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木から落ちた猿

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「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その29〈最終回〉

22.サストロ・ジェンドロはマーリファの本質、すべてのイルムの終着点である(下)


シャリアト
 シャリアトは、ウェドトモにおいては形式的礼拝 sembah raga と定義される。これは真摯かつ勤勉に行われなければならない、ドグマ〈教条〉的性質を持つ生の具体的闘争〈生活〉において、全てがハラル halal またハラム haram 〈宗教的規律〉の定めと罪状に合致する指針、条項に沿うことである。

タレカット
 タレカットとは外面的方法のみを取らず、内面を重視する生の道である。この生き方での試みは『スロ suluk 』と呼ばれる。であるから、タレカットとは外面・形式よりも内面・精神面を重視する生の道である。それゆえ、ウェドトモにおいては『スムバ・カルブ sembah kalbu 〈心の礼拝〉』と呼ばれる。すなわちグスティによって所有される偉大なる道と、十全に統括されたイルムであり、神秘の知を知り得る権利である(ガムブ 11)。
 『このラク laku 〈道〉またイルムは聖水で浄められるようなものではなく、心の内の強欲を減少させることで浄められるのである。当初においては注意深く細心に整理されなければならない。真摯に、勤勉に誘惑に惑わされることなく。それこそ最上の賢者、アリフ・ビジャクサナを目指す指針である。(ガムブ 12)。』
 『(これこそ英知なり)それは真実を見ることに誘う。目的(ドン don =アッラーの定めしもの)に到達するために努力(パンドゥク panduk =イラダト iradat (アッラーの求めに応じる行為))し続けることが、堅固たる道を形成する英知である。善行によって知らされるさまざまな定めを熱意を持って行い、乱れること無く合致させれば、麗しき特別の世界に達し、その明確なる啓示を得るであろう(ガムブ 13)』。
 『上記のような世界に到達し得たなら、〈神の課す〉条件を満たさなければならない。あらゆる行動に意識をめぐらせ、平静を保つのである。行為の方法は、
a. ヘヌン Heneng 、すなわち身体の平静を保つこと(身体的性質を滅殺すること)。
b. ヘニン hening 、すなわち精神を平静に保つこと(精神の活動を止めること)。
c. エリン Eling 、すなわち意識化すること(つねにトゥハン・ヤン・マハ・エサを想起すること)。
 同時にすべての感覚・感性を滅殺する。そこではトゥハンの正しき精霊がはっきりと感じられるであろう(ガムブ 14)。
 『失敗とは、人間がいつも自意識に従い、自身の目的を成就させることに目を奪われることである。そのような欲望(思い・思考)を続ければ失敗が待っているだろう。それゆえ、(イルムへ続く)道を見失い、失敗せぬよう、気を配り、意識しなければならない(ガムブ 15)。
 この道程において取られるべき諸段階をスーフィズムでは、マカーマト maqamat 、また『ハル Hal 』と呼ぶ。これは喜び、悲しみ、恐れその他といった感情の態様を言い、英語の用語では『ステージ』あるいは『ステーション』と言う。『ハル』、つまり精神の様態は一時的なものである。トゥハンへ近づく道のりには、あるマカーム maqam 、段階にいたるには、長い時間がかかることは分かっているとはいえ、容易く、抵抗無く通っていくことは出来ず、その道は滑り易く、険しく、困難であり、熱意と、堅い意志と、厳しさ、長い時をかけた本当の努力を必要とするのである。場合によっては、スーフィーが長い年月をかけても、マカーム、段階、レベルを一つ上げるだけということもある。

七つの段階

 アル・ガザリや神秘主義の専家たちによれば、段階は七つあると言う。
a. サヒド Sahid またはアセティク asetik 、プルタパ pertapa 。すなわち世俗、地位、身分を捨て、魂の平穏と清澄をもとめて隠遁することである。ある隠者 sahid/pertapa は言う。『それは手触りはすべすべしている蛇だが、その毒は人を殺すものである。それゆえ、世俗から離れるのだ。』また、別のサヒドは言う。『世俗を捨てるのだ。俗世を愛することは、人を聾にし、奴隷にする。』
 この種のありようは、ワヤンにおいてはアビヨソが苦行所に去ること、ビモがデウォ・ルチに出会う前に、蛇を殺すことで描かれている。
b. トバット Tobat はスーフィーの目的とされるものである。すなわち、真のトバットはもはや罪を生じさせない。ひとたびトバットに至っても、それはトバットへの到達とは言えない。あるスーフィーは70回トバットを為して、やっとトバットの段階に到達し得たと言われる。スーフィズムの理解における真のトバットとは、トゥハン以外のすべてを忘れ去ることである。アル・フジウィリ Al Hujwiri によれば、トバットたる人とは、トゥハンに愛を捧げる人々である。アッラーに愛を捧げる人、一般にはつねにアッラーの意思を認識する者である。
c. ワラー wara' (スントサ Sentosa 平穏)とは、ある事柄に対する躊躇/迷いを深めることである。たとえば、あるスーフィーが食べることを拒否したとして、食べることがハラル〈神の定め〉に服することか否かを迷うことである。
d. ファカル Faqar (卑しくないこと)。すなわち既に存在するものをそれ以上欲しないことである。与えられた義務を果たすこと以上の糧を求めないことである。真実自身のためにあるもの以外は欲せず、与えられれば受け取る。手短に言えば、求めずされど拒まぬことである。
e. サバール sabar 、とはアッラーの命に服し、その禁忌すべてから遠ざかり、自身に課せられた試練のすべてを受け入れることである。そしてトゥハンからの手助けを待ち、苦しみに耐えるのだ。
f. タワカル Tawakal (服従)とは、アッラーの定めしカダー qada' 〈神の意志〉に服することである。その間、心は平静な状態にある。感謝を受けた場合、また忍耐すべきものがあった場合、トゥハンとその意思(kadar)に服するのだ。明日を考えず、今日あるものに満足する。食欲にとらわれない。他にもっと飢えている人がいるかもしれないから。アッラーへの約定を信仰し、アッラーに服し、アッラーをもって、アッラーによる。そして死を迎えるである。
g. リドー Ridoh (誠実)とは、トゥハンの意思、定めを疑わず、抗しないことである。喜びをもって神の意志と定めを受け入れる。憎しみ・嫌悪を心から排斥し、喜びと満足のみで満たす。滋味を喜びで受け入れるように災厄を喜びで受け入れる。地獄を避けるが如く、アッラーの天界を求めもしない。神の意志と定めの降臨するを待って行動し、神の意志と定めの降りし後は、苦しみも痛みも感じない。試練が課せられれば愛をもって奮い立つのである。

ハケカット Hakekat

 ハケカットはウェドトモの中ではスムバ・ジウォ〈霊的礼拝〉と並列されている。詩編ガムブ16歌から22歌までのように。ハケカットとは真正の真実、そして絶対的存在なのである。すべての道の終着点であり、すべての段階、道、目的の最終点である。(pepuntoning laku, kalkuan kang bangsaning batin. 〈最後の道、内面の活動の統制〉ガムブ 17)。
 ハケカットへの道においては、内面を深めることから始まる。この道は霊的・精神的側面を堅固にすることにかかっている。ハムコ Hamka 博士によれば、ここでは自身の存在が無くなり、絶対的存在のみがあるだけになる。それはかつて存在したことのないものである。それは最初から存在し、始まりも無く終わりも無く過去も無い。アダム Adam (空〈くう〉)に始まりファナ fana (消失)に終わる故である。
 すべての真実の道とされる(lakune lawan kas, teges kas nyantosani )タレカットの時、根幹的条件に忠実であれば、最後にきっとハケカットに至る。カシャプ kasyap にいたると、我々と『彼』の間を覆う秘密が開かれる。かくて『彼』と我々を隔てる壁、ヒジャブ hijab が消え失せる。その壁は人間自身の欲望に他ならない。それゆえ、ウェドトモにおいて、欲望は滅殺されなければならない、と語られるのである( pangekese dur angkara )。
 霊が完全性に到達した時、肉体は霊の望みに従う。その時、病は無くなり、貧困も無くなり、死もなくなる。死とは霊が小さな籠を移動することにすぎず、〈神の〉愛を求めれば広大な自由を得るのである。であるからスーフィーたちはこう言うのである。『死とは真実の愛の住所である』と。またウェドトモのガムブ詩編16歌から22歌では次のように説明される。
 『この今、第三の礼拝たるスムバ・ジウォについて語ろう。これはトゥハン・ヤン・マハ・スチ Tuhan Yang Maha Suci の御前に真実なる礼拝を捧げるものだる。日毎に魂に浸透させ真実なる魂の礼拝に到達せよ(ガムブ 16)』。
 『スムバ・ジウォは真実重要なるものである。最後の道と言えるものである。これこそ霊的なる側面に十全に係る道である。〈神よりの〉諌めによって聖性を得て、つねに永遠世界の存在を想起するのだ(ガムブ 17)』。
 『その道へいたる心得と行いは、第一は「ガンカ ngangkah 」、すなわち意図を明らかにすること。第二は「グクット ngukut 」、すなわち魂と肉体の欲望 makartinya をまとめあげ、手なずけること。第三は「ギクット ngiket 」、すなわち到達すべき目的を魂に織り込み、結びつけること。第四は「グルクット ngurkut 」、すなわち三界(全世界)を内面の活動の内にとらえ、しっかりと把握すること。続いて「大いなる世界」(大宇宙)を「小さき世界」(人間の〈内なる〉世界=ミクロコスモス)で巻き上げること。一般的な言葉で言えば、マクロコスモスをミクロコスモスで統合、支配することである。さあ、そなたがそこで光り輝く世界(大気)を確信し信仰することが望まれるのだ(ガムブ 18)』。
 『(光り輝く大気に)身を浸され、感覚は忘れ去られる。漂う大気の中で秘密へと導かれる。これこそ真実であり現実なのだ、我が子よ!真実憶えていることなできず、〈他の者と〉共有することもできない(ガムブ 19)』。
 『(機会を)捉えた(まさにその時)、意識と無意識の境はなくなる。続いて、すべてははっきりとしていながらも、漂うような状態となる。どこからく来るのかはっきりわかる神からのメッセージを感じる。そのメッセージは自分自身だけに送られていると思われ、その時、自身の姿を見る(ガムブ 20)』。
 『されど見誤ってはならない。そこにあるのは真実の光である。すなわち徳の心に生きることで導かれる第一の光である。あたりは輝く光に満たされ、それは星のように見えるのである(ガムブ 21)』。
 『こうして心臓〈心〉が開かれる。開かれるとは支配し、支配されることと同義である。あなたは世にあまねく(全世界を)覆い尽くす。あなたも支配され、輝ける星となる(ガムブ 22)』。

マハーバ Mahabbah

 すべての段階を経た時、人間は真の愛の光に満たされる。それはトゥハンへの/対する愛であり、この愛(マハーバ)はトゥハンを真に知る人の愛である。これはウェドトモのプチュン Pucung 詩編で語られている。
 『心に過ちをおこさせる障害の妨げが失せれば、高貴なる精神の中に埋没し、トゥハンの愛の恩寵( karoban sih )を獲得する。トゥハンの愛の恩寵( karoban sih )は大いなるメッセージの山々である(プチュン 4)』。
 そのような人間はその意志・目的のすべてを模倣され心に留められるに相応しい。その人はアリフ・ビジャクサナの段階に到達しているからである。この〈神の〉愛の英知 cinta arif に到達した人は、もはや愛を感じることは無いが、愛される人である。愛する心の中に入り込んで愛される段階にいたっているのである。
 愛、またマハーバを理解するには、聖典に語られている言葉を堅固に捉え切らなければならない。
 『我がしもべよ、つねに行為することで我に近づくことに努めよ。されば我はそなたを愛する。我の愛する者は我の耳、目、また手となるであろう。』

マーリファトとサストロ・ジェンドロ

 マハーバ、聖なる愛、またアスマラ・ヤン・サンタ asmara yang santa 〈聖なる愛〉はこのように描かれる。そしてこれこそが人間に獲得しうる最後の道であり、人間の学び得る最上の(高貴な)イルムの laku /道なのである。到達し得るイルムはもう無い。彼はトゥハンのマーリファトを受け、その高みの中にあるのだ。
 既に何度も述べたように、マーリファトのイルムの段階と基準はサストロ・ジェンドロの基準でもあり、それは内面 batin と精霊 rohani のイルムのすべての終着点でもある。それはウェドトモで語られる『四つの礼拝 sembah ke empat 』の最後の礼拝、スムバ・ラサでもある。このスムバ・ラサでは生の真実・本質たるハケカットを感得する。スムバ・ラサの顕現においては、もはや目的〈意識〉を必要としない( dadine wus tanpa tubuh )。その達成には専ら内面 batin の力を使うだけだからである。そのような到達が実現すれば、内面の疑いも、迷いも消え失せ、〈神の〉定めに対する確信と信仰のみを感ずるようになるのである。それゆえ、そこに入り、それが受け取られる時、人間は真に〈神の〉メッセージ、定め、注意、規律を求めることのみを想うのである。
 そこでは人間は,
利を求めず、誠実に、受けとり、喜びをもって、愛に満ちた,平穏で神に身を委ねる意識をその内面に満たし、すべての被造物の終焉を想起する。その実行は落ち着いた態度で為されねばならず、慌てること無く、思慮深く、自然体でなければならない(tumindake mung sakadripun ガムブ 27)。トゥハンの降臨の際には神秘の扉が開かれるであろう(ガムブ 28)。そしてトゥハン・ヤン・マハ・エサの来迎は、ある「形 Wujud 」を感じさせる(momor pamoring wawujud ガムブ 76)。これはスフィーにおいてイティハト Ittihat (神秘的会合あるいは神秘的結合)と呼ばれる。

 『Rasaning urip iku, Krana momor pamoning sawujud, Wujudullah Sumrambah ngalam sakalir, Lir manis kalawan madu, Endi arane ing kono. 』
 『その生の感覚は、ある形をとるがゆえ、創造者たるトゥハンの存在が全世界に広がり、甘く酔ったような心地となり、その名はなんであるかは分からない。』
 スーフィー派の説明によれば、この感覚が起こる前に、人間は自身を滅殺しなければならない。これは、スフィーの用語で『ファナ fana 』、パグロンpaguron〈クバティナンのイルム〉の用語で『マティ・ジロニン・ウリップ mati jiroing urip 』と呼ばれる状態、つまり、もはや肉体の無い状態(失神、エクスタシー)にあり、霊となって飛び去っている状態のことである。この時こそ真に一体化、融合が果たされる。一体化したとはいえ、人間はトゥハンのザット zat 〈本質〉と一つになれるわけではない『彼の意志』、『彼の目的』と一つになるだけである。
 ワヤンにおいて『カウロとグスティ』の合一のシムボルとして描かれるのが、スマントリ(ルシ・スウォンドグニの代理人)とハスジュノ・ソスロの一体化、ウィビソノ(ルシ・ウィスロウォの代理人)とスリ・ロモウィジョヨ、そしてアルジュノ(ブガワン・アビヨソの代理人)とスリ・クレスノ/ウィスヌ/現実との一体化である。この時も『カウロとグスティ』との対話が起こる。神の歌(バガヴァット・ギーター)に述べられているのは、大いなる秘密の核心である。ここで言う『秘密』とは雲の人(普通の人)に対しての秘密を意味する。というのも、繰り延べられる対話の核心が開示されれば、普通は誤って理解され、見当違いの教えは、(雲の人にとって)非難・糾弾しようもないものだからである。これは個人的経験の問題であって、それがどのように経験されるのかは、我々各々に委ねられているのである。


三種の知識

 留意すべき事柄を以下に記す。
a. サストロ・ジェンドロはイルム・スジャティであり、イルム・ハケカット(タットワ・ジナナ)、イルム・ルフン(アッストラディ)、イルム・ムクスウォ、イルム・バンキット Bangkit 、またイルム・マヌンガルである。手短かに言えば、あらゆる最終的英知の最後の英知である。
b. サストロ・ジェンドロは雲の人orang awam 〈通常人〉にとっては秘密(エソテリス)のイルムである。
c. 『サストロ・ジェンドロ』という語句は19世紀になって初めて現れるとはいえ、それはサストロ・ジェンドロが19世紀になってからヌサンタラで知られるようになったことを意味しない。サストロ・ジェンドロは1465年の『ナワルチ』で「タットワ・ジナナ」の名で既に記されているのである。さらに、ビモに関する神秘主義的ラコンの存在が、907年のプラサスティ・バリトゥン prasasti Balitung 〈バリトゥン碑文〉に詠われている。『Si Galigi mawayang buat Hyang, macarita Bimma ya kumara,〈シ・ガリギが神の創りしワヤン、ビマ・クラマを演じた〉』。

 トゥハンを目指す信仰の概念は、サマル、ナワルチ、アチンティヤ、ガイブ、ミセリウス Miserius またグスティであり、チャハヤ・ブアナ Cahaya Buana〈世界の光〉である。そしてグスティとは、男でなく女でもなく、中性でもなく、いかなる形も無いものであり、何かに仮定し得るものでもない(tan kena kinaya ngapa )。それはヒンドゥー到来以前の遠い昔から存在した。サストロ・ジェンドロのエッセンスもまたヒンドゥー到来のはるか以前からあったのである。

結び

 サストロ・ジェンドロ、またマーリファトの本質、現実の一般的・初歩的分析はここまでとする。
 興味を持って頂けた方は、自身でさらに広く深く探求していただきたい。より深く探ればさらに深まる世界に入られんことを。
 有用でありますように。

(「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」おわり)
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by gatotkaca | 2012-10-31 23:38 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その28

22.サストロ・ジェンドロはマーリファの本質、すべてのイルムの終着点である(上)

 さて!サストロ・ジェンドロをより深く探っていく前に、サストロ・ジェンドロの基本を理解するために、ウェドトモ Wedhatama を読んでみることにしよう。
 〈これは〉別の機会に、他のプスタカ・ワヤン・シリーズで神の思し召し〈insya allah〉で特に説明して来たものである。
 ウェドトモに語られるヌサンタラ(ジャワ)の哲学によれば、ヒワン Hyang 〈神〉への礼拝(スムバ・ヒワン sembah hiyang)には四つの方法がある。第一はシャリアット syari'at と呼ばれる形式的礼拝〈Sembah Raga 〉、第二はタリカット Tarikat 〈Tarekat〉と呼ばれる精神的礼拝〈Sembah Cipta 〉、第三はハケカット Hakekat と呼ばれる霊的礼拝〈Sembah Jiwa 〉、そして第四がマーリファト Ma'rifat と呼ばれる聖的礼拝〈Sembah Rasa 〉である。
 サストロ・ジェンドロの初歩的理解のために、ウェドトモに遡り、スムバ・ジウォ Sembah Jiwa 〈霊的礼拝〉(ガムブ16詩節)で語られる、トゥハン・ヤン・マハ・スチへの真実なる礼拝を見直してみよう。スムバ・ジウォ、またハケカットはひじょうに重要で、クジワアン kejiwaan〈精神修養〉 、クバティナン kebatinan〈神への献身〉、クロハニアン kerohanian 〈霊的現象〉の求道において、最後の道ともいわれ( ing aran pepuntoning laku, kalakuan kang tumrap bangsaning batin 〈ウェドトモ:第四詩節・ガムブ:17歌〉)、ロコポロの書Kitab Lokapala においてはサストロ・ジェンドロは『プンカサニン・カウル Pungkasaning kawruh 』とも呼ばれる。
 このスムバ・ジウォは警告の聖性を受け止め、つねに永遠なる世界 alam baqa を想起することである( sucine lan awas emut, mring alaming lama amot )。
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Serat Wedhatama
pupuh IV
gambuh 17

Sayekti luwih prelu,
ingaranan pepuntoning laku,
kalakuan kang tumrap bangsaningbatin,
sucine lan Awas Emut,
mring alame alam amot.

真実重要なるものは
精神の最後の道とも呼ばれるもの
内面の活動を統制すること
すなわち聖なるものからの警告を心にとめ
つねに来世の永遠なる世界を想起することである
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ハケカットの状態にいたる最初の状態は、朦朧とした意識の中で輝く光に包まれたようになり、意識と無意識の中間の状態となる。これがハケカットまたカスニャタン kasunyatan 〈中空状態〉と呼ばれるものである。それを記憶しておこうとしても、自分自身以外のものは何一つ見えない(tarlen mung prbadinipun kang katon tinonton kono 〈ガムブ-20〉)。そこには真実の炎がある(Nur Illahi )。光り輝く星のような。されど捉えることを誤り、見ることを誤るなかれ/注意せよ。制御していることは制御されていることであり、意のままにしていると思うことは意のままにされていることでもあるから。命ぜられることは命じていることであり、支配しているということは支配されているということなのだ。全ては開かれてあり、カウロ〈しもべ〉とグスティ〈主〉の間を遮るベール(warana gaib 〈神秘のカーテン〉)はもはや無い。
 実際にはそんなものはないし、本当に見えているわけでもない。であるから、人間はそれが本当なのかそうではないのかを知る必要がある。知っておくべきことは、その光が頭についている目ではなく、心の目に見えているということだ。
 それこそ唯一なるものへのイルムと呼ばれるものである。そのイルムだけが神秘のベールを開く力を持つのである。そのことを知ることのできない人は、ウェドトモで『卑しい人 orang hina 』と呼ばれる者になっている。訪れたもの tamu を自分勝手に判断しているからである。
 そう、ここにこそウィスロウォの見間違い(salah surup 〈思い違い〉)がある。スケシの炎を、真実の炎と思い込み、ウィスロウォとスケシの合一はカウロとグスティの融合(ハケカット)と思われたのだ。むろん実際ここで起こった合一は、スケシの欲望と、ウィスロウォの欲望の合一、融合にすぎない。二人の欲望が合わさり、10となった。それゆえ、ウィスロウォとスケシの合一はドソムコ〈dasamuka:十の顔の意、ラウォノの別名〉を生んだのである。そしてドソムコは不死である。というのも、ドソムコは男の欲望と女の欲望の融合のシムボルであり、それらの欲望は消えも死にもしないのである。
 卑しき谷間、性の欲望に堕ちたウィスロウォが、サストロ・ジェンドロに達していないことは明らかである。ここでのウィスロウォはウェドトモのガムブの24節を想い起こさせる。『Kalamun durung lagu, aja pisan wani ngaku-aku, antuk siku kang mangkono iku kaki 』。意味は、本当の経験、見識を得る前に、己を驕れるなかれ(『師の教え paguron 』を実践する)、さすれば幸福を得ること間違いない。されど逆であれば。間違いなく呪いと災厄に打ちのめされるであろう。
 では、ウィスロウォがサストロ・ジェンドロに到達し、完全なる解放を獲得するのはいつか?それは後の日に、ウィスロウォが自身白き欲望の顕現(ウィビソノ)によって悪しき欲望(ラウォノ、クムボカルノ、サルポクノコ)を滅殺し得た時である。ウィスロウォの解脱は、ラコン『マクト・ロモ Makuta Rama 』でグナワン〈ウィビソノ〉によって代理される。このラコンにおいて、グナワンは生の完全性を得て天界へ登るのである。

サストロ・ジェンドロ

 以前に分析したように、サストロ・ジェンドロと呼ばれるものは、
a. 『Ngelmu wadining bumi kang singker Hyang Jagad Pratingkah 』この世、全世界の秘密の英知であり、トゥハン・ヤン・マハ・エサに由来し、彼によって隠され/所有されている。
b. 『 Panguruwating barang sakalir 』すべてのものを解放し、すべてのものに安寧をもたらす。
c. 『 Kawruh tan wonten malih 』人間によって到達し得るものはこのイルムの他にはもはや存在しない。
d. 『 Pungkas-pungkasaning kawruh 』すべての英知の終着点であり、人間、またスーフィー sufi 〈イスラム神秘主義〉の最高の到達点である。ゆえにマーリファトによって獲得される知識であり、理性によって獲得されるどんな知識よりも質の高いものである。それゆえ、次のように呼ばれる。
e. 『サストラディ Sastradi 』(サストロ・アディルフン Sastra Adiluhung 、グルム・ルフン Ngelmu luhung 〈いずれも、特別に高貴・高質・高徳の言葉・英知を意味する〉)
 上記の説明に基づけば、サストロ・ジェンドロとは秘密のイルムであり(有象無象の人にとっては)、トゥハン由来のイルムである。そして人間の到達し得る最高の段階のイルムであり、あらゆる英知の到達点でもある。それゆえ、サストロ・ジェンドロは『イルム・カサムプラン Kasamupuran (完全性)、イルム・ムクスウォ Mukswa (天界)、イルム・カスニャタン kasunyatan (空:くう)、またイルム・スジャティ Sejati (真実)、あるいはまたタットワ・ジナナ Tattwa Jnana 、すなわち神学の精髄たる英知( Tattwa=「スジャティSejati(真実)」、また「ハケカット Hakekat (本質)」あるいは「現実の」)とも呼ばれるのである。
 その種の基準を持つイルムは『内面を知るためのイルム』の到達点(pepuntonig laku、pepuntonig urip、また生の道程の最終点)のすべての到達点であり、スムバ・ジウォ〈霊的礼拝〉とスムバ・ラサ〈聖的礼拝〉また『マーリファトを目指す真実なるイルム』である。いっぽう、トゥハンに近づくための方法の研究と道標の解明、つまり『学究的知識』は神秘主義、スーフィズム、またスロ Suluk と呼ばれる。
 つまり、サストロ・ジェンドロとタサウフ Tsawuf /神秘主義の目的は同じものであるよいうことだ。それはトゥハンとの直接的関係を獲得すること、真実、トゥハンの降臨を受けることである。これはワヤンにおいては、ハルジュノ・ソスロバウ/ウィスヌとの直接的関係を結ぶスマントリの人物像、グナワンとスリ・ロモ/ウィスヌ、アルジュノとスリ・クレスノ/ウィスヌ、といった関係性で描かれる。そこで築かれる直接的関係性が、サストロ・ジェンドロと呼ばれるのである。いっぽう、学究的知識においては、サストロ・ジェンドロはマーリファトと呼ばれる。そうであるなら、ある疑問がわいて来るだろう。マーリファトとは何か?と。マーリファトの意味は英知の到達点であり、ハムカ Dr.Hamka 博士によれば、イマン・アル・ガザリ Iman Al Gazali が『イルム・スジャティ Ilmu Sejati 』と呼んだものである。マーリファトはまた、近くからトゥハンを知り、知覚することをも意味する。
 マーリファトはスーフィー派の見解では、心臓〈心〉でトゥハンを見るということである。これと同様の、人間のもとにトゥハンが降臨するという教えは、スーフィーではリドー Ridoh と呼ばれ、強固な降臨を指す。マーリファトでトゥハンがスーフィーの心に入り込むと、その心は光に満ちる。ハルン・ナスティオン Harun Nasution 博士によれば、スーフィズムにおけるマーリファトの相同的側面〈Aspek Kembar 〉はマハーバ mahabbah (愛)と呼ばれる。マハーバとはトゥハンとの愛を形成する会合の関係とされる。対してマーリファトはグノーシス(心臓で直接的に獲得される英知)を形成する会合の関係なのである。
 トゥハンとのマーリファトを得た者は『アリフ・ビジャクサナ arif bijaksana〈英知の賢者〉』と呼ばれる。だが、マーリファトはそのような者だけに得られるものではなく、精神の修業と内面の道の研鑽に絶え間なく励み、トゥハンからお許しを得た賜り物、恩寵、希望に沿って生きることでも得られるのである。マーリファトは人智の及ぶものではなく、トゥハンのお望みに基づいた恩恵なのだ。さらにマーリファトとは、ウエドトモに語られるように、トゥハンの恩寵、また天啓 wahyu として人間に受け取られる賜り物なのである。ウェドトモによれば、
ーー天界 mukswa のイルムの探求において輝かしい能力を得たものは、誰あろうとアッラーの天啓を得ることが出来る。その者は礼拝の規律を知り尽くしている者である。(礼拝とは)魂と肉体の欲望 makartinya をしりぞけ、滅することである。そのような状態になって初めて親〈人間は成長した人〉 orang tua として語られる者となる。というのも、トゥア tua とは(以下の意味を含んでいなければならない)、欲望から解放され、「二つにして一つ dwitunggal 」である二つの要素の存在を認識する者だからである(パンクル Pangkur 12)
ーーアリフ・ビジャクサナたる人は、世界にあまねくトゥハンの大いなる徴を抱き、統合する方法において卓越する者である。もはや幕は無く、その最後に、魂の核心(霊 roh )がひじょうにはっきりと見える。すべてを遮っていた幕がはっきりと見える。感覚が明瞭に開かれ、すべての時代の循環が見える。あたかも境が無くなったかのように。苦行、また礼拝と呼ばれるものは、かようなるものであり、全世界とトゥハン(
の徴)の力の絶対性に自身を委ねることである。(シノム Sinom 16)
ーーこうして人間は最上の段階(「アリフ」)に到達する。かくて静謐なる場への隠遁を切望し、ことあるごとにつねに内面を研鑽し、繰り返し浄めるのである。外面的態度においては、クシャトリアの指針を保持し、徳と謙虚さを維持する。彼は共にある人の心にどのように対するかを熟知する。かようにして、完全なる善と宗教への渇望/愛をもつ人として語られることとなる。(シノム17)
 マーリファト獲得のための装置、道具立てとして、スーフィー派は『カルブ Qalb 、ロ Roh 、そしてシル Sir 』を挙げている。
a. カルブとは、トゥハンの性質と本質を知るためのもの。
b. ロとは、トゥハンを求めるもの
c. シルとは、トゥハンを見るためのもの
 シルはロよりもスムーズ・滑らかなものであり、ロはカルブよりもスムーズである。マーリファを獲得したいスーフィーが多くなれば、トゥハンの秘密に対する知識も増えることになり、トゥハンに近接する者も増えることになる。しかし、知ったからといっても、その知識はまだ真正のものとは言えない。トゥハンとは絶対者にして、無限のものであり、対して人間とは相対的で、有限の存在であるからだ。喩えて言うなら、茶碗に大海の水が入り切らないようなものなのだ。

三種の知

 上記の分析から人間の知には三種類あることが分かる。
a. 雲〈awam=有象無象・無益な〉の知。これは雲の人間(普通の人)の到達し得る知である。これは、聞くこと(話すこと)そして書かれたものによって得られるものである。たとえば、仲介者の告白によって、トゥハンが唯一の存在であることを知ることである。それゆえ、イマム・アル・ガザリは忠告する。雲なる人々は知的・正規・広範な思考をなし得ないので、深遠なるイルムを求める必要を感じない、と。ゆえに、彼は多くの困難な経験することになるだろう。自身の心に過ちを受け、逡巡をあらわにすることになる。このようなる者は、不正確なイルムを持っているため、修正が困難で結果的にすべてが台無しになるであろう。雲なる人がいたずらに深遠なる知をもとめれば、たとえるなら、泳ぐのが下手な人が大海に泳ぎ出すようなものである。
b. 神学の知、あるいは哲学である。これは知的で思索的、システマティックで理論的思考のできる人の知である。たとえば、暗喩〈原文:apa yang tersirat〉や理論に従って、トゥハンは唯一の存在であると知ることである。彼は知力と理論による、比較・調査・探索を信奉する。
c. スーフィーの知、また神秘主義の知。これはアリフ・ビジャクサナたる人によって到達される知である。たとえば、トゥハンが唯一の存在であることを、心臓〈精神〉で知ることである。彼はその信仰において、もはや障害となる壁が存在しないことを自身で認め、確信している人である。この知は、厳しく困難な道、ラク laku を経て獲得されるものである。それゆえ、マーリファトに到達するための神秘主義の知は、忠節の表明たる『シャリアト syarl'at 』、道を満たす『タレカット tarekat 』、そして到達点たる『ハケカット hakekat 』のすべてを参集して形成され、マハーバ、すなわちトゥハンからの恩寵、愛へと到達する。
 では、シャリアト、ハケカット、そしてマハーバとは何か?

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-10-30 20:40 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その27

21.ウスロウォはセックスの欲望に堕ちてサストロ・ジェンドロへの到達に失敗した

 多くの人は、ウィスロウォがサストロ・ジェンドロを獲得していたと考えている。しかし実際は、彼はサストロ・ジェンドロの解明の途中にあったのである。そして彼はサストロ・ジェンドロ・アユニングラト・パングルワティン・ディユの解明に到達する前に、デウィ・スケシという人物に象徴される性の欲望に堕ちてしまうのである。
 このイルムに到達しようとする者にとっての第一条件は、自身を堅固に保つことであり、食欲、性欲(cegah dahar lawan guling 〈少し食べて少し寝る:スラット・ウラン・レー Serat Wulangreh の一節〉)といった欲望を制御し、排除することができなければならないのだ。これこそ断食の目的のひとつである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Serat Wulangreh / Kinanti

Padha gulangening kalbu,
ing sasmita amrih lantip
aja pijer mangan nendra,
kaprawiran den kaesti
pesunen sarira nira,
cegah dahar lawan guling

心臓を鍛えよ
意識を鋭くさせるために
食べて眠るだけではいけない
意識を鍛錬するのだ
少し食べ、少し眠る
それが顔を飾ることになる

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 強欲はワヤンの世界ではラクササとして表され、性欲は女として描かれる。この時ウィスロウォは食欲(aluamah )と怒りの欲望をしりぞけたばかりであり、これはウィスロウォがラクササ、ジャムブマンリ Jambumangli をサディステックに、バラバラにして殺したことで表され/描かれている。この罪の報いはウィスロウォの息子、クムボカルノにふりかかることになる。ジャムブマンリはデウィ・スケシの従兄弟で、デウィ・スケシに恋し、またアルンコの王権を欲していた人物である。
 ご存知のように、クムボカルノは一撃で斃れるのではなく、意識を保ったままゆっくりと死んでいく。彼はまず耳を落とされ、鼻をそぎ落とされ、腕を切られ、それから足を一本づつ切られ、最後に首を切られ、五体をバラバラにされて死ぬ。これはカルマ(業)の報いとされるが、〈父〉ブガワン・ウィスロウォが強欲を鎮め、滅殺することを果たしたことの象徴でもある。とはいえ、彼は性の欲望(syawat=オーガズム)に直面して、卑しき谷に滑り落ちるのである。それゆえ、彼は五つの欲望の象徴たるラウォノを生む。ウスロウォとデウィ・スケシの五つの欲望(アマラ amarah 〈怒り〉、ムトマイナ mut ma'ina 〈良き行為への欲求〉、ムルヒマ mulhimah 〈神そのものよりも、信心を優先する欲望〉、スピア supiah 〈性欲〉、そしてアルアマ aluamah 〈食欲〉)が足されて一つとなり、人間の十の欲望となる。
 であるから、ラウォノは二十の顔でも、三十の顔でも千の顔でもなく、十の顔を意味するドソムコ Dasamuka と名付けられるのである。
 サストロ・ジェンドロ・アユニングラト・パングルワティン・ディユとは本当は何なのか?そして『サストロ・ジェンドロ』の語句はいつ見出され、現れるのか?
 研究者によれば、『サストロ・ジェンドロ』の語は古代ジャワ文学には見えず、19世紀(1820年)のキヤイ・ヨソディプロ Yasadipura とキヤイ・シンドゥサストロ Sindusastra のラコン、アルジュノソスロまたロコポロ(アルジュノ・ウィジョヨ Arjuna Wujaya の書から引用)において初めて現れるという。シノム Sinom 形式 pupuh の26頁には次のようにある。
 『 Kajawi saking punika, ngungun kawula puniki, dene ta mboten kadasa, putra tuan nini putri, sinten ta kang marahi, panedahanira puniku, Sastra Jendra Yu Ningrat, minangka wadining bumi, pan si nengker dening Hyang Jagad Pratingkah. 』
 『 Tan kening singa ngucapa, siniku ing bataradi, senadyan para pandita, kang samya mandireng wukir, awis ingkang ngrawuhi, yen de de pandita punjul, kula matur prasaja, mring paduka yayi aji, kang tineda ing nini punika, 』
 『Sastra Jendra Yu Ningrat, pangruwating barang sakalir, ingkang kawruh tan wanten malih, wus kawengku sastradi, pungkas-pungkasing kawruh, ditya diyu rakseksa myang saro siningwanadri, lamun weruh artine kang Sastra Jendra. 』
 『 Rinuwat dening batara, sampurna patine reki, atmane wor lan manungsa, manungsa kang wis linuwih, yen manungsa udani, wor lan dewa panitipun, jawata kang minulya.......... 』
 意訳すると次のようなものである。
 『それとは別に、驚くべきことに、この我が子たる女は、「サストロ・ジェンドロ・ユ・ニングラト」、このサン・ヒワン・ジャガッド・プラティンカ Sang Hyang Jagad Pratingkah 〈世界を統べる神〉によって秘密とされた世界の秘教(エソテリズム esoterism 〈秘教〉)の答えを見出し得る者、それ以外は望まないというのだ。』
 『それを話せる者は何処にもおりません。偉大なる神、デウォ・アグンの呪いを受けるゆえに。山に独り苦行するパンディト〈僧〉も、その資格を持たない限り。私は陛下に対し、はっきりとお伝えいたしましょう。これが王女のお望みなのです。』
 『「サストロ・ジェンドロ・ユ・ニングラト」と呼ばれるものは、すべてにおいて難解で、これに匹敵する英知はいまだかつて存在しない、聖典(イルム・ルフン ilmu luhung 〈高貴なる知識〉=サストラディ sastradi )である。サストロ・ジェンドロはまたすべての知識の最終形でもある。ラクササも地獄の魔神〈原文:Diyu:ジャワ語原文:ditiya diyu、ditiya=ダイティヤ(サンスクリット語:巨人族、魔神、diyu=サンスクリットのNaraka(地獄)の中国密教での名。仏教系ではナラカをディユと呼ぶ〉、さらには密林の動物と言えども、サストロ・ジェンドロの意味を知る者は。』
 『バトロ〈神〉によって魔除けされ、死ねば(その後)完全性を獲得し、「〈より〉高貴なる」人間に生まれ変わる(資格を得る)。また「サストロ・ジェンドロ」の意味を知る人間は、その魂は高貴なる神に生まれ変わる……。』
 さて、今や『サストロ・ジェンドロ』と呼ばれるものの真実が明らかになったであろう。サストロ・ジェンドロとは英知の最終形に他ならず、ウェドトモにおいて『ププントニン・ラク pepuntonig laku 〈pepuntoning=最後の、laku=道〉』、また生命の道の終わりと呼ばれるものである(ガムブ gambuh 2)。
 インドネシアでは、最終の英知とはイルム・マーリファット ma'rifat 、また『イルム・カサムプルナン Ilmu Kasanpmorunan 〈kasamprunan=完全性〉』、また『イルム・ルフン Ilmu Luhung 〈luhung=高貴なる〉』、サストラディ Sastradi 、イルム・ラハシア〈rahasia=秘密〉(エソテリズム〈秘教〉)、イルム・ムクスウォ〈Mukswa=天国〉、イルム・カスニャタン〈kasunyatan=真実、明解、存在〉、イルム・スジャティ(真実に関する英知)、またナワ・ルチにおいてはタットワ・ジナナ〈tattwa=真実、Jnana=イルム〉と呼ばれるものである。すなわち、ウジュッド Wujud またイルム・カラーム Ilmu Klam 、また近代世界では『テオロジー Theologi 〈神学〉』と呼ばれるもののエッセンスたる知識である。これらすべては、プリヨフトモ教授の1934年の著書『ナワルチ Nawaruci 』やゴリス Goris 博士の『ジャワとバリの神学知識に対する貢献 Bijdrage Tot De Kennis Van Javaabsche En Balineesche Theologie 』と題する論文において科学的に分析されている。

1977年9月4日、ブアナ・ミング
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by gatotkaca | 2012-10-28 00:22 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その26

20.サストロ・ジェンドロ・アユニングラト・パングルワティン・ディユは人間をラクササにし、ラクササを人間にする力を持つ


 ウィスロウォ Wisrawa とスケシ Sukesi は強欲の化身、ラウォノを産み、クムボカルノとサルポクノコもウィスロウォがイルム、サストロジェンドロ・アユニングラト・パングルワティン・ディユ Sastra Jendra Hayunungrat Pangruwatin Diyu を説明したことの無謀さと僭越の報いとして生まれたというのは本当だろうか?そしてスケソ Sukesa はサストロ・ジェンドロを覗き見したゆえに、 ラクササ姿のプラハスト Prahastha に変身してしまったというのは本当か?こういったご質問がいくつか、読者から私のもとへ届けられた。
 ここでは、『神秘主義』、またイルム『サストロ・ジェンドロ』の初歩的分析を試みてみよう。
 サストロは「書 tulis 」、「イルム ilmu 」また「本 kitab 」を意味し、ジェンドロは王(グスティ〈主〉)の持ち、アユニングラトは人間と全世界の安寧を意味する。手短に言えば、『サストロ・ジェンドロ・アユニングラト』とはグスティに由来する、人間と世界の安寧を得るための『宗教』の秘密を形づくる高貴な書・教義・イルム〈知識〉である。
 今日多くの人々が、それぞれの解釈でイルム『サストロ・ジェンドロ・アユニングラト』を分析しようと試みている。
 実際、サストロ・ジェンドロ・アユニングラトはブガワン・ウィスロウォの教えのみならず、ビモがデウォ・ルチに出会った後、アルゴクロソ Argakelasa で自身の『修業所』を開き、『神秘主義の師』となった時にも教説される。多くの弟子たちが、しかし彼の息子や甥、姪たちを除いて、カピウォロ(ハヌマン)までもがビモを師とした。
 ラコン・ビモ・スチ Bima suci は、プリヨフトモ Priyahutama 博士の論文ではラコン・ナワ・ルチ Nawa Ruci とされ、それはイルム・ハケカット ilmu hakekat つまりタットワ・ジナナ Tattwa Jnana つまり真実の英知(tattwa=真実=hakekat 、Jnana=イルム=書・教義)を説くものであるが、ダランがワヤンで展開するものはこれと少々異なるものであるという。ラコン・ビモ・スチはワヤンではラコン・セノ・ロドゥロ Sena Rodra またビモ・パクソ Bima Paksa と同じもので、そこではビモが『神秘主義の師』となりとなり、『サストロ・ジェンドロ・アユニングラト』をアルゴクロソで教説する、というものである。
 このようなコンセンサスをもって、各人がイルム『サストロ・ジェンドロ』を解説することが特殊な場を必要とし、すべての女性が去るよう命じられ、恐るべきものとされる。動物(一切衆生 kutu-kutu, walang ataga )の一匹たりとも、このイルムの説教を聞く事は許されない。というのも、サストロ・ジェンドロの『深刻さ gawat 』と秘密性の故である。
 さらに、人というものは自分自身を見つけ出さねばならず、注意を怠ったり、警告を無視すれば、致命的な結果を招くことになる。つまり、人間は欲望の権化たるラクササとなる。また逆に動物と言えども、そのイルムを理解すれば、その時は人間となる(転生において)のである。
 この見解は本当だろうか?Wallahu alam bish-shawab 〈アッラーは正しきをご存知です〉。むろん、ワヤンの物語ではこのように語られる。ウィスロウォやビモが、イルム・サストロ・ジェンドロ・アユニングラトを教え、解説し、広めようとしていることを耳にしたブトロ・グルは怒る。すぐさまドゥルゴ(妃)に知らせ、スケシの体内に『侵入 manjing 』することを命じ、ブトロ・グル自身はウィスロウォの体に入魂する。それゆえウィスロウォの信念は崩壊し、その時スケシの美しさを目にするのである。彼はスケシが自身の息子の嫁候補であることも忘れ、彼女と結ばれる。そして恥知らずにもその欲望をぶちまけるのである。こうしてラウォノ、クムボカルノ、そしてサルポクノコが生まれる。
 ここで問題なのは、イルム・サストロ・ジェンドロを教える者が現れると、ブトロ・グルや神々が困り、怒るのは何故かということだ。それは、このイルムを知り、理解すると、人間はおろか動物にいたるまで、神々に従わなくなるであろうことを恐れているのである。であるから、神はこれをタブーとして遠ざけ、普及を阻止し、隠そうとするのだ。
 上の説明では、ワヤンでは、神の与えるイルム以外の教えやイルムを排除しようとしていると捉えることができる。近代西洋の見解では、『サストロ・ジェンドロ』とは『コーランもしくは聖書』であると考えられている(あくまで西洋人の見解であるが)。
 『影絵』上演の形態をとって、三千五百年以来続いてきたワヤン上演が、近代では信仰(ダワー da'wah〈=イスラム布教〉)と関係するメディアのひとつとして設定されたという考え方は否定できない。であるから、今日ワヤン・『ワフユ wahyu 』(カトリック)やワヤン『タワ Ta'wa 』、ワヤン・メナ Menak 、それにワヤン・アダム・マーリファ、ワヤン・ブッダ Buddha などが存在することも驚くことではない。ラコン・『ワフユ・ヒダヤット Hidayat 〈神の導き〉』、ラコン『サプト・アルゴの祀堂建設』、ラコン『ムストコウェニ Mustaka Weni 』などがあるのも驚きに値しないのだ。これらのラコンではチャンディ〈祀堂〉の建設の度に災厄が発生する。あるいはワヤンの中で、それらの災厄は、ムストコウェニに盗まれることでの『カリモソド〈パンダワの長兄ユディスティロが持つイスラムの象徴的持物〉の喪失』、あるいはバヌワティに恋したガトコチョの『恋慕 Gandrung 』による放心状態といったかたちで描かれる。手短かに言えば、彼らに災厄が降り懸るのである。
 これらのラコンの意味は何であろうか?その意味は、チャンディを建設する事ではなく、別の礼拝所を打ち建てることである。それはイルム・サストロ・ジェンドロ・アユニングラトでも同様なのだ。イルム・サストロ・ジェンドロ・アユニングラトとはある核心的教義、高貴なるイルムであり、ちょうどオーバーベック・Hのように、他の宗教の聖典に与えられた名なのである。ブトロ・グルの怒りは、ブトロ・グルの教え以外の教義を排除しようとする、禁忌としての意味を持つ。
 インドネシアはパンチャシラの哲学を採用している。インドネシアでは全ての信仰、宗教が並列する。国家の繁栄のために補完し合い、肩を並べているのだ。さらに今、(確認されている)すべての礼拝所は平等に建設されているのである。

*H・オーバーベック H.Overbeck は第一次世界大戦中にニュー・サウス・ウールズ州で捕虜であったが、監禁中にアリの研究を行い、さまざまな生物学的発見をした。

1977年8月28日、ブアナ・ミング

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-10-27 00:45 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

インターバル:Hik(ヘッ) のこと

 堅苦しい話が続いて疲れたので、今回は『トリポモ』の訳はちょっとお休み。先日ジャワの歌姫・狩野裕美さんに教えてもらったHik というものについてのお話を紹介する。Hik は「ヘッ」と発音する。ソロの通りにたくさんある屋台(ワルン)の一種?で、ジョクジャではアンクリンガン Angkringan と呼ぶ。狩野さんはカタツムリのサテがお好きだそうである。筆者も食してみたいものだ。
 angkringan 、Hikについて書かれたブログを見つけたので以下で紹介する。ジョクジャの女子大生のブログのようだが、なかなかおもしろかった。
元リンクはこれ→Sejarah Warung Angkringan Atau HIK

 一応日本語訳を下記に載せておく。イネ語がめんどくさい人はこちらで読んでください。なお文中のジャワ語訳は全く自信が無いので間違いに気付いた人は、教えてください。よろしくお願いします。(インドネシア語も自信は無いのですが。)

ワルン・アンクリンガン Warung Angkringanまたはヘッ Hik の歴史

プリスタ・アユ Prista Ayu

 普段の生活の中で、お腹がへってくつろぎたいけれど、あまり予算を使いたくない、そんな時どうしますか?あなたが大学生、あるいは仕事でジョグジャ〈ヨグヤタカルタ〉の街にいるとして、『アンクリンガン angkringan 』と呼ばれる場所にはお詳しいでしょうか?そう、アンクリンガンはジョクジャの、どの通りでもすぐに見つかります。呼び名は違うけれど、ソロやクラテンにもあります。ソロでは『ヘッ Hik 』と呼ばれています。アンクリンガンというのはジャワ語の『angkring』から来ていて、リラックスして座る(ふつうは椅子に片足をかけて)という意味です。

 ジョクジャのアンクリンガンとソロのヘッは本質的にはだいたい同じものです。今夜のジョグジャは晴れています。暗い夜空に浮かぶ半月がスイカのように見えます。まだアンクリン〈リラックス〉するところが見つからない?ああ、ジョクジャの街に不慣れなんですね?

 アンクリンガンは青やオレンジなど独特の目立つ色のプラスチック製防水シートを木製のカートにかぶせた、屋台の一種です。お客さんのキャパシティはだいたい8人くらい、アンクリンガンは夕方から早朝まで開いています。でも昨今は昼過ぎから開いている店もありあます。従来は夜の照明は、街灯と灯油のランプに頼っていました。
 アンクリンガンでの定番メニューはナシ(スゴ)・クチン〈nasi=ご飯、sega=ご飯〈ジャワ語〉、kecing=猫〉です。そう、一見して分かるように、ふつうバナナの葉にくるまれている小さなご飯のかたまりは、まさに猫まんま、えへへへ(笑)。ご飯につくおかずは、ふつうテムペ(納豆を揚げたような食材)かトゥリ(teri 魚の南蛮漬けのようなもの)、あるいは卵焼がちっちゃ〜い2かけといったところです。臓物を使ったサテ(串焼き)やウズラの卵のサテもあります。飲み物はウェダン・ジャヘ(生姜の入った甘い飲み物)、クルプック(チップス)その他も充実しています。ナシ・クチン(ジャワ語ではスゴ・クチン sega kucing )に戻りますが、それはひとつの決まったメニューというわけではなくて、たくさんのアンクリンガンでナシ・ブンクス〈総菜とご飯のセット〉も出されています。
 その量が(すごく)少ないので、まるで猫の餌のようだということから、『ナシ・クチン』と名付けられたのです。男の人なら3〜5個はいけるのではないでしょうか。私(ブログ筆者)は女だけど4個ぺっろと食べたことがあります。へへへへ。このご飯はご存知のようにおいしいので、私は病み付きになって、困ってます。飲み物はいろんな種類があって、紅茶、アイス・オレンジ、コーヒー、ミルクなど、その他お好きな物を混ぜて出してもくれます。みんなすごく手頃なお値段です。でも今時は燃料価格の急騰がアンクリンガンのお皿にもふりかかって来ているように感じられます。それでもアンクリンガンのファンはまだたくさんいます。
 多分100メートルごとにアンクリンガンを見つけることができるでしょう。ジョクジャで雨後のタケノコのようにはやっているのはどういうことなんでしょうか?学生にとってはアンクリンガンでくつろぐのはとても楽しいし、私もよくアンクリンガンでお店の人とお喋りしています。
 毎回私は『Pak njenengan asline king pundi? 〈旦那さんは、どういった王様の後裔なんですか?〉』と尋ねます。答えはだいたい同じ。『Kula king Klaten, Mbak 〈私はクラテン王です、お嬢さん〉』。ヘルマン・ヨハネス通りのアンクリンガンの商人から、ジャス jasu (生姜ミルク)を買った時に聞いてみたところ、『 Wis suwe po Mas bukak angkringan? 〈お兄さんはアンクリンガンのお店を開いて長いのですか?〉』。彼は答えます。『 Lha wong mbahku wae bukak angkringan kok, Mbak. 〈そう、権利を持ってる者だけがアンクリンガンを開けるんですよ、お嬢さん〉』。実際アンクリンガンはいつ頃からジョクジャにあるんでしょう?
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 ジョクジャのアンクリンガンの歴史は、貧困を克服する戦いの物語とも言える。ジョクジャのアンクリンガンは1950年代、クラテンのチャワス Cawas 出身のバ・パリオ Mbah Pario という名の商人によって始められた。チャワスは中部ジャワ、クラテン地域の行政区で、乾期には特に不毛の地域である。耕地が不足して生計を立てることが困難であるため、バ・パリオは街に出ることにした。そう、ここジョクジャカルタである。
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 バ・パリオはジョクジャカルタのアンクリンガンのパイオニアと呼べるでしょう。バ・パリオのアンクリンガンはその後、1969年ごろ、バ・パリオの息子、リ・マンLik Man に受け継がれました。数回場所を変えましたが、現在リ・マンはトゥグ駅の北側に拠点を持っています。時が経ち、次第にこのビジネスは徐々に広まり、今やジョクジャの街の隅々にアンクリンガンが見つかります。リ・マンのアンクリンガンも今やジョクジャで一番有名な店となり、ジョクジャの外でもその名は知られています。
 カートに覆いを掛けたアンクリンガンとは別に、最近はアイッキャッチャーとしてポールを立てているアンクリンガンも現れ始めています。トゥグ駅にはバ・パリオ印の商品を扱う店舗もあります。時には、バ・パリオの商売、アンクリンはティン-ティン・ヘッ ting-ting hik (hikの発音はヘッ)とも呼ばれます。これはお店の人が売りあるく際に、『へー……イイェー hiiik........iyeek 』と呼び込みの声をかけるからです。この言葉 ヘッ hik はよくヒダンガン・イスティメワ・カムプン Hidangan Istimewa Kampung 〈田舎の特別料理〉の意味に解釈されることが多いようです。「ヘッ」の呼び名はソロ〈スラカルタ〉ではよく聞かれますが、ジョクジャではアンクリンガンの方がポピュラーです。アンクリンガンの歴史はジョクジャから始まったと言えるでしょう。
 アンクリンガンは学生やトゥカン・ベチャ(人力車の運転手)、肉体労働者といった下層労働者たちの集まる周縁環境の典型と言えるかもしれません。けれど今日ではもはや周縁環境とは言えず、貧困層だけでなく、高級レストランで食事ができるような豊かな人にもアンクリンガン愛好家が生まれています。
 私が今まで試したアンクリンガンの中では、ジョクジャの伝説的アンクリンガン、リ・マンのジャダ・バカル jadah bakar 〈すりおろしたココナツを固めて焼いた料理〉とリ・マン特製調合のテ・ナスギテル teh nasgitel 〈お茶の一種〉(熱くて甘くて濃い)に夢中です。いろいろな職業の有名人がアンクリン・リ・マンのワルン(お店)にやって来ることも珍しくありません。たとえば、バンド、シンテン・ルメン Sinten Remenのリダー、ブトゥッ・カルタラジャサ Butet Kartaradjasa のお兄さん、ジャドゥッ・フェリヤント Djadug Feriyanto もトゥグ駅のリ・マンのアンクリンガンの愛好者です。ジャドゥッだけでなく、チャ・ヌン Cak Nun (エムハ・アイヌン・ナジブ Emha Ainun Njib )、ブテ・カルタラジャサ、マルウォト・カウェル Marwoto Kawer といった有名な作家、文化人、スポーツ選手からチリ出身のPIMS〈Persatuan Sepakbola Indonesia Mataram:ジョクジャをホームとするサッカークラブ〉の選手、ジャミー・サンドヴァル Jammie Sandoval までもがアンクリンガンでおやつを食べるのです。
 友人と共に疲れを癒し、またそこで新しい人との出会いもあり、くだらない話をし、冗談を言い合い、後輩をいじめてみたりして、心の重荷を降ろして笑えるようになるまで。アンクリンガンの中ではみんな同じで、上下なんか無いのだから。
いろいろなルーツをもっていても。
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by gatotkaca | 2012-10-26 00:31 | 影絵・ワヤン | Comments(2)

「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その25

19.神秘主義の側面から見た、ラコン『スマントリの士官』、『クムボカルノの戦死』、『カルノの一騎打ち』の本質 (下)

 迷えるアルジュノとクレスノの会話は、『バガヴァット・ギーター』によればこのようである。
 バガヴァット・ギーターは大戦争バラタユダの13日目に、クルクシェートラの戦場のただ中で交わされるスリ・クレスノとアルジュノの会話を編纂したものである。〈実際のインド版『マハーバーラタ』では、バガヴァット・ギーターが説かれるのは戦争の初日、大戦争開戦前である〉バガヴァット・ギーターは、クシャトリアとしての人間の生き方の外面と内面、精神と本質にかんする教義をその内容とする。
 バガヴァット・ギーターにはクレスノとアルジュノの18の会話が収められている。
 その内容のすべては、対話によって構成され、文学的価値と共に、哲学的、神秘主義的価値を有する。
 この論説ではサンキーヤ・ヨーガ〈"我"を知る英知〉の部分を適宜引用することにしよう。
 ご存知のように、バラタユダはパンダワとコラワの一族間の大戦争である。パンダワは公正と正義のため、そしてコラワが長年支配してきたインドロプラスト国とアマルト国の支配権を取り戻すために戦う。無法に対する忍耐が限界を超えて、運命の日を迎えることとなり、双方はすでに軍備を整え、クルクシェートラの戦場に対峙したのである。
 ここにおいてアルジュノは、スリ・クレスノの随行を求め、宝具 pusaka の戦車キヤイ・ジョロドロで戦場に向かった。その時スリ・クレスノは軍師、馭者としてアルジュノの傍らにあった。サン・サンカ・パンチョジョニョ Sangka Pancajanya のゴングが打ち鳴らされる。それは戦場へ向かう合図だ。瞬きの間に戦車ジョロドロはクルクシェートラの戦場のただ中へ進み出る。アルジュノは眼前の敵を見る。それは従兄弟たちであり、兄、弟、師、義父、愛する者たち。この時アルジュノは心臆し、身体の力は抜け、息が詰まり、その心は悲しみに打ちひしがれるのである。
彼は言う。
 『おお、クレスノ兄よ。私は目の前にいる一族の者たち、我が兄弟たちを見た。我らは殺し合わねばならない。もはや少しも力を出すことはできません。戦慄に身の毛がよだつ。口が渇き、身体は震え、肌が焼かれたように熱く、もはや立つ力もありません。
 もはや生気も望みも失せました。これが悪い兆しでないと言えましょうか?私は勝利など望みません。何の楽しみも力もいらない。私の為すべきは、を兄弟、師、そして一族を殺すこと。武器を捨て、戦わないとしても私に何の罪がありましょう。勝利は彼にくれてやる。その方がまだましだ。』
 アルジュノは罪に恐れおののき、弓も矢も放り出して泣いた。戦場のただ中にあり戦車の上で、アルジュノは倒れ伏し、悶え苦しんだ。
 英知に満ちあふれたスリ・クレスノは言った。
 『ハイ、アルジュノ。敵を前にして絶望し、迷うのは如何なものか?自らを卑しめるような思いは消すのだ。偉丈夫たる者に相応しくないからな。そなたの武器を取れ、勇猛なる心で戦場へ向かうのだ!』
 アルジュノは憂悶して答えた。
 『おお、クレスノ兄よ。敬愛する二人の司令官、エヤン・ビスモとブラフマナ・ドゥルノにどうして矢を放つことが出来ましょうか。三界の力を与えられようとも、世俗の喜びのために一族を殺すことなど出来ません。罪深いことではありませんか。祖父ビスモは私を幼少から、大人となるまで養育して下さった。またブラフマナ・ドゥルノは我が師です。あの方は私に戦いのイルムを与えて下さった。クレスノ兄よ。迷える私をお導きいただけますよう。
 我が心は、我が忠節を消す術を知りません。私は戦うことを望みません。この世の喜びを奪い合うことに、価値はありません。血肉を分けた一族を殺す以外に手立てが無いのであれば、おお、クレスノ兄よ、バラタユダはここまでで終わりにいたしましょう。』
 アルジュノの悲しみに触れ、スリ・クレスノは大いに心動かされて言った。
 『アルジュノよ、神々に愛される者よ。そなたは悲しむべきで無いことに悲しんでいる。そなたの言葉は正い。そなたがブラフマナ立場であるならば。しかし、そなたはブラフマナではない。クシャトリアなのだ。
 クシャトリアは国と民を統べ、その安寧を保つこと、ならびに正義と公正を打ち立て、護る職務と責任を負うのだ。真のクシャトリアと呼ばれたいのなら、そなたの魂をもて進め。この大戦争バラタユダが王国の支配と世俗の喜びを求めるものであるなどと考えてはならぬ。
 そのようなるものを遥かに超えて行け。生も死も問題ではない。喜びも悲しみも永遠のものではないのだ。今、人間としてある身体に宿りしものはずっと存在し続け、これからも存在し続けることを想起されよ。それは如何なるものによっても滅せられることはない。それは如何なる武器によっても傷つけられることはない。火によって焼かれることはなく、水によって濡れることもなく、風によって乾くこともないのだ。だから人が人間を滅することに思い煩うことは必要ない。その破壊は肉体においてのみだからだ。クシャトリアにとって最も重要なることは、己に課せられた、高貴にして深き義務を果たすことである。それはトゥハンと己自身との間の義務であり、それこそがそなたのカルマ(業)である。アルジュノ、そなたのカルマは、国と民を治め、守護することである。
 クシャトリアにとって、己に課せられた義務を遂行することよりも高貴なることはない。
 戦争における義務もまたその内にある。クシャトリアの幸福とはダルマ(法)を顕現する機会を持つことである。それは天国の扉が開いたも同然であるからだ。されど、そなたがクシャトリアとしての責務を果たさないとあれば、そなたの名声も地に堕ち、そなたは罪人となる。全ての人が永久にそなたを侮蔑するであろう。人にとって名誉を汚されることよりも、戦場で死ぬことの方がはるかに偉大なことなのだ。
 そなたが戦場から逃げ出せば、そなたの敵どもはそなたを臆病者となじるであろう。さあ、我が弟アルジュノよ、あらゆる死の中でも最も卑しめられるもは、クシャトリアが正義無くして死ぬこと、戦士が勇猛無くして死ぬこと、パンディトが不正直に死ぬこと、そして女が恥の内に死ぬことなのだ。
 たとえそなたが戦場に斃れようとも、この世で力を出し尽くせば、仲間たちはそなたを尊敬し、国家の英雄として斃れたと語られ、その名声は高まる。だから立ち上がれ!アルジュノ、注意深くせよ、心を鎮め、思考を集中させて、今は我が言葉に耳を傾け心に満たすのだ。祖父ビスモに対する良き、そして最上の行いは、彼の恩に報いることだが、それはここででは無い。ここは一族の談合の場では無く、戦場なのだ。意の足りぬ者は死ぬ。戦場にあるクシャトリアにとって、師も弟子も無い。祖父も孫も無く、あるのはただ敵と味方だけだ。兄弟と言えども敵の中に身を置くのなら、殲滅されねばならぬ。さあアルジュノ、戦いに向かえ、そなたの為すべき事を為し、責務を果たすのだ。結果を算段するな/心に留めるな。』
 バガヴァット・ギーターはこのように語る。スマントリがハルジュノ・ソスロバウに仕官する(一体化する)時も同様の逡巡が見られる。
 これらが象徴するのは、神秘主義のABCを教えることであり、ラコン『スマントリの士官』の『士官 ngenger 』とは『マヌンガリン・カウロ・グスティ manunggaling kawula Gusti 〈主としもべの合一〉』の象徴なのである。カウロ Kawula 〈主〉とは英知(ワイズ)を意味するスマントリにとってクマーリファタン kema'rifatan (グノーシス)〈自己と真の神についての認識に到達した状態〉の段階の象徴なのである。そしてグスティ〈主〉はハルジュノ・ソスロによって象徴されている。ここに明らかなのは、我が国(ヌサンタラ Nusantara )の神秘主義では、マヌンガリン・カウロ・グスティ〈主従合一〉とは、カウロ kawula 〈しもべ〉がグスティ Gusti 〈主〉になることを意味しない。また逆にグスティがカウロになることでもない。その意味するところは、彼らの『力』と『望み』と『目的』がひとつになるということである。グスティ(ハルジュノ・ソスロ、ロモ、そしてクレスノ)はグスティのままであり、またカウロ(スマントリ、ウィビソノ、そしてアルジュノ)はカウロのままである。であるから、それは一つでありながら、二つなのだ(ロロ-ロロネ・アトゥンガル Loro-lorone atunggal )。上記のワヤンの物語で描かれるのは、ハルジュノ・ソスロの望み( iradat )が、スマントリの望みに生まれ変わる/なることである。物質的・外面的視点で見る人にとっては、スマントリがスコスロノを殺す事は過ちに思えるであろう。スコスロノはスマントリを手助けし、世俗的喜びと満足を与えてくれたのだから。それによって彼はマエスパティ国の大臣となり、パティ・スウォンドの称号を得ることになるのだ。
 むろん神秘主義を信奉する人であれば、世俗的欲望、すなわちスコスロノ的なるものを滅すること、あるいは少なくとも捨て去る事を望むはずである(物理的・外面的問題として、世俗的満足もむろん重要ではあるが)。だが他の人々にとっては過ち、あるいは馬鹿げたことと思われるかもしれない。なぜいけないのか?と。富や物、物質はむろん外面的満足を与えてくれる。しかし、すでに確固とした静謐なる精神を持ち、そして、見返りを求めない誠実なるサバル・タワッカール sabar tawakal 〈tawakkal〉の心を持つ人(『santosa ing budi teguh, sarta tawakal legaweng ati, trima lila hambeg sadu 』)は、生の核心の最後のあり方を知ってつねにそれを切望する。そういう人はスコスロノ的なるものを勇気を持って滅する必要があるのだ。
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Sabar:身に降りかかってくるあらゆることに対する忍耐。落胆、嫉妬、あるいは、自分自身を他の人々と比較することの気持を持たないこと。
Tawakkal:何が起ころうとも、何を見ようとも、聞こうとも、あるいは、感じようとも、ただ神は全能であると言って、それを唯一全能の神に明け渡すのみである、ということを意味する。
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 欲望を捨て去ることにまだ迷いを感じている人は、『彼』と一体となることはできないのだ。さらにその欲望は、体中を渦巻き、災厄へと成長していくことになる(yen den umbar hambar dadi rubesa )。スケシの美しさに惑わされ、堕ちたウィスロウォのように。

 ワヤンの諸演目に描かれる根幹、エッセンスの断片はこのようなものである。神秘主義のABCから言えば次のようになる。
a. 修行者、禁欲主義者である苦行者の位相は、ブガワン・スウォンドグニ、ブガワン・ウィスロウォ、そしてブガワン・アビヨソといった苦行者によって象徴される。
b. 善・悪の欲望は、ブガワンたちの二つの方向の子孫・子供によって象徴される。すなわち、スマントリとスコスロノ、ウィビソノとラウォノたち、アルジュノとコラワたちである。
c. タレカット tarekat 〈神秘的道標・イスラム神秘主義教団〉(精神の道標)の段階は、スマントリがハルジュノ・ソスロに士官することや、ウィビソノがスリ・ロモに合流する道筋を通して描かれる。
d. 迷いの段階・様相は、スマントリのハルジュノ・ソスロに対する逡巡、ウィビソノのロモに対するそれ、アルジュノのスリ・クレスノに対する迷いの表明を通して描かれる。
e. 強欲、世俗的欲望の滅失の段階は、スマントリがスコスロノを殺す、あるいは亡ぼすこと、ウィビソノがラウォノ/クムボカルノを亡ぼす、そしてアルジュノがコラワ/カルノを亡ぼすことで象徴される。
f. マーリファ〈霊知・感性的知識・体験的知識〉、英知(グノーシス)の段階は、スマントリ、グナワン・ウィビソノ、そしてアルジュノ/チプトニン自体によって象徴される。
g. 生の目標の最後の段階(ハケカットhakekat )、すなわち『 Wruh wekasing dumados, momor pamoring suwujud 〈混ざり合って一つの姿となる、泡がメッセージとなる〉』は、生の最終形と核心を教えるものである。ヌル・ウジュッド・ハケカット〈Nur Wuhud Hakekat:ハケカットの顕現たる光〉と一体化した後、完全なる解放(ムクスウォ mukswa :天界)に到達するのである。これはスマントリがニルウォノ〈Nirwana:ニルヴァーナ、涅槃〉を得ること、ウィビソノの昇天〈mukswa〉、パンダワ/アビヨソの昇天〈mukswa〉によって描かれる。
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礼拝の4つのレベルは:即ち、シャリアト、タレカト/タレカット、ハケカット/ハケカト、マーリファ/マアーリファトである。
シャリアトは、宗教の規律を守るレベルをいう。
タレカトは、(魂と理性による)宗教的な研究のレベル。
ハケカトは、神の礼拝の真実を経験するレベル。
マアーリファト(あるいは、Mu’jizat)は、神の恩寵によって絶えず受けているレベルである。
 シャリアトとタレカトは自分の宗教に従う普通の方法であるという。それは自分の宗教の外的な規律を守ることである。人々が教会、あるいは、モスクに行くときしていることであり、そして、宗教について研究することであり、宗教の規律を守ることによって神を礼拝することである。これらは、人間から神へ向かう神の礼拝の方法といえる。
 ハケカットは、神を礼拝する真の方法であるという。それは、神から来る礼拝の型、あるいは、姿を経験することである。ハケカットにおいては、それは神から人間へ向かうという。
マアーリファト(あるいは、Mu’jizat)は、預言者や神のメッセンジャーによってのみ達成される。ここでも再び、この礼拝を行うのは神の力である。
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(19おわり、20へつづく)
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by gatotkaca | 2012-10-25 01:06 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その24

19.神秘主義の側面から見た、ラコン『スマントリの士官』、『クムボカルノの戦死』、『カルノの一騎打ち』の本質 〈上〉

 ブアナ・ミング紙上で一ヶ月以上に渡ってスマントリ、クムボカルノ、そしてバスカルノの話題を取り上げて来た。国内の様々な地域から98を超える声(それ以前には100通を超えるお手紙)が届けられた。それぞれの論説が、お気に入りを選ぶにあたって、『mapan よく調べられ』また『maton 筋の通った』、的確なものであった。たくさんのインドネシアの有能な若者たち、知識人、モラリストが最上の戦士の特質、サトリヨの性格に命を与え活かしているということ、このトゥハンの恩寵に感謝を申し上げる。

 ここでは別の側面、神秘主義の側面から件の三人の人物を語ってみたい。プスタカ・ワヤンで出されている『ワヤンとその登場人物 Wayang dan Karakter Manusia 』第二巻第二版23頁に、ワヤンの中には高度に成熟した精神があることを記した。ワヤンを知ったばかりの人は、ワヤンを単なる娯楽として見るだろう。彼は面白い場面や会話があれば笑う。ワヤンを知って精神のレベルが成長してくれば、彼はワヤンが七色の芸術であることを知る。さらにレベルが上がれば、ワヤンの中に教育的要素や教説的要素があることを知る。さらにレベルが上がるとワヤンの中に宇宙の知識が内包されていることに、また人なら博士の称号に相応しいことに気付くのだ。ワヤンの価値の頂点・神髄は象徴的、心理学的、哲学的、霊的、つまり神秘主義的性格を持っているのである。

 さて、最後に先述のラコン〈演目〉のエッセンスと本質を探る話題に入ろう。神秘主義〈ミスティク misrik 〉、またスロ suluk 、タサウフ tasawuf と呼ばれるものは、現世の人間が神 illahi の存在に近づき、『彼〈神〉と一体化』するため、内奥の献身を念ずるための試みである。神との一体化に到達するため、その人は難しく、複雑で、真摯で険しい段階を昇り、いくつもの会合 maqamat を経なければならない。

 第一:人は苦行(トポ・ブロト tapa brata )あるいは禁欲、修行に同意しなければならない。
 第二段階は、悔悛である。そしてその後はトゥハン〈神〉の禁じられた行為を行ってはならない。
 第三段階:ワラー wara' 、すなわち精神を堅固にして逡巡せぬこと。
 第四段階:ファルク farq 、すなわち『ナリーマ narima 』にして卑しくならぬこと。その意味は、求めず、しかし与えられたものは拒まぬことである。
 第五段階:サバール sabar 、すなわちトゥハンの示される道に従い、あらゆる禁忌を避け、助けを求めず、怒らず、意味を知ることに努める〈ngangsa〉こと。
 第六段階:タワカル tawakal 、すなわちアッラーの本質に従い、すべてを満たすこと。手短かに言えば全てを信託することである。
 第七段階:リドー ridho 、あるいは誠実なる意思である。この段階こそチュンティニ centini 〈スラット・チュンティニ:神秘学の書〉において『ジャバリア・スジャティ jabariah sejati 』と呼ばれるものである。すなわち、この段階では人間はもはや意識して努めなくとも恩寵、喜び、幸福を感じ取ることが出来、不幸・災厄に遭うことはことはない。不幸・災厄とはトゥハンからの報い、もしくは試練だからである。
 この段階ではもはや人間は安寧selamat を超えたマーリファ ma'rifat (グノーシス gnosis 〈自己と真の神についての認識に到達した状態〉)の段階に到達しているのだ。すなわち有徳の叡智 kearifan(グナワン gunawan )、正しい認識たる英知 kebijaksanaan (ワイズ wise =スマントリ Sumantri )、そして清浄なる明確な心 kejernihan/kesucian hati (ハルジュノ Harjuna =鉢の中の清浄な水 air jernih dalam periuk/jun )を持ち、それによってその人間は本質 hakekat に到達している。この段階に関して、このようなスーフィー・神秘主義者・賢者の言葉が知られている。
1. 心臓の中に目があるなら、それは開かれ、頭の中にある目は閉じられている。その時、心の目はグスティ(主)だけに見られている。
2. マーリファとは鏡である。その鏡に見える英知はグスティだけに見られている。
3. 眠っているときも起きている時も見ているものはグスティのみである。

 先の要件はウェドトモ Wedatama において次のように歌われている。『Lila lamun kelangan ora gegetun........』。その意味は、失われても喜び、後悔しない、苦しみの中にあっても受け入れ、耐え忍ぶ、卑しめられても喜んで、真摯に全てをトゥハンに委ねる(プチュンPucun〈詩形式の一種〉:11)。『Pamoting ujar iku, Kudu Santosa ing budi teguh........ 』。その意味は、教え(マーリファ)の力は平穏にして堅固な精神、全てを委ねること、利益を求めず真摯なること、喜び、つねに愛と慈しみを忘れぬこと。それこそ最後の道にして生の核心を知る道なり(ガムブ Gambuh 〈詩形式の一種〉:26)
 さて、ラコンの話はどこに行ってしまったのか、ですって?今はもうスマントリ、クムボカルノ、バスカルノだけでは話がすまなくなって来たので、トリポモに関しての構成を少し変更することにする。サン・グスティ〈主君〉の側、ハルジュノソスロ、ロモウィジョヨ、そしてスリ・クレスノにも焦点を合わせてみよう。また、ブガワン・スウォンドグニ〈スマントリの父〉、ブガワン・ウィスロウォ〈ラウォノ兄弟の父〉、ブガワン・アビヨソ〈パンダワとコラワの祖父〉といった人物たちに象徴される高位の修行者(zahid )を見ることにもなる。〈ワヤンでは〉人の持つ善と悪の指向が登場人物たちによって象徴されている。たとえばスマントリ対スコスロノ、ウィビソノ対ラウォノ/クムボカルノそしてアルジュノ/パンダワ対カルノ/コラワといったように。それぞれの人物の名の意味するところは何か?サンスクリット語の辞書によれば、スマントリ Sumantri とは、より高い lebih(ジャワ語:linuwi )ことを意味するス Su の語と、英知・『ワイズ wise 〈英知〉』を意味するマントリ mantri から成る。またグナワン〈グナワン・ウィビソノ〉も英知 kearifan ( kearif bijaksana (英知)また kema'rifatan )を持つ人間を意味する。それからアルジュノ Arjuna =チプトニン Ciptaning =クントディ Kuntodi は共に英知の矢 panah linuwih のことであり、アルジュノの知能〈原文:kederdasan:kecerdasan (知能指数)の誤植か?〉と英知が超能力の矢のごとく鋭いことを意味し、彼が英知を獲得していることを意味する。

 三人のブガワン、スウォンドグニ、ウィスロウォ、そしてアビヨソは、トゥハンとの合一し、その後に『昇天 kamukswan 』つまり完全なる解放〈解脱〉を目指す苦行者(zahid )として描かれる。いっぽう、スマントリ(ワイズ〈英知〉)、グナワン(アリフ・ビジャクサナ〈英知〉)、そしてアルジュノ(鉢の中の水のごとく清らかなる心)は英知 arif bijaksana またクマーリファタン kema'rifatan (グノーシス)〈自己と真の神についての認識に到達した状態〉そして聖性 kesucian に到達した魂・精神の象徴として描かれるのである。

 クマーリファタンの段階は最も彼〈神〉に近づいた段階であると言われている。彼が合一を得られれば、悪/強欲の欲望は滅せられるのである。このラコンで言えばスコスロノ、ラウォノ/クムボカルノ、そしてバスカルノ/コラワである。

 ここで問題。このラコンでは誰が絶対者の顕現(グスティ)の象徴とされているのでしょう?

 他でもない、それはハルジュノ・ソスロバウであり、ロモウィジョヨであり、スリ・クレスノである。この三人は実際は一人の人物、三人であるがその実体はひとつ、すなわち『ウィスヌ』である。ウィスヌはヒンドゥー(哲学)における三大神の一柱であり、純にして高貴なるトリ・ムルティ〈三神一体〉の一神である〈ここに言う「純にして高貴 murni,alus とはウィスヌが三神のうちサットヴァ(純粋な質)に対応するからであろう〉。アッラー Illahi の存在に近づけるよう、また神と合一できるよう切望する必要条件として、強欲や世俗の欲望から離れ、捨て去ることが必須であるのだ。この位相はスマントリがスコスロノ(ラクササ)を捨てること、グナワン・ウィビソノがラウォノとクムボカルノ(ラクササと強欲)を捨てること、パンダワがコラワ(強欲)を見捨てることによって象徴されている。
 エムディさんからのご質問であった、なぜウィビソノは兄弟たち(強欲)を捨てたのか?という問題の答えは他でもない。『ミンカル・ミンクル・イン・アンコロ mingkar mingkur ing angkara 〈KGPAAマンクヌゴロ四世『スラット・ウェドトモ Serat Wedhatama 』パンクル pankur 第一歌の冒頭〉/強欲を捨てよ、真実とグスティ(主)とひとつになりたいと願うなら』。
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*Serat Wedhatama : Pankur , bait 1(1)

Mingkar mingkuru ing angkara
Angkara karenan mardi siwi
Sinawung resmining kidung
Sinuba sinukarta
Mrih kretarta pakartining ngelmu luhung
Kang tumrap ninh tanah Jawa
Agama ageming aji

強欲を捨て去り
息子を教育すれば
修辞の麗しい
美しい詩の中で歌われる
ジャワの地に届いた
この高貴なる教えが目的を果たせるように
導き手たちのまもりしこの宗教が
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ラウォノ、クムボカルノ、カルノ/コラワ、スコスロノらはある機能をもって描かれている。人間という者は物質的な喜び、満足、快楽を好む傾向にある。それらから遠のき、超越した段階に進むためには、人間はそれらの欲望を滅殺/破壊しなければならないのだ。既にしばしば引用して来たウェドトモに言う。
 『Ngelmu iku kalakone kanthi laku, lakune lawan kas tegese kas nyantosani setya budaya pengekese dur angkara.』
 『イルム〈教義〉(マーリファあるいは完全性)とはタリカット(献身)の道に沿って進むのみ。それを手に入れる方法はまさしく、精神を静かに保ち、欲望を滅する(殺す)ために意識を平静に保つことである。』
 手短に言えば、スコスロノとは世俗的喜び、満足を達成させる役割を担う者である。であるから、『なぜスマントリはスコスロノを殺さねばならなかったのか。なぜグナワン・ウィビソノはラウォノとクムボカルノを殺さねばならなかったのか(ラウォノとクムボカルノはロモウィジョヨに殺されるのであるが、実際にはすべてはウィビソノのアドバイスと忠告によるものである)。そしてアルジュノはなぜカルノ/コラワを殺さねばならなかったのか。』もうお分かりであろう。これらはスマントリ/ウィビソノが「彼」と一体となる条件として、欲望を滅し、亡ぼすことを象徴しているのである(ここに言う「彼」とはウィスヌすなわち(グスティ=主)ハルジュノ・ソスロバウ、ロモウィジョヨ、またスリ・クレスノを指す)。
 知っておいてほしいのは、これらグスティとの一体化は、『つねに』逡巡・迷いを経て達成されるということである。かつて私は、『ワヤンとその登場人物』第3巻132頁でこのように記した。『一体となる時、人は双子が一つになるような(アンビバレンツ〈好意と嫌悪のような正反対の感情を同時に抱くこと〉)経験をする。すなわちミステリウム・トレメンドゥム/ファッシノスム〈戦慄する神秘と魅惑する神秘〉である〈原文:mysterium tremendum at fascinosum/at はetの誤植か?〉
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mysterium tremendum et fascinosum
合理的に発達した宗教の核心には、非合理的なものーー感情や予覚による圧倒的「聖なるもの」の体験が存在する。ルドルフ・オットー(1869-1937)はその本質を「ダス・ヌミノーゼ das Numinöse」と名付け現象学的・宗教学的考察を展開した。「ダス・ヌミノーゼ」(das Numinöse)は、ルドルフ・オットーが合理主義的な宗教理解を批判して、宗教の領域に特異な範疇としての「聖なるもの」(das Heilige)を言い表すために霊や神を意味するラテン語のヌーメン numenから造った語。ただし、彼は後に、この語が既にチンツェンドルフとカルヴァンによって用いられていることを発見したと述べている。その主要な要素は、戦慄する神秘(mysterium tremendum)と魅惑する神秘(mysterium fascinosum)である。オットーの『聖なるもの』によれば、それは「言葉で言い表わせないもの」となる。同書の中に使われた表現を並べると、「言い難いもの」、「ある実在感」、「非理性的なもの」、「荒々しい」、「デモーニッシュ(魔神的)な」、「妖怪のような恐怖と戦慄とに引き沈めるもの」、「普通の自然領域に属しない」、「薄気味悪い」、「身の毛がよだつ」、「隠れた自然力のような」、「力ある」、「魅するもの」、「心を混乱させる」、「不思議に法悦に導く」、「しばしば狂気に高める」、「ディオニュソス的」、「巨怪な」、「忌むべきもの」、「残忍なもの」、「驚異的なもの」、「暗黒の」、「ウンゲホイアー的なもの」などと言い表される。なお、日本語の運用では「神霊的なもの」「神的なもの」「霊的なもの」などというより単に「ヌミノーゼ」と記述することで通用していることが多いようだが、文法上からの見地ではこの運用法はどうもおかしいようである。定冠詞dasがなければ「ヌミネーゼス」(Numinöses)となるようだ。「ヌミノーゼ」だけでは言語として自立しえないようである。定冠詞をつけて「ダス・ヌミノーゼ」或いは「ヌーメン的なもの」と言ったほうが文法上から考えるならばよいと思われる。この用語はユングらにも好まれて使われている。
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 今や明らかだろう。スマントリが(グスティ)ハルジュノ・ソスロに士官 ngenger する、つまり一体となろうとする際に、なぜ躊躇したのか。スマントリの逡巡はハルジュノ・ソスロが巨大なラクササ、ブラホロとなるのを見た後、さらにスコスロノを殺した後に初めて無くなる。そのような経緯を経てからスマントリは真実ハルジュノ・ソスロ(グスティ)と一体となるのである。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-10-24 00:54 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その23

18.戦勝決定要因としてのサトリヨ・ピナンディト(賢者のサトリヨ)の本質 その3


決定要因

 上記の哲学的手法を用いた解説で、『知性 kepandaian 』と『高貴なる精神 budiluhur 』というものが、人間の本質的能力の源泉であることがお分かり頂けたと思う。ナポレオンの言う士気、マキャベリの言う鍛錬、アイゼンハワーの言う指揮官の謁見/士気、ジョミニ将軍の言う性格、ナスティオン大将(インドネシア軍人、アブドゥル・ハリス・ナスティオン Abdul Haris Nasution )の言う幸運、強固なイデオロギー、強靭な精神、シマントゥパン大将の言う独立の精神、トルキー Tolkey の言う軍の精神、レーニンの言う時代、スリ・ロモの言う真実に基づく正義、そしてユディスティロの言う『スロディロ・ジョヨニングラト、ルブル・デニン・パンゲステゥティ〈強欲は正義に敗れる〉』といった発言の本質は、人間の高貴なる精神、ブディルフルの発露/体現に他ならない。ブディルフルを失った民族は、ウィチョクソノ/〈先を予測する〉英知をなくし、スシロ/倫理をなくし、スディロ/勇気/騎士道 kesatriaan /兵士の心構えをなくし、そしてアヌロゴ〈謙虚さ〉をなくす。かくてアディガン・アディグン・アディグノ〈もっと物を、もっと地位を、もっと利口に〉となり、その民族は遅かれ早かれ滅亡するのである。いっぽう、戦車、戦艦、爆弾、大砲その他の武器、核技術、生産、産業、経済、技術、戦略その他さまざまなものは、人間の脳の能力の発露/体現に他ならない。以上のことから『決定要因』=『要因X』とは『高貴なる精神と知性を兼ね備えた人間』ということになる。それゆえ、人間が幼い頃より、たとえば10歳でプラムカ〈Pramuka :インドネシアのボーイスカウトに相当する教育運動。7−10歳を対象とするPramuka Siaga、11-15歳のPramuka Panggalang、16-20歳のPramuka Penegak、21-25歳のPramuka Pandegaからなる〉に誓いをたて、修練/教育を身につけ、血肉としたならば、感覚的知識を制御/定着させる能力を得られるだろう。そしてイルム(プラグニョ PRAGNYA=知性)を形成する思考と脳の扱い方を学校教育と家庭で身につける。それらはウィチョクソノ、スディロ、スシロ、そしてアヌロゴ、あるいはブディルフル(高貴なる行為を行うことのできる精神性)となり、かくて『決定者たる人間』になれる。トゥハンの被造物として、社会性を持つ生き物として、双方を体現する個人となるのである。そうしてブディルフルと知性を兼ね備えた人間こそがまさしく『戦争の勝因を決定する要因』としての絶対的存在となる。その意義はブディルフルと知性を兼ね備えた人間なくして勝利を達成することは不可能ということである。

 以上の説明から得られる結論は、『戦勝の決定要因』とは人間が『高貴なる精神ブディルフルと知性』を持つことである、ということになる。

 この結論をモットー/仮説として唱えればこうなるだろう。PRAGNYA PARAMARTA JAYA 〈勝利への高貴なる英知〉と。

 このモットー・仮説は、ワヤンにおいては『サトリヨ・ピナンディト SATRYA PINANDITA 賢者のサトリヨ』と名付けられる。すなわち広範/高貴な知識と気高い精神を持った人間のことである。(知性/知識において卓越し、高貴なる精神において優れる者は、戦いに勝利する、あるいはイルムと知性、ならびに高貴なる精神は勝利と目的を達成する。)

 先の結論にいくつか説明を付する。
a. ブディルフル〈高貴なる精神〉(ポロマルト PARAMARTA ):ブディルフルにおいて優れた者は、強固な倫理感、精神、士気を有しており、倫理観、精神、士気の強固な者は公正と正義を理解し、強固な国家感と護持の心を持つ。高い士気と倫理観、強靭な精神、個性のすべてに優れる者は闘いの場でも戦場でも優れた力を発揮できる。
b. 知性/知識(プラグニョ PRAGNYA):卓越した知性を持つ者は知識を有するにいたる。知識を有する者はテクノロジーと技術を獲得する。テクノロジーにおいて優れる者は生産・産業に卓越する。生産・産業に優れる者は富を獲得し、彼自身はテクノロジーという武器(強力なる電子機器の武器)を手に入れる。そして強力な武器を手にする者は戦場に置いて卓越した必須の者となるのである。
c. 『プラグニョ・ポロマルト・ジョヨ PRAGNYA PARAMARTA JAYA 〈勝利への高貴なる英知〉への到達が、一人の人間では困難ならば、その実践あるいは体現において、司令官/ブディルフルを持った国家の首長と参謀長/有能・プラグニョなる行為者との間に統一的連携があれば良い。司令/国家首長と参謀長の一体化は個々の結びつきが強固であることが期待され、『Suruh lumah lan kurepe dinulu seje rupane nanging gingit tunggal rasane(別々の人とはいえ、その感性・感覚はひとつ)』である。そういったコンビネーションが指導者全体を一体化させる。良好で一体化した指導体制から『整然と秩序だった yang rapi terantur 』組織が生み出され、整然と秩序だった組織から秩序正い力が生み出されるのである。
ーー秩序から良好なる規律が生まれ、
ーー良き規律から堅固で徳高い倫理、精神、士気が希望され/生まれ、
ーー堅固で徳高き倫理、精神、士気から、信頼できる軍/コマンドが生み出される。そして、信頼に足るコマンドで現代軍備が統制されれば、いかなる闘い、戦場においても卓越/勝利を得ることができるのだ。

 以上私の説明したすべてから、決定要因たる者は幼い頃より25歳くらいまで教練、教育、文化の中におかれ以下のような基礎を培う必要があることが明らかとなったであろう。
 『有用にしてブディルフル〈高貴なる精神〉のパンチャシラ精神を持つインドネシア人を育成するための教育、教練、文化の戦略はソスブド〈SOSBUD=社会・文化〉の戦略によって準備される』

 ゆえに、教育、教練、そして文化の場が低迷することは、ある国家・民族にとっての警告・危機・災厄となるのである。

結び

 『サトリヨ・ピナンディト〈賢者のサトリヨ〉の特質に関する解説はまさしくこのようなものである。この解説のシノプシスとインストラクションは『海軍スタッフと司令官〈養成〉学校』(SESKOAL Ⅸ)という1972年にデワン・ドセン Dewan Dosen に提出した論文から抜粋した。この論文の中の第五章97頁に『戦勝の決定要因』と題した一文がある。

 さて、このあと続いてラコン『スマントリの士官』『クムボカルノの戦死』そして『カルノの一騎打ち』の本質について、神秘主義の側面から探ってみたい。それからさらにワヤン界一般、特にスピリチュアル界で混乱しタブー視されている『サストロ・ジェンドロ・パングルワティン・ディユ』を分析する。

(18終わり。19につづく)
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by gatotkaca | 2012-10-22 00:28 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その22

18.戦勝決定要因としてのサトリヨ・ピナンディト(賢者のサトリヨ)の本質 その2

ワヤン世界の戦い

 現代の戦争では軍隊が勝利において突出した活躍をする場は無い。それは軍事力/技術に過ぎない。しかし陸・海・空軍、ミサイルの全てのポテンシャルと構成要素は『命令、統制、通信と連携と協力の統一』の中になければならない。そして勝利は物理的な力だけに頼っていては達成できないのだ。というのも、その全ては行為者たる人間に依存しており、武力行使の目的に応じてもいる。
 たくさんの陸・海・空での戦闘・戦争から、より大きな武力が勝利を保証するわけではないことが証明された。今日にいたるまで、『スロ・ディロ・ジョヨニングラト・ルブル・デニン・パンガストゥティ Sura Dira Jayaningrat Lebur dening Pangastuti 』という章句は有効なままである。その意味は、物理的な力がどんなに強力で、神のごとき力であり、勇猛であっても、それが正しい目的で使われなければ、正義と公正の前に滅せられ/敗北する、ということである。なにゆえヒットラーのファシズムや日本軍、インドネシアでのオランダ帝国主義は敗北したのか?なぜなら彼らは物理的武力を正しくない目的(アダルマ ADHARMA )のために行使したからである。彼らは略奪し、他者の独立の権利を侵した。かくて遅かれ早かれ物理的武力は正義(ダルマ DHARMA)の前に敗れ去ったのである。
 上記の説明から明らかなのは、不可視の戦争、また物理的戦争においても結果を決定するのは最終的には人間である(Man behid the Gun 〈銃の背後にいる人間〉)ということだ。決定要因たる人間(銃の背後にいる人間)という見解は多くの人の知るところとなり、一般的見解となっている。それゆえ最早問題とはならない。今、この論説で問題となる人間とは如何なる者か? 答えは、本質的目的と公正にもとづく正義を身につけた人間、である。それは『高貴なる精神と知性を身につけた人間 MANUSIA YANG MEMILIKI BUDILUHUR DAN KEPANDAIAN 』に他ならず、それはワヤンでは『賢者のサトリヨたる資質を持った人間』と呼ばれる。高貴なる精神と知性を身につけた人間が決定的要因となることを科学的に正当化できるだろうか?
 高貴なる精神と知性の問題に入る前に、戦争の勝因となる要因の本質を探るために、現実世界の戦争とワヤンにおける戦争を比較し、並べてみるのが良いだろう。シムボリックな方法として、ワヤン世界の戦争からラマヤナとバラタユダを選んで現実世界の戦争と並べてみよう。なにゆえスリ・ロモは神のごとき超能力を持ち、勇猛なるワウォノを敗ることが出来たのか?彼は数々の呪文、大地に触れることができる限り死ぬ事の無いポンチョ・ソノの呪文を持っていたのにもかかわらす。答えは『ロモがラウォノとの戦いで勝利し得たのは、スリ・ロモが正義と公正のために武器を取り、また必殺の武器グウォウィジョヨの矢を持っていたからである(知性のシムボル=矢)。スリ・ロモは正義、真実、そして聖性の使者である。聖性とは生命であり、生命とは公正、そして公正とは本質的力であり人間の生きる意味である。これこそ『高貴なる精神の武器 senjata Budiluhur 』と呼ばれるものに他ならない。いっぽうラウォノは、ロモから略奪し、シントを陵辱するという悪しき(アダルマ)目的のために物質的力を行使した。かくてスリ・ロモは「高貴なる精神」で武装し、グウォウィジョヨ/知性の矢で勝利したのである。
 この物語の真実を理解し、問題を明らかにするにあたって、さらなる問題が浮かび上がって来た。『高貴なる精神 BUDILUHUR 』とは何か?『真実と公正 BENAR DAN ADIL 』とは何か、またそれは誰のための『真実と公正』なのか?そしてこれらは、どのような関係にあるのか?これらの問題、高貴なる精神、公正、真実とは何かということに答えるため、我々は『哲学 FILSAFAT 』の世界に入って行くことになる。これらの答えは哲学によって得られるからであり、それは『人間とは何か』という問題の答えでもあるのだ。それゆえ、『精神BUDI 』『真実 BENAR 』『公正 ADIL 』とは何かを問うことは、人間の本質を知ることとなるのである。

人間の本質

 戦争において標的とされるのは、行為、要因の決定者としての人間である。であるから必要とされるのは人間というものを深く見直してみることである。人間の本質とは多様性の統合体〈Bhineka Tunggal 〉(多元的統一体)である神〈Ilahi〉に定められたもの〈kodrat〉である。人間は、外観的にはひとつであり、『身体 tubuh 』と名付けられるひとつの物であるが、実際は二つのものからなる。それは、
a. ワダグ Wadag ー肉体、すなわち形あるもの、可視のもので、五感からなる感覚の能力によって捉えられるもの。
b. ブディ Budi ー精神、すなわち形を持たず、目に見えないものである。根源的な三つの力を持つ。それは各々思考〈 cipta 〉、感覚〈 rasa 〉、意志〈karsa 〉と呼ばれる/

 肉体と魂のふたつは互いに分つことの出来ないひとつのものであり、有機的に結びつけられたドゥウィ・トゥンガル dwi tunggal なものである。これは、二つでありながら一つのもの、二つの総体で一つの完全なものとなるもの、を意味する。

 人間の〈神による〉運命の本質は、『大いなる存在 Maha Ada 』によって存在させられている個/個人ということであり、第一原因(プリマ・コーザ prima causa 〈原文:causa prima/第一原因:アリストテレスの唱えた事物生成の根本原因。自らは不動にして他を動かす「不動の者」でこれが神であるとする。〉)無くして存在し得ないものであり、この第一原因こそトゥハン・ヤン・マハ・エサ Tuhan Yang Maha Esa 〈唯一絶対の神〉である。しかし、父母や他の人間との関係を持つことによって、関係性を持つ性質を手に入れる。実際、被造物たる人間は三つの性質を持つ。人であること(個性/個人)、社会性の生物であること、そしてトゥハン〈神〉の被造物であること、である。真実、人間というものは、統一体ドゥウィ・トゥンガル(ふたつにしてひとつ monodualis )性と多様性(複数性)という本質的性格を持つ、多様的統一〈ビネカ・トゥンガル Bhineka Tunggal〉(単体かつ複数)の存在なのである。すなわち、

a. 肉体
b. 魂
c. 思考
d. 感覚
e. 意志
f. 個性
g. 社会性
h. 神の被造物

である。

科学

 人間は五感を持つがゆえに、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、感覚から得た知識を持つことになる。それらの知識は思考によって真実と現実を探査され、「脳で処理され、その構築能力によってある教義〈イルム ilmu〉を構成し」、かくて人間は科学と言う知性を獲得するのである。

高貴なる精神 Budi luhur

a. ウィチョクソノ Wicaksana . その本質において、人間は意志による抑制や要請、感覚による制御、思考による決定によって行為を為すが、それらは本質的には神の定めた運命に基づいている。人間は決定においては思考を、美を求めるにおいては感覚を、徳を達成するにおいては意志を用いて、それらを連動する能力を持つ。それら様々な人間の能力を身につけ、血肉としたならば、『ウィチョクソノ(英知=予測において正確なること、決定において正しいこと、行為において徳を有すること)の特質』となり、最終的には『有徳の行為』を為せるものとなる。
b. スシロ Susilla . 加えて人間には仮定に基づき、他者に何をすべきか、正しいものは何かを見出す能力がある。この種の能力を身につけ、血肉としたならば、『スシロ(倫理)の特質』となる。かくて『礼儀正しい行動〈を身につけた〉正しい身体〈tepa slira〉』に生まれ変わる。そして『公正なる行為』が生まれるのである。(スシロは「manjing ajur-ajer, cendek tan kena kaungkulan, duwur tan ngungkul-ngungkuli 〈入ることは出来ても、上がることはできなず、上に行けない:訳者:この訳は不明確であるので暫定的〉」と言われる)
c. アヌロゴ Anuraga. それから人間はまた矩を超えずに自らを抑えることが出来る能力を持つ。貪欲、強欲、高慢にならぬように。尊大にならず、『絶対者』に対する自らの不足を認めようとする能力である。この種の能力が身につき、血肉となればアヌロゴ(謙虚さ)の特質となる。かくて『謙虚なる性質』/行動が生まれ、最終的には『傲慢・貪欲でない』行為を生み出す。
d. スディロ Sudira. 最終的に人間は悪/醜悪/過ちなる行為を制御、拒否し、善にして正い行為を促す能力を獲得し得る。この種の能力が身につき血肉となれば、スディロ(勇気・胆力)の特質となる。かくて『勇気ある』/行動に生まれ変わり、最終的には強靭な行為を生み出す。
e. ブディルフル Budiluhur. 上記、四つの特質・性格/行動と行為が調和をもって身につき、堅固に一つとなり血肉になったならば、それがブディルフル(ウィチョクソノ、スディロ、スィシロ、アヌロゴ)の特質となるのである。

正義と公正

 ノトヌゴロ博士 Natanegara S.H. によれば正義と公正とは、

a. 科学は問題を探し求める。最も達成を望まれる問題こそが、人間にとって最も有用なものである。
b. 人間性 kemanusiaan:人間の敬虔さという特質こそが、行動と行為、神の被造物としての人間の本質、社会性と個性を統合する。それは同胞を愛する感情と自覚であり、誠実さに損得を抜きにして誠意をもって応えることであり、他の人の幸福のために互いに助け合うことであり、他者を苦しめず、自己の力で無理強いしないことである。インドネシア国家に当てはめるならば、それは抽象・普遍・現実的かつ永遠の意義を持つパンチャシラ(五原則)の哲学である。それは、あるべき現実として神の定めに従った人間の本質を形づくる絶対的団結の基礎である。すなわち、公正なる人間性とその文明はトゥハン・ヤン・マハ・エサを指向し、インドネシアの統一、代表民主制の英知による指導、そしてインドネシア民衆すべてにとっての社会的公正性を目指すのである。
c. 公正、そして真実とは、
1)公正 Keadilan:すなわち、ある者の生きていく上での権利(他者との関係性も含む)のすべてがかならず成就すること。
2)権利 Hak:それは、誰もがそれを受け、行うべきところのものを、受け、行うための力である(要求がなくともその力は与えられる)。
3)義務 Wajib:それは、ある者に負荷される行為あるいは不作為であり、行為あるいは不作為は為されなければならない(求められている行為でなくとも)。
4)真実 Kebenaran:タンオノ・ダルモ・マングルウォ Tanhana dharma mangrwa 〈ダルマは分けることができない〉(真実は分けることができない)

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-10-21 01:31 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その21

18.戦勝決定要因としてのサトリヨ・ピナンディト(賢者のサトリヨ)の本質 その1
〈pinandita=sang pendeta:ここでは賢者とする〉



 この論説では一般的な戦争、特にインドネシアの不可視的戦争(perang sandi:sandi=隠された:)での『戦争の勝利』における最重要の決定要因を解説・検証してみたい。その中で、『サトリヨ』の資質、『賢者のサトリヨ satria pinandita 』とは何か、という読者のご質問にもお答えすることになるだろう。軍人や戦略家たち、マキャベリ、ジョミニ、クラウゼビッツ、山本、マッキンダー、ハウスホーファー、ローリー、マハン、ミッチェル、ドゥーエ、ジェーコフ、マリノフスキー、アイゼンハワー、ケネディー、ナスティオン大将、シマトゥパン大将、その他諸々各国の軍人たちのあらゆる意見、仮説を通して戦勝要因の本質を説明する。
 『戦勝の決定要因』という主題から、考察される問題は本質的問題であることが分かるだろう。というのも、軍事的衝突が存在しなくとも、ある軍隊が勝利するということはあり得るのだ。堅固で調和のとれた連携・協力がつねに存在しても、戦争の不確定要素や行動要因のすべてが決定され、内包されているわけではない。とはいえ、本質的方法はあると私は思う。不確定要素や行動要因の他にも絶対的で主要な、他の要因の上位に位置する『本質的要因』が必ず存在する。下記に記すのは、モラリストの説教や講義ではなく、本質的方法にアプローチする問題分析と議論となる。

 基地を出発したと考えて、ここで明らかに必要なものは何か。

a. 戦争
b. 戦争での勝利
c. 〈勝利の〉決定要因

 戦略家やさまざまな人物によって、たくさんの定義が提示されているが、その中から、クラウゼビッツの言葉を引用しよう。
 『戦争(軍事)とは敵/相手に対して、〈自身が〉望む行為を強制するための(流血の戦闘を伴う)努力/行為である。』
 であるから戦争行為の目的は敵側が望んでいないこと、あるいはその望みを挫くことを目的とし、その後自らの目的に従わせることにある。そこでは人間こそが重要な役割を果たすものとして現れるのである。
 クラウゼビッツの提言での戦争は物理的なものに限られている。近年の戦争は物理的軍事力(流血を伴う)に限らない『強さ』を必要としている。可視的/物理的(ラガ raga )強さのみならず、不可視(サンディ sandi )的強さである。戦争の本質は『ある目的を達成するための行動』に他ならない。であるから戦争は2種に分けられることになる。
a. 不可視的戦争(見えざる戦争=サンディ・ユダ sandi yudha 、即ちイポレックソスブドロの力を使った戦いである)〈IPOLEKSOSBUDROH:ipoleksosbud=ideologi,polotik,ekonomi,sosial,dan budayaの略。イデオロギー、政治的、経済的、社会的、文化的。roh=精神〉
b. 物理的戦争(物理的/軍事的戦争=ラガ・ユダ raga yudha )

 数学的に『ウサハ USAHA 〈努力・能動的行為〉』を定量化して記すとこうなる。

Usaha = K.d = Kekuatan kali jarak 〈力×距離〉= K.v.t
K = kekuatan〈力〉=リソース〈資源〉(イデオロギー、政治、経済、社会、文化、精神、そして軍事力)
であるから:U = f.(K.v.t).

 上の公式は何か?各々の行動(ウサハ)/戦争は絶対的に力の存在を必要としていることを意味する。であるから『行動とは力、スピード(空間)、そして時間の機能』である。たとえば、欲望と戦おうとすれば、精神の力を発揮する必要がある。貧困と戦おうとすれば経済力を、愚かしさと戦うならソスブド〈SOSBUD=社会・文化〉の力を必要とし、物理的戦争においては軍事力を必要とする、といったように。〈政権〉転覆の戦い(プラン・サンディ)では、精神/胆力/国家の性格といった殆どすべての力が必要となるだろう。ゆえに不可視の戦い/政権転覆〈革命〉は総合的性格をもっている。明らかな経験に基づいて言えば、戦争とは『数学的理論通り』にはいかないものである。より大きな力が常に勝利するとは限らないのだ。なぜか?量数的分析のアプローチを許さない要因が存在するからである。この要因を『X』と名付ける。『要因X』をこれから探ってみよう。
 『戦勝』の目的はある目的の達成に他ならない。ということは、『戦勝の決定要因』とは、ある目的の達成を決定づける最重要の要因である。つまり、その要因がなければ、ある目的を達成できなくなる、絶対的必須の性質を持つ。絶対的とは、その要因が勝利の達成に不可欠であることである。

問題への接近

物理的戦争〈プラン・ラガ〉

 海軍の父、マハン提督は次のような理論を提唱している。
 『海洋勢力〈シー・パワー〉は国家の成長、繁栄、防衛に不可欠のものである。』
 マハンの展開させた理論からいくつかのパターンを挙げてみよう。
a. 『海洋を制する者は世界/勝利を制する(『海軍戦略 command of the sea 』)
b. ティルピッツ〈原文:TerpizだがTirpizの誤りと思われる。アルフレート・フォン・ティルピッツ。1939年ビスマルク級戦艦2番艦の名ティルピッツは彼の名にちなんだもの。〉によれば『海洋勢力は戦艦によって決定され測られる』とある。さらに1921年、アメリカ合衆国海軍総司令パーシング大将〈ジョン・ジョーゼフ・パーシング John Joseph Persing 〉はミッチェル〈ウィリアム・ランドラム・ミッチェル William Lendrum Mitchell アメリカ軍人〉の理論を用いてこのように言っている。
 『The battleship is still the back bone of the modern fleet and the bulwark nation's sea defence〈原文ママ〉(戦艦はいまだ現代艦隊の支柱であり、国家の海上防衛の防波堤である)。』

 上記の教示で明らかなのは第二次世界大戦に至ってもなお、太平洋とヨーロッパ戦線の双方が採択されていることである。
 しかし歴史的に見て、海戦においては『海上戦力/艦隊の大規模な方が戦闘に勝利するとは限らない』ことが分かっている。たとえば、ミッドウェー海戦での日本軍の戦艦は141隻、山本の乗艦した戦艦は世界最大で、約6万8千トンで45ミリ砲を搭載していた。さらに山本太平洋艦隊提督自らが/直接率いたのだ。それにもかかわらず、軍事力で勝っていたはずの日本艦隊は、最終的にはたった50隻のアメリカ艦隊に敗れた。

ヒットラーとグデーリアン(ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン Heinz Wilhelm Guderian :ドイツ第三帝国軍人)は言う。『勝利はモータリゼーション/戦車隊と機動力を有する装甲車の侵攻(電撃戦 britzkrieg )によって決定される』(歩兵は戦闘の王であり、機甲部隊は戦闘の女王である。)(この見解はインドネシア独立戦争では証明されていない。)

 ミッチェル理論の核心である空軍論は、1921年頃になって新しく現れたものである。
ーーThe future security of our nation is depandent upon on adequate Air Force.〈将来の我が国の防衛は空軍に依存する事になる。〉
ーーThe key to victory in war was to be the heavy strategic bomber, 〈戦争における勝利の鍵は烈しい戦略爆撃である。〉(この見解はヴェトナム戦争における何百というB-52の使用によっては証明されなかった。)

核の脅威

 今日〈本書の刊行は1978年〉すでに9,574個程度の核兵器が準備され、使用可能となっている。それはこの人間世界の全てを焼き尽くし、破壊するに十分なものである。それゆえ、人類に取っては核兵器の所有の有無を問わず、核戦争は可能な限り回避しなければならない。国家的目標達成のため、マニフェストの表明において、不可視/サンディな方法を採用している。
a. 方針:『Ngluruk tanpa wadya, menang tanpa ngasorake tanpa ginbaging perang bandayudha amung kayunyun popoyaning kautaman』〈訳者お詫び:この部分のジャワ語はいくつかの単語が訳者にとって不明のため訳せなかった。諸賢のご教示を乞う。〉( WAR WITHOUT GUN 銃無き戦争=銃を無くす事で緊張関係を終了させる)
b. 実施形態:破壊、潜入、侵入、外交、共存、等々。

不可視の戦争〈プラン・サンディ〉

 地理的にインドネシアは交錯地帯に位置している。近年インドネシアはまさしく不可視戦争の戦場と化し、その坩堝となっているのだ。インドネシアにとっての深刻な脅威は、外的からの攻撃といった物理的脅威ではなく、内外からの破壊を画策する不可視戦争の脅威である。歴史に照らして、インドネシア民族は外敵からの物理的攻撃で破壊され亡ぼされた経験はないが、見えない脅威にさらされて引き裂かれ、亀裂を生じたことがある。

 不可視戦争/破壊の主たる標的は人間であり、たとえば『MA-5』(madon、minum/mabuk、main/judi、maling、madat/narkotik)〈モ・リモ ma-lima(5):人を堕落させる五つのMa:淫欲、酩酊、賭博、窃盗、麻薬〉のサイクルを操作することで、倫理に背かせたり、士気を低下させたりするメンタル面の敵、ならびに国家のパーソナリティーを滅失させようとする敵である。倫理、士気、精神、民族/国家のパーソナリティーの破壊は、ゆっくり/進行して、『死滅することはない』。それゆえ不可視の戦争を克服し、勝利するためには、不可視の砦を堅固にする他に道は無い。それは国家と民族意識を強固に維持し/性格付けることであり、『ブディ・ルフル〈高貴なる魂 budi-luhur〉 』を民族の武器とする他ないのである。この精神的・内面的強化がなければ、経済、政治、軍事力の発展は意味を持たない。ブディ・ルフルはテクノロジーの力を無力化/麻痺させるが、逆にブディ・ルフルを持たないテクノロジーは高慢、貪欲、強欲〈アンカラ・ムルカ〉/帝国主義、唯物論、主知主義へと傾斜していくのだ。ハディガン・ハディグン・ハディグノ〈hadigang,hadigung,hadiguna=もっと物を、もっと地位を、もっと利口に〉。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-10-20 01:38 | 影絵・ワヤン | Comments(0)