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木から落ちた猿

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8世紀から15世紀の王たちの戦略 その2

 奇襲以外の戦略として、会戦での戦略もある。正面きって対峙した場合の戦略である。ジャワ古語文学作品で描かれる会戦では、軍は太鼓の合図で戦場に進撃する。例として挙げられるのは、「カカウィン・アルジュナ・ヴィヴァーハ」の23.2~3スタンザ〈原文 pupuh 詩節〉である。そこでは兵士たちはグンダン gendang 〈両面太鼓の一種〉、クティプン ketipung (トランペット)、ゴング、そしてタムブール tambur 〈太鼓の一種〉の轟音に嬉々として進撃する(プルボチョロコ Poerbatjaraka 1926:45–46 、ウィルヨマルトノ Wiryamartana 1990:104, 160 )。

 戦闘の間中、打楽器の音が途切れることなく鳴り響く。25.5スタンザでは剣戟や象たちの衝突するバシバシいう音で、もはや騒がしい銅鑼や太鼓の音さえも聞こえなくなる、と描かれている。さらに、攻撃する人々の魂を吐き出すようなどよめき、嘆き、叫び声が重なる(プルボチョロコ Poerbatjaraka 1926:49; ウィルヨマルトノ Wiryamartana 1990:107, 164 )。

 打楽器を伴って進軍する軍勢の姿は、チャンディ・パナタラン Candi Panataran (12~14世紀)の壁面にも描かれている。ラーマーヤナ Rāmayana 物語を描いたレリーフでは、アルンコ Alengka のラクササ〈raksasa 羅刹〉の軍勢と戦闘する猿の軍勢が見られ、猿の軍勢の中で二頭の猿がいくつかのゴングを打ち鳴らしている姿が描かれている。

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J.L.A. Brandes (1904)
ゴングを持つ猿の兵

 こういった会戦は9世紀に起こったラカイ・ピカタン Rakai Pikatan (850–856年) とラカイ・ワライン・プ・クムビヨニ Rakai Walaing Pu Kumbhayoni の、マタラーム王国王位争奪戦において見出すことができる。778年(856年)のプラサスティ・シワグルハ Siwagěrha によれば、この戦争は一年の間続いたという。この戦いでは、ラカイ・ピカタンの末子、ラカイ・カユワンギ・ディヤ・ロカパーラ Rakai Kayuwangi Dyah Lokapāla (856–882) が戦闘指揮官としてラカイ・ワライン・プ・クムビヨニの軍と勇敢に戦った。ラカイ・カユワンギは一旦、ラカイ・ワラインを撃退した。そこでラカイ・ワラインはラトゥ・ボコ Ratu Baka の丘陵に砦を築いたのだった。その丘陵地帯は戦略的に優れた場所であったので、ラカイ・カユワンギは彼の軍をなかなか殲滅できなかったが、粘り強い戦いの末、ついにラトゥ・ボコの丘でワカイ・ワラインの防衛線を突破することができたのである。


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会戦を描いたボロブドゥールの浮き彫り(パネル1.b.47)
 
 会戦の他の例として、パルグルグ parěgrěg 事件として知られる兄弟戦争がある。この戦争は、ハヤム・ウルク Hayam Wuruk (1350–1389 M.) 王の甥のひとりでクダトン・クロン kedaton kulon の統治者、ウィクラマワルッダナ Wikramawarddhana 、またの名ブラ・ヒヤン・ウィセサ Bhra Hyang Wiśesa (1389–1400 M.) とクダトン・ウェタン kedaton wetan の統治者でハヤム・ウルクの妻妾の子、ブレ・ウィラブーミ Bhre Wirabhūmi の間に起こった。「パララトンの書」によれば、サカ歴1323年(1401年)に二人の間に確執が起こり、3年後には紛争が最高潮に達し、ついには戦争になった。当初はウィクラマワルッダナがブレ・ウィラブーミを敗ったが、ブレ・トゥマペル・ブラ・ヒヤン・パラメスワラ Bhre Tumapel Bhra Hyang Parameśwara の支援を得たブレ・ウィラブーミが、サカ歴1328年(1406年)が勝利した。この事件は、中国のチェン・ツー Ch’ěng-tsu 帝から1405年ジャワに派遣されたチェン・ホー Chěng-Ho 提督も記録している〈 Chěng-Ho は鄭和 Zheng He のこと。チェン・ツー帝は永楽帝のことであろうが、永楽帝はYongle、諱であれば朱棣(しゅてい) Zhu Di である。ここでCh’ěng-tsu と表記されている理由は不明〉。一年後、鄭和はジャワで二人の王が争い、東の王が敗れ、その宮廷が滅ぼされたと記している。その戦争当時、中国の使節団は東の王国に身を寄せており、170名の中国兵が殺されたという。中国の皇帝はおおいに怒り、ウィクラマワルッダナに6万タイル tail の金を要求した。1408年、鄭和が再びジャワに派遣された際、彼は1万タイルの金を受け取った。ウィクラマワルッダナの差し出した金は要求額に達してはいなかったが、中国の皇帝は怒りをおさめ、その金を返却した。重要なのは金ではなく、ウィクラマワルッダナが謝罪することであったからである(グルーネヴァルト Groeneveldt 1960:36–37 )。

 すでに述べたように、ジャワ古語文学において、会戦の戦略陣形はヴューハと呼ばれる。たとえば、カカウィン・バーラタユーッダでは10種類のヴューハが言及されている。

1. ウキル・サガラ・ヴューハ wukir sagara wyūha (丘〈山〉と海の陣形)
2. ヴァジラティクシュナ・ヴューハ wajratikśna wyūha (雷の陣形)
3. カガパティ/ガルダ・ヴューハ kagapati/garuda wyūha (ガルーダの陣形)
4. ガジェンドラマッタ/ガジャマッタ・ヴューハ gajendramatta/gajamatta wyūha (荒れ狂う象の陣形)
5. チャクラ・ヴューハ cakra wyūha (チャクラ〈円盤〉の陣形)
6. マカラ・ヴューハ makara wyūha (マカラ〈インド神話に登場する怪魚〉の陣形)
7. スーチムカ・ヴューハ sūcimukha wyūha (針の陣形)
8. パドマ・ヴューハ padma wyūha (蓮華の陣形)
9. アルダチャンドラ・ヴューハ ardhacandra wyūha (三日月の陣形)
10. カーナナ・ヴューハ kānannya wyūha (層になった円状の陣形〈森の陣形〉)
 (ウィルヨスパルト Wiryosuparto 1968:30–40 )

 カッツ Kats とウィルヨスパルトによると、カカウィン・バーラタユーッダにおいて述べられているヴューハは、カマンダカ Kamandaka 文学作品で述べられているものとは、異なるという。カマンダカの言及するヴューハは8種類である。

1. ガルダ・ヴューハ
2. シンガ・ヴューハ singha wyūha (獅子の陣形)
3. マカラ・ヴューハ
4. チャクラ・ヴューハ
5. パドマ・ヴューハ
6. ウキル・サガラ・ヴューハ
7. アルダチャンドラ・ヴューハ
8. ヴァジラティクシュナ・ヴューハ
 (ウィルヨスパルト 1968:29; カッツ Kats 1923:240 )*9

 比較すると、インドの兵法書アルタシャーストラに書かれたものと同じヴューハは四種類だけであることが分かる*
10 。その四つの陣形は、ガルダ・ヴューハ、スーチムカ・ヴューハ、ヴァジラ(ティクシャ)・ヴューハ、そしてアルダチャンドラ・ヴューハである。他のヴューハ、ウキル・サガラ・ヴューハ、ガジェンドラマッタ/ガジャマッタ・ヴューハ、パドマ・ヴューハ、チャクラ・ヴューハ、マカラ・ヴューハ、そしてカーナナ・ヴューハはアルタシャーストラには記載が無い。(表1参照)。これらのヴューハはジャワ起源の陣形である可能性が高く、後にサンスクリット語の名称が付されたと思われる。

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 ■ *9 カマンダカ文学作品で触れられていない陣形は、カッツが見出したものであり、ウィルヨスパルトは原文史料を見ること無く、カッツを引用したにすぎないと思われる。
 ■ *10 アルタシャーストラで言及されている陣形は以下の通り。:(1)ダヌンダ dańůa (鈍器の陣形)、(2)ボーガ bhoga (蛇の陣形)、(3)マヌアラ mańůala (円陣)、(4)アサムハタ asamhata (分散陣形)、(5)プラダラ pradara (突撃陣形)、(6)ウルハカ ůŕůhaka (翼を展開し、後ろに本隊を置く陣形)、(7)アサヒャ asahya (分散されない堅固な陣形)、(8) ガルーダ garuůa (ガルーダの陣形)、(9)サンジャヤ sañjaya (弓形の陣形)、(10)ウィジャヤ wijaya (弓の陣形に似るが、一部に突撃部隊を備える)、(11)ストゥーラカルナ sthūlakarńna (巨大な耳の陣形)、(12)ヴィシャーラヴィジャヤ wiśālawijaya (最強の陣形と呼ばれる。陣形はストゥーラカンナ sthūlakarńna と同形だが、正面部分が二重になっている)、(13)チャムームカ camūmukha 敵軍に二つの翼が向かい合う陣形)、(14)ジハスハースヤ jhashāsya (チャムーカ camūmukha と似た陣形で、翼が後ろに伸びる)、(15)スーチムカ sūcimukha (最後尾が針のようになった陣形)、(16)ヴァラヤ walaya (スチームカのような陣形だが、二層になっている)、(17)アジャヤ ajaya (無敗の陣形)、(18)サルパーサリーイ sarpāsarīi (蛇行する蛇の陣形)、(19)ゴームトリカ gomūtrika (牛の尿の方向の陣形)、(20)シャンダナ syandana (火を吹く車の陣形)、(21)ゴーダ godha (ワニの陣形)、(22)ヴァーリパタンタカ wāripatantaka (シャンダナと同形だが、軍の全てが象、馬、戦車から成る)、(23)サルヴァトムカ sarwatomukha (円の陣形)、(24)サルヴァトーバドゥラ sarwatobhadra (全方向に対応する陣形)、(25)アショアーニーカー ashőānīkā (8部隊から成る陣形)、(26)ヴァジラ wajra (雷の陣形)、(27)ウディヤーナカ udyānaka (4部隊から成る花園の陣形)、(28)アルダチャンドリカ ardhacandrika (三部隊から成る三日月の陣形)、(29)カルカーオーアカシュレンギ karkāőakaśrěnggi (エビの頭の陣形)、(30)アリソア ariśőa (前線が戦車と象、後列が騎馬隊の陣形)、(31)アチャラ acala (歩兵の列を配し、後列に象、騎馬隊、戦車が並ぶ陣形)、(32)シェナ śyena (ガルーダと同形の陣)、(33)アプラティハタ apratihata (騎兵、戦車が前列、後列が歩兵の陣)、(34)チャーパ chāpa (弓状の陣形)、そして(35)マディヤチャーパ madhya chāpa (中央部に主力部隊を配した弓の陣形)である(シャルマサストゥリ Sharmasastry 1923:434–435; ウィルヨスパルトWirjosuparto 1968:27–29 )。

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表1. ヴューハの種類
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 残念ながら、文献資料が限られているため(プラサスティと文学作品)、ラカイ・カユワンギがラカイ・ワライン・プ・クムビヨニに対してどのような戦略を用いたのかは分からない。ウィクラマワルッダナがブレ・ウィラブーミに用いた戦略も同様である。確かなのは彼らが戦場で特定の戦略を用いたことと、それが上述のヴューハのどれか一つであるということだけだ。

 他にはラデン・ウィジャヤ Raden Wijaya が採った戦略がある。ラデン・ウィジャヤはクルタナガラの義理の甥にあたる。アルヤ・ウィララジャの助言でジャヤカトワンがクルタナガラを殺した後、ラデン・ウィジャヤはジャヤカトワンに服従するふりをした。ジャヤカトワンの信頼を充分に得てから、彼はブランタス Brantas 川方面から攻撃してくる敵に対する防御として、トリク Trik の森一帯を所望した。後に、要望が聞き入れられると、アルヤ・ウィララジャの手助けを得て、彼はその地域を開拓し、そこをマジャパイトと名付けたのである。その一方で、着々と自軍を強化し、カディリに対抗する機会を伺っていた。マドゥラ Madura では、アルヤ・ウィララジャもマジャパイトがジャヤカトワンと戦うため、軍備を整えていたのだった。

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 ■ *11 トリク地域は東部ジャワ、カブパテン・モジョケルト Kabupaten Mojokerto のタリク Tarik 村に同定できる。

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 ジャヤカトワンに対する戦闘準備が整うのと同時期の1923年初頭、クルタナガラの使節に対する処遇に報復するため、クビライ・カーンの軍勢が到来した。彼らはすでにシンガサーリ王国が崩壊し、クルタナガラ王が死んでいることを知らなかった。ウィジャヤにとって、中国軍の到来は、ある戦略を用いるのに好都合であった。かくて彼は中国軍の司令官に使節を送り、中国軍と協力してダハを討とうと提案した。彼はまた、中国軍に使節を送る際、その山に源流を持つ川を通信路として活用した(グルーネンヴェルト Groeneveldt 1960:33 )。

 中国軍は三つの波となってダハの首都カディリに押し寄せた。第一の波は、三番目の月(4月ー5月)の頭で、中国軍はつねに外的に備えのできていたダハ軍をカリ・マス Kali mas (パ・ツィエ Pa-tsieh )河口で攻撃した。この戦闘でダハ軍は敗北を喫した。勝利の後、中国軍は二手に分かれた。一部はカリ・マス河口の警護にあたり、残りはダハに進軍した。しかしダハへ出発する前に、ラデン・ウィジャヤの使節がやって来て、マジャパイトがダハ軍の攻撃を受けているので援軍を送ってほしいと要請してきた。第三月の八日に、マジャパイトでダハ軍は敗れた。戦果に満足しなかった中国軍はダハに侵攻し、同月19日にダハを攻撃した。ジャヤカトワンはすでに準備しており、百万の軍勢で迎え撃った。激戦の末、ジャヤカトワンはついに降伏し、王族ならびに政府高官は捕らえられた(グルーネヴァルト Groeneveldt 1960:33–4; Sumadio dkk. 1993:425 )。

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ボロブドゥールのパネル1b.44、の一場面。象部隊、騎馬部隊、歩兵部隊の三部隊で編成される兵たち。

 カディリと中国の戦争後、ラデン・ウィジャヤは中国皇帝宛ての表敬の書簡を携えてマジャパイトに戻った。マジャパイトへ向かう途次、二人の高官と二百の中国兵が、彼を護衛した。途中で、彼は二人の高官を欺いて殺し、警備の兵たちを攻撃した。中国の護衛軍を敗った後、ラデン・ウィジャヤ軍は、中国軍を攻めるためにダハに戻った。この戦闘で中国軍は敗北し、ジャワ島を離れることを余儀なくされた。

 文献史料に説明は無いが、戦争の過程とラデン・ウィジャヤの行動から、ラデン・ウィジャヤが採用した戦略はサーマ・ベーダ・ダンダであった可能性がある。戦略の筋道を辿ると、当初ラデン・ウィジャヤはアルヤ・ウィララジャと共闘した。ジャヤカトワンを攻撃する同盟軍を求めたのである(サーマ)。その後中国軍を煽動し、ジャヤカトワンと敵対させた(べーダ)。そして中国軍との戦闘でジャヤカトワンが敗北した後、最後に中国軍を攻めた(ダンダ)のである。

3. むすび

 ジャワ古語時代に起こったいくつかの戦争の例を検証して分かったことは、王たちの行動の動機が復讐にある場合には、一般的に奇襲戦略が用いられるということである。ウライ王対ダルマワンサ・トゥグ、あるいはジャヤカトワン対クルタナガラのように。敵がはるかに強大であり、正面攻撃では勝てないため、奇襲が採用されたのであろう。正面きっての会戦は、強さが拮抗する兄弟戦争で起こっている。ラカイ・カユワンギ対ラカイ・ワライン・ル・クムバヨニ、あるいはウィクラマワルッダナ対ブレ・ウィラブーミのように。

 すでに述べたラデン・ウィジャヤの場合は、サーマ・ベーダ・ダンダの戦略が用いられたともかんがえられるが、実際にラデン・ウィジャヤがこの戦略を用いたのかどうかは、まだ疑問が残る。彼が戦略をあらかじめ定めていたのか、状況に応じての行動が、偶然サーマ・ベーダ・ダンダと一致したのかどうかは分からないからである。また、アルジュナ・ヴィヴァーハとニティシャーストラの二つのカカウィンを再検討してみても、サーマ・ベーダ・ダンダの具体的な姿は不明だからである。アルジュナ・ヴィヴァーハの詩節21.1には、サーマ・ベーダ・ダンダの語が見出せるが、それは〈ラークシャサ王〉ニヴァタカヴァチャ Niwatakawaca が、金銭で慰撫される和解を望まず、戦争による解決を望むのみであると語られているが、それはサーマ・ベーダ・ダンダではない。いっぽうニティシャーストラでは、サーマ・ベーダ・ダンダの実践における金銭/富(ダナ dhana )の重要性が説かれ、ダナ無くしてはサーマ・ベーダ・ダンダは成功しないとある。それゆえ、ウィルヨスパルトの、インドネシアでサーマ・ベーダ・ダンダが著名で研究されていたという仮説は、その仮説を裏付ける、より強固で正確な証拠を見出し、再考される必要があると思われる。

 戦争勃発の要因を見てみると、ジャワ古語時代の戦争原因は、生物学的要因と心理学的要因に起因する。生物学的要因では、ある物を手に入れるために競合が生じることが原因と成る。外部からの侵攻、特定の行動に対するフラストレーションである。いっぽう心理的要因は、外界に対して積極的である人間の性質に基づいている(ラピアン t.t.:5–6 )。この要因が、クルタナガラをしてヌサンタラ〈インドネシア〉の統一に向けて版図を拡張させる戦争を起こさせたのである。また王権を巡っての兄弟戦争をも起こした。その子によって導かれた、ラカイ・カユワンギとラカイ・ワライン・プ・クムバヨニの戦争や、ウィクラマワルッダナとブレ・ウィラブーミの戦争のように。いっぽう、心理学的要因はより復讐に関わっている。ウラリ王とダルマワンサ・トゥグの行動のように。

 これらの生物学的・心理的要因の双方が示すのは、ジャワ古語時代の生のあり方における関心事(利益)はコンセンサスをもって妥協することでは解決し得ないものだということである。それゆえ、一方の当事者が他方に対して強制的に獲得するべき要素なのである。

 そのような状況から、一方の当事者から他方への利益分配は紛争の形をとり、戦争となる。それは最高にして命を賭けるに値する判断基準なのである。このような紛争の本質は、古来戦争を通じて実施され、並び立ち敵対する二者間での問題解決には、交渉や機会を待つことよりも、最も効果的な出来事としてとらえられてきたのだ。

 ジャワ古語時代の戦争に関する考察から得られる結論は、戦争とは心理的・生物学的要因の双方に起因するものであり、権力(現実)と倫理(理想)の両側面にとって、つねに有益とは限らないということである。倫理的側面から、より大きな権力を求める野心を制御する必要があるのだ。しかし現実には倫理的側面は無視されてしまう。倫理的側面がつねに制裁や利益を含むさまざまな問題に直面していることを自覚する議論がされなければならない。人間の生の問題を解決することにおいて、倫理の有効性が話題になることはついぞ無かったのだから。最後に一言する。人間もしくは人間集団にとって、暴力を介して問題を解決しようとするより効果的な手段、それが戦争なのだ。

ditulis oleh: Titi Surti Nastiti
Pusat Penelitian dan Pengembangan Arkeologi Nasional


参考文献 DAFTAR PUSTAKA
Brandes, J. 1986. “Pararaton (Ken Arok) of het Boek der Koningen van Tumapel en van Majapahit. Uitgegeven en Toeglicht door J. Brandes”, VBG XLIX.
Djafar, Hasan. 1978. Girīndrawarddhana. Beberapa Masalah Majapahit Akhir. Jakarta: Yayasan Dana Pendidikan Buddhis Nalanda.
Groeneveldt, W.P. 1960. Historical Notes on Indonesia and Malaya Compiled from Chinese Sources. Jakarta: Bhratara.
Kartoatmodjo, M.M. Soekarto. 1984. “Sekitar Masalah Sejarah Kadiri Kuna”, dalam Simposium Sejarah Kadiri Kuna, Yogyakarta, 28―29 September.
Kats, J. 1923. Het Javaansche Tooneel I. Wayang Poerwa. Weltevreden.
Lapian, A.B. t.t. “Perihal Perang”. Tidak terbit.
Magetsari, Nurhadi dkk. 1979. Kamus Arkeologi Indonesia 2. Jakarta: Proyek Penelitian Bahsa dan Sastra Indonesia dan Daerah Departemen Pendidikan dan Kebudayaan.
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Sumadio, Bambang dkk. 1993. “Jaman Kuna”, dalam Marwati Djoened Poesponegoro dkk (ed.), Sejarah Nasional Indonesia II. Jakarta: P.N. Balai Pustaka.
Wirjosuparto, Sutjipto. 1968. Kakawin Bharata-Yuddha. Jakarta: Bharata.
Wiryamartana, I. Kuntara. 1990. Arjunawiwāha. Seri ILDEP. Yogyakarta: Duta Wacana University Press


カカウィン・バーラタユーッダに見られるヴューハ(ウィルトスパルト 1968;30-40 )

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ヴァジラティクシャ・ヴューハ(雷の陣形)とウキル・サガラ・ヴューハ(山と海の陣形)

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ガルーダ・ヴューハ(ガルーダ鳥の陣形)

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マカラ・ヴューハ(怪魚の陣形)とチャクラ・ヴューハ(車輪の陣形)

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パドマ・ヴューハ(蓮華の陣形)

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アルダチャンドラ・ヴューハ(三日月の陣形)

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カーナナ・ヴューハ(森の陣形)

”Strategi Perang Raja – Raja Jawa pada Abad ke 8 – 15 Masehi”
Oleh: Titi Surti Nastiti
Pusat Penelitian dan Pengembangan Arkeologi Nasional


(おわり)
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by gatotkaca | 2014-09-17 07:11 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

8世紀から15世紀の王たちの戦略 その1

●「バラタ・ユダ」にも度々登場した陣形。古代ジャワにおける陣形と王たちについての考察を紹介する。原文はここ

8世紀から15世紀の王たちの戦略
Strategi Perang Raja – Raja Jawa pada Abad ke 8 – 15 Masehi

ティティ・スルティ・ナスティティ
Oleh: Titi Surti Nastiti

国立考古学研究開発センター
Pusat Penelitian dan Pengembangan Arkeologi Nasional


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要旨 abstract

 ジャワ古語 Jawa Kuno 時代の文学作品を見ると、そこにはビューハ byūha 、wyūha と呼ばれる戦略陣形  strategi perang 〈原文語義は「戦略」であるが、文脈から「戦略陣形」もしくは「陣形」と訳す〉がすでに知られていたことがわかる。これらの文学作品で語られる十余りの陣形のうち四つはアルタシャーストラ Arthaśāstraインド)から採られており、残りのものはジャワ起源のものである。

 過去の戦争記録を見れば、ジャワの諸王国の王たちによって最も多く採用された前線の戦略を知ることができるであろう。


1. はじめに

 ジャワ古語時代の碑文プラサスティ prasasti の記録によれば、717年のマタラーム Matarām 古王国成立以来、16世紀初期のマジャパイト Mapahit 王国崩壊にいたるまで、王国間もしくは中央政権と属領間、さらには王国の内紛としての戦争がしばしば起こっている。戦争の原因は王権の争い、版図の拡張のみならず、復讐に起因するものもある。

 一般的理解では、戦争とは長期的で大規模な敵対する政治的集団の間に生じる確執ということになろう。カール・フォン・クラウゼヴィッツCarl von Clausewitz (1780-1831) によれば、戦争とは社会の発展、政治的行動であるとされる。戦争とは政治的行動としてだけでなく、継続する政策を他者へ伝播するための具体的政治的手段でもあるのだ (Lapian t.t.:1, 20)。戦争に関するいくつかの理論を見ると、そこには二通りの考え方が存在する。人間固有の生物学的・心理的要因として戦争を捉える理論と、社会とそれを規定する社会制度と関わるものとして戦争を捉える理論である。

 戦争について言えば、それは戦闘に用いられる戦略と不可分なものであろう。戦略 strategi という言葉はギリシャ語のストラテゴス strategos に由来し、狭義には「将軍の術策」を意味する。この言葉は当初、将軍職の者が敵を欺くため、軍を戦場にどのように配置するかといった軍事戦略に関わる戦術として現れた。戦争理論においては、戦略と戦術は異なる二つのカテゴリーに置かれるのが一般的である。これら二つの分野は、伝統的には異なる次元のものとされる。戦略 strategi は公汎で、長期的、大規模な軍事行動に対して用いられ、戦術 taktik は戦略の局地的実践を指す。であるから、戦略とは戦場に入る前奏曲 prelude (事前準備)を意味し、戦術とは戦場での実践のことなのである。それゆえ、ラピアン Lapian (t.t.:12–14) にいたるまで、過去の戦略に関する多くの文献・理論は、戦場に出発するまでの準備に焦点を合わせ、敵軍と対峙した時、いかに軍の士気を最高の状態に持って行くかが主眼と成っているのである。こういった状況は、敵軍の行動を制限し、不利な状態に置き、自軍を有利に導くための戦略的駆け引きに、より多大な注意が払われていることを明らかにしている。

 ジャワ古語文学により、その時代の人々が戦略を心得ていたことは明らかである。とりわけカディリ Kadiri 王国のジョヨボヨ Jayabhaya 王治世下、サカ歴1019年(1157年)にムプ・スダ Mpu Sedah とムプ・パヌル Mpu Panulu によって書かれた「カカウィン・バーラタユーッダ kakawin Bhāratayūddha 」である *1 。このカカウィンには、敵軍と会戦〈正面作戦〉し、あるいは進軍する際にパンダーヴァ Pandawa とカウラヴァ Kaurawa が採った様々な種類のビューハ(戦略陣形)が描かれている。

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 ■ *1 カカウィン・バーラタユーッダの成立年代は、śāka kāla ri sanga kuda śuddha candrama としてチョンドロ・スンコロ candra sangkala 形式で記されている(プルボチョロコ Poerbatjaraka とタルジャン・ハディジョヨ Tardjan Hadidjaya 1957:24;ウィルヨスパルト Wirjosuparto 1968:41)。

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 戦略に関して、ウィルヨスパルト Wirjasuparto は、インドネシアではサーマ・ベーダ・ダンダ sāma-bheda-dańůa の戦略が知られていたと述べている(1968;21-22)。これは、敵を殲滅する政策を含む政治学の書であり、かつてインド亜大陸を統一したグプタ Gupta 王朝でも重用されたアルタシャーストラと題されるインド文学に由来する。続いてウィルヨスパルトは、サーマ・ベーダ・ダンダはアルタシャーストラの書から採られたことを明らかにしたが、この戦略はアイルランガ Airlangga 王治世時代のムプ・カンワ Mpu Kanwa が構成したカカウィン・アルジュナ・ヴィヴァーハ Arjunawiwāha にも描かれ、またマジャパイト時代末期に成立したと推定されるカカウィン・ニティシャーストラ nitiśāstra でも描かれている *2 。サーマ・ベーダ・ダンダの戦略はジャワで著名になり、研究されたのである。

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 ■ *2 ニティシャーストラの作者は不明であるが、言語の様式、語の配列などからマジャパイト末期のものと推定されている。

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 サーマ・ベーダ・ダンダにおいて提示されている教義の核心は以下のようなものである。第一に、王が敵を殲滅したいと望むなら、同盟国(サーマ sāma)を求め、それらの王国と良好な関係を結ばなければならない。そうすれば、王国に戦争が勃発した際、同盟国からの援助を期待でき、または少なくともそれらの国々が中立を保つことが期待できる。第二に、王国に迫る敵を取り囲み(ベーダ bheda )、孤立させることができれば、最終的には弱った敵を討つ(ダンダ dańůa )事が出来るというものである(ウィルヨスパルト 1968:22)。

 時代が下って我々は東インド会社とジャワ軍の戦争において、いくつかの軍事に関する戦略を手に入れた。(1)奇襲戦法、(2)公道に木を倒し、敵軍を封じる。特に貨物列車を封鎖する。(3)食料の供給を遮断し、敵軍を飢餓に追い込む。(4)河を塞き止め水の供給を遮断する。といった戦法である(シュリーケ Schrieke 1957:132–135 )。

 それに関して、ウィルヨスパルトは、サーマ・ベーダ・ダンダの戦略・戦術はジャワにおいて著名であり、研究されており、特に8世紀から15世紀の王たちに採用されたという自身の仮説を論文で検証した。さらにジャワ古語時代に用いられたいくつかの戦略に言及した。そのために、いくつかのプラサスティ、文学作品、そして同時代の中国の史料を用いた。

2. 8世紀から15世紀のジャワ諸王の戦略

 すでに述べたように、プラサスティの史料から、王権獲得、版図拡張のみならず復讐に起因する戦争があったことが分かっている。これらの戦争において、ジャワ古語時代に用いられた諸戦略を見出すことができる。最初に用いられた戦略は、奇襲である。一例として、マタラーム古王国のシュリ・サルマワンシャ・トゥグ・アナンタウィクラモトゥンガデワ Śrī Dharmmawangśa Těguh Anantawikramottunggadewa (991ー1016年)と属領のウラワリ Wurawari 王 *3 との戦いが挙げられる。

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 ■ *3 ウラワリ地域は、バニュマス Banyumas 、カラン・コバル Karang Kobar の南に位置したと考えられている(シュリーケ 1959:215, 294 )。

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 ウラワリ王との戦争は、ダルマワンサ・トゥグの娘とアイルランガが結婚して間もなく勃発した。古代史の専門家は、ウラワリ王がダルマワンサ・トゥグの後継者となる野心を抱いていたと推測している。しかしダルマワンサ・トゥグが婿に選んだのはバリ出身の甥であった。史料によれば、アイルランガはダルマワンサ・トゥグの妹で、バリのワルマデワ Warmmadewa 王朝のウダーヤナ Udāyana 王と結婚したマヘンドラダッター・グナプリヤダルマパトニー Mahendradattā Guńapriyadharmmapatnī の息子であった。ダルマワンサ・トゥグの娘との婚姻が成功せず、ウラワリ王は失望し、不満を抱き、ダルマワンサ・トゥグの王宮に奇襲をかけたのである。突然の奇襲にダルマワンサ・トゥグは対抗し得ず、この戦闘で死んだ。いっぽう、アイルランガは忠実な家臣ナロッタマ Narottama と森で遭遇し、逃げ延びることが出来たのである * 4 。

 奇襲の例として他には、シンガサーリ Singhasāri 王国最後の王、クルタナガラ Kěrtanagara (1268–1292年) とグラン・グラン Gělang-gělang またはググラン Gěgělang 王国のジャヤカトワン Jayakatwang (1271–1293年)の戦いを挙げることができよう * 5 。クルタヌガラ王は、属国の王であり、婿でもあるジャヤカトワン王が奇襲をかけてくるとは思いもしなかった。この時クルタヌガラ王はモンゴルのクビライ・ハーンからの脅威に備えていたのである。1298年にクビライ・カーン王国の朝貢を求める使者メン・チー Meng-ch’i がシンガサーリに来訪した際、要求を拒み、使者メン・チーの顔を傷つけたため、モンゴルと敵対関係が生じたのである。使者を害したことをクビライ・カーンはクルタヌガラからの侮蔑、宣戦布告と解したのである。1292年の始め、シー・ピー Shih-pi 、イケ・メセ Ike Mese (イセ・ミ・シー Iseh-mi-shih)、カオ・シン Kao-hsing の、三人の指揮官に率いられたモンゴル軍がジャワ征伐のために出発した。

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 ■ *4 アイルランガ即位の後、ナロッタマはムプ・ダルムマムルティ Mpu Dharmmamurti の称号で rakryān kanuruhan に任命された。
 ■ *5 パララトンの書 Sěrat Pararaton において、カウイリ Kaůiri はダハ Daha の首都であると記されている。サカ歴1177年(西暦1255年)の年代表記のあるプラサスティ・ムーラ・マルルン Mūla Malurung においては、グラン・グランはウラワン王国の首都とされている。カディリの名はアイルランガ時代から知られている。ダハは後にカディリの名で知られるパンジャル Panjalu 王国の首都である(ジャファール Djafar 1978:112)。

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 ちょうどその時ジャヤカトワンがクルタナガラを攻撃した。彼の宰相アルヤ・ウィララジャ Aryya Wiraraja がこう言って煽動した。クシャトリアたる者の義務は、祖先の被った不名誉を雪ぐことであると。「パララトンの書」によれば、カディリ最後の王クルタジャヤ Kěrtajaya またの名ダンダン・グンディス Dandang Gěndis は、サカ歴1144年(1222年)に、トゥマペル Tumapel 出身のケン・アンロク Ken Angrok に敗れたという *6 。その年ケン・アンロクはシンガサーリ王国を建国し、カディリはシンガサーリの一部に編入されてしまった。アルヤ・ウィララジャの煽動で、ジャヤカトワンは祖先(クルタジャヤ)がクルタナガラの祖先(ケン・アンロク)に殺された復讐を決意する。実際ジャヤカトワンはウラワンを支配するシンガサーリ王国の一地方の王にすぎなかったのである。彼はクルタナガラの婿でもあった。というのもトゥルク・バリー Turuk Balī という名のウィスヌワルダナ Wisnuwarddhana の娘と結婚していたからである。

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 ■ *6 「パララトンの書」あるいは「カトゥトゥリア Katutunira ・ケン・アンロク」は、中期ジャワ語のガンチャラン gancaran (散文)形式で書かれており、マジャパイト時代末期に成立した。ハサン・ジャファル Hasan Djafar の説では、「パララトンの書」は1481年、ギリーンドラワルダナ・ディヤ・ラナウィジャヤ Girīndrawarddhana Dyah Rańawijaya 王の統治下の時代に書かれたという。この説は、サカ歴1403年(1481年)に起こった火山噴火が記されていることに基づく。「パララトンの書」の内容は、シンガサーリからマジャパイトにいたる歴代王の編年史である。

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 「パララトンの書」によれば、シンガサーリ王国打倒を画策したアルヤ・ウィララジャまたはバニャク・ウィデ Banyak Wide はかつて中央官僚であったが、クルタナガラ王と政治的見解を違え、マドゥラのスメネプ Sumenep の領主 adi patih に左遷されたという。この件で彼はクルタヌガラ王に怨みを抱き、ジャヤカトワンを煽動し、クルタナガラに復讐しようとした。シンガサーリを攻撃する好機は今しかないとジャヤカトワンに言ったのである。その時、シンガサーリの主力軍のほとんどはマレーにいた。アルヤ・ウィララジャはジャヤカトワンに次のような書簡を送った。

 『Pukulun, patih aji matur ing paduka aji, aněnggěh paduka aji ayun abuburu maring těgal lama, mangke ta paduka aji abuburua, duwěg kaladeçanipun tambontěn wontěn baya, tambontěn macanipun, tambontěn bańőengipun, muwah ulanipun, rinipun, wontěn macanipun anging guguh』(ブランデス Brandes 1826:18)

 「足下より、高貴なるお方へ、王陛下にお知らせいたします。陛下が遠出の狩りをお望みであるなら、今がその時です。今が好機です。危険は無く、虎はおらず、水牛もおりません。また蛇(も)敵もおりません。虎がいてもその歯は抜け落ちております。」

 ジャヤカトワンは好機を逃さなかった。彼はマカラ・ビューハ makara wyūha の布陣で攻撃を仕掛けた(スマディオSumadio 1993:418, cat. no, 89 )。北と南の二方向から攻撃を開始したのである。北からの攻撃部隊はシンガサーリ国軍を王宮からおびき出すためのものであった。


 戦略は成功した。北方から攻撃を受けたため、ラデン・ウィジャヤ Raden Wijaya *7 と、ジャヤカトワンの子でクルタナガラの婿であるアルッダラジャ Arddharaja 率いるシンガサーリ軍は、北方に攻撃をかけ、後退し続ける敵を追撃した。かくて宮殿付近のシンガサーリ軍は手薄になってしまった。南方に布陣していたジャヤカトワンは宮殿を攻撃し、宗教儀式を行っている最中だったクルタナガラを殺すことに成功したのである *8 。

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 ■ *7 ラデン・ウィジャヤまたの名ナラーリャ・サングラマウィジャヤ Narāryya Sanggramawijaya はディヤ・ルムブ・タル Dyah Lěmbu Tal の子である。彼は1293年に王位に就き、マジャパイト王国を建国する。王となって後、シュリー・クルタラージャサ・ジャヤワルダナ Śrī Kěrtarājasa Jayawarddhana と称した。
 ■ *8 「パララトンの書」によれば、ジャヤカトワンの攻撃を受けた時、クルタナガラは泥酔していたという(sira bhaőāra çiwa buddha pijěr anadah sajöng = Beliau Bhatara Siwa Buddha terus menerus meminum tuak)。実際、彼はその時宗教儀式を行っていたのである。それゆえ彼はスーニャパラマーナンダ sūnyaparamānanda の境地、つまり永遠なるアディブッダ Adibuddha として最高の幸福を味わう境地にあったのである。この境地においては、あらゆる禁忌から解放されて、パンチャマカラ pañcamakara を楽しむことができる。パンチャマカラとは、マイトゥナ maithuna (性行為)、マディヤ madya (飲酒)、マムサ mamsa (肉)、マツヤ matsya (魚)、そしてムドゥラ mudra (神秘の力を発する手印)(スマディオ Sumadio dkk. 1993:416–417 )。

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 クルタナガラが、ジャヤカトワンの奇襲を予測できなかったことについて、ダハからの攻撃を知らされた時、信じようとはせず、次のように語ったと記されている。「kadi pira sirāji Jaya Katong mangkonon ring isun, apan sira huwus apakenak lawan isun. ジャヤカトワンが、私にそのようなことをするはずがない。彼は我が兄弟なのだ。」(ブランデス Brandes 1896:19 )


(つづく)
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by gatotkaca | 2014-09-16 15:31 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「バラタ・ユダ」スナルディ著 試訳 最終回

プラブ・スユドノの死


 アスティノ国はパンダワによって取り戻された。プラブ・スユドノは恐れ、河口に身を隠した。しかし彼が隠れた場所は、パンダワの兵たちによって発見されてしまった。そしてプラブ・クレスノとプラブ・ユディスティロに報告されたのである。

 彼らはすぐさまそこへ赴いた。そしてアスティノ王が水の中に隠れているのを見たのである。

 ビモが地上に出てきて戦えと挑戦の叫びをあげる。戦に敗れた王が逃げ隠れするなど見苦しいとの言葉に、アスティノ王は水から出てきた。スリ・スユドノの身体も髪もずぶ濡れであった。

 ずぶ濡れのプラブ・スユドノはプラブ・クレスノと面と向かった。スリ・クレスノはプラブ・スユドノにビモとの一騎打ちを提案した。

 プラブ・スユドノは承知した。スリ・クレスノは、プラブ・スユドノに王の衣装とゴドを用意した。

 とつぜんマドゥロ国王プラブ・ボロデウォが現れた。グロジョガン・セウの苦行所から戻ってきたばかりであった。プラブ・ボロデウォはスリ・クレスノの兄である。

 プラブ・クレスノ、プラブ・ユディスティロ、パンダワ一族は拝跪し、無事の帰還を言祝いだ。プラブ・クレスノはバラタ・ユダの帰趨を報告し、バラタ・ユダの経過を見るにはもうすでにおそ過ぎたが、ビモとプラブ・スユドノの一騎打ちの立ち会いはできると話した。

 プラブ・スユドノは、プラブ・ボロデウォの到来に心が明るくなった。彼は味方である。マドゥロ国はアスティノ側であり、プラブ・ボロデウォはアスティノの人々が誇る、偉大なる超能力の人なのだ。

 スリ・スユドノは衣装を整え終えると、ゴドを受け取った。かくてビモとの一騎打ちが始まった、

 両者とも力において互角、超能力において互角、体格も互角、激しい戦いとなった。アルジュノは兄が敗れるかもしれないと怖れた。スリ・スユドノは無傷であったからである。

 アルジュノはスリ・クレスノに近づいた。スリ・クレスノが一言ささやく。アルジュノは離れた所からビモにウインクする。左の腿を叩きながら。兄ビモはそれを見て、スリ・スユドノの弱点が左腿であることを想起するのである。

 ビモはその符牒を受け、示唆するところを理解した。スリ・スユドノは掴み掛かられる。敵に組み伏せられぬよう身を躱す。プラブ・スユドノは身を躱したところを、左腿にビモのゴドを叩き付けられる。サン・プラブは崩れ落ちる。続けてビモのゴドの攻撃を受けた。

 ビモに髪を鷲掴みにされ、身体を蹴られた。彼の従兄弟はビモに容赦なく嬲られたのだ。

 プラブ・ボロデウォは、これを見て激怒した。ビモが王の決闘の作法を無視し、無法を働いたと判断したからである。怒るプラブ・ボロデウォはヌンゴロを手に取る。すぐさまスリ・クレスノが割って入る。プラブ・クレスノは兄を説得するのである。

 彼は言った。「兄王よ、ビモに怒りを向けてはなりません。スユドノのこの酷い死に様は、ブガワン・マントリヨの誓い、そしてデウィ・ドゥルパディの誓いによるものなのです。かつて彼はデウィ・ドゥルパディに無礼を働き、卑しめた。ビモはその報いを与えただけなのです。」

 プラブ・ボロデウォは怒りをおさめた。かくて彼はアスティノ国にまずは迎え入れられたのである。

 プラブ・ボロデウォが去った後も、ビモはスユドノを嬲り続けた。スユドノの全身は粉々になった。アスティノ王は死んだ。粉々になった身体から声が聞こえた。「俺はパンダワの頭を踏みつけるまで死なないぞ。」しかし、その声をビモは無視した。

 プラブ・クレスノ、プラブ・ユディスティロそしてビモはすぐに幕舎に戻った。スリ・スユドノの遺体は置き去りにされたのであった。

 プラブ・スユドノは、ドゥルユドノと呼ばれることが多い。若い頃の名はラデン・アルヨ・クルパティという。彼はプラブ・ダストロストロとその妃デウィ・グンダリの息子である。彼はかつて超能力の水、ミニャ・トロを浴びたことから、超能力を有していた。しかしそ左の腿だけ、その水を浴びていなかった。

 妃はデウィ・バヌワティである。彼女はプラブ・サルヨの三女で、バヌワティとアルジュノは恋に落ちていた。

 プラブ・クレスノとプラブ・ユディスティロは、まだアスティノ国に入ろうとしなかった。夜毎クルセトロの戦場の周囲を巡回し、警戒していた。森や山中も見て回った。一族と民の平穏のためである。

 ドゥルノの息子アスウォトモは、森の中で苦行を続けており、アスティノ国王の死をまだ知らなかった。彼はスリ・サルヨと対立した際、プラブ・スユドノに退けられ、傷心していた。この今、カルトマルモから、プラブ・スユドノが行方不明になったことを知らされたのである。彼はカルトマルモ、クルポと共にすぐさまドゥルストジュムノとスリカンディの幕舎に侵入した。

 二人のきょうだいは、アスウォトモに寝首をかかれ、死んだ。プラブ・ユディスティロの息子ポンチョウォロも、寝起きを襲われ運命を同じくした。彼も死んだのである。

 アスウォトモは火の矢を放ち、パンダワ勢を多数犠牲にした。そして彼らは森に戻って行ったのである。

 超能力の人、アルジュノの妻スリカンディの死は大いなる悲しみであった。彼女の死はバラタ・ユダが終わってからのものであり、熟睡している最中にアスウォトモに首をはねられたのだ。彼女はその超能力でルシ・ビスモを斃した。スリカンディはバラタ・ユダにおいて優れた戦士として尊崇されていた。

 パンディト・ソゥルノを斃したスリカンデイの弟ラデン・ドゥルストジュムノも同様の運命をたどった。熟睡中にアスウォトモに首をはねられたのだ。アスウォトモはドゥルストジュムノに復讐を果たした。ソゥルストジュムノがパンディト・ドゥルノの首をはねたからである。この行為はパンダワからも非難された。パンディト・ドゥルノの首をはねたことは、パンダワ・コラワ双方の師であったこのパンディトを侮蔑する行為であると捉えられたのである。

 プラブ・ユディスティロとデウィ・ドゥルパデイの息子ラデン・ポンチョウォロの運命も同じであった。彼はバラタ・ユダが終わった後、アスウォトモに殺されたのだ。母はひどく悲しんだ。

 その時、プラブ・クレスノとプラブ・ユディスティロは外を巡回中であった。

 巡回から戻ると、プラブ・クレスノとプラブ・ユディスティロは、スリカンディ、ドゥルストジュムノ、そしてポンチョウォロの死の知らせを聞いた。

 スリ・クレスノはスリ・ユディスティロに涙を堪えるよう言った。すべては神の定めたことであると。

 とつぜん、ブガワン・アビヨソが現れた。彼はパンダワとコラワの祖父である。彼は神に等しい聖なるパンディトである。彼は生き残った孫たちに数々の訓戒を与え、スリ・クレスノの指示に従うよう言った。なぜなら、スリ・クレスノこそがバトロ・ウィスヌの化身であり、天界スロロヨの神々ですら、スリ・クレスノに抗うことはできないからである。ブガワン・アビヨソはそのように言った。

 スリ・アビヨソの訓戒を聞いたすべての孫子たちは。心安らかになった。ブガワン・アビヨソは別れを告げ、去って行った。


アルジュノはバヌワティと結婚する


 アスウォトモ、カルトマルモ、クルポの森の隠れ場所が分かったとの知らせが入った。プラブ・クレスノとプラブ・プントデウォはすぐに殲滅のため軍を率いて出発した。

 彼らの隠れ場所は包囲された。アスウォトモ、カルトマルモ、クルポは必死に抗戦した。アスウォトモは父、パンディト・ドゥルノが残した火の矢チュンドマニを放った。アルジュノも火矢を射返した。双方の火が燃え盛りスロロヨにまで届いた。神々は恐れ、バトロ・グルは怒った。


 問題解決のためバトロ・ナロドが降下した。アルジュノはバトロ・ナロドに、彼は反撃しただけであると訴えた。アスウォトモはバトロ・ナロドに、恐ろしさのあまりチュンドマニを射ただけだと訴えた。チュンドマニは邪悪でない者を滅することはできないとも。

 バトロ・ナロドはチュンドマニをアルジュノに渡すよう決定を下した。アスウォトモは陳謝した。


 プラブ・クレスノはアスウォトモの陳謝を快く思わなかった。というのも、彼はスリカンディ、ポンチョウォロ、そしてドゥルストジュムノを殺していたからである。スリ・クレスノは言う。後の日に、アスウォトモの魂は地獄に落ちるであろう。故に、今は彼を殺す時ではない。スリ・クレスノによれば、アスウォトモは、まだ産まれていないパリクシト Parikesit によって死にいたるであろうという。

 スリ・クレスノは言う。カルトマルモの魂は、人の汚物にたかるウジ虫に入ることになると。

 クルポは、自分はただついて行っただけであると陳謝した。彼はパンディトとして生きることを許された。

 プラブ・クレスノ、プラブ・ユディスティロ、そして他の王たちはアスティノ王宮に入り、デウィ・バヌワティを迎え入れた。

 クルセトロの戦場にあった幕舎はすべて取り壊された。アルジュノはプラブ・スユドノの未亡人バヌワティ王妃と結婚した。

 妻を深く愛していたアルジュノはチュンドマニをプラブ・ユディスティロに譲った。ついにプラブ・ユディスティロはアスティノの王となったのである。

 アスティノ国は豊穣なる国となった。民衆の暮らしは満たされ、平穏と安寧に満ち満ちた。スリ・クレスノとアルジュノが平穏の護り手となった。すべての邪悪なる者は滅んだ。戦争の起こらぬため注意が払われた。民のために、そこここに住居が開かれたのである。

 スリ・ユディスティロの即位の後、プラブ・ボロデウォ、プラブ・マツウォパティ、プラブ・ドゥルポド、その他の王たちは各々の国に戻った。プラブ・クレスノだけがアスティノ国に残った。

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結び


 アスウォトモのことや他のことなど、スリ・クレスノの言葉は現実となった。デウィ・ウタリのおなかの中にいたオンコウィジョヨの息子、アルジュノの孫ラデン・パリクシトは、大戦争バラタ・ユダ終結後の平安の中で産まれた。彼はパンダワ一族に深く愛された。

 赤ん坊の頃から彼はいつも危険に晒されていた。というのも、アスウォトモが彼を探していたからである。アスウォトモは、パリクシトこそが後の日のアスティノ王となり、ジャワの王家の始祖となることを知っていたのだ。

 ある日アスウォトモはカルトマルモと共に赤子のパリクシトを殺そうと謀った。赤子のパリクシトはお守りとして置かれていた矢を、無意識に蹴り上げた。矢はアスウォトモの胸に命中した。アスウォトモは死んだ。これを見たカルトマルモはすばやく逃げ出したが、ビモに見つかってしまった。ついにカルトマルモもビモの手で弊れたのである。

 後の日、パリクシトはアスティノ国王となり、プラブ・クレスノディポヨノ Prabu Kresnadipayana と称した。祖父ブガワン・アビヨソがアスティノ王であった時の名を執ったのである。

 バムバン・アスウォトモはパンディト・ドゥルノとビダダリのデウィ・ウィルトモの子である。そのビダダリは、バムバン・クムボヨノ(ドゥルノがまだ若く美丈夫だった頃の名)が〈海を渡らせてくれた者が女なら結婚し、男なら兄弟となるとの〉誓いを立てた時、雌馬、ペガサスの姿で彼の前に現れた。そしてロマンスがあったのだ。産まれた子は馬を意味するアスウォトモと名付けられたのである。

 カルトマルモはプラブ・ダストロストロの息子で、プラブ・スユドノの弟である。彼はバニュティナランに住んでいた。

 かくしてバラタ・ユダの物語は終わりを告げ、幕を閉じる。

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閉幕


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by gatotkaca | 2014-09-03 00:21 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「バラタ・ユダ」スナルディ著 試訳 その17

プラブ・サルヨがセノパティとなる


 明日のアスティノのセノパティがプラブ・サルヨであると聞き、パンダワ勢は困惑し、恐れをなした。プラブ・ユディスティロ〈プントデウォ〉と弟たちはスリ・サルヨに抗することを半ば諦めかけていた。恐れもあったが、プラブ・サルヨはパンダワにとって敬愛する長老の一人であり、比類無き超能力の人であったからである。パンダワ一族は彼を内面外面ともに敬愛していた。

 賢者たるプラブ・クレスノはナクロとサデウォに、策を授け、プラブ・サルヨに会見するよう命じた。

 ナクロとサデウォは単身、モンドロコの幕舎に出立した。ナクロとサデウォは、プラブ・サルヨの妹デウィ・マドリムの双子の息子である。

 プラブ・サルヨは謁見所で彼らと会見した。ラデン・ナクロとラデン・サデウォは泣きながらプラブ・サルヨの足下に伏した。

 双子はすすり泣きながら言った。「ああ、伯父王よ。陛下は明日、アスティノのセノパティとなられる。パンダワ一族は殲滅させられるでありましょう。皆、陛下と戦うことを望んではおりません。パンダワ側の王たちもまた、陛下の超能力に恐れをなしております。それゆえ、私たちは戦う前に死を賜るべく、身前に参上したのです。」

 ラデン・ナクロとサデウォは各々のクリスを抜き、自害しようとした。プラブ・サルヨは涙しながら、そのクリスを払った。

 すすり泣いて彼は言った。「もう泣いてはならぬ。私はアスティノのセノパティとなることを承知したとはいえ、我が心は愛するそなたら二人のもとにある。この伯父にはもう息子はおらぬ。この大戦争バラタ・ユダにおいてルクモロトもブリスロウォも死んでしまった。今やモンドロコ国はそなたら二人のものだ。我が忠告を聞け。明日、私が戦場に現れたなら、私に対峙するのは、そなたらの兄スリ・ユディスティロただ一人で良い。ジマト・カリモソドを手に話が前に立つのだ。ジマト・カリモソドを私に射放てば、私は死にいたるであろう。他のいかなる武器も私を傷つけることはできない。すべては我が呪文チョンドロビロウォに敗れるであろう。」


 プラブ・サルヨは続けた。「かつて私は義父を殺した。その人はラクササのパンディトで、大いなる超能力の人、その心は清浄であった。娘を深く愛していた。その娘とはそなたらの伯母、スティヨワティだ。彼の人の名はブガワン・バガスパティ。私に殺された時、天に声があった。「エエ、サルヨ、後の日のバラタ・ユダにおいて、そなたはパンディトの性質を持ち、ジマト・カリモソドを携えた王とまみえるであろう。その時こそ、私はそなたに報復を果たすであろう。」

 一瞬間をおいて、プラブ・サルヨは言葉を続けた。「ここでの用は済んだ。二人ともすぐに帰るのだ!」

 ラデン・ナクロとサデウォは号泣した。かくて彼らはその場を辞した。道すがら二人はすすり泣きを止めることができなかった。

 幕舎に戻るとすぐに二人はプラブ・プントデウォに対面した。そこにはプラブ・クレスノ、ビモ、そしてアルジュノも同席していた。プラブ・ユディスティロ、ナクロ、サデウォを除いて、列席したすべての者が笑った。

 プラブ・クレスノとウルクドロはプラブ・ユディスティロを一瞥した。プラブ・ユディスティロはこの世に生を受けてから一度も怒ったことなく、人の心を傷つけたことも無いからである。いまや彼はプラブ・サルヨを殺さなければならなくなったのだ。一族のそして彼自身の長老たる彼を。


 モンドロコの幕舎は、その後打って変わってとてもロマンチックな雰囲気になった。美しきプラブ・サルヨの妃デウィ・スティヨワティ、比類無き夫唱婦随の人は、夫がナクロとサデウォに話したことをすべて聞いていた。夫が自身を死にいたらしめる秘密を明かしたことを無念に感じていた。なぜ夫は息子たちよりも

〈以下2頁欠損:カカウィン・バラタ・ユダの描写に基づいて梗概を記す。〉

〈サルヨは不安と苦悩に心が押しつぶされそうになる。彼は思い立って、妃デウィ・スティヨワティのもとへ行く。彼女の不安を慰めることは、彼自身の心を和ませることでもあったのだ。二人はしばし愛の語らいに時を忘れる。妃が寝入った頃合い、プラブ・サルヨはそっと寝所を出て、戦場に向かう。準備を整えた軍勢はカルノの死に報復を誓い意気軒昂である。サルヨは満足し、王冠をかむり、王の衣装を身に着け、パンディトや僧たちの祝福を受け、出陣する。

 サルヨの採った陣形はカナナ・ビューハ kananabyuha 〈森の陣形〉であった。大量の兵たちがプラブ・スユドノを取り巻き、波のように敵に押し寄せる強力な陣形である。パンダワ・コラワ両軍は熾烈な激闘を展開する。

 ビモの奮戦にコラワ軍は後退し、戦場のただ中にサルヨが一人立つ。アルジュノとビモが矢を放ち、サルヨも射返すが劣勢を強いられる。サルヨは超能力の武器ルドラ・ローサ Rudra-rosa を放つ(現在のワヤンの物語ではこの武器がチョンドロビロウォという呪文に変化している)。ルドラ・ローサから無数のラクササたちが湧き出て敵を食い尽くす。プラブ・クレスノはサルヨの武器に対抗し得る者はいないと判断し、兵たちに武器を収めさせ、一旦戦闘を止める。サルヨのラクササたちは武器を持っている者を襲うからである。

 プラブ・クレスノはプラブ・ユディスティロの出陣を要請する。躊躇していたユディスティロもクレスノの説得に折れ、ついにサルヨと対峙することになる。

 ユディスティロが手にするのはカリモソドという書物のみ。サルヨの超能力も武器を持たないユディスティロには通用せず、サルヨはカリモソドを結びつけた矢に撃たれ、戦場に果てるのである。コラワ軍は瓦解し、プラブ・スユドノは逃げ去る。(カカウィン・バラタ・ユダではサルヨの義父バガスパティの設定はまだ存在しないが、本書の著者スナルディはバガスパティの物語を組み込んで構成しているので、以下はそれに合わせる。)

 サルヨの持つ最大の呪文、チョンドロビロウォはもともと彼の妃デウィ・スティヨワティの父、ブガワン・バガスパティが持っていたものである。

 デウィ・スティヨワティは若い頃の名をデウィ・プジョワティといった。父のブガワン・バガスパティには子が無く、彼は神に祈りを捧げ、その恩寵として娘を授かった。それがプジョワティである。バガスパティは娘を深く愛していた。

 ある夜、プジョワティは美しい若者と出会う夢を見て、その若者に恋した。父バガスパティは娘の思いを叶えるため、その若者を探し出すことにした。

 若者の名はノロソモ。バガスパティはノロソモに娘と結婚してくれるよう頼むが、ノロソモは拒否する。ラクササ姿のバガスパティを見て、娘もラクササであると思ったのだ。戦いの末、ノロソモは敗れ、プジョワティのもとに連れてこられる。プジョワティの美しさを見て、ノロソモは結婚を承諾する。二人は仲睦まじく暮らした。しかし、ノロソモは義父がラクササであることに恥辱を感じていた。ノロソモの心の内を知ったバガスパティは、プジョワティの幸福のため、ノロソモに殺されることを承知する。〉


バガスパティは始め、ノロソモに喜んで殺されようとしていた。ノロソモを頼りに生きて行く一人娘プジョワティの幸せのためである。しかし、娘婿のクリスが刺さっても彼は無傷であった。ノロソモは義父が真実死を望まないことを罵った。

 ブガワン・バガスパティは自身の持つアジ・チョンドロビロウォの呪文のことを想起した。彼はノロソモに呼びかけた。チョンドロビロウォの呪文を与え、ノロソモ、つまりプラブ・サルヨに娘を蔑ろにせぬよう言葉を継いだ。アジ・チョンドロビロウォがノロソモの身体に移動すると、再びノロソモのクリスに突かれてパンディトは死んだのである。

 プジョワティ、つまりスティヨワティはプラブ・サルヨとの結婚で、三人の娘と二人の息子をもうけた。1.デウィ・エロワティ、彼女はマドゥロのプラブ・ゴロデウォの妃となった。2.デウィ・スルティカンティはアディパティ・カルノの妻となった。3.デウィ・バヌワティはプラブ・スユドノの妃となる。4.ラクササの容貌のブリスロウォ。5.美丈夫のルクモロト。

 プラブ・サルヨの内心はパンダワの味方であった。というのもパンダワには正義があったからである。しかし、モンドロコ国はアスティノの支配下にあリ、彼はプラブ・スユドノに味方せざるを得なかったのである。

 スリ・サルヨの死にパンダワ軍は歓喜した。敵は一掃された。コラワ軍は四散した。多くの者が捕らえられ、殺され、少なからずの者が投降した。

 不運だったのはパティ・スンクニである。彼はビモに捕らえられた。両手両足をビモに引きちぎられ、その口は引き裂かれた。スンクニは死んだのである。

 プラブ・スユドノは全軍とサトリアたちを引き連れ、幕舎に逃げ戻った。今は亡きスンクニはポロソジュナル王の息子であった。

 彼はプラブ・スユドノの母デウィ・グンダリの弟であった。パティ・スンクニは不実の人であった。犠牲を作り、物事の本質を歪めるのが得意であった。人を煽動するのに長けていた。しかし彼はつねに邪悪であったわけでもない。戦場に向かうコラワのサトリアたちを励ましたのも彼であったのだ。

 年老いたモンドロコの家臣がいた。彼はプラブ・サルヨに従って戦い、傷を受けた。彼はサン・プラブの戦死を知らせるため、モンドロコ王妃デウィ・スティヨワティに会わねばならなかった。

 知らせを聞いてスティヨワティ妃は気絶した。目覚めると彼女は夫の後を追うことを決意した。すぐさま馬車に乗る。その手には短剣パトレム patrem が握りしめられていた。侍女のスガンディニ Sugandini に導かれ彼女たちの乗った馬車はクルセトロの戦場に向かった。目指すのはスリ・サルヨの遺体である。

 クルセトロの戦場に近づくと、とつぜん馬車が壊れた。二人は徒歩で進んだ。サン・プラブの遺体を探すのは困難を極めた。そしてついに遺体を見つけたのである。デウィ・スティヨワティはずっと握りしめていたパトレムを抜き放ち、胸に突き立てると果てた。

 侍女スガンディニは生き残ることを望まず、すぐさま「スドゥク・サリラ suduk sarira 」、つまり殉死の道を選んだのである。

 天より神々とビダダリたちが降下しスリ・サルヨと妃の魂を導く。そこには、天界での住処が用意されていた。

 デウィ・スティヨワティの生涯は一大ロマンスとして語り継がれた。ある夜、まだ若くプジョワティと呼ばれていた頃のこと、ラクササのパンディトブガワン・バガスパティの娘デウィ・スティヨワティは、ラデン・ノロソモという名の美丈夫のサトリアと出会う夢を見た。

 彼女は父に彼女が夢に見た素晴らしいサトリアを探してほしいと頼んだ。娘を深く愛するサン・ブガワンはノロソモを探しに出かけた。

 間もなく、森をさまようモンドロコの王子ラデン・ノロソモと出会った。ブガワン・バガスパティはノロソモに娘の婿になってほしいと打ち明けた。

 ノロソモはきっぱりと拒む。ラクササの娘なら、その姿もラクササであろうと思ったからである。かくて一騎打ちとなった。

 ノロソモは敗れ、サン・ブガワンの苦行所へ連れて行かれる。苦行所でノロソモはサン・ブガワンの娘と対面し、プジョワティという娘の、その比類無い美しさに驚く。彼はすぐに恋に落ちた。デウィ・プジョワティと結ばれたのである。若き男女は愛を育み幸福を感じていた。

 しかしラデン・ノロソモは、義父がラクササであることに恥辱を感じていた。心の内妻に明かす。父を深く愛し、夫を深く愛する娘は、サン・ブガワンにそのことを告げた。

 サン・ブガワンはノロソモが「カケン・ニネン kaken ninen 」、つまりお爺さん、お婆さんになっても、彼の娘をないがしろにすることはしないと誓うなら、娘の幸福のためにノロソモに喜んで殺されると二人に言った。

 ノロソモは承知した。その時以来デウィ・プジョワティ〈祈りにより産まれた娘を意味する〉はデウィ・スティヨワティ〈貞淑なる女〉と名を代えたのである。ラデン・ノロソモは誓い終えると、クリスをサン・ブガワンに突き立て、殺そうとした。しかし重代のクリスを何度突き立ててもラクササのパンディトは傷ひとつつかない。

 ノロソモは義父が約束に殉じないと詰る。サン・ブガワンは微笑む。彼はアジ・チョンドロビロウォを持っていたことを思い出したのである。

 彼はアジ・チョンドロビロウォをノロソモに譲る。かくてサン・ブガワンはクリスに刺されて死ぬのである。天空に声あり。「エエ、ノロソモ、この報いとして、いつの日か大戦争バラタ・ユダにおいて、そなたは白い血〈正法の血〉を持つ王によって死にいたるであろう。」

 ノロソモ、後の日のプラブ・サルヨは、かくて正法の白い血を持つアマルト王プラブ・ユディスティロと対峙することとなるのである。


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(つづく・次回最終回)




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by gatotkaca | 2014-09-02 06:16 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「バラタ・ユダ」スナルディ著 試訳 その16

アルジュノがセノパティとなる


 その夜、パンダワ側も会議を行った。明日のセノパティとしてアルジュノがスリ・クレスノから指名された。いくつかの注意があった。「そなたが明日のセノパティとなった。陣形はアルダチャンドラ Ardacandra を用いるのだ。よくよくに注意されるよう。そなたの兄アディパティ・カルノの超能力は比類ない。」アルジュノは承知した。

 朝になり、戦闘開始の太鼓が鳴った。王たちは軍に指示を与えた。戦車に乗る者、象、馬、その他すべてが整った。

 アディパティ・カルノは戦車に乗り、海のごとき敵陣を見渡した。アディパティ・カルノは喜んでいるように見えた。

 彼は義父プラブ・サルヨに言った。「伯父上、パンダワ軍は大軍です。その端は見えない。しかし、もうしばらくお待ちください。奴ら全てはウィジョヨダヌを受け壊滅するでありましょう。」

 高慢なる言葉を聞き、馭者となっていたプラブ・サルヨは憤った。「エエ、カルノ、そなたはパンダワを殲滅すること叶わぬであろう。そなたは生魚のようなもの。パンダワに料理されるであろう。彼らのなすがままだ。」

 その言葉を聞き、アディパティ・カルノは大いに怒り、恥辱を感じた。すぐさま戦車を前進させ、強弓を引き絞る。

 コラワ勢はセノパティが前進するのを見て、敵に突撃した。パンダワ側は動かぬままであった。

 山の岩に海の波が叩き付けられるような戦闘であった。今回のコラワ勢は勇猛果敢であった。彼らのセノパティが勇敢であり、超能力であり、果敢、戦術に長けているからである。幾千もの矢が戦場に溢れる。

 パンダワ軍に多大な死者が出た。セノパティ・カルノの乗った戦車は軍勢の前に勇壮にその姿を誇っていた。彼の前にある者たちは勇猛に突進し、後ろにひかえる軍は彼に付き従う。パンダワの陣形が崩される。

 彼らはアディパティ・カルノの奮戦に怖じ気づく。セノパティ・カルノにガトコチョを殺された恐怖が、彼らに陰を落としていたのだ。

 パンダワ軍は大混乱に陥る。ナクロとドゥルストジュムノの戦車がアディパティ・カルノの超能力の矢に粉砕される。彼らは逃げざるを得なかった。

 プラブ・ユディスティロ、ビモそしてアルジュノは突進する。超能力の矢を撃ってアディパティ・カルノを抑える。

 今度はコラワ軍に多大な死者が出る。アディパティ・カルノは止まらざるを得なかった。戦車と戦車が対峙する。セノパティ同士の矢の撃ち合いとなる。

 プラブ・スユドノがビモの矢を胸に受ける。アスティノ王は転げ落ちるが、傷は無い。素早く軍勢の後ろに身を隠す。

 アディパティ・カルノの息子ラデン・ウレソセノ Wresasena がスティヤキの猛攻に斃れる。プラブ・スユドノは再びビモと対峙した。またビモの矢を食らう。髷が断ち切られ、一目散に逃げる。

 ドゥルソソノはそれを見て兄を助けようとする。象に乗ってビモの前に立ちはだかる。バルラ Barla という名の矢をビモに射る。ビモの胸に当たり、彼はもんどり打って倒れるが、傷は無い。

 ビモは素早く立ち上がり、ゴドを取る。ドゥルソソノの乗る象が、ビモのゴドに打たれ、その頭が砕け散る。ドゥルソソノは地面に飛び降りる。

 ゴドを持っての一騎打ちとなる。ドゥルソソノは圧倒され、逃げようとするが、ビモに髷を掴まれ、うつ伏せに倒れる。ビモがゴドで打つ。

 ドゥルソソノはのたうち回った。プラブ・スユドノと兄弟たちが助けようとビモに矢を射かける。しかしビモはお構い無しだ。

 プラブ・ユディスティロとパンダワたちが、プラブ・スユドノの前に立ちはだかる。ドゥルソソノは孤立し、ビモのなすがままとなる。

 パンダワ軍が遠くから歓声を送る。ビモはドゥルソソノを散々に辱める。彼は激しく神に向かって大声をあげる。アスティノの王たちに向かって。パンダワの仲間たちに向かって。「エエ、ここにある全ての者たちよ証人となるのだ。俺は兄ユディスティロの妃デウィ・ドゥルパディの、ドゥルソソノの血で洗い上げるまでは、生涯髪を結いあげぬとの誓いを果たす。その誓いが今果たされるのだ。」

 ドゥルソソノの腹がビモのポンチョノコの爪に引き裂かれ、その血が飲まれる。内蔵が搔き出され辺りにばらまかれる。足も腕も引き抜かれ、投げ捨てられる。その頭は打ち砕かれ、ゴドですりつぶされる。かくてビモは去る。ドゥルソソノは死んだ。

 ビモはデウィ・ドゥルパディに会うために幕舎に向かう。ビモは小躍りしながら歩む。プラブ・ユディスティロと妃、パンダワ一族が喜び一杯に彼を祝福して迎える。

 ビモの口ひげ、あご髭はドゥルソソノの血が一杯に染み込んでいる。それをデウィ・ドゥルパディの頭の上に搾る。デウィ・ドゥルパディの誓いは果たされた。パンダワ全員が喜ぶ。戦闘はしばし止む。

 ドゥルソソノは幼い頃より甘やかされて育ち、傍若無人であった。怒鳴るような声で喋り、暴れ回るのが好きで、しばしば無頼な振る舞いをした。デウィ・ドゥルパディの衣服をはぎ取ろうとしたこともある。彼はバンジャルジュングトのサトリアであった。胡座をかいて座っている時でもいつも手をぶらぶらさせていた。


 陽はすでに西に傾いていた。パンダワ軍は戦場のただ中にアディパティ・カルノの戦車が、軍勢より先に躍り出たのを見て驚愕した。

 コラワ軍は後退した。プラブ・クレスノはアルジュノにすぐに戦車に乗り、カルノと対峙するよう命じた。アルジュノはスリ・クレスノの馭する戦車に乗った。パンダワ軍とコラワ軍は離れて歓声をおくるのみであった。

 この戦いはセノパティの一騎打ちだ。人はこの戦いを「カルノ・タンディン Karna Tinanding〈Tanding〉カルノの一騎打ち」と呼ぶ。同等の超能力と、同等の戦略の才能を持つセノパティの戦いだからである。

 二人は異父兄弟である。その生き方と行いが違うだけだ。アディパティ・カルノは高慢にその超能力を誇示する。アルジュノはつねに謙虚で、その顔はややうつむき〈謙虚さを示す〉、表情は穏やかだ。

 両者とも神与の武器を持つ。アディパティ・カルノの超能力の武器はその名をウィジョヨダヌ、アルジュノの超能力の武器はソロトモ Sarotama とパソパティである。

 共に馭者となるは偉大なる王、モンドロコのプラブ・サルヨとドゥウォロワティのプラブ・クレスノである。

 神々、ビダダリたち、パンダワ軍、コラワ軍、この戦いを見る者すべてが、どちらか一方が死なねばならぬことに恐れを抱いている。

 アディパティ・カルノとアルジュノが、その超能力を顕現する。旋回する戦車から超能力の矢が飛ぶ。とつぜん中空から巨大な蛇が現れる。大蛇はアルドワリコ Ardawalika と名乗る。彼はアディパティ・カルノに、自分はアルジュノに復讐するために来たと話した。

 アディパティ・カルノは答える。「アルジュノを殺したければ好きにすれば良い。ただし、私は手を貸さぬ。」

 アルジュノは素早く矢を放つ。アルドワリコ蛇に命中する。彼は死ぬ。雷のような声をあげ、空から大地に落ちるのである。

 この隙にアディパティ・カルノは、アルジュノの首に矢の照準を合わせる。これを見たプラブ・サルヨは馬の手綱を引く。アディパティ・カルノの乗った戦車が揺れる。放たれた矢は、わずかに上に逸れた。アルジュノは無事であった。矢は彼の冠を撃ち落としたのみであった。

 プラブ・クレスノがアルジュノの髪を整え、冠を付け直した。アルジュノの首を撃ち損ない、アディパティ・カルノは無念を感じた。彼の義父〈サルヨ〉がアルジュノの方を愛していることには気づかなかった。

 アディパティ・カルノは今度はウィジョヨダヌを引き、再びアルジュノの首を狙う。矢が放たれると同時にプラブ・サルヨがまた戦車を揺らす。矢はアルジュノの髷を撃ち落としただけであった。

 アルジュノは大いに怒り、恥辱を感じた。彼はカルノの馬の脚を狙って矢を射返した。カルノの馬たちの脚はすべて断ち切られた。続けてアルジュノは次の矢を射る。超能力の矢パソパティである。

 その時、アディパティ・カルノは超能力の矢ウィジョヨダヌの呪文を唱える最中であった。しかし、アルジュノの方が速かった。セノパティ・カルノの首に矢が命中した。アディパティ・カルノは死に、戦車に倒れた。パンダワ軍は歓声に沸き返った。コラワ軍は慌てふためいて逃げて行く。夜も更け、幕舎に戻って行く。

 アディパティ・カルノはデウィ・クンティの息子であり、パンダワの兄弟である。デウィ・クンティがまだ処女であった頃、耳(カルノ)から産まれでた。

 処女クンティの懐胎は人間の男によるものではない。ブガワン・ドゥルウォソから授かったイルムをもてあそんだ結果である。そのイルムは太陽のあるうちは唱えてはならぬと言われていた。処女クンティはそれを忘れ、妊娠するにいたったのである。アディパティ・カルノはスルヨプトロとも呼ばれる。太陽神スルヨの子だからである。

 若い頃、しばしばアルジュノと戦った。アディパティ・カルノの妻はデウィ・スルティカンティ、プラブ・サルヨの次女である。

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 プラブ・スユドノは、プラブ・サルヨ、パティ・スンクニ、もはや二十人となった弟たちと会議を行った。他の弟たちはすでに戦死していたのである。

 プラブ・スユドノは泣きながらプラブ・サルヨに、明日セノパティとなり、アスティノ国を取ってほしいと頼み込んだ。

 プラブ・サルヨは断った。そしてアスティノの半分をパンダワに譲ることを提案した。もしパンダワがこの提案を拒否したなら、その時パンダワ殲滅に立ち上がるだろうと。

 プラブ・スユドノは国の半分を譲ることに同意しなかった。もはや遅すぎる。手遅れなのだ。犠牲が大きすぎた。

 二人は自説を固持し続けた。とつぜん、アスウォトモが大声でプラブ・サルヨを非難した。アディパティ・カルノの馭者になった時何をしたのかと。

 プラブ・サルヨは怒り、挑戦の声をあげた。二人はすぐさまプラブ・スユドノに引き分けられた。アスウォトモは苦行を再開するため、森に戻った。プラブ・スユドノにこの場を去るよう促されたのである。

 プラブ・サルヨの怒りは和らいだ。そしてついにセノパティとなることを受け入れた。プラブ・スユドノは大いに喜び、モンドロコ軍に壮麗な衣服を下賜した。

 戦場一帯に、スリ・サルヨがアスティノのセノパティになったとの知らせが広がった。この二日間戦闘は停止していたのだった。


(つづく)



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by gatotkaca | 2014-09-01 00:30 | 影絵・ワヤン | Comments(0)