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木から落ちた猿

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ワヤンの女たち 第1章

1. 女性解放への軌跡

はじめに


 天国は母の足下にあるーー
女性に関するこのようなスローガンをよく耳にする。とはいえ、この成句は言葉通りに受け取らぬほうがよかろう。こういった意味もあるからである。つまり、『天国』は母・女の行いに関わる。
 子どもに対する女性の影響はとても大きい。女性/母は九ヶ月の間赤子を胎内で育み、護り、産んでからは大人になるまで教育を施す。
 人間の子はその人生で、母の手が最も重要な大部分を占めるのである。
 だから先の成句は正鵠を射ていると言える。善かれ悪しかれ子ども(人間)の行動はその大部分を母の教育・養育に負うのだから。であるから、母の行動は手本とされ、最も重要な教育的要素となるのである。
 三つの時代に渡る女性闘士で、経済学者、哲学者でもあったS・K・トゥリ・ムルティ Dra. S K Tri Murti 女史の指導した雑誌『マワス・ディリ Mawas diri 〈内省〉』の記事にこうある。
 古の諺によれば、女は『スチ・アティ suci ati 、スチ・ルピ suci rupi 、スチ・ウニ suci uni 』を持たねばならない、とある。
 その意味は、
女に必要なのは外見的清らかさ、美しさだけではない。見た目の美しさ、可愛らしさとは、穏やかな話し振り、柔らかな『物腰 sak solahe 』であるが、それだけでなく内面の清らかさ、美しさが必要なのだ。それは心〈良心〉、愛情、慈悲といった仲間うちに向けられる良き心のことである。それゆえ多くの人は言う。「成熟した、人生経験の豊富な女の人は、いつも晴れやかな面持ちで、甘く魅力的な微笑みをたたえているものだ。」と。たとえば、エリザベス二世女王、イメルダ・マルコス、ジャクリーン・ケネディ、ロザリン・カーター〈第三十九代アメリカ大統領夫人〉、シリキット王妃〈タイ国王ラーマ九世王妃〉等々。こういった女性たちは皆、公の場に現れる際には晴れやかで安らぎに満ちた微笑みをたたえている。それは見る者の心を穏やかにし、渇きを癒し、熱く燃え盛る炎を鎮める力を持っているのだ。しかしこのように言う者もいる。「女の微笑みは危険だ。」ヨーロッパの著名な歌手、ミック・ジャガーは言う。ーー女が『歯を見せる Ngumbar gigi 』わけは三つある。ひとつ目は口を閉められないから。二つ目は多分宝くじに当たったから。三つ目は新品の金歯をいれたからだと。そうだとしても、女性には魅力的かつ大いに笑っていてほしいものである。歯医者の待合室にも『笑って!世界中があなたの笑顔につられて笑うから』と掲げてあるではないか。
 このスローガンはとりわけ女性にとっては大事だといえる。というのも、あなたが笑えばみんな笑うけれど、泣いていたなら、独りで泣くしかない。誰もハンカチを差し出してはくれないのだから。でも独りで大笑いしてはいけません。気が違ったと思われてしまうから。
 女性を理解することは難しい。けれど、お辞儀をすることは難しいことではない。そうすれば、女性たちの意見をたくさん聞くことができるだろう。
 現代の先端技術時代では、あらゆる分野に女性が進出している。
 かつて女性たちは『従属する者』にすぎなかった。『スワルゴ・ヌヌット・ヌロコ・カトゥット Swarga nunut neroko katut 〈(妻は)天国であろうと地獄であろうと(夫に)従って行く〉』。もはやこういった哲学が採用されることはないだろう。今や多くの女性が自立し、自己決定し、社会の命運を担っているのだから。
 国のスリカンディたち〈女傑〉として、やわな仕事から力仕事まで、たくさんの仕事の担い手となり、さらには市長や首相まで担うことになるだろう。
 つまり女性たちはあらゆる分野で多くの役割を占めているのだ。そうであるとはいえ、今日社会悪の分野にも女性の進出が増えていることもまた憂うべきことである。
たとえばーー麻薬の販売人のような凶悪な女性もあり、
    ーー物欲しさに自らの身を売る女性たちもいる。
 我々は、子どもを養育し教育するという重要な仕事を女性たちが担っていることにおおいに注意を払うべきである。今は亡きスラカルタの偉大な宮廷詩人、ラデン・ンガベイ・ロンゴ・ワルシト Raden Ngabei Rpnggo Warsito の予言が本当になって来ているのだ。彼はこう歌っている。『 Wadon nir wadoniro, karana kaprabaweng salokorukmi 』、「金と銀(財産)に左右されて、女たちは女らしさを無くしてしまう」と。まさしくこの予言は今現実のものとなっているのだ。
 かくして女性の、女性のための、女性による見直しが必要とされているのだ。
 そうとはいえ、我々は女性たちの長年に渡る闘争を誇りに思うべきである。ワヤン(の中の)女性を分析する前に、まずは〈女性〉開放への一連の歴史的事項を一覧してみよう。

1328年ーーインドネシア、マジャパイト Majapahit ーークルタヌガラ Kertanegara の娘トリブヴァナー Tribhuana 〈Tribhuvana〉がラージャパトニ Rajapatni /ガーヤトリー Gayatri の名においてマジャパイトの王となる。
1691年ーーアメリカ合衆国ーーマサチューセッツ州で女性参政権が認められる。この権利は1780年に失われた。
1788年ーーフランスーー哲学者・経済学者のコンドルセ〈コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年9月17日 - 1794年3月29日)は、18世紀フランスの数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人と目されている。〉が女子教育、女性参政権、就労権を訴える。
1792年ーーイギリスーーフェミニズムの先駆者メアリ・ウルストンクラフト Mary Wollstonecraft が『女性の権利の擁護 Melingungi Hak-hak wanita 〈A Vindication of the Rights of Woman〉を著す。
1840年ーーアメリカ合衆国ーールクレチア・モット Lucretia Coffin Mottが『奴隷制反対教会 Assosiasi Hak-hak yang sama 〈 the America Anti-Slavery Society〉を設立。女性ならびに黒人の権利を訴えた。〈モットLucretia Coffin Mott( 1793〜1880):アメリカのクエーカー派牧師で,夫ジェームズとともに奴隷制廃止運動,女性の権利のための運動を指導。1833年,アメリカ奴隷制反対協会組織の際,会規約起草を手伝ったが女性の加入は認められなかったため,フィラデルフィア女性奴隷制反対協会を設立した。40年,ロンドンでの世界奴隷制反対大会にアメリカ代表として臨んだが女性の出席を拒否された。このとき知り合ったエリザベス・スタントンとともに,8年後,セネカ・フォールズで女性の権利のための大会を開き,アメリカ女権運動の端緒をつくった。〉
1857年ーーアメリカ合衆国ーー3月8日、繊維・衣服工場の女性従業員たちが賃金の平等と就労時間を一日十時間に軽減することを訴えて労働ストライキを敢行する。
1859年ーーロシアーーペテルブルグで女性解放運動が起こる。
1863年ーースウェーデンーー地方選挙での投票権を女性が獲得。
1865年ーードイツーールイーゼ・オットー Loise Otto がドイツ女性のための「全ドイツ女性協会」を設立。
1866年ーーイギリスーー哲学者・経済学者ジョン・スチュアート・ミル Jhon Stuart Mill が女性参政権を提唱。
1868年ーーアメリカ合衆国ーー「全国婦人参政権協会」設立。準州議会の採決により、ワイオミング州で女性参政権が与えられる。
1870年ーースウェーデン、フランスーー女性の医学教育への門戸が開かれる。
      トルコーー小、中学校女子教員養成カレッジ設立。
1874年ーー日本ーー女子師範学校開設。
1878年ーーロシアーーサンクトペテルブルクSt. Peterburug にロシア初の女子大学開校(ベストゥージェフ Bestuzhev 大学)。
1879年ーーインドネシアーー1879年4月21日、インドネシア最初の女性解放運動闘士R・A・カルティニが生まれる。
1882年ーーフランスーー著名作家ヴィクトル・ユーゴーの協力で「女性参政権協会」が設立される。
1888年ーーアメリカ合衆国ーースーザン・B・アンソニー Susan Brownell Anthony が「全米女性参政権協会」を結成。ヨーロッパ、北米の女性団体により「国際女性評議会 International Coucil of Women 」がワシントンで開催される。
1869年ーーロシアーー著名な数学者、ソフィア・コワレフスカヤ Sofya Kovalevskaya がロシア科学アカデミーのメンバーに選ばれる。
1893年ーーニュージーランドーー女性参政権が認められる。
1901年ーーフランスーー共和主義社会党のルネ・ヴィヴィアニ Rene Viviani の提案で、フランス議会が女性参政権について審議する。
    ーーノルウェーーー地方議会における女性参政権(投票権)が認められる。
1903年ーーイギリスーーエメリン・パンカースト Emmeline Pankhurst が「女性社会政治連盟 Women's Social and Political Union 」を結成。
1904年ーーアメリカ合衆国ーー「国際女性参政権同盟 International Women Suffrage Alliance )」が組織される。
1905年ーーイギリスーーマンチェスターでフェミニスム総会。アニー・ケニー Annie Kenney とクリスタベル・パンカースト Christabel Pankurst が勾留される。
1906年ーーフィンランドーー女性の選挙権と被選挙権が認められる。
1908年ーーイギリスーー女性解放同盟が組織され、アルバートホールとハイドパークでデモンストレーションが行われる。トラファルガー広場で集会。クリスタベル・パンカースト Christabel Panhurst とフローラ・ドゥラモンド Flora Drummond が投獄される。
1910年ーーデンマークーー国際社会主義女性会議においてクララ・ツェトキン Clara Zetkin が、3月8日を「国際女性デー」とすることを提唱。ニューヨークで起こった繊維業労働者の女性たちのストライキ(1857年3月8日)をうけたもの。
1911年ーー日本ーー女性解放運動団体「青鞜社」結成。
1912年ーー中華民国ーー1月22日南京で女性解放組織が男女同権を求めた請願書を孫文に提出。孫文は3月20日中華民国初代大統領に就任。
1913年ーーノルウェーーー女性選挙権が認められる。
      ドイツ、オーストラリア、スイス、デンマークーー3月8日「国際女性デー」が祝われ、選挙権、被選挙権の獲得が訴える。
1914年ーートルコーーイスタンブール大学で女子学生の受け入れが実施。
1915年ーースウェーデンーーエレン・ケイ Ellen Key が産児制限と未婚女性の福祉問題に関する著作を著す。
1917年ーーオランダ、ロシアーー女性参政権が認められる。
    ーーソビエト連邦ーー10月革命で女性の政治・経済・文化における平等が宣言される。1918年憲法発布。
1918年ーーイギリスーー30歳以上の女性に選挙権が与えられ、議会の議席が与えられる。
1919年ーードイツ、チェコスロヴァキアーー女性参政権が認められる。
1920年ーーアメリカ合衆国ーー全州で女性参政権が認められる。
1923年ーー南米ーーチリ、サンチャゴで4月26日国際南北アメリカ会議が開催され、女性の権利に関する決議が採択される。
1929年ーーエクアドルーー女性参政権が認められる。
1932年ーースペインーー自治憲章〈第二共和政〉が成立、女性参政権が認められる。
1934年ーーフランスーーパリで戦争とファシズムに反対する「国際夫人会議」が開催される。
1936年ーーフランスーー原子物理学者イレーヌ・ジュリオ=キュリー Irene Joliot-Curie を含む三人の女性がノーベル賞を受賞。しかしブルム Blum 政権下では女性の参政権は認められていなかった。
1945年ーーフランス、イタリアーー女性に参政権が認められる。
1947年ーーインドネシアーーマリア・ウルファ・サントソ Maria Ulfah Santoso が女性初の閣僚となる(インドネシア共和国社会大臣 menteri Sosial 、1946年10月2日〜1947年7月27日在任)。
       1947年7月3日〜1948年1月28日:トゥリムルティ Dra. Sk. Trimurti がインドネシア共和国労働大臣を務める。
1952年ーー国際連合(PBB;Perserikatan Bangsa-Bangsa)ーー12月20日国連総会決議において「女性の参政権に関する条約」が締結される。
1957年ーーチュニジアーー国権に関する男女平等を定める新法が制定される。
1959年ーースリランカーーシリマヴォ・バンダラナイケ Sirimavo Ratwatte Dias Bandaranaike が世界初の女性首相となる。
1964年ーーパキスタンーーファーティマ・ジンナー Fatimah Jinnah が第一回大統領選挙の候補となる。
1967年ーーイランーー『家族保護法』で女性の就労権を認める。1963年以来イラン女性はベールの着用が禁じられた。
1971年ーースイスーー女性の被選挙権が認められる。
1975年ーー国際連合ーー国際婦人年決議。
    ーーキューバーー3月8日、「家族法 Código de Familia 」施行。キューバ男性は家事や子育てを妻(パートナー)と平等に負担しなければならない。

カルティニとその理想

 カルティニがインドネシアの地に生まれてほぼ百年が過ぎた1975年4月1日になってやっとインドネシア共和国婚姻法が誕生した。それ以前の『女性の世界』は未だ闇のなかだったのだ。カルティニは1879年4月21日生まれ。まさしく『光は暗闇を越えて』である。
 1902年2月28日、イブ・カルティニはアルベン・ダノン・マドゥリ Arben Danon Madri 女史に手紙を書いている。
 「私は知識と理解を求め願う大きな子どもにすぎません。理解とは敏感になる技術です。そうではありませんか?親愛なる友よ。人が何かを理解するならば、感情にあふれた柔軟な評価をし、より有用なものにしなくてはなりません。」
 「ヨーロッパの教育はまだ一般的ではありません。特に現地の娘たちにとっては。人々が自立するためには、子どもの時から良い教育をうけなくてはなりません‥‥。」
 それこそがイブ・カルティニが心から欲した理想のひとつ、女性に対する教育である。
 この理想は、彼女自身の体験と、社会環境に関わることを伝統の壁に阻まれている仲間たちの姿を見てわきあがって来たものである。
 イブ・カルティニ自身は12歳から『閉じ込められた dipingit 』〈ジャワ貴族の慣習で、年頃の娘は「婚前閑居」として家に閉じ込められる〉。当時の慣習は女性に広い教育を受ける機会を与えようとしなかったのだ。この苦しみと現実がイブ・カルティニを悲しませ、行動させたのである。だが現実には仲間たちは『スワルゴ・ヌヌット・ヌロコ・カトゥット Swarga nunut Neraka katut 』な者でしかなかった。離婚による寡婦もたくさんいた。そしてさらに女性たちを苦しめ押さえ込むものがあった。それは女性が対峙しなければならない現実、複数の妻を迎えるか、離婚するかを決めるのは夫であるということだ。このことが彼女の手紙のあちこちに反映されている。
 「私は自分のことを深く考えます。外の世界は私たちを取り囲む苦しみと貧困にみちています!私のまわりの人々のうめき、苦しむ声が耳に響き、瞬く間に涙が溢れ、あたりが揺れているように感じます。」
 こういったことがイブ・カルティニを闘士として突き動かす源泉となったのだ。急速にわきあがる切望がイブ・カルティニをして仲間の開放と教育を求める闘士たらしめたのである。イブ・カルティニは『女性の前進と、妻となる以外の役割が受け入れられること』を望んだ。人々はイブ・カルティニにふさわしい称号をあたえた。
 『イブ・カルティニは真の女性
  インドネシアの娘、その名は芳香をはなつ
  我らが母カルティニは民族の闘士
  仲間たちの独立の闘士なり
  ああ我らが母カルティニ、始まりの女よ
  まさしくインドネシアのおおいなる理想』

ワヤンの女たち

 一般の女性解放闘争はこのようなものであった。イブ・カルティニは〈女性〉開放に向かって、独立と進歩を目指す闘士となったのである。
 さて、これからワヤンの女性人物たちを見ていこう。とくにそのキャラクター、立場、役割といったものに注意しながら。デウィ・ルヌコ、デウィ・シント、カウサルヨ 1)、デウィ・デワヤニ、サルミスト、ゴンゴ、ロロ・アミス、アムビコ、アムバリコ、オムボ、スリカンディ、ドゥルゴ 2)、グンダリ、クンティ、ノゴギニ、アリムビ、ドゥルパディ、トゥリジョトその他の人物たちである。

1)すでに『ワヤンとその登場人物〜ハルジュノソスロとラマヤナ』でも取り上げている。
2)『ワヤンとその登場人物〜マハバラタ』。

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by gatotkaca | 2013-06-30 12:55 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンの女たち 序文、書評

『ワヤンとその登場人物』シリーズ第三弾。『ワヤンの女たち Wayang & Karaker Wanita 』を紹介します。この本ではワヤンの物語に登場する女性キャラクターを中心に、女性のありかた・生き方、人生とは何かを考察しています。第一章ではカルティニを含む世界の女性解放運動の経緯を概観し、23章あたりからは、読者との「一夫多妻と一妻多夫」論争もあり、興味深いものです。この論争、日本人にはわかりにくいかもしれませんが、インドネシアはイスラームの関係もあって一夫多妻を法律で認めていますから、ジャワ・インドネシアの人たちにとっては「一夫多妻と一妻多夫」論争は現実の自分たちの問題でもあるわけです。そんなわけで、個人的にはシリーズ中、この本が一番おもしろかった。
 では、しばしのおつきあいを。

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イル・スリ・ムルヨノ著
『ワヤンの女たち』

Seri; PUSTAKA WAYANG 4
WAYANG & KARAKTER WANITA
oleh Ir.Sri Mulyono
PT Gunung Agung -Jakarta; 1983 (Catakan Pertama 1977)


序文

ビスミラーイ・ラーマニ・ラーヒム。 Bismillahir Rokhamanir Rohim.

 「ワヤン・シリーズ第四巻 『ワヤンと女性 Wayang dan Wanita 』」と題する本を出版できましたことを、慈悲深きアッラーの御前に感謝申し上げます。
 本書「ワヤンと女性」は1977年の4月21日『カルティニ Kartini の日』を祝して出版された。4月21日は独立の闘士であり、女性の規範であったイブ・カルティニの誕生した日である。
 本書はワヤン・シリーズの1〜3とは趣きが異なるが、同じように読んでくださって結構である。ワヤン・シリーズとは1『ワヤン、起源、哲学、その未来 Wayang, asal-usul, filsafat dan masa depannya 』、2『ワヤンとその登場人物 〜ハルジュノ・ソスロバウとラマヤナ Wayang dan Karakter ManusiaーHarjuna Sasra Bahu dan Ramayana 』、3『ワヤンとその登場人物 〜クロウォとパンダワの祖先たち Wayang dan Karakter ManusiaーNenek Moyang Kurawa dan Pandawa 』である。
 本書では特に『ワヤンの女たち』のキャラクター、性格、さまざまな側面にスポットを当てている。とはいえ、これらはその夫や息子たちといったワヤンの他の人物と切り離せないものでもある。比較として、後半では現代女性の実生活と関わるいくつかの事例を挙げている。たとえば一夫多妻と一妻多夫の問題である。
 『フェミナ FEMINA 』誌の承認のもと、トゥティ・アディトモ Tuti Adhitama 女史の一夫多妻と一妻多夫に関するご意見を掲載させていただいた。この問題をより深く理解するために、著者と読者諸賢でその長所・短所について意見を述べ合った。
 女性問題というのはずっと昔から今日まで議論されるべきものとしてあり続けている。であるから、比較対象として『ワヤンの女たち』の生き方を読者諸賢に紹介したい。それは我々自身の生と人生の象徴でもあるから。
 おわりにインドネシア・ワヤン財団 Yayasan Pembinaan Pwwayangan Indonesia 『ナワンギ NAWAngi 』とインドネシア国家ワヤン機関 Sekretariat Nasional Pewayangan Indonesia 『セノワンギ SENA WANGI 』、『フェミナ』誌、P・N・バライ・プスタカに感謝申し上げる。そして本書の出版に尽力してくれた同僚たちにも感謝を忘れてはならないだろう。
 有用でありますように。

1977年4月21日
著者 イル・スリ・ムルヨノ



書評
人はワヤンをどれほど活かせるか


 一般のジャワ人がワヤンを見物し、やがてそれを愛するようになるのは本能であり、伝統でもある。時を経てそれは熱狂的なものとなる。ワヤン全部とはいかなくても、特定の人物を贔屓するようにはなるだろう。そしてついには崇拝や神話と化すのである。そういうわけで、ドゥマク Demak にはプラブ・ダルモクスモ Prabu Darmakusuma 〈パンダワ五王子の長兄ユディスティロ〉の墓があるのだ。 
 そしてまた、そういうわけでワヤン愛好家の間にはある逸話が息づいている。マドゥラ Madura 〈島〉でワヤンを上演するダランは、マンドゥロ Mandura 国王プラブ・ボロデウォ Baladewa が負ける場面を演じてはならぬ。もしそんな場面を演じたら、マドゥラの人々が大暴れし、ダランはぼろぼろに痛めつけられることになる、と。
 どうしてだろう?マドゥラの人々の故郷は、プラブ・ボロデウォの国と同じ名であり、彼らはボロデウォを自分たちの祖先であると信じているからなのだ。
 この種の事柄がどこまで誤りであるかを正すことは困難であろう。こういった事柄がワヤンに命を与えてもいるのだし、確かな基準などないのだから。
 とはいえ、今や一般のワヤン愛好家を『夢』から目覚めさせる本が出版された。それはイル・スリ・ムルヨノの『ワヤンとその登場人物 Wayang dan karakter manusia 』である。
 この本は著者が二十人ほどのワヤンの人物たちをこの世の人物とみなして哲学的手法で分析し、解剖したものを収めてある。著者の言葉によれば、ワヤンとは我々の鏡であり、『人生の百科事典』なのだ。であるから、ワヤンを観る者はそれを単なる娯楽、何ら主張を持たない見世物と看做してはならない。それは過ちである!同様に『クバティナン kebatinan 〈ジャワの土俗信仰を基礎とした民間信仰〉』を愛する人々が、何ら益の無いものとするのもまた過ちである。『誤った受容 salah terima 』は彼らの経験を過ちに導くことになる。彼らも一般のワヤン見物たちと同じである。あちこちで独りよがりにお喋りに夢中になって、ワヤンの内容、意味を捉えようとしないのだ。
 ワヤンの裏に隠された『何か』を探し出すことは容易ではないと知るべきである。それを知るのはスル・ムルヨノのような人だけなのだ。それは有象無象の人々は言うに及ばず、多くのダランでさえも到達し得なかったことである。であるから、スリ・ムルヨノの書いたものに注目し、感謝しなければならない。スリ・ムルヨノは我々ワヤンを観るものたちを、真実なる意味と方法へと誘ってくれる。
 この種の本を著すというスリ・ムルヨノの労は並大抵のものではない。二つの資質を要するからである。第一は、ワヤン愛好家からの反応に対し果敢であること。第二は『外科手術のメス』のように鋭い知識に十分であること。
 ワヤン愛好家からの本書への反応は、示唆に富んだ書簡ばかりではなく、芳しくない言葉もあったと聞く。
 ある者は書簡で文句を言ったと言う。著者の本を読んで、ワヤンに対する理解が混乱したと。混乱したかどうかはさておき、その人には感謝せねばなるまい。というのもその人の混乱というのは、我々自身の人生のものでもあるからだ。ワヤンの混沌の本質は人生・生そのものだからである。であるから、彼が混乱したということは、彼がワヤンを『知り』始めたということでもあるのだ。それは我々自身の人生・生なのだから。言い換えれば、ワヤンを知るためには、まず(人生が)『混沌』であることを知らねばならないのだ。
 本書『ワヤンとその登場人物』は上記のように二十人ほどの人物の分析を集めてある。最初はジャカルタの週刊誌に連載されたものだ。本書には読者の反応として送られて来た書簡も収められている。その言葉は流暢で簡潔、ユーモアに溢れている。
 本書が多くの愛好家・読者に向けられたものであるからである。

1977年1月13日 シナル・ハラパン SINAR HARAPAN
ハルジョノ・Hp Drs−Hardjana Hp

(つづく)
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by gatotkaca | 2013-06-29 12:55 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 最終回

40.ガトコチョ、夜戦ドクトリンの先駆けとなった天空の戦士

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 ガトコチョは生まれたときラクササ〈羅刹〉の姿であった。名はプトゥット・トゥトゥコ Putut Tutuka という。両親のビモとアリムビ Arimbi はガトコチョがラクササ姿で生まれたことをとても悲しく思ったが、不平は言わなかった。
 トゥトゥコの誕生と時を同じくして、天界カヤンガンはサキプ Sakipu に率いられたラクササ〈羅刹〉の軍勢からの攻撃を受けた。神々は敗れ、散り散りになって逃げ、地上に助けを求めた。そして神はサキプに対抗する戦士としてトゥトゥコを借り受けるためビモのもとを訪れたのである。両親は承知し、快く息子の養育を神に委ねた。ナロド神が引き受け、鍛錬のためにチョンドロディムコ Candradimuka 火山にガトコチョを放り込んだ。
 さすがにビモ(1976年2月22日 ブアナ・ミング参照)の息子であるから、彼は試練に『優等 cum laude 』で合格した。カヤンガン・ティンジョモヨ Kahyangan Tinjumaya の訓練場でトゥトゥコは立派なサトリアに成長した。そして三つの戦士としてのライセンスを賜ったのである。『クタン・オントクスモ Kotang /Kutang Antakusma 』の上着は、ガトコチョが翼をもたなくとも、悪天候であっても、音速の三倍で空を飛ぶことのできるライセンスである。コンコルドより速いのだ。騒音をたてることもなく、有毒ガスを撒き散らすこともない。第二のライセンスは『チャピン・バスノンド Caping Basunanda 』という名の帽子である。これはどんなに熱くとも熱を感じず、どんな雨でも濡れることのない超能力を持つ。第三のライセンスは『ポド・カチャルモ Pada Kacarma 』の靴である。これはどんな『妖し angker 』のいる場所を通っても呪われることのない超能力を持つ。現代風に言えばさしずめ宇宙服のようなものである。
 彼は目指す場所へ、空からあっという間に行ける。惑星や月も、ガトコチョにとってはゴルフのグリーンのようなものなのだ。だから彼がサキプとプラブ・コロ・プラチョノ Kala Pracana の率いるラクササ軍との空中戦に勝利し得たのも驚くほどのことではない。彼の最初の任務は輝かしい成功に終わった。二人のラクササの首はガトコチョの手であっさりと打ち落とされたのである。
 彼のキャリアは昇り続ける。特筆すべきは、ガトコチョがプリンゴダニ Pringgadani 国の若き王となったことだろう。プラブ・アノム・コチョヌゴロ Prabu Anom Kacanegara がその称号である。コチョとは鏡を意味する。つまりガトコチョが国のための手本となる人であることを意味するのだ。むろんガトコチョの行動、性格は手本とするに値するものである。高い地位にありながらも、彼は側近もつけず、特別車も使わなかった。すべては国に還元されたのである。『クタン・オントクスモ』を履いていれば、どこへ行くにも彼は徒歩で十分であった。
 キ・ダランの語りによれば、ガトコチョは鋼の筋肉を持つサトリア、その骨は鋼鉄、指ははさみのよう、足は鋤のよう鋭く、その汗はミルク・コーヒーより甘い、と語られる。けれどこれらはすべて象徴的・比喩的表現であることを忘れてはならない。つまりガトコチョとは、何を為すにおいても、鉄のように強い意志を持ち、冷静で鋭い手足〈の動作〉をすることのできる人間の象徴なのである。退くこと無く、たゆみなく前進し、負けを知らない『シカタン Sikatan 〈ヒタキ〉』鳥のごとき熟練した者の謂いである。
 それゆえ大戦争バラタユダにおいて、彼はアスティノ国の戦士プラブ・カルノに対抗しうる者として信頼されたのだ。そこでガトコチョは夜間戦闘の先駆けとなった。夜襲は昼の戦闘よりも成功率が高いのだ。
  The future security of our nation is dependent upon an adequate Air-force (将来の我が国の防衛は十全な空軍力に依存している)。T・ネヴィット・ドュピュイ〈トレヴァー・ネヴィット・デュピュイ(Trevor Nevitt Dupuy、1916年5月3日 - 1995年6月5日)は、アメリカの退役陸軍大佐・軍事史家。原文; F.Nevitt Dupuy だが綴り誤り〉大佐はその著『第二次世界大戦軍事史 The Military History of World War Ⅱ 』でこのように言っている。「 Thus the final Blows that caused Japan to acknowledge, defeat were delivered from the air. (かくて日本に敗北を認めさせるにいたった最後の一息は、空から放たれたのであった)、と。そして歴史は証明している。海(太平洋)から始まった戦争は、空爆で終わりを告げたのである。

1976年4月11日 ブアナ・ミング


最後に著者イル・スリ・ムルヨノの略歴を記す(セノ・ワンギ刊『エンシクロペディ・ワヤン・インドネシア』による)。

イル・スリ・ムルヨノ・ジョヨスパドモ Ir. SRI MULYONO DJOJOSUPADMO
Marsekal Pertama TNI (Tentara Nasional Indonesia ) 〈インドネシア国軍・空軍准将〉

 イル・スリ・ムルヨノ・ジョヨスパドモは1930年6月14日、〈中部ジャワ、〉スラカルタ、クラテン Klaten 、ワンゲン Wangen 生まれ。1959年ジョクジャカルタ・ガジャマダ大学土木工学教員課程 Fakltas Teknik jurusan Sipil Unuversitas Gajah Mada Yogyakarta 卒。その年TNI〈インドネシア国軍〉空軍将校となり後、TNI空軍准将。
 文化人としてインドネシアのワヤン藝術に多大な貢献をした。卓越したダランとして知られ、またワヤン文化に関する多くの著作を残した。
 著作に『ワヤンの女たち Wayang dan Karakter Wanita 』、『ワヤン、起源、哲学、その未来 Wayang, Asal Usul, Folsafat, dan Masa Depannya 』、『ワヤンとその登場人物 Human Character in Wayang (英語版)』、『トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ Tripama, Watak Satria, dan Sastrajendra 』、『スマルとは何者か Apa dan Siapa Semar 』、『ワヤンとヌサンタラの哲学 Wayang dan Filsafat Nusantara 』、またジャカルタの週刊誌『ブアナ・ミング』のコラム『ワヤンとその登場人物 Wayang dan Karakter Manusia 』でも知られる。
 1975年「セノ・ワンギ SENA WANGI 〈Sekertariat Nasional Pewayangan Indonesia インドネシア・ワヤン国立事務局〉事務総長として初代首長となる。彼はワヤン文化普及にワヤンのコミック本を用いることを提唱した人物でもある。この時代セノ・ワンギはPT・イナルトゥ PT Inaltu 出版と提携し、数々のワヤン本、とくにコミック本を出版した。
 空軍准将でありダランでもあった彼は、スカルノ大統領の命で、イスタナ・ヌガラ Istana Negara とイスタナ・ボゴール Istana Bogor において数次ダランを務めた。1964年スラカルタ王宮でダランを務めた際には、王家の家宝キヤイ・カドゥン Kyai Kadung を使用した。
 イル・スリ・ムルヨノはスラカルタのPDMN(マンクヌガラン・ダラン教練 Pasinaon Dalang Mangku Negaran )でダラン術を学んだ。


(おわり)
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by gatotkaca | 2013-06-10 00:20 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 第39章

39.コクロソノ、農家に潜んだ王子がクーデター鎮圧に成功する

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 キ・ダランの語るところによれば、コクロソノ Kakrasana はプラブ・バスデウォ Prabu Basudewa とデウィ・ロヒニ Dewi Rohini の息子であったが、命を狙われたため赤ん坊のとき、弟のノロヨノ Narayana 、妹のブロトジョヨ Bratajaya と共にウィドロカンダン Widrakandang 村にかくまわれた。彼らはドゥマン・オントゴポ Demang Antagopa とニャイ・サゴピ Nyai Sagopi に育てられた。コクロソノは開墾と農作に才能を発揮した。成人してからは何でも作り、どんな作物も豊作にした。マンドゥロ Mandura 王国の王宮の門も立派に作った。二本のブリンギン〈ガジュマル〉の樹が家の前に植えられていた。田と畑は豊かな緑におおわれ、小山のような一頭の象も飼われていた。古のワヤンの時代にも工学技術はあって、彼はエンジニアの資格を持っている人のようだったのである。
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*)コクロソノは後のプラブ・ボロデウォ Prabu Baladewa 。クレスノ(ノロヨノ)と、アルジュノの正妻スムボドロ(ブロトジョヨ)の兄である。
 インド版でのクリシュナ、バララーマ兄弟とカンサの物語。ヤーダヴァ族の王カンサは多くの悪行を働いていた。神々は対策を協議し、ヴィシュヌがカンサの妹(姪とも)デーヴァキーの胎内に宿り、クリシュナとして誕生するよう定めた。ある時カンサはデーヴァキーとその夫のヴァスデーヴァを乗せた馬車の御者を務めていた。都への途上、どこからか「デーヴァキーの八番目の子がカンサを殺す」という声が聞こえた。恐れをなしたカンサはヴァスデーヴァとデーヴァキーを牢に閉じ込め、そこで生まれてくる息子達を次々と殺した。デーヴァキーは7番目の子バララーマと八番目のクリシュナが生まれると直ちに、ヤムナー河のほとりに住む牛飼いのナンダの娘(同日に生まれた)とすり替え、二人をゴークラの町に逃がして牛飼いに預けた。
 一方カンサはクリシュナが生きている事を知り、すぐさま配下のアスラ達を刺客として送り込むが、悉く返り討ちにされた。そこでカンサはクリシュナとバララーマをマトゥラーの都へ呼び寄せて殺害を謀るもクリシュナに斃された。

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 ご存知のように後日、コンソ Kangsa は諜報員からコクロソノとノロヨノがウィドロカンダンにかくまわれてまだ生きているとの報告を受けた。コクロソノとノロヨノは、マンドゥロ国を乗っ取ろうする彼の計画の邪魔になる。彼はすぐさま二人を捕らえるための軍を送り込んだ。デウィ・ブロトジョヨだけは小舟でウィドロカンダンからスンカプラ Sengkapura *) へ移されたのだった。だってこの時代にはまだ『ヴォルヴォ Volvo 』はありませんから。
 *)サンカプラ Sangkapura はジャワ島沖、スラバヤ、マドゥラ島の約百五十キロ北に位置するバウェアン島 Pulau Bawean の地区。
 幸いにもコクロソノとノロヨノは捕まらずにすんだ。二人とも当局の手の届かぬところにいたからである。コクロソノはアルゴスニョ Argasunya 山の頂で苦行中であり、ノロヨノはギリプロ Giripura 山で師に仕えていたからである。
 コクロソノは飲まず食わずの断食を何ヶ月も続けていた。そして川の流れに身を浸す『トゥムプラン Tempuran 』も毎日行っていた。ようするに激しい苦行 tirakat をしていたのである。
 その苦行の激しさが天界を揺り動かし、不穏にさせた。マルチュクンド Marcykunda の館に座していたシヴァが揺すられるほどであったのだ。地震で地滑りが起こった。ヌロコ Neraka 〈ナラカ;地獄〉もかき混ぜられたかのようにぐらぐらした。大雨が降り、洪水で泥まみれ lumpur blegedaba になり、ジュングリン・サロコ Junggring Salaka 〈シヴァ=バトロ・グルの王宮〉の屋根までが浸かってしまうほどだった。天界の妖精ビダダリたちは安全を求めて逃げ惑い、洪水から逃れられたのは屋根に昇った神だけだった。
 『テレビの緊急放送』を見て神々はこの騒動を起こしたのがコクロソノであることを知ったのだ。かくて火神ブロモ Brama がアルチョポド Arcapada 〈地上〉へ降下し、アルゴロ Alugara とヌンゴロ Nenggala という棍棒の宝具を恩寵として与えた。
 「さあコクロソノ、すぐにマンドゥロ国へ行け。」ブロモ神はきっぱりと命じた。「マンドゥロ国の王位を奪おうとしているコンソの陰謀を阻止するのだ。真実マンドゥロ国の王権はそなたのものであると知れ。」
 勇猛なるコクロソノは、父の王位を転覆しようと画策するクーデターを殲滅することに成功した。そして彼は反逆者コンソの頭をヌンゴロで叩き潰したのである。
 国は喜びと繁栄に満ち満ちた。かくてコクロソノは皇太子、パンゲラン・パティ Pangeran Pati となったのである。

1976年3月7日 ブアナ・ミング
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by gatotkaca | 2013-06-09 03:49 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 第38章

38.ドゥルゴ、美女はホモ・ホミニ・ルプスとなって牙を生やす

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●バタリ・ドゥルゴ Batari Durga は美女であったときの名をデウィ・ウモ Dewi Uma 、またウマイ Umayi という。オマランOmaran という商人の子であった。ウモは超能力を得るため、山々の頂きで禁欲し苦行し、たびたび川に浸かって『クンクム kungkum 〈水に浸かる苦行〉』を行った。ときには何週間も、何ヶ月も、果ては何年にもわたって。その『烈しさ gentur 』から、彼女の顔は輝きを発するようになり、多くの人が『カスマラン kasmaran 』(恋におちる)となった。
 その超能力のゆえに多くの人々が弟子となった。男も女も老いも若きも、彼女の家は人でいっぱいになった。祝福を乞う者あり、売り物を持って来る者、結婚したいと願う者、地位や名誉を求める者。今なら試験の合格祈願に学生たちが集まって来ることだろう。何でも生み出せ、何でもできる、新たなトップが現れたのだ。
 さて、ある日サン・ヒワン・ギリノト Sang Hyang Girinata 、つまりバトロ・グル Batara Guru 〈シヴァ神〉は山の上でくつろいでいるウモを見た。ウモの美しさにバトロ・グルは心魅かれた。最初のうちウモの態度はかたくなであった。というのも彼女は仲間たちのために『生の完全性の教え ilmu kesempurnaan 』を深めようとしていたからである。しかし抗し得ず、運命を悟って、彼女は修業をやめ妃となることにした。そしてビダダリ bidadari 〈天界の妖精〉たちの女王となったのである。つまりはバトロ・グルの超能力に敗れたのだ。
 ある日、バトロ・グルはサン・ヒワン・アシ・プロノ Sang Hyang Asih Prana から、バタリ・ウモがまだ満足せず、敬い難い行為で鬱憤を晴らしているという知らせを聞いた。報告を聞いたサン・ヒワン・ジャガド・ギリノト Sang Hyang Jagad Girinata 〈グル〉は激怒した。デウィ・ウモはバトロ・グルに呪われ、ラスクシ raseksi 〈羅刹女〉に姿を変えられた。その傲慢な行為の報いとして口もとから牙を生やす身となったのである。
 呪われたウモはサン・ヒワン・ジャガド・ギリノトの前に崩れ落ち、悲痛な面持ちで泣きながら罪の許しを乞うた。しかしもはや米は粥になってしまったのだ。ウモは名を『ドゥルゴ Durga 』と代えた。ドゥルゴとは悪、過ちを意味する。
 そしてウジュン・ギリ・サロコ Ujung Giri Salaka 〈グルの天界〉からセトロ・ゴンドマイト Setra Gandamayit (セトロは場所、ゴンドは臭い、マイトは死体の意)に追いやられた。つまりその森は死体、また化け物、『ガワット・カリワット・リワット gawat kaliwat-liwat 〈お化け・危険なもの〉』の臭いのするところを意味するのである。『ジャンモ・モロ・ジャンモ・マティ janma mara janma mati 〈来た者は死者となる〉』この森に踏み入った者は誰あろうとラクササ、ガンダルウォ Gandruwo 、ウェウェ Wewe 、バナスパティ Banaspati 〈いずれも魔物〉に食われて死ぬのである。セトロ・ゴンドマイトとはまた、悪臭を放つ悪行を為した人が追いやられる森を意味する。神話によれば、セトロ・ゴンドマイトとはヌサカムバンガン Nusakambangan 〈ジャワ島の別名〉と同義語であるという。かくてドゥルゴはコロ Kala に委ねられた。キ・ダランの語るところによれば、コロとはラクササ姿の彼女自身の子である。コロはセトロ・ゴンドマイトのラクササたちの王である。バトロ・コロはバタリ・ドゥルゴと共に暮らした。彼らの仕事は伝統に違反した人間、たとえばオンタン・アンティン ontang-anting 〈一人っ子〉、釜をひっくり返した者その他の者たちを食らい、その血をすすることである。つまりはホモ・ホモニ・ルプス〈人にとっての狼たる人〉となったのだ。
 こうして食われた人たちは安寧を得て、ルワットされると信じられている。ルワット ruwat とは緊張状態におかれた魂を解き放つ儀式であり、自身にふりかかるであろう災厄を避け、取り除くことである。そういうわけで前回のサブトゥ・パイン Sabtu Paing の日にジャカルタでルワタンが催されたが、それはタブーを犯した子どもをルワットするためのものではなかった。ドゥルゴ自身とタブーを犯した神たち、チトロンゴド Citranggada とチトロセノ Citrasena をルワットしたのである。
 人々や神々の誰でもがルワットを行えるわけではない。その神は『 ora lanang ora wadom, ora ngadeg, ora linggih ora dunung ora papan 〈男でなく、女でなく、立っているでなく、座っているでもない〉』だがあらゆる場所にいる神だ。それは誰か?彼らこそサデウォ Sadewa とスマル Semar である。それはスマルと同じ魂の人を意味する。
 『スマルと同じ魂』となった人間の超能力で、バタリ・ドゥルゴは美しいウモに戻ることができたのである。〈訳注:ルワタンの演目が『スドモロ』であったことを意味すると思われる。〉
 ルワットされれば、再びタブーを犯さない限り、もうコロとドゥルゴに食われることはなくなるのだ。

1976年8月15日 ブアナ・ミング
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by gatotkaca | 2013-06-08 01:39 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 第37章

37. アルジュノはクレスノの車にもたれて神秘的恍惚を経験する

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バガヴァット・ギーター
 7. ウェドトモやチュンティニの話はここまでにして、さて、今はワヤンにもどろう。バガヴァット・ギーターにおいてスリ・クレスノに対峙したアルジュノの逡巡である。
 バガヴァット・ギーターは大戦争バラタユダの13日目に、クル・セトロ Kuru Setra の戦場で交わされたスリ・クレスノとアルジュノの会話で構成されている *。バガヴァト・ギーターには外面・内面、魂とサトリアたる人の生きる道といった内容の教義が内包されている。*)訳注:戦争の13日目とあるが、「マハーバーラタ」のバガヴァット・ギータの場面は戦争開始前である
 バガヴァット・ギーターはクレスノとアルジュノの18の会話からなる。
 アルジュノ〜ヴィサダ・ヨーガ Wisada Yoga、サンキーヤ・ヨーガ Sangkhya Yoga、カルマ・ヨーガ Karma Yoga、ジャヤヤ・ヴィ・バーガ・ヨーガ Djajaja Wi Bhaga Yoga、サンニャーサ・ヨーガ Sannyasa Yoga、アディヤートマ・ヨーガ Adhyatma Yoga、ジニャーナ・ヨーガ Djnjana Yoga、アクシャラ・ブラフマ・ヨーガ Aksara Brahma Yoga、ラージャ・ウィディヤ・ラージャ・グーヤ・ヨーガ Raja Widya Raja Goehya Yoga、ヴィブッティ・ヨーガ Wibhoeti Yoga、ヴィシュヴァルーパ・ダルヤナ・ヨーガ Wisjwaroepa Darjana Yoga、バクティ・ヨーガ Bhakti Yoga、クセトラ・クセトラ・ジンヤ・ヴィバーガ・ヨーガ Ksetra-ksetra Djinja Wibhaga Yoga、グナトラーヤ・ヴィバーガ・ヨーガ Goenatraya Wibhaga Yoga、プールーソッタマ・ヨーガ Poeroesottama Yoga、ダイヴァ・アルラ・サムパッド・ヴィバーガ・ヨーガ Daiwa Aoera Sampad Wibhaga Yoga、シュラース・ダートラヤ・ヴィバーガ・ヨーガ Sjras Dhatraya Wibhaga Yoga、サンニャーサ・ヨーガ Sannyasa Yoga である。
 その内容のすべてが文学的価値を持ち、哲学的、神秘学的価値を持つものである。
 ここではサーンキヤ・ヨーガの部分を引用しよう。
 ご存知のようにバラタユダとはパンダワ一族とクロウォ一族の間に起こった大戦争である。公正と正義、長年に渡ってクロウォによって簒奪されていたインドロプラストとアスティノ国の国権を回復するために行われた。紛争が限界を超え、ついにクルセトロの戦場において軍事的衝突が起こったのだ。
 アルジュノはスリ・クレスノの宝具たる戦車キヤイ・ジョロドロ Kyai Jaladara に乗って戦場に立った。スリ・クレスノは調停者 botoh 〈クレスノ自身は戦わない〉として、アルジュノの馭者を務めた。サン・サンカ・ポンチョジョヨ sang Sangka Pancajaya 〈銅鑼〉が打ち鳴らされ、それを合図に軍が戦場に進む。戦車ジョロドロからクルセトロの戦場を見渡す。アルジュノの目に、敵方に立つ〈義〉兄弟、長老、師、おじ、義父、愛する者たちの姿が映る。アルジュノの心に迷いが生じる。心沈み、打ち萎れ、悲しみにうちひしがれるのである。
 彼は言う。
 「おお、クレスノ兄よ。目の前に見えるのは我が一族だ。それが互いに殺し合わねばならぬ。我が力は萎える。鳥肌がたち、口が渇く。身体がふるえ、肌が焼かれるようだ。立っていることもままならぬ。
 心を無くし、望みも見失った。これは悪しきしるしではないのか?もはや勝利など求めぬ。喜びもいらぬ、権力もいらない。自身の兄弟、師を殺して手に入れる王国、権力に何の意味があろうか。人として大いなる罪を犯すくらいなら、敵などいらぬ、武器を取ることもしたくない。彼らのなすがままにしておくほうがよい。それが最上の道ではないだろうか。」
 アルジュノは弓も矢も投げ捨てながらため息をついた。戦場のただ中にある戦車の上で、アルジュノは腰をおろし、もたれかかったのである。
 英知に満ちたスリ・クレスノは答えた。
 「アルジュノよ、敵を前にして絶望し、迷うとはどういうことか?低俗で卑しい感情は捨てるのだ。漢たるそなたにふさわしくない。武器を取れ、勇猛に戦場へ進むのだ。」
 アルジュノは憂鬱な面持ちで対した。
 「ああ、クレスノ兄。あらゆる人々から敬意を受ける二人の戦士、エヤン・ビスモとブラフマナ・ドゥルノにどうやって弓を引けというのか。三界の王権を与えられたとしても、世俗の喜びのために一族を殺すなど、受け入れられぬ。我らはおおいなる罪を犯すことになるだろう。エヤン・ビスモは幼少より私を育ててくれた人だ。ブラフマナ・ドゥルノは我が師だ。師は数々の戦いの教義を授けてくださった。クレスノ兄よ、迷い、苦しむ私を教え導いてほしい。
 私に我が義務を示されよ。我が忠誠を失わせるものが何なのか私にはわからない。私はさしたる価値も無い喜びを奪いとるための戦いを望まない。血肉を分け一族たちを殺すことでしか道がないのであれば。おおクレスノ兄よ、バラタユダはこの今やめにしよう。」
 スリ・クレスノはおおいに心動かされ、悲しみにうちひしがれるアルジュノをふるいたたせようとして言った。
 「おお、神に愛されし者アルジュノよ。そなたは悲しむ必要のないことを悲しんでいる。そなたの言葉は正しい。ブラフマンの視点から見るならな。しかし想起せよ、そなたはブラフマンではない。そなたはサトリアなのだ。
 サトリアとは国と民、ならびに正義と公正を護り安寧たらしめる責務を負う者なのだ。そなたの責務を果たし、真のサトリアの道をゆけ。バラタユダが世俗の王権、喜びを奪い取るためのものだと考えてはならぬ。
 そこから離れても同じこと。そなたは生と死、喜びと苦しみを問題にしてはならぬ。すべてはいずれ滅びゆく。想起せよ、人は生まれ変わり永遠に存在する。存在し続け、それは何ものよっても滅せられることは無い。武器をもって傷つけることはできず、火をもって焼くこともできないのだ。水によって濡らすこともできない。そして熱や風で乾かすこともできないのだ。人が人を滅することなどできないのだ。傷つけることのできるのはその身体だけなのだ。サトリアにとって最上の義務とはその責務を果たすことであり、それは高く、深いものである。それはトゥハンに対する責務である。それこそが、そなたのカルマ karma 〈業〉なのだ。アルジュノよ、そなたのカルマは国と民を護り、安寧をもたらすことである。
 サトリアにとって、定められた責務を果たすより高貴なる道はない。
 戦うことの義務もまたその中にある。サトリアの幸福は自身のダルマ〈運命〉を進むことにあるのだ。それゆえに彼ら各々の天界への扉はすでに開かれてあるのだ。しかし、そなたがサトリアの義務を果たさなければ、そなたは自身の名誉を捨てることになる。そなたは罪を負うことになる。すべての人々がそなたを蔑むだろう。そして敬意を払われていた者にとっては、戦場での死のほうがこのような汚れよりまさるのだ。
 敵たちは、そなたが戦場から逃げ去ったと知ればそなたを臆病者とみなすであろう( ninggal gelanggang colong playu )。さあ、我が弟アルジュノよ、死と卑しい死には隔たりがある。サトリアは正義のために死す。兵士は勇猛をもって死ぬ。僧侶は正直であることに命を賭け、女は恥を知って死ぬのだ。
 たとえ戦場に死すとも、そなたは地上の勝利を享受するであろう。そなたの仲間に敬意を払われ、そなたは民族の英雄として死んだと語られよう。そなたは名誉を得るのだ。それゆえ立ち上がれ!さあアルジュノよ、注意を怠るな、『心を集中し、思念を研ぎすませ henengkan kalbumu, heningkan ciptamu 』。今や我が言葉で心を満たすのだ。エヤン・ビスモの善行と美徳に、そなたはお返ししなければならぬ。しかしここはその場所ではない。ここは小学校 pawiyatan でも家族の団欒の場でもない、戦場なのだ。不注意な者は死にいたる。サトリアにとって、戦場では師弟もなければ、祖父と孫もない。あるのは敵と味方だけだ。兄弟といえども敵方にあるなら滅ぼさねばならぬ。さあアルジュノ、戦場へ進め。結果を求めず、考えずに、そなたの義務のすべてを果たすのだ。」
 おお、この辺にしておこう。 ガワッ・ニ gawat nih 〈全部は無理だ〉。高貴なる教義に入ってしまう。それは生の秘密 sinengker だから。
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by gatotkaca | 2013-06-07 14:20 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 第36章

36. アルジュノは戦慄する神秘と魅惑する神秘の前で逡巡する

 拝啓ブデ様、
 1. 1976年4月4日付けブアナ・ミングでのご注意、ご意見に感謝します。

最上の行為 Laku Utama
 2. ブ・デ氏のご意見では、アルジュノは他人の心を傷つけないために『否』と言えない人、言い換えれば他人によく思われたいと思う人であるとのことだった。ウェドトモによれば高貴なる bediluuhur 最上の行いとはこのようなものである。( Nulada laku utama Wing agung Ngeksi Ganda Panembahan Swnapati ......... amemangun karyenak tyasing sasama, 最上の行いの手本は、いつも他の人を喜ばせようとつとめたマタラム Mataram 王国のパヌンバハン・セノパティ Panembahan Senapati 王であるという意味である。さらにパンクル Pangkur 〈詩形式の一種〉の二十ではこのようにも言う。
 『 Janma kang wuspadeng semu sinamuning samnudana sesadoning adu manis. 』
 意味は
 「賢者たる人はつねに上品で、甘やか、そして柔らかな言葉をもって考え、言葉を交わすものである。」
 ブ・デさんどうですか、賛成していただけるでしょうか?
 アルジュノがクレスノに大戦争バラタユダをこれ以上続けたくないと嘆いたときのことが、バガバット・ギーター Bhagawad Gita (神の歌を意味する)のエピソードで語られている。バガバット・ギーターとはヨーガ Yoga =瞑想=スマディ semadi =神秘体験である。

戦慄する神秘 Mysterium Tremendum
 3. プロテスタント神学者のルドルフ・オットー Rudolf Otto (1869〜1937)は、その書『聖なるもの The Holy 』において、宗教体験の根源には、『戦慄する神秘』という感覚が存在すると説いた。それは超越的な存在に対する逡巡と恐怖の感覚であり、それと同時に『魅惑する神秘 Mysterium Fascinosum 』、すなわち人は超越者に対する魅惑、憧憬、切望を感じるというのである。そのすべてが頂点に達したとき、『神秘的恍惚 Ekstase dalam Mistik 』が訪れる。つまり『彼』〈絶対者〉に対して、逡巡・恐怖・臆する感覚と、憧れ・魅惑・切望の感覚の双方が同時におこるのだ。
 宗教(神秘)体験において人は『戦慄する神秘』と『魅惑する神秘』に対峙することになる(二つは同時にわきあがる)。こういった状況は『両面性 ke-dwiartian 』また『アンビバレンツ』と呼ばれる。つまり、神秘体験の頂点において、神の存在 hadirat Illahi や神の顕現(クリシュナ/ナーラーヤナ、ケーシャヴァ、ヴィシュヌ)を前にして人は必ず畏れおののきながら、憧憬と切望の『魅惑 fascinat 』に至福を感じるのである。臆病者はそこで瞑想を止めてしまう。そして『彼』と出会おうという意図に挫折するのである。
 4. ワヤンではどうであろう?こういった状況はアルジュノとクレスノの場合以外にも多く見受けられる。たとえばロモバルゴウォとハルジュノ・ソスロバウの邂逅、ウィビソノがスリ・ロモ(ウィスヌ)との合一を切望したときなど。ラコン「デウォ・ルチ」でも、ビモがデウォ・ルチと邂逅するときに。アルジュノが恐れたのは、クロウォの長老たち、英雄たちの武器に恐れをなしたのではない。またビモセノも海の巨大さ、波の高く逆巻くさまに恐れをなしたのではないのだ。
 彼らは自らのうちなる恐れと逡巡に打ち勝つ。かくてアルジュノはクレスノと、ビモはデウォ・ルチとの『合一 manunggal 』を果たすのである。

ウェドトモ
 5. 神秘的合一(創造主と僕の合一 manunggalig kawula Gusti )における逡巡の感覚はウェドトモの72節と76節で説かれている。
 a. " Rasaning urip iku, Krana momor pamoring sawujud, Wujudu'llah sumrambah ngalam sakalir, Lir manis kalawan madu, Endi arane ung kono ".
 b. " Meloke ujar iku, Yen wus ilang sumelanging kalbu, Amung kandel-kumendel ngandel mring takdir, Iku den awas den emut, Den memet yen arso momot ".
 a. 「一体となったゆえ生の感覚は、世界にあまねくトゥハンのものとなる。酔ったような甘美な感覚となり、その名は誰も知らない。」
 b. 「上昇していくものがあり、そのときすべての恐れも、心をふらつかせる迷いも消え失せる。あるのはただ畏怖すべきものへの絶対的信仰のみ。それゆえつねに注意し、想起するのだ。覆い尽くし流れ込もうとするものを注意深く見詰めるがよい。」
 それゆえ、神秘主義の知に精通したダランは、ビモが大海に飛び込もうとするさいに、このように語るのである。『 Sang Sena mancat gisik lan nggebyur samudro embuh dadine. 』
 「このときビモはただひたすら運命を信じ、その身を委ね大海のうちに飛び込むのである。自身を待ち受ける出来事一切を知らぬまま(embuh dadine)。すべてはトゥハンに委ねられてあるのだ。」

チュンティニ Centini
 6. 神秘的恍惚の前におこる逡巡の感覚は、チュンティニではアモン・ロゴ Among Raga 〈ワリ・ソゴのひとりスナン・ギリ Sunan Giri の息子〉によって説かれている。神秘的恍惚を得るために、アモン・ロゴはワビン Wabin の礼拝法に則り、6つのレカアト reka'at と三つの安寧の祈りを行った〈Wabin=Awwabinはイスラム教で、ムハンマドの言行の伝承 に基づく範例・伝統であるスンナの一種。rekaat とは祈りの際のお辞儀の数や量を表す用語〉。その後懺悔の祈り『タワジュ tawajuh 』(トゥハンへ安寧を求める祈り)と二度のサラーム salam を行った。それから不動の姿勢でジキル zikir 〈アッラーへの追慕〉を読み上げた。続く詩節において次のように語られている。
 a. " Yen wus munggah budi mulya Sang Hyang Maha Mulya ing budi abebeda nora pan wus sembah lawan puji-puji amuji ing awakira iya dewe/tanpa dewe wus pupus. "
 a. 「魂がおおいなる高みに昇ったとき、その高みにおいてヒワン・マハ・ティンギ〈最高位者〉と魂は『存在し存在しない』状態となる。尊崇されるものと尊崇するもの(ta'lm )の行為は不変となる。尊崇は自身を尊崇することとなるのだ。人は『自身』となり、また『自身でないもの』となる。もはやそこに『自身』は存在しない。そしてもはや会話もなくなるのである。」
 別の箇所では畏怖の感覚が次のように述べられている。
 b. " Gya patakur ing Hyang Suksma/nalangsa minta apura/kiparat ing donya/akeh kang dadya gigila/taksih langip ing kaula. Arale kang bangsa riah/kontrang keraos ing driya/lupute tan ana sela. "
 c. ”Katelu pisan mangkana/ikral ing nala nalangsa/dadya samya nenggak waspa/miseseg napas ducungan/ting salenggruk kawistra/karuna tanpa karana/karane brangtanira/maring Hyang ingkang amurba ".
 b. 「彼らはヤン・マハ・クアサ〈超越者〉に思考を向けて、謙虚にこの世の悪行の許し(と免除)を乞う。まさしくたくさんの恐るべきことによって、カウロ kawula (被造物)の特別の状態と弱さが、「侫言を用いる者」(に陥れられる状態)に邪魔立てされるのだ。彼らは内心で驚愕する。過ちを押し止めることのないことを。」
 c. 「こうして彼らは謙虚なる心に三つのことを認識する。涙をこらえなければならないこと、追い立てられるような欲望、しゃくりあげる悲しみを。彼らはわけも無く悲しむが、それはトゥハンへの愛ゆえなのだ。」
 上記の説明で明らかなのは、完全なる苦行の到達点も一時的なものにすぎないということだ。人は絶対者を受け入れるとき、はげしい畏怖を感じる。こうして人は一なるものと二つなるものの間を漂う(タウヒード)のである。

1976年4月18日 ブアナ・ミング
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by gatotkaca | 2013-06-06 01:28 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 第34・35章

読者の意見

34. アルジュノ、心の弱いチュンドゥキアワンの肖像

 1976年3月21日付けブアナ・ミング、イル・スリ・ムルヨノ氏の『ワヤンとその登場人物』でのアルジュノに関する記事を読み、キ・ダラン〈ムルヨノ〉の意見には不満足であった。私の意見では、アルジュノはつねに『重い責務を果たす mrantasi gawe 』ことのできる『神の戦士 jagone Dewa 』であり、それは彼がサクティ sakti 〈超能力〉(ここではチュンドゥキアワン cendekiawan と呼ぶ)の人であるからだ。そしてアルジュノはつねに『優秀な cum laude 』人物でもある。今ならアルジュノは、国内外でも大学で博士号を容易く取得することのできるような人である。
 しかし、留意すべきはアルジュノが『 miyar-miyur 弱い・柔い』心のチュンドゥキアワンだということである。柔軟 miyar-miyur であることは優柔不断 plin-plan とは違う。優柔不断 plin-plan は臆病につながる。対して柔い miyar-miyur 心を持つ人は、すべての人に善かれと願う人である。だから彼は他者の意見/導きを拒否することはしないのだ。柔い心の人は自分の意見に反することであっても『否』と言わないように努める。他人の心を傷つけないように。


 1. 「国を取り戻す njabel Negara 」ためにスリ・クレスノがアスティノ国へ大使として赴いたとき、スリ・クレスノは出発前にパンダワ五王子たちひとりひとりに意見を求めた。プントデウォはクロウォたちがアスティノ国の主権を返さないというなら、それでも
良いと答えた。ウィジョセノ Wijasena〈ビモ〉は、アスティノの主権はパンダワのものだという意見であった。クロウォが強行に返還に応じないのであれば、強行で応じる(戦う)のみだと。
 アルジュノはこう言った。クレスノはウィスヌ神の化身だ。すべてをご存知でしょうと。アルジュノの答えを聞いたクレスノは笑った。
 2. スリ・クレスノとともに神々にバラタユダの勝利を願ったとき、アルジュノは神々に、何を願うか尋ねられた。彼の答えはこうであった。大戦争バラタユダの勝利とパンダワ五王子の安寧を。この答えを聞いたクレスノはびっくりして尋ねた。それでは安全なのはパンダワ五王子だけではないか。パンダワの息子たちはいなくなってしまう、と。これを聞いたアルジュノは後悔した。しかし、すでにすんでしまったこと。どうしようもない。やり直しはきかない。こうしてバラタユダにおいてパンダワ五王子は生き残ったが、パンダワの息子たちはすべて死んでしまった。そのかわりパンダワは勝利し得たのだった。
 3. 大戦争バラタユダが荒れ狂う中、アビマニュ Abimanyu 〈アルジュノの息子〉は戦場に散った。アルジュノは茫然自失し、クレスノに尋ねた。
 これ以上バラタユダを戦い続けられない。希望がなくなってしまった。王位を継ぐはずのアビマニュが死んでしまった。戦っても意味は無い。アスティノはクロウォにくれてやればいい、と。これを聞いてクレスノは笑い、アルジュノにおおくの教えを説いた。

結論
 上記三つの例からもわかるように、アルジュノは大問題に対峙する、岐路に立った人の寓意として描かれている。彼は迷い、東奔西走する。彼はスリ・クレスノやスマルの導きを得て、はじめて自らの為すべき道を見出すのである。
 これが私の意見です。

1976年4月4日 ブアナ・ミング
ブデ Bude



読者の意見

35.ブ・デ氏は『チュンドゥキアワン』という言葉に注意を払うべきだ

 読者諸賢の誤解を解くため、4月14日付けブアナ・ミングの第二面に掲載されたブ・デ氏がアルジュノに関して用いた『チュンドゥキアワン cebdekiawan 』という言葉を訂正させて頂く。この記事でブ・デ氏は『チュンドゥキアワン』という語を『サクティ sakti 〈超能力〉』の意に用いたが、『チュンドゥキアワン』という語は「知的」、「教育水準の高い」、「インテリ」を意味する語である(プルウォダルミント Poerwadarminto WJA辞典、第四版、1966年)。当該記事でのブ・デ氏の文章と見比べてもらいたい。『私の意見では、アルジュノはつねに『重い責務を果たす mrantasi gawe 』ことのできる『神の戦士 jagone Dewa 』であり、それは彼がサクティ sakti 〈超能力〉(ここではチュンドゥキアワン cendekiawan と呼ぶ)の人であるからだ。』
 その他の部分、アルジュノが心弱き者であるとの意見には賛成する。私はブ・デ氏と同意見である。また『トゥク・ミス thuk mis 〈優男〉』という語に関するイル・スリ・ムルヨノ・ヘルダランの解説にも賛成である。一般に『トゥク・ミス』というのは(女好き、女たらし、その他)といった意味の言葉ではあるが。同様にトゥハンの被造物の象徴としてのアドゥ・ジャゴという言葉も専門用語であって、政府が禁止したもの〈闘鶏〉のことではない。

1976年4月4日 ブアナ・ミング
L・マルディワルシト L. Mardiwarsita
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by gatotkaca | 2013-06-04 06:53 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

6月9日ランバンサリ、ワヤン公演とスンクニの生涯(前半)

 来たる6月9日(日)日暮里サニーホールで『ランバンサリ自主公演 青銅音曲XV
ジャワの影絵芝居ワヤンとガムラン 「炎」』と題されたワヤンの公演があります。
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詳しくはこちら
ランバンサリ・ホームページ
ブログ・スミニール

 ダランは日本在住のジャワ人、スミヤント氏。ガムラン演奏はランバンサリ。

 マハバラタの物語をスミヤント氏の解釈でみせてくれるようです。チラシを見るとマハバラタきっての憎まれ役パティ・アルヨ・スンクニをメインにすえて物語が展開するそうな。
 ワヤンを愛する真摯な好青年、スミヤント君のご成功を祈ります。

 というわけで、以下パティ・アルヨ・スンクニ(アルヨ・スマン)という人物の物語を紹介する。今回はスミヤント君が演じるであろう『バレ・スゴロ・ゴロ Bale Sigala-gala 』という演目のあたりまで。スンクニの前半生である。ネタバレがいやな人はここまでで。

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by gatotkaca | 2013-06-01 01:27 | 影絵・ワヤン | Comments(0)