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木から落ちた猿

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ルムブ・プトゥン Lembu Peteng とは?

 カルノはルムブ・プトゥン Lembu Peteng であると『トリポモ』(スリ・ムルヨノ著)にあったが、この言葉の意味が、どうにも分からなかった。先の訳では御落胤としておいた。その後、いくつかの資料にあたってみたところ、ルムブ・プトゥンというのは、王と側室、および愛人との間に生まれた者で、王位継承権を持たない子のことである、ということが分かった。この語に関してスラバヤ・ポスト・オンラインの記事に簡潔に説明してあるものを見つけたので紹介する。内容は次期大統領選での候補者たちの動向を巡るものであるが、ルムブ・プトゥンの語が、ジャワ文化圏で現在どのようなニュアンスを持っているのかを伺い知ることが出来ると思う。ルムブ・プトゥンへの期待感というのは、ラトゥ・アディル Ratu Adil 〈正義王・救世主〉思想とも通低するもののようにも思える。
 なお訳者(中辻)が政治的事象については疎いので、内容の誤解・誤訳が多いかもしれません。詳しい方からのご指摘・ご教授をいただきたくお願いいたします。

 元の記事はこちらです。Surabaya Post Online Lembu Peteng, Kejayaan dari Sudut Kegelapan
(Senin, 05/03/2012 | 09:00 WIB)


ルムブ・プトゥン、闇からの勝利

 憲法裁判所( Mahkamah Konstitusi =MK )はこのたび画期的判断を下した。それは、私生児に父の(民事的)継承権を与えるようにとの訴訟を容認したのである。これは現在のインドネシアにルムブ・プトゥン Lembu Peteng の存在を想起させるものであった。ルムブ・プトゥンとは、王の愛人の子として王位継承権を認められない者のことである。ヌサンタラ〈インドネシア〉の歴史の背後には、つねに成功者としてのルムブ・プトゥンの影がある。彼らは自身の力で王となった(権力の継承を手に入れた)のである。

 インドネシアの婚外子たちに朗報である。
 というのも憲法裁判所(MK)が画期的な判決を下したからである。これはいわゆる社会の共有に属する者とされきた「私生児」に、実父の遺産相続権を認めるというものである。具体的には、MKは婚姻法43条第1号第1項/1974を変更し、次のようにした。『婚姻に基づかない子は、母、及びその家族ならびに、テクノロジー及びその他の方法による科学的根拠に基づき、父とみなされる男子及びその家族と血縁関係を有すると法に定める』。これにより、今やインドネシアでは、ルムブ・プトゥンは王朝の系列において、王位を含む遺産を継承することができるようになったのである。

 また、文化人であるスジウォ・テジョ Sujiwo Tedjo * は2011年8月22日、この国 bangsa が成功したいなら、ルムブ・プトゥンを指導者とすることだ、と発言している。つまり、彼らの両親(父)がはっきり分からないような人、たとえばスハルトやスカルノである。また、より古典的な用語、古の歴史においては、ルムブ・プトゥンとは法に則さない結婚、ガルウォ garwa 〈側室・妾〉との間に生まれた者のことである。ケン・アロク Ken Arok が権力の座に至った成功例をあげることが出来るだろう。『彼、その私生児は、「呪われた」血で王位に着き、復讐を果たして高笑いした』と語られた。
  *スジウォ・ステジョ:(1962年、東部ジャワ、ジュムブル Jember 生まれ)インドネシアの文化人。多くの著作のほか、俳優、ミュージシャン、ダランとしても活動する。


 最近では2002年12月22日にグス・ドゥール Gus Dur * も(彼はこの年、大統領の職を辞任した)ルムブ・プトゥンに違い無いと噂され、その度に彼の指導者としての格は上昇していった。
* アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid 1940年9月7日 - 2009年12月30日)は、インドネシアの宗教指導者、政治家である。グス・ドゥール(Gusdur)という通称で知られている。
スハルト政権時代、インドネシア最大のイスラーム組織ナフダトゥル・ウラマー(NU)議長をつとめ、同政権崩壊後は、国民覚醒党(PKB)を創設、同国の第4代大統領に就任した(在任期間1999年10月20日 - 2001年7月23日)。一般によく知られる愛称は「グス・ドゥール」で、これは「キアイ(ウラマー:賢者)の息子」を意味する。

 ルムブ・プトゥンはジャワ文化と密接な関係を持つ言葉である。昔からジャワ社会において、強靭な信念を持つ指導者、王たちはいつもルムブ・プトゥンであった。

 偉大なる王のうち、ルムブ・プトゥンと称されることの多いのは、ケン・アロクである。ケン・アロクはクルタジャヤ Kertajaya をシンゴサリ singosari のような大国にした。ケン・アロクに関する物語には多くのヴァリエーションがある。一般的に知られているものは。ケン・アロクがトゥングル・アムントゥン Tunggul Amentung からトゥマペル Tumapel の王位を奪い、その母と結婚し、父の殺害に同意したというものである。

その後別のヴァージョンの物語が現れ、ケン・アロクは父親を殺していないとされる。では彼の父親は誰か?トウングル・アムントゥン以外の者ではあるまい。

 その動機は、ケン・アロクが宮廷の正式な子として認められず、ガルウォ、つまり妾の子であるとされたことによる。この物語はそれをシムボリックに示している。というのも、王位継承権を認められない子が王位を強制的に手に入れるということは。父〈王〉を殺すことと同義であるからだ。

 この新しいヴァージョンが真実であるなら、ケン・アロクはパンゲラン〈王子〉として認められており、自身の地位を得ていたということになる。つまりルムブ・プトゥン、王位継承者として認められていない子ということである。しかし王位を得たなら、しばしば彼らは偉大な指導者と看做されることになる。偉大な王として。

 ルムブ・プトゥンの物語は、昔のスラバヤにもある。王室の者の不倫関係から、サウンガリン Sawunggaling の名で知られる男子が誕生した。サウンガリンの名はアディパティ・ジャエン・ロノ Jayeng Rono に係る。彼は妾を持っており、婚外子として生まれたのがサウンガリンであった。

 ウィユン Wiyung のヴァージョンでは、最高権力者であったアディパティ・ジャエン・ロノはしばしば王国の周辺に狩りに出掛けた。サン・アディパティの好んだ狩場はスラバヤ西部のウィユンという森であった。サン・アディパティがウィユンの森を好んだのは、動物を狩るだけでなく、美しい女性を渉猟するためでもあったようだ。

 サン・アディパティは森に入るたびに、いつも森の端の小屋で『待ち合わせ』していたのである。その小屋には一人の子を連れた美しい村の花たる女性が待っていた。それをサン・アディパティは心待ちにしており、かくて今風に言えば不倫、かっこ良く言えばラブアフェアーをしていたのである。

 サン・アディパティ・ジャエン・ロノは実に巧みに事が宮廷内に漏れぬよう隠蔽していた。宮廷の一族たちの動向に目を配り、アディパティ・ジャエン・ロノはサウンガリンと家族たちに宮廷に近寄らぬよう指示していた。この父の指示は、サウンガリンはもとより、その母に対しても徹底されていたのである。

 サウンガリンは青年に成長していた。サウンガリンの楽しみのひとつは、闘鶏を飼う事で、しばしば村へ闘鶏に出掛けていた。

 ある日、アディパティ・ジャエン・ロノはトゥムングン Temenggung 〈軍司令官〉になり得る者を求めていた。仕事に適した人物を得る事は難しいことであった。そこで彼は、サユムボロ〈武芸大会〉を催し、その勝者にトゥムングンの地位を与えることにした。

 そのサユムボロはユニークで、闘鶏をもって行われたのであった。参加者はサン・アディパティ自身の鶏と戦うのである。

 サユムボロの知らせはサウンガリンの耳にも届いた。彼もまた母の許しを得て、スラバヤの王宮へ赴き、闘鶏に参加した。戦いで、サウンガリンの鶏は、ジャエン・ロノの鶏を倒したのである。かくてサン・アディパティの約束通り、サウンガリンはスラバヤ王宮のトゥムングンとなった。

 トゥムングンとなって、サウンガリンは母と共に、アディパティの宮殿の近くに暮らした。

 ヌサンタラ〈祖国〉を統一した宰相、ガジャ・マダ Gajah Mada の物語もある。民間の伝承によれば、ガジャ・マダはモジョパイト Majapahit 王の隠し子(ルムブ・プトゥンあるいは非嫡子 anak haram )で、ドゥムン Demung (村長)の美しい娘、カリ・ラナン Kali lanang との間の子であるという。その子はジョコ・モド Joko Modo またマダ村の若者と呼ばれ、1300年頃に生まれたという。

 ジャワの昔の王たちの物語だけではない。スカルノ Soekarno もまたルムブ・プトゥンと呼ばれた。流布している話では、彼はバリの王の後裔であるという。その幼少期の乳母の名がサリナ Sarinah であるという。特にサリナは、著名なスカルノの本に影響を与えた。さらに、その名はインドネシアの最初のショッピングモールの名ともなったのである。

 スハルト Soeharto も同様である。オルデ・バル〈Orde Baru 新体制〉の支配者もまたルムブ・プトゥンに属する者とされている。パ・ハルトは今日にいたるまで、その実父が誰であるか不明である。クムスク Kemusuk に住んでいた頃、パ・ハルトは叔父、プロボステジョ Probosutedjo の父と暮らしていた。一説によると、スハルトの実父は当時トゥアン・リエム Tuan Liem と呼ばれていた中華系の商人であるという。

 『やんちゃ nakal 』スジウォ・テジョ Sujiwo Tejo が、我が民族の指導者に相応しい人物像を掲げている。〈それは〉ルムブ・プトゥンである。我々は、次々と果てしなく生じ、我々を苦しめる国家の問題に何ら責を負おうとしない指導者たちの危機のまっただ中にある。さらにこの国の政治的反対勢力に対しても、しばしば『だいたい』で済ませてしまっているではないか。『もし』『mbok menawa : もし、仮に』という歴史を見てみたいではないか。ルムブ・プトゥンを指導者とした過去の成功例を、なぜ試してみないのか?、と。

 ルムブ・プトゥンは血統の問題として解釈するだけでなく、ノスタルジー〈懐古主義〉としても解釈できる。つまり、別の流れから現れた人物、最初は思いもよらなかった誰か、過小評価されていた誰か、である。ルムブ・プトゥンとされる者はおしなべて、民衆の中で生き、そこで宮廷の籠の中で培養された者(政治的エリート)以上に現実の生活の問題を学ぶのである。

 なぜルムブ・プトゥンによる権力の転覆が成功し、均衡を破って、しばしば成功を勝ち取るのか?それは、彼が明確な歴史的アイデンティティーをもっていない者だからである。彼は外部からやって来て、民衆の中から立ち現れ、民衆の支持を獲得するのである。

 心理学的には、ルムブ・プトゥンとは自己のアイデンティティー、認識を探し求める者であり、それが偉大な者になりたいという野心を抱かせ、指導者としての彼らの行為に表出されるのであろうか?

 ルムブ・プトゥンの遺伝学的見地にかかわらずとも、スカルノは国際政治の場においてインドネシアを文明の一極とする、という野心を抱いていた。GANEFO〈新興国競技大会(しんこうこくきょうぎたいかい、英語: The Games of the New Emerging Forces, 略称:GANEFO)は、オリンピックに対抗するものとして1962年後半にインドネシア政府によって準備され、翌1963年11月に開催されたスポーツ大会。〉を熱心に推進したのも、アメリカを中心とするPBB〈Perserikatan Bangsa-Bangsa 国際連合〉に対抗しようとしてのことではないかと伺える。我々はスカルノが如何にマレーシアを嫌ったかを知っている。というのも彼の国はイギリスの政策を鸚鵡返しにするからであった。しかし、スカルノはかつてはラジカルであり、東欧圏の左翼思想をコピー・ペーストしようとはしなかった。彼は共産主義、国家主義を求めていたが、宗教もまた求めていた(精度の高いイデオロギーとそれに対抗する根本的価値観が、テクノロジーとの結合という形で表出する可能性を開いた)。

 フロイド心理学を探れば、過去のいつか(幼年期)におけるトラウマは、個人の性格形成に関わり、日常の行動のナビゲーションとなるという。不快な過去を持っている人は、過度に自傷的なアイデンティティーを形成する傾向がある。それがターニングポイントを経て将来の飛躍の礎となる。ある「トラウマ」は、その「狂気」を(共同体の中で)活用することで、個人を成長させるのである。

 ルムブ・プトゥンたる人物はこの国の汚職の聖域で、さまざまな源泉を持つ縁故?主義を一掃することが出来るのである。

2014年「ルムブ・プトゥン」が王位を狙う

 2014年の大統領選(総選挙)の熱狂は今年になっていや増している。いたずら好きの文化人スジウォ・テジョは提言する。「インドネシアには注目に値するルムブ・プトゥンが必要だ」と。しかしこれは意味を広げて受け取らなければならない。

 政界においては、ルムブ・プトゥンとは政党(パルポル parpol: partai polotik )の王位継承権を持たない誰かを意味することになる。例えば、第一党、SBY〈ユドヨノ〉大統領の息子、エディー・イバス・バスコロ・ユドヨノ Edhie 'Ibas' Baskoro Yudhoyono のような人ではないということだ。さらには政党の主要な人間、会長や事務総長(スクジェン Sekjen : Sekretaris Jendral )、また党幹部でもない。

 とはいえ、働くのは彼らでありーー公務・民間を問わずーー第一の達成目標は、民間の福祉とKKN〈Korupsi Kolusi Nepotisme 汚職・談合・縁故〉文化の「一掃」である。

 そのような意味でのルムブ・プトゥンの「条件」とは、この国の指導者として選ばれるため、様々な個性を大衆に歌われるような者でなければならない。たとえばマフド・M・D Mahfud.M.D * である。多くの関係者たちが2014年の選挙に立候補するというこの元憲法裁判所(MK)長官の動向に目を見張っている。昨年来広範に推薦状が回され、マフドも読んでいる。『その問題(大統領選)について話さなければならないなら、2013年6月に話すことにする。現在の職務を終了してからだ。』と彼は語った。
 * モハマド・マフド・M・D Mohammad Mahfud MD (1957年5月13日生まれ)。インドネシアの政治家・法律家。インドネシア憲法裁判所長官。2013年初頭に彼は裁判所長官としての5年の任期を終了した後は再選を求めないことを発表した。

 彼を求める政党が存在した場合、元民族覚醒党 Partai Kebangkitan Bangsa (PKB) はこれを拒否しないと表明している。しかし憲法裁判所の任期中であるため、彼が現時点で返答することはないであろう。公職に就いてる間は、この問題に答えるのは倫理上の問題を生ずる事になるからである。

 関係者の一部はマフド以外の名も挙げている。たとえば、元財務大臣スリ・ムルヤニ Sri Mulyani や、国務大臣のダラン・イスカン Dahlan Iskan らである。

 政治評論家の一人、イブラムスジャ Iberamsjah はマフド・M・Dと並んでスリ・ムルヤニを評価している。「2014年の選挙でのポテンシャルはパ・マフドが持っていると見ている。」と彼は語った。

 フェイスブックのようなソーシャルネットワーキングサイトでは、マフドとスリ・ムルヤニのマッチメークが盛んに取り沙汰されている。それらによれば、この両者が候補者に相応しいと見られている。

 イブラムスジャによれば、現在諸政党にはインドネシアをリードし得るような強力な態勢を維持する党は無いという。たとえば民主党 Partai Demokrat には、スシロ・バムバン・ユドヨノに代る人物はまだ現れていない。「民主党自体が困難を抱えており、アナス Anas (民主党党首)はこのねじれを解消できないであろう。」とイブラムスジャは著書で述べている。

 上記の三者は「ルムブ・プトゥン」であると看做すことができる。彼らは政党のエリートではないが、インドネシア共和国第一党となる「闇の子」であるかもしれないのだ。

 ダラン・イスカンにも2014年の「ルムブ・プトゥン」となり得るチャンスは大きい。少なくとも四つの政党が既に彼に注目している‥。とはいえ、ダランは未だ大統領選への出馬を表明してはいないが。「Astaghfirullah(アッラーのお許しを)、それは危険だ。」と彼は簡潔に語った。

 PLN(Persero)〈国営電力会社 Perusahaan Listrik Negara 〉の長は大統領選の問題について言葉少なであった。彼によれば、候補との接点が問題になれば、職務の障害となるから、彼の発言が誇張されないように、と釘を刺した。

 周知のようにダラン・イスカンはすでに国民信託党(PAN)、福祉公正党(PKS)、ゴルカル党(Golkar)、民主党(PD)から要請を受けている。

 PDのDPP〈Director of Public Prosecutions 公訴局長〉ウリル・アブスハル Ulil Abshar の後押しによるハッタとダランの会談で、彼はPDの支持を得るため、「問題解決」と称されるデュエットを実施すると話している。

 インドネシアをリードし得るもう一人の人物は、ソロ市長ジョコ・ウィドド(ジョコウィ) Joko Widodo (Jokowi)である。エスムカ Esemka * 自動車は排出ガス検査を通らなかったが、彼はこの件での社会的変化を評価されている。
 * Esemka 、インドネシア国内のいくつかの機関・企業・地域が協力して専門学校の学生らを従業員として生産する自動車。国内地域の就業率を上げた。

 ジョコウィがソロ市長を2期努めている事からも、彼に対する大衆の支持が分かるであろう。ジョコウィのリーダーシップのスタイルは簡明かつ透明性の高いものである。彼はソロ(スラカルタ)の露天商を含む草の根レベルの問題の解決でも、混乱を生じさせることなく解決してみせた。

 ジョコウィの名は、スラカルタの勤労学生たちの、エスムカ自動車プロモ−ションの推進を受けてますます評価が上がっている。

 彼はこれを公用車として使用している。これにより、他の多くの地域の指導者たちも彼の真に平等でかつシムプルな指導者象を学ぼうとしている。

 未だ最終的な回答はないが、ジョコウィはの言によれば、「私は市長としての仕事を中断するわけにはいかなので、大統領になっている余裕はない。」と金曜(6月1日)に彼は話している。

 彼がもう一方の指導者候補として出馬するのであれば、かつて所属していた闘争民主党 PDI Perjuangan からということになるであろう。

 ジョコウィは地位には興味が無いと言う。彼の推進するキャンペーンには必要ないとの理由からである。「職務を『堅実』に全うすることが出来れば良い。私は地方行政の長 ketua RT (Rukun Tetangga )にすぎない。」と彼は語った。

 どの「ルムブ・プトゥン」が「インドネシアの王」の座を獲得するのか?そして彼らはスジウォ・テジョの望むような大衆の平穏をもたらしてくれるのか?それは我々の行動にかかっているのだ。
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by gatotkaca | 2012-11-28 15:25 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

切り絵「宴の夜」

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by gatotkaca | 2012-11-27 11:19 | 切り絵 | Comments(0)

デウォブロト(ビスモ)の人物像 その(2)

 「ビスモ、ジレンマに満ちたブラフマチャーリンの人物像 」スグン・ヌグロホ
 前回からのつづき。

Ⅲ. 分析
 多くの人たちがワヤンで語られる物語は人生を描いた物語であると考えている。物語の中の葛藤・紛争は、人生における葛藤・紛争そのものであると。そして、物語に内包される価値観は人間性における価値観(真実)であると。それゆえ、人はワヤンを観る時、鏡に映った自分自身を見るのとかわらぬ気持ちを持つのである。そこでおこる行動、行為、対話、問題は観衆たち自身のものでもあるのだ。
 一見関係がなさそうに思えても、実はワヤンで扱われる物語には、我々が答えなければならない現象が提示されているのである。さらに、フランツ・マグニス=スセノの引用するアンダーソンの説(1988;161)によれば、『各々のラコン〈演目〉は、倫理を説くテーマに満ちている』のである。ワヤンの観衆として、我々はあるラコンに現れ、また黙示されていることがらの全てを解釈することを試されているのである。知っておくべきある事柄があったとしても、感性や解釈の鋭さといったものは個人的なものであり、見る者それぞれに異なっている。芸術としてのワヤンであっても、そこには複数の次元が存在し、さまざまな解釈が可能なのである。

ラコンの分類
 ダラン〈ワヤンの上演者〉界では、各種のラコンが知られている。サユムボロ〈嫁取り〉もの、ラベン raben 〈結婚〉もの、ラヒラン lahiran 〈誕生〉もの、ワフユ wahyu 〈天啓〉もの、ルブット lebet 〈lebet=入る:入滅(涅槃=生の完全生)への到達を主題とする演目〉もの、クラムン kramun 〈kramun=小雨:悲劇的内容か?詳細不明。〉もの、クリド krida 〈アクション〉もの、ジュムヌンガン jumenengan 〈即位〉もの、そしてルワタン ruwatan 〈魔除け〉ものなどである(バムバン・ムルティヨソ Bambang Murtiyoso 1992:189,192)。では、ラコン『ビスモの生涯 Banjaran Bhisma (4)』はどれに属するのか?この演目の中には嫁取り、即位、アクション、結婚といった要素がみな入っている。
 (4)ラコン・バンジャランとはひとつのラコンに幾つかのレパートリーのラコンから事件を引用し、連結させて構成したものである。文学的に言えば、ロマン〈大河ドラマ〉と言えるものである。ラコン『バンジャラン・ビスモ(ビスモの生涯)』は故キ・ナルトサブド Ki Nartosabdho が構成し、市販のカセットテープが流通した。

 ラコンの種類を決定するのは、そのラコンの核心部分に提示される要素による。ラコン『ビスモの生涯』には上記のさまざまな要素が含まれるが、筆者の意見では、ラコン「ルブット」に属するものと考えられる。というのも、ここには深い魂に関する価値観が内包されていると思えるからである。各場面にはそれぞれ人生の葛藤が見出され、それは人間間の葛藤のみならず、個人の内面的葛藤、トゥハン(神)と人間の葛藤も含まれている。
 人間関係の葛藤、個人の内面的葛藤は、ビスモがプラブ・スンタヌやデウィ・ドゥルガンディニと対する場面に見出せる。ここにおいてビスモはディレンマに対峙する。彼は王位を称する yuwaraja (王位継承者となる)か父の幸福のどちらかを選ばなければならなかった。また、同様にビスモはデウィ・オムボに対しても、サユムボロの戦利品としてアスティノ国へ連れて行くか、サユムボロに敗れたオムボの愛する人、プラブ・サルウォに委ねるか、という選択を迫られた。デウィ・オムボがサルウォに拒否されたあと、ビスモのもとへ戻って来たときは、ロモパラスの仲介でビスモはまた選択を迫られた。ロモパラスの命令に服して、不婚の誓いを破ってオムボを受け入れるか、あるいは、ロモパラスの求めを拒否し、師に背くことを選ぶか。これらと並んで重要なのは、ビスモの内面の葛藤として、バラタユダに臨んでのビスモの決断である。彼は世俗的楽しみを与えてくれたコラワか、彼の愛する孫パンダワのどちらかを選ばなければならなかった。
 人間とトゥハンとの葛藤は、人生の道を選ぶビスモの責任感に見ることができる。彼は世界を人間で埋め尽くすか、あるいは世界を定めるダルマ(運命)を遂行するか選ばなければならなかった。
 ビスモの生涯はこのようなものであった。そこには哲学的・宗教的意味、倫理的、審美的、教育的、社会学的意味が内包されている。しかし、これらの人間的価値観(哲学・宗教・倫理・審美・社会・教育)はそれぞれが不可分な関係にあることを知らねばならない。それゆえ、筆者はたとえば他の人間性と係る価値観をともなわない哲学的価値を内包するAといったような、特定の場面を明示することはできない。というのも、バンジャラン・ビスモのある場面においてはしばしば、出来事・内包される価値は普遍的人間性の価値観の鏡面だからである。
 ラコン『ビスモの生涯』に暗示される価値観を活かすため、まずはそこに内包されるメッセージを知っておかなければならない。内包されるメッセージを知るということは、ビスモというキャラクターに結晶化されたものを理解することでもある。それは物語の畝々のひとつひとつに内包された鏡面としての価値観を明示しているのである。

他人のための自己犠牲
 ブラフマチャーリンとして生きることをビスモが選んだのは、この世に新しい頁を紡ぐことを望まない〈自分の子孫を残さない〉ということであるが、それは彼がワス・プラボソであった時に犯した罪によって〈この世に〉生まれて来たことに起因する。それゆえ、彼はこの世に自身の種をまくことで罪を長らえることを望まなかったのである。この世の苦難に耐えるのは自分だけで十分であり、子孫たちの未来に及ぼすことを望まなかったのだ。そのために、その人生において、真実他人のために生きるというダルマにその身を捧げたのである。これは父プラブ・スンタヌがデウィ・ドゥルガンディニに求婚した時に暗示されている。そしてアムビコとアムバリコを弟たち、チトロゴドとウィチトロウィルヨに与えたことにも現れている。
 このようなビスモの行為は、筆者の見解からはなれても、自然の摂理に反するものではない。結婚の法とは、スンナ sunnah〈慣習〉であってワジブ wajib 〈強制的義務〉ではないからだ。さらに、
 「ある人が信念に従い、より高い目的を持って、結婚しないとしても、たとえば彼が一般に対して身を捧げ、自発的に自己犠牲を為すということであれば、その権利を有する(プジョウィヤトノ Poedjawijantna 1982;70)。」
 ビスモの問題に戻ろう。彼がブラフマチャーリンの道を選んだのは、もっぱら安寧を妨げる生の問題を回避するためであったのだ。

他人の愛の尊重
 聖なる道を歩む者として、ビスモは他人の愛をひじょうに尊重した。彼はデウィ・オムボが、愛するプラブ・サルウォのもとへ戻ろうとすることを許した。彼はオムボとサルウォが愛を育むことを汚そうとは望んでいなかったのだ。

誓いの遵守
 ビスモが弟たちの死後、カシ国の二王女と結婚し、アスティノ国の王位を継承することに同意しなかったのは、アスティノ国の王位継承者としての責任を拒むためではなかった。民衆・国家に対する責任は、地位(王位)によって果たされるものではないからである。王とは、基本的には、権力の象徴であり、またその主権は民衆の手にある。それゆえ、ブラフマンとして生きることで、彼はこの世の平穏と安寧のための善行を為すことがより自由にできたのである。ブラフマンとして生きることで、彼は世俗的欲望を抑え、創造神サン・マハ・チプタに応えることに集中できたのだ。
 二人の弟チトロゴドとウィチトロウィルヨに代わるアビヨソの戴冠式は、空位となったアスティノ国の王位に対してビスモが責任を果たしたことを意味する。それはまた、彼を愛し、育ててくれた継母デウィ・ドゥルガンディに対する敬意の表明でもあった。
 それにもましてビスモの行為の動機は、誓いを破らぬことにもあった。『誓い』とは単に人間間の問題ではなく、自分自身、社会、環境、そして唯一神トゥハン・ヤン・マハ・クアサに対する責任でもあるのだ。

最後の決断
 個人ごとに世界に対する責任感の表明はそれぞれである。ビスモもまた同様だ。
 (ワヤンの)他の人物と違って、ビスモの責任感は外面だけでなく、より内面的なものであった。彼はパンダワよりもコラワに近しいところにいた。というのも、パンダワの苦しみを目にしてはいたが、ブラフマンのダルマに沿った行動に専念していたからである。彼は直接アドバイスを与えるために、コラワの中心に身をおいたのである。徳を目指し、ねたみ、粗暴、貪欲、強欲を棄てるようにと。彼がパンダワのそばにいなかったのは、パンダワにはスリ・クレスノ(ウィスヌの化身)やスマル(世界の後見人)がいて、彼らを導いていたからである。またパンダワには神の後ろ盾があることも知っていたのである。
 しかしコラワたちはビスモの願いからそれて、いつも不徳の行いを為した。まさしく強欲・貪欲を高めていったのである。絶望し、ビスモは世の定めに抗う力を失った。コラワの残虐性と貪欲はますます増長していった。彼の与えるアドバイスは一服の聖歌にしかならず、忌むべきバラタユダの勃発は不可避となってしまった。人間としてのビスモのクシャトリアの本能がついに頭をもたげた。彼はアスティノ国がパンダワとコラワの為すがままになるのを見過ごせなくなったのである。
 ビスモがバラタユダの戦場に立ったのは、コラワを護るためではない。パンダワのセノパティ(戦闘指揮官)たちを追い払うためである。彼はパンダワの勝利を自身の手でかなえることにした。誰の手もかりずに。
 こうしたビスモの態度は、元来の意志を復活させた。ブラフマンとして生きて求め続けた「世界の安寧ムマユ・アユニン・ブミ memayu hayuning bumi 」への道、それがブラフマンとしての魂と相克したのだ。彼が切り開いた平和は空しくなり、ビスモのブラフマンとしての魂はクシャトリアの欲望に取って代わられたのである。というのも、
 「完全なる善性にある人をブラフマンと呼ぶ。欲望にとらわれる人はクシャトリアと呼ばれる。欲望にまみれ、無知なる者をヴァイシャ vaisya と呼ぶ。無知にまみれる者はスードラ sudra と呼ばれる。(ヴィシュヌパダ visnupada 1983;41)。」
 ビスモの魂は安定を欠き、破滅が迫っていた。混乱の最中に彼の身体は無数の矢に貫かれぐったり倒れた。それでもまだビスモはパンダワとコラワたちに教訓を与えた。それはビスモの魂がいまだその感性において聖なる道を目指していたことの証である。ここでビスモによって語られた教訓は、パンダワとコラワに対してのみのものではなく、自分自身対してのものでもあった。言い換えれば、これまでの彼の行動全てに対する内省としての教訓でもあったのだ。
〈このあたりの文脈、やや分かりにくいかもしれない。ブラフマンは不殺生を行動基準とするが、ビスモはバラタユダを前にしてブラフマンの生き方を棄て、結局クシャトリアとして殺戮の場である戦場に赴き、敵を殺した。ここでは、こういったビスモの心情の変化を論じている。〉

結論と結び
 ビスモの物語から得られる結論は、真実と徳を達成しようとする願いは、一人の人間によって達成することは困難であるということだ。ビスモのごとき賢者であっても、完璧な聖性に至ることは出来なかった。というのも、人間として生きることは、五感の束縛から逃れることができないということだからである。人の子である以上誰であれ如何なるときであれ、そうである。
 ジャワの格言に言う。『banyu kang sumbere bening, tumekaning sagara dadibuthek (水源の澄んだ水も大海にいたれば濁る。源が濁っていればなおさらである)』と。善(徳)を目指すためには、良き志、良き言葉、良き行い、といった良き環境に身をおかねばならない。それでもまだ望みに見合う保証はないのだ。全能なる神サン・マハ・スムプルナ Sang Maha Sempurna 以外に『真の』完全性をもつものはいないからである。「あの方」だけが全世界に生きるものの輪廻を定めるのである。
 おわりに、この小人のあさはかな考えが、さらなる賢者の考えを促し、ワヤンの物語の広大なる大空にさらなる広がりをあたえることのできますように。

1992年7月28日スラカルタ

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 ちなみに中辻はワヤン(マハーバーラタ)の登場人物の中では、ビスモが好きである(あとボロデウォ)。でもホントにこんな(ほぼ完璧)人がそばにいたら、自分のような者はいたたまれない感じでたまらんだろうとも思う。ドゥルユドノの気持ちもちょっとわかる。

 スミヤント氏とランバンサリの公演のご成功をお祈りいたします。実際の上演の中で息づくデウォブロトの姿が楽しみである。

 *お詫びと訂正。
 今回、冨岡三智さんからPoerbotjaroko(Poerbatjaraka)の読みについてご指摘いただきました。冨岡さんありがとうございます。今まで筆者はどこかで間違って憶えたプロボチャロコという読みを使用して来ましたが、実際はプロボチョロコであることが分かりました(インドネシアの資料等で確認済み)。以前の記事についても順次訂正していきたいと考えていますが、間に合っていないところもあるかと存じます。以前の記事で、プロボチャロコと書いてあったら、プロボチョロコと読んで頂けますよう、ご海容を乞います。申し訳ありません。
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by gatotkaca | 2012-11-22 06:57 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

デウォブロト(ビスモ)の人物像 その(1)

 来たる2012年11月23日(金)に行われるスミヤント氏とランバンサリによるワヤン公演では、デウォブロトの物語が上演される。デウォブロトというのはビスモの若き日の名である。
 公演の詳細は下記にアクセスして下さい。
 ランバンサリHP
 スミリール〜ジャワの音楽・舞踊・影絵芝居Blog

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 ビスモはマハーバーラタの重要人物のひとりで、バラタ族の長老である。上の絵は若い頃の姿デウォブロトで、下が年取ってからの姿、ルシ・ビスモ。
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 今回はスミヤント氏への応援もかねて、『 ワヤン芸術の価値 Nilai-nilai Seni Pewayangan 』(1993:Dahara Prize, Semarang )に収録されているスグン・ヌグロホ氏の『ビスモ、ジレンマに満ちたブラフマチャーリンの人物像 』という文章を紹介する。

ビスモ、ジレンマに満ちたブラフマチャーリン * の人物像
BHISMA Profil Brahmacharin yang penuh Dilematis

* ブラフマチャーリン〈ブラフマチャーリー:世俗を捨てた禁欲者〉

スグン・ヌグロホ Sugeng Nugroho


1.はじめに
 ワヤン、より正確にはプワヤンガン Pewayangan 〈ワヤンに関する諸々〉は、文化、筆者は文化と呼ぼう、である。というのも、それは長い間人間の根幹(人間性の構築)として人々に知られてきたからである。先史時代において、ワヤンは祖先の霊に対する祈りの手段として知られ(ブランドン Brandon 1970;3)、先史時代からの遺産として今日も生きている。その証拠に今日でもワヤンはサドラナン sadranan* やルワタン ruwatan の儀式の手段として用いられている。始めはヒンドゥ教・仏教のもとで発展し、イスラム教では、ワヤンはダワー dakwah 〈イスラム布教〉のメディアとして用いられ、その後もワヤンは説教、教育、政治的プロパガンダその他の手段として用いられ続けてきた。その全ては時代の流れに沿ったワヤンの柔軟性のおかげである。それゆえこれから時代を経ていっても、ワヤンが消え去ることはないであろう。
 * 故人、祖先を供養するジャワの伝統的儀式。

 時代に即応する柔軟性のゆえに、ワヤンの可能性は『永遠』のものであり、そこには真に驚くべき内容が内包されている。ワヤンには叙事詩としての側面も見出すことが出来る。ワヤンを見る高齢者たちはそこに古の時を見るであろうし、若者たちはそこに青春を見出すであろう。そして年少の者たちは子供らしく見る。同様に哲学者たち、社会学者たち、人類学者たちや他の者たちはそれぞれの、知識の鍛錬を見出すであろう。
 歴史的、哲学的、社会学的、人類学的、文学的、その他の側面からのワヤンに対する議論が多くの者によって行われてきた。スリ・ムルヨノ Sri Mulyono の「ワヤン:その由来、哲学、そして未来 Wayan: Asal-usul, Filsafat, dan Masa Deoannya 」、「ワヤンとヌサンタラの哲学 Wayang dan Filsafat Nusantara 」、セノ・サストロアミジョヨ Seno Sastroamidjojo の「ワヤン・クリ上演に関する考察 Renungan tentang Pertunjukan Wayang Kulit 」、R・ストリスノ Soetrisno の「ワヤン世界と歴史の展望 Sekilas Dunia Wayang dan Sejarah 」、G・A・J・ハゼウ hazeu の「ジャワ社会の知識への貢献 Bijdrage tot de Kennid van het Javaansche Tooneel 」、R・O'G・アンダースン Anderson の「ジャワの神話と変容 Mythology and the tolerance of the Javanese 」、プルボチョロコ Poerbotjaroko の「スラット・パンジーの比較 Serat Panji dalam Perbandingan 」、スディロ・サトトSoediro Satoto の「ワヤン・クリ・プルウォ、意味と劇的構成 Wayang Kulit Pruwa : Makna dan Struktur Dramatiknya 」などである。
 それゆえ、それらを比較して、筆者は性格的側面から、ワヤンから一人の人物を取り上げることにする。筆者の選んだ人物は、ビスモ Bhisma である。彼はアスティノ Hastina 王国の王位継承者であったが、王になることではなくブラフマチャーリンの道を選んだ。またビスモの人物像に関する議論で興味深いのは、彼がバラタユダ Bharatayuda においてコラワ Korawa側、いわゆる偽善、強欲、悪の側に付いたことである。

 上記の問題を喚起する背景として、筆者の論において興味を惹かれる問題を定義すると下記のようになるだろう。
1. なぜビスモはアスティノ王国の王位継承権をみたしていながら、王位よりもブラフマチャーリンの道を選んだのか?
2. なぜビスモはバラタユダにおいてコラワ側に味方したのか?
3. ラコン『ビスモの生涯 Banjaran Bhisma 』に内包される人間的価値観とは何か?

 上記の問題に答えるために、筆者は直接関係するものまた、間接的に参照する文献を精読してみたい。上記の問題を解明するための基礎的参考文献としてあげられるものは、(1)「ワヤンとその登場人物 Wayang dan Karakter Manusia シリーズ2、スリ・ムルヨノ著(1977)の特にビスモに関する記述、(2)「ワヤン・プルウォの物語に関する家系 Silsilah Wayang Purwa Mawa Carita 」第四巻(1984)と第七巻(1986)、S・パドモスコチョ Padmosoekotjo 著、(3)「マハバラタ、クルクセトラの激烈な戦い Mahabharata ; Sebuah Perang Dahsyat di Medan Kurukshetra 」(1981)、ニョマン・S・プンディト Nyoman S. Pendhit 、(4)「マハバラタ物語 Mahabarata Kawedar 」(1933)、RM・スタルト・ハルジョワホノ Soetarto Hardjowahono 、(5)「英雄ビスモ Wiratama Bhisma 」(1975)、ヘルスカルト Heroesoekarto 著、(6)「バラタユダの書 Serat Bharata Yuda 第一巻、第三巻」(1976)、スラムット・スタルソ Slamet Sutarsa 著、(7)「スマントの構成によるラコン・ビスモの戦死のパダット〈短時間構成のワヤン〉上演構成写本 Struktural Naskah Pakeliran Padat Lakon Bhisma Gugur Susunan Sumanto 」(台本、1992)、ジャルワディ Jarwadi 著、(8)「ハンダラン・バガヴァット・ギーター Handaran Bhagavad-Gita 」(1960)、クウィー・テック・ホアイ Kwee Tek Hoay 著、(9)「原典版バガヴァット・ギーター:全問題への回答 Bhagavat-gita Menurut Aslinya : Jawaban Segala Pertanyaan 」(1983)、オーム・ヴィシュヌパダ Om Visnuoada 著、(10)「ジャワの倫理:ジャワの生の英知に関する哲学的分析 Etika Jawa : Sebuah Analisa Falsafi tentang Kebijaksanaan Hidup Jawa 」(1988)、フランツ・マグニス=スセノ Franz Magnis-Suseno 著、(11)「ジャワの神話と変容 Mythology and the Tolerance of the Javanese 」(1965)R・O'G・アンダースン Anderson著、(12)「エチカ〈倫理〉;行為における哲学 Etika ; Filsafat Tingkat Laku 」(1982)L・R・プジョウィヤトノ Poedjawijatna 著である。
 この論説は主観的分析に近い方法を取る。それは、この論説の分析が筆者の仮説に基づいたものであることを意味する。というのも、『価値観』に対する議論は、『事実』に関する議論とは異なるからである。事実とは現実(具象)によって構成されるものであり、検証可能であり、ゆえに事実は五感で捉えることが出来る。いっぽう、価値観は観念(抽象)によって構成され、その存在を検証することはできず、価値観とは内在するのみの存在である。『ある感性とは考察に始まり、一定期間の熟考を得て達成される』(アブバカル・ブスロ Abubakar busro、1989:2)。
 それゆえ、文化(含む:芸術作品)を形成する人の価値観の認識の相違は自然のことであり、起こるべくして起こるのである。であるから、個々の観察は相対的であり、その能力、あるいは鋭敏さ、直感的推測に依存するのである。

Ⅱ.ビスモの人生

人生の困難
 人生において、人は時折打ち破ることの困難なジレンマに遭遇する。彼はどちらかを選ばなければならなくなる。善か悪か、過ちか真実か、独善か賢明さか等々。そして人がひとつのものを選べない時もまた、それは選んだことになるのだ。『選ばない』ということを。ここに人間の抱えるある問題が始まる。とはいえ、人が困難も無く、善、真実、賢明さを選択したなら、それは相対的なものであることは明らかである。善、真実、賢明さ、正義と考えられているものは、すでに他の者によってそのようであると定められたことに従っているのである。実際はその逆であることもああり得るのだ。それゆえ、人生とは混迷した困難から自由であることはできない。迷路を歩くようなものであり、障害の無い道を通ることはできない。
 こういった問題は、ビスモが対峙した問題とかわらない。バラタ族のひとり、その名はビスモ、彼はワヤンの世界ではおなじみである。若き日の彼は悩ましい二択に直面しながらも『ブラフマチャーリン』を貫いた。彼は責任を放棄したとも言える。あるいは責任を全うするなら誓いを撤回しなければならなかったのだ。後に老年になってバラタユダが迫った時、彼はパンダワ Pandawa とコラワという、同じように深く愛する孫たち、二組のどちらかに味方することを選ばなければならなくなった。しかし、拒むことは許されない。彼は心の声に従って、一方を選ばなければならなかったのである。

ビスモの誕生
 ビスモはまたデウォブロト Dewabrata の名でも知られている。彼はデウィ・ゴンゴ Dewi Gangga〈ガンジス河の女神〉から生まれたワス・プラボソ Wasu Prabasa(ワス wasu =神族のひとつ)であったが、その傲慢さによってルシ・ワシスト Resi Wasista に呪われた。彼の妻が(ルシ・ワシストが飼っていた)ルムブ・ナンディニ Lembu Nandini の乳を欲しがった。その乳は若さを保ち、長寿を授けるといわれていたのである。妻に言われてワス・プラボソは兄弟たちと共にその牛を盗もうと謀った。しかしそれはルシ・ワシストの知るとこをとなり、彼らは、後に人間に生まれ変わらなければならないという呪いを受けたのである。プラボソはその悪事の首謀者であったから、他の七人の兄弟たちよりも長く地上にとどまり、苦しまなければならないとされたのである。
 このようなデウォブロトの出生の物語は、「業(カルマ karmapah)」の思想を想い起こさせる。罪が理由となり結果を決定するという、因果応報の思想は、東洋で今日も多くの人々に信じられている。つまり、かつて行われた善行あるいは悪行が、先の人生を決定するという考えである。それゆえデウォブロトの人生は、解決困難な問題と直面し続けることになることが不可避であったのだ。最初の難題は、彼が生まれてすぐに母、デウィ・ゴンゴが彼のもとを去っていったことである。こうして彼は一度も母の愛を受けることなく育った。父に深く愛された子であったが、それはわずかな間でしかなかった。まだ彼が幼いうちに父スンタヌ Santanu が再婚したからである。スンタヌの再婚はデウォブロトの終わり無き冒険の始まりであった。

デウォブロトの献身
 人間として、デウォブロトは利己的なタイプの人ではなかった。彼は自分自身よりも他人のことを重く考える人であった。その証拠に、父スンタヌがデウィ・ドゥルガンディニDewi Durgandini への恋に落ちた時、デウォブロトは彼女の要求に応じたのである。サン・デウィの望みが何であれ、デウォブロトはそれを受け入れることを厭わなかった。『父プラブ・スンタヌと義母デウィ・ドゥルガンディニの幸福のために、私は王位継承権を放棄し、義母ドゥルガンディニから生まれた弟に王位継承権を譲るでありましょう。アスティノの王権は永遠に弟の子孫たちの手に委ねられる。そのために私は生涯妻帯しないことを誓います。』と。デウォブロトの誓いを聞き、大地は震動し、世界は唖然として揺れ動き、狼狽した。かくて全世界が彼に恩寵としてビスモの名を与えた。「ビスモ〈ビーシュマ〉」とは、凄まじき者、恐るべき者を意味する(パドモスコチョ Padmosoekotjo、1984:Ⅶ:56)。これほど魔術的・宗教的出来事を経験した者は(ワヤンの世界では)かつてなかった。かくてビスモのその全能の誓いに対して、スンタヌは『アジ・スウォチャンドモロノノAji Swachandamaranana』の護符を与えた。それは不死の力を持ち、ビスモ自身が望む時まで、決して彼は死ぬことがない、というものであった(パドモスコチョ、1984:Ⅳ:57)。
 デウォブロトのこの行動は、ある意味クシャトリアとしての責任を放棄するものと言える。王位継承権を弟に譲るということは、デウォブロトがアスティノ王国内の苦楽に対する負担を負わないことを意味するのである。彼は真のクシャトリアとは言えない。というのも、国家の運営者としての負担の一切を負う責任を手放し、自身の生活のみに専念することになるからである。「不婚の誓い」をたてるというようなことは、彼が国家や世界に新しい頁を紡ぐ〈子孫を残す〉べき人間としての責任をとらないことを意味する。言い換えれば、こういった行為は、命をつないでいくという生き物の役割(mbuntoni tumangkaring wiji )を拒否することを意味するのである。
 しかし、別の観点から見れば、精神・魂の重要性をひたすらに追求する生き方ということもできる。他者の苦しみを自身の苦しみとすることでもあり、それは他者の幸福を自身の幸福とすることでもある。
 デウォブロトは全ての権利を捨てさり、ブラフマチャーリンとして生きた。それは父プラブ・スンタヌへの敬意と愛の故である。スンタヌが深く愛する継母の重大な望みに対して父を失望させたくなかったのである。だから、彼は王位継承権を持つスンタヌの息子として、正義と英知と責任をもって、他の者に権利を譲ったのである。

ビスモの最初の試練
 ビスモは義理の弟たち、チトロゴド Citragada とウィチトロウィルヨ Wicitrawirya を自分自身以上に愛した。カシ国でデウィ・オムボ Dewi Amba 、アムビコ Ambika 、アムバリコ Ambalika を賭けたサユムボロ・ピリ Sayembara pilih (1)が催されると聞き、デウォブロトは参加を望んだ。デウォブロトのサユムボロへの参加は自身のためではなく、愛する二人の弟のためであった。
 (1)このカシ国のサユムボロはダランによればサユムボロ・ピリsayembara pilihではなくサユムボロ・プラン sayembara perang (強者、超能力者の戦い)であり、ワフムコ、アルティムコを倒した者は誰あろうと、カシ国の三王女を得ることができるというものであった。
 * サユムボロとは嫁取り競技のこと。サユムボロ・ピリは王女自身が婿に相応しい者を選ぶ形式を取り、サユムボロ・プランは武芸大会の勝利者が王女を獲得する。

 カシ国の三王女、オムボ、アムビコ、アムバリコ(ヘルスカルト、1975:40-44)は、コロ・ワフムコKala Wahmuka 、コロ・ハリムコ Kala Harimuka 、サルポクノコ Sarpakenaka と呼ばれることもあり、またデウィ・アムビコ Dewi Ambika 、アムビキ Ambiki 、アムバヒニ Ambihiniと呼ばれることもある(スタルソ、1976;Ⅰ:15)。

 最終的に三人の王女はアスティノ国へ連れて来られることとなったが、三人の王女のひとりデウィ・オムボは途中で、ビスモに自分を自由にして欲しいと乞うた。というのも彼女にはすでに愛するサルウォ Salwa 王との約束があるというのである。愛情というものを敬意をもって護る人として、ビスモも礼をもってデウィ・オムボを喜んで解放した。しかし何が起こったか?サルウォ王はオムボに対して心を閉ざしたのである。というもの、彼はすでに彼女を妻にする権利を持たないというのである。恋人から拒否されオムボの心は衝撃を受けた。彼女はおおいなる辱めを受けてビスモのもとへ戻って来た。
 オムボが戻って来たことでビスモの心は波立った。愛情を重んじる彼が、ここにいたって彼女を傷つけたことになってしまったのである。愛する人の抱擁を望んだオムボをプラブ・サルウォはもはや受け入れなかった。ビスモは罪の意識を感じた。
 オムボがその命をビスモに委ねたことは、彼をさらに苦しめた。ここにおいてビスモは重大な選択を迫られたのである。感情と忠節、責任と信頼の二つにひとつである。『私がオムボを受け入れれば信頼を損ね、自分の理想が破れることになり、世の人は私を笑うだろう。私は自身の忠節の誓いを守れなかった者となる。しかし私が誓いを守れば、世の人は私を憎むであろう。私は責任を投げ出した者と言われるであろう。今はただ、自分の心に従うのみだ。』
 「シマラカマSimalakama の実」を食べる * ように、母の死を呑込むか、父の死を呑込むかのようにビスモは苦悩した。しかし彼はどちらかを決断しなければならなかったのだ。問題から逃げれば世の人から卑怯者と嘲笑われるだろう。かくて彼は最終決断として、自身の誓いを遵守することに決めた。ビスモの最終決断はオムボをさらに苦しめることとなった。千の希望が潰えたのだ。苦悩のうちに生きるよりは死んだ方がましだ。その運命が決せられる前に、突然ロモパラス Ramaparasu ** が手助けに現れた。彼はビスモに対しブラフマチャーリンの誓いを棄て、オムボと結婚するよう説得した。しかしビスモの言葉は?

 * makan simalakakama ジャワの諺。その実を食べれば父が死に、食べなければ母が死ぬ、という回避−回避型葛藤を伴う二者択一のこと。
 ** ロモパラスはウィスヌ神の化身のひとつ。バラモンに生まれ、復讐のためクシャトリアを21回殲滅した。デウォブロトの武芸の師でもある。


 『おお、我が師よ。師の命令といえども私にはできません。死ねとおしゃれば、我が誠実をもって死にもしましょう。されどこの今の師の命令に服することはできません。あなたと言えど愛情を強いることはできず、あなたであっても他人をその信念に背かせることはできないのです。あなたが何とおっしゃられようと、私は我が信念を守る。我が道は自分の心に従って決めるでありましょう。放っておいてください。』
 ビスモの剛情はロモパラスを怒らせ、戦いとなった。ビスモは師との戦いを望んだわけではなかったが、他人に強制されることも望まなかったのである。ロモパラスは敗れ、オムボの心は癒し得ないほど粉々となった。彼女は彷徨い歩き、バラタユダの戦場でビスモを斃し得る者を探し続けたのである。(2)

 (2)ダランによっては別のヴァージョンもあり、オムボの死はビスモに矢で脅され、誤って射放たれた矢にあたってオムボは斃れる。オムボの魂はビスモに復讐の呪いをかける。彼女はビスモと共にでなければ天界に登らない、と(スタルソ Sutarsa :1976;Ⅰ:17-18)。

 ロモパラスが敗れ、オムボが去り、ビスモの思いは千路に乱れた。というのも、彼は聖なる道をもとめてきたのにもかかわらず、大きな罪を犯すこととなってしまった。かくて彼は今一度誓いをたてたのである。女を決して害することはしない、と。もし戦場で女と対峙したなら、彼は殺されるであろう。誠実さをもって彼の魂は肉体を手放すであろう、と。
 ビスモのブラフマチャーリンの誓いに対する試練はこれで終わりではなかった。二人の弟たちが死に(3)、ビスモは再び不婚の誓いに対する試練を受けることとなった。彼は、誓いを棄てアスティノ国の王位に就き、二人の未亡人たちと結婚するようドゥガンディニに乞われたのである。しかしビスモの答えは?

 (3)チトロゴドは病死、ウィチトロウィルヨは戦場に斃れた。

 『お許し下さい、母上。二人の弟たちが後継者を残さずに死んだからといって、アスティノの王位に就くことは出来ません。私の誓いを破ることは出来ないのです。母上自身のお子であるアビヨソ Abyasa に委ねられる方が良いと存じます。彼ならばきっと国家の体制を護ることが出来ると私は信じます。』
 それからアステノ国の政は、ドゥルガンディニとポロソロ Parasara の息子アビヨソによって執られた。このようにして、バラタ族の子孫の物語を意味することとなったのである。というのも、バラタ王国の唯一の相続人たるビスモはブラフマチャーリンの誓いを遵守したからである。ビスモの信頼を受けて『連れて来られた』者には彼の魂が刻み込まれているのである。

ビスモの最後の試練
 幼少よりビスモは、その魂に試練を受け続けたことで強くなり、人生の意味を意識し、理解する者となった。それゆえ彼はつねに世界の平和と安寧を切望した。孫たちパンダワとコラワに良かれと、助言し長老として振る舞った。貪欲、独善、嫉妬、強欲から離れるようにと教育してきたのである。アスティノ国の一部である、インドロプラスト Indraprasta の地に対する争いがあった時もビスモは平和的解決を求めた。
 しかし、さらなる運命のいたずらか、幾度も交渉がもたれたが、実を結ぶこと無く、争いはより烈しくなっていった。コラワはインドロプラスト国の一片の土地さえもパンダワに返さないと主張した。こうして大戦争(バラタユダ)は避けられぬものとなっていったのである。
 この時、ビスモの心は再びジレンマに襲われた。彼はどちらに味方するべきなのか。パンダワかコラワか、双方とも彼の愛する孫たちであるのに?彼がコラワを選べば、彼は独善的な者たちに味方することになり、徳と真実に敵対することになる。つねに徳と真実を高め、敬意を示して来た彼の心情としてはこれは避けたいことである。しかし彼がパンダワに味方するなら、世の人は彼を責任を放棄したブラフマンとして非難するであろう。
 それゆえ一人の賢者として、ビスモは迷い無く態度を決めたのである。彼はコラワについた。というのもコラワに味方することは、ビスモがコラワを真実の道へ導くため、ブラフマンのダルマ〈運命〉に身を捧げることを意味するからである。しかし最終的にはその努力は報われなかった。
 これは、かつて過ちを犯した者として、ビスモがつねに罪の意識に苦しめられていたからであり、パンダワこそが、彼に死をもたらしうる者であったからである。それゆえ、彼がパンダワの女戦士スリカンディに対峙した時、その身体から超能力が消え去り、オムボを苦しめた痛みの影だけが残ったのである。対峙する敵であるスリカンディの顔を見詰めて、オムボを助けられなかった苦しみがはじけ、彼は罪をあがなう時が来たことを悟ったのである。

死に臨んでのビスモの苦しみ
 ビスモの白昼夢に現れたオムボの影が消え失せ、この賢者たる老雄はもはや力なく、スリカンディの矢はビスモの心臓を貫いた。死を悟った者として、スリカンディを受け入れ、ビスモの心は笑みを浮かべていた。長らえた死の到来に、彼はおおいに喜んだ。しかし天界へ向かう前に、彼の身体は何千という矢に貫かれ、倒れても身体は浮いていた。ただ頭だけが垂れ下がり、台座が無かった。
 それほどの状態になっても、ビスモの心はまだ満たされなかった。パンダワとコラワたちに囲まれた時、ビスモの五感はまだはっきりしていた。彼は願った。頭をのせる台と飲み物を。また、パンダワとコラワたちにダルマ〈運命〉、カルマ〈業〉、サムサーラ〈輪廻〉に関する教えを説いた。ビスモはまだ世俗の欲望にとらわれ、生の完全性にいたることが出来なかったのである。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-11-21 16:05 | 影絵・ワヤン | Comments(2)

クリスマス会のお知らせを作りました2012年

 今年もこの季節がやってきました。地域の子ども会用のお知らせです。
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by gatotkaca | 2012-11-20 09:08 | こども会 | Comments(0)

プルクトゥット鳥のお話

 ジョクジャの街ではよくパサル・ブルンに行く。ここの雰囲気がなんとなく好きで、くつろげるのである。パサル・ブルン Pasar Burung は鳥の市場なのだが、食べる方ではなく、飼う方の鳥を売っている。美しい鳥籠などもあってなごむ。昔のパサル・ブルンの写真。
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 ジョクジャやソロの街中でも、ワルン(お店)の軒先などによく鳥籠が吊るされていて、良い声でさえずっている。まぁ、最近は鳥インフルエンザ Flu Burung の問題などもあるから、そうなごんでばかりもいられないが……。そういった鳥たちの中でも特にジャワの人たちに愛されているのが、プルクトゥット Perkutut というキジバトの一種?で、彼らに言わせるととても良い声で啼くのだそうである。けっこうカワイイ鳥である。
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 啼き声の大会などもあるらしい。これが啼き声。

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 上は啼き声大会のようすだが、どの鳥が啼いているのか、こんなんで見分けがつくのであろうか?竿のてっぺんに籠を吊るしているのは、なるべく高いところに吊るした方が良い声を出すから、ということである。なかなかとぼけた良い光景である。

 プルクトゥットには観相学とでもいうか、色合いや体型などで占い、願掛けなどをする風習があって、どんな色合い、体型がどんな願掛けと見合うか、といった解説書も出回っている。
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これは『プルクトゥット人相占い Firasat* Burung Perkutut スミトロ Sumitro 著』という本(小冊子)で、プルクトゥットの体型・色合いのさまざまなパターンとそれに見合う占い・願掛けなどが事細かに解説されている。さらに飼う時の注意や、良い声で啼かせるための訓練法、病気になったときの薬の処方など、30ページほどの本に、なかなかいたれりつくせりの盛りだくさんな内容である。

*firasat は予兆、予感、勘といった意味だが、 Ilmu Firasat で人相学という意味もあり、星占いや人相占いなどの鑑定力も含む語である。

 この本の冒頭に、なぜジャワでこの鳥が大切にされるようになったかを説く伝説が記されていたので紹介する。

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プルクトゥット鳥の話

 ジャワ社会でプルクトゥット鳥は、王のペットとして飼われてきた。それは彼らが、クリスkeris /ウシ・アジ wesi-aji 〈鉄製の刀剣〉を高貴なるものとするジャワ社会で、「高貴なる鳥」とされてきたからに他ならない。
 王のペットであるプルクトゥット鳥は王が飼うだけでなく、政府を運営するブパティBupati 〈摂政〉、ウドノ Wedana 、といった国の高級貴族から下級職員にいたるまで、また役人でない者たち、資産家や商人、労働者たちも飼っていた。
 プルクトゥット鳥を飼うことには魔術的機能もあった。クバティナン kebatinan の信仰の影響から、様々な霊験が信じられていたのである。
 そういうわけで、ジャワ社会ではプルクトゥット鳥を高貴な鳥として飼うことを好むものが多いのである。また鳥たちのさえずりも、その魔術的機能と関連するものと考えられている。
 伝説・おとぎ話の類いではあるが、モジョパイト時代に「ジョコ・ススル Joko Susuruh 」という話がある。
 パジャジャラン Pajaajran 王国の時代、スリ・パムカス Sri Pamekas にはアリオ・バンガ Ario Bangah とジョコ・ススルという息子、そして側妾の子シウン・ワノロ Siung Wanara がいた。王の死はシウン・ワノロの親殺しにようものだろうという予言があった。
 スリ・バギンダ(主君)はシウン・ワノロを幽閉するための鉄の籠を作るよう命じ、息子をその中に閉じ込めた。しかし不運なことに、この反抗的な息子の裏切りにあい、王自身がこの鉄の籠に幽閉され、鍵はチタルム Citarum 川に流されてしまった。
 こうしてハリア・バンガ Haria Bangah に王国が建てられ、ほどなくして弟のジョコ・ススルに譲られた。
 シウン・ワノロの母と祖母の勧めで、シウン・ワノロはパジャジャラン王国の王位につき、王国は強力になった。ジョコ・ススルは東の方へ逃げた。
 シウン・ワノロ王は怒り、兄を追って東に向かった。ジョコ・ススルが生きているとパジャジャランの王権の障害となるだろうからである。
 兄を追って、彼は森に入った。兄にはまだ追いついていなかった。シウン・ワノロは瞑想したが、神に呪われ、白い毛色のプルクトゥット鳥となった。
 神に呪われて彼は泣いた。彼は神に「キ・ブロウォン Ki Blawing 」と名付けられ、東へ飛んでいき、その地の王に飼ってもらうようにと命じられた。
 いっぽう、ラデン・ススルはトロウラン Trowulan の森にいたり、モジョパイト王国を建てた。その時、国の安寧のためには、プルクトゥット鳥を飼うようにとの神からのお告げを授かった。それは高貴なる真っ白なプルクトゥット鳥であり、それこそ呪われたパジャジャランの王子である。
 お告げは真実となり、ある時、キ・ブロウォンが王宮の屋根に止まり、歌っていた。
 サン・プラブ・ススル王はそれを見て彼を捕まえ、そのまま飼うことにした。
 キ・ブロウォンは喋り出し、兄ジョコ・ススルに対する罪に許しを乞うた。
 プラブ・ススルは答えた。これは神の思し召しなのだ。だからすべてを受け入れ、自身の糧としよう。そうすれば永遠なる生のニルワナ〈涅槃〉でまた会えるだろう、と。
 というちょっとした伝説を筆者は昔の本で読んだことがある。ジャワ語のトゥムバン tembang で書かれたもので、題は『ババッド・スガル Babad Segaluh 』である。
 これはおとぎ話にすぎないが、王のペットとしてのプルクトゥット鳥の始まりとして官僚/役人の間で語り継がれてきたものである。

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 モジョパイト王国の成立と関わっているのであれば、ジャワの人たちとしては大切にするのも無理はなかろうと思う次第である。
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by gatotkaca | 2012-11-08 01:15 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ナシ・クチン(猫まんま)のこと

 少し前に紹介したジョクジャの女学生のブログ、「アンクリンガンとヘッ Hik 」のつづき。まぁ、同じような内容だが、こちらはナシ・クチン Nasi Kucing をメインで?書いている。最近私のごくごく身内で話題になったコピ・ジョスのこともちらっと書いてある。コピ・ジョス、やっぱり体に悪そうである。
 アンクリンガンの開祖はここにあるパ・マン Pak Man なのか、『Sejarah Warung Angkringan Atau HIK』にあったバ・パリオ Mbah Pario の方なのか、混乱があって現段階では分からないが、まあこの手の商売の開祖なぞ、特定するのは困難であろう。日本でも『元祖〜』がいっぱいあったりするし(正露丸もいくつもあったらしい)。どちらにしても後継者はリ・マンであるから、パ・マンとバ・パリオは夫妻ということもあり得る。
というわけで、元ネタはここ。
Sejarah Asal Mula Nasi Kucing
http://pristality.wordpress.com/2011/02/26/sejarah-asal-mula-nasi-kucing/


ナシ・クチンの歴史的起源

プリスタ・アユ Prista Ayu

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 食事とは方法の問題だ。私たちはみな、それをご飯 nasi と呼びます。それを竹に入れて焼けば、それはナシ・バカール nasi bakar 〈焼いた飯〉と呼ばれ、ジャティ jati 〈チーク〉の葉に包めば、チレボンの人ならナシ・ジャムブラン nasi jamblang と呼ぶでしょう。バナナの若葉で温かいうちに包めば、別名:ナシ・ティムブル nasi timbel 。小分けにして包んだものはバリではナシ・ジンゴ nasi jinggo と呼ばれます。テガルの人はナシ・ポンゴル nasi ponggol 、クドゥスの人はナシ・ガンドゥル nasi gandul 、プカロンガンの人はナシ・メゴノ nasi Megono と呼びます。またソロ人、ジョクジャ人、クラテン人に人気があるのは、ナシ・クチン Nasi Kucing です。
 ナシ・クチンはソロやジョクジャの通り沿いで売られています。路地の端々に人だかりが見えます。彼らはきっとお楽しみの最中。ナシ・クチンを補給しているのです。一部の人たちはナシ・クチンではなく、チウ・ベコナン Ciu Bekonang* を飲んでいるから注意してね。

*ベコナンは中部ジャワ、カブパテン・スコハルジョ Kabupaten Sukoharjo 、クチャマタン・モジョラバン Kecamatan Mojolaban にある村の名。チウはアルコール飲料(主にキャッサバの残りかすを発酵させて作る)。チウ・ベコナンは地酒として有名らしい。

 ソロではナシ・クチンは「へッ Hik 」で売られています。ジョクジャなら「アンクリンガン Angkringan 」のカートで売られています。物は同じです。一握りのご飯とサムバルをまぶしたおかず、テムペが混ぜてることもあります。それらがバナナの葉で包んであるのです。戦略的に配置されたカートで売られています。販売用カートの前には長椅子が一脚据えられています。スーパーマーケットswalayan でも食べられます。カートの右隅にあるコンロには、ティーポットが三つ置いてあります。ひとつには水、ひとつにはウェダン・ジャヘ〈生姜入り飲料〉、もうひとつにはテ・クンタル teh kental 〈濃いお茶〉が入っています。だから「カフェ・チュル・テル Cafe Ceret Telu 〈三つ(の味の)ちっちゃなカフェ〉」と呼ぶ人もいます。火のある側にはいろいろなおかずやスナックが並んでいます。テムペ、タフ・ゴレン、腸のサテ、ウズラの卵のサテ、カタツムリのサテ、皮のサテ、サテ・テムペ・グムブス sate (tempe) gembus〈ヤシ油かすとテムペを混ぜたもの〉、サテ・ガジ・サンドゥン・ラムル sate gajih sandung lamur 〈牛肩バラ肉の焼き肉〉などのいろんなサテもあります。
 売り物はまだあります。レント lentho 〈赤大豆の揚げ物〉、ティムス timus 〈ジョクジャの食べ物、ウビ芋をマッシュして砂糖と澱粉をまぶした揚げ物〉、オンチョム oncom 〈キャッサバから作る発酵食品〉の入っていないチョムブロ combro 〈キャッサバの粉を固めてた揚げ物〉、プニェック penyek 〈チップス〉などなど。それから一番左にナシ・クチンがきれいに積み上げられています。ゼリーが欲しければ、ヘッには凍らせた血を茹でたり揚げたりしたものもありますよ。心配はいりません。ソロではウンマ ummat 〈イスラム(共同体)〉の寛容度が高いし、ほとんどのものが沸騰されていますから。路上でリチャ・リチャ rica-rica 〈北スラウェシの料理〉やサテ・ジャム sate jamu 〈犬の肉のサテ〉、サテ・バビ〈豚肉のサテ〉が売られていても問題にはなっていません。あなたが食べられるものが何処にあるかを知っていれば十分です。店主たちは強引に売ったり、騙したりはしません。〈インドネシアでは各宗教の規範によって、食べることを禁じられた食材があるので、外食の際は気を使うことになる。〉
 椅子の心配もいりません。お客が困るようなことはありません。ナシ・クチン売りはカートの隣に大量の御座を敷いていますから。路地口に出店しているアンクリンガンの場合は、道端で食べることもできます。ほんとうに道端なので、あなたが開けているナシ・クチンの1〜2メートル横を歩行者が通っていきます。アンクリンガンで椅子に座るのを好まない客もけっこういます。彼らは御座の上に座るほうが好きです。友達とおしゃべりしながら夜を過ごすのです。食事は三人くらいでナシ・クチンを食べます、完璧は求めません。五人くらいがお薦めです。
 さて、なぜ「ナシ・クチン」、「ヘッ」、「アンクリンガン」というのでしょう?これにはお話があるのです。ナシ・クチンというのは私たちが自宅で猫に餌をやるのと同じようなサービス、ということから来ています。それから「ヘッ」。この発音は特殊で、ジャワ語の辞書にはありませんし、驚いたことに、確かな意味も分かりません。一部では「ヘッHik 」をヒダンガン・イスティメワ・カムポン Hidangan Istimewa Kampung 〈田舎の特別料理〉の意味に解釈しています。この説を信用しないように、と私は言いたい。「ヘッ」の意味について、私はこの料理の長い歴史に由来するものだと考えています。「ヘッ」の語は俗謡から派生したもので、それはスルタン・パク・ブウォノ十世の時代に、断食月の21日目、マルム・スリクラン malem selikuran 〈断食月21日目の記念日〉に歌われたものです。『ting-ting hik, jadah, jenang, wajik, ojo lali tinge kobong (ランプ、ランプ、ヘッのランプ、ジャダ〈もち米のケーキ〉、お粥、ワジッ (お菓子の名:筆者〈ココナッツミルクと砂糖を入れた米の菓子〉)、ランプは燃えるってことを忘れるな)』この歌は深い宗教的意味の象徴に満ちています。ティン〈ランプ〉とはライラトゥル・カダル Lailatur Qadar の夜にジャバル・ヌル Jabal Nur から降臨するカンジェン・ナビ・ムハムマド・SAWの物語の象徴です。ナビ〈預言者〉はあちこちから松明を持って集まる人々に歓迎されます*。おいしいジャダ、お粥、ワジッは豊穣を繁栄を象徴します。またオジョ・ラリ・ティンゲ・コボンとは火災の危険を想起させるものです。「ヘッ」の語自体には何ら宗教的意味はありません。始めは村の周りを荷車に樽を載せて引いて回り、行商をしていたのが、アンクリンガンの商人の象徴になったのです。(サント氏のコレクションに感謝:筆者)『ヘーッ、ヘーッ hiiiiiik......hiiiiiiik....』と呼び声を掛けながら。
 発展につれて「ヘッ」の商人たちは、今は行商ではなく、戦略的で繁華な場所に場を定めて商売しています。いくつかの文献でナシ・クチン売りのパイオニアとして挙げられているのは、パ・マン Pak Man というナシ・クチン売りです。パ・マンはジョクジャのトゥグ Tugu 駅の近くで〈商売を〉始めた mangkal といわれています。今でもパ・マンのアンクリンガン(息子のリ・マンLik Man に代替わりしている)はたいへん賑わっています。その特別メニューはコピ・ジョス kopi jos です。これは濃いめの甘いコーヒーにまだ燻っている炭を入れるというものです。ジュウ〜……Joss... 。
 「リ・マン」の常連であるUGM〈Universitas Gadjah Mada ガジャマダ大学〉の学生の研究によると、木炭はコーヒーのカフェインを吸収する作用があるとのことです。というわけでコピ・ジョスは健康にも良いのでお薦めです。とはいっても、私の知り合いにお医者さんがいて、その人に炭入りコーヒーのサンプルを渡したというわけではありませんが。木炭には発癌性があるとも言われます。すべては、あなたさまにお任せ致します。
 それから、ジョクジャでアンクリンガンと呼ばれる理由は、この大衆のお店では皆平等で、お客は足をアンクリン(椅子に座って足を投げ出すこと)している、ということから来ています。アンクリンガンのお店では、お客は皆、気さくで気楽に振る舞うことができるのです。アンクリンガンという言葉はジョクジャ地域で多く用いられています。ヘッの方はソロ地域で用いられますが、これらは全く同じものです。
 始めのうちは、ナシ・クチンはソロとジョクジャ地域だけで売られていました。学生の財布に優しいというわけで、ナシ・クチンはアンクリンガンの伝統の無いサラティガ Salatiga やスマラン Sumarang にまで広がりました。プルウォケルト Purwokerto でもナシ・クチンに出会うことがあります。ナシ・クチンは、たしかに安物 anak kos です。1998年改革の金融危機の時代、多くの学生たちがナシ・クチンの二束で生き延びました。ナシ・クチンは学生のシムボルなのです。
 今やナシ・クチンは中部ジャワ全域に広まっています。ソロから東のガウィ Ngawi 、マグタン Magetan まで。ジョクジャから西へプルウォレジョ Purworejo を通ってクブメン Kebumen 、プルバリンガ Purbalingga 、そしてテガル Tegal にまで。

*ライラトゥル・カダル Lailatur Qadar=ライラ・アルカドル Laylat al-Qadr 「力の夜」。ムハンマドがヒラーの岩窟で最初の啓示を受けた夜のこと。
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by gatotkaca | 2012-11-07 00:28 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

日暮里サニーホール『日本ワヤン協会』公演のお知らせ

日本ワヤン協会の公演のお知らせです。
お時間のある方は、いらして下さるとうれしゅうございます。

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十一月十七日(土)
日暮里サニーホール

午後三時〜六時
演目=第一部「ボコ王への捧げ物」マハーバーラタから ダラン=キ・ナルトサブド
         (出演=松本和枝)
   第二部 影絵詩劇「まぼろしの城をめざす」作=松本亮
         (出演=大和田尚)
入場料2500円(当日3000円)全席自由
開演午後3時〜終演午後6時(休憩有り・一回公演)
チケット予約・お問い合わせ=日本ワヤン協会
               tel 090-6143-9532 /
               http://wayangjepang.com/
               E-mail=banuwati@kt.rim.or.jp/
               jasmin@icnet.ne.jp(中辻)

ACC 公益財団法人 荒川区芸術文化振興財団 tel 03-3802-7111
主催=日本ワヤン協会/ACC 公益財団法人 荒川区芸術文化振興財団
共催=荒川区

今年度最後の公演となります。よろしくお願いいたします。
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by gatotkaca | 2012-11-03 00:35 | 影絵・ワヤン | Comments(0)