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木から落ちた猿

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タグ:ジャワ宮廷文化 ( 5 ) タグの人気記事

ワヤンと宮廷文化 スモディニングラト その5(最終)

(承前)

Ⅳ.ワヤンとカラトン

1.王の文化としてのワヤン

 ワヤンのもつ哲学のひじょうに高い意図は、この世と来世の不滅の生にとって、また個人のあるいは社会での人生の指針を内包する。ワヤンは種類、表現形式、達成度、その物語においては異なるが、平穏な状況での民衆の安寧にたいする思索を想起させるという目的は同じである。

 そうはいっても、問題は、不滅の平和は総合的には、長続きしないだろうということである。なぜなら人間の性質はすべて同じではなく、求めるものもその能力も異なり、満足する成果もまた異なるからである。一方で、人間の性質と世界はつねに発展していく。それゆえ、各々の人間自身、能力と強さのバランスを取る判断をおおいに必要とするのである。つねに改善を目指すが、すべてにおいて不足を感じる。不足を改善し、能力の不足を補う。そうして、生のバランスを維持しうることが期待できるのである。

 人間の性質が同一ではないということに基づき、共通の理解が必要となる。相互扶助の必要が理解されなければならない。つまり、強者の側にある民は、弱者を手助けしなければならない。弱者もまた強者による扶助を喜んで受け入れなければならない。多くの階層の民衆たちが互いに関心を持ち、コミュニケーションと理解を求め、格差を減少させ、平穏なる安寧を思索するのである。

 民の為すべきことを理解し、社会の安寧を実現しようとするためには、自身とその他の人たちにとっての指導者たる「王」を指針とせねばならない。永遠なる平穏な安寧への思索の方向性に対する理解を持つ指導者である。

 良識ある指導者とは、「王の魂」を持つ者である。王の文化としてのワヤンを理解することで、民衆の指導者は、ワヤンの人物像とラコンの本質を理解しなければならない。そうして日々の生活における人間の行為の意味を理解し、良識をもって実行することができるのである。ワヤンを理解する指導者とは、ワヤンの役を演ずることができる者、彼を選んだ民衆にとってのダランである。良きダランは、ワヤン(の人物たち)を喜ばせることができる。このアナロジーでいえば、良き指導者とは民衆に安寧をもたらす者、ということができよう。

 ワヤンは、ある容器、国家の中にある人間の生の倫理を形成するということを想起しなければならない。国家は民衆個人個人の集合体である。個人の安寧はすなわち民衆の安寧である。であるから、民衆の指導者とは、一個人自身の指導者でもある、と言い換えることができる。ワヤンにおいては「自分自身を指導する者」も、人生の倫理としてのワヤンには用意されている。おおいなる高みにある生の哲学を、ワヤンからの良質の実行と理解を得ることで、人生での行為を実行できる各個人が、意志を持って、すべての民にとっての安寧を実現する選択することができるのである。


2.ワヤン文化の源泉としてのカラトン

 人生の象徴としてのワヤンは、実際の生活における人間の行為(経済)、民衆(個人)の生活を設定する方法の本質、あるいは「王」(指導者、ワキル・ラヤ)といった、人生の節目の集積である。

 王国時代には、カラトンは王のおわすところであった(経済のダイナミクスにおけるカラトンの役割についてはグナワン・スモディニングラト、1992を参照)。王国時代、王たちは生の目的を達成するため、民衆を導き、指示を与え、灯りとなって方向性を与え続け、ワヤンをメディアとして使用することを含めたさまざまな方法で民衆を指導した。

 指導においては、民衆はワヤンの人物像に当てはめられ、聖なる王はダランとして振る舞った。これに関して「スラット・チュンティニ Serat Centini」やその他の書物は、王たちはワシス wasis(賢い・熟達の)なダランである、と述べている。この点において、ワヤンによる情報普及の質を王たちは、時代の展開に沿って、より興味深いものとなるようワヤンの形式や表現を増やしていった。ワヤンの表現形式に関しては、ワヤン・ゲドからベベル、そして現在に至るまで発展し続けている。(パドモスコジョ、1984)

 その発展において、情報伝達の必要に適応し、民衆の欲求を満たし、物語に内包される趣旨も、イスラム教の要素を含んで発展していったのである。(ハルヤント、1992)

 こういったワヤン文化の発展は、カラトンの領域で展開された。それゆえ、カラトンはワヤン文化の源泉であると言うことが出来よう。

Ⅴ.結び

 ワヤンは実生活の原理(経済)に生きる人間を描く。経済原理は世界(そして来世)の安寧を達成する。安寧は実現可能な生活として描かれる。経済原理における実現可能な生活とは、結果的には相互扶助によって喜ばしい結果が得られるものである。この市場原理の作動の過程は、長期間を見通すことができないという問題を孕んでおり、生活(経済)の問題もあって、十分にして平等な民衆の安寧を実現することはできない。

 平穏な安寧の達成を実現することで、格差をなくすことのできるワキル・ラヤとは、「王の魂」をもったワキル・ラヤである。それはワヤンの哲学を理解し、一貫して前進し続ける良識の実行者たるダランの役割を担える者である。

 王国政府時代には、カラトンは、「王の魂」を持つ選ばれし行政執行者としての王の座であった。一方独立以降の時代において、政府機構は共和国となり、カラトンは副次的な政治機構となった。かつての政治的中心は、王権的文化がいまだに民族の指導者各々に繋がっているということを明らかにし、想起させるため、維持されなければならない。

 ワヤン文化の源泉としてのカラトンの保存は、平穏なる民衆の安寧を実現するための、真実なる人間の生の倫理を保つことを意味するのである。ハムマユ・アユニン・バウォノ。

1992年8月9日 スラカルタ

(了)
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by gatotkaca | 2011-10-03 00:17 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンと宮廷文化 スモディニングラト その4

(承前)


3.人生の指針、導きとしてのワヤン

 ワヤンは、価値観や発想のシステムを内包する民族文化の一部分である。価値観や発想のシステムは、論理の帰結としての思考、倫理に基づいた欲求、審美的感情を源泉とする。人間の生は以下のもので構成される。(1)思考の運動に対応した思索。(2)カサル(粗さ)とハルス(滑らかさ)、真実と誤りの違いを見いだす感性。ならびに(3)人間の手になる作業。その三つの要素は、ある目的を達成しようとする人間の意志によって方向を定められる。それは民衆の安寧である。(セロ・スマルジャン、1985、95頁)

 タンチュプ・カヨン(訳注:ワヤンの最後の場面でグヌンガンが立てられ、上演が終了すること)の前に、物語の最後で、ダランはゴレ(木偶人形)を舞わせる。それは上演を終えたばかりのワヤンの物語の意図するところを探すようにという、見物人に対するやんわりとした指示を意味する。さまざまなワヤンのラコンの中には、指導者(ワキル・ラヤ)、行政そして民衆自身にとって良く適用し得るいくつもの哲学がある。

 ワキル・ラヤたる指導者に対しては、王の資質に関する教え(ハスト・ブロト hastha brata)がある。これは(王の資質の)実行と英知のための喜ばしい手引きとなる「八つの教え」である。ハストブロトとは、スリ・ロモウィジョヨ(ロモ=ラーマ)が、ンガヨディヨ(アヨディヨ)国の権力の象徴として、譲位の際に説いたものである。スリ・ロモウシジョヨはまた、グナワン・ウィビソノがアルンコの王に即位する時も、彼にハストブロトを説いた。また、ラコン「マクトロモ」において、アルジュノもまたブガワン・キソウォシディ(彼はスリ・ロモウィジョヨに他ならない)によってハストブロトを説かれた。(訳注:ブガワン・キソウォシディは一般的には、クレスノの僧形であるが、クレスノもロモも、共にウィスヌ神の化身ではある。)指導者たるものはハストブロトの教えに従わなければならない。これは八つの象徴で表される。(1)太陽(バガスコロ bagaskara)はバトロ・スルヨである。その意味するところは、指導者は、民に対して魂を与え、その強さで励ます太陽のようであらねばならぬ。(2)月(チョンドロcandra)はバトロ・チョンドロである。その意味するところは、指導者は、暗闇において民を平等に照らす者であらねばならぬ。(3)星(カルティコ kartika)はバトロ・インドロである。その意味するところは、指導者は民に対して、つねに一貫性ある態度でのぞまねばならぬ。(4)風(サミロノ samirana)はバトロ・バユである。その意味するところは、指導者は徹底して注意深く行為し、民に益することに真直ぐ飛び込むことを欲するものでなければならない。(5)曇天はバトロ・ルドロであり、恐ろしい性質を持つが、大きくなれば水(雨)となり、すべてに命を与える。その意味するところは、指導者は威厳をもたねばならないが、また民を守護しなければならない。(6)火(ダホノ dahana)はバトロ・ブラフモ(ブロモ)である。火は触れるものすべてを直ちに焼くことができる性質を持つ。その意味するところは、指導者は、火のごとく、その行いを公正に為し、理念を持ち、直裁、明確、分け隔てなく、行為において完全であらねばならぬ。(7)大海は、広大で精密、平明なるバトロ・バルノである。その意味するところは、指導者は広く、精密な海の性質を持たねばならない。ずべての問題を受け止め、あらゆる人に公正せあらねばならない。(8)大地はバトロ・クウィロ(クウェロ=クヴェーラ)である。大地は頑丈で聖なる性質を持つ。その意味するところは、指導者は揺るぎない態度を持ち、高潔で正直、そして民の努力に感謝し、価値ある者は誰に対しても恩恵を施すのである。(シスウォハルソノ、1963、106〜108頁)

 (つづく)
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by gatotkaca | 2011-10-02 02:46 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンと宮廷文化 スモディニングラト その3

(承前)

Ⅲ.ワヤンと指針

1.ワヤンの理解

 ワヤンの意味は影である。ワヤンは人生の肖像であり、サネパ(比喩)、ピウラン(教育)、ピトゥドゥ(指針)を内包する。ワヤンは生活習慣、人間の行為、世界の状態を内包する。そのようにして、ワヤンは人間の生の倫理を形づくるのである。ワヤンのラコン(演目)は、生まれ,生き、そして死へといたる人間の生を映し出す鏡となる。プルウォpurwa(始まり)、マディヨmadya(中間)、そしてウソノ wusana(終わり)である。これは自然の摂理、無から生じ、無へと帰ることを意味する。この過程において人間はつねに、世界と人間、そしてトゥハン・ヤン・マハ・エサ(唯一至高の神)との間の調和を探し求めるのである。

 ワヤンのラコンの物語は、人間の生の象徴を映し出す。ワヤンのラコンの物語として。各々のラコンはもちろん異なるものである。というのも、物語において語られる事象・行為は別のものだからであるが、ワヤンの物語の核となるものは同じである。それは誕生から始まり、成長し、死へといたる人生を解き明かすものである。プルウォ、マディヨ、ウソノ。それゆえ、ワヤンの各々の物語の関係はこのようにも例えられる。「キンマの樹の上の枝も下の枝も、日当りは違っても、その味は同じ」(S・パドモスコジョ、1984、16頁)

 象徴を内包するのはワヤンの物語だけではない。ワヤンは応える。ダラン、そしてワヤンを取り巻く全てが象徴を含んでいるのだ、と。ワヤンを観る人はトゥハン・ヤン・マハ・エサからのシムボルを受け取るのである。ダランとはトリムルティの象徴であり、ワヤンとは人生の絵解きである。ドゥボ(debog=グドゥボ gedebog バナナの幹)は大地の象徴であり、クリル(白幕)は天、ブレンチョン(一灯の灯り)は太陽、月、星々を象徴する。ガムラン、供物、衣類その他は人間に必要なるものを指し示す。(S・パドモスコジョ、1984、16頁)

 人間にとって、ワヤンを観るということはサン・ヒワン・アトモ(人間の魂=アートマン)の象徴を得ることであり、ダランは思考・意図を象徴する。ワヤンはパンチャインドラ(pancaindra=五感)から生じる人間の欲望の鏡となる。クリルは人間の欲求のイデアを象徴する。デゥボ(グドボ)は人間の身体を、ブレンチョンは人間の生命を表す心拍を象徴する。ガムランは人間にとっての必要な品を、ワヤンを収納するコタック(箱)はサンカンパラン、つまり「人間はどこから来てどこへ行くのか」を象徴し、グヌンガン/カヨン(山を模したワヤン人形)は生命を絵解きし、チュムポロ(ダランが用いる木槌状の小道具)は心臓、クピヤ(ダランが用いる青銅の板。数枚が一組となり、効果音やガムランへの指示に用いる)は血液の循環を象徴する。

 かようにしてワヤンは、生の活動において人間が現実世界で実際の必要を満たそうとするのと同様に、トゥハン・ヤン・マハ・エサを内包する生の本質を描き出すのである。とはいえ、人間の生の絵解きたるワヤンは、各々の経済主体の理解の段階にワヤンの理解を対応させるのである。人間の性質を描く、ワヤンの諸人物像は、善良な者から良識の無い者までとり揃えられている。しかし、善良な人物にも邪な性質と善良な性質とがあり、一方悪の側の人物もまた善良な性質を持っている。したがってワヤンの人物像の理解には、判断と知恵が必要とされるのである。ワヤンは高度な理解を必要とする哲学足り得るのである。

2.人生の肖像としてのワヤン

 人生の肖像としてのワヤンは、さまざまなワヤンの種類と形式を発展させた。歴史的にはワヤンは、インドのラマヤナ(ラーマーヤナ)とマハバラタ(マハーバーラタ)を源泉とし、その表現の進化の過程がはじまった。ジャワではワヤンは少なくとも十種が著名である。(1)ワヤン・プルウォは、バラタユダを物語るものとしてジョヨボヨ王(クディリ王国)の時代に発展し始めた。(2)スナン・ギリ(ワリ・ソゴ=九人の使徒の一人)によるワヤン・ゲドGedog(ケド Kedog)・トペン Topeng(仮面劇)は、ジュンガラ王からパジャジャラン王までの物語を扱う。(3)スラカルタのカンジェン・グスティ・マンクヌゴロ四世は、ワヤン・マディヨMadya を発展させた。これはバラタユダ以降プラブ・グンドロヨノからジャンガラ国に至る王たちの物語を扱う。(4)ワヤン・クリティク klitik (クルチル krucil)。クリティクはクロトカンklotkan (純粋・オリジナル)を意味する。クルチルの樹から作られ(板人形である)、スナン・クドゥス(ワリ・ソゴの一人)によって創案された。パジャジャランからモジョパイトの歴史物語(ババドBabad)を扱う。(5)木から作られる(木偶人形)ワヤン・ゴレもスナン・クドゥスの創案とされる。ウォン・アグン・メナックとマモヨのようなアラブのメナック Menak のラコンを物語る。西ジャワではバラタユダを扱うワヤン・ゴレもある。(6)ダヌアトモジョ Danuatmaja によって創案されたワヤン・ドゥポロ Dupara は、デマクからマタラム王国の王の物語である。(7)ドゥトディプロジョ Dutadipraja のワヤン・ジャワはアラブの歴史物語。(8)ワヤン・メナック。(9)ワヤン・カンチル、そして(10)ワヤン・プルジュアンガン/ワヤン・スル Perjuangan / Suluh である。

 ワヤンの形式は膨らみ、ラコンも多様に発展した。とはいえ、すべては同じである。ワヤンとは人生の倫理なのである。かようにしてワヤン上演とは、教育、才能の媒体、神学の媒体、コミュニケーションの媒体であり、個人・自分自身の外面と内面に安寧をもたらす社会生活を実現し、国を一つにまとめるための導きの灯りなのである。(ハルヤント、1992)

(つづく)
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by gatotkaca | 2011-10-01 11:21 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンと宮廷文化 スモディニングラト その2

(承前)

Ⅱ.王(Ratu)、カラトンそして現在におけるその関連性

1.民衆の指導者(ワキル・ラヤ wakil rakyat)たる王(ラトゥRatu)

民間の経済社会の変容過程は、自然に均衡が取れることが期待される。経済学的理解においては、均衡を目指す変容過程とは市場経済機構として理解される。市場原理を回転させる主たる原動力(見えざる手)は、社会福祉を向上させる必要の達成である。現実には均衡を達成することが判明したとはいえ、障害となるのは、社会における能力と機会は、常に同じではないということである。余裕の無い経済主体があると、それは変化(発展)の過程に参入できないので発展の成果を享受しえない事になり、社会福祉は未だ満たされないことになる。したがって、発展の過程に参加できた者と出来ない者の間に差別や格差が生じることになる。強者と弱者、富裕な者と貧者の間に。経済学的にはこの状態をいわゆる「市場の失敗(マーケット・フェイルス)」と呼ぶ。

 失敗した経済メカニズムの状態において、社会福祉(安寧)を享受し得なかった社会構成員の集団は「民衆の指導者(wakil rakyat)」を見いだすこととなる。この「民衆の指導者」は民衆の間から自発的あるいは選出、任命された者としての一個人の姿をとるが、社会の安寧の形成が一貫し、継続(連続)するかが、おおいに懸念される。

 王(ラトゥ)は、繁栄を実現し、民衆を保護する賢明さを持った、指導者(ワキル・ラヤ)の性質の実体化である。ラット(Rat)とは世界(ジャガッド jagad、バウォノ bawono)を意味する。ラトゥ(Ratu)は平和を実現する(ハムマユ・アユニン・バウォノ)世界の指導者である。カ・ラトゥ・アン ka-ratu-an はカラトンKaraton(クラトン=宮殿) となり、すなわち「ラトゥ(王)のおわすところ」である。民衆の指導者の場は、大衆の安寧を実現するための「努力の河口」でもある。このような理解に基づけば、「王(ラトゥ)」とは民衆に対して豊かさと安寧を約束する存在であるといえる。民衆の指導者たる王はハマンクHamangku(喜びを持って人々に奉仕する)、ハメンクHamengku(適切な方法で人々を守る)、ハメンコニHamengkoni(指導者としての責任を取る用意)またハムマユ・アユニン・バウォノ(世界を美しく安寧に保つ)の責務を負う。

2.魂の導き手としての王(ラトゥ)

 「王」とは、指導者個々の魂なのである。カラトンとはラトゥの魂を持つ指導者たちの座である。現在の状況に照らせば、中央政府が、すべての民衆に安寧をもたらすために誠実、関係性,一貫性をもって政策を執行し、立案する者であるならば「王」であるといえよう。であるから、「王」とは、すべての社会構成員に対して、安寧を真摯に考察し、庇護を与える指導者たる精神の実態化であるといえる。民衆の安寧を実現し得る指導者こそが、王の魂を持つ者なのである。

 ここにおいて、カラトンとは王の座であり、住むところである。これこそがク・ラトゥアン・アンKe-ratuan-an (王の為すべきこと)の行われる場所である。このクラトゥアンの遂行のため、安寧を目指す民衆の経済活動を、政策として施行する。こうしてカラトンは政治の中心として認識される。それは、民衆の利益を多大にならしめるための行為の意思決定を知らしめる場である。

 王国時代、カラトンは王の住処であり、権力の中心であり、政策の発信地でもあった。度重なる時代の変遷と経済の発展に伴って、カラトンは、もはや権力の中心ではなくなったが、文化を保護する器であり、その特性・精神性を世界と一体化させる指導的存在である。

(つづく)
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by gatotkaca | 2011-10-01 00:09 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンと宮廷文化 スモディニングラト その1

 「ワヤン藝術の価値」Nlai-nilai Seni Pewayangan :Dahara Prize Semarang 1993 という本を読んでいます。その中からグナワン・スモディニングラト氏の論文「ワヤンと宮廷文化ーー民衆の豊穣な生活を実現させる倫理」を拙訳でご紹介いたします。結構長いのと、ジャワ語の専門用語(?)が頻繁に出るので、でちょっとずつ紹介します。


ワヤンと宮廷文化
民衆の豊穣な生活を実現させる倫理

グナワン・スモディニングラト

「まずは、ドゥウォロワティの宮殿は壮麗なる門に囲まれてあることが語られる。かの国は威厳あたりに周知にして、高貴なる重みを持ち、大海を擁し、山々を背負い、肥沃にして富豊か、平和にして安寧なり。ドゥウォロワティの王はタンウイトとして拝跪される臣民の守護者である。サマイトとは国の安寧の護り手なること。ダルモイトとは宗教の護り手なること。ソロイトは王宮を守護する兵の護り手なることである。

 王の善行のゆえに、つねに貧しい者は援助を与えられ、悲しみは喜びにかわり、病は癒され、怒りもまた遠ざけられ、高位に昇って行く。

 聖なる王は思索を続け、その思考は内心(kawula alit)に停めおく。未だドゥウォロワティ国で主君の前に進み出る者はない。」
(原文ジャワ語)
 

Ⅰ.はじめに

 ワヤンの物語の場面、第一のジェントゥラン、ドゥウォロワティ(ドロワティ)国の宮廷の場を抜粋した。人々の憧れる国の様子が描かれる。人間の生活の器としての国である。国は肥沃で、活気があり、豊かである。それは民衆の利益を護り、精神と肉体に指針を与え、すべての人々に安寧を保証する、賢明なるひとりの「王」によって導かれている。王はカウロ・アリット Kawula alit (小さき自分自身)の重要性を理解し、不滅の世界に平和をもたらす正義のあり方、ハムマユ・アユニン・バウォノ Hamemayu Hayuning Bawono* までも熟知している。

{*訳注:Memayu Hayuning Bawono
 Memayuは、美しさ、美麗、幸福を意味するHayuの語から派生した言葉で、接頭辞Maが付いて、Mamayuとなり、美しくする、装飾する、安寧を保つといった意味となる。この語はしばしばムマユ Memayuと発音される。
 Hayuningの語はhayuから派生した語であり、ning(〜nya)がついて所有代名詞となる。よってMemayu hayuning は、その美しさ、その美麗さ、その幸福・安寧となり、意訳すれば、安寧・幸福・繁栄させる、ことを意味する。
 Bawonoの語は、魂や精神的世界を意味する。また外面的、身体的意味合いではブウォノBuwonoの語が用いられる。バウォノは三種の意味からなる。

●バウォノ・アリット Bawono Alit(小さい):個人と家族を意味する。
●バウォノ・アグン Bawono Agung(大きい):共同体、民族、国家、国際社会(グローバル)を意味する。
●バウォノ・ラングン Bawono Langgeng(永遠)は死後の世界である。

 よってムマユ・アユニン・バウォノを意訳すれば、生・世界の幸福・喜び・安寧が保たれる、ということになる。
 ムマユ・アユニン・バウォノをこのように理解することも出来る。すべての人間の魂と肉体は、宇宙のエネルギーのバランスによって、相互に関連・影響し合う。それは我々の魂に欲望としてのエネルギーを与える。そしてそれらは分つことが出来ないのである。}

 ワヤンは人間の生の絵解きとなる。それは個人のみならず、人のモラルを良質な方法で集合・集積し、人間の生にとって安寧と平穏をもたらす、形式、比喩(sanepa)、教育(piwulang)そして指針(pituduh)における基準となる。

 ワヤンは、ラマヤナとマハバラタの時代からジャワ王国、そして独立革命の時代にいたるまで、人間の生そして文明と一体化して進化した。また、インドネシアでは(ジャワ以外)でもワヤンは、物語の内容と表現方法を各地域の状況に合わせて発展して来た。

 ワヤンの物語は人間が生きるための全ての要素を内包する。それは生の必要性を満たすための、個人(ミクロ)と集団(マクロ、国家,国際的)の行動であり、情報選択、生産活動の管理、利益の分配から、一国家における情報管理ならびに国家の指導部の特性、さらに高度なレベルでは「トゥハン・ヤン・マハ・エサ(唯一神)」に関することも含まれる。ゆえにワヤンは、「生の倫理」として看做されるのである。その「生の倫理」は、高度な価値を伴って文化の指針となるのである。

 「生の倫理」としてのワヤンは王の文化でもある。王とは民族の指導者であり、国家の指導者である。一方、カラトゥアン karatuan はワヤン文化の源である。ワヤン文化の源、中心としてのカラトゥアンの維持は、即ち高レベルの生の倫理の維持という意味合いを持つこととなる。とはいえ、このようなワヤン文化の維持は、真実なる生の倫理、指針としてのワヤンの性質、意味に対する共通の理解が必要とされるのである。
(つづく)
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by gatotkaca | 2011-09-30 01:50 | 影絵・ワヤン | Comments(0)