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木から落ちた猿

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ジャワのバタリ・ドゥルゴ 補足2 用語編

ラジャス、タマス、サットヴァ
アーユルヴェーダ等で解かれるトリ・グナ(心を左右する3つの性質)はサットヴァ、ラジャス、タマスの3つに分類される。
サットヴァ=純質は汚れないものであるから、輝き照らし、患いのないものである。 それは幸福との結合と知識との結合によって束縛する。
ラジャス=激質はラーガ(激情)を本性とし、渇愛と執着とを生ずるものであると知れ。 それは、行為との結合によって主体(個我)を束縛する。
タマス=一方、暗質は無知から生じ、一切の主体を迷わすものであると知れ。 それは、怠慢、怠惰、睡眠によって束縛する。
純質は幸福と結合させ、激質は行為と結合させる。 一方、暗質は知識を覆って、怠慢と結合させる。(※以上バガヴァッド・ギーター(上村勝彦訳) からの引用)

シャクティ派
 シヴァの神妃デーヴィーの崇拝に基づくシャクティ(性力)信仰を中心に、輪座礼拝などの礼拝儀礼を持つ宗派。この派の聖典はタントラ Tantraである。

プラーナ
デーヴィー・マハートミヤ

プラーナは「古い物語」「古伝説」の意で、「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」の二大叙事詩と並んでヒンドゥー教の聖典とみなされる文献群のことである。ヒンドゥー神話・伝説の宝庫ともいえる。
「デーヴィー・マハートミヤ」は五、六世紀ころに編纂され、全プラーナ中でも最古のもののひとつ、「マールカンディーヤ・プラーナ」の第八十一章から九十三章に挿入されている。デーヴィーの名前の一つに因んで「チャンディー」とも呼ばれる。女神の誕生から、女神が神々や人間の敵を打ち倒す主題が中心であり、女神崇拝の根本聖典である。

カカウィン
 「カウィ」と呼ばれるジャワ古語によって書かれた長編詩。サンスクリット文学から派生した韻律と拍を用いる。方言・口語よりも形式化された文語体を用い、9〜16世紀にわたり中部、東部ジャワの宮廷で成立した。

キドゥン
 古代のジャワ韻文の一形態。外来のサンスクリット韻律ではなく、ジャワ語韻律を使用する点で、カカウィンとは異なる。主題は歴史的事象に基づく。

パンチャ・マカラ
 シャクティ派の礼拝儀礼のひとつ、輪座礼拝に用いられる。
 輪座礼拝とは、チャクラープージャーと呼ばれるもので、同数の男女が夜中ひそかに集まって輪になって座り、五M字の作法によって礼拝する。五Mとは、マディヤ(酒)、マーンサ(肉)、マツヤ(魚)、ムードラ(印契)、マイトゥナ(性交)であり、深夜に集った男女はこの五Mで表される供物を捧げて女神を礼拝し、酒を飲み、肉や魚を食べ、カーストの区別なく、近親の関係もすべて無視して入り乱れて性交をおこなう。この派にとってマイトゥナ(性交)は重大な意味をもっており、ただリンガ(男性器)とヨーニ(女性器)の合一ではなく、シャクティとの合一であるとされる。人はこのようにして解脱に導かれるのであり、その状態は男性神と女性神(シヴァとパールヴァーティー)の交合であらわされる、と説かれる。

ヨーギニー
 魔女の一種。ドゥルガーの従者で、ドゥルガー自身もヨーギニーと呼ばれる。彼女は自分と夫シヴァに奉仕させるためにヨーギニーを造り出したといわれる。その数は八人とも、六十人とも、六十四、六十五ともいわれる。
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by gatotkaca | 2011-07-14 13:45 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ジャワのバタリ・ドゥルゴ 補足1 図像編

 現代インド、神様絵はがきのマヒシャースラマルディニー。ドゥルガーの足下で殺されようとしているのが、水牛の頭を持つアスラ、マヒシャースラである(よく見ると角がはえている)。女神の容貌は美しく表現されている。
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 アスラが人間の顔の場合、退治されているのは魔人ニシュムバといい、別のアスラである。インドの図像学上は、この場合、マヒシャースラマルディニーとは呼ばれず、ニシュムバスーダニー(ニシュムバを殺すもの)と呼ばれる。この場合もドゥルガーは美しい。インドではドゥルガーの容貌が怪物化することはない。
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 下の2点がロロ・ジョングラン(プランバナン)のドゥルゴ。かたわらのアスラは、いづれも人間の容貌である。正確にはニシュムバスーダニーなのだと思われるが、インドネシアでは一般に(博物館等の解説でも)同様の図像をマヒシャースラマルディニーと呼んでいるようである。ここでのドゥルゴはまだ美しい女神の姿である。
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 これはMuseum Nasional (国立博物館 ジャカルタ)のNo.152である。口元に牙があるのかなぁ。よくわからない。顔はとくに怪物化していないように思える。
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 これはチャンディ・シンゴサリのレリーフ破片である。たしかに牙があるのだが、よくみるとペニスもある。これはバイラヴァ Bhairava、すなわちシヴァである。わたしはまだドゥルゴ像は確認できていない。もしかするとハリアニ氏はこれをドゥルゴと勘違いしているのでは?とも思うがよくわからない。ワヤンのラコン「ムルウォ・コロ」の主役、ブトロ・グル(シヴァ)の息子、ブトロ・コロとバイラヴァ像は関係しているように思えるのでここで紹介した。(コロは羅刹である)
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 下は1390年ごろ建造されたチャンディ・スロウォノ Candi Surowono (モジョパイト時代)にあるレリーフで、スドモロ物語の一場面が描かれている。ここでは、マハーバーラタの主役パンダワ5王子の末っ子、サデウォがラスクシ(羅刹女)の姿になったドゥルゴをルワット(魔除け)して、元の美しいウモの姿に戻す。中央の木の右に跪いているのがドゥルゴ、彼女の前に立っているのがサデウォである。つまりスドモロ物語成立当時になると少なくとも民間信仰では、美しいうちはウモ、羅刹化するとドゥルゴと呼ばれることになる。
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 (次回は用語説明)
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by gatotkaca | 2011-07-13 03:25 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ジャワのバタリ・ドゥルゴ その3

(つづき)

ドゥルゴの概念の変遷とその理由
 上記資料に基づき、われわれはジャワのドゥルゴが救済者としての女神である理由が、ドゥルガー・マヒシャースラマルディニー(マヒシャースラを殲滅するドゥルガー)として表されたドルゴにあることがわかる。しかし、モジョパイト時代には、ドゥルガー・マヒシャースラマルディニーが表現される一方で、実は自身の罪によって呪われたウモであるドゥルゴ・ラスクシという、別のドゥルゴが現れる。いかなる理由でモジョパイト時代に、ひじょうにことなる相貌のふたつのドゥルゴがあらわれるのか、またその背景は?
 その問題を解決するために、まずは議論される文学作品の種類に注意してみよう。過去の著者の調査において、アーガマ・シヴァ(シヴァ派の教典)中の高位の女神ドゥルガーが、カカウィン(ジャワ古語の書)の文学作品としての書において現れる。カカウィン・ガトコチョスロヨ、カカウィン・コロヨノワナントコ、カカウィン・スタソマ、カカウィン・アルジュノウィジョヨにおいて。またカカウィンではないが、チャロナランの書において。一方、ドゥルゴ・ラスクシは中世ジャワのキドゥンと散文の作品に見いだせる。ズートムルデル(訳注:Petrus Josephus Zoetmulder ドイツ人 1906-1995 ジャワ古語研究者)とエディ・スディヨワティ (訳注:Edi Sedyawati 1938- インドネシア人 作家・考古学者)はかつて、ジャワ古語と中世ジャワ語の著者たちを彼らを取り巻く環境に基づいてにグループ化した。その文学作品群はふたつのグループに分けられる。ひとつは宮廷(クラトン内)文学であり、カカウィンの類いが含まれる。ふたつめは宮廷外の文学で、キタブ・タントゥ・パンゲランやコラワスロモが含まれる。このふたつのキドゥン以外でも、キドゥン型の書は宮廷外のものと推測される。宮廷文学はオリジナル=インド伝承を多く参照しており、一方宮廷外の文学はインド由来の素材を自由気ままに解釈する。
 前時代およびインド版とひじょうに異なるドゥルゴの概念が生じたのはなぜか?これは、宮廷外の環境にある著者が神・女神の概念にたいして独自の自由解釈を施した結果であるといえよう。キタブ・タントゥ・パンゲランの著者の「意図」に合致させれば、インドの神々はジャワ人の神々となるからである。そのキタブの物語からわれわれは、マハメル山(メール山)がインドのジャムブドヴィーパ(閻浮提洲えんぶだいしゅう)からジャワに移動させられていることがわかる。神々のおわすところであるマハメル山頂が、神々の住む山頂をインドからジャワに移されて、神々もまた移動したのである。そう考えれば、宮廷外の文学作品における多くの神話が、インドにその源泉を見いだせないことも不思議ではない。
 しばしば夫に対して忠実でない行為をなすウモという、シワの「神妃」を害するような解釈もそのひとつである。これはひじょうに驚くべきことである。というのも、インドではウマーあるいはパールヴァティーは、夫に対してひじょうに忠実で、インド女性の規範となるものだからである。なぜモジョパイト時代に驚くべき変化が生じたのであろうか?この変化はおそらく、女神、ドゥルガー・カーリーを崇めるタントラの密教的性格を持つ儀式の目的に対する誤った理解の結果であろう。タントラの儀式のなかでジャワで著名なもののひとつはパンチャ・マカラであろう。その儀式においてサダーカ sadhaka(弟子たち)は、ひとりの師(チャクラスワミン Cakraswamin)に導かれて輪座する。儀式は人里離れた場所、いちばん良いのは墓所のなかである、で夜半に行われる。良き師、また弟子はそれぞれ女性とペアになり、5 maを行う。5 maとはマツヤ(魚)、マーンサ(肉)、ムドラー(小麦 訳注:通常ムドラー、ムードラは印契;いんげい〈両手で示すジェスチャーによって、ある意味を象徴的に表現するもの。仏像がしめす印と同義〉 を指すはずである)、マディヤ(ぶどう 訳注:通常は酒)、そしてマイトゥナ(性交)である。ペアの女性達は師と弟子達自身の妻(スヴァーキヤ swakiya)とされる。妻が同意しない時は、各々のペアは儀式において定められたペアであることを任命されなければならない。これはシヴァ・ヴィヴァーハと呼ばれる結婚の儀式のひとつである。同じく定められた階級に達したサダーカ(弟子)にのみ許される儀式がある。これは差別する者がないように行われる。パンチャ・マカラ・プージャの儀式の目的は、人間が自分自身を制御することができるようになることである。5つの事象は正確に行われなければならない、そして喜びの絶頂において、自身がバイラワとバイラウィとしての神と女神であることを認識するのである。墓場が選択させるのは、それが解脱への「扉」であるからであり、墓場すなわち解脱への扉の見張りこそがカーリーである。タントラ派の残照がドゥルゴ・ラニニの周辺にも感じられる。中でも墓を住居とすることは、その最愛の従者たる名カリカ(カーリー)、獣の頭の怪物達、人間の姿をした64人の女神たちヨーギニー(ドゥルガーの従者である女魔術師)を思い起こさせる。彼らはつねにカーリーを囲んでいる。
 密教的性質をもつタントラ派の儀式は、その執行、目的、各々の行為の意味が「外部の者」には理解できないのである。その一例として、シンゴサリ王、クルタヌガラ王について語るキタブ・パララトンの最後に語られる儀式の一部の行為である、ピジェル・アナンダ・サジョン pijer anandah sajongがある。同様にタントラ派の儀式の密教的性質は誤認を生じさせる。ドゥルガー・カーリーは樹液を得て崇められ、夫に忠実でない女神となり、他の神・女神らと同列に並ぶにふさわしくないと考えられるにいたった。インドの(多分ジャワでも)タントラ派以外の儀式においても、象徴性を内包する生贄の血が使用される。ドゥルガーが悪魔的性質をもつ女神であると考えられているからである。ドゥルガーが悪魔的な性質を持つ女神であるとの考えは、多分モジョパイト時代以前の古代ジャワの共同体にも存在した。ジャワのプラサティ Prasati(王達の公式記録)の最終部にあるサパタ sapatha(誓い)と呼ばれる部分は、神々,精霊たち、支配者の風向き、祖先の霊その他への呼びかけである。サパタの目的は王、臣、民衆によって従われる碑文の決定であった。そのサパタにおいてドゥルゴは、人間を取り巻く魔物や精霊達と共に呼ばれ、碑文の決定を犯す人間に罰を与えるよう乞われている。いくつかのモジョパイト時代のドゥルガー・マヒシャースラマルディニー像が牙を持っているのを見ても驚くことはないのである。
 同様にシヴァのシャクティ(神妃)としてのドゥルゴが、初めは人間を助ける女神として考えられていたのが、悪魔的性質を持つ女神として誤解され、ヒンドゥー・タントラの儀式において崇められた。「(タントラ)外部の者」によるタントラ派の儀式に対する誤解が原因となり、「堕落した」ドゥルゴ像は悪しき性格の、墓に住む、精霊の女王たるラスクシとなった。同種の彫像は宮廷外の環境で特に肥大し、ヒンドゥー諸王国の消滅の時まで衰えることはなかった。ラスクシのドゥルゴ像の姿はワヤンの物語群にも影響を与え、ワヤンの物語のバタリ・ドゥルゴ、またパスンダン地方(西ジャワ)でのグドゥン・プルモニを生み出したのである。(了)

 (補足説明等は次回)
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by gatotkaca | 2011-07-12 10:11 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ジャワのバタリ・ドゥルゴ その2

(前回のつづき)

モジョパイト時代のドゥルガー
 ドウルガー・マヒシャースラマルディニー像の他に、モジョパイト時代に突如、マヒシャースラマルディニーとはその相貌、背景、性質もひじょうに異なるドゥルガー像が現れる。このモジョパイト時代に現れるドゥルガーは、もとは美しい姿のウマーであったのが、重い罪を犯した罰としてラスクシ(羅刹女)となる。羅刹女のドゥルガーの考古学的記録は、クディリのコタ・パレ付近にあるチャンディ・テゥガワンギの壁面、ブリタール市近くのチャンディ・パナタランの壁面、そしてラウ山の西方に存するチャンディ・スク寺院群の石壁に見いだせる。その諸チャンディの浮き彫りにあるドゥルガーは、巨大な身体を持ち、長い髪はちぢれ(ギンバル gimbal)、目を見開き、大きな鼻、分厚い唇に牙を持つが、瀟酒な衣服をまとい、また羅刹女姿の娘達に付き従われている。彼女の周りには奇妙で恐ろしげないくつかの顔があり、数頭の獣の顔を持つ怪物たちがいる。*訳注・以下神々の名はジャワ音で表記する。そろそろジャワ化しはじめるから。
 モジョパイト末期、あるいはモジョパイト崩壊後のジャワ古語あるいは中世ジャワ語の文学作品の諸本を繰っていくと、羅刹女としてのドゥルゴのキャラクターは、過ちを犯したことに対してシワ(ブトロ・グル)、または他の者から呪われ、強制されたウマーの姿に他ならない。その罪をつぐなうために、ウモはドゥルゴ、しばしばラニニとも呼ばれる、の姿にかえられ、クセトロ・ゴンド・マユと呼ばれる墓場に住む、またはパタラ(地下の世界)で12年の苦行をしなければならなくなる。以下に呪われたウモの物語を概説する。
 1.キドゥン(歌)・スドモロにおいて、ブラフマと戯れたウモは、バトロ・グルによって呪われ、ラスクシとなり、ドゥルゴまたはラニニの名が与えられた。彼女は墓場、すなわちカセトロ・ゴンドマユに住まねばならず、精霊達の女王となる。12年の後、彼女はサデウォの身体を借りたシワ(ブトル・グル)によってルワット(リヌカット)=魔除けされる。
 2.タントゥ・パンゲラランの書において、ウモはその息子クマラに対しておおいに怒り、クマラは彼女に食われてしまった。この卑しい行為はバトロ・グルによって呪われる。その怒りで咎められたウモはラスクシ・ドゥルゴとなる。彼女は罪を償うため、パタラで12年間苦行することを命じられる。
 3.キタブ・コラワス・ロモにおいて、ウモはガネシャ(ブトロ・ゴノ)が父(ブトロ・グル)から与えられた予言の書を引き裂いた。この書物で人は、過ぎ去った過去のみならず、来るべき未来も読むことができるのである。ウモはゴノに彼女の未来を予言させようとしたが、突然、彼女の過去の恥ずべき行い、彼女がかつて太陽神とひとりの牛飼いとの不誠実な戯れをしたことを読まれた。恥辱と怒りのゆえ、ゴノの書物は引き裂かれた。すると突如ウモはラスクシ・ドゥルゴとなった。ゴノは追いかけられ殺されようとした。彼はかくまってもらおうと、父のもとに逃げた。シワの助言を得たバトロ・ゴノは、デウィ・サラスワティ、デウィ・サウィトリ、デウィ・スリ(ラクスミ)の助けをかりてドゥルゴを魔除け(ルワット)した。
 4.キタブ・スリ・タンジュンにおいては、ウモがドゥルゴ・ラニニとなったことは語られていない。この書においては、ただドゥルゴは罪を犯したので、罰を受けたとのみ語られる。

 興味深いのは、ドゥルゴは高位の女神ではなくなったとはいえ、ウモへの呪いは容姿に対しだけであり、人々の救済者としての性質はいまだ優位にあるということだ。一例あげれば、キドゥン・スリ・タンジュンにおいて、ドゥルゴ・ラニニは、シドパクソとスリ・タンジュンの夫妻をもとのさやに収める手助けをする。同様にモジョパイト末期のキドゥンのひとつ、キドゥン・マルゴスモロにおいても、ドゥルゴ・ラニニは、双方の両親から命令で別れさせられようとする恋人達を助けるのである。

 (つづく)
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by gatotkaca | 2011-07-11 12:47 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ジャワのバタリ・ドゥルゴ その1

 インド神話で著名なドゥルガー女神(シヴァ神の妃の一名)は、ジャワに入って、ドウルゴと呼ばれる。ドゥルゴはワヤン・クリの演目でも活躍し、相当数のドゥルゴ関連の演目が存在する。
 その最も著名な演目は「ムルウォ・コロ Muruwa Kala」と「スドモロ Sudamala」であろう。この2演目はバリのワヤン・クリにもあり、ジャワ・ヒンドゥーとジャワ土着信仰の混成の痕跡を残し重要である。
 ワヤン専門雑誌「チュムポロ Cempala」のムルウォコロ・ルワタン特集号(1995)にジャワにおけるドゥルガー像の変遷を考察した論文があったので、紹介したい。その後この論文をふまえて、ワヤンの演目におけるドゥルゴのキャラクターを考えてみたい。
 というわけで、著作権違反にならぬよう以下は「引用」(全文だけど)と解していただきたい。(訴えないでね。)結構長いので、今回はその1ということで。なお訳は中辻の拙訳、原文はインドネシア語である。

ジャワのバタリ・ドゥルゴーー歴史的論評
ハリアニ・サンティコ Hariani Santiko

ドゥルガー・マヒシャースラマルディニー

 ジャワでシヴァ派の特徴をもった寺院を訪問すると、時折、北面した壁や広間に置かれた女神の像に出会うことがある。一例をあげれば、そのような女神は、シワ・プランバナン寺院の北面の広間(ロロ・ジョングランと地元ではよばれている)にも見いだすことができる(ほっそりとした娘の姿で)。その女神の像は、マヒシャースラマルディニー、すなわちシヴァのシャクティ(神妃)であるドゥルガーがマヒシャースラを殲滅する姿を象ったものに他ならない。一般的には美しい容貌で表現される女神だが、モジョパイト時代のドゥルガーは例外的に牙を持ったものとして表現される。ドゥルガーは宝石で装飾された衣服をまとい、4〜8本の腕をもち、その主立った手には武器を持っている。右、または左に向いて横たわる水牛の背の上に立ち、水牛の首、あるいは頭には、小人の姿のアスラが立つか、座っているかする。インドにおけるドゥルガーはつねにヴァハーナ(乗り物)として一頭の獅子を伴うが、ジャワのドゥルガーでは獅子はまれである。例外として、二つの像があり、ひとつ国立博物館所蔵のNo.152、そしてもうひとつはチャンディ・シンゴサリのレリーフの破片にある。ドゥルガー・マヒシャースラマルディニーの像はジャワでは多数見いだせるが、その大部分はどの寺院からのものなのか分っていない。その特徴として知られるのは、最も古い像が8世紀頃のものであり、もっとも新しいものは15世紀のものであるということだ。
 ドゥルガとは何者であり、また何故水牛の背に乗って表されるのであろうか?ヒンドゥー教において、神々はその「特性」を為すために必要とされる支配力やエネルギーを持つものとして表現される。超能力ともいえるこのエネルギーはつねに、神々の配偶者(妻)として具体化される。例をあげれば、シヴァのシャクティ(妻・超能力の象徴)はパールヴァーティー、ドゥルガー、カーリーであり、ヴィシュヌのシャクティはラクシュミー、ブラフマーではサラスヴァティーである。シャクティは信者たちにとって重要で、ことにシヴァ神のシャクティは様々な外貌で祀られる。シヴァの聖なる相はパールヴァティあるいはウマーとして顕現し、憤怒、怒りの相はドゥルガーとして、残酷、厳格さの相はカーリーとして顕現する。それぞれの相は各々ことなる目的で崇拝される。とはいえ、怒り(ドゥルガー)と残酷さ(カーリー)の相はシャクタ・タントラやシヴァ・タントラ派では、しばしば混成する。ドゥルガーにはしばしばカーリーの性質が含まれるからである。
 考古学的証拠に基づいて、シヴァのシャクティの怒りの相、ドゥルガーはふたつの異なった相で信仰されることが多い。プラーナやアーガマの諸本によれば、ドゥルガーは良き人間の救済者であると考えられている。彼らはモクシャ(解脱)を達成することを望むが、その人生において困難と遭遇する。例えば、戦いにおいて敵によって脅かさる、盗みを働く、重病におちいる、愛する者とのわかれ、餓え、などなど。ドウルガーの救済者としての役割は、「デーヴィー・マハートミヤ」におさめられた、マヒシャースラを殲滅するドゥルガーの物語に象徴される。以下にその概略を述べる。
 アスラたちは、その王、雄の水牛の姿をしたマヒシャースラに率いられ、しばしば神々を悩ませた。ある日、インドラとブラフマーに連れられた神々は、シヴァ神を訪問した。その時シヴァ神は、ヴィシュヌ神とおしゃべりしていた。神々の訴えを聞いたシヴァ神はおおいに怒り、その顔から灼熱の光を放った。同様にヴィシュヌの顔からも、また同席した神々の顔からも熱線が放たれ、巨大な火山を作り出した。突然その山はひじょうに美しい女神に変わった。彼女こそがドゥルガーであり、その名はチャンディカあるいはチャンディとしても知られる。神々はドゥルガーを見ておおいに喜び、それぞれの神が、武器と装飾品を授けた。そしてドゥルガーは一頭の雄獅子に乗って戦いに赴いた。アスラの軍と指揮官たちはサン・デウィ(聖なる女神)の手に殺され、マヒシャースラがドゥルガーと対峙した。激しい戦いとなり、マヒシャースラは何度も変身し、最後には巨大で残忍な雄の水牛の正体を現した。水牛の首にドゥルガーが槍を突き刺すと、その傷が突如、人の姿のアスラになり、サン・デウィを攻撃した。しかし、ドゥルガーはその超能力でアスラを征服したのである。
 アスラを殲滅するドゥルガー(ドゥルガー・マヒシャースラマルディニー)はインドのシヴァ寺院やまた、シャクティ派の寺院、そして東南アジアのシヴァ寺院(インドネシアの諸チャンディを含む)に多く見いだされる。
 ドゥルガーの救済者としての性格は、上記地域で傑出しているが、しかし既に述べたクロド(憤怒)の相、ならびにクルロ(残虐性)の相はしばしば混成し、そのため全き象徴たるタントラ派の諸儀式においてドゥルガー(ドゥルガー・カーリー)が崇拝される。その儀式においてドゥルガーは、サン・デウィへの捧げものとしての羊や水牛といった動物達の血の犠牲をもって崇められる。タントラ派において血は真実ラジャスの象徴である。ラジャスとは人間の持つ特質(性質)、サットヴァ、ラジャス、タマス、(それぞれ白、赤,黒の色で象徴される)のひとつで、行動・力強さそして受動・無関心の性質に相当する。モークシャ(解脱・解放)に至るため、人間は最終的には二つの性質、すなわちラジャスとタマスを消滅させなければならない。ドゥルガー・カーリーの助けを借りて、人間はその二つの性質を消滅させなければならない。それゆえドゥルガーは消滅させられるべきラジャスを象徴する、血(赤)をもって崇められるのである。秘教的タントラの儀式においては、さらに多くの象徴があり、このことがしばしば、崇められるべきドゥルガー・カーリーの性質に対する誤解を生み出す。

                      (つづく)
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by gatotkaca | 2011-07-10 23:15 | 影絵・ワヤン | Comments(0)