンドゥー教の影響を受けて発展したため、シナ〈中国〉における竜・龍とは異なるものとなった。ジャワでのナーガの図像はむしろワヤン・クリにおけるノゴの人物像、つまりヒンドゥー時代の造形により近い物なのである。特徴的な冠をつけ、静的な表現で、角、背びれを持ち、爪と脚を有する凶暴な姿の中国の竜とは異なる。

 ワヤンの世界では、蛇の神はバトロ・バスキ Batara Basuki という。その名の示すように安寧の神であり、聖性を象徴する白い肌の神である(スディビョプロノ Sudibyoprono 1991 : 108)。ハルジョウィロゴ Hardjowirogo によって(1968:108)、バスキ神は怒りやすいが、すぐに怒りが冷める、荒ぶる性格に描かれた。バスキ神以外にも、ワヤンの中にはヒワン・オントボゴ Hyang Antaboga という神も現れる。これも同様に多くの場合、蛇の神であると考えられている。ヒワン・オントボゴは七層の地界、サプトプルトロ Saptapertala に住み、強大な超能力を有することで知られている。象徴的な意味合いとして、互いに向き合って会話する二匹の蛇は、王の超能力と聖性の発現であり、ハマンク・ブウォノ一世によるタマン・サリの建設は、思考と感性を統合して、タマン・スルガ taman surgawi 〈天界の庭園〉を創造することなのである。歴史上のスルタン・ハマンク・ブウォノ一世は、正義を守る厳格で勇敢、正直な人物として知られ、それゆえ敵から認められ、恐れられたのではなかったか?


ガプロ・アグンのスンカラン・ムムット


 すでに述べたように、タマン・サリ複合建築群のガプロ・アグンに施されたスンカラン・ムムットは『ラジェリン・セカル・シネセプ・プクシ〈花々が鳥を招き寄せる〉』と読める。「ラジェリン lajering 」の語は、「ラジェル lajer 」からきており、根幹、頭、根源、根を意味する。チョンドロスンコロにおいてラジェリンの語は1を表し、花を意味する「スカル sekar 」は慣例により9の数値を示す。シネセプ sinesep は、セセプ sesep の語に由来し、吸い込む、呼吸する、感情を得る、という意味を持ち、9の数値を表す。プクシ peksi は鳥を意味し、慣例的に1の数値を表す。

 チョンドロスンコロをして、『ラジェリン・スカル・シネセプ・プクシ』とは「鳥を招き寄せる植物」といった意味を持ち、ジャワ歴1691年(西暦1765年)のティティモンソを表す。その表すものは、タマン・サリ複合建築群、特に沐浴場周辺の建設の完了した年を示している。であるから、西暦1758年に開始されたタマン・サリの建設は、7年の年月を要したということになる。

 このスンカランを読み取ることのできる鳥と花々を伴った植物のモチーフの装飾は、ガプロ・アグンの東方にに面した壁一面を覆っている。同様の装飾は、ガプロの西面、特にパングン〈階段〉部分の平面にも施されている。修復の際にいくつかの装飾レリーフ,特に東側、沐浴場に面した水槽区とガプロの壁面のものの大部分は損傷が無かったのでそのまま使用された。ガプロの西側からの景観は、隣接する住宅密集地が見えてしまい、あまり楽しめない。

 幅12メートル、高さ11メートル弱のガプロは、最大で、典型的形状のガプロである。またその形状は、今日バリ島に見られるヒンドゥー時代の門建築、パドゥラクサ paduraksa 〈アーチ状の屋根を持つ、ジャワ・バリの古典建築に見られる門〉を連想させ、全体的なデザインはワヤン・クリのグヌンガンにそっくりである(図2)。

 ガプロの構造は四本の支柱でささえられ、柱によって四方向に分割されている。そして四本の支柱の上部は、途中から小さな柱で補強されている。ガプロの左右にある二本の大柱は5メートル半弱の高さの壁に覆われている。二本の支柱は、ガプロと同じ幅で横切る二つの「コラム」で接続され、それぞれの高さは2.5メートルと5.5メートルある。二本の支柱の真ん中から、上部で接続する小さい「コラム」が見える。支柱とコラムの間は、15枚のパネルを構成し、それらはガプロの東側に向いている。

 パネル部分全体のはバラエティ豊かなモチーフのレリーフが施されている。一部分は積み重なるように配置され、上部にある他の部分は方形ではなく、がプロ入り口の左右に配され、隙間無く装飾が施されている。これらのパネルは対となり、最終的には同じ大きさになっている。

 装飾された面は最も広いところで240X240cmで、積み重なるように配された花や葉っぱの渦巻きパターンが伸びる植物のモチーフが見られる。上部には、そのてっぺんの渦巻きパターンに止まる一対の鳥の装飾モチーフが見られ、その二羽は植物の幹の先端中央に配された花に招き寄せられているかのように描かれている。各々のパネルの底辺部には、ほとんどにトゥムパル tumpal 〈三角形の装飾パターン〉のモチーフを成す蓮華の花の冠 mahkota bunga padma のモチーフによる装飾が施されている。最も小さな装飾面は、ガプロ中央の入り口の左右にある。この二つの面には花の無い蔓のモチーフによる装飾が施されている。

 植物に招き寄せられる鳥のモチーフの装飾は、スンカラン・ムムットでティティモンソを表す核となり、門扉上部のパネルに見られる。この装飾モチーフが繰り返し現れるのである。この装飾面は、中央と左右の三つの部分に分かれている。中央部分はカーブした線で枠取られ、三角形の面を構成する。同様の構成はチャンディ candi 〈ヒンドゥー時代の祀堂〉の門、パドゥラクサで一般的なコロ kala 〈魔物〉のモチーフの装飾にも見られる。最上部のこの部分は花と植物のモチーフで満たされている。その他の装飾面は、画面いっぱいに蔓と花のモチーフを背景にした鳥のモチーフで満たされている。花に招き寄せられる鳥の画像(図3)。

 詳細に見ると、鳥のモチーフは、それがクジャクであることが分かる。頭部にはトサカがあり、首は長く、長い尾がある。しかし尾はそれと分かるようには広げられていない。多くの場合、鳥のモチーフは天上界、神の世界のシムボルである。ヴァン・デル・ホープによれば(1949)、クジャクはヒンドゥー神話では戦の神カルティケーヤ Kartikeya 〈最高神シヴァの次男。仏教における韋駄天。スカンダともいう。〉のヴァーハナ wahana (乗り物)とされる。魅力的なその姿を見れば、クジャクは美と幸福の象徴である。そうであるなら、このモチーフは、そこに住む者に、希望と幸福、喜びをもたらすものとして、タマンのガプロを装飾するに相応しいものといえるだろう。

 ガプロ・アグンの左右には、周りの壁と繋がった翼状の部分が作られている。翼を持つガプロの形状は、トゥバン Tuban 近くにある16世紀の古代モスク、センダン・ドゥゥル Sendang Duwur を想起させる。ガプロ・アグンの上の部分は、だんだん高くなる5つのアーチによって形成されており、その各々にも翼のモチーフが施され、各支柱のてっぺんには蓮華の花の装飾が施されている。翼のモチーフは、壮大さと威厳を象徴する。

 翼を持ち、植物、花、鳥で装飾が施され、中央部が高く伸びるガプロの造形は、それがワヤンにおけるグヌンガンを意図して設計されていると見て間違いない。グヌンガンは、均整と調和のとれた宇宙の秩序の象徴であり、静謐・安寧の謂いでもある(スマルジョ Sumardjo 2000 : 347)。スマルジョによれば、グヌンガンは深い精神的意図を有しており、人間の最も深い精神的側面ならびに超越的経験を描くものでもあるという。つまり、「サジロニン・スコ・タン・ティンガル・ドゥゴ・ラン・プラヨゴ sajroning suka tan tinggal duga lan prayoga 」(享楽は礼儀・善行を残さない)という訓戒を想起させるものであり、タマンにある誰もが、快楽という外面的側面と精神的次元の内面・倫理を見いだすのである。


結び


 スンカラン・ムムットは重要な出来事の時間〈年代〉を、造形の中に暗示するものである。それはティティモンソの象徴を視覚化したものである。その造形の美しさの裏側には、深い象徴的意図を含んでいる。装飾の中に、見る者が読み取ることのできる制作者の思考・メッセージが隠されているのだ。

 タマン・サリ複合建築群は、様々な機能を有する王家の庭園として建設された。その建設の開始と終了の年代は、ガプロ・パングンとガプロ・アグンのそれぞれに、「チャトゥル・ノゴ・ロソ・トゥンガル」、「ァジェリン・スカル・シネセプ・プクシ」というスンカラン・ムムットによって記されている。それは単にティティモンソを記した美しい装飾ではなく、制作者のメッセージと希望を内包する象徴的意味をも持つのである。

 その内にある造形的美しさと象徴的意図に鑑みて、その中にスンカラン・ムムットの装飾をも内包するタマン・サリ複合建築群が、今日のように放棄されたままであるのは、たいへん残念なことである。近年タマン・サリ複合建築群の修復が決定されたが、すでに周辺には多数の住宅が密集しており、これらの地区の住民を移転させることは困難であり、タマン・サリの完全な復元は難しい。現在の希望は、先に紹介したルラゴン・ドラナンの精神に則って、周辺住民と力を合わせて残されたタマン・サリの全体性と美しさを維持することのみである。



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図1. タマン・サリのガプロ・パングン Gapura Panggun Taman Sari


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ガプロ・パングンの蛇(ノゴ naga )

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図2. タマン・サリのガプロ・アグン Gapura Agung Taman Sari


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図3. 花に集うクジャクの装飾


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魔除けのコロ kala


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by gatotkaca | 2014-12-01 17:01 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

スンカラン(ジャワの年代表記法)

 ワヤン上演では、ダランは語りの合間にスロ Suluk と呼ばれる短い歌を唱う。これは旋法(パテット Pathet )の転換や、場面の雰囲気を作り出す重要な要素でもある。
 そのスロのひとつにパテット・ソゴ Pathet Sanga で用いられるオド・オド・グルグット・サウト Ada-ada Greget Saut というものがあり、その歌詞は下記のようなものである。

Buta Pandawa tata gati wisaya ,
indriyaksa sara maruta ,
pawana bana margana ,
samirana lan warayang ,
panca bayu wisikan gulingan lima.

ブト・パンドウォ・トト・ガティ・ウィソヨ、
インドリヤクソ・ソロ・マルト、
パウォノ・ボノ・マルゴノ、
サミロノ・ラン・ワラヤン、
ポンチョ・バユ・ウィシカン・グリガン・リモ

 プラン・チャキルというほとんどのワヤンの演目の中に挿入される場面で、このスロは、チャキルという名のラクササが登場し、正義の武将と対峙した時、よく歌われる。そういうわけで、現地のワヤン好きな人ならたいがい知っているものである。各語の意味は下記の通り。

ブト buta (ラクササ)
パンドウォ Pandawa (パンダワ)
トト tata (整える)
ガティ gati (気をつける)
ウィソヨ wisaya (行為)
インドゥリ indri (視力)
ヤクソ yaksa (ラクササ)
ソロ sara (尖った物、矢)
マルト maruta (風、花の香りを運ぶ風)
パウォノ pawana (強風)
ボノ bana (深い森)
マルゴノ margana (道行く風)
サミロノ samirana (そよ風、汗をさます風)
ワラヤン warayang (武器)
ポンチョ panca (五)
バユ bayu (吹き抜ける風)
ウィシカン wisikan (父の教え、夜風)
グリガン guligan (寝室)
リモ lima (五)

 つなげてみても意味不明である。しかし文章で符号化された年号を示す「チョンドロ・スンカラン・ロムボ Candra Sengkalan Lamba 」に照らすと、すべての語が数字の5を示している。つまり「五づくし」の詩というわけ。
 スンコロ/スンカラン Sengkala / Sengkalan というのは特定の語彙が特定の数字を表すことで、文章(語彙の羅列)が数字を意味するようになり、それによって年代を記すクロノグラフの一種である。以下
http://ruangkumemajangkarya.wordpress.com/2011/12/17/seputar-mengenai-sengkolo-sengkala-sengkalan/の一部を訳す。

スンコロSENGKOLO/SENGKALA(スンカラン sengkalan )について

 スンコロとは一定の語(文章を構成する場合もあるが、文章にならない場合もある)の配列による年号表記のことで、各語が一、十、百、千の桁を意味し、年の数字に対応するよう定められた語が配置される〈つまり年号は逆順で表示される。1900年なら0091の順で語が配置される〉。スンカランに配置される語は民間信仰の伝統に則った魔術的シムボルとしての概念を持つ語である。各シムボルは記号論的分析でその意味が理解できるものである。スンカランに用いられる語は直接数字を表すのではなく、間接的に数字を表現し、暗喩される数字と語の関係は各語の起源にさかのぼって選択されている。通常サンスクリット語の語彙から取られた語に数字が当てられている。

 スンカラン sengkalan の語源はサンスクリット語で、シャカカーラ Sakakala 、つまり釈迦暦〈サカ歴〉を意味するものである。シャカはインドの種族の名であり、彼らはかつてジャワ島にやって来て、ジャワ文字やスンカランを含むさまざまな知識を伝えた。通説ではシャカ歴は西暦78年サリワハナ Saliwahana 王、またの名アジサカ Ajisaka の時代に始まったとされる。スンカランは西洋語のクロノグラム chronogram (kronogram )のことである。クロノグラムは、ギリシャ語で時間を意味するクロノス chronos と、文字あるいは量を意味するグランマ gramma の語からなる。スンカランにはその構成により、次の三種がある。スンカラン・ロムボ Sengkalan Lamba 、スンカラン・ムムット Sengkalan memet 、そしてスンカラン・サストロ Sengkalan sastra である。しかし、タイプ別に見れば次の二種であるともいえる。すなわちスルヨ・スンコロ surya sengkala とチョンドロ・スンコロ candra sengkal である。

スンコロの構成

スンコロ・ロムボ
 一連の語彙を用いて構成されるスンカラン。

スンコロ・ムムット
 図像を用いて構成されるスンカラン。

スンコロ・サストロ
 ジャワ文字を用いたスンカラン。サンダンガン sandangan 〈ジャワ文字の母音符号〉は通常ウキル・ウキラン ukir-ukiran 、ヒアサン・クリス hiasan keris その他が用いられる。

スンコロの種類

スルヨ・スンコロ
 太陽の運行に基づいた年号〈太陽暦〉を示すスンカラン。スンカラン・スルヨスンコロはイスラーム到来以前のサカ歴を表すために用いられていた。たとえば西暦の年号を表す必要に応じて作られたスンカランであるので、今日スルヨスンコロはめったに使われない。

チョンドロ・スンコロ
 月の運行に基づいた年〈太陰暦〉を示すスンカラン。ジャワでイスラム歴が用いられて以来、チョンドロ・スンコロのスンカランが行われている。ジャワ暦はスルタン・アグン・ハニャクロクスモ Suktan Agung Hanyakrakusuma によってジャワ暦1555年スロ Suro 月一日、ヒジュラ歴1043年ムハラム Muharam 月一日、つまり西暦1633年7月8日に定められた。ジャワ歴はヒジュラ歴とサカ歴の折衷である。今日スンカランは必要に応じてジャワ歴、サカ歴、ヒジュラ歴で使用される。

(スラット)チョンドロ・スンコロ・ガンチャラン (Serat ) Candrasengkala Gancaran 〈散文形式によるチョンドロスンコロの書〉
 ジョクジャカルタ宮廷詩人委員会 Panitia Kapujanggan Keraton Yogyakarta によって編纂された書物。この書はスンカラン作成における語彙の索定を説明する唯一の書物である。

スンコロの規定

グルドソノモ Gurudasanama
 シノニム sinonim 、つまり同義語によってスンカランに使用する語彙を規定する。これはしばしば語の本来の意味から外れた(変化した)意味を語彙に与えることになる。

グルサストロ Gurusastra
 スンカランにホモグラフ homograf 、つまり同形異義語を用いて語の意味変化・削減を決定する方法。この規定法ではしばしば使用される語彙の本来の意味が分岐して変化することがある。

グルウォンド Guruwanda
 同系列の語彙を用いてスンカラン使う語彙を意味変化・削減する方法。この規定はスンカラン内の語彙の基本的使用法を為す。スンカランで使用される語彙はしばしば本来の意味とは異なる隠喩を含むことになる。

グルカルヨ Gurukarya
 基本的に同じ意味の語彙の意味を変化・削減させる規定。この規定はスンカランに用いられる語彙の基本を為す。スンカラン内の語彙はしばしば本来の意味とは異なる隠喩を含むことになる。

グルソロノ Gurusarana
 用法を合わせてスンカランに用いる語彙を変化・削減させる方法。この規定でスンカランの基本語彙を構成する。スンカラン内の語彙はしばしば本来の意味とは異なる隠喩を含むことになる。

グルダルウォ Gurudarwa
 同一の状態を示す語意を用いてスンカランに使用する語彙の意味変化・削減を行う方法。この規定はスンカランに用いられる語彙の基本を為す。スンカラン内の語彙はしばしば本来の意味とは異なる隠喩を含むことになる。

グルジャルウォ Gurujarwa
 同一の意味をもつ語彙に基づいて、スンカランで使用される語彙の意味変化・削減を規定する方法。この規定はスンカランに用いられる語彙の基本を為す。スンカラン内の語彙はしばしば本来の意味とは異なる隠喩を含むことになる。

スンカランで語彙に与えられる数字

スンカランで0の数に対応する語彙
 スンカランでは、無くなること、ひとつも無いことを意味する語彙が0を表す。スンカランでゼロあるいは無を意味する語はひとつだけで、umbul (上に飛び去る)であり、後に何も残らない、ということからゼロを意味する。例としてスカテン sekaten の始まった年、1990年は『 umbuling puspa gapuraning praja 〈王宮の門に花が飛び散る〉』となる。

スンカランで1の数に対応する語彙
 スンカランで1を表す語彙は、ひとつしか数えられないもの、丸い形状の物、人間に関する語、生と現実を象徴する語である。スンカランで1を表す語は、jalma、 jalmi 、janma〈いづれも人間を意味する〉、 kenya〈娘〉、 putra〈息子〉、aji、ratu、 raja、 nata、 narpati、 narendra、 pangeran,、gusti〈いづれも王を意味する〉、 Allah、 hyang〈神〉、 maha〈大いなる〉、bathara〈神〉、bumi〈大地〉、 jagat〈世界〉、budi〈文字〉、 buda〈水星、五曜のラブ Rabu〉、 budaya〈感覚・作法・意見〉、ron〈葉っぱ、口論・喧嘩〉、 lata〈繁茂・葉〉、wani〈勇気〉、semedi〈瞑想〉、 luwih〈さらに、以上の〉、nabi〈預言者〉、lajer〈芋の塊茎、根本、起源〉、wij〈種、子孫〉、 witana〈多数〉、praja〈王宮〉、bangsa〈民族・国家〉、swarga〈天界〉、 puji〈祈り〉、 piji〈ビンロウジュの樹〉、 harja〈幸福・繁栄・祝賀〉 そして peksi〈鳥〉である。peksiは1を表すが、本当は2の意味を持っている。peksi はサンスクリット語の peksi が語源であり、これは鳥、あるいは翼のある生き物を意味するからである。

スンカランで2の数に対応する語彙
 スンカランで2を表す語彙は二つに数えられるものを象徴する語、つまり一対のものを表す語とその派生語、ならびにgandheng〈同等の、匹敵する〉の意を持つ語である。スンカランで2を表す語は通常、asta〈手〉、dwi〈二〉、kembar〈双子〉、ngelmi〈知識、イルム・クバティナン〉、aksa〈目〉、samya〈同様〉、sembah〈拝跪〉、そしてsupit〈箸〉である。

スンカランで3の数に対応する語彙
 スンカランで3を表す語彙は三つに数えられるものを象徴する語とその派生語である。通常スンカランで3を表す語はguna〈有用・機能〉、katon〈見える〉、saut〈はね返る・打たれる、噛まれる〉、sunar〈光る・輝く〉、trima〈受け入れる〉、trisula〈三叉戟〉、ujwala〈光〉、そしてwredu〈上品、忍耐強い、謙虚な〉である。

スンカランで4の数に対応する語彙
 スンカランで4を表す語彙は作業を意味する語と、四つで一かたまりのものを表す語である。通常スンカランで4を表す語はpapat〈四〉、catur〈四〉、keblat(風向き)、 warna 〈(色)ヒンドゥー教におけるカースト〉、toya(水)、 suci(聖なる)、そしてpakarti〈仕事・行為〉である。

スンカランで5の数に対応する語彙
 スンカランで5を表す語彙は、五つに数えられるもの、ラクササ〈羅刹〉の類い、武器の類い、風を意味する語、鋭さ、霊感、ささやき、罠およびパンチャ〈五〉の語を含む語彙である。通常スンカランで5を表す語はdriya〈インドロ神〉、wiyasa(知覚・感覚)、cakra〈チャクラ、円盤〉、warayang〈矢〉、tinulup〈語意不明〉、ati〈心・心臓〉、linungit〈魔物の一種〉、yaksa〈夜叉〉、mangkara〈怒り〉、pasarean〈寝所・墓地〉、tinata〈語意不明〉、gati〈真面目・真剣〉、そしてpirantining 〈道具、機器〉である。

スンカランで6の数に対応する語彙
 スンカランで6を表す語意は感覚を象徴する語、六本足の生き物、またすべての動物を指す語である。スンカランで6を表す語はkat〈どこ〉、gana〈ミツバチ〉、hangga-hangga〈蜘蛛〉、rasa〈感覚〉、sinesep〈吸い込まれる〉、nikmat〈素敵な〉、kayu〈木〉、winayang〈動かされる〉、rebah〈崩壊する〉、そしてwisik〈メッセージ〉である。

スンカランで7の数に対応する語彙
 スンカランで7を表す語意は苦行者、プンデトpendeta 〈僧侶〉、山、大気ならびに乗用に供される動物の類いの語意である。スンカランで7を表す語はpandhita〈僧侶〉、resi〈僧〉、swara〈声〉、sabda〈言葉〉、muji〈称賛、祝福、教え〉、そしてgiri〈山〉である。

スンカランで8の数に対応する語彙
 スンカランで8を表す語意は象、爬虫類、そしてバラモンを意味する語である。スンカランで8を表す語はngesti〈思考する〉、madya〈真ん中〉、basuki〈蛇〉、naga〈蛇〉、brahmana〈バラモン〉、manggala〈幸福〉、murti〈身体〉、salira〈身体〉、sarining〈花の〉、そしてこれらの派生語である。

スンカランで9の数に対応する語彙
 スンカランで9を表す語彙は神、花、また穴の開いた物、開いた物を意味する語彙である。スンカランで9を表す語はkata〈言葉〉、trus〈後に、直ちに〉、trustaning〈信頼する〉、wiwra〈穴、戸口〉、anggatra〈語意不明〉、gapura〈門〉、ambuka〈咲く〉、makaring〈山羊〉、umanjing〈入る〉、sekaring〈花〉、puspa〈花〉、kusma〈花〉、kembang〈花〉、そしてngarumake〈香り〉である。

スンカランの例

Dwi Naga Rasa Tunggal ドゥウィ・ノゴ・ロソ・トゥンガル
 このスンカランはジャワ暦1682年、西暦1756年を意味する。ジョクジャカルタ王宮が使用されるようになった年である。ドゥウィ Dwi 〈二つ〉は2を意味し、ノゴ naga 〈蛇〉は8、rasaは6、tunggal は1を示す。であるからこのスンカランにはジャワ暦1682年の意味が隠されているのである。

 Dwi Naga Rasa Tunggal とはDua Naga Satu Rasa〈二匹の蛇が一つになる〉、つまり二匹の蛇が交尾しているさまを表している。ラサ・トゥンガルとは二匹の蛇が共に快感を得ていることを意味する。ドゥウィ・ノゴとはジョクジャカルタ王宮の口伝によれば、キアイ・ジョゴ Kiai Jaga とキアイ・ジグット Kiai Jigut と名付けられた二匹の蛇であり、ジョクジャカルタ王宮ならびにマタラムの地に住まう民すべての安寧を見守っているとされる。しかし歴史的資料によれば、このスンカランはジョクジャカルタ王宮の成立、つまりジャワ歴1682年、西暦1756年にマタラム王国で勃発したパリハン・ナガリ palihan Nagari 〈第三次ジャワ継承戦争〉においてカスルタナン・ヨグヤカルト Kasultanan Yogyakarta とカスナナン・スロカルト Kasunanan Surakarta が成立したことと関係するとされる。つまりこのスンカランは「王国の安寧と存続のため、王権は二つに分かれたが、その内面はひとつである」ことを意味しているのである。

Dwi Naga Rasa Wani ドゥウィ・ノゴ・ロソ・ワニ

 ジャワ暦1682年、西暦1756年にスリ・スルタン・ハマンク・ブウォノ一世がジョクジャカルタ王宮に入ったことを意味するスンカランである。

 Dwi Naga Rasa Waniというスンカランは「二匹の蛇は勇猛なり」という意味である。歴史的資料に照らせばパリハン・ナガリ〈第三次ジャワ継承戦争〉が起こっており、このスンカランは「二つの権力が正義を確立するため勇猛をふるっている」ことの暗喩であり、ジョクジャカルタ王宮設立に際して「王と民は、カスルタナン・ヨグヤカルト〈ジョクジャカルタ王家〉のために勇猛であらねばならぬ」という意味も持っている。

Warna Sanga Rasa Tunggal ワルノ・ソゴ・ロソ・トゥンガル

 スリ・スルタン・ハマンク・ブウォノ一世の命により、キアイ・リヨ・シンドゥルジョ Kiai Riya Sindureja 〈パティpatih 大臣のひとり〉がバンサル・プロボヤクソ Bangsal Prabayaksa を建設した、ジャワ暦1694年、西暦1768年を指すスンカランである。これはジョクジャカルタ王宮の宝物殿である。ワルノ warna は種類・物を意味し、ソゴ sanga は九、ロソ rasa は気持ち・感覚、そしてトゥンガル tunggal は一を意味する。であるからこのスンカランは一体となった九つの種類(の物)、という意味になる。

 九つの物 warna snga とはスルタンの寵愛する九種の物を意味し、聖なる物と警鐘の象徴バニャ bnyak (ガチョウ angsa )、俊敏性と知恵を象徴するダラン dalang (鹿 kijang )、勇気を象徴するサウン sawung (雄鶏 ayam jantan )、権威を象徴するガリン galing (孔雀 merak )、世界を象徴するアルドワリコ蛇 ardawalika 、魅力を象徴するカチャ・マス(金のハンカチ)、民の心を照らすカンディル kandhil (ランタン)、シムボルを備える場サプト saput (すべての物を保管する場)のことである。そしてこのスンカランが暗喩するのは、王がその職務を遂行するために不可欠な九つの態度を意味しているのである。

Trus Manunggal Pandhitaning Rat トゥルス・マヌンガル・パンディタニン・ラト

 ジャワ歴1719年、西暦1792年にスリ・スルタン・ハマンクブウォノ二世によってバンサル・クンチョノ Bangsal Kencana が建設されたことを示すスンカランである。バンサル・クンチョノは王宮の重要な儀式に使用される建物で、王の即位式の場でもある。トゥルス trus ( terus 継続・langsung 直接)の語は9の数字を意味し、マヌンガル manunggal (トゥンガル tunggal )は1、パンディタニン pandhitaning (パンディト pandhita=プンデト pendeta 〈僧侶〉)は7を、ラトrat (世界)は1を示す。であるからこのスンカランはジャワ歴1719年を意味し、「僧の世界はつねにひとつである」という意味にもなる。

スカル・シナウト・イン・ロジョ Sekar Sinahut Ing Raja

 ジャワ暦1839年、西暦1909年にスリ・スルタン・ハマンクブウォノ八世によりグドゥン・ジェネ Gedong Jene が建設されたことを示すスンカランである。スカル Sekar (花)は9を、シナウト Sinahut (さらわれる disambar〈維持される dipegang の方が良いと思われる〉)は3、イン Ing (〜で)は副詞、ノゴ Naga は8を、そしてロジョ Raja(王)は1を表す。かくてこのスンカランはジャワ暦1839年を示し、「花は蛇の王によって保たれる」という意味になる。花は繁栄の象徴であり、蛇の王は偉大なる王を意味する。王の住いとしてのグドゥン・ジェネの役割に合わせれば、このスンカランは王のモットー、「繁栄は王がもたらす」を意味している。

カルウィアニン・ワラヤン・グスティ・アジ Kaluwihaning Warayang Ngesthi Aji

 このスンカランはジャワ暦1851年、西暦1921年、スリ・スルタン・ハマンク・ブウォノ八世の即位の年を示す。カルウィアニン Kaluwinahing (さらに)は1を、ワラヤン warayang (矢)は5、グスティ Ngesthi (切望する・思考する)は8を、そしてアジ Aji (尊厳・王)は1を表す。このスンカランは「卓越した矢が尊厳を望む」という意味になる。また「王たる者は民衆の安寧を保つために鋭い思考を持たねばならない」という意味ももっている。ワラヤン(矢)の語は鋭敏な思考の象徴であり、アジは王を意味する。であるからこのスンカランは王の即位に相応しい。鋭敏な思考を持たぬ者は王に相応しくないからである。

カルウィアニン・ヤクソ・グスティ・アジ kaluwihaning Yaksa Ngesti Aji

 ジャワ歴1851年ジュマディラワル Jumadillawal 月8日、西暦1921年2月8日にスリ・スルタン・ハマンク・ブウォノ八世が即位したことを示すスンカランである。カルウィアニン Kaluwihaning (さらに)は1を、ヤクソ(ラクササ〈羅刹〉)は5、グスティ Ngesthi (切望・思考)は8を、そしてアジ Aji (威厳・王)は1を表す。このスンカランは「卓越したラクササは称賛を生み出す」という意味を持つ。カルウィアニン・ヤクソ、つまり超越したラクササとはここでは物理的権力を意味する。このスンカランは王は民衆を護り安寧を保つために、物理的な権力を保持しなければならないという暗喩となる。

ジャガド・アスト・ウィウォロ・ナルパティ Jagad Asta Wiwara Narpati

 ジャワ歴1851年ジュマディラワル Jumadillawal 月8日、西暦1921年2月8日にスリ・スルタン・ハマンク・ブウォノ八世が即位したことを示すスンカランである。このスンカランは「世界は王に扉をもたらす」という意味で、ハマンク・ブウォノ Hamengku Buwana と同じく、世界を維持する者を意味する。スリ・ハマンク・ブウォノ八世の即位を記すスンカランはジャガド・アスト・ウィウォロ・ナルパティ、カルウィアニン・ヤクソ・グスティ・アジ、そしてカルウィアニン・ワラヤン・グスティ・アジの三つがある。これら三つのスンカランは相関性があり、互いに補完し合っている。すなわち「世界を維持する者としての王は物理的・精神的領域において卓越していなければならない」ということである。カルウィアニン・ヤクソ・グスティ・アジとカルウィアニン・ワラヤン・グスティ・アジを参照。

ゴノ・アスト・クムバン・ロト Gaba Asta Kembang Lata

 西暦1926年にスリ・スルタン・ハマンク・グウォノによって北のシティ・ヒンギルが再建されたことを記すスンカランである。ゴノGana(ミツバチ)は6、アストAsta(手、運ぶ)は2、クムバン Kembang (花)は9、そしてロト Lata (滑る、広がる)は1を表す。このスンカランは「ミツバチが花の繁茂をもたらす」という意味を持ち、西暦1926年を示す。ミツバチは勤勉に働く生き物であり、その蜂蜜はとても有用なものであるから、王のシムボルとなる。このスンカランには「王が国に豊穣と繁栄をもたらしてくれるように」との願いがこめられている。同時に、クムバン・ロト(繁茂する花)は再建以前のタタグ・シティ・ヒンギル tatag Siti Hinggil の名、タタグ・ラムバット tatag rambat を示してもいる。

〈スンカランの例はまだまだたくさんあるが、以下略〉
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 こういった年号表記法は、日本には無いと思うが、なかなか洒落ていて素晴らしい。ワヤン人形の制作年代も、スンカランで表されるものがある。暗喩・比喩・暗示に充ち満ちたジャワ文化らしい表記法であろう。
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by gatotkaca | 2014-10-21 14:26 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

8世紀から15世紀の王たちの戦略 その2

 奇襲以外の戦略として、会戦での戦略もある。正面きって対峙した場合の戦略である。ジャワ古語文学作品で描かれる会戦では、軍は太鼓の合図で戦場に進撃する。例として挙げられるのは、「カカウィン・アルジュナ・ヴィヴァーハ」の23.2~3スタンザ〈原文 pupuh 詩節〉である。そこでは兵士たちはグンダン gendang 〈両面太鼓の一種〉、クティプン ketipung (トランペット)、ゴング、そしてタムブール tambur 〈太鼓の一種〉の轟音に嬉々として進撃する(プルボチョロコ Poerbatjaraka 1926:45–46 、ウィルヨマルトノ Wiryamartana 1990:104, 160 )。

 戦闘の間中、打楽器の音が途切れることなく鳴り響く。25.5スタンザでは剣戟や象たちの衝突するバシバシいう音で、もはや騒がしい銅鑼や太鼓の音さえも聞こえなくなる、と描かれている。さらに、攻撃する人々の魂を吐き出すようなどよめき、嘆き、叫び声が重なる(プルボチョロコ Poerbatjaraka 1926:49; ウィルヨマルトノ Wiryamartana 1990:107, 164 )。

 打楽器を伴って進軍する軍勢の姿は、チャンディ・パナタラン Candi Panataran (12~14世紀)の壁面にも描かれている。ラーマーヤナ Rāmayana 物語を描いたレリーフでは、アルンコ Alengka のラクササ〈raksasa 羅刹〉の軍勢と戦闘する猿の軍勢が見られ、猿の軍勢の中で二頭の猿がいくつかのゴングを打ち鳴らしている姿が描かれている。

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J.L.A. Brandes (1904)
ゴングを持つ猿の兵

 こういった会戦は9世紀に起こったラカイ・ピカタン Rakai Pikatan (850–856年) とラカイ・ワライン・プ・クムビヨニ Rakai Walaing Pu Kumbhayoni の、マタラーム王国王位争奪戦において見出すことができる。778年(856年)のプラサスティ・シワグルハ Siwagěrha によれば、この戦争は一年の間続いたという。この戦いでは、ラカイ・ピカタンの末子、ラカイ・カユワンギ・ディヤ・ロカパーラ Rakai Kayuwangi Dyah Lokapāla (856–882) が戦闘指揮官としてラカイ・ワライン・プ・クムビヨニの軍と勇敢に戦った。ラカイ・カユワンギは一旦、ラカイ・ワラインを撃退した。そこでラカイ・ワラインはラトゥ・ボコ Ratu Baka の丘陵に砦を築いたのだった。その丘陵地帯は戦略的に優れた場所であったので、ラカイ・カユワンギは彼の軍をなかなか殲滅できなかったが、粘り強い戦いの末、ついにラトゥ・ボコの丘でワカイ・ワラインの防衛線を突破することができたのである。


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会戦を描いたボロブドゥールの浮き彫り(パネル1.b.47)
 
 会戦の他の例として、パルグルグ parěgrěg 事件として知られる兄弟戦争がある。この戦争は、ハヤム・ウルク Hayam Wuruk (1350–1389 M.) 王の甥のひとりでクダトン・クロン kedaton kulon の統治者、ウィクラマワルッダナ Wikramawarddhana 、またの名ブラ・ヒヤン・ウィセサ Bhra Hyang Wiśesa (1389–1400 M.) とクダトン・ウェタン kedaton wetan の統治者でハヤム・ウルクの妻妾の子、ブレ・ウィラブーミ Bhre Wirabhūmi の間に起こった。「パララトンの書」によれば、サカ歴1323年(1401年)に二人の間に確執が起こり、3年後には紛争が最高潮に達し、ついには戦争になった。当初はウィクラマワルッダナがブレ・ウィラブーミを敗ったが、ブレ・トゥマペル・ブラ・ヒヤン・パラメスワラ Bhre Tumapel Bhra Hyang Parameśwara の支援を得たブレ・ウィラブーミが、サカ歴1328年(1406年)が勝利した。この事件は、中国のチェン・ツー Ch’ěng-tsu 帝から1405年ジャワに派遣されたチェン・ホー Chěng-Ho 提督も記録している〈 Chěng-Ho は鄭和 Zheng He のこと。チェン・ツー帝は永楽帝のことであろうが、永楽帝はYongle、諱であれば朱棣(しゅてい) Zhu Di である。ここでCh’ěng-tsu と表記されている理由は不明〉。一年後、鄭和はジャワで二人の王が争い、東の王が敗れ、その宮廷が滅ぼされたと記している。その戦争当時、中国の使節団は東の王国に身を寄せており、170名の中国兵が殺されたという。中国の皇帝はおおいに怒り、ウィクラマワルッダナに6万タイル tail の金を要求した。1408年、鄭和が再びジャワに派遣された際、彼は1万タイルの金を受け取った。ウィクラマワルッダナの差し出した金は要求額に達してはいなかったが、中国の皇帝は怒りをおさめ、その金を返却した。重要なのは金ではなく、ウィクラマワルッダナが謝罪することであったからである(グルーネヴァルト Groeneveldt 1960:36–37 )。

 すでに述べたように、ジャワ古語文学において、会戦の戦略陣形はヴューハと呼ばれる。たとえば、カカウィン・バーラタユーッダでは10種類のヴューハが言及されている。

1. ウキル・サガラ・ヴューハ wukir sagara wyūha (丘〈山〉と海の陣形)
2. ヴァジラティクシュナ・ヴューハ wajratikśna wyūha (雷の陣形)
3. カガパティ/ガルダ・ヴューハ kagapati/garuda wyūha (ガルーダの陣形)
4. ガジェンドラマッタ/ガジャマッタ・ヴューハ gajendramatta/gajamatta wyūha (荒れ狂う象の陣形)
5. チャクラ・ヴューハ cakra wyūha (チャクラ〈円盤〉の陣形)
6. マカラ・ヴューハ makara wyūha (マカラ〈インド神話に登場する怪魚〉の陣形)
7. スーチムカ・ヴューハ sūcimukha wyūha (針の陣形)
8. パドマ・ヴューハ padma wyūha (蓮華の陣形)
9. アルダチャンドラ・ヴューハ ardhacandra wyūha (三日月の陣形)
10. カーナナ・ヴューハ kānannya wyūha (層になった円状の陣形〈森の陣形〉)
 (ウィルヨスパルト Wiryosuparto 1968:30–40 )

 カッツ Kats とウィルヨスパルトによると、カカウィン・バーラタユーッダにおいて述べられているヴューハは、カマンダカ Kamandaka 文学作品で述べられているものとは、異なるという。カマンダカの言及するヴューハは8種類である。

1. ガルダ・ヴューハ
2. シンガ・ヴューハ singha wyūha (獅子の陣形)
3. マカラ・ヴューハ
4. チャクラ・ヴューハ
5. パドマ・ヴューハ
6. ウキル・サガラ・ヴューハ
7. アルダチャンドラ・ヴューハ
8. ヴァジラティクシュナ・ヴューハ
 (ウィルヨスパルト 1968:29; カッツ Kats 1923:240 )*9

 比較すると、インドの兵法書アルタシャーストラに書かれたものと同じヴューハは四種類だけであることが分かる*
10 。その四つの陣形は、ガルダ・ヴューハ、スーチムカ・ヴューハ、ヴァジラ(ティクシャ)・ヴューハ、そしてアルダチャンドラ・ヴューハである。他のヴューハ、ウキル・サガラ・ヴューハ、ガジェンドラマッタ/ガジャマッタ・ヴューハ、パドマ・ヴューハ、チャクラ・ヴューハ、マカラ・ヴューハ、そしてカーナナ・ヴューハはアルタシャーストラには記載が無い。(表1参照)。これらのヴューハはジャワ起源の陣形である可能性が高く、後にサンスクリット語の名称が付されたと思われる。

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 ■ *9 カマンダカ文学作品で触れられていない陣形は、カッツが見出したものであり、ウィルヨスパルトは原文史料を見ること無く、カッツを引用したにすぎないと思われる。
 ■ *10 アルタシャーストラで言及されている陣形は以下の通り。:(1)ダヌンダ dańůa (鈍器の陣形)、(2)ボーガ bhoga (蛇の陣形)、(3)マヌアラ mańůala (円陣)、(4)アサムハタ asamhata (分散陣形)、(5)プラダラ pradara (突撃陣形)、(6)ウルハカ ůŕůhaka (翼を展開し、後ろに本隊を置く陣形)、(7)アサヒャ asahya (分散されない堅固な陣形)、(8) ガルーダ garuůa (ガルーダの陣形)、(9)サンジャヤ sañjaya (弓形の陣形)、(10)ウィジャヤ wijaya (弓の陣形に似るが、一部に突撃部隊を備える)、(11)ストゥーラカルナ sthūlakarńna (巨大な耳の陣形)、(12)ヴィシャーラヴィジャヤ wiśālawijaya (最強の陣形と呼ばれる。陣形はストゥーラカンナ sthūlakarńna と同形だが、正面部分が二重になっている)、(13)チャムームカ camūmukha 敵軍に二つの翼が向かい合う陣形)、(14)ジハスハースヤ jhashāsya (チャムーカ camūmukha と似た陣形で、翼が後ろに伸びる)、(15)スーチムカ sūcimukha (最後尾が針のようになった陣形)、(16)ヴァラヤ walaya (スチームカのような陣形だが、二層になっている)、(17)アジャヤ ajaya (無敗の陣形)、(18)サルパーサリーイ sarpāsarīi (蛇行する蛇の陣形)、(19)ゴームトリカ gomūtrika (牛の尿の方向の陣形)、(20)シャンダナ syandana (火を吹く車の陣形)、(21)ゴーダ godha (ワニの陣形)、(22)ヴァーリパタンタカ wāripatantaka (シャンダナと同形だが、軍の全てが象、馬、戦車から成る)、(23)サルヴァトムカ sarwatomukha (円の陣形)、(24)サルヴァトーバドゥラ sarwatobhadra (全方向に対応する陣形)、(25)アショアーニーカー ashőānīkā (8部隊から成る陣形)、(26)ヴァジラ wajra (雷の陣形)、(27)ウディヤーナカ udyānaka (4部隊から成る花園の陣形)、(28)アルダチャンドリカ ardhacandrika (三部隊から成る三日月の陣形)、(29)カルカーオーアカシュレンギ karkāőakaśrěnggi (エビの頭の陣形)、(30)アリソア ariśőa (前線が戦車と象、後列が騎馬隊の陣形)、(31)アチャラ acala (歩兵の列を配し、後列に象、騎馬隊、戦車が並ぶ陣形)、(32)シェナ śyena (ガルーダと同形の陣)、(33)アプラティハタ apratihata (騎兵、戦車が前列、後列が歩兵の陣)、(34)チャーパ chāpa (弓状の陣形)、そして(35)マディヤチャーパ madhya chāpa (中央部に主力部隊を配した弓の陣形)である(シャルマサストゥリ Sharmasastry 1923:434–435; ウィルヨスパルトWirjosuparto 1968:27–29 )。

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表1. ヴューハの種類
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 残念ながら、文献資料が限られているため(プラサスティと文学作品)、ラカイ・カユワンギがラカイ・ワライン・プ・クムビヨニに対してどのような戦略を用いたのかは分からない。ウィクラマワルッダナがブレ・ウィラブーミに用いた戦略も同様である。確かなのは彼らが戦場で特定の戦略を用いたことと、それが上述のヴューハのどれか一つであるということだけだ。

 他にはラデン・ウィジャヤ Raden Wijaya が採った戦略がある。ラデン・ウィジャヤはクルタナガラの義理の甥にあたる。アルヤ・ウィララジャの助言でジャヤカトワンがクルタナガラを殺した後、ラデン・ウィジャヤはジャヤカトワンに服従するふりをした。ジャヤカトワンの信頼を充分に得てから、彼はブランタス Brantas 川方面から攻撃してくる敵に対する防御として、トリク Trik の森一帯を所望した。後に、要望が聞き入れられると、アルヤ・ウィララジャの手助けを得て、彼はその地域を開拓し、そこをマジャパイトと名付けたのである。その一方で、着々と自軍を強化し、カディリに対抗する機会を伺っていた。マドゥラ Madura では、アルヤ・ウィララジャもマジャパイトがジャヤカトワンと戦うため、軍備を整えていたのだった。

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 ■ *11 トリク地域は東部ジャワ、カブパテン・モジョケルト Kabupaten Mojokerto のタリク Tarik 村に同定できる。

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 ジャヤカトワンに対する戦闘準備が整うのと同時期の1923年初頭、クルタナガラの使節に対する処遇に報復するため、クビライ・カーンの軍勢が到来した。彼らはすでにシンガサーリ王国が崩壊し、クルタナガラ王が死んでいることを知らなかった。ウィジャヤにとって、中国軍の到来は、ある戦略を用いるのに好都合であった。かくて彼は中国軍の司令官に使節を送り、中国軍と協力してダハを討とうと提案した。彼はまた、中国軍に使節を送る際、その山に源流を持つ川を通信路として活用した(グルーネンヴェルト Groeneveldt 1960:33 )。

 中国軍は三つの波となってダハの首都カディリに押し寄せた。第一の波は、三番目の月(4月ー5月)の頭で、中国軍はつねに外的に備えのできていたダハ軍をカリ・マス Kali mas (パ・ツィエ Pa-tsieh )河口で攻撃した。この戦闘でダハ軍は敗北を喫した。勝利の後、中国軍は二手に分かれた。一部はカリ・マス河口の警護にあたり、残りはダハに進軍した。しかしダハへ出発する前に、ラデン・ウィジャヤの使節がやって来て、マジャパイトがダハ軍の攻撃を受けているので援軍を送ってほしいと要請してきた。第三月の八日に、マジャパイトでダハ軍は敗れた。戦果に満足しなかった中国軍はダハに侵攻し、同月19日にダハを攻撃した。ジャヤカトワンはすでに準備しており、百万の軍勢で迎え撃った。激戦の末、ジャヤカトワンはついに降伏し、王族ならびに政府高官は捕らえられた(グルーネヴァルト Groeneveldt 1960:33–4; Sumadio dkk. 1993:425 )。

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ボロブドゥールのパネル1b.44、の一場面。象部隊、騎馬部隊、歩兵部隊の三部隊で編成される兵たち。

 カディリと中国の戦争後、ラデン・ウィジャヤは中国皇帝宛ての表敬の書簡を携えてマジャパイトに戻った。マジャパイトへ向かう途次、二人の高官と二百の中国兵が、彼を護衛した。途中で、彼は二人の高官を欺いて殺し、警備の兵たちを攻撃した。中国の護衛軍を敗った後、ラデン・ウィジャヤ軍は、中国軍を攻めるためにダハに戻った。この戦闘で中国軍は敗北し、ジャワ島を離れることを余儀なくされた。

 文献史料に説明は無いが、戦争の過程とラデン・ウィジャヤの行動から、ラデン・ウィジャヤが採用した戦略はサーマ・ベーダ・ダンダであった可能性がある。戦略の筋道を辿ると、当初ラデン・ウィジャヤはアルヤ・ウィララジャと共闘した。ジャヤカトワンを攻撃する同盟軍を求めたのである(サーマ)。その後中国軍を煽動し、ジャヤカトワンと敵対させた(べーダ)。そして中国軍との戦闘でジャヤカトワンが敗北した後、最後に中国軍を攻めた(ダンダ)のである。

3. むすび

 ジャワ古語時代に起こったいくつかの戦争の例を検証して分かったことは、王たちの行動の動機が復讐にある場合には、一般的に奇襲戦略が用いられるということである。ウライ王対ダルマワンサ・トゥグ、あるいはジャヤカトワン対クルタナガラのように。敵がはるかに強大であり、正面攻撃では勝てないため、奇襲が採用されたのであろう。正面きっての会戦は、強さが拮抗する兄弟戦争で起こっている。ラカイ・カユワンギ対ラカイ・ワライン・ル・クムバヨニ、あるいはウィクラマワルッダナ対ブレ・ウィラブーミのように。

 すでに述べたラデン・ウィジャヤの場合は、サーマ・ベーダ・ダンダの戦略が用いられたともかんがえられるが、実際にラデン・ウィジャヤがこの戦略を用いたのかどうかは、まだ疑問が残る。彼が戦略をあらかじめ定めていたのか、状況に応じての行動が、偶然サーマ・ベーダ・ダンダと一致したのかどうかは分からないからである。また、アルジュナ・ヴィヴァーハとニティシャーストラの二つのカカウィンを再検討してみても、サーマ・ベーダ・ダンダの具体的な姿は不明だからである。アルジュナ・ヴィヴァーハの詩節21.1には、サーマ・ベーダ・ダンダの語が見出せるが、それは〈ラークシャサ王〉ニヴァタカヴァチャ Niwatakawaca が、金銭で慰撫される和解を望まず、戦争による解決を望むのみであると語られているが、それはサーマ・ベーダ・ダンダではない。いっぽうニティシャーストラでは、サーマ・ベーダ・ダンダの実践における金銭/富(ダナ dhana )の重要性が説かれ、ダナ無くしてはサーマ・ベーダ・ダンダは成功しないとある。それゆえ、ウィルヨスパルトの、インドネシアでサーマ・ベーダ・ダンダが著名で研究されていたという仮説は、その仮説を裏付ける、より強固で正確な証拠を見出し、再考される必要があると思われる。

 戦争勃発の要因を見てみると、ジャワ古語時代の戦争原因は、生物学的要因と心理学的要因に起因する。生物学的要因では、ある物を手に入れるために競合が生じることが原因と成る。外部からの侵攻、特定の行動に対するフラストレーションである。いっぽう心理的要因は、外界に対して積極的である人間の性質に基づいている(ラピアン t.t.:5–6 )。この要因が、クルタナガラをしてヌサンタラ〈インドネシア〉の統一に向けて版図を拡張させる戦争を起こさせたのである。また王権を巡っての兄弟戦争をも起こした。その子によって導かれた、ラカイ・カユワンギとラカイ・ワライン・プ・クムバヨニの戦争や、ウィクラマワルッダナとブレ・ウィラブーミの戦争のように。いっぽう、心理学的要因はより復讐に関わっている。ウラリ王とダルマワンサ・トゥグの行動のように。

 これらの生物学的・心理的要因の双方が示すのは、ジャワ古語時代の生のあり方における関心事(利益)はコンセンサスをもって妥協することでは解決し得ないものだということである。それゆえ、一方の当事者が他方に対して強制的に獲得するべき要素なのである。

 そのような状況から、一方の当事者から他方への利益分配は紛争の形をとり、戦争となる。それは最高にして命を賭けるに値する判断基準なのである。このような紛争の本質は、古来戦争を通じて実施され、並び立ち敵対する二者間での問題解決には、交渉や機会を待つことよりも、最も効果的な出来事としてとらえられてきたのだ。

 ジャワ古語時代の戦争に関する考察から得られる結論は、戦争とは心理的・生物学的要因の双方に起因するものであり、権力(現実)と倫理(理想)の両側面にとって、つねに有益とは限らないということである。倫理的側面から、より大きな権力を求める野心を制御する必要があるのだ。しかし現実には倫理的側面は無視されてしまう。倫理的側面がつねに制裁や利益を含むさまざまな問題に直面していることを自覚する議論がされなければならない。人間の生の問題を解決することにおいて、倫理の有効性が話題になることはついぞ無かったのだから。最後に一言する。人間もしくは人間集団にとって、暴力を介して問題を解決しようとするより効果的な手段、それが戦争なのだ。

ditulis oleh: Titi Surti Nastiti
Pusat Penelitian dan Pengembangan Arkeologi Nasional


参考文献 DAFTAR PUSTAKA
Brandes, J. 1986. “Pararaton (Ken Arok) of het Boek der Koningen van Tumapel en van Majapahit. Uitgegeven en Toeglicht door J. Brandes”, VBG XLIX.
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Groeneveldt, W.P. 1960. Historical Notes on Indonesia and Malaya Compiled from Chinese Sources. Jakarta: Bhratara.
Kartoatmodjo, M.M. Soekarto. 1984. “Sekitar Masalah Sejarah Kadiri Kuna”, dalam Simposium Sejarah Kadiri Kuna, Yogyakarta, 28―29 September.
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Lapian, A.B. t.t. “Perihal Perang”. Tidak terbit.
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Sumadio, Bambang dkk. 1993. “Jaman Kuna”, dalam Marwati Djoened Poesponegoro dkk (ed.), Sejarah Nasional Indonesia II. Jakarta: P.N. Balai Pustaka.
Wirjosuparto, Sutjipto. 1968. Kakawin Bharata-Yuddha. Jakarta: Bharata.
Wiryamartana, I. Kuntara. 1990. Arjunawiwāha. Seri ILDEP. Yogyakarta: Duta Wacana University Press


カカウィン・バーラタユーッダに見られるヴューハ(ウィルトスパルト 1968;30-40 )

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ヴァジラティクシャ・ヴューハ(雷の陣形)とウキル・サガラ・ヴューハ(山と海の陣形)

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ガルーダ・ヴューハ(ガルーダ鳥の陣形)

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マカラ・ヴューハ(怪魚の陣形)とチャクラ・ヴューハ(車輪の陣形)

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パドマ・ヴューハ(蓮華の陣形)

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アルダチャンドラ・ヴューハ(三日月の陣形)

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カーナナ・ヴューハ(森の陣形)

”Strategi Perang Raja – Raja Jawa pada Abad ke 8 – 15 Masehi”
Oleh: Titi Surti Nastiti
Pusat Penelitian dan Pengembangan Arkeologi Nasional


(おわり)
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by gatotkaca | 2014-09-17 07:11 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

8世紀から15世紀の王たちの戦略 その1

●「バラタ・ユダ」にも度々登場した陣形。古代ジャワにおける陣形と王たちについての考察を紹介する。原文はここ

8世紀から15世紀の王たちの戦略
Strategi Perang Raja – Raja Jawa pada Abad ke 8 – 15 Masehi

ティティ・スルティ・ナスティティ
Oleh: Titi Surti Nastiti

国立考古学研究開発センター
Pusat Penelitian dan Pengembangan Arkeologi Nasional


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要旨 abstract

 ジャワ古語 Jawa Kuno 時代の文学作品を見ると、そこにはビューハ byūha 、wyūha と呼ばれる戦略陣形  strategi perang 〈原文語義は「戦略」であるが、文脈から「戦略陣形」もしくは「陣形」と訳す〉がすでに知られていたことがわかる。これらの文学作品で語られる十余りの陣形のうち四つはアルタシャーストラ Arthaśāstraインド)から採られており、残りのものはジャワ起源のものである。

 過去の戦争記録を見れば、ジャワの諸王国の王たちによって最も多く採用された前線の戦略を知ることができるであろう。


1. はじめに

 ジャワ古語時代の碑文プラサスティ prasasti の記録によれば、717年のマタラーム Matarām 古王国成立以来、16世紀初期のマジャパイト Mapahit 王国崩壊にいたるまで、王国間もしくは中央政権と属領間、さらには王国の内紛としての戦争がしばしば起こっている。戦争の原因は王権の争い、版図の拡張のみならず、復讐に起因するものもある。

 一般的理解では、戦争とは長期的で大規模な敵対する政治的集団の間に生じる確執ということになろう。カール・フォン・クラウゼヴィッツCarl von Clausewitz (1780-1831) によれば、戦争とは社会の発展、政治的行動であるとされる。戦争とは政治的行動としてだけでなく、継続する政策を他者へ伝播するための具体的政治的手段でもあるのだ (Lapian t.t.:1, 20)。戦争に関するいくつかの理論を見ると、そこには二通りの考え方が存在する。人間固有の生物学的・心理的要因として戦争を捉える理論と、社会とそれを規定する社会制度と関わるものとして戦争を捉える理論である。

 戦争について言えば、それは戦闘に用いられる戦略と不可分なものであろう。戦略 strategi という言葉はギリシャ語のストラテゴス strategos に由来し、狭義には「将軍の術策」を意味する。この言葉は当初、将軍職の者が敵を欺くため、軍を戦場にどのように配置するかといった軍事戦略に関わる戦術として現れた。戦争理論においては、戦略と戦術は異なる二つのカテゴリーに置かれるのが一般的である。これら二つの分野は、伝統的には異なる次元のものとされる。戦略 strategi は公汎で、長期的、大規模な軍事行動に対して用いられ、戦術 taktik は戦略の局地的実践を指す。であるから、戦略とは戦場に入る前奏曲 prelude (事前準備)を意味し、戦術とは戦場での実践のことなのである。それゆえ、ラピアン Lapian (t.t.:12–14) にいたるまで、過去の戦略に関する多くの文献・理論は、戦場に出発するまでの準備に焦点を合わせ、敵軍と対峙した時、いかに軍の士気を最高の状態に持って行くかが主眼と成っているのである。こういった状況は、敵軍の行動を制限し、不利な状態に置き、自軍を有利に導くための戦略的駆け引きに、より多大な注意が払われていることを明らかにしている。

 ジャワ古語文学により、その時代の人々が戦略を心得ていたことは明らかである。とりわけカディリ Kadiri 王国のジョヨボヨ Jayabhaya 王治世下、サカ歴1019年(1157年)にムプ・スダ Mpu Sedah とムプ・パヌル Mpu Panulu によって書かれた「カカウィン・バーラタユーッダ kakawin Bhāratayūddha 」である *1 。このカカウィンには、敵軍と会戦〈正面作戦〉し、あるいは進軍する際にパンダーヴァ Pandawa とカウラヴァ Kaurawa が採った様々な種類のビューハ(戦略陣形)が描かれている。

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 ■ *1 カカウィン・バーラタユーッダの成立年代は、śāka kāla ri sanga kuda śuddha candrama としてチョンドロ・スンコロ candra sangkala 形式で記されている(プルボチョロコ Poerbatjaraka とタルジャン・ハディジョヨ Tardjan Hadidjaya 1957:24;ウィルヨスパルト Wirjosuparto 1968:41)。

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 戦略に関して、ウィルヨスパルト Wirjasuparto は、インドネシアではサーマ・ベーダ・ダンダ sāma-bheda-dańůa の戦略が知られていたと述べている(1968;21-22)。これは、敵を殲滅する政策を含む政治学の書であり、かつてインド亜大陸を統一したグプタ Gupta 王朝でも重用されたアルタシャーストラと題されるインド文学に由来する。続いてウィルヨスパルトは、サーマ・ベーダ・ダンダはアルタシャーストラの書から採られたことを明らかにしたが、この戦略はアイルランガ Airlangga 王治世時代のムプ・カンワ Mpu Kanwa が構成したカカウィン・アルジュナ・ヴィヴァーハ Arjunawiwāha にも描かれ、またマジャパイト時代末期に成立したと推定されるカカウィン・ニティシャーストラ nitiśāstra でも描かれている *2 。サーマ・ベーダ・ダンダの戦略はジャワで著名になり、研究されたのである。

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 ■ *2 ニティシャーストラの作者は不明であるが、言語の様式、語の配列などからマジャパイト末期のものと推定されている。

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 サーマ・ベーダ・ダンダにおいて提示されている教義の核心は以下のようなものである。第一に、王が敵を殲滅したいと望むなら、同盟国(サーマ sāma)を求め、それらの王国と良好な関係を結ばなければならない。そうすれば、王国に戦争が勃発した際、同盟国からの援助を期待でき、または少なくともそれらの国々が中立を保つことが期待できる。第二に、王国に迫る敵を取り囲み(ベーダ bheda )、孤立させることができれば、最終的には弱った敵を討つ(ダンダ dańůa )事が出来るというものである(ウィルヨスパルト 1968:22)。

 時代が下って我々は東インド会社とジャワ軍の戦争において、いくつかの軍事に関する戦略を手に入れた。(1)奇襲戦法、(2)公道に木を倒し、敵軍を封じる。特に貨物列車を封鎖する。(3)食料の供給を遮断し、敵軍を飢餓に追い込む。(4)河を塞き止め水の供給を遮断する。といった戦法である(シュリーケ Schrieke 1957:132–135 )。

 それに関して、ウィルヨスパルトは、サーマ・ベーダ・ダンダの戦略・戦術はジャワにおいて著名であり、研究されており、特に8世紀から15世紀の王たちに採用されたという自身の仮説を論文で検証した。さらにジャワ古語時代に用いられたいくつかの戦略に言及した。そのために、いくつかのプラサスティ、文学作品、そして同時代の中国の史料を用いた。

2. 8世紀から15世紀のジャワ諸王の戦略

 すでに述べたように、プラサスティの史料から、王権獲得、版図拡張のみならず復讐に起因する戦争があったことが分かっている。これらの戦争において、ジャワ古語時代に用いられた諸戦略を見出すことができる。最初に用いられた戦略は、奇襲である。一例として、マタラーム古王国のシュリ・サルマワンシャ・トゥグ・アナンタウィクラモトゥンガデワ Śrī Dharmmawangśa Těguh Anantawikramottunggadewa (991ー1016年)と属領のウラワリ Wurawari 王 *3 との戦いが挙げられる。

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 ■ *3 ウラワリ地域は、バニュマス Banyumas 、カラン・コバル Karang Kobar の南に位置したと考えられている(シュリーケ 1959:215, 294 )。

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 ウラワリ王との戦争は、ダルマワンサ・トゥグの娘とアイルランガが結婚して間もなく勃発した。古代史の専門家は、ウラワリ王がダルマワンサ・トゥグの後継者となる野心を抱いていたと推測している。しかしダルマワンサ・トゥグが婿に選んだのはバリ出身の甥であった。史料によれば、アイルランガはダルマワンサ・トゥグの妹で、バリのワルマデワ Warmmadewa 王朝のウダーヤナ Udāyana 王と結婚したマヘンドラダッター・グナプリヤダルマパトニー Mahendradattā Guńapriyadharmmapatnī の息子であった。ダルマワンサ・トゥグの娘との婚姻が成功せず、ウラワリ王は失望し、不満を抱き、ダルマワンサ・トゥグの王宮に奇襲をかけたのである。突然の奇襲にダルマワンサ・トゥグは対抗し得ず、この戦闘で死んだ。いっぽう、アイルランガは忠実な家臣ナロッタマ Narottama と森で遭遇し、逃げ延びることが出来たのである * 4 。

 奇襲の例として他には、シンガサーリ Singhasāri 王国最後の王、クルタナガラ Kěrtanagara (1268–1292年) とグラン・グラン Gělang-gělang またはググラン Gěgělang 王国のジャヤカトワン Jayakatwang (1271–1293年)の戦いを挙げることができよう * 5 。クルタヌガラ王は、属国の王であり、婿でもあるジャヤカトワン王が奇襲をかけてくるとは思いもしなかった。この時クルタヌガラ王はモンゴルのクビライ・ハーンからの脅威に備えていたのである。1298年にクビライ・カーン王国の朝貢を求める使者メン・チー Meng-ch’i がシンガサーリに来訪した際、要求を拒み、使者メン・チーの顔を傷つけたため、モンゴルと敵対関係が生じたのである。使者を害したことをクビライ・カーンはクルタヌガラからの侮蔑、宣戦布告と解したのである。1292年の始め、シー・ピー Shih-pi 、イケ・メセ Ike Mese (イセ・ミ・シー Iseh-mi-shih)、カオ・シン Kao-hsing の、三人の指揮官に率いられたモンゴル軍がジャワ征伐のために出発した。

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 ■ *4 アイルランガ即位の後、ナロッタマはムプ・ダルムマムルティ Mpu Dharmmamurti の称号で rakryān kanuruhan に任命された。
 ■ *5 パララトンの書 Sěrat Pararaton において、カウイリ Kaůiri はダハ Daha の首都であると記されている。サカ歴1177年(西暦1255年)の年代表記のあるプラサスティ・ムーラ・マルルン Mūla Malurung においては、グラン・グランはウラワン王国の首都とされている。カディリの名はアイルランガ時代から知られている。ダハは後にカディリの名で知られるパンジャル Panjalu 王国の首都である(ジャファール Djafar 1978:112)。

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 ちょうどその時ジャヤカトワンがクルタナガラを攻撃した。彼の宰相アルヤ・ウィララジャ Aryya Wiraraja がこう言って煽動した。クシャトリアたる者の義務は、祖先の被った不名誉を雪ぐことであると。「パララトンの書」によれば、カディリ最後の王クルタジャヤ Kěrtajaya またの名ダンダン・グンディス Dandang Gěndis は、サカ歴1144年(1222年)に、トゥマペル Tumapel 出身のケン・アンロク Ken Angrok に敗れたという *6 。その年ケン・アンロクはシンガサーリ王国を建国し、カディリはシンガサーリの一部に編入されてしまった。アルヤ・ウィララジャの煽動で、ジャヤカトワンは祖先(クルタジャヤ)がクルタナガラの祖先(ケン・アンロク)に殺された復讐を決意する。実際ジャヤカトワンはウラワンを支配するシンガサーリ王国の一地方の王にすぎなかったのである。彼はクルタナガラの婿でもあった。というのもトゥルク・バリー Turuk Balī という名のウィスヌワルダナ Wisnuwarddhana の娘と結婚していたからである。

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 ■ *6 「パララトンの書」あるいは「カトゥトゥリア Katutunira ・ケン・アンロク」は、中期ジャワ語のガンチャラン gancaran (散文)形式で書かれており、マジャパイト時代末期に成立した。ハサン・ジャファル Hasan Djafar の説では、「パララトンの書」は1481年、ギリーンドラワルダナ・ディヤ・ラナウィジャヤ Girīndrawarddhana Dyah Rańawijaya 王の統治下の時代に書かれたという。この説は、サカ歴1403年(1481年)に起こった火山噴火が記されていることに基づく。「パララトンの書」の内容は、シンガサーリからマジャパイトにいたる歴代王の編年史である。

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 「パララトンの書」によれば、シンガサーリ王国打倒を画策したアルヤ・ウィララジャまたはバニャク・ウィデ Banyak Wide はかつて中央官僚であったが、クルタナガラ王と政治的見解を違え、マドゥラのスメネプ Sumenep の領主 adi patih に左遷されたという。この件で彼はクルタヌガラ王に怨みを抱き、ジャヤカトワンを煽動し、クルタナガラに復讐しようとした。シンガサーリを攻撃する好機は今しかないとジャヤカトワンに言ったのである。その時、シンガサーリの主力軍のほとんどはマレーにいた。アルヤ・ウィララジャはジャヤカトワンに次のような書簡を送った。

 『Pukulun, patih aji matur ing paduka aji, aněnggěh paduka aji ayun abuburu maring těgal lama, mangke ta paduka aji abuburua, duwěg kaladeçanipun tambontěn wontěn baya, tambontěn macanipun, tambontěn bańőengipun, muwah ulanipun, rinipun, wontěn macanipun anging guguh』(ブランデス Brandes 1826:18)

 「足下より、高貴なるお方へ、王陛下にお知らせいたします。陛下が遠出の狩りをお望みであるなら、今がその時です。今が好機です。危険は無く、虎はおらず、水牛もおりません。また蛇(も)敵もおりません。虎がいてもその歯は抜け落ちております。」

 ジャヤカトワンは好機を逃さなかった。彼はマカラ・ビューハ makara wyūha の布陣で攻撃を仕掛けた(スマディオSumadio 1993:418, cat. no, 89 )。北と南の二方向から攻撃を開始したのである。北からの攻撃部隊はシンガサーリ国軍を王宮からおびき出すためのものであった。


 戦略は成功した。北方から攻撃を受けたため、ラデン・ウィジャヤ Raden Wijaya *7 と、ジャヤカトワンの子でクルタナガラの婿であるアルッダラジャ Arddharaja 率いるシンガサーリ軍は、北方に攻撃をかけ、後退し続ける敵を追撃した。かくて宮殿付近のシンガサーリ軍は手薄になってしまった。南方に布陣していたジャヤカトワンは宮殿を攻撃し、宗教儀式を行っている最中だったクルタナガラを殺すことに成功したのである *8 。

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 ■ *7 ラデン・ウィジャヤまたの名ナラーリャ・サングラマウィジャヤ Narāryya Sanggramawijaya はディヤ・ルムブ・タル Dyah Lěmbu Tal の子である。彼は1293年に王位に就き、マジャパイト王国を建国する。王となって後、シュリー・クルタラージャサ・ジャヤワルダナ Śrī Kěrtarājasa Jayawarddhana と称した。
 ■ *8 「パララトンの書」によれば、ジャヤカトワンの攻撃を受けた時、クルタナガラは泥酔していたという(sira bhaőāra çiwa buddha pijěr anadah sajöng = Beliau Bhatara Siwa Buddha terus menerus meminum tuak)。実際、彼はその時宗教儀式を行っていたのである。それゆえ彼はスーニャパラマーナンダ sūnyaparamānanda の境地、つまり永遠なるアディブッダ Adibuddha として最高の幸福を味わう境地にあったのである。この境地においては、あらゆる禁忌から解放されて、パンチャマカラ pañcamakara を楽しむことができる。パンチャマカラとは、マイトゥナ maithuna (性行為)、マディヤ madya (飲酒)、マムサ mamsa (肉)、マツヤ matsya (魚)、そしてムドゥラ mudra (神秘の力を発する手印)(スマディオ Sumadio dkk. 1993:416–417 )。

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 クルタナガラが、ジャヤカトワンの奇襲を予測できなかったことについて、ダハからの攻撃を知らされた時、信じようとはせず、次のように語ったと記されている。「kadi pira sirāji Jaya Katong mangkonon ring isun, apan sira huwus apakenak lawan isun. ジャヤカトワンが、私にそのようなことをするはずがない。彼は我が兄弟なのだ。」(ブランデス Brandes 1896:19 )


(つづく)
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by gatotkaca | 2014-09-16 15:31 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ガトコチョは誰がために死す?(その2)

( 前回からのつづき)


牙を抜かれるアリムビ

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Dewi Arimbi

 2.で挙げたアリムボ征伐、ビモとアリムビの結婚のエピソードで、アリムボはビモおよびパンダワ一族を父の仇として認識している。インド版マハーバーラタにおけるヒディムバ、ヒディンバーきょうだいは森に住むラークシャサたちの頭領であるが、特に彼らが王国を持っているとは語られない。インド版では彼らはあくまで通りすがりのラークシャサであり、パーンダヴァを狙うのも特別な動機を付与されているわけではない。だが、ジャワではアリムボがビモを殺そうとすることには、敵討ちという明確な理由がある。パンダワがプリンゴダニ先代トルムボコ王の仇であり、さらにはアリムボの仇ともなることは、ガトコチョ誕生後のエピソードにも深い関わりを持ってくることになる。

 このエピソードでアリムビは、ビモに求婚し一旦は拒否されるのだが、パンダワの母クンティのとりなしでビモに受け入れられることになる。この時、クンティの言葉が発する超能力で、彼女のラクササの風貌は一変し、アリムビは美しい女になる。一説では、アリムビは美女に変わるが、ラクササであったなごりとして背が高いと語られることもある。生身の役者たちが演ずるワヤン・オラン Wayang Orang では、アリムビ役の役者には背の高い女性が選ばれるとも言われている。しかし、いずれにしてもこのエピソード以降のアリムビは人の姿としてワヤンに登場することになる。インド版マハーバーラタのヒディムバーにはこのような変貌はみられず、彼女はラークシャサのままビーマと結ばれる。もっともラークシャサの変身能力で美しい姿をとることにはなっているが、彼女の本質には変化が生じない。ジャワ版でのアリムビの変化は、たんなる外見上の変化というよりは、内面のラクササ性の剥奪を意味すると考えられる。この場面はパンダワ側からのアリムビのスポイルであると看做すことができるだろう。これ以後、アリムビはパンダワにとって無害の存在となり、彼女の役割はガトコチョの善き母以上のものではなくなるのである。このスポイルがアリムボ殺害の直前に行われることも注目しておきたい。反パンダワの態度を崩さないアリムボはビモに殺害されるが、すでにスポイルされているアリムビは兄の死に異議を申し立てることはない。この時点でアリムビはプリンゴダニからパンダワの側にその属性を移してしまっているのである。そしてプリンゴダニの王権はパンダワに帰属したアリムビの手に委ねられる。

 「エンシクロペディ・ワヤン・インドネシア」に紹介されている東部ジャワのワヤンでの展開はこれとは異なる。ここではプラブ・トルムボコはプラブ・コロ・ボコ Prabu Kala Baka と呼ばれる。アリムビは彼の三番目の子であり、きょうだい中で唯一の女である。二人の兄の名はコロ・アルムボ Kala Arumba とコロ・アリムボ Kala Arimba であり、弟たちはコロ・プロボケソ Kala Prabakesa とコロ・ブンドノ Kala Bendana という。アリムビは父に最も愛され、幼少より王位継承者とされていた。

 父とは異なり、コロ・アルムボとコロ・アリムボは人食いであった。父は人食いを禁じたが、二人はそれを無視していた。怒りと失望で、父王はサユムボロ sayembara 〈婿取りの協議〉を開催し、二人の反抗的な息子たちを殺し得た者は誰あろうとアリムビと結婚し、プリンゴダニ国の王位継承者となると宣言した。そしてプジョセノ Pujasena (東部ジャワでポピュラーなビモの名)という立派なクサトリアが勝利した。コロ・アルムボとコロ・アリムボの二人は、互いの頭を鉢合わせにされ、同時に弊されたのである(ジャワ語でディアドゥ・クムボ diadu kumba という)。

 しかしプジョセノは褒美を受け取らなかった。プリンゴダニ国の王位を拒み、彼は二包みの飯のみを所望した。ラスクシ raseksi 〈女羅刹〉であるデウィ・アリムビとの結婚を断ったのである。

 プントデウォ Puntadewa 〈パンダワ五王子の長兄〉と共にデウィ・クンティが現れ、ラスクシであったアリムビの姿を美しい女の姿に変えた。こうしてビモは彼女を妻にすることに同意し、プリンゴダニの王位は生まれてくる子供に与えられることになった〈「エンシクロペディ・ワヤン・インドネシア」第一巻、136~137頁〉。

 東部ジャワのワヤン・クリは、中部ジャワの王宮の伝統から比較的自由なスタイルを展開させていることで知られている。ここではプリンゴダニ国の先代王の名に、先に紹介したプルタパアン・プリンゴダニの伝承に見られたプラブ・ボコが用いられている。プリンゴダニ先代王の名はプラブ・ボコとする伝承の方が古いのかもしれない。プラワンガンの伝承でも王の名は、ハリムボコあるいはトルムボコとなっており、ハリ+ ボコ Hari(m) + Baka であると考えられるからである。当初プリンゴダニ先代王の名にボコが採用されていたとすれば、4.、5.の説話に登場するブロジョドゥントという人物とプリンゴダニの関係も見えてくる。これについては後述する。


死を背負って生まれるガトコチョ


 3.に語られるガトコチョ誕生譚は、シムプルなインド版とは大きく異なり、ガトコチョの命を奪うことになるスンジョト・クントという神与の武器をめぐる物語として構成されている。インド版では、ビーマとヒディムバーが結ばれると間もなくガトートカチャが産まれ、彼の誕生にまつわる物語は特に設定されていない。インド版におけるガトートカチャの姿は「耳まで裂けた大きな口をし、耳は矢のように尖り、虎の牙のような歯をもち、大きな長い鼻、広い胸、子牛のような逞しさと力をひめた異常な子供であった。」〈「マハーバーラタ」第一巻、山際素男編訳:三一書房刊、1992年、215頁〉とされ、かれの急速な成長も「ラークシャサの女はみな身籠ったその日に出産する慣しであった。そして生まれた子供は、たちまち若者となり、人間の武器の使い方、武芸をあっという間に習得してしまうのである。」〈前掲書、同頁〉と語られている。ちなみに、ガトートカチャ Ghatotkacha という名は「水差し・瓶」を意味するサンスクリット ghat(tt)am と「頭」を意味する utkacha から成り、「水差しのような頭を持つ者」を意味している。彼の頭が水差し(ガト)のような形であることから名付けられた。水差しのような形の頭というのは、ちょっとイメージしにくいが、頭でっかちの不格好な姿なのであろうか。このようにインド版におけるガトートカチャは人間ばなれした魔物の要素の強い造形であり、ジャワのガトコチョが立派な若武者姿として描写されるのと対照的である。もっともジャワのワヤンでガトコチョの造形がクサトリア〈武将〉の姿に変わるのは19世紀からであり、それまではアリムビもガトコチョもラクササ姿の造形であったという〈「エンシクロペディア・ワヤン・インドネシア」第一巻、137頁〉。ガトコチョというキャラクターの人気が上昇してラクササ姿ではなくなったのだとすれば、彼が民間で人気者になったのも18~19世紀以後のことである可能性が高い。

 スンジョト・クントは、インド版マハーバーラタでカルナがインドラから手に入れる必殺必中の槍のジャワ版ということになる。インド版マハーバーラタの展開は次のようなものである。

 パーンダヴァたちが12年間の森への追放の期間を終え、13年目に入る頃にインドラがカルナの力を削ぐため、彼の耳飾りと黄金の鎧を奪おうとしてバラモンに変身し、カルナのもとを訪れる。耳飾りと鎧はカルナが誕生した時から身に着けていたもので、これがある限り彼は不死身であるとされていた。バラモンに化けたインドラは、施しの英雄として知られるカルナに耳飾りと黄金の鎧を施してくれるよう要求する。すでに父である太陽神スーリャからインドラの企みを聞かされていたカルナだが、あえてインドラの要求を受け入れる。カルナは不死身を捨てる代償としてインドラの持つ必中必殺の槍を求める。インドラは一度きりの使用を条件に、その槍を与える。従ってこの槍の獲得とガトートカチャには何の関わりも無い。ガトートカチャは、その戦闘能力の高さを買われてカルナの対抗馬として白羽の矢がたてられるのであり、ガトートカチャとカルナの槍には特別の因果関係があるわけではない。多少の因果関係を思わせる記述はあるが、それほど説得力も無く、ガトートカチャがカルナに槍を使用させるのは、あえていえば成り行きに過ぎないのである。

 いっぽうジャワではクントは鞘と抜き身に分かれ、抜き身はカルノの手中にあるが、鞘はガトコチョのへその緒を切るために用いられ、へその緒を切ると同時にガトコチョの体内に吸収される。ジャワでは、人の誕生は胎盤 ari-ari とへその緒が分かれた時に始まるとされている。いわばガトコチョはクントによってこの世に誕生するのである。鞘と抜き身に分かれたクントは、再び一体に戻ることが運命付けられており、鞘であるガトコチョが抜き身のクントと一体となる、すなわちクントによって死ぬこともまた不可避な運命として設定されている。ジャワではガトコチョとクントの関係は、インド版のそれよりもはるかに強い因果関係として設定され、ガトコチョはその誕生の時から死の影を背負った存在として現れることになる。


叛乱者ブロジョドゥント


 時が過ぎ、ガトコチョは成長する。彼の結婚とプリンゴダニ国の王位継承を巡る4.5.6.7.あたりの説話は異説も多く、その時間的構成もダランによって異なる。殊にガトコチョとアリムビの兄弟である彼の叔父たちとの確執に関する話には異説が多いが、ガトコチョの叔父たちで特に重要な役割を担うのがブロジョドゥントとコロ・ブンドノであることは共通している。ガトコチョの叔父たちで、文学史的に出自を辿れるのはブロジョドゥントだけで、他の弟たちの設定がどのような過程で成立したのかはまるで分からない。ただ、12世紀に成立した「カカウィン・ガトートカチャスラヤ」に登場する人物にバジュラダンタ Bajradanta の名が見える。バジュラとはサンスクリット語のvajraから由来し、雷を意味する語であり、ブロジョ braja と同義である。ちなみにドゥンタ(ドゥント) denta は永遠を意味する。よって、バジュラデゥンタは後世のブロジョデゥントのことであると考えて間違いなかろう。

 このカカウィンはアルジュナの息子アビマニュ Abimanyu とクリシュナの娘 シティ・スンダリ Siti Sundari の結婚を主要プロットとするもので、あらすじは以下のようなものである。


  物語はドゥウォロワティ Dwarawati 国に預けられたアルジュナの息子アビマニュから始まる。この時、パーンダヴァたちは12年間森へ追放されていた。アビマニュはクリシュナにたいへん愛され、クリシュナの娘シティ・スンダリとの結婚を望まれていた。シティ・スンダリは苦行者たちの生活にならい、森へ行こうとしていた。アビマニュも護衛の兵たちと共に同行した。彼ら二人はとうとう恋に落ちた。しかし彼らの関係は長く続かなかった。シティ・スンダリが、ドゥルユーダナ Duryudana の子ラクサナクマラ Laksanakumara の許嫁とされたからである。アビマニュは命を賭けてシティ・スンダリを守ろうと決意した。クリシュナの兄バラデワ Baladewa は二人の関係を聞いて激怒した。そしてクリシュナが宮廷に戻る前に、シティ・スンダリとラクサナクマラをすぐに結婚させようとした。アビマニュは瞑想し、神に恩寵を乞うた。その時、デウィ・ドゥルガーの家来、カララワルカ Karalawarka がアビマニュをデウィ・ドゥルガーに捧げるため捕らえた。アビマニュは超能力の呪文を唱え、デウィ・ドゥルガーは彼を食うことができなかった。アビマニュはクルバヤ Kurubaya のガトートコカチャに助けを求めた。続く物語でアビマニュはガトートコカチャの手助けを得てシティ・スンダリを奪う。ガトートコカチャはシティ・スンダリに化ける。これを知ったバジュラダンタ Bajradanta はすぐさまラクサナクマラに報告する。彼はビーマに殺されたラークシャサ、バカ Baka の息子で、復讐を企てていたのである。ガトートカチャとラクサナクマラに化けたバジュラダンタの烈しい戦いとなる。バジュラダンタは斃される。バジュラダンタの死を知ったドゥルヨーダナは激怒し、ドゥウォロワティを攻撃する。その意図はバラデワに阻止される。コラワ Korawa 軍はヤドゥ Yadu 〈クリシュナの一族〉たちを攻めるが、ガトートカチャとアビマニュが迎え撃つ。バラデワは恐ろしい姿のトゥリウィクラマ triwikrama になり、戦いを止めよるよう命じたが従う者はいなかった。怒りが交差する中、クリシュナが到来しなだめる。物語の最後はアビマニュとデウィ・ウタリ Dewi Utari 、シティ・スンダリの婚礼の宴となる。〈Perpustakaan Universitas Indonesia >> Naskah:Gatotkacasraya kakawin:Deskripsi Dokumen: http://lontar.ui.ac.id/opac/themes/libri2/detail.jsp?id=20187060&lokasi=lokalによる〉


 ここでは、バジュラダンタはバカの息子として登場し、パーンダヴァへの復讐のためにガトートカチャと敵対する。彼は変身能力を有しており、インドのラークシャサ的要素を強く残しているようだ。この物語ではガトートーカチャも変身できるようで、やはりラークシャサ的である。バジュラダンタが他の者に化けて相手を翻弄するというプロットは、5.の演目に見られるように、現在のワヤンの演目内でも受け継がれている。

 4.、5.の演目は異説もあり、たとえば「ワヤン・ジャワ、語り修正ーマハーバーラタ編ー〈上〉」(松本亮編訳、八幡山書房、2009年)で紹介されている「ブロジョドゥントの叛乱 Brajadenta Mbalelo 」でのキ・ナルトサブド Ki Nartasabda の構成は以下のようなものである。


 プリンゴダニ国のブロジョドゥントは祖父、父の仇であるパンダワ一族の血を引くガトコチョを王として戴くことに不満をつのらせ、八ヶ月以上も臣下の礼をとることを拒んでいた。そしてついに彼はガトコチョ殺害を決意する。弟たちの反対を押し切ってプリンゴダニの王宮に乗り込むのである。王位にこだわらないガトコチョは叔父に王位を譲ろうとするが、戦いとなり、ガトコチョはブロジョドゥントの超能力の呪文アジ・グラプ・サユト Aji Gelap Sayut 〈百の雷〉に敗れる。

 レウォトコ Rewataka 山へ飛ばされたガトコチョは、かつて祖父パンドゥの大臣であったゴンドモノ Gandamana の霊と出会い、叔父ブロジョドゥントとブロジョムスティの間の因果を知らされる。彼らの父トルムボコはかつてパンドゥの弟子であった。トルムボコの献身に対し、パンドゥは二つの重代の宝を与えた。それがボロジョドゥントとブロジョムスティの護符であった。護符はトルムボコの左右の手のひらに宿り、やがて双子の息子となったのである。二つの護符はアスティノ国とプリンゴダニ国が一つになる時、パンドゥの子孫に戻されなければならない。つまりパンドゥの子孫であるガトコチョがプリンゴダニの王となる時、二人の叔父に姿を変えた護符は、ガトコチョの体内に帰る宿運を負っていたのだ。

 ブロジョドゥントは偽のガトコチョに変身しプリンゴダニの玉座にあった。生還したガトコチョとの戦いとなり、正体をあらわしたブロジョドゥントはブロジョムスティとの一騎打ちで相撃ちとなる。ガトコチョが二人の死骸に跪くと、死骸は消え失せ、ガトコチョの体内に入り彼の超能力を倍加させる。こうしてガトコチョの王位は確定するのである。


 ナルトサブドの構成では、ブロジョドゥントとブロジョムスティは、その誕生以前からあらかじめ死を予言された人物たちである。護符の生まれ変わりである彼らはガトコチョが一人前になると同時に、護符に戻り彼の体内に入る(パンダワに戻る)ことを運命付けられている。これはガトコチョが神与の武器クントによって誕生し、クントによる死を運命付けられているのと対応する。クントが神のもとに返還される時、ガトコチョもこの世から消滅する。ブロジョドゥント・ブロジョムスティの運命は、ガトコチョの運命の反復(予告)であり、彼らはガトコチョのドッペルゲンガーなのである。

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ガトコチョの叔父たち


 トルムボコ王の子供は八人ともいわれ、ガトコチョの叔父たちは六人が設定されている。以下に「エンシクロペディ・ワヤン・インドネシア」に記載されているガトコチョの叔父たちのプロフィールを示す。内容の重複もあるが、お許し願いたい。


ブロジョドゥント Brajadenta

 ブロジョドゥントはラクササ姿で、デウィ・アリムビの弟であり、ガトコチョの叔父でもある。父はプリンゴダニ国王プラブ・トルムボコであり、彼はプラブ・パンドゥ・デウォノトと戦って死んだ。長男のプラブ・アリムボは父王の仇を討とうとしてビモと戦い殺された。それゆえ、ブロジョドゥントは自身の甥、ガトコチョに対し密かに復讐心を抱いていたため、ガトコチョがプリンゴダニの王位を継承することを快く思わなかった。

 ブロジョドゥントはガトコチョを父の仇の子、祖父の仇の孫と看做していたのである。

 王位を簒奪するため、ブロジョドゥントは叛乱を企てた。目的達成のため、ブロジョドゥントはバタリ・ドゥルゴとコラワたちの助けを借りる。弟たちブロジョムスティ、ブロジョラマタン、プロボケサ、コロブンドノは彼に反対したが、ブロジョドゥントの意志は固かった。叛乱を押しとどめるため、ブロジョムスティは心ならずも兄と戦うこととなった。決闘は相撃ち sampyuh となり、二人は共に弊れた。

 これには異説もある。ブロジョドゥントは演目「ガトコチョ・クムバル Gatotkaca kembar (瓜二つのガトコチョ)」では、ガトコチョの手にかかって死ぬ。この演目で、ブロジョドゥントはガトコチョに化け、デウィ・バヌワティを誘惑する。

 ブロジョムスティは死の際で、兄の罪を暴き、罰を与えることができた。兄弟の魂は甥の体に入った。ブロジョムスティの魂はガトコチョの左手に、いっぽうブロジョドゥントの魂はガトコチョの右手に宿ることとなったのである。

 二人のラクササの魂が手のひらに宿り、ガトコチョの超能力は倍加する。キ・ダランによっては、ガトコチョがラクササたちの頭を衝突させて粉砕したと語る。


ブロジョムスティ Brajamusti

 ブロジョムスティはガトコチョの叔父のひとりで、デウィ・アリムビの弟である。彼は、プリンゴダニ国王で、プラブ・パンドゥ・デウォノトに斃されたプラブ・トルムボコの四番目の子である。長男のアリムボはビモに殺された。きょうだいの二番目であり、ビモの妃であるデウィ・アリムビがプリンゴダニ国の王位を継いだ。きょうだいの三番目、ブロジョドゥントは、デウィ・アリムビが王位をガトコチョに継がせようとした際、叛乱を起こした。

 ブロジョムスティはブロジョドゥントの叛乱に賛同せず、彼と対決した。かくて二人は相撃ちとなって果てたのである。しかし死の際に、ブロジョムスティは兄を改心させ、二人の魂はガトコチョの体に入った。ブロジョドゥントはガトコチョの左手に、ブロジョムスティは右手に宿ったのである。


ブロジョラマタン Brajalamatan

 ブロジョラマタンはブロジョムスティの弟である。他の兄弟と同様に、ラクササ姿である。ブロジョドゥントとブロジョムスティの相撃ち sampyuh の後、ブロジョラマタンは弟のプロボケサと共にプリンゴダニ国の戦闘指揮官セノパティ senapati に推挙された。

 ブロジョラマタンは長寿を全うした。ブロジョドゥントの叛乱の際にも、彼はニュートラルな態度を守った。彼はバラタユダ後も生き、ガトコチョの子どもたちを育て、戦略知識を教えた。ブロジョラマタンの教えのおかげで、ガトコチョの息子たちは、プラブ・パリクシト治世のアスティノ国でセノパティとなることができたのである。

 しかし、一部のダランは、ブロジョラマタンはブロジョドゥントの叛乱に加担し、ガトコチョに殺されたと語る。


ブロジョウィカルポ Brajawikalpa

 ブロジョウィカルポはプラブ・トルムボコの六番目の子で、ガトコチョの叔父である。影響を受けやすく、煽動されやすい性格で、ブロジョドゥントの叛乱に加担し、ガトコチョに斃された。


プロボケソ Prabakesa

 ラクササ姿で、ガトコチョの叔父のひとり。ブロジョドゥントの叛乱のあと、プリンゴダニ国の大臣 patih を務めた。

 プリンゴダニ国の大臣を務めるにあたって、プロボケソは誠実であったので、国は安寧、豊かであった。国政に従事するいっぽう、プルボケソはつねにガトコチョに対して父のように接した。

 プルボケソはバラタユダの15日目に戦死した。ガトコチョの戦死の直前であった。


コロ・ブンドノ Kala Bendana

 コロ・ブンドノはラクササ姿のガトコチョの叔父である。父はトルムボコ、長兄はアリムボである。

 コロ・ブンドノは甥のガトコチョを深く愛した。ガトコチョは幼少からこの叔父の愛を一身に受けて育てられ、指導された。彼はガトコチョにプリンゴダニの王位を継承させるというデウィ・アリムビの考えに賛同していた。兄のブロジョドゥントの叛乱を起こそうとしたときも、コロ・ブンドノは反対した。ついにブロジョドゥントはブロジョムスティと相撃ちとなり、他の兄たちも死んだ。

 ブロジョドゥントの叛乱事件以来、彼のガトコチョに対する愛情はより深まった。しかし、コロ・ブンドノの愛情も、運命のねじれを変えることはできなかった。彼は愛する甥の手にかかって死ぬこととなるのである。


 「カカウィン・ガトートカチャスラヤ」でガトートカチャの敵役として創作されたバカ王の息子ブラジャダンタは、その後プリンゴダニ国の王子のひとりに再設定された。これは彼の父とされたバカ王の名が、民間伝承でプリンゴダニの王とされたことに影響されたのだろう。そしてプリンゴダニ伝承は、アリムボ、アリムビのきょうだいも取り込んだ。ワヤンではプリンゴダニ国王バカの名はその後、エコチョクロ王ボコ Baka との混同を裂けるため、アリムボコあるいはトルムボコに変化した。ブラジャダンタがガトートカチャの敵対者であった設定は引き継がれ、ブロジョドゥントがプリンゴダニ国で叛乱を起こすというプロットに再構成されたと思われる。

 ブロジョムスティは、『チュムポロ』の記事ではブロジョドゥントの同盟者、キ・ナルトサブドの解釈ではブロジョドゥントが負の側面、ブロジョムスティが正の側面を担った双子とされているが、いずれにしてもブロジョドゥントから派生したキャラクターと言える。ジョクジャ・スタイルのワヤンには、ブロジョムスティはスンジョト・クントがガトコチョのへそに吸収されるさい、一緒に吸収され、ガトコチョが死んだとき、彼の遺体を護る役を担っていたという説もある〈「マハーバーラタの陰に」松本亮、八幡山書房、1981年、230頁〉。

 ブロジョラマタン、ブロジョウィカルポは、その名を見てもブロジョドゥントからの派生キャラクターであると思われる。「チュムポロ:ガトコチョ特集号」には『ガトコチョの持つ護符』が紹介されているが、ブロジョドゥント、ブロジョムスティ、ブロジョラマタン、ブロジョウィカルポの四人が死後ガトコチョの体内に宿り、彼の護符となったと記されている。つまり、ブロジョドゥントがらみの人物たちはすべてガトコチョに吸収されてしまうのである。ガトコチョは、ブロジョドゥントに代表されるプリンゴダニの叛乱分子を一身に吸収してプリンゴダニ国の王となる。プリンゴダニ叛乱分子は、ラクササと人の混血という両義的人物ガトコチョのラクササ的側面の分身であるとも言えるだろう。ガトコチョはみずからのラクササ的要素を抑制・統御することでプリンゴダニ王としての地位を確立する。これもまたパンダワ側からのプリンゴダニ(ラクササ)へのスポイルの一環として捉えることができよう。

 ブロジョドゥントの物語はプリンゴダニ国内に、大国(パンダワ)支配への抵抗が根強く残っていたことを明らかにする。ガトコチョは身内である叔父たちを供犠として差し出すことで、パンダワへの忠誠を示さなければならなかったのである。



コロ・ブンドノ

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Kala Bendana

 コロ・ブンドノという人物がいつ頃現れたのかは不明である。しかし彼を巡るプロットは安定しているところから、かなり早い時期から設定されていた可能性が高い。彼はガトコチョの叔父の中でも最もガトコチョとの親和性が高く、ガトコトチョからの信頼も厚い。ラクササ姿であってもパンダワへの帰属性の高い人物である。その彼がアビマニュの結婚を巡る行き違いからガトコチョの手にかかって死に、ガトコチョの死の原因の一つとなる。アビマニュはウィロト国王マツウォパティの娘デウィ・ウタリとの結婚に際して、自身がまだ独身であるとウタリに嘘をつく。ガトコチョはアビマニュの嘘に加担し、デウィ・シティ・スンダリとデウィ・ウタリを欺こうとするが、コロ・ブンドノはこれに同意せず、嘘をつくことを拒否する。融通のきかぬ叔父に腹を立てたガトコチョは、怒りのあまりコロ・ブンドノを殴りつけ殺してしまう。いささか唐突で、理不尽とも言えるコロ・ブンドノの死は、最も親和的である彼さえも差し出す、ガトコチョのパンダワに対する忠誠心の表明であり、支配者が被支配者に課す要求が、いかに過酷で理不尽なものであるかを炙り出す。

 アビマニュの嘘にはさしたる必然性も無く、嘘はたんなる彼の見栄にすぎない。パンダワの嫡子たる彼はこのとき傲岸(ヒュブリス)の罪を犯していると言えるだろう。彼は嘘がばれることを恐れ、「小さくは私がかつてウタリ以外の女と同席、大きくはすでに妻をもっているとあれば、いつの日か、私はバラタユダの戦いにおいて、コラワたちのあまたの武器を射込まれ、死にいたろうものを」〈「ワヤン・ジャワ、語り修正ーマハーバーラタ編ー〈上〉」427頁〉と、いらぬ誓いまでたて、後日その言葉通りに死ぬのである。アビマニュの嘘に加担するガトコチョもまた、このときヒュブリスの罪を犯していると言えよう。コロ・ブンドノはこれを容認しない。ここではパンダワ側の傲岸をプリンゴダニのラクササが糾弾するという、ある種の逆転が生じており、神意の正当性はコロ・ブンドノの側に仮託されている。ガトコチョは暴力によってこの正当性を破棄し、その報いとしてコロ・ブンドノはガトコチョの死に対する決定権を持つことになる。

 このときガトコチョは、コロ・ブンドノの担う正当性よりも、不当であってもアビマニュに象徴されるパンダワへの帰属を選ぶ。ガトコチョは本来プリンゴダニ(ラクササ)とパンダワ(人)の中間に位置する存在である。しかし彼のアイデンティティーの表明は、つねにパンダワの一員であることに注がれる。ガトコチョのこのスタンスは、プリンゴダニ国が本来有していたラクササ性を順次排除し続け、プリンゴダニのアイデンティティーを崩壊させていくのだ。

 ワヤンの語りでは、バラタユダでのカルノとガトコチョの戦いにおいて、スンジョト・クントが放たれたのを見たガトコチョは天空高く飛び、雲の中に隠れる。さすがのクントもガトコチョを追いきれず、失速しようとする。そのときコロ・ブンドノの霊が現れる。クントを掴み、アリムビの声色をまねるコロ・ブンドノの前にガトコチョは姿を現し、クントはあやまたずガトコチョのへそに収まる。ここでは、ガトコチョの死の決定権はクントよりもむしろ、コロ・ブンドノの手に委ねられているといった方が良いだろう。クントは無敵のガトコチョを死なしめる唯一の武器であるが、それをガトコチョに届かせるのはコロ・ブンドノなのだ。ワヤンでのガトコチョの死は、その誕生とともに運命付けられていたクントによる彼の無敵性の無効化と、コロ・ブンドノによるヒュブリス(ここではクントという死の運命を回避し得るとの傲慢)の指弾という二段階をもって完遂される。プリンゴダニの内部にあって、プリンゴダニの消滅を遂行し続けたガトコチョは、その最後にプリンゴダニ旧勢力の愛憎すべてを一身に引き受けて戦場に果てる。こうしてコロ・ブンドノの魂はガトコチョと手を取り合って天界へ昇るのである。

 ガトコチョの死を追ってアリムビも炎に入り、この世を去る。このプロットは「カカウィン・バーラタユダ」で創作され、以後受け継がれている。「カカウィン・バーラタユダ」でのヒディムビーの殉死は、サティーの一変形と言えるだろう。サティーとは厳密には夫の死にさいして妻が殉死する習俗を指し、「カカウィン・バーラタユダ」ではアビマニュの妻シティ・スンダリ、シャリヤ Salya 王の妃スティヤワティ Stetyawati らのサティー(殉死)が歌われており、ヒディムビーの死もその流れのひとつとして描かれる。ヒディムビーはガトートカチャの母であり、彼女の殉死がサティーと言えるかどうか疑問もあるが、「カカウィン・バーラユダ」成立時にはまだガトートカチャの配偶者の設定は生まれておらず、彼に殉死する者として母であるヒディムバーが選ばれたのであろう。現在のワヤンでもアリムビはガトコチョに殉じるとする解釈が受け継がれており、結婚の演目も用意されているガトコチョの妻プルギウォについては語られることはない。

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Raden Sasikirana


ガトコチョは誰がために死す?


 ガトコチョはかつてプリンゴダニ国の叛乱分子をその体内に取り込み、自らの超能力とした。彼の死は叛乱し吸収された叔父たちの真の死を意味すると言えるだろう。叛乱に加担しなかったプロボケソはガトコチョ戦死の直前にガトコチョの先陣として散った。ガトコチョを愛したコロ・ブンドノはガトコチョと共に昇天し、アリムビも殉死する。かくてラクササ(元ラクササ)であるプリンゴダニ国の旧支配勢力は、ガトコチョもろとも一機に消滅する。

 ジャワのガトコチョ説話におけるガトコチョの死は、カルノへのカウンターであると同時に、プリンゴダニのラクササ要素の消滅を意味している。ラクササと人(パンダワ)の中間に位置するガトコチョは、出自の両義性のゆえに、その英雄的死をもってプリンゴダニ旧勢力を消滅させるためのスケープゴートとして機能するのである。そしてプリンゴダニ国はアルジュノの血を引くサシキロノの手に委ねられる。

 アルジュノの血統は、アビマニュの息子パリクシト Pariksit がアスティノ国の王位を継承することに見られるように、パンダワの王権を受け継ぐ血筋である。また演目「ガトコチョの結婚」(「チュムポロ」版)に見られる、アルジュノから提示される結婚の条件は、かつてアルジュノ自身がスムボドロ Sumbadra との結婚において自身に課せられた条件とそっくりである。ここではガトコチョの結婚がアルジュノの結婚と同定され、パンダワ側からの正当性が付与されることになる。従ってこの結婚により生まれるサシキロノの存在には、パンダワ側からの正当性の付与がはじめから用意されているのである。かくてプリンゴダニの王位はビモの血にアルジュノの血が加えられ、完全にパンダワに帰属する存在として確定することになる。サシキロノへの継承によってプリンゴダニ国はその独立性を完全に抹消され、アスティノ国の属領と化す。そして、その後のワヤンの世界で、サシキロノはアスティノ国の戦闘指揮官 senapati として活躍することになる。

 ガトコチョはまさしくその身を切ることで、自らの国を大国(パンダワ=アスティノ国)に受け渡す。次第に支配されていく小国の愛憎すべてを一身に引き受け、ガトコチョは戦場で果てる。プリンゴダニ側の独立性の破棄の代価として、パンダワ側からはガトコチョというスケープゴートが提供されるのだ。双方の犠牲の提供によってパンダワとプリンゴダニには和解が成立する。こうして神からその正当性を認知される理想国家アスティノは、いにしえの世界の支配者を、自らの支配のもとに属領化することに成功するのである。

 ガトコチョとプリンゴダニを巡る説話は、一つの国が大国に吸収されていく歴史的過程の説話化として読むことができよう。ジャワの人々はガトコチョとプリンゴダニ国の物語に、征服されゆく小国のゆらぎと締念、憎悪と悲しみを託した。そして征服者と非征服者双方にまたがる両義的存在であるガトコチョという人物の戦死の英雄性を讃えることで、かつて無念のうちに支配されていったあまたの小国への鎮魂の歌としたのである。

 ガトコチョとプリンゴダニの物語を、正当王権に征服された小国たちへの鎮魂として捧げたジャワは、その後の歴史のうちに自らが支配される側に貶められることとなる。オランダによる植民地支配である。マタラム王国崩壊から王家の分割へといたるオランダからの圧力は、ジャワの正当王権を支配される側の立場に追い込んだ。ここにおいてプリンゴダニ国とガトコチョの物語は、ジャワにとって自らの物語として捉え直されたのではないだろうか。ガトコチョへのシムパシーの高まりと共に彼の姿もラクササからクサトリアへと変わり、彼をめぐる演目もその数を増した。ガトコチョの叔父のひとりブロジョラマタンが生き残り、サシキロノの養育にあたるとする説も、こうしたプリンゴダニへのシムパシーの高まりと共に生まれたのではないかと考えられる。

 今のジャワでワヤン通を自認するような人と、ワヤンの人物で誰が一番好きか?といった話をするとコロ・ブンドノを挙げる人が結構いる。その話を聞くと、ガトコチョが好きな人はふつうのワヤン好きで、ワヤンを深く知る人はコロ・ブンドノやスコスロノ Sukasrana といった人物を愛するのだという。しかしコロ・ブンドノを愛するということは、畢竟ガトコチョとプリンゴダニの物語を愛しているということであろう。これなども今のジャワの人々が抑圧される側に高いシムパシーを感じる一例であろうと思う。かくてラークシャサの息子、超能力の戦士ガトートカチャは、ジャワにおいて滅びの悲しみを知り、身内の無念を一身に引き受け、祖国に身を捧げた英雄ガトコチョとして生まれ変わったのである。

 そして独立後のインドネシアで、空飛ぶクサトリア・夜戦のスペシャリストとしてのガトコチョは政治家・軍人からも人気を得た。インドネシア共和国初代大統領スカルノ Sukarna は、1960年代にガトコチョの新しいウォンド wanda 〈人形の意匠〉を三種作らせたという。現代のカルノもまたガトコチョを深く愛したのである。



(おわり)


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by gatotkaca | 2014-03-31 07:08 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ガトコチョは誰がために死す?(その1)


 『戦場の兵士たちが月明かりのもとで目覚めたときの、戦場に散った英雄の母、美しきヒディムビー Hidimbi 〈アリムビ〉のことを話そう。ガトートカチャ Gatotkaaca 〈ガトコチョ〉の死を悼み、彼女はそのあとを追うために身支度を整え、ドゥローパディー Dropadi 〈ドゥルパディ〉に暇ごいしようとしていた。そのくぐもった声は、あたかも竹が裂けるかのよう、悲痛な響きであった。


 「ああ、王女さま、悲しみにくれ、哀れに涙する者の願いを聞き届けてくださいますよう。わたしは遠くへ行くのです。わたしを見上げ、絶望なさらないで。あなたの上掛けを賜りますよう、王女よ、祖先に連なる旅に出ようとするわたしを熱から守るため、そして、パーンダヴァ Pandawa 〈パンダワ〉たちと同じ天界へ向かうわたしが困難にみまわれることのありませぬことのため。


 来世において、わたしが人に生まれ変わることができたとしても、わたしはあなたがたと離れることはけしてありません。そしてもし、ビーマ Bhima 〈ビモ〉の足下に招かれ、クシャトリアたる彼にお仕えできるなら、それにまさる喜びはありません。我が息子はパーンダヴァの戦争における、我が犠牲のともがらとなり、それはおそらくビーマの重荷を軽くするお役にたったことでありましょう。かくて彼は天界で待つことを許されたのです。」


 ヒディムビーはこのように語り、ドゥローパディーに暇ごいする。ドゥローパディーは悲しみに満ちてその心は打ち震えた。心乱れ、悲しみに震え彼女は、母に幸せを与えてくれた亡き英雄に、いまだ報いていないと感じていた美しきヒディムビーが炎の中に入ることを許した。かくて、ガンダマダナ Gandhamadana 山の頂に行ったときのことを思い起こし、ドゥローパディは泣き伏したのである。


 それから娘たるドゥローパディーはヒディムビーにたずねた。「おお、愛するお方よ、あなたの悲しいお言葉が、わたしをおおいに悲しませます。わたしは、あなたのご子息からのご親切を、けして忘れはしないでしょう。まさしく、その寛大さが彼に死をもたらしたことを、わたしは悼みます。


 今ここにわたしは誓う、王女よ。来世に生まれ変わるわたしとわたしの子らすべては、あなたをお迎えにあがります。戦場に散った今は亡きあなたのご子息もまた。我が王国の半分を差し出し、パーンダヴァすべてによって捧げられるでありましょう。彼に報いるために十分なものを差し出しましょう。」


 ドゥローパディのヒディムビーへの言葉はこのようであった。かくて彼女は祭壇に登り、クンティー Kunti 〈クンティ〉に拝跪すると、すぐさま旅立った。その旅を語るのはやめておこう。息子の亡骸の横たわるところにいたり、彼女は火の中に身を投じ、英雄たるビーマの息子とともに火葬にふされたのである。』〈「カカウィン・バーラタユダ」第19歌・13~19節〉

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 ガトコチョ Gatotkaca は、ジャワの演劇、ワヤンにおけるマハーバーラタ演目群の主要人物のひとりで、主人公パンダワ Pandawa 五王子の次兄ビモ Bima の息子である。彼はラクササ raksasa (羅刹)と人間の混血で、空を飛び、夜を見通す超能力を持つ。その心純情にして、スーパーマン、数々の演目で大活躍し、現代のインドネシアでは最高の人気を集める人物のひとりである。マハーバーラタの大詰め、パンダワ五王子と彼らを憎むコラワ Kurawa 百王子の反目は世界を二分する大戦争バラタユダ Baratayuda を惹起させる。ガトコチョは、バラタユダにおいてパンダワ五王子の父違いの兄にしてコラワ軍最高の戦士カルノ Karna と戦い、カルノの必殺の武器によって若い命を散らす。だが、彼の犠牲によってカルノは最大の武器を失い、パンダワの三男アルジュノ Arjuna との一騎打ちで、一歩おくれをとることになる。いわば、ガトコチョはパンダワ最大の難敵カルノの戦力をそぐための生贄とされたのである。

 しかし、現在みられるワヤンの物語の中で、ガトコチョの死が担う役割は、たんにカルノに対するカウンターというだけにとどまらないように思える。ジャワでのガトコチョをめぐる数々の挿話は、インド版マハーバーラタを大きく逸脱して変容している。そしてその変容はガトコチョの死の意味をも変えていると思えるのである。ここでは現在のワヤンの物語に見られるガトコチョ説話を抽出し、彼の役割の変容を考えてみたい。


 先にガトコチョは現在インドネシアにおけるワヤンの人気者であると述べた。インドネシアではたしかにそうなのであるが、マハーバーラタの本場たるインドではガトートカチャ〈ガトコチョ〉はどのように受け止められているのであろか?マハーバーラタの研究者である前川輝光氏の『マハーバーラタとラーマーヤナ』(2013年、春風社刊)には、「筆者は(中略)インド人と少し親しくなると、「『マハーバーラタ』の登場人物では誰が好きか?」という質問をするのが習慣となった。これまで優に三けたは調査したと思うが、ガトートカチャの名を挙げた人物の記憶がない。『マハーバーラタ』に取材した近現代の文学や映画などでも、ガトートカチャが特に注目されているケースを知らない。」(前掲書123~124頁)とある。どうやらインドでのガトートカチャは「あくまで物語に彩りを添える名脇役」(前掲書111頁)にすぎないようである。本家インドでは、さほど注目されないガトートカチャが、ジャワではなぜかくも人気者となったのであろうか?ジャワに入ってから加えられたガトコチョ説話の変容の中に、そのヒントがあるかもしれない。ジャワの人々が、ガトコチョに託した思いが、その変容のありように隠されているはずなのである。

 以下、現在のワヤンにおけるガトコチョの主たるエピソードを拾い上げてみよう。



ガトコチョをめぐる物語


 ガトコチョは、パンダワの次兄ビモとラスクシ raskusi 〈女羅刹〉アリムビ Arimbi の子である。アリムビはラクササの王国プリンゴダニ Pringgadani の王、プラブ・アリムボ Prabu Arimba の妹だ。実はプリンゴダニ国とパンダワには、彼らの先代からの因縁がある。まずは、そこから話を始めよう。


 1. パンダワたちの父、アスティノ国王プラブ・パンドゥ・デウォノト Prabu Pandu Dewanata は、版図拡大を目指して、プリンゴダニ王国に攻め入った。一説によれば、時のプリンゴダニ国王プラブ・トルムボコ Prabu Tremboko またの名をアリムボコ Arimbaka は、賢者たるパンドゥをおおいに敬い、彼の弟子であったとも言う。この説では、両国の関係はたいへん良好であったが、パンドゥの兄、盲目のゆえに王位を得られなかったダストロストロ Drestrastra の妃グンダリ Gundari の兄、アルヨ・スマン Arya Suman 〈後の日のスンクニ Sengkuni 〉がアスティノ国の大臣の地位を狙い画策した陰謀で戦争が惹起する。この戦いでトルムボコはパンドゥの矢に弊れたが、パンドゥもまたトルムボコのクリス keris (短剣)で傷を負い、病に伏し、やがて亡くなる。パンドゥが若くして逝去したため、アスティノ国は兄のダストロストロの手に委ねられた。〈演目 Lakon「パムクソ Pamuksa 」より〉


 2. ダストロストロの息子たちコラワ百王子、特に長兄ドゥルユドノ Druyudana はパンダワを憎み、ことあるごとにパンダワと反目する。百王子とスンクニはパンダワ殺害を計画、バレ・スゴロ・ゴロ Bale Sigala-gala の館を建設し、パンダワを招く。館には燃えやすい材料が用いられていた。パンダワたちが寝入った頃合いを見計らって、館に火がかけられた。パンダワたちはかろうじて館から脱出し、しばらく身を隠すことにする。

 身分を隠したままウィロト Wirata 国の国難を救ったのち、パンダワはカミヨコの森 Wana Kamiyaka の一画、マルトの森 Wana Marta を開拓し、アマルト Amarta 国を建設することになる。パンダワがカミヨコの森をさまよっている時、プリンゴダニ国の王女アリムビはビモを夢に見て恋いこがれ、ビモを求めてカミヨコの森にやってくる。アリムビはビモに求婚するが、ビモは彼女の言葉を疑い、アリムビを捉え打据えようとする。今にも殺されようとするアリムビを、まずは話を聞いてあげましょうと、パンダワの母クンティが庇う。クンティは「こちらへおいで、美しい娘よ。」とアリムビに声をかける。クンティは苦行により超能力を得た女性とされ、その言葉はおのずから現実となるといわれる。かくて醜いラクササの風貌であったアリムビはこの時、世にも愛らしい美しい姿に変わるのである。クンティとパンダワの長兄プントデウォ Puntadewa のとりなし、さらには美しく変わったアリムビの姿を見て、さしものビモも彼女を妻にすることに同意する。

 そこへ妹を捜して森へやって来た兄のアリムボが現れる。父トルムボコの仇を討とうとして、アリムボはパンダワに挑戦する。だが、ビモの剛力の前には歯が立たず、あえなく斃れるのである。一説によれば、いまわのきわのアリムボは、ビモにアリムビとプリンゴダニ国を託したともされる。アリムボ亡きあとのプリンゴダニ国の王位は、妹のアリムビに継がれることとなった。〈演目「バレ・スゴロ・ゴロ」「マルトの森を拓く Babad alas Wana Marta 」より〉


3. アリムビはビモの子を産む。しかし、赤ん坊のへその緒が切れない。いかなる刃物、武器を用いてもへその緒を切ることはできず、パンダワ一族は困り果てる。パンダワの三男アルジュノは神からの啓示を得ようと苦行に出る。

 この時、天界カヤンガン・ジュングリンサロコ Khayangan Jungringsaloka はビダダリ bidadari 〈天界の妖精〉ガガルマヤン Gagarmayang を妻に得ようと欲するギリンウェシ Gilingwesi 国のラクササ王コロ・プラチョノ Kala Pracona が派遣したラクササ軍の攻撃を受けていた。ラクササ軍討伐をアルジュノに託すため、天界からナロド Narada 神が地上に降下する。神の宝具たる武器スンジョト・クント Sunjata Kuntha をアルジュノに渡すためである。しかし、コラワの武将カルノが父、太陽神スルヨ Surya の手助けでアルジュノになりすまし、ナロドは誤ってカルノにクントを渡してしまう。アルジュノはクントを取り戻そうとするが果たせず、手にし得たのはクントの鞘 warangka のみであった。報告を受けたナロド神は、その鞘でビモの息子のへその緒を切るよう命ずる。クントの鞘を当てると、それまで切ることの出来なかったへその緒はたちまちのうちに切れ、鞘は赤ん坊の腹の中に吸い込まれて消え失せる。驚く一同にナロド神は言う。クントの鞘は赤ん坊に超能力を授ける。天界を救う任は、この赤ん坊に託された。しかし、この子が成長したあかつきには、クントの持つ者の手によって死にぬことになるだろうと。

 赤ん坊は、ナロド神に連れられ天界を脅かすラクササ軍の大臣パティ・コロ・スキプ Kala Sakipu と対決するが、巨体のラクササに一蹴される。神々は赤ん坊を天界の火山チョンドロ・ディムコ Candradimuka の火口に投げ入れる。さまざまな武器が放り込まれ、さらに超能力の三つの衣装が与えられ、逞しい若者の姿が現れた。神から与えられた三つの衣装とは、空を飛ぶ力を持つクタン・オントクスモ Kutang Antakusma の上着、雨にも濡れず、熱を通さぬチャピン・バスノンド Caping Basunanda の帽子、そしてあらゆる危険から身を守るポド・カチャルモ Pada Kacarma のサンダルである。若者にはプトゥット・トゥトゥコ Putut Tutuka 、またの名ガトコチョが与えられた。ガトコチョはコロ・サキプ、さらにはコロ・プラチョノを打倒し、プリンゴダニへ帰還する。かくて「鋼の筋肉、鉄の骨、汗はコーヒーの香りがする OTOT KAWAT BALONG WESI KRINGETE WEDANG KOP 」と讃えられる超能力の武将ガトコチョが誕生した。〈演目「ガトコチョの誕生 Gatutkaca Lair 」より〉


4. ガトコチョはプリンゴダニ王国の唯一の王位継承者であった。しかし、それを快く思わないガトコチョの母アリムビの弟、ブロジョドゥント Brajadenta はプリンゴダニの王位を狙っていた。もはや叔父たちの争いは避けようも無かった。デウィ・アリムビが夫のビモに従ってしばしばジョディパティ Jodipati で過ごしたので、今やプリンゴダニ王国の中枢はブロジョドゥントの手中にあった。彼は王を自称するにいたったのである。

 ブロジョドゥントの言い分では、兄プラブ・アリムボ亡き後、王位継承権は男子たる弟のものであり、アリムビのような女の身に継がれるべきではない、というものであった。ブロジョドゥントの叛意は、弟たちブロジョムスティ Brajamusti 、ブロジョラマタン Brajalamatan 、ブロジョウィカルポ Brajawikalpa に支持された。しかし下の弟たち、プロボケスウォ Prabakeswa 〈プロボケソ Prabakesa 〉とコロブンドノ Kalabendana は謀反に反対した。

 王権を守るため、ガトコチョは自らの叔父たちと戦わざるをえなかった。この戦いでブロジョラマタンとブロジョウィカルポがガトコチョの手にかかって死に、ブロジョドゥントとブロジョムスティはプリンゴダニから逃走した。ブロジョラマタンの魂は、ガトコチョの左手に宿り、護符となった。いっぽうブロジョウィカルポの魂はガトコチョの背中にあって、彼を守る強力な盾となったのである。ガトコチョはプリンゴダニ国の王となり、プラブ・コチョヌゴロ Prabu Kacanegara と称した。この名は国と民に献身する者を意味する。〈演目「ガトコチョの即位 Gatotkaca winisuda 」より〉


5. 逃走したブロジョドゥントとブロジョムスティはカヤンガン・セトロ・ゴンドマイト Kahyangan Setra Gandamayit のバタリ・ドゥルゴの庇護を求めた。バタリ・ドゥルゴによってブロジョムスティはガトコチョそっくりの姿に変えられた。そしてアスティノ国の女の館へ行き、プラブ・ドゥルユドノの妃デウィ・バヌワティ Dewi Banowati を誘惑するよう指示された。

 プラブ・ドゥルユドノとコワラ一族の怒りは激しかった。彼らは「偽のガトコチョ」を捕らえ、殺そうとしたが、失敗に終わった。コラワ一族は誰一人「偽のガトコチョ」にかなわなかったのである。コラワ一族はパンダワに義を果たすよう求めた。ガトコチョがデウィ・バヌワティに無礼をはたらいたと聞いたビモはガトコチョを探し出し、打ちのめそうとした。ガトコチョを打ちのめそうとするビモの前にパンダワの盟友プラブ・クレスノ Prabu Kresna が現れた。かくてガトコチョはアスティノ国へ行き、「偽のガトコチョ」を捕らえることを命じられたのである。

 ガトコチョは、「偽のガトコチョ」を捕らえようとしたが、その超能力に翻弄された。幸い先にブロジョドゥントを滅することができ、彼の魂がガトコチョの牙となった。ついに「偽のガトコチョ」は斃され、死のきわにその姿はブロジョムスティに戻った。ブロジョムスティの魂はガトコチョの右手に宿ることとなった。〈演目「ブロジョドゥント・ブロジョムスティ Brajadenta-Brajamusti 」より〉


6. アンドン・スマウィ Andong Smawi の苦行所のブガワン・シディ・ウォチョノ Bagawan Sidik Wacana の孫、プルギウォ Pergiwa とプルギワティ Pergiwati は、父であるアルジュノを求めて、苦行所から旅立った。チャントリクcantrik〈僧の従者〉・ジョノロコ Janaloka に護られて旅を続けていた二人はコラワ一族に出会う。コラワたちは天女のように美しい双子の姉妹「パタ・クムバル patak kembar 」を探していたのだ。その双子を見つけ出すことが、プラブ・クレスノとデウィ・プルティウィ Dewi Pertiwi の娘、デウィ・シティ・スンダリ Dewi Siti Sundari とプラブ・ドゥルユドノの息子レスモノモンドロクモロ Lesmanamandrakumara の結婚の条件であったのだ。同じくパンダワもデウィ・シティ・スンダリとアルジュノの息子アビマニュを結婚させたいと願っていた。

 コラワ一族がジョノロコに無理強いしようとして、戦いとなりジョノロコは殺されてしまう。デウィ・プルギウォとプルギワティは逃走しようとして谷に落ちるが、アビマニュと四人のプノカワン Punokawan 〈道化たち〉に救われる。この争いの中で、アビマニュはプルギウォとプルギワティが自身の異母きょうだいであることを知る。プルギウォとプルギワティを奪おうとしてコラワたちがアビマニュを襲う。戦いは避けられそうもなかった。そこへガトコチョが手助けにかけつけ、コラワたちを追い払った。ガトコチョはこのときデウィ・プルギウォに一目惚れする。〈演目「プルギウォ・プルギワティ Pergiwa-Pergiwati 」より〉


7. プルギウォとガトコチョの結婚にはいくつかのハードルがあった。しかしデウィ・プルギウォ自身はガトコチョを愛していた。二人の最大の障害はアルジュノであった。アルジュノはデウィ・バヌワティに、彼女の息子レスモノモンドロクモロとデウィ・プルギウォを結婚させる約束をしていたのである。アビマニュとデウィ・シティ・スンダリが結婚した代わりに、プルギウォをレスモノモンドロクモロにやることになったのだ。パンダワ一族の他の者たちはアルジュノの意見に反対した。そこでアルジュノは、ガトコチョに実現困難な条件を突きつけてきたのだった。

 アルジュノの出した条件とは、結婚の捧げものとして次のものを用意することであった。天界カヤンガン・ティンジョモヨ Kahyangan Tenjamaya からガムラン・ロカノント Gamelan Lokananta を持ってくること、花嫁は40人の双子の娘、脚先の白い水牛40頭に付き従われること。しかし叔父たちブロジョドゥント、ブロジョウィカルポ、ブロジョラマタン、ブロジョムスティの霊と、オントセノ Antasena 〈ビモの長男〉、アビマニュ、イラワン Irawan 〈アルジュノの息子のひとり〉らパンダワの若者たちの手助けのおかげで、すべての条件を満たすことができた。かくてガトコチョとデウィ・プルギウォは結婚し、二人のあいだに息子サシキロノ Sasikirana が生まれる。〈演目「ガトコチョの結婚 Gatotkaca Palakrama 」より〉


8. ガトコチョは兄弟たち、パンダワ一族を愛し、献身したが、とりわけアルジュノの息子ラデン・アビマニュを愛した。

 アビマニュはウィロト国王マツウォパティ Matswapati の娘デウィ・ウタリ Dewi Utari と結婚することとなった。ガトコチョは全力でアビマニュを助けた。アビマニュのために叔父コロ・ブンドノを誤って殺すことにまでなってしまった。これがガトコチョの運命に大きな影響を与えることになる。

 アビマニュは第一夫人のデウィ・シティスンダリを欺いて、ガトコチョと共にデウィ・ウタリのもとへ赴いた。アビマニュはデウィ・ウタリに、自分がまだ独身であると偽り、ガトコチョにも口裏を合わせてもらっていた。デウィ・シティ・スンダリを護っていたコロ・ブンドノは、ガトコチョとアビマニュは狩りに出かけていると思っていたのだが、不審に思い二人を探し、彼らがウイロト国の女の館にいることを突き止める。

 コロ・ブンドノはアビマニュに正直に告白するよう進めたが、受け入れられない。コロ・ブンドノは仕方なくデウィ・ウタリに、アビマニュにはすでにシティ・スンダリという妻がいることを話してしまう。コロ・ブンドノが嘘をばらしてしまったのを聞いて、ガトコチョは激しく怒る。思わず彼の頭を殴りつけると、勢いあまってコロ・ブンドノは死んでしまった。コロ・ブンドノの霊は、後の日のバラタユダでガトコチョの行為に報いを与えることを誓う。デウィ・ウタリも思わず、アビマニュを呪うのである。アビマニュは傷だらけになって死ぬことになると〈これには、アビマニュ自身の軽率な誓いを原因とする異説もある〉。

 デウィ・シティ・スンダリも呪いを受けることになった。彼女はアビマニュの片棒を担いだとスマルをはげしく罵った。怒ったスマルは、子どもができない不妊の身となるようデウィ・シティ・スンダリを呪った。〈演目「ガトコチョ・スロヨ(ガトコチョの手助け) Gatotkaca Sraya 」より〉


9. バラタユダでのスルハン Suluhan 〈(松明を灯した)夜の戦い〉がガトコチョの最後となった。ガトコチョはアディパティ・カルノと戦い、彼の持つ必殺の武器クントウィジョヨダヌ Kuntawijayadanu がガトコチョの中にある鞘に収まったのである。ガトコチョはパンダワの一族の犠牲になるため、アディパティ・カルノと対決した。神の定めにより、クントを持つ限りこの世でアディパティ・カルノは無敵であったのだ。カルノの手からクントが射放たれた時、ガトコチョは天高く飛んでこれを避けようとした。クントの届かぬ高さまで飛ぼうとしたのである。クントは届かないように見え、カルノは不安におちいった。失墜しようとするクントに黒い影が近づき、クントは再び上昇した。コロ・ブンドノの霊がクントを助け、ガトコチョのへそに突き立てたのである。クントは鞘に収まり消え失せた。ガトコチョは死の間際、自らの身体をカルノの戦車の上に落とし、カルノの戦車は粉砕された。かつての誓いのとおり、コロ・ブンドノはガトコチョに報いたのである。コロ・ブンドノとガトコチョの魂は共に天界スワルゴロカ Swargaloka に昇っていった。ガトコチョの母アリムビは戦場に散った息子の遺骸を抱きしめ、声を限りに泣いた。その声はバラタユダの戦場クルカセトロ Kurukasetra の遥か彼方まで響いた。夫ビモの許しを得て、アリムビは息子の遺骸を焼く炎に入り、この世を去ったのである。〈演目「ガトコチョの戦死 Gatotkaca Gugur 」より〉


 以上に挙げた演目とあらすじは、「エンシクロペディ・ワヤン・インドネシア Ensiklopedi Wayang Indonesia, SENA WANGI, 1999, Jakarta 」および「チュムポロ:ガトコチョ特集号 Cempala Edisi Gatotkaca , Juli 1996, P.T.Daniasta Perdana 」の記事をとりまとめたものである。各演目の展開には、異説もあるが、それについては後述する。この他にもガトコチョが主役となる演目は多数あり、枚挙にいとまがないが、とりあえずここに挙げた演目でガトコチョの生涯と彼を取り巻くプリンゴダニ国の説話の大筋はつかめると思われる。



プリンゴダニ国説話の源流


 まず1.に挙げたアスティノ国王パンドゥとプリンゴダニ国のプラブ・トルンボコの争いとそれに伴うほぼ相撃ちの結末は、ジャワ独自の設定であり、インド版マハーバーラタには存在しない。そもそもインド版にはプリンゴダニという国は無いのである。ジャワにおいても、ヒンドゥー国家時代のカカウィン Kakawin 文学作品ではまだ登場していない。カカウィン文献でガトコチョが登場するのは、12世紀クディリ Kediri 王国のジョヨボヨ Jayabaya 王時代に成立した「カカウィン・バーラタユダ Kakawin Bharatayuddha 」(ムプ・スダ Mp Sedah 、ムプ・パヌル Mp Panulu 作)と同じく12世紀クディリのジョヨクルト Jayakreta 王時代に成立した「カカウィン・ガトートカチャスラヤ Kakawin Gatotkacasraya (ガトートカチャの手助け)」(ムプ・パヌル作)の二つであるが、いずれにもプリンゴダニ国の設定は無い。

 プリンゴダニ国の設定がいつ頃生じたのかはよくわからない。だが、中部ジャワのラウ山 Gunung Lawu にはその名もプルタパアン・プリンゴダニ Pertapaan Pringgodani と呼ばれる苦行所があり、その伝承ではマジャパヒト王国最後の王、プラブ・ブロウィジョヨ Prabu Brawijaya 五世がラウ山に逃れ、一帯を支配し、苦行所を開いたとされる。。『プリンゴダニ Pringgodani 』という語は、竹から転じて人を意味するプリン Pring 、場所意味するンゴン Nggon 、そして精進・修正を意味するンダダニ Ndadani の縮まったンダニ Ndani から成るとされ、『自身を精進させる場』を意味するという。そしてこの地の民話として人食いのボコ Baka 王が、プリンゴダニの苦行者に退治されるという物語が伝えられている。この物語はマハーバーラタにあるエーカチャクラーのバカ王をビーマが退治する物語と酷似した内容であり、このマハーバーラタのエピソードは、ビモによるエコチョクロ Ekacakrra 国のボコ王 Prabu Baka 退治として現在のワヤンでもよく知られた話である。

 また、ムラピ山 Gunung Merapi の南方にあるカリウラン Kaliurang 地域にもプリンゴダニ宮殿の伝説が伝えられているという。それによればカリウランのプラワンガン Plawangan にハリ Hari 〈アリ〉一族の支配する王国があった。その名がプリンゴダニ国であり、王の名はハリムボコ Harimboko 、またトルムボコ Tremboko といった。この王は人食いの魔王であった。あるときこの国を訪れたブロトセノ Bratoseno という名の若者が生贄の身代わりを申し出た。王の娘ハリムビ Harimbi はブロトセノに恋し、父王に今回は見逃してくれるよう懇願したが、王は許さず、ブロトセノと闘いとなり、斃された。トルムボコの死後、王位は長男のハリムボ Harimbo が継いだ。妹のハリムビはブロトセノとの結婚を願ったが、ハリムボは許さず、彼女を追放した。ハリムボは父の仇を討とうとしてブロトセノと戦ったが斃された。兄の死後、ハリムビが王位を継いだという。この物語は、ワヤンに見られるプリンゴダニ説話との共通性が見られる。これらの説話がどのような経緯で成立したのかは定かでは無いし、ワヤンのプリンゴダニ国説話とこれらの民話の成立のどちらがより古いのかも確かなことはわからない。しかし、プリンゴダニ国という名が、「かつて存在し、大国に制服・吸収された小国」というイメージを背負っていることは指摘できるであろう。


(つづく)

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by gatotkaca | 2014-03-30 01:52 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンの物語の源流

 ワヤンの物語は、インドネシアの古伝承と、インド起源の叙事詩を源泉とする。これらは宮廷文化圏での翻訳・翻案と、民間での需要の相互作用によって変容を繰り返し、今日にいたった。マハーバーラタ、ラーマーヤナもその中で大きく変容した。その変容過程の大部分は歴史の闇の中だといってよいが、王宮文化圏は、民間での変容も取り込んで、一定の秩序だった定説を文学作品として成立させてきた。ジャワにおけるワヤンの物語の変容過程は、王宮と民間の文学作品を比較検討することである程度追って行けると考えられる。以下のブログにワヤンの物語の底本というべき諸文献が紹介されていたので以下に訳す。ここに記された文献をあたれば、ワヤン物語の変容過程があるていど見えてくるであろう。

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ワヤンの物語の源流


 ご承知の通りワヤンは先史時代からのインドネシア独自の国民的文化であり、後の時代においては、ヒンドゥー文化の影響を受けた。ジャワ元来の物語は今も生き続けている。パウコン Pawukon 〈ジャワの五曜〉のもととなったプラブ・ワトゥグヌン Prabu Watugunung の物語や、米の起源を語るプラブ・ミククハン Prabu Mikukuhan の物語、さらにスマル Semar 、ガレン Gareng 、ペトロ Petruk 、バゴン Bagong も古代インドネシアのワヤン〈の人物〉である。


 ヒンドゥー文化圏を源流とする物語は、ラマヤナ〈ラーマーヤナ〉 Ramayana とマハバラタ〈マハーバーラタ〉 Mahabarata である。ラーマーヤナは詩仙ヴァールミーキ Walmiki の作とされ、マハーバーラタはヴィヤーサ Wiyasa の作であると言われている。ラーマーヤナとマハーバーラタの物語はジャワのみならずアジア一帯の文学世界で著名である。そしてラーマーヤナやマハーバーラタは、宗教、哲学、政治、社会、人格形成、家族観、ヒロイズム、美徳といった諸概念の生の指針(pepakem)として大きな影響力を持つこととなった。


 ラーマーヤナの主題はシント〈シーター〉 Shinta をめぐってのラウォノ〈ラーヴァナ〉Rahwana とロモ〈ラーマ〉Rama の戦いであり、いっぽうマハーバーラタの主題は、アスティノ Hastina 国をめぐるパンダワ〈パーンダヴァ〉Pandawa とコラワ〈カウラヴァ〉Kurawa の戦争、バラタユダ Bharatayuda である。二つの叙事詩のテーマが女性と土地にあることは明らかだ。これらのテーマは人の世で普遍性を持つものである。ジャワには「Sedumuk bathuk senyari bumi dipun labeti pecahing dhadha wutahing ludira 〈ひとりの妻、猫の額ほどの土地には命を賭ける値打ちがある〉」という言葉があるではないか。高貴なる価値を内包するラマヤナとマハバラタの物語は我らの祖先たちによって、その価値観と適合するよう変容させられ、インドネシア独自のものとなっていった。ラマヤナとマハバラタには古代ジャワ語による写本がある。


 また、二つの叙事詩を母体(babon)とした新しい作品も作られ、ワヤン・プルウォ Wayang Purwa の上演で取り上げられたのである。その二つはワヤン・プルウォのラコン lakon 〈演目〉のパクム pakem 〈上演のあらすじ〉の母体として発展した。ダラン dalang 〈ワヤンの演者〉が手本とする諸文献には以下のものが挙げられる。

1. ラマヤナの書 (ディヤ・バリトゥン時代、西暦900年)Kitab Ramayana (Jaman Dyah Balitung 900 M)
2. ウッタラカンダ(デウィ・シントの息子ラワとクシャの誕生と大地に呑み込まれて死ぬデウィ・シントの物語) Utarakandha 

(menceritakan lahirnya Kusa dan Lawa putera Dewi Sinta dan 

matinya Dewi Sinta terperosok ke Bumi)
3. アディパルワ(ダルモウォンソ時代、デウィ・ロロ・アミス、バレ・スゴロ・ゴロ、プクシ・デウォト、アリムボの死を含む)Adiparwa

 (Jaman Darmawangsa, terdapat cerita Dewi Lara Amis, Bale Segala-gala, Peksi Dewata dan matinya Arimba)

4. サバパルワ(パンダワの骰子賭博)Sabhaparwa (cerita Pandawa Dadu)

5. ウィロトパルウォ(パンダワがウィロト国に隠れ住む) Wirataparwa (Para Pandawa mengabdi di Wirata)

6. ウディヨガパルワ(クレスノ・グガ)Udyogaparwa (Kresna gugah)

7. ビスマパルワ(ビスモの戦死)Bismaparwa (Bisma Gugur)

8. アスラマワサナパルワ(デゥレストロスト〈デゥトロストロ〉の死)Asramawasanaparwa (cerita Drestarasta mati)

9. マオサカパルワ(ウルシとヤドゥ族の滅亡)maosalaparwa (cerita matinya darah Wresni dan Yadu)
10. プラスタニカパルワ(パンダワの昇天)Prastanikaparwa (cerita Pandawa Puterpuja)

11. アルジュナウィワハ(ムプ・カンワ作、アイルランガ王時代、ワナパルワからの翻案、後にミントロゴまたブガワン・チプトニンの物語となる)Arjunawiwaha (Karya Mpu kanwa jaman raja Erlangga gubahan dari kitab wanaparwa yang akhirnya menjadi cerita Mintaraga atau Begawan Ciptoning)

12. クレスナヤナ(クディリ時代、西暦1104年、ワヤンのクレスノ・クムバンの物語となる)Kresnayana (Jaman Kediri 1104 M di dalam seni pedalangan menjadi cerita Kresnakembang)

13. ボマカウヤ(クレスノによるプラブ・ボモの死)

14.. バラタユダ(ムプ・スダ、パヌル作。クディリ、プラブ・ジョヨボヨ時代)Baratayuda (Karya Mpu Sedah dan Panuluh pada jaman kediri, Prabu Jayabaya)

15. ガトカチャスラヤ(アビマニュとシティ・スンダリの結婚) Gathutkacasraya (Perkawinan Abimanyu dan Siti Sendari)
16. アルジュナウィジャヤ(ウッタラカンダの本案。プラブ・ドソムコとドノロジョの戦い〈アルジュノススロバウとの戦いを含む〉)

17. コロワスラマ(ウィロトパルウォの物語) Korawasrama (cerita Wirataparwa)
18. デウォルチ(ジャワの宮廷詩人エムプ・チワムルティ作)Dewaruci (Karya pujangga jawa Empu Ciwamurti)

19. スダマラ(ルワタンに属する物語)Sudamala(tergolong cerita ruwatan)
20. マニクモヨ(カルトスロ時代、イスラム教到来後)Manikmaya (Yasan jaman Kartasura, setelah orang jawa menganut agam Islam)

21 カンド(スラット・カンド)カルトスロ時代、ヒンドゥーの物語がジャワ、イスラムと混成し始める

22. ヨソディプロによるバラタユダ(スラカルタ時代)Bhartayuda yasadipuran jaman Surakarta

23. アルジュノソスロ(ロコポロ)ヨソディプロ二世、アルジュナウィジャヤからの抜粋 Arjunasasra (Lokapala) Yasadipuran II petikan dari kitab Ajuna Wijaya

24. アルジュノソスロバウ(キヤイ・シンドゥサストロ作、パクブウォノ七世時代、この書にはスラット・カンドを母体とするスグリウォ・スバリの物語が含まれる)Arjunasasrabahu (karagan Kyai Sindusastra jaman PB VII, dalam kitab tersebut terdapat ceritera Sugriwa Subali dengan mengambil babon serat Kandha)
25. キタブ・パロモヨゴ(ラデン・ンガベイ・ロンゴワルシト作、ナビ・アダムの物語から、ジャワの地に人があふれるまでの物語)Kitab Paramayoga (karya R. Ng. Rangawarsito isinya menceritakan Nabi Adam dan keturunannya sampai jaman Tanah Jawa dihuni oleh manusia)

26. プストコロジョプルウォ(キ・ンガベイ・ロンゴワルシト作、ワヤンの物語) Pustakarajapurwa (karangan Ki Ng. Rangawarsito memuat cerita wayang)


 このように幾多の源流が、ワヤン・プルウォ上演芸術の物語のパクムの母体となった。新作の演目 Lakon carangan は今日も増え続け、スラカルタ芸術大学 STSI のプロジェクトが収集したワヤンの新しい物語もさらにワヤンのレパートリーに追加されている。


25, OCT, 2006, by wayang in Wayang Asal Usul )




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by gatotkaca | 2014-03-19 12:09 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

シマ女王について

 ●前回紹介した記事にあったシマ女王の話は今年2014年、舞台化されたらしい。「RATU SHIMA
Kembalinya Sang Legenda dari Kalingga」と題され、舞踊劇としてジャカルタで公演されたということである。〈この情報はフェイスブックでFaizal Ahmad氏よりお知らせいただいた。深く感謝いたします。〉
 なかなか面白そうな舞台のようで、機会があれば、映像だけでも見てみたい。その舞台の公式ホームページにシマ女王に関する情報が載っていたので紹介する。

シマ女王について

カリンガ Kalingga のシマ女王
 カリンガまたの名ホ・リン Ho-ling (訶陵:支那の歴史書での名)は、6世紀頃中部ジャワにあったとみられるヒンドゥー教国家である。王国の中心部は、現在のカブパテン・プカロンガン Kabupaten Pekalongan とカブパテン・ジュポロ Jepara の間のどこかにあったと考えられている。この王国の歴史的資料は未だに不明確かつ曖昧なもので、支那の歴史書の記載に負うところが大きい。地域の伝承と、後世16世紀に書かれたチャリタ・パラヒヤンガン Carita Parahyangan 写本に、シマ女王とガル Galuh 王国との関係が端的に記されているにすぎない。6世紀にカリンガ王国が存在していたことは、支那の歴史書の記述から分かっている。シマ女王統治下のこの王国には、盗みをはたらいた者は誰あろうと、その手を切断するという法があった。

地域伝承
 中部ジャワ北部には、高潔な正義の実現と誰あろうと正直であることを目指したマハラニ Maharani という人物の伝承がある。この伝説は、民につねに正直であることを求め、盗みを厳しく取り締まったシマ女王の物語である。彼女は、盗みをはたらいた者の手を切断するという、厳格な法を施行した。ある時海の向のある王が、カリンガ王国の民が正直で法を遵守するという噂を聞いた。それを試そうと、彼は金を袋に入れ、市場の辻に置いた。しかし、他人の物にあえて触れる者は、カリンガの人々の中には一人もいなかった。三年後、その袋に皇太子が誤って触れてしまった。シマ女王は息子に死刑を宣告したが、家臣たちは皇太子の罪を許すよう女王に願い出た。他人の物に触れたのは王子の足であるとして、王子は罰として足を切り落とされたのであった。

チャリタ・パラヒヤンガン Carita Parahyangan
 チャリタ・パラヒヤンガン写本の6世紀頃のことに関する記載によれば、マハラニ・シマ・パルワティ Maharani Shima Parwati の娘が、マンディミニャク Mandiminyak という名で、後に第二代の王となったガル王国の皇太子と結婚したという。マハラニ・シマの孫、サナハ Sanaha は、ガル王国第三代の王、ブランタセナワ Brantasenawa と結婚した。セナハとブランタセナワはサンジャヤ Sanjaya という子をもうけ、後に彼はスンダ Sunda 王国とガル王国の王となった(西暦723年〜732年)。

 マハラニ・シマが西暦732年に崩御した後、サンジャヤは曾祖母のあとを継ぎ、後にブミ・マタラム Bumi Mataram と呼ばれた北カリンガ王国の王となり、かくて古マタラム王国のサンジャヤ王朝 Wangsa Sanjaya が確立した。

 西ジャワの王権はトゥジャクンチャナ Tejakencana の息子、タムプラン・バルマウィジャヤ Tamperan Barmawijaya またの名ラクヤン・パナラバン Rakeyan Panaraban に譲られた。後にサンジャヤ王は南カリンガ、またブミ・サムバラ Bumi Sambara のデワシンガ Sewasinga の娘、スディワラ Sudiwara と結婚し、息子のラカイ・パナンカラン Rakai Panangkaran をもうけた。

 5世紀にホ・リン(カリンガ)王国の記録が現れ、それは中部ジャワ北部にあったと推定される。ホ・リン王国に関する記録は、プラサスティ Prasasti 碑文と支那の史書に見られる。752年にホ・リン王国はスリウィジャヤ Sriwijaya に征服され、すでにスリウィジャヤに征服されていたマラユ Malayu やタルマナガラ Tarumanagara と共に、ヒンドゥー貿易網の一部となった。その三国はスリウィジャヤ・ブッダ貿易網の強力な強豪相手であった。

支那の資料
 ホ・リン王国の存在に関する資料は、唐 Tang 王朝時代の義淨 I-Tsing(ぎじょう、唐の僧。635年(貞観9年)〜 713年(先天2年))の記録にも見られる。

唐王朝の記録
 唐時代(618年〜906年)のホ・リン王国に関する記録は以下のようなものである。

● ホ・リンまたはジャワと呼ばれる国が南海にある。その北方にはタ・ヘン・ラ Ta Hen La (カムボジア)があり、東方にはポ・リ Po-Li(バリ島)がある。そして西方にはスマトラ島がある。
● ホ・リンの首都は丸太で作られた城壁に囲まれていた。
● 王は背の高い建物に住み、その屋根は葉で作られ、玉座は象牙で作られていた。
● ホ・リンの住民はヤシ酒作りに長けていた。
● ホ・リン地域はべっ甲、金、銀、サイの角、象牙を産出した。
 支那の史書は674年からシ・モ Hsi-mo (シマ)女王がホ・リンを統治したことにも言及している。彼女は公正にして賢明な王であった。彼女の統治時代、ホ・リンは安寧で秩序立っていた。

義淨の記録
 義淨 I-Tsing の記録(664/665年)は、7世紀のジャワが小乗仏教 Buddha Hinayana の学問的中心地であったことを述べている。支那の僧、ウィニン Hwining は、ホ・リンで仏典のひとつを漢訳した。彼はジャワの僧、ジャナバドラ Janabadra と協力して作業を行った。教典の翻訳はとりわけ、涅槃 Nirwana に関するものであったが、それは小乗仏教における涅槃の説とは異なるものであった。

碑文 Prasasti
 ホ・リンに関する碑文で遺されているものは、プラサスティ・トゥクマス Prasasti Tukmas である。この碑文は中部ジャワ、ムラピ山 Gunung Merapi の西麓、マゲラン Magelang 、クチャマタン・グラバグ Kecamatan Grabag 、レバク Lebak 村、ドゥスン・ダカウ Dusun Dakawu 〈Dusunは集落〉で発見された。プラサスティはサンスクリット語のパラワ Pallawa 文字で書かれている。プラサスティは清廉な水源について記している。この水源から流れ出る川はインドのガンジス河と同一視されている。このプラサスティには三叉鉾、水差し、斧、クラサンカ kelasangka 〈ヤシ、バナナ、ナンカ(ジャックフルーツ)〉、チャクラ〈円盤〉、蓮の花といったものが描かれており、これらは人とヒンドゥーの神々の関係を象徴するシムボルである。
 また、中部ジャワ、カブパテン・バタン Kabupaten Batang 、クチャマタン・レバン Kecamatan Reban のソジョムルト Sojomerto 村では、プラスティ・ソジョムルトが発見されている。このプラサスティはカウィ Kawi 文字で書かれており、7世紀頃を起源とする古マレー語 Melayu Kuna が用いられている。このプラサスティはシヴァ派の性質のものである。このプラサスティには建造者ダプンタ・スレンドラ Dapunta Selendra の一族の名が記されている。父の名はサンタヌ Santanu 、母はバドラワティ Bhadrawati 、妻の名はサムプラ Sampula である。ブチャリ博士 Prof. Drs. Boechari は、ダプンタ・スレンドラという人物がヒンドゥー・マタラム王国の支配者、サイレンドラ Sailendra 王朝の前身であるという説を提出している。発見された二つの碑文は、中部ジャワ北方海岸地域に王朝が発展し、それらがヒンドゥー・シヴァ派を採用していたことを示している。この記録はサイレンドラ王朝、もしくは中部ジャワ南方で後に発展したメダン Medang 王国と関連する可能性がある。(Blog Apemboyakから)

 ●ホ・リン王国と義淨の記録にあるJanabadraはスリ・ムルヨノ「スマルとは何者か? Apa dan siapa Semar 」でも言及されていた記事であるが、シマ女王のおかげでさらに詳しいことが分かった。
 シマ女王という人も伝説中の人であり、実態はよく分からないようである。「シヴァの女王」を思い起こさせる人物ではある。
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by gatotkaca | 2014-03-16 03:09 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

プリンゴダニ国はラウ山にあった?その2

 ●三番目の話は、ちょっと場所が変わってムラピ山 Gunung Merapi の周辺の村に伝わる話ということである。


プリンゴダニの宮殿

 プリンゴダニ Pringgodani 宮廷の伝説、物語は広い地域、特にカブパテン・プマラン kabupaten pemalang 〈中部ジャワ、ジョクジャカルタ、ムラピ Merapi 山の南方、山麓カリウラン Kaliurang 地区の街〉のあたりで息づいている。この話は、八十歳になるバパ・カルミン氏 Bapak Karmin から得たものである。彼はチャンディ・プラワンガン Candi Plawangan 〈カリウランにある祀堂〉の管理人だ。昔プラワンガンに、ハリ hari 一族の統べる王国があった。その名はプリンゴダニ。その王はラクササで、人を食うのがつねであった。
 初代の王はハリムボコ Harimboko といったが、トゥルムボコ Tremboko という別名のほうが世に知れ渡っていた。サン・ラジャ sang raja 〈王〉は一人ずつ順番に住民を餌食として要求していた。ある家族は困り果てていた。というのも、昼夜をとおして語り合っても、家族の誰を生け贄に捧げるか、決めかねていたからである。夜更けとなり、ブロトセノ Brotoseno という名の若者が家族たちの苦悩を聞き、すすんで身代わりになることを申し出た。彼はその家に宿を借りていたのである。
 サン・ラジャの面前に赴いたブロトセノは、王の娘ハリムビ Harimbi に出会った。
 王女はその若者に心魅かれ、父に今回は見逃してやってほしいと懇願した。しかし、父王は腹をすかせていたので、彼女の願いを許さなかった。
 すぐさまブロトセノを食おうとして王は驚いた。その若者の皮膚は鋼のように固く、彼の牙はブロトセノに傷をつけることもできなかったのである。王は激怒し、ブロトセノとプラブ・トゥルムボコの闘いとなり、ついにプラブ・トゥルムボコは斃れた。
 プラブ・トゥルムボコの死後、プリンゴダニ国は長男のプラブ・ハリムボ Harimbo が継いだ。ある日、ハリムボの妹、デウィ・ハリムビはブロトセノと結婚したいと申し出た。しかし兄は、ブロトセノは父を殺した仇であると、その申し出を拒み、デウィ・ハリムビを追放した。
 プラブ・ハリムボは怒り、ブロトセノに挑戦し、激しい闘いとなった。激戦のすえ、プラブ・ハリムボは破れ、その死骸は川に投げ入れられた。彼の髪は長かったので、その川では長い髪が流れているのがしばしば目撃されると、住民たちは信じている。以来、プラブ・ハリムボの髪が見える川は、髪の川と呼ばれている。
 兄の死後、デウィ・アリムビが王位を継ぎ、二つの宮殿が建てられた。プラワンガンに以前からあった西の宮殿と、チョマル Comal 川の岸辺にある東の宮殿である。
 以上の物語を分析してみよう。プラワンガンの人々の民間伝承の真意はともかく、留意すべき点を以下に記す。
1. プラワンガンに王国があり、現地の伝承によれば、その名は『プリンゴダニ』という。いっぽう、支那の史書は『ホリン Holing 』王国を記しており、これは多くの場合インドネシアの歴史家がカリンガ Kalinga と呼ぶ国のことである。であるから、『プリンゴダニ』はカリンガと同一視できる。
2. ここを支配するのは王族のアリ ari 〈Hari〉一族である(アリムボ Arimba )。また王女アリムビは、支那や西洋の史書を比較検討すると、おそらくマタラム Mataram 王国の王族と婚姻したデウィ・シマ Dewi Sima のことであろう。彼女と婚姻した古マタラム王国の王族は、既にヒンドゥー化していた現地の住民からサナカ Sanaka (サマハ Samaha )と呼ばれ、これはセノ Sena を意味する。伝承のブロトセノと同じである。
3. ラクササとされている王は、おそらくまだヒンドゥー化していない(祖霊崇拝)者たちである。
 以上からカリンガ(プリンゴダニ)王国は、民間伝承とはいえ、古マタラム王国以来邪悪であるとされたタルマヌガラ Tarumanegara 王国〈4~7世紀、西ジャワにあった王国〉に一致する。まさにプラワンガンは、民間伝承でプリンゴダニ国と呼ばれたホリン、またはカリンガ国のあった場所である可能性が高いのである。
 プラワンガンの民間伝承の真意と別にしても、それが否定できない証拠が存在する。それらの歴史的事実を証明する考古学的発見がプラワンガンで見つかったのである。それはプラワンガンの伝説の真実性を証明するものであった。

クラトン・シラウン、シ・グスン
 この地域に関する民間伝承は多種多様であるが、中心的主題はシラウン Sirawung またシ・グスン Si Geseng の森には、昔ある王国があったというものである。
 主立った話を以下に挙げる。
1. プラワンガンの人々は言う。シラウン地域はかつてプリンゴダニの一部であった。そこは、かつてブロトセノとの結婚を許さない兄によってハリムビが追放された場所である。
2. チャンディ・シ・グスンの管理人によれば、この地域はジャムバン・ダレム Jamban Dalem 〈宮廷の厠〉と呼ばれている。シラウンと呼ばれたのは、宮廷の人々が、ふつうの人間と関わる(スラウン Srawung)レレムブット lelembut 、つまり精霊 makhluk halus であったからである。グスンの名は暗闇、暗い場所を意味し、それは、そこがふつうの人間にとっては暗い場所であったからである。
3. プマランの人 orang pemalang によれば、1825年亡くなったカンジェン・スワルギ Kanjeng Swargi またの名ラデン・アディパティ・レクソプロジョ Raden Adipati Reksoprojo は、シラウン宮殿に隠れたパンゲラン・ディポネゴロ Pageran Diponegoro を捕らえようとするVOC〈オランダ東インド会社〉からかくまったという。同様に1862年に亡くなったカンジェン・ラデン・トゥムングン・ロンゴ・スロ・アディ・ヌゴロ kanjeng raden tumenggung ronggo soero adi negoro もシラウン宮殿にやって来たことがあるという。
 パンゲラン・ブノウォ Pangeran Bunawa もシラウン宮殿で今も生きているという。
4. ヴィレム・オットー・マッケンジー Willem Otto Machenzie 氏は誓って言う。彼がグムボル・マニス Gembol Manis 、つまりシラウンの森に邸宅をかまえていた時、彼の邸宅の前に夜毎ガムランの楽団と犬たちが通っていった。彼はその正体を確かめる勇気はなく、ただ座していた。というのも、それらは音だけがして、姿かたちの無いものたちであったからである。
5. 外国人船長の話。船がシラウンの森の岸辺に座礁した。彼の話では、そこにはいつも港が見えたのである。百歳を超える管理人は、かつて四回、船が座礁するのを見たという。
 ヴィレム・オットー・マッケンジーも、いくつもの船が座礁するのを見たという。彼によれば、夜になると港が見えたからであるという。
 船の座礁の最後の記録は、1956年ガムビール〈阿仙薬(あせんやく)〉や反物を積んだイギリス船の記録である。こうしたシラウンの森の不可思議な出来事に関するプマラン地域の伝承には、共通のモチーフがある。それはシラウンの森には昔、王国があったということである。

結論:
a. シラウンにはジャムバン・ダレムと呼ばれる場所があり、その王国の名は不明である。
b. その地域には歴史的遺物や遺産があり、民間伝承の『真実」と歴史的事実には近似性が認められる。
 暗闇の地は暗闇のまま、地域の人々はグスンの名に満足し、あえて暴こうとはしない。かくてそこは闇に閉ざされたままなのである。

2013年6月2日(日)、メディア・ジャワ


 ●この説によれば、プリンゴダニ国はカリンガ王国のことである、ということになる。ただ、歴史学的にはカリンガ王国の版図は現在のカブパテン・プカロンガン Kabupaten Pekalongan とカブパテン・ジュポロ Kabupaten Jepara を含む一帯であると考えられており、ムラピ山は入るが、ラウ山一帯は含まれない。
 ここらで、現在ワヤンで語られるプリンゴダニ王国のあらましを紹介しておこう。
 パンダワ五王子の父、パンドゥ・デウォノト Pandu Dewanata の時代、版図を広げようとするアスティノ Astina 国は、プリンゴダニ国を攻め、この時、王のプラブ・トルムボコ Prabu Tremboko はパンドゥに殺される〈この話にはいくつかの異説もあるが、ここでは詳しく触れない〉。王位は息子のアリムボ Arimba が継いだ。その後、パンダワ五王子がコラワ百王子の陰謀による焼き打ちから逃れ、ウォノマルト Wanamarta の森をさまよっているとき、アリムボはパンダワを襲おうとしてビモに殺される。ビモに一目惚れし、アリムボに背いた妹のアリムビ Arimbi はビモの妻となり、プリンゴダニを治めた。アリムビとビモの息子、ガトコチョが成長し、王位はガトコチョが継ぐこととなる。ガトコチョの王位継承を快く思わないアリムビの弟ブロジョドゥント Brajadenta は反乱を起こすが、ガトコチョに打倒され、プリンゴダニ国はガトコチョを王に据える。コラワ百王子とパンダワ五王子の対立から、世界を二分する大戦争バラタユダ Bharatayuddha が勃発し、その中でガトコチョはコラワ軍最高の戦士でパンダワの兄であるカルノ Karna と戦い弊れる。ガトコチョの死後、プリンゴダニ国は彼の息子サシキロノ Sasikirana によって継承され、サシキロノは、戦争に勝利したパンダワの治めるアスティノ国の臣下となる。ここで実質的にプリンゴダニ国はアスティノ国の属国となるのである。
 インド版マハーバーラタでは、アリムボ、アリムビ兄妹は森に住むラークシャサの一族で、ヒディムバ、ヒディムバーという。彼らは特に国をかまえているわけではなく、従ってプリンゴダニという国も、先代の王とされるトルムボコに相当する人物もインド版には存在しない。彼らがプリンゴダニという国を建てているのはジャワ・オリジナルの設定なのである。
 前に紹介したラウ山の話は、ラクササの名がプラブ・ボコであり、ワヤンのプリンゴダニの物語とは関連が薄かった。しかしムラピ周辺の話では、現在のワヤンに見られるプリンゴダニ王国の主要人物が登場している。トルムボコ王、その息子アリムボ王と妹のアリムビ、そしてトルムボコとアリムボを打倒する人物としてブロトセノである。しかし、この説でアリムビに比定されているカリンガ王国のシマ女王のことが史書に記されているのは7世紀頃のことであり、ブロウィジョヨ五世の話は15世紀末の頃の話であるから時代に大分へだたりがある。
 何の証拠もないが、仮説をたててみよう。
 カリンガ(プリンゴダニ)王国はシマ女王の世代(もしくは次の世代)で古マタラム王国(もしくはヒンドゥー国家のどれか)の王族と婚姻関係を結び、吸収されたか属国となったが、これにカリンガ王国の旧勢力が反乱し、制圧された。その話が後に、マハーバーラタの挿話を借りて変化し、現在伝えられている伝説が生じた。
 カリンガ旧勢力はラウ山周辺に落ちのびて、地方豪族化し、プリンゴダニ国を名乗ってほぞぼそと暮らしていた。千年のち、マジャパヒト(モジョパイト)の反ラデン・パタ勢力がラウ山へやって来てプリンゴダニの末裔を滅ぼした。征服された者たちは、ラクササということにされてしまったが、ラウ山にはプリンゴダニの鎮魂のため、プルタパアン・プリンゴダニという聖地が設けられた。こちらも後の時代にマハーバーラタの挿話が取り入れられ、ボコ王の伝説が生じた。
 まあ、本当のところはもはや誰にも分からないであろうが、プリンゴダニという名は、大国に滅ぼされた小国の面影を背負ったイメージを伴う名なのではなかろうか。
 インド版のガトートカチャはパーンダヴァの血をひく単なる善玉ラークシャサにすぎない。しかし、ジャワのガトコチョは、滅び行く(大国に吸収されて行く)小国の旧勢力(ラクササ)と台頭する大国(アマルト=アスティノ=パンダワ)、双方の血を受けた両義的存在として再設定されているのである。それは、彼の死が誰のためのものであるかを、インド版、ジャワ版で比較してみるとよくわかるのではないだろうか。
 というわけで、次回は「ガトコチョは誰がために死す?」というお題を考えてみたい。

(おわり)
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by gatotkaca | 2014-03-14 13:08 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

プリンゴダニ国はラウ山にあった?その1

 ●プリンゴダニ王国 Kerajaan Pringgadani は、ワヤンの世界では、パンダワ五王子の次男ビモの息子、ガトコチョの国である。とはいえ、インド版マハーバーラタでは影も形も見えず、ジャワ・オリジナルの設定である。この設定がいつ頃からワヤンの物語に組み込まれたのかはよくわからない。けれど、ちょっとヒントになるかもしれない記事を見つけたので紹介したい。ラウ山 gunung Lawu に、プリンゴダニの苦行所というのがあるというのである。さらに、そのあたりに伝わる伝承に関する記事もいくつか紹介する。もしかすると、これらの伝承が取り入れられて、ワヤンのプリンゴダニ王国が生まれたのかもしれない。
 まずは、プリンゴダニの苦行所の案内から

プルタパアン・プリンゴダニ Pertapaan Pringgodani〈プリンゴダニの苦行所〉

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 この苦行所はエヤン・コチョヌゴロ Eyang Koconegoro の残したものとされている。ここはラウ山 Gunung Lawu の西側、標高1,300メートルの海を臨む位置にある歴史的遺産である。苦行所はクチャマタン・タワンマング Kecamatan Tawangmangu 〈クチャマタンはインドネシアの行政区の単位、郡に相当する〉のブルムバン Blumbang 村にある。
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 苦行所には神聖な泉があり、センダン・プンガンティン sendang pengantin 〈花嫁の泉〉と呼ばれている。巡礼者たちは、この泉で祈りを捧げ、顔を洗うのである。ジョグロ joglo 様式〈ジャワの建築様式のひとつ。中心部が高くなったピラミッド型の屋根、広い正面玄関と間仕切りの無い広間を備える〉の建物があり、巡礼者たちは、各々の信仰にもとづいてここを使用する。苦行所の霊的ハイライトは断崖から噴出する自然のシャワーでの沐浴である。流水の前には行列ができ、夜半まで人々が並ぶ。
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 プリンゴダニの苦行所までは、タワンマングーサランガン Sarangan 間の一般車両に乗ってアクセスできる。それからブルムバン村にそった道を3キロメートルほど進んだところに苦行所はある。巡礼地の施設は、歩道、MCK〈mandi cuci kakus=トイレ、手洗い場、沐浴場〉、斎戒場 tempat bilas 、瞑想のためのジョグロ〈建物〉、食堂がある。


 ●プリンゴダニの歴史と伝承について

プリンゴダニの歴史

 史書によれば、モジョパイト王国から逃れたプラブ・ブロウィジョヨ五世 Prabu Brawijaya Ⅴ が、プリンゴダニ Pringgodani 地域を支配したのが始まりであるという。その後、モジョパイト王国に対してはらった犠牲への感謝のしるしとして、この地域は弟のコチョヌゴロ Koconegoro に譲り渡された。モジョパイト王国崩壊の後、プラブ・ブロウィジョヨ五世はラウ山 Gunung Lawu へ逃れ、七年間のモクシャ muksa (肉体と精神が神秘的領域に入ること)を経てこの世を去ったという。その後ときどきプラブ・ブロウィジョヨはワリの泉 Sendang Wali やアルゴ・ドゥミロ Harga Dumilah の周辺に姿を見せたという。
 周辺に住まう人々によれば、『プリンゴダニ Pringgodani』という語はプリン Pring 、ンゴン Nggon 、そしてンダニ Ndani の語から成るという。プリン(インドネシア語のbambu=竹)とは、竹があらゆるものに成る材であることを意味し、あらゆることの出来る人を意味する。また、ンゴンの語はジャワ語で場所を意味する。ンダニとはジャワ語のンダンダニ ndandani の縮まった語であり、精進〈修正〉を意味する。であるから、プリンゴダニとは人が自分自身を精進させる場所ということである。いっぽう、コチョヌゴロの名は、しばしばエヤン・パヌムバハン・コチョヌゴロ Eyang Panembahan Koconegoro とも呼ばれ、神話的存在である。というのもこの名は比喩的な名にすぎず、エヤンは長老(老人)を意味し、場所を意味する比喩であり、コチョは鏡を、ヌゴロは己自身を意味する。であるから、それは長老の(神聖な)、有用なる自身の鏡(精進)の場という意味を表すのである。
 ブロウィジョヨ五世の昇天 pamuksan (入滅)に関しては異説もある。サンガル・パムルンガン Sanggar Pamelengan の入り口に書かれたドゥウィ・ジャルモ・グスティ・サウィジ Dwi Jalmo Ngesti Sawiji の文字である。その意味は二人の人物が、一なるもの、つまりトゥハン・ヤン・マハ・エサ Tuhan Yang Maha Esa に拝跪するというものである。異説によれば、この言葉は年号を記したスンカラン sengkalan であり、ドゥイ Dwi (二つ)は2を、ジャルモは2、グスティは8、サウィジは1を表す。その数字を並べると2281となる。スンカランの年号は数字を逆から読むので、1822年となる。これは西暦1822年にこの場所でプラブ・ブロウィジョヨ五世が昇天したことを示しているという。
 民話によれば、プリンゴダニの苦行所はプラブ・ボコ Prabu Boko の物語と関わる。昔々、プラブ・ボコという名の王がおり、人を食うのを好んだ。その異常な嗜好のため、プリンゴダニの苦行所周辺(カルラハン ・ブルヌバン Kalurahan Blumbang とパンチョット Pancot )の住民は絶えてしまった。残ったのはボ・ロンド・ダダパン Mbok Rondh Dadapan と七ヶ月になるその娘、ハルワティ Harwati だけであった。プラブ・ボコがハルワティを生け贄に求めて来た時、ボ・ロンド・ダダパンは七日間の猶予を願った。その頃、プリンゴダニから一人の苦行者が山を下りて来た。苦行者はボ・ロンドの願いで、自らハルワティの代わりにプラブ・ボコの生け贄となることを承知した。プラブ・ボコがやって来て、ハルワティを餌食にしようとした時、とつぜん生け贄の手がプラブ・ボコの頭をつかみ、パンチョット村の光る岩に叩き付けた。プラブ・ボコの頭は粉々になり、目と脳みそはガムピン Gamping 山の石灰岩となり、牙はタマネギに、奥歯はネギとなり、その死体はさまざまな作物になった。プラブ・ボコが死んだので、パンチョットとブルムバンの人々は安心し、苦行者はプリンゴダニの苦行所へ帰っていった。
 村はその苦行者に護られていると考えられ、パンチョットとブルムバンの村の人々は今にいたるも、聖なる苦行者の誕生日である火曜のクリウォンの日 Selasa Kliwon (ジャワ歴)には祝いの儀式を催すのである。その祭りは安寧と、豊作、祝福を願って催される。民衆は各地の神聖な場所には、それぞれ意味があり、効験があると信じている。それらはそこを訪れる人の動機や目的、信仰する宗派によっておおいに異なるだろう。訪れる人々の動機や目的は、心の安寧、神秘の探求、病の治療などさまざまなのである。

 ●別のブログから。同一のブログから記事を二つ。

プラブ・ブロウィジョヨ五世

 プラブ・ブロウィジョヨ五世はモジョパイト王国最後の王で、スナン・ラウ Sunan Lawu とも呼ばれる。プリンゴダニの苦行所は彼の遺産のひとつである。
 一般の人々や学界からも失われつつある歴史・民族的遺産を秘めた場所である。プリンゴダニは巡礼の訪れる場所であるばかりでなく、周辺の民話を保存する貴重な場所でもある。プリンゴダニはプラブ・ブロウィジョヨ五世の苦行所としてだけでなく、後にワウ山にスナン・カリジョゴ Sunan Kalijaga が登ったとき、登りきれない崖にいたり、彼の足が蹴ったところから滝が流れ落ちた。今、トゥガル・ワリ Tegal Wali と呼ばれている滝がそれである。
 プリンゴダニは多くの人々がそこで祈りを捧げるためにやってくる巡礼地である。彼らは約5キロほどの道を喜んで歩いていく。プリンゴダニは多くの場合プリン Pring (竹)とンダダニ Ndadani (精進)の語からなると解されている。生きるのに必死な人々のモラルを向上させる場という意味である。ここで、多くの人々が悩みから抜けることが出来たと言われている。
 プリンゴダニにはタワンマングの地域で育まれた民話にまつわる謎がある。プラブ・ボコ、プトゥット・トゥトゥコ、ボ・ロンド・ダダパンの物語である。いくつかの村々の記憶をとどめた物語である。ダダパン Dadapan 、べネル Bener、パンチョット Pancot そしてガムピン Gamping 山周辺には、昔からモンドシヨ Mondhosiyo の儀式が催されている。

ジョコ・スレワ Joko Slewah の話

 昔、ラクササの国にある一家がいた。貧しかったが幸せに暮らしていた。ボ・ロンド・ダダパン Mbok Rondo Dadapan 〈未亡人を意味する〉とひとり息子のジョコ・スレワという。ジョコ・スレワは奇妙なことに、顔が片側だけしかなかった。その国のラクササ王、プラブ・ボコ Prabu Boko は善政を布いていたので、人々は豊かな作物を王に捧げて讃えた。ある日差し出されたスープがとても旨く、王は気に入った。スープを作った料理人は、王に召し出され、プラブ・ボコの面前で恐縮していた。
 「おお、我が民よ。そなたが作ったスープは、一体どんな調味料が入っていたのかね?」
 「王さま、特別な調味料など使ってはおりません。いつものように作っただけでございます。」料理人は畏まって言った。
 「ふ~む、しかしとても旨い肉が入っていたぞ。そなたがスープに入れた肉が何であったか申してみよ!」プラブ・ボコは強い口調で言った。
 「王様、お許しを。千のお許しを乞いまする。私はうっかり指の肉を切ってしまし、それがスープに入っていしまったのでございます。どうかお許しを。」料理人はぶるぶる震えて言った。
 ボコ王は少しも怒らず、むしろそれを知ってうれしそうであった。それ以来、王は国の人々に毎日一人の人間を「貢物」、捧げものとして差し出すよう命じた。新鮮な、ボコ王の好物を作るためである。国中は大騒動になったが、誰もボコ王の命令にさからう勇気はなかった。
 非情にも、今やボ・ロンド・ダダパンがプラブ・ボコに捧げものを差し出す番になったのであった。ボ・ロンド・ダダパンは困り果てていた。誰を生け贄にするか、自分か一人息子か。もし自分が生け贄になったとすれば、息子一人では暮らしていけないだろう。毎日「アニ・アニ ani-ani やアウル・アウル awul-awul 」(水田で収穫後の稲の茎を刈る)仕事をするか、森で薪拾いをするしかない。しかし、息子を差し出せば、ボ・ロンド・ダダパンはずっと寂しい暮らしをしなければならない。
 その夜、ボ・ロンド・ダダパンは心乱れて行ったり来たりしていた。気がつくと目の前に、白い光が止まった。
 「お家へお帰りなさい!私が助けてさしあげましょう。」光が声を発し、ボ・ロンド・ダダパンに家に帰るようにと言った。
 ボ・ロンド・ダダパンは落ち着いて家に戻ったが、翌日も何の変わりもなかった。ボ・ロンド・ダダパンは落ち着かない心で「アウル・アウル」の仕事に出かけ、心乱れていたので夕暮れまでかかっても、一つも稲を手に入れることはできなかった。ボ・ロンド・ダダパンは子どもに何事かおこるのではないかと心乱れていたのである。しかし夕まぐれの中に、また光が現れた。
 「恐れることはない。私がお助けしよう。北西に行きなさい。「プリンスダプル Pringsedapur 」がある。そこにお子さんを連れて行きなさい。」とつぜん光は消えた。
 ボ・ロンドは怖くなって家に帰った。家に着くと「テンゴ tenggok (竹籠)」の中に、夕食に十分なお米が入っていたのだった。夕食後、ボ・ロンド・ダダパン命じられたとおりに、北西を目指した。その場所に着くと、そこには「プリンスダプル」があった。それは鏡だった。ジョコ・スレワが鏡の前に立つと、鏡の顔と彼の顔がひとつになった。ジョコ・スレワは立派な若者となり、飛ぶこともできるようになった。かくてこの場所はコチョヌゴロ・プリンゴダニ Kacanegara Pringgodani(プルタパアン・プリンゴダニ Pertapaan Pringgodani )として知られるようになった。
 それから、次の捧げものの時、ジョコ・スレワはボ・ロンド・ダダパンに、人々に惨い仕打ちをして来たボコ王と対決する許しを得た。
 「おお、若者よ!スープにされるお前の体に同情はしないのか?」生け贄の健やかで、強く、瑞々しい若者を見て、ボコ王はご機嫌でたずねた。
 「おお、ボコ王よ!人食いを止めるのだ。弱い人々を苦しめるのはやめろ!」ジョコ・スレワは叫んだ。
 プラブ・ボコは怒りにわななき、顔を真っ赤にして、その血は沸騰した。ジョコ・スレウに飛びかかったが、ジョコは軽々と身をかわした。
 これを見てプラブ・ボコは怒り、地団駄を踏んだ。体制を崩し、プラブ・ボコは「パンジャタン Panjatan 」の大石に頭を打ちつけた(ジョコ。スレウはこの上にいて、飛び退いたのだ)。彼の頭は割れてしまった(この場所はパンチョット Pancot 村の伝統の儀式、ウク・モンドシヨ Wuku Mondhosiyo が催される所として有名である)。災いは消えた。しかし、死ぬ前にプラブ・ボコは人々にこれまでの過ちに許しを乞うた。償いにボコ王はこのあたりの土地を肥沃な土地にすることを約した。彼の脳みそはガムピン Gamping 山の石灰岩となり、歯はニンニク、髪の毛はネギ、性器は人参となった。
(この物語はパンチョット pancot 村のプトゥット・トゥトゥコ Putut Tetuko の物語と似ているが、ブルムバン Blumbang の人々の間で語られてきたものである。残念ながら多くの若者たちはこの話を知らない。ごく少数の人たちだけが、この話をまもり、記憶しているのみである‥‥。penelitian Revitalisasi Mitos Mondhosiyo sebagai sarana Wisata Budaya 2005 )

 ●ボコ王はバカ Baka の名でインド版マハーバーラタにも登場するラークシャサであり、ビーマに退治される人物である。上記の伝承は、苦行者もしくはジョコ・スレワをビーマに入れ替えれば、マハーバーラタの挿話と酷似している。地域伝承が、マハーバーラタの影響を受けて変容したのであろうか。だが、ボコ(バカ)王の国名はエコチョクロ Ekacakra (エーカチャクラー)であり、プリンゴダニの名とは類似性がない。さらに、ガトコチョ(ガトートカチャ)は、このあと森の中で、ビモがアリムボ Arimba(ヒディンバ)を殺し、その妹アリムビ Arimbi(ヒディンバー)とのあいだにもうける子であるから、バカの話とは関連しない。
 さて、ワヤンのプリンゴダニとラウ山のプリンゴダニには共通点があるのでしょうか?次回に続く。



(つづく)
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by gatotkaca | 2014-03-12 13:35 | 影絵・ワヤン | Comments(0)