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木から落ちた猿

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ティムン・マス物語は予言だったのか?

 ティムン・マス Timun Mas 物語の新解釈(珍解釈?)がインドネシアの考古学雑誌のサイトにあった。ジャワの人は予言がお好きなようである。

元記事はここ

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ティムン・マスと泥流災害 Timun Emas dan Lumpur Lapindo
             Oleh: hurahura | 19 September 2010

 国立マラン Malang 大学考古学部、ドウィ・チャフヨノ Dwi Cahyono は東部ジャワブリタール県 Kabpaten Blitar のチャンディ・プナタラン Candi Penataran (祀堂)のレリーフに見られるパンジ Panji 物語を調査した(9/6水曜日)。チャンディ・プナタランにはパンジ物語に関するレリーフがたくさんある。コムパス(2010年9月18日土曜日)よりーーー

 パンジ物語は単なる昔話しではない。解釈によっては、その語りを通して未来の人々の生活をも物語っているのである。詩、シムボル、隠喩を通して未来を予言したジョヨボヨ Jayabaya やロンゴワルシト Rongggowarsita に近いものがあるのだ。『ティムン・マス Timun Mas 』の物語のトゥラシ terasi (エビや魚のペースト)が泥の湖 Lumpur Lapindo になったという話もそうである。

 例えばエンティ(エンティト) Enthit の物語である。エンティは鼻にかかった声で話す農民であったという。彼は美しい姫、ラギル・クニン Ragil Kuning を誘惑しようとする。そのために、彼は豊かな水田(lemu )、伸びた豆(dawa )、そして太く実ったキュウリ(menthek )を見せて自慢した。しかし、フクロウが月に憧れるのたとえのように、エンティの望みはラギル・クニンに断られて叶わなかった。
 エンティはパンジ物語の時代の農民像を描いているだけでなく、未来の物語でもあった。エンティの鼻にかかった声は身体障害を表している。これは社会学的に農民の声というものがいかに卑俗で惨めに〈差別的に〉扱われていたかということを物語っている。逆説的にその卑俗さは相手の共感を得る事もできず、その願望に耳を傾けさせることもないのである。
 肥沃な土地は農業共同体が富を得られることを保証せず、またラギル・クニンによって比喩的に表されている願望(黄色=kuning は金であり、金とは富みである)に到達できることも保証していないのである。なぜか?農産物の収穫高が高くとも、農産物の代価は低いからである。
 古典的な物語〈時代〉の農家は収穫時には安価で、種付け時には値が高騰していた。またジャワにおける土地所有率の平均は0.3ヘクタールであり、一家族が暮らして行くには不十分であった。彼らは自給自足を旨としていた(生産と消費の経済関係は無い)。彼らは、ジェームズ・C・スコット James C Scott の記したところによれば、首まで海に浸かっていて、波が来れば溺れ死ぬような状態であった。

『バ・ブト・イジョウ Mbah Buto Ijo 』

 パンジ物語には資本主義経済システムに関する『予言』が含まれている。その昔、ボ・ロンド Mbok Rondho という未亡人がいた。彼女は子どもがほしいと願っていた。そこへバ・ブト・イジョウ Mbah Buto Ijo という名のラクササ(魔物)が、願いを叶えてやろうとやって来た。ブト・イジョウは、後でその子を餌食としてくれることを条件に出した。望みが叶うなら、とボ・ロンドは承知した。
 この昔話では、ボ・ロンドがティムン・ウマス Timun Emas (金のキュウリ)という名の娘を得るにいたった詳しいプロセスは説明されていない。ティムン・ウマスが年頃になって、ボ・ロンドはあの約束を思い出した。しかし彼女は娘をブト・イジョウの餌にする気はなかった。
 かくてボ・ロンドはティムン・ウマスを連れてグンドゥル山 Gunung Gundul 〈禿げ山を意味する〉の苦行者を訪ねた。その苦行者からティムン・ウマスは、敵を撃退する四つの武器を授かる。それは、針とキュウリの種、塩、そしてエビのトゥラシ terasi 〈魚やエビのペースト〉であった。苦行者は言った。ブト・イジョウに追いかけられたら、これらの武器をひとつづつ投げつけるように、と。
 ブト・イジョウが約束をはたしにやって来た。ボ・ロンドとティムン・ウマスは約束を反故にしてほしいと頼んだが、ブト・イジョウはティムン・ウマスの体を見て、〈食欲を〉こらえることができなかった‥‥。
 ティムン・ウマスは針を投げつけると逃げ出した。すると鬱蒼と茂る樹々が現れたのである。ブト・イジョウはその樹々を引き抜きながら、ティムン・ウマスに迫って来た。追いつめられて、ティムン・ウマスはキュウリの種を投げた。するとそれは丸々太ったキュウリの畑となった。ブト・イジョウはやすやすとその作物を抜き取ってしまった。
 ブト・イジョウが迫って来て、ティムン・ウマスは塩を投げた。すると海になった。ブト・イジョウは海を渡り、ティムン・ウマスを捕まえそうになった。危機一髪、ティムン・ウマスがトゥラシを投げると、それは泥の湖となった。泥の湖は広がり、ブト・イジョウは溺れてしまったのである。
 この物語は人々が資本主義システムというラクササ(魔物)に直面していることをあらわしていると解釈できる。ボ・ロンドという人物は極貧にある民衆のメタファーである。ティムン・ウマス(金のキュウリ)は富と財産のメタファーである。富を得ようとすると、民衆は資本主義という力の到来を経験する。それはブト・イジョウで象徴されるものである。ブト Buto またラクササ raksasa とは通常、悪や貪欲の性質を持ち、無慈悲なもの(mentalan)である。システムの結合(ijon)という解釈もできるだろう。
 資本主義が自由を与えてくれる事は無い、それどころかそれは施しもない。人間性というものに与することはないのである。つねに考慮されるのはよりおおきな利益だけ、それは投資であり施し物のふりをしたまがいものである。
 ティムン・ウマス、つまり富を呑込むために、資本主義は農地、森、そして海までも呑込んでしまう。そして資本主義というラクササはその強欲、貪欲、傲慢によって、大地を溺れさせてしまうのだ。
 ティムン・マスの物語に含まれる教えは、人間は強欲、貪欲であってはならないということである。助けの手を差し伸べるときは、見返りを求めてはならないのだ。
 人間性に対する悪行は大地の怒りをかうであろう。パンジ物語の一部として誰もが知っているティムン・ウマスの物語は泥流洪水(lumpur Lapindo )
の事件に関わっている。先の『オタッ=アティッ・マトゥッ othak-athik mathuk 解釈〈othak-athik mathuk=ばらばらにして組み替えること〉』によれば、この噴き出し口の場所は11世紀のジュンガラ Jenggaka 王国の宮殿にあるという。
 『そこには多くの考古学的遺品、たとえば石のテラス、台座、石のテーブルなどがあり王の居所であると言われている。王族用の沐浴ため池もある。しかし、その全ては泥に埋まっている。』とM・マーダシー M Mirdasy は言う。シリン Siring 村の住民も泥の直撃を受けている。
 それから、噴出口の中心より800メートル東にバンジャル・パンジ Banjar Panji 村がある。
 『バンジャル・パンジとは、そこにパンジたちの、あるいは貴族、あるいは軍司令官の可能性もある、の家があったことを意味する。理論的には、噴出口の中心部には王宮はもちろん、バンジャル・パンジ村のパンジ族の集落があったということになる。また多くの考古学的証拠から、そこにはチャンディ・パリ Candi Pari のようなジュンガラ政府の中心部があったと思われる。またそこは以前チャンディがあったところで、村の祀堂 Kelurahan Candi もあった可能性が高い』と、マラン国立大学考古学部のドウィ・チャフヨノ Dwi Cahyono は言う。
 その『オタッ=アティッ・マトゥッ』解釈を増補するのは、トゥラシがシドアルジョ Sidoarjo の寓意をなしていることである。海となった塩は噴出口から約5キロのジャワ海である。グンドゥル山は噴出口の南にあるワトゥコセク Watukosek 山と解釈できる。
 であるから、かの泥流災害は『オタッ=アティッ・マトゥッ』解釈で予言として届けられていたのである。そして予言は現実となった。善意も、争いも、愛も、悪事も、欲も傲慢も、すべての価値を呑込む泥の火山の悲劇が‥‥。
(アンワル・フディヨノ Anwar Hudijono とドディ・ウィスヌ・プリバディ Dody Wisnu Pribadi )

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※シドアルジョ Sidoarjo の泥流洪水、またルムプル・ラピンド Lumpur Lapindo (泥の湖を意味する)災害という名で知られる。災害は2006年6月29日以降、東部ジャワ州シドアルジョ県( Kabupaten Sidoarjo ) ルンクノンゴ村 Desa Renkenongo バロンノンゴ地区 Dusun Balongnongo のラピンド・ブランタス株式会社 Lapindo Brantas Inc の掘削現場で起こった。泥熱水流が数ヶ月に及んで噴出したため、付近の地区の住宅、農地、工業地に浸水被害をまねき、東部ジャワ州の経済活動に影響を与えた。くわしくはここ
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 え〜‥‥、内容はともかくティムン・マスがパンジ物語と関係あるという記述(パンジ物語の一部である)には興味をひかれたので、機会があれば調べてみたいと思う。
 なお、シドアルジョの災害は2013年現在も進行中であることを申し添えておく。
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by gatotkaca | 2013-01-31 00:34 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ティムン・マス(金のキュウリ)のお話

 2013年2月6日(水)14;00から「深川北みずべ」(下記地図参照)でガムラン・グループ・ランバンサリによるミニ・ワヤンの公演があるそうです。
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 演目はオリジナルで、中部ジャワの民話『ティムン・マス』をもとにしたものとのこと。楽しみです。

 筆者はこのお話を良く知らなかったので、調べてみました。参考までに、ティムン・マスのお話は以下のようなものです。

 元記事はここ

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ティムン・マス TIMUN MAS(金のキュウリ)
ーー中部ジャワの民話ーー


 むかしむかし、お百姓の夫婦が、近くに森のある村に暮らしておりました。幸せでしたが、まだ子どもには恵まれていませんでした。ふたりは毎日神さまに、子どもを授けてくださるようにとお祈りしました。ある日、ひとりのラクササ(牙のはえた魔物)が彼らの家を通りかかりました。夫婦の祈りを耳にしたラクササは、キュウリの種をくれました。
 「この種を植えてごらん。そうしたら女の子が授かるぞ。」ラクササは言いました。
 「ありがとう、ラクササさん。」夫婦は言いました。
 「だが、約束しろ。その子が十七の年になったら、おれがもらっていく。」ラクササは言いました。長い間子どもに恵まれなかった夫婦は、深く考えもせず承知してしまいました。

 お百姓夫婦はキュウリの種を植え、はやく育つようにと毎日世話をしました。数ヶ月がすぎると、伸びたキュウリは黄金色に輝いてきました。キュウリはどんどん大きくなり重くなってきました。熟したころあいに、彼らは実をつみました。そっと実を切ってみると、おどろいたことに、中にはとてもきれいな女の子が入っていたのです。夫婦はとてもよろこんで、赤ちゃんにティムン・マス(金色のキュウリ)という名をつけました。
 月日がたち、ティムン・マスはとても美しい娘に成長し、両親はこの子がとても自慢でした。けれど彼らはとても心配していました。というのも、ティムン・マスの十七の誕生日には、あのラクササが戻って来てティムン・マスを連れて行ってしまうという約束だったからです。
 そしてラクササがやって来ました。
 お百姓は気を落ち着かせようとして言いました。「ちょっと待ってください。ティムン・マスは遊びにいっています。うちの奥さんを呼びに行かせますから。」お百姓は娘に会うと、「娘よ、これを持って行きなさい。」と言いながら布袋を渡しました。「これがラクササからお前を助けてくれるだろう。今はできるだけはやくお逃げ。」と言いました。ティムン・マスはいそいで逃げて行きました。
 夫婦はティムン・マスが行ってしまったので悲しみましたが、彼女をラクササの餌にするわけにはいきません。ラクササは気付かずに長いこと待っていましたが、夫婦にだまされたとわかり、彼らの小屋をぶち壊して、森の中へティムン・マスを追いかけて行きました。
 ラクササが走って追いかけてきます。だんだん追いついて来ました。ティムン・マスは布袋から塩をひとにぎり取り出しました。その塩をラクササに向けてまくと、とつぜん広い海が現れました。ラクササはあわてて泳がなければなりませんでした。
 ティムン・マスは逃げて行きます。ラクササがまた追いついて来ました。ティムン・マスは布袋からまた魔法の品を取り出します。こんどはひとにぎりの唐辛子です。唐辛子をラクササのほうへ投げました。とたんにするどいとげの枝をもった木がラクササをつかまえてしまいました。ラクササは痛くて大声をあげました。そのあいだにティムン・マスは逃げて行きます。
 でもラクササはとても強くて、またティムン.マスに追いついてきました。ティムン・マスは三つ目の魔法の品を取り出しました。それはキュウリの種でした。またたくまに大きなキュウリ畑があらわれました。ラクササはつかれはてて、お腹がすいていたので、むさぼるようにキュウリを食べはじめました。食べすぎてラクササはそのまま眠ってしまいました。
 ティムン・マスはまた逃げました。むちゅうで走ったのですが、長いこと走り続けてもうへとへとです。さらに悪いことに、ラクササが目をさましてしまいました。ラクササがまた追いついてきます。ティムン・マスはおそろしくなりました。彼女は最後の武器を投げました。それはエビのすり身でした。また奇跡が起こりました。泥の湖があらわれたのです。ラクササはそこに落ちてしまいました。ラクササの手がティムン・マスに届きそうでしたが、湖の底に引っ張られていきました。ラクササはあわてました。息ができません。とうとうラクササは沈んでいきました。
 ティムン・マスはため息をつきました。とうとう助かったのです。ティムン・マスは家に帰りました。お父さんもお母さんもティムン・マスの無事なすがたを見て喜びました。「神さま、娘を助けてくださり、ありがとうございます。」ふたりは嬉しそうに言いました。
 こうしてティムン・マスは両親との平和な暮らしをとりもどすことができました。もう怖いことはありません。幸せに暮らしました。

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 ティムン・マスの親がボ・シルニ Mbok Sirni という未亡人で、ラクササ(ジャワではブト・イジョウ Buta Ijau (緑の魔物)となっている)がむかえに来るのが、彼女が6歳になった時というヴァージョンもあるようだ(元記事)。
 ランバンサリの紹介記事曰く、出だしは「瓜子姫」で中身は「三枚のお札」とはまさしく言い得て妙で、日本でもなじみやすい感じの良い話だと思う。それにしても、ケオン・マスKeong Mas(金のカタツムリ)、バドゥル・バン・シシ・クンチョノ Bader Bang Sisik Kencono (金の鱗の赤い魚)等々ジャワの伝説・民話の世界はけっこう金ぴかなのである。
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by gatotkaca | 2013-01-29 10:07 | 影絵・ワヤン | Comments(1)

ダランが最初に語ること

 ワヤンというのは一応一晩中やるものということになっている。いまどきはだいぶ時間短縮されて来たようだが、それでもダランが一晩で喋る量というのは相当の分量になるだろう。そのダランがワヤン上演で一番最初に語り始める部分というのはジェジェラン Jejeran と呼ばれている。
 ジェジェランあるいはジェジェル(Jejer) とはワヤンにおいて物語の最初、または新しい幕の始めに現れる場面である。通常ジェジェランは王宮のバライ・アグンBalai Ageng(謁見所)の場となる。王が玉座に座し、大臣やその他の家臣からの報告を受ける。この際、ダラン(人形遣い・語り部)はニャンドロ nyandra という、国の繁栄の様、王の見識について、妃あるいは王女の美しさを讃える語りを語る。この部分は各々の地域スタイルでおおむね語る内容が決まっているところである。以下にその最初の部分を解説してくれているブログを紹介する。ここではソロ(スラカルタ)・スタイルの語りを解説している。

元記事はここ

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エコ・アディ・ドソ・プルウォ・パンジャン・プンジュン・ロ・ジナウィ・グマ・リパ・トト・トゥントゥラム・クルト・ラハルジョEKA ADI DASA PURWA PANJANG PUNJUNG LOH JINAWI GEMAH RIPAH TATA TENTREM KERTA RAHARJA なる国

 キ・ダランは国の状況を『ヌグリ・インカン・エコ・アディ・ドソ・プルウォ・パンジャン・プンジュン・ロ・ジナウィ・グマ・リパ・トト・トゥントゥラム・クルト・ラハルジョ NEGARI INGKANG EKA ADI DASA PURWA PANJANG PUNJUNG LOH JINAWI GEMAH RIPAH TATA TENTREM KERTA RAHARJA 』という語りで描きます。
 ジャワ語に通暁していない人にとっては、キ・ダランが語りの終わりごとに説明してくれていても、意味が分からないかもしれないし、逆にワヤンをよく観に行く人や、ラジオのワヤン・クリ放送を聞いている人は聞き流してしまい、意味については注意していないでしょう。単なるルーチン(決まりの台詞)だと思っているかもしれません。スクリーンの前に並んで登場人物たちの台詞を待っている人たちにとっては。

カエコ・アディ・ドソ・プルウォ KAEKA ADI DASA PURWA

 キ・ダランの語りは次のように始まります。『 インカン・ミヌウン・チャリト、アネンギ・ヌガリ・プンディ・ト・インカン・ミナンカ・ブブカニン・カンド‥インカン:カエコ・アディ・ドソ・プルウォ Ingkang minurweng carita, anenggih negari pundi ta ingkang minangka bebukaning kandha .......
Ingkang :Kaeka adi dasa purwa 』。さらにダランによる説明が入ります。『エコ・マラン・サウィジ。アディ・リヌウィ。ドソ・スプル。プルウォ・カウィタン Eka marang sawiji. Adi linuwih. Dasa sepuluh. Purwa kawitan 』 (Eka: 一つ; Adi: 素晴らしい、風光明媚な; Purwa: 始まりの、古の)。訳すと『その国は威厳あふれ、風光明媚、他国からの尊敬を受け、この世で十指に数えられる国々のうちに入る。十の素晴らしきこととは、たとえば健やかさ、経済の豊かさ、人々の繁栄、安寧・安全であることなどである。』こういったことは次の章句で説明されます。『ダサル・ヌグリ・パンジャン・プンジュン・パシル・ウキル・グマ・リパ・ロ・ジナウィ・トト・トゥントゥルム・クルト・ラハルジョ Dasar negari panjang punjung pasir wukir gemah ripah loh jinawi tata tentrem kerta raharja 』。

パンジャン・プンジュン Panjang Punjung

 キ・ダランは説明します。『パンジャン・ドウォ・ポチャパネ、プンジュン・ルフル・カウィバワネ Panjang dawa pocapane, punjung luhur kawibawane 』。『ドウォ・ポチョパネ Dawa pocapane 』という言葉は、長い物語を意味します。そこここで語られる名高い歴史の長さを持っているということです。特定の国ということではなく、他の国でもそのように語られます。また『ルフル・カウィバワネ Luhur kawibawane 』は、その国が威厳を持ち、すべてのものから敬意を表されているという意味です。国民はひとつとなり、他の国を従えている。それで『パンジャン・プンジュン panjang punjung 』な国となったのです。その国の支配者は尊敬され、誰もがその名を知っているのです。

パシル・ウキル PASIR WUKIR

 続けてダランは『パシル・サモドゥロ、ウキル・グヌン Pasir samodra, wukir gunung 』と言いいます。『パシル pasir』は本来、土地〈海岸〉を意味しますが、ダラン界ではサモドゥラ samodera つまり海の意味になります。この国がとても大きいことを意味します。海を擁し山々を背にするということです。それらがしっかり管理されていれば資産となり富を産み、民衆は繁栄するでしょう。ですからダランは次のように続けます。『デネ・トト・ラキティン・プロジョ・グンクラクン・プグヌンガン、グリンガクン・ブナウィ、ガナナクン・パサビナン、アムンク・バンダラン・アグン Dene tata rakiting praja ngungkuraken pegunungan, ngeringaken benawi, ngananaken pasabinan, amengku bandaran ageng 』。意味はおおよそこのようなものです。『王都は山を背にし、左に海を擁し、右には田園が、そして大きな港を持つ。』繁栄と安寧の描写です。

ロ・ジナウィ LOH JINAWI

 キ・ダランの語りはまだ続き、繁栄のありさまを描写します。『ロ・スブル・カン・サルウォ・ティナンドゥル、ジナウィ・ムラ・カン・サミ・ティヌムバス Loh subur kang sarwa tinandur, jinawi murah kang sami tinumbas 』。意味は、『ロとはすべての植物が緑豊かなること、そしてジナウィとは物の値段が安いことである。』すべての作物が良く育てば、売られる物もすべて安価となり、きっと人々は喜び、平和に生きるでしょう。みんなこのような国に行きたいと思うでしょう。だから、次につづく章句はこのようなものになります。

グマ・リパ GEMAH RIPAH

 『グマ・ルマク・ダガン・ラヤル・リンテン・ダル・タン・オノ・プドテ・ラブッ・タン・オノ・サンガサヤニン・マルゴ Gemah lumaku dagang layar rinten dalu tan ana pedhote labet tan ana sangsayaning marga 』。おおまかな意味は、『グマとは海を行く交易船(帆 layar )が休み無く往来し、その道行きに乱れが無い(安全である aman )ことを意味する。』ですからグマとは商業の盛んなることを意味します。昼も夜も止むことがない、とは安全であることを意味します。そして経済が発展するのです。というわけで『グマ』という言葉に続いて‥。

 『リパ・ジャルモ・モンチョ・インカン・サミヨ・ブバドゥロ・クティンガル・ジュジュル・アピピット・アブン・チュキット・トゥプン・タリティス Ripah jalma manca ingkang samya bebadra ketinggal jejel hapipit aben cukit tepung taritis 』。意味はこうです。『リパとは生きる場を求めてやって来る国外の人々がひしめきあい、食べ物を一本の箸で取り合うほどであること』で、『リパ Rpah 』とは人口が多いことを指します。ですから『グマ・リパ Gemah Ripah 』とは人々がたくさん移住して来て、国が賑わっていることを想像してください。『パシル・ウキル〈地の利が良い〉』だけでは『ロ〈生産物〉』の値が『ジナウィ〈安価〉』になりません。人々が移住して来ることももひとつの要因なのです。

トト・トゥントゥルム TATA TENTREM

 これが人々が押し寄せにぎわう理由です。『トト tata 』とは秩序だっていて、みながそれに従っていることを表します。ここでは法と社会規範を守ることが重視されているのです。政府によって定められ、人々に守られる結びつきがあるのです。ささいなことであっても、法を犯せば正当なる罰が下されます。社会道徳に関わることは、かならず話し合いで解決されなければならないのです。だから人々の精神は『トゥントゥルム tentrem 』、つまり穏やか、平穏、平和、安寧となり、『守る mengayomi 』ゆえに『安寧 ayem 』でいられるのです。これが人々がやって来る理由です。そしてまた人々も『秩序を守り安寧 tata tentrem 』であることを示しています。キ・ダランは続けます。

クルト・ラハルジョ KERTA RAHARJA

 『クルト・カウロ・イン・パドゥスナン・ムンクル・アンゲンニョ・ウラ・トゥタネン・マルディ・ウンダキン・ウル・パムトゥ Kerta kawula ing padusunan mungkul anggennya ulah tetanen mardi undhaking wulu pametu 』。その意味は、『村人たちは、収穫を増やすために熱心に農作業にいそしむ。』クルト kerta とは人々の働くさまで、ここでは農夫がとりあげられています。

 また『ラハルジョ raharja 』についてキ・ダランは次のようにくわしく説明します。『インゴン=インゴン・ロジョコヨ・クボ・サピ・ムンド・タンポ・チナンチャンガン、ピティク・イウェン・タン・オノ・キナンダンガン、イェン・ライノ・サミ・アングラル・イン・パンゴナン、グマンティ・ラトゥリ・ワンスル・オノ・カンダンニャ・デウェ=デウェ。パランデネ・ダタン・オノ・インカン・チチル・サジュゴ、ラハルジョ・トゥビ・イン・パランムコ Ingon-ingon rajakaya kebo sapi menda tanpa cinancangan, pitik iwen tan ana kinandhangan, yen rahina sami anggelar ing pangonan, gumanti ratri wangsul ana kandhangnya dhewe-dhewe. Parandene datan ana ingkang cicir sajuga, raharja tebih ing parangmuka 』おおよその意味は、『水牛や牛、山羊といった家畜たちは縛られてはいない。ニワトリやアヒルは柵に囲われていない。朝になればそれぞれが餌を探しに出て、夜ともなれば自分たちの檻に帰って来る。それでも一匹たりともいなくなることはない。ラハルジョとは戦争の絶えて久しいこと、ラハルジョとは悪行のないことを意味する。人々が法を守り、公正な繁栄を生きているがゆえである。』

むすび

 上記にみてきたように、キ・ダランがつづる言葉は、取るに足らないものではありません。国がなぜ『パンジャン・プンジュン』等々であるから『カエコ・アディ・ドソ・プルウォ』と言われるのか、身を粉にしても共に成し遂げなければならない理想であるからです。おそらく、これこそが『Baldatun thayyibatun wa rabbun ghafur(アル・クラーンの一節、理想の国の像。肥沃で繁栄し、公平かつ安全な土地を意味する)』、神のご加護を受け、人々が安寧で穏やかに生活し、平和で繁栄した国に近づくためのひとつのヴィジョンなのです。

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 というわけで、ダランの語りというのは、なかなか重いのである。
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by gatotkaca | 2013-01-27 02:49 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

サティー(妻の殉死) インドからインドネシアヘ その2

(承前)

インドネシア古典文学における完全なる貞節(サティヤ)

 (女性/妻にとって)サティヤになるということは、社会に生きる女性の役割として何世紀にも渡って物語や詩、芸能/演劇によって強化され継承されて来たイデオロギーである。
 物語世界のイマジネーションの中では、愛とは完全なるものであり、パートナーとは不可分なものであることを望まれる。愛し合う者は来世においても共に生きるのである。
 インドネシアの古典的な物語は人間(女性)に強い愛情と過剰なまでの追悼の感情を織り込んでいる。
 文化は、女性に終生の貞節〈サティヤ〉を守る価値観を『放射』することに成功し、女たちは愛する人、愛する夫とつねに共にあるために、刃で自決したり、火の中に飛び込んだりするのである。
 そうすることによって、別離は解消され、パートナーとの永遠の一体化と幸福をもって〈物語〉が終わるのだ。
 サティヤの実行は、インドネシアの女性がサティヤ(貞節)であることを証明する、社会のみならず、(一定の時代の)広い環境が肯定する行為であり、女性(自身)によっても正しい行為として信じられ、承認されていたのである。
 あたかも女の赤ん坊が産まれた時、彼女の魂には夫への貞節が刷り込まれ、来世へと歩んで行くかのように。

カカウィン・ラマヤナ Kakawin Ramayana(9世紀)

 カカウィン・ラマヤナの中で、ラーヴァナ Rawana がシーター Sita にラーマ Rama が死んだと言って、彼女を騙そうとする話が描かれている。シーターはラーマとの別れを思い、ラーマの後を追って自らを火に焼くよう求めた。
 しかし、トリジャタ Trijata (シーターと共にいた羅刹女)がラーマとラクシュマナ Laksmana が生きている事を知らせたので止めることができた。
 シーターが自決しようとする話は一度にとどまらない。二度目のシーターの自決の物語(詩編21.1ー21.48)はラーマとラクササ〈羅刹〉軍の戦闘中に起こった(この物語はジャワ起源のものであり、マハーバーラタ〈ラーマーヤナの誤りか?:訳者〉(バッティカヴィヤ Bhattikavya )とは関係がない)。
 その時、シーターはラーマが戦死したと思った。かくて彼女は(二度目の)火葬の準備をした。しかし父(ヴィビシャーナ Wibhisana )からラーマが生きているとの報告を得たトリジャタが止めたのである。

カカウィン・バラタユダ(1157年)ムプ・スダ Mpu Sedah 、ムプ・パヌル Mpu Panuluh 著、ジョヨボヨ Jayabhaya 王時代 1135〜1157年

 カカウィン・バラタユダには、貞節を証すサティヤな女性が3人登場する。クシティ・スンダリ 〈シティスンダリ〉Ksiti Sundari 、サティヤワティ Satyawati 、そしてスガンディカ Sugandhika である。*バラタユダとはマハーバーラタの最後に行われるパンダワ一族とコラワ一族の大戦争のこと。

1. 戦死したアビマニュ Abimanyu の後を追うクシティ・スンダリの死の物語は、ムプ・スダ(カカウィン・バラタユダの最初の著者)によって書かれ、最愛の夫との別離に際しての妻の『心を和らげるための、定められた行為の典型』と看做されている。死によっても彼女の貞節と愛情を分つことは出来ず、かくてクシティ・スンダリは夫の遺骸と共に生きながら火に入るのである。

2. パンダワとコラワの戦争の物語の中で、ムプ・パヌルは、横たわる死体の山の中、最愛の夫サルヤの遺体の前でクリスで自決するサティヤワティの死を描いた。ムプ・パヌルは夫を追って死を選ぶサティヤワティを通して、夫への貞節を完成させた女性の姿を描いたのである。

3. サティヤワティの忠実な女官、スガンディカはサティヤワティの胸に刺さったクリスに誘われ、主人の後を追って自らを刺した。このサティヤの行為は古代ジャワ語ではmabela(bela なる行為=忠節)と称される。mabela ( membela )の語はまたしばしば王や国を護るために戦場で斃れる者たちにも使われる。

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火葬の薪に飛び込むクシティ・スンダリ。『バラタユダ』の一場面。クシティ・スンダリには3人の侍女、パン・センテン Pan Senteng 、ナン・クリチュル Nang Klicur 、イ・ムレダ I Mredah が付き従う。場面右で泣いているのはイ・パドマ I Padma 。(Van der Tuuk collection, Leiden University Library Cod. Or 3390-147. 19世紀後半、バドゥン Badung のバリ絵画。作者不詳。バリ島南部(Hinzler 1986:229-30)。

 
カカウィン・ハリワンサ Kakawin Hariwangsa 〈ハリヴァンシャ=クリシュナの生涯〉(12世紀)、ムプ・パヌル著、ジョヨボヨ王時代 1135〜1157年

 12世紀のルクミニ Rukmini の物語は、インドでも伝統的に知られているクリシュナ〈クレスナ〉・ルクミニーの物語の古代ジャワ語版である。彼女もまた夫のいない一人の人生を見出すことは出来ない。
 ムプ・パヌルは、夫クレスナの死を聞いた際のルクミニを描いている。心は粉々となり、クリスを手に取って、ルクミニは死の世界の夫を追って自決しようとする。
 しかしその時クレスナが現れ、愛する人の手にあるクリスを見て、それを奪い取り、ルクミニの自決を止めるのである。クレスナのルクミニへの情熱的な愛の言葉でルクミニの悲しみは癒され、かくて彼らは愛に満ちた美しい一夜を過ごすのである(ハリワンサ 46.1ー50.9)

カカウィン・スマラダハナ Kakawin Smaradahana (13世紀)、ムプ・ダルマジャ Mpu Dharmaja 著、カメスワラ Kameswara 時代 1182〜1185年

 この物語でムプ・ダルマジャは、シワ神によって焼き殺されたカマ Kama (スマラ Smara 〈ワヤンにおける愛の神コモジョヨ〉)の死を聞いたラティ Ratih の悲しみを描いている。
 『心が粉々となり、ラティは夫を死にいたらしめた神々へ怒りの声をあげた。
 かくて彼女は二人の侍女、ナンダ Nanda とスナンダ Sunanda を連れて、カマの遺体を探すためメール山へいそいだ。しかしカマの死んだ場所を見つけた時、そこにあるのは灰と煙だけであった。
 嘆き悲しんで、ラティはカマがふたたび天界へもどれますようにと祈った。ラティの嘆きを聞き、シワは憐れみを感じて燃え上がる炎をとどけた。ラティは炎の中に身を投げ、忠実な二人の侍女たちナンダとスナンダも後を追って忠義の道(bela:mabela )を為したのである。』

カカウィン・スマナサンタカ Kakawin Sumanasantaka (13世紀)、ムプ・モナグナ Mpu Monaguna 著、ワルサジャヤ時代 1204年

 ムプ・モナグナは、夫の死に殉ずる王妃クルタケシカ Krthakesika の貞節を描いている。彼らの娘インドゥマティ Indumati もサティアを行った。インドゥマティの侍女ジャヤワスパ Jayawaspa は主人の死を追ってマベラ mabela (忠義を示す殉死)をした。
 カカウィン・スマナサンタカには女たちの死に関しての詳細な描写は無いが、古代ジャワの詩人たちの著作では、殉死の場面はポピュラーなものとして何世紀にもわたって描かれて来たのである。

カカウィン・スタソーマ Kakawin Sutasoma (14世紀)、ムプ・タントゥラル Mpu Tantural 著、ラナマンガラ Ranamanggala 時代 1367年

 ムプ・タントゥラルはジャヤウィクラマ Jayawikrama の戦死に嘆き悲しむマルンマワティ Marmmawati を描いている。
 『泣きながら彼女は経巡り、殺された夫を探して泣き叫ぶ、たくさんの女たちの中をかき分け、クリスを自らに突き刺してたおれている女たちの遺体につまづいた。
 もしジャヤウィクラマの遺体が見つからなかったなら、マルンマワティは彼の怒りを受けているとしか考えられない。大声をあげてマルンマワティは夫を呼ぶ。死を持って貞節を示そうとする妻から身を隠すのか、と恨みの声をあげるのである。
 死体の山に隠れることで奇跡的に死を免れた従者のひとりが、マルンマワティの嘆きの声を聞き、彼女の前に現れ、ジャヤウィクラマの遺体が見つからないわけを説明した。
 ジャヤウィクラマ王の偉大な力が、彼の体から巨大な炎を噴き出させ、王はすぐさま灰となったのであった。かくてマルンマワティはクリスを高々と掲げ、その胸に突き刺した。
 鮮血が天にほとばしり、血の臭いは花々の芳香にかわる。かくてそのかんばせを血で洗い、心強く恐れを知らぬマルンマワティは夫に対して拝跪し、灼熱の炎の中に飛び込んだのである。』

カカウィン・アルジュナウィジャヤ Kakawin Arjunawijaya (14世紀)、ムプ・タントゥラル著、ラナマンガラ時代 1367年

 ムプ・タントゥラルのサティヤたる女性の二つめのものは、チトラワティ Citrawati の物語である。彼女はマヒスパティ Mahispati の支配者、アルジュナ・サハスラバフ Arjuna Sahasrabahu の妃である。夫が死んだと誤解し、彼女はクリスで胸を突いて自決する。しかし川の女神ナルマダ Narmada の手助けで蘇生し、夫と再会するのである。

カカウィン・シワラトリカルパ Kakawin Siwaratrikalpa (15世紀)、ムプ・タナクン Mpu Tanakung 著、スラプラバワ Suraprabhawa 時代 1466〜1478年

 カカウィン・シワラトリカルパの物語は、モジャパイト王国終焉の十数年間を扱う。他のカカウィンではサティヤの役割を担うのはたいがい貴族の娘であるが、カカウィン・シワラトリカルパでは低カーストの女たちのサティヤの例を描いている。
 狩人ルブダカ Lubdhaka が病で死んだ時、自分と二人の子を残していったことを妻は嘆いた。彼女に残された道は、今夫のいるところへ自身もついて行くことだけであった。

キドゥン・ランガ・ラウェ Kidung Rannga Lawe 、1540年

 キドゥン・ランガ・ラウェはハルサウィジャヤ Harsawijaya 王に反乱して敗れたランガ・ラウェの物語である。ランガ・ラウェが殺された時、妻たちのすべては、王に許しを乞い、夫の遺体の前で自決した。

キドゥン・スンダ Kidung Sunda 16世紀

 キドゥン・スンダはモジョパイト王ハヤム・ウルク Hayam Wuruk とスンダ王の娘ディヤ・ピタロカ Dyah Pitaloka の結婚が画策された事件を語る。大きな戦いでスンダ王が戦死した際、妃と娘たちは殉死の用意をした。
 ディヤ・ピタロカは自決を恐れて臆しいることをハヤム・ウルクの陣営に知られ、王妃は戦場で死ぬよりも、すぐさま自決するべきであると彼女を促した。王女が殉死(mabela)すると王妃と王女の妹、家臣の娘たちのすべては戦場へ向かい、各々の夫の遺体の上で自決して果てたのである。

キドゥン・ワンバン・ウィデヤ Kidung Wangbang Wideya 、1765年

 このバリのキドゥンでは、ワンバン・ウィデヤ王子の経験談として、夫の死を追うラトゥ・ラセム Ratu Lasem 王妃の(生きながらの)火葬の儀式が語られている。自決の儀式を準備する4人の女たちの中でも、ラトゥ・ラセムが最も美しく荘厳であったという。
 「白装束に身を包み、車に乗って、サン・ラトゥ〈王妃〉は火葬の場へ向かった。それから彼女は戦死した夫の遺体の前で跪いた。抜き身のクリスで髪を解く。それはもはやこの世に縛られない事の証である。そして彼女は胸を刺し貫く。胸から鮮血がほとばしり彼女のかんばせと唇を濡らす。王妃は夫に対する敬意をかたちにしたのである。
 彼女は忘れることのないヨーガの行をおこない、夫の顔のところまで体を曲げ、ゆっくりと火葬の火の中で焼かれていく。つづいて3人の女たちも炎の中にまっすぐに飛び込んだ。列席したすべての者たちは夫への貞節を示した女たちを称賛したが、ワンバン・ウィデヤ王子は女たちの強靭な心のありようを見て身震いし、ショックをうけて心が張り裂けそうだった。」

 おとぎ話や伝説が娯楽とされているヨーロッパの文学世界における物語や伝説とは異なり、インドネシアの諸島では、カカウィンやキドゥンといった文学はひじょうに重要な意味合いを担っている。そのテキスト構成には、神聖にして難解な宗教的意味合いが読み込まれているのである。
 カカウィンやキドゥンは(当時の)社会のすべての階層、とりわけ女性にとっての行動規範としての機能を担っていた。当時、サティヤなる女性とは夫への貞節を完成させた女のことであり、これを行う事が幸福であったのだ。殉死は再び夫と一体化し永遠を得ることであったのである。
 当時はあきらかに未亡人となった女が生き続ける事はひじょうに困難であった。無益な者とされるのみならず追放され、子供達と共に生きる事ができないリスクを負わなければならない。夫のいない『新しい』人生を生きることは困難であり、しばしば儀式における生贄となる道を選ぶこともある。
 しかし無益な者とされ、追放されても、殉死の儀式を拒否した女性がまったく存在しなかったわけではない。実人生においても、また古典の物語においても、サティヤと呼ばれる女たちの歴史的記録がある一方で、火にはいることもクリスで自決することもせず生き残った者たちもいるのである。
 トメ・ピレス Tome Pires は孤独の中で余生を生きた女性たちの事実の記録(1515年)を残している。
 「結婚せず処女(のまま)のジャワの女性の多くは山頂や森の奥深くに暮らし、その人生を終える。
 いっぽう、夫の火葬の際に殉死しなかった女たちは、社会生活から隠遁し、殉死の儀式を行わなかった他の女たちどうしで集まり、ふつうの生活区域から離れたところで隔離された生活を営んでいる。
 普通の生活から隠遁した女たちはジャワでは数十万人以上あると言われており、社会的な関係も断ち、家族とのコミュニケーションをとることもなく、清浄な生活を営み、孤独に死んで行くのである。」
 キドゥンやカカウィンの物語の中でも、実際の生活におけるのと同様のことが書かれており、そこでは生き続ける事を選んだ女たちは、清浄で孤独な生活を続けるのである。
 カカウィン・クレスナーンタカ Kakawin Krsnantaka 〈クリシュナの死〉(18世紀)によれば、クレスナの死に際して、妃たちは火葬の火の中に身を投じて殉死するが、『殉死』する強さと勇気を持ち得なかった者たちは、普通の世界から隠遁し、隔離された場で残りの人生を過ごしたという。

 「勇気を持ち貞節をしめした女たちの死にざまは語らぬこととしよう。
  かたや生きるつづけることを選んだ女たちは
  森の中に隠遁した。
  樹の皮でできた衣服を身に着け
  賢者の生活に倣った。
  聖なる教えを守って生きるゆえ
  彼女たちはサティヤなる者と呼ばれるのである。」
  (カカウィン・クレスナーンタカ 23.2)

書籍
•Ahmad, Nehaluddin “Sati Tradition - Widow Burning in India: A Socio-legal Examination”, 2009.
•Creese, H, “Ultimate loyalties. The self-immolation of women in Java and Bali”, in: Bijdragen tot de Taal-, Land- en Volkenkunde, Old Javanese texts and culture 157 (2001), no: 1, Leiden, p.131-166.
•Geertz, Clifford, “Negara: The Theatre State in Nineteenth-Century Bali”, Princeton University Press, Princeton, New Jersey, 1980, p. 98-101.
•Hallstrom, Lisa Lassell, “Mother of bliss: ?nandamay? M? (1896-1982)”, Oxford University Press, 1999, p. 56.
 
画像元
•Creese, H, “Ultimate loyalties. The self-immolation of women in Java and Bali”, in: Bijdragen tot de Taal-, Land- en Volkenkunde, Old Javanese texts and culture 157 (2001), no: 1, Leiden, p.132, 145.
•Frontline, "Sati' and the verdict", Volume 21 - Issue 05, February 28 - March 12, 2004 India's National Magazine, www.thehindu.com.
•Wikimedia Commons, PD-ART. 
India, Himachal Pradesh, Kangra, South Asia from LACMA. Shiva Carrying Sati on His Trident, circa 1800 Painting; Watercolor, Opaque watercolor and gold on paper, 11 1/2 x 16 in. (29.21 x 40.64 cm) Made in: India, Himachal Pradesh, Kangra Purchased with funds provided by Dorothy and Richard Sherwood, Mr. Carl Holmes, William Randolph Hearst Collection, and Mr. Rexford Stead (79.1).
•Wikimedia Commons, PD-OLD.
The Bride Throws Herself on Her Husband's Funeral Pyre. Persian, Safavid period, first half 17th century. Attributed to Muhammad Qasim.
 
(おわり)
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 殉死としてのサティーは今日のジェンダー・バイアス(今日でもバイアスは存在する)から見れば、非道徳的な行為に見えるが、上記本文にもあるように当時のイデオロギーの中ではひとつの「救い」でもあった。さらに殉死を選ばない道も存在し、彼女たちの「疎外された孤独な生活」は、単に被差別的境遇と断ずることはできず、ヒンドゥー・ブッダのイデオロギー内では解脱・涅槃を目指す苦行者の生活でもあり、彼女たちには悟りへの道が開かれていたとも解し得るのである。それゆえ、この隠遁の生活を選ぶ事もまた、ひとつのサティアとして認識されているのだと言えよう。
 現代のワヤン上演でも、たとえばスティヨワティ(スティヤワティ)とスガンディニ(スガンディカ)がサルヨ(サルヤ)王を追って殉死する場面は、美しい名場面として認識されている。過去のイデオロギーを盾にとった偏見・差別の肯定は論外としても、古典・演劇に内包される過去のイデオロギーを現代的視点から断罪するのもまた狭量といえるだろう。
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by gatotkaca | 2013-01-16 17:49 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

サティー(妻の殉死) インドからインドネシアヘ その1

 インドにはサティーと呼ばれる風習がある。これは夫の死に対して妻が殉死するという風習で、夫の亡骸の燃える火葬の炎の中に、妻が生きながら(!)飛び込んで殉死するという壮絶なものである。下記の記事にあるように現代でも行われることがある。持参金がらみで焼かれる花嫁や、集団暴行を受けて自殺する女性の問題などインドにおける女性問題は根の深いものであると言えよう。インドネシアにもこの風習は伝わっていたようで、現代でこそ行われることはないようだが、カカウィンやキドゥンといった古典文学ではサティア(サティー)が重要な場面としてしばしば現れる。サティアというものを知っておくのもインドネシア古典文学理解には重要であろうと思われる。
 下記の記事がサティー(サティア)の実体と、インドネシア古典文学でのサティアの例をあげ、わかりやすく解説してくれているので紹介する。

元記事はここ

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スティア Setia と女性ーー紀元前500年から2008年の記録

アリタ・CH Arita-CH

『その悲しみにもはや耐えきれず、この先に待つことは何もないかのように、ただちに、彼女(サティヤワティ Satyawati )は死への身支度を整えた。手にしたクリス(短剣)が引き抜かれ、鞘から現れた刃は白い光を放つ。かくて恐れることなく、その刃に身を突き刺すと、赤き香油のごとき鮮血がほとばしる。』
(カカウィン・バラタユダ 45. 1-45)

 ジャワの古の物語『カカウィン・バラタユダ Kakawin Bharatayuddha 』(1157年、ムプ・スダ Mpu Sedah 作)において、サルヤ Salya(サルヤパティ Salyapati )王に嫁いだ、ラクササ(羅刹)僧ルシ・バガスパティ Resi Bagaspati の一人娘、プジャワティ Pujawati 〈スティヤワティ(サティヤワティ)〉の有様はこのように語られる。サルヤは若き日の名をナラソマ〈ノロソモ〉 Narasoma といい、彼はラクササの息子となることを恥じた。夫の心が沈み込んでいることを知り、プジャワティはそのことを父ルシ・バガスパティに伝えた。かくて娘は、父をとるか夫をとるかという二者択一を迫られたのである。父と夫、どちらを選ぶのか。プジャワティは愛する夫、サルヤを選んだのである。その選択を父ルシ・バガスパティは誇りとして、彼女の名をプジャワティからスティヤワティに改めたのであった。サティヤ Satiya (スティヤ Setiya)とは、『the true or loyal one (誠実、また忠実なる者)』を意味する。(『カカウィン・ラマヤナ Kakawin Ramayana 17,62、『カカウィン・バラタユダ』46,1、『カカウィン・スマラダハナ Kakawin Smaradahana 』20,4)

サティヤ(スティア Setia )

 サティヤとはジャワ古語に見られる言葉で、インドのサンスクリット語サティー Sati の形容詞形であり、(誓いを立てた一人の夫(王)に対して)誠実、貞節、忠実であること、高潔、善なることを意味する。サティヤ(スティヤ)という語のより詳しい意味を探るため、まずはサティーという言葉の意味を調べてみよう。

サティー

 インドにおけるサティー Sati の語はデヴィー・サティー Dewi Sati の物語に由来し、この女神は別名ダクシャーヤニー Dakshayani としても知られている。デヴィー・サティー、またダクシャーヤニーは彼女の父ダクシャ Daksha の夫のシヴァ Shiva への侮蔑に耐えきれず、燃え盛る火の中に身を投じて犠牲となったことで知られている。自らを焼き、死んだあと、ダクシャーヤニーは山の王ヒマワン Himawan の娘、パールヴァーティー Parvati として生まれ変わり、再びシヴァの妃となった。

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三叉鉾をもつシヴァ神(1800年頃)


 デヴィー・サティーの、夫シヴァに対する完璧なる貞節の物語は、しばしばインドにおけるサティーの習俗を正当化するために引き合いに出される。このサティーという習俗は、夫の死に際して、その火葬の火の中に生きている妻が最後の忠節の証として自らを犠牲にするものである。

サンスクリット文学における2種のサティー

1. サハマラナ Sahamarana 、サハガマナ Sahamagana 、あるいはアンヴァロハナ Anvarohana
  夫人が、夫の死体を焼く火葬の火の中に木の杭に自らを縛って共に火に焼かれて死ぬこと。
2. アヌマラナ Anumarana
  夫は先に火葬にふされ、妻はその後別の場所で火に入る。時には夫の形見や遺灰などを持って火に入る。
 一方、戦争などの際には、敗北した王や王子の妃は敵の手に落ちることのないように自決(ジャウハル Jauhar )する。ジャウハルはラージプート Rajput の貴族の間で広く行われた慣習である。

スワーミ Swaami (スアミ suami 〈夫〉)とサティヤ(スティヤ)

 インドでは、配偶者に対する女性の貞節の形式が何世紀にもわたって継続され、刷り込まれている。インドでは叙事詩の世紀(紀元前500年から西暦500年頃)に、ダルマシャーストラ Dharmashastra と呼ばれる法に関する書物や、(ダルマ dharma 〈法〉に則った)正しい行動に関する論説が成立し、ブラフマンの男性たちによって設定された宗教的基準として人の行動を規定してきた。
 ダルマシャーストラには、ストリーダルマ Stridharma というイデオロギーが記され、このイデオロギーは妻の善なる生き方を定めており、妻の一人の夫に対する貞節が求められている。
 ストリーダルマのイデオロギーでは、夫にとって女性はある種の『神』であり、サンスクリット語においては、スワーミー Swaami (suami) の語は妻にとって文字通り『神、あるいは師』を意味する。理念的には、ひとりの妻の生の幸福とは、夫を満足させることにあり、また妻にとって懸念すべきは夫に対する献身が不完全・不徹底であることなのだ。
 献身とは、死によっても分つことのできない貞節を示すことなのである。結婚生活における妻の最高の献身の表明は、インドではサティーという形で表されるのである。

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夫の火葬の炎の中に身を投ずる花嫁。17世紀前半、ペルシア、サファヴィー朝時代。(ムハンマッド・カシム所蔵)

インドにおける女性とサティー

 自己犠牲としてのサティーの習俗が、インドを起源として他の文化圏にも取り入れられたものであるという確証は無い。インドでの女性の自己犠牲に関する最古の記録は、アレキサンダー大王のインダス遠征に随行したギリシアの歴史家、カッサンドリア Cassanderia のアリストブルス Aristobulus が紀元前326年に記したものである。彼はタキシラ Taxila (現在のパキスタン地域)の街で、女性が自己犠牲を行う習俗を目撃したと記している。
 インドの歴史書や、サティーの習俗を内包する文学作品の多くは、他国の人々の興味を惹くこととなった。18世紀末から19世紀の初頭、英国の植民地時代には、サティーについて書かれた書物から直接エキゾティックな物語が発展したが、サティーの習俗は非難されることとなった。
 1829年、英国政府のインド総督ベンティンク Bentinck 卿(1828〜1835年在職)はサティーの習俗を禁止し、20世紀に入ってからの1987年のサティー(禁止)法によって強化された。とはいえ、実質的な法規制にもかかわらず、この習俗は21世紀にいたるもまだ続いている。2008年10月13日のチェチャル Chechar 村の事件の報道では、ラルマティー・ヴェルマ Lalmati Verma という名の71歳になる未亡人が、夫のシヴァンダン・ヴェルマ Shivandan Verma の火葬の火の中に入ったという。

20・21世紀のサティーの記録

日付        名前               年齢
1987年9月4日   ループ・カンワール Roop Kanwar  18歳
2002年8月     クットゥ・バーイ Kuttu Bai   65歳
2006年       ヴィディヤワティー Vidyawati  35際
2006年8月     ジャーナクラニー Janakrani   40歳
2008年10月13日  ラルマティー Lalmati       71歳
 

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結婚式後のループ・カンワールと夫


サティーとサティヤ、インドからインドネシアへ

 サルヤ Salya 王の死の知らせを聞いて、サティヤワティ Satyawati はすぐさま彼の後を追った。心許した女官、スガンディカ Sugandhika を連れて、サティヤワティは戦場に向かう。血の川を渡り、腐りはてた死体につまづき、サルヤの遺体をさがし続ける。
 絶望の淵に沈み、彼女はクリス〈短剣〉で己の身を刺し貫く覚悟を定める。神々は彼女を哀れんで、サルヤの横たわる場所を示した。気丈にもサティヤワティは夫を生き返らせようとした。彼女を残していった夫を叱り、夫が彼女を本当に愛したことはなかったのだと非難した。そして泣きながら懇願する。天界に架かる吊り橋であなたをお待ちします、と。
 かくてサティヤワティは自らのクリスで胸を刺し貫いて死に至る。忠実なる女官、スガンディカはサティヤワティの胸からクリスを引き抜き、自らの胸深くに刺し入れたのである。

 カカウィン・バラタユダ(1157年)でムプ・スダが書いたサティヤワティの最後の献身の物語は、(かつて)インドネシアで行われたサティーの習俗を描いている。カカウィン・ラマヤナ Kakawin Ramayana (9世紀)からスンダのキドゥン Kidung にいたるまで、古代インドネシアのさまざまな文学において、妻が究極の献身として死におもむくさまが描かれる。これはかつてインドネシア社会で行われてたであろうサティーの習俗を反映していると言える。サティーの語は、後に『サティヤ』という語になり、夫と終生離れることなく、その死に際しては殉死して忠節を貫く女性を示す言葉となったのである。

インドネシア女性のサティヤ

 ジャワの社会においては、少なくとも9世紀以来、サティーの伝統が存在していたと考えられる。インドネシアにも女性のサティヤとしての自己犠牲の方法が数種定められており、インドにおけるそれとは少々異なっている。
1. 生きながら火の中に入って殉死する(インドで行われているものと同様)。
2. クリスによる自決。または共にいる者に刺させる(通常は女性の一族の男)。
3. クリスで自決した後、遺骸を荼毘に伏す。
4. 川や海に身を投げて殉死する。
 インドネシアにおいてどれほどの人数が、またどの地域でサティヤが行われたのかは不明である。しかし、歴史的記録によれば、殉死の伝統が最も大規模であったのはジャワ島とバリ島である。女性の殉死の伝統があるのは、他にはブリトゥン Belitung 島〈スマトラ東海岸に位置する島〉だけであった。

1416年

 サティーの風習は9世紀からインドネシアに存すると考えられているが、サティーに関する最古の記録は、鄭和(チェン・ホー Zheng He (Cheng Ho ))の遠征に随行した通訳、マ・フアン Ma Huan によってモジョパイト時代の1416年に書かれたものである。
 マ・フアンは1413〜15年の第三次明国遠征軍と共にジャワ島を訪れた。彼が目撃した事件として、モジョパイトの首都、ウィルワティクタ Wilwatikta で犠牲に供される女性の最後の様子を描いている。

 『その地域では一般的に、裕福な男性、村長や貴族が亡くなると、妻や側妾たちは彼女たちの夫に対して拝跪し、言う。
 「我らの死は、あなたと共に」
 火葬の日が来ると、彼らは木材で高い火葬用の台を建てる。二三人の者に付き従われた妻や側妾が拝跪し、炎が燃え立つのを待つ。そして頭を草や花で飾り付け、五色でデザインされたカイン Kain (布)を身に着け、妻と側妾たちは薪の山の頂上に続く階段を登って行くのである。彼女たちはしばしの間、泣き、叫び、踊り、それから夫の遺体が燃やされ、その火の中に身を投げた。彼女たちは共に生き、そして死んだ者への最後の献身として自らの身を火に投ずるのである。』

1436年

 フェイ・シン Fei Hsin も鄭和の遠征に随行した一人である。彼は第七次鄭和遠征の際にジャワ島を訪れた。彼は1436年の記録に、妻が夫の遺骸と一緒に生きたまま火葬にふされたことを記している。
 『村長が高齢のために亡くなった時、妻と側妾たち皆は嘆き悲しみ、それぞれ共に死ぬことを誓った。
 火葬が行われる日が来ると、妻、側妾、侍女たちは草と花々で飾られた冠をつけ、色とりどりのカインで着飾った。
 彼女たちは手をつないで海岸の静かな場所へ向かい、そこで砂浜に横たわった夫の遺骸の傍らに横になり、野犬たちに引き裂かれるのを待った。
 犬たちが遺体の肉をきれいに食べ尽くした時は、吉兆とされるが、遺体が食べ残された場合、女たちは悲しみの歌を歌って嘆くのである。
 それから薪が積み上げられ、女たちは皆夫の遺体と共に炎に焼かれるのである。』

1515年

 16世紀にアジアに住んだ(1512〜1515年、マラッカ)ポルトガル、リスボンの薬剤師、トメ・ピレス Tome Pires は、スンダとジャワで夫の死に付き従った常軌を逸した女性たちの様子を事細かに記している。
 スンダの社会においては王や貴族の妻たちが、夫の死に際して自らも火に入って殉死することには一定の『必然性』がある。身分の低い男性であってもこれと同様の事が行われるが、この場合は妻自身が自ら望んだ時だけ行われる。しかし、死を選ばなかった者たちは家族や社会から隔離され、『のけ者』となり追放され、阻害された生活を強いられ、再婚することもできないのである。
 一方、ブラムバンガン Blambangan やガムバ Gamba (スラバヤ〜パナルカン Panarukan )を含むジャワ社会においては、王や貴族が亡くなった時、妻や側妾たちは夫の後を追ってクリスで自決したり、生きたまま焼かれたり、あるいは海に入水する(これは社会で一般的に行われている)、と彼は記している。

1524年

 フェルディナンド・マゼラン Ferdinand Magellan の遠征に随行したヴェネチアの学者アントニオ・ピガフェッタ Antonio Pigafetta は、自ら望んで殉死する女性たちの意志と動機について記している。
 その記録の中で彼は、ジャワにおいては権力者が死ぬと、最も愛された妻は生きながら夫と共に火に焼かれる運命にあると記している。
 『花輪で飾られた籠の中の女性は、四人の男たちに運ばれる。彼女は落ち着いた表情で、笑い、彼女の死に涙する両親を慰撫し、言う。
 「今夜私は旦那様と一緒に夕餉をいただき、おそばで眠るのです。」
 火葬のための薪が積み上げられると、彼女はもう一度両親に同じ言葉を投げかけて慰め、燃え盛る炎の中に自ら飛び込むのである。』

16世紀末

 世界を旅した英国の探検家トーマス・キャヴェンディッシュ Thomas Cavendish は、16世紀末にジャワとバリを訪れた。彼はポルトガルサイドからの情報として、ブラムバンガンでは女たちが、亡くなった夫を追って殉死する、と話している。
 ピガフェッタの記録(火に入る)とは異なり、女たちはクリスを自身に刺して自決するが、火に入って死ぬことはない、とカヴェンディッシュは記している。
 『王が逝去すると棺に遺体が収められ、後に火葬された際には同じ棺に灰が入れられる。死の五日後に火葬が行われ、妃と側妾たちは定められた場所で王を追って殉死する。
 年長の妻、あるいは寵愛された妻がボールをある方向へ投げる。転がったボールが止まったところに妻や側妾たちが集まる。
 東を向き、クリスを構え、彼女たちは自らにクリスを突き立てる。血がほとばしり、その表情に痛みを刻んで、彼女たちの日々が終わりを迎えるのだ。』

1633年

 貿易商会会長のヤン・オーステルウィック Jan Oostrewijk は、最初のオランダ人目撃者であった。彼はバリを訪ねた際に女性の殉死を目撃している。
 ヤン・オーステルウィック自身の目撃談として、二人の王子の火葬の際、王子たちの後を追って76人の妻たち(第一王子に42人、第二王子に34人)が生きながら火葬の火に入って殉死した。何人かの女たちはまずクリスを自身に突き立ててから炎に入り、他の女たちは生きながら炎の中に飛び込んで行ったと彼は記している。
 二人の王子の火葬とは別に、ヤン・オーステルウィックはある王の火葬も目撃している。そこでは、王に従う22人の女官たちが(一族によって選ばれ任命された)護衛官にクリスで刺され、王の後を追って死の世界に投げ込まれる。


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夫の死に殉死するバリの女たちのオランダの最初の報告。1597年東インドへの初航海の報告書から。

1736年4月6日

 アブラハム・パトラス Abraham Patras (第24代蘭領インド総督)宛の報告には、ブラムバンガンの支配者バグス・パティ Bagus Patih が死んだ時、彼は9人の妻たちと一緒に火葬にふされたと記されている。

1813年と1820年

 スコットランドの医師、管理官、作家でもあるジョン・クロフォード John Crawfurd は、ミント Minto 卿のジャワ進軍の際、スタンフォード・ラッフルズ Stamford Raffles に同行した。その後1811年11月に彼はジョクジャカルタの宮廷の食客となった。食客として彼はジャワ語を学び、ジャワ貴族や文学者たちと個人的な関係を確立し、バリとスラウェシの大使館で働いた。
 1813年、彼はカランガスム Karangasem の貴族、ワヤハン・ジャランテグ Wayahan Jalanteg (ワヤン・ジランティク Wayan Jlantik )の火葬に際して20人の女性が火に飛び込んで殉死したと記している。
 数年後、ジョン・クロフォードはブレリン Blelling (ブレレン Buleleng 、バリ北部)の王から、父親であるカランガスムの支配者が亡くなった際に、74人の女性が殉死したという報告を得ている。

1829年

 バリの大使、ピエール・デュボア Pierre Dubois は、1829年、バンドゥン王、グスティ・グデ・グラ・パマチュタン Gusti Gde Ngurah Pamacutan の火葬を詳細に記している。
 この火葬に際しては、7人の女性が殉死し、その中には年老いて白髪になった王の乳母も含まれ、主人の死を追うのに4秒もかからなかったと言う。
 デュボアは記している。火葬にあたって、7人の女たちはそれぞれ家族と共に火葬の高台へ向かった。
 最初の女性は父のクリスを取り、腕に傷をつけ、クリスを父に返す前にその血を額に塗った。
 それから彼女は両手を胸の前で交差させ、炎の中に飛び込んだ。女たちのうち5人は同様の儀式を行い、残りの一人はクリスを突き刺して死ぬことを選んだ。
 近親の者たちに囲まれ、彼女は父の手からクリスを受け取り、肩口からまっすぐクリスを突き立て心臓まで刺し貫いた。それから父と兄弟たちが炎の中に投げ入れた。

1846年

 スイスの探検家・植物学者のハインリッヒ・ゾーリンゲル Heinrich Zollinger は、ロムボク島である女性が殉死した様子を記している。
 『白い衣装に身を包んだ女は、兄にクリスで刺された。しかしその傷では死にはいたらず、親族の男にさらにクリスで刺されて死んだ。それから一族の者たちが死んだ女を炎の中に投げ入れた。』

1847年

 1847年12月20日、ヘルムズ Helms はバリ島ギヤニャール Gianyar の王、デワ・マンギス Dewa Manggis の葬儀に列席した。その記録において、ヘルムズはデワ・マンギスの3人の妻が白装束に装飾品で身を飾り、天蓋に覆われて火葬の場へ向かったと記している。火葬の火が燃え上がり大きくなると、3人の女たちは炎の中に飛び込み、すでに灰になった夫と共に灰となったのである。

 上記のように、インドネシアでは多くの女性たちが普通ではない心持ちを有して、サティヤが人生の一つの型となっていることが明らかになった。以下では、文学やキドゥンの物語が女性のサティヤの原理をどのように補強してきたかを明らかにしていきたい。これらはインドネシの社会生活に長い間根付き、女性たち自身の心情にも深く影響を及ぼして来たのである。

(つづく)
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by gatotkaca | 2013-01-15 12:19 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

切り絵「Flōra」

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by gatotkaca | 2013-01-14 16:17 | 切り絵 | Comments(0)

切り絵「鷺娘」

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by gatotkaca | 2013-01-07 21:59 | 切り絵 | Comments(0)

2013年

2013年になりました。今年もよろしくお願いいたします。
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by gatotkaca | 2013-01-01 00:50 | 切り絵 | Comments(0)