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木から落ちた猿

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「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その2

読者の意見

1.驚くべき深い哲学を内包するワヤンの解説


拝啓
 Sdr・イル・スリ・ムルヨノ氏の手になる「ワヤンとその人物たち Wayang dan Karakter Manusia 」の熱心な読者ひとりです。その分析はとても興味深く、また驚くべきものです。そこには哲学的分析、個人や民族に限らず国際的な見地での人間の本質といったものが見受けられます。
 私見によれば、年配の人々にとっては一般的なことものみならず、より大衆的・科学的見地からの新しい考えも含まれていると思われます。そういったところが、この解説をとても興味深いものにしているのです。現代的な考え方に合わせて言えば、深く解析され、分析に達しているということです。
 私は常々、ワヤンというのは真の芸術であり、永遠のものであり、深遠な哲学を内包しながらも大衆的なものである、と考えています。時代に沿ったさまざまな解釈が可能であり、互いに異なるさまざまな人間の文明にイマジネーションや思考に沿うことができるのです。
 イル・スリ・ムルヨノ氏のワヤンの人物たちに対する分析は、心の狭い私をも感心させ、氏の心中にある思考は本質的に社会に流布し、一般化された祖先の哲学に基づき、突き動かされたものであると感じます。
 ワヤンの物語における哲学はむろん、各々の必要に応じて解釈し得るものでありますから、ある性格の人物が重要とされたり、場合によっては悪と解釈されたりすることもあり得ます。
 実際私は思うのです。コラワがいつも悪であるとされ、パンダワは敬意を表されるのはなぜか?と。むろんパンダワやコラワといったかたまり、集合体は、それ自体がワヤンの物語によってそのように創られた象徴にすぎないと、分かっております。つまり悪の欲望と善の心に対する象徴である、と(全ては欲望を形成するものですが)。
 けれど、それらの象徴に対する各々の分析は、公平とはいえないと感じられます。というのも、芸術としてのワヤン、そこに内包される重要性は我々民衆にとっての特別な教育、説明としての意味を持つからです。ワヤンの物語において、しばしばアルジュノの英雄性は『パガル・アユ pagar-ayu (美女が並ぶこと・美徳の規範)』を壊す、つまり道徳的規範を破る行為によって為されます。逃亡したり、他人の妻を奪ったりするのです。さらに名うての一夫多妻主義者としても知られ、これはワヤンファンに『プレイ・ボーイ』というイメージを与えます。これは良い手本とは言えないのでないでしょうか?なにゆえ彼は英雄の象徴なのか?
 パンダワの母、デウィ・クンティもまた良き母としての人物像とは言えません。というのも、彼女は娘時代に妊娠し、自分の子、つまりバスカルノ(カルノ)を恥ずかしげも無く捨てるのです。それにも係らず興味深いことに(多分物語が作られた時代においては)、デウィ・クンティは善にして高貴なる女性として評価されているのです。
 ワヤンの物語の母体は、インドであることが誤り無ければ、そこには古代インドの文化が反映されています。そして我々の関心に沿ってクレームを入れ、我ら独自の解釈を入れて行ったのでしょう(つまり古代の詩人たちによって、という意味です)。
 ですから、現在の我々にとってとても重要なのは、更新されて来たワヤンの哲学、ワヤンの人物象が現在の我々の(一般の)思考に沿っている、ということなのです。私が言いたいのは、現在の我々のモラルにとって良くない性質の物語(特にチャランガン carangan=新規の創作)を捨てようということです。
 つまり、ある物語における恥ずべき行為を英雄性/善と看做してはならない等々ということです。
 私はブアナ・ミングとムルヨノ氏による試みに敬意を表します。そこではワヤンとその人物たちに対する解釈と議論が提供されています。その解説にはパクム pakem (本説)/根幹(原文babon=卵を産ませるための雌鶏)にある物語に対する議論だけでなく、愛好家の人々の公正な議論、そして登場人物ヘのイマジネーションをかき立てるような比較説明など、初心者向けから奥深いものまで、提供してくださることを望みます。一見出来の悪いように見えるワヤンの物語にも、その奥を探ってみれば良い意味合いを見出すことができます。誤った解釈をしないよう、よくよく比較検討してみなければなりません。
 確かなのは、ワヤンの登場人物を注意深く観察することが重要だと言うことです。善悪を相対的に。
 ワヤンについて議論することは、人生について議論することと同じです。人間自身の人生の道のりと同じ。話は尽きません。確かに、ワヤンは驚くべき文化芸術の成果です。心の赴くままに解釈することができ、各々の民族の文明/文化に合わせることもできるのです。
 ブアナ・ミングがこの解説をこれからも発展させ、論争の舞台となり、標準のレールを超えた哲学的論争が花開きますように。それはまさしくワヤンへの手引きとなるでしょう。

ブアナ・ミング 1977年9月18日
バムバン・SW Bambang SW(バニュマス Banyumas )
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by gatotkaca | 2012-09-30 01:04 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その1

 「スマルとは何者か? Apa dan Siapa Semar 」の著者、イル・スリ・ムルヨノ氏のプスタカ・ワヤン・シリーズに「スラット・トリポモ」を扱った「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ TRIPAMA, WATAK SATRIA DAN SASTRA JENDRA 」という本があるので、紹介する。これは日曜新聞ブアナ・ミングのコラムをまとめた本である。今回は一般読者からの投稿と著者の文を合わせて一冊としており、ムルヨノ氏の呼びかけで投稿された一般読者の意見が多数収録されて、著者の言う「サユムボロ(ここでは誌上討論会)」が展開する。やや古い本ではあるが、大変興味深いものである。
 途中やや冗長だったり、いきなり近代軍事論とジャワの精神世界が並列したりもするが、今回も省略無しで、頭から全文を日本語訳していくことにする。まずは「序文」から。

トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ
TRIPAMA WATAK SATRIA DAN SASTRA JENDRA


イル・スリ・ムルヨノ Ir. Sri Mulyono 著

Balai Pustaka & Deppen (repro); PT Tema Baru , Jakarta ; Cetakan Pertama 1978, Cetakan kedua 1987

序文

ビスミラーイ・ラーマニ・ラーヒム

 アッラー・スバーナフ・ワタアラー Allhah Subhanahu Wata' Ala (神への栄光と賛美)の存在へアルハムドリッラー Alhamdulillah (神への賛美)なる感謝の意を捧げます。その恩寵によりここに、賢明なる読者諸賢に「賢者の武将たるトリポモ、そしてサストロ・ジェンドロ Tripama, Satria Pinandita dan Sastra Jendra 」に関するワヤンの書を上梓することができました。
 本書「プスタカ・ワヤン(ワヤン選書)第9巻 Buku seri Pustaka Wayang 9 」は他のシリーズから独立したものである。とはいえ、プスタカ・ワヤン・シリーズの第2、3巻「ワヤンとその人物 Wayang dan Karakter Manusia 」や第4巻「ワヤンの女たち Wayang dan Karakter Wanita 」そして第8巻「スマルとは何者か? Apa dan Siapa Semar 」といったシリーズと全くかけ離れたものであるわけではない。
 本書第9巻は、読者の反響とその参加を画して、ブアナ・ミング Buana Minggu の読者からの「トリポモ」に対する意見をつのり、議論を戦わせて(サユムボロ)行くかたちでまとめられている。著者一人の意見よりも、この方がトリポモにおける三人の英雄、武将の鑑、手本としての性格をより適切かつ顕著に示すことができると考えたからである。
 この著者からの誌上討論会への誘いは、読者からのありがたい好意を得て、100を超える意見が寄せられた。これら読者からの反応は著者の心を大いに鼓舞したのである。いまだに年配の方々のみならず若い世代の方々もワヤンへの関心を十分にお持ちであることが分かったからである。重視すべきは、読者からのお便りの内にサトリヨの性格・本質が理解され息づいていることである。まさしく、それぞれの価値ある独自の意見によって討論されているのである。
 むろん心理学的見地からの分析は重要だが、他の角度からの検討も必要である。本書では読者たちによる検証や、ワヤンの実証的見地、またワヤンの哲学的見地、そして心理学的見地からといったさまざまな角度からの意見を取り入れている。であるから、本書では哲学的見解、神秘学的見解も述べられることになる。討論の最後ではさらに「サストロ・ジェンドロの真実とは何か?」を分析し、ラウォノ(強欲の化身)、クムボカルノ、サルポクノコ、そしてグナワン・ウィビソノを誕生させるに至ったもの、ワヤン界や特にスピリチュアルの世界で一般的に、混乱し、タブー視されているサストロ・ジェンドロを検討する。
 読者諸賢は尋ねるかもしれない。「ラマヤナやマハバラタ、特にトリポモの神秘学的見地からの分析は正当で適切なのか?」と。
 その答えはこうである。適切であり、そうすべきなのだ。本質を捉えようとするならば。なぜなら、ラマヤナとマハバラタの本質は神秘主義であるからである。さらに言えば、オーストラリア国立大学のスバルディ Subardi 博士の1967年の著書「スロ、あるいは神秘学の書としてのチェボレ Cebolek yang merupakan kitab suluk atau mistik 」の114頁にははっきりと説明されている。
 「たとえばビモスチ Bimasuci や(アルジュノ)ウィウォホといったカウィ語の書には隠喩やサスミト sasmita (比喩)が多々見られ、それらによって神秘学的知識(mystical knowledge )の神髄が解き明かされ、知識や定めといったものが説明される。「キタブ・カウィ・ロモ(カウィ語によるラーマーヤナ)などは、いわばキタブ・ミスティック kitab mistik (神秘学の書=スーフィズムの書)であると言えるのだ……」
 上記の解説から、スマントリ、ウィビソノ、アルジュノの人生を描いたラマヤナやマハバラタ、特にトリポモといった書のうちにウィスヌ/ヒヤン・ガイブ(隠されたもの)、すなわち神秘主義を見出すことに何ら疑いを差し挟む必要は無いと思われる。
 神秘主義の領域に踏み込むとはいえ、本書は一般読者を対象とした初歩的分析の範囲に留まっている。願わくば本書がダランやワヤンについてより踏み込んだ「プスタカ・ワヤン・シリーズ第10巻、ワヤンの象徴主義と神秘主義への哲学的考察」と題する書への『準備』となれば幸いである。
 本書での初歩的分析が、ワヤン愛好家にとっても、ワヤン界やスピリチュアル界でつねにタブー視されてきたサストロ・ジェンドロの真実を多少なりとも知らせることになるよう希望する。
 ここに挙げられた意見は時には冗長に感じられるものもあるかもしれないが、これらを読まれる賢明なる読者の方々自身を誘い、そこから手本とするのは誰か、またサトリヨの本質とは何か、そしてサストロ・ジェンドロの真実とは何かといったことを熟考していただければと思う次第である。
 おわりに、本書を刊行するにあたってさまざまな手助けをいただいた同僚たちに感謝の意を表することを忘れてはならないだろう。
本書が有用でありますように。

1978年8月30日、ジャカルタ
著者
イル・スリ・ムルヨノ

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-09-29 00:44 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

トリポモ:三英雄の物語

 「スラット・トリポモ」に選ばれた三人の英雄にまつわる物語を改めて紹介しておく。「スラット・トリポモ」はこれらの物語を念頭に作られたものである。とりあえず現在流布しているヴァージョンで紹介しておこう。

 第一の英雄、パティ・スウォンド(バムバン・スマントリ)の物語は、前にも紹介したが、重複をおそれずここにも掲げておく。セノワンギ刊、エンシクロペディア・ワヤンの記載に基づく。

1.パティ・スウォンド(スマントリ)の物語

アルジュノソスロの即位 Arujunasasura Jumeneng Nata
 あるいはスマントリの士官 Sumantri Ngeger


 ラコン・パクムに属する。このラコンはアルジュノソスロが聞いた知らせについて物語られる。それは、マガダ国にプラブ・チトロダルモの娘で、デウィ・チトロワティの名を持つ美しい娘がいるとのことだった。多くの王たちが求婚したが、その美しい娘はいまだ返答を与えていないとのことだった。
 プラブ・アルジュノソスロはかくて、召し抱えたばかりのバンバン・スマントリをその娘への求婚の使者として使わした。その成功の故、バンバン・スマントリは大臣の地位を与えられ、パティ・スウォンドの称号が与えられた。デウィ・チトロワティは、スマントリが、これも求婚者である、プラブ・ダルモワセソとラクササ・ジョンギルパクソを殺すことができたなら、その求婚の申込に応えるといった。
 スマントリはロモ・バルガウォの恩恵と援助によって二人の王を殺すことができた。デウィ・チトロワティがアルジュノソスロに身を委ねる前に、スマントリはその王、アルジュノソスロバフに挑戦した。一騎打ちが起こった。スマントリは敗れた。
 罰としてスマントリは大臣の職を解かれた。そして、スリウェダリの花園をマガダからマエスパティに移すことができたなら再び仕えることを許されるということとなった。 スマントリの弟スコスロノの手助けによって、タマン・スリウェダリはマエスパティ王国に移された。しかし、スコスロノは花園に留まっていた。スマントリは彼の弟が花園に留まることを快く思わず、ついには故意ではなかったが、彼を殺してしまった。
 このわりと有名なラコンは、またSumantri Ngeger(スマントリの仕官)とも呼ばれる。

ドソムコ捕虜になる Dasamuka Bandan
 あるいはスマントリの戦死Sumantri Gugur


 ラコン・パクムに属し、ロコポロ・シリーズの一部を成す。このラコンではアルンコのプラブ・ドソムコがプラブ・アルジュノソスロバフの手中にあるデウィ・チトロワティを奪う目的でマエスパティ王国を攻撃する物語が展開する。道半ばにおいて、国境近くの河の岸辺でプラブ・ドソムコはアルンコの部隊をまずは休息させた。
 突如、河の水が溢れアルンコ軍の陣営に至った。ドソムコは怒り、その洪水の原因と成れる者を探した。あきらかにその洪水の原因となれるのは即ちプラブ・アルジュノソスロの身体であった。その身体はトリウィクロモし、その水がせき止められるほどに河を横切っていた。報告によればデウィ・チトロワティはその河で遊泳を楽しんでいるとのことであった。
 パティ・スウォンドはプラブ・アルジュノソスロバフを攻撃しようとのドソムコの目論見を阻止しようと努めた。スマントリまたの名をパティ・スウォンドは遂には、故無く殺された彼の弟、スコスロノの魂の入ったプラブ・ドソムコの牙によって戦死した。
 パティ・スウォンドの死はアルジュノソスロバフを怒らせた。超能力の矢コロマンガストで彼はドソムコを捕らえた。アルンコ国王はマエスパティに連行され、広場にさらし者とされた。パティ・プラハストの懇願により、遂にプラブ・アルジュノソスロバフはもう再び残虐なる行為をしてはならないとの条件でドソムコを解放した。
 このラコンはまたSumantri Gugur(スマントリの戦死)あるいはArjunasasaro Cangkrama Samoda(アルジュノソスロ女たちと遊興す)とも呼ばれる。

2.クムボカルノの物語
クンボカルノの生涯 Banjaran Kumbakarna

 ブガワン・ウィスロウォと妻デウィ・スケシは悲しんだ。彼らの二人の子がラクササ姿であったからである。長男にはドソムコの名が与えられた。次男は巨漢のラクササでクムボカルノと名付けられた。さらに三人目の女の子も、その姿はラスクシ(女ラクササ)であった。この子にはサルポクノコの名が与えられた。四人目にやっと立派な武将が産まれ、グナワン・ウィビソノと名付けられた。
 成長を待って、四人の兄弟たちは各々の目的で森での苦行に入った。他の兄弟と同様にクムボカルノは何年にも渡って苦行した。ついにバトロ・ナロドが降下した。その神に、クムボカルノは最初、千年生きて、地上の食べ物の滋味を味わいたいと願った。ナロドはその望みを満たすことを認めた。しかし、人が長く生きれば、それだけ罪を犯す機会も増えるということを想起させた。また長く生きる事が歳をとらないという事を意味するわけではない。だんだんと歳を取り、身体もだんだん弱くなり、食べ物を味わう味覚も損なわれるのだ、と。
 これを聞いて、クムボカルノは気が付いた。かくて彼はその願いを変更した。彼は誰にも邪魔されずに長く眠れますように、と願った。バトロ・ナロドはその願いに同意した。
 プラブ・ドソムコがデウィ・シントを誘拐した時、クムボカルノとグナワン・ウィビソノは兄に過ちを気付かせようと努めた。彼らはドソムコに、すぐにデウィ・シントを解放し、その夫、ロモウィジョヨに返すようにと意見した。この意見を聞いてドソムコは怒った。
 クムボカルノとグナワン・ウィビソノは罵られ、長兄の誹りに耐えかねてクムボカルノはパングルブルゴンソの屋敷に帰り、眠ってしまった。彼はロモウィジョヨを手助けする猿の軍団とアルンコ軍との戦いが勃発しても起きようとしなかった。
 アルンコの多くの兵や司令官が戦死し、プラブ・ドソムコは息子インドラジトに、クムボカルノを起こすよう命じた。クムボカルノはここに至ってもまだ目覚めていなかった。インドラジトは足の親指の毛(ウルチュムブ)を引き抜くことで、クムボカルノを目覚めさせた。インドラジトはプラブ・ドソムコがクムボカルノの伺候を求めていると語った。
 王宮に着き、クムボカルノはまず、千のトゥムペン(ご飯を円錐状に盛ったもの)と九頭の象の肉を用いたインクン(通常は鶏肉などを用いた料理の一種)を所望した。
 王宮に着くと、ドソムコは、クムボカルノに猿の軍団との戦場へ赴く事を求めた。クムボカルノは拒否した。この戦争はドソムコの強欲が引き起こしたものだから、と。
 激怒したドソムコは、弟を食うだけの役立たずで、国の運命を心に懸けぬ者だと罵った。
 これを聞き、クムボカルノはその超能力で今まで食べたもの全てを、完全に新鮮なまま吐き出した。そして言った。戦場へ行こう、しかし強欲にまみれたドソムコの行為を擁護するためではない、と。「私は祖国、アルンコのために戦場に行き、敵と対峙し闘う。」と彼は言った。
 純白の衣服で決意を固めてクムボカルノは戦場に立った。クムボカルノが暴れ回り、猿軍には多大な犠牲が出た。クムボカルノとの一騎打ちは困難で、やむを得ずロモウィジョヨ(ロモ)とラクスマナ(レスモノ)が戦場に立った。二人はそのラクササに雨のごとく矢を降らせた。ロモとラクスマナの矢に当たり、まずクムボカルノの両腕が射切られた。しかし痛みを気に掛けず、堪えて、クムボカルノは未だ生贄を求めた。両の脚が蹴り上げられ、猿兵の多くが踏みつけられた。ロモとラクスマナは矢の攻撃を続けた。かくてクムボカルノの両足が射切られた。しかしこのラクササは未だ降伏しなかった。脚も手も無く、身体を転がしながら、彼はまた多くの猿兵を殺した。ロモとラクスマナはやむなく矢の狙いをクムボカルノの首に定めた。後に、戦死したクムボカルノは祖国の英雄と讃えられた。
 クムボカルノの妻は天界のビダダリで、デウィ・アスワニといった。ドソムコがそのビダダリを妻としてクムボカルノに与えたのである。この結婚でクムボカルノは二人の息子、アスワニ・クムボとクムボ・クムボを得た。彼らも父と同じくロモウシジョヨ率いる猿軍との戦いで戦死した。
 クムンボカルノの惨い死に様は父、ブガワン・ウィスロウォに対するジャムブマンリの呪いに由来する。四十年前、ブガワン・ウィスロウォはジャムブマンリを惨く殺した。両の手脚を切り落としたのである。その時、ジャムブマンリは呪った。いつの日かウィスロウォの息子もまた自分のように死ぬのだ、と。
 死後クムボカルノの魂は天界の扉を見出せなかった。何年もの後、ついに苦行者になった弟と出会った。
 グナワン・ウィビソノに、クムボカルノは生の完全性への道を示してくれるよう求めた。ウィビソノはクムボカルノの魂に、ビモの左腿に入るよう、教えた。
 バラタユダ最後の日、ビモはドゥルユドノと一騎打ちに及んだ。ビモの腿にスユドノのゴド(棍棒)が当たった。その時、クムボカルノの魂は完全なる世界へと飛び去ったのである。

カルノの生涯 Banjaran Karna

 ある日、マンドゥロ国の王女クンティが未婚のまま妊娠した。それは、読み上げた神を招聘する呪文のおかげであった。かくてバトロ・スルヨが到来し、ひとりの子を賜り、デゥイ・クンティは突如妊娠するに至ったのである。
マンドゥロ国での過ちを隠し、クンティの純潔を守るため、その子供は耳から産まれさせられた。その赤ん坊がカルノ(耳の意)と名付けられた所以である。
 その後その子はガンゴ河に流され、アスティノ国の馭者、アディロトに見出され、養育された。
 成人に達した頃、アスティノではドゥルノ師の弟子たちの力量を量る、ソコリモの弟子たちの武芸大会が催された。カルノは大会場に乱入し、アルジュノに挑戦した。カルノの挑戦はビモにより、カルノが身分の低い者であるという理由で拒まれた。これを見たドゥルユドノはすぐさまカルノをアウォンゴの王に任じた。これでカルノの挑戦を拒む理由は無くなった。
 アルジュノとカルノはかくて烈しい一騎打ちに及び、ついにナロド神によって引き分けられた。カルノがパンダワの年長の兄弟であることが知らされたが、カルノはコラワ側についた。
 パンダワとコラワの間にバラタユダの戦いが起こった時、カルノはコラワの側につき、ついにはアルジュノに斃された。

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 愛する弟を犠牲にしてハルジュノ王に仕え、超弩級の魔王ラウォノを相手にして命を散らすスウォンド。兄ラウォノの強欲を是としないながらも、祖国のために殉じるクムボカルノ。身寄り無き身に地位と名誉を与えてくれたスユドノ王のため、実の兄弟たちと対立し、弟アルジュノの手にかかって戦死するカルノ。三人それぞれが、悲しみを背負いながらも自己の誓いと忠誠に殉じ、その命を散らす。「スラット・トリポモ」はワヤンの物語のそれぞれの時代、プレ・ラマヤナ(ラマヤナ以前)、ラマヤナ、マハバラタの三つの時代から各々一人づつ、実にうまく三人を選んでいると言える。
 さて、こうして三人の英雄の生涯を顧みてみると、彼らの物語にはある共通点が見出せる。それは兄弟殺しのプロットである。
 スマントリは弟スコスロノの犠牲を経て仕官する。スマントリは醜い化け物を排除するように、との王命にしたがい、誤ってではあるが、自らの手で弟スコスロノを殺す。
 カルノは逆に王権奪取を目指すパンダワのために自らを犠牲にする。カルノは自らの誓いに殉じてコラワに味方するのだが、キ・ナルトサブドの語りによれば、その裏にはカルノの真意が隠されており、彼はコラワを鼓舞し、戦場に引きずり出すことで、パンダワの正当性を戦場で立証しようとするのである。「プラブ・ドゥルユドノにあえてバラタユダの戦いを戦うよう、私はつねにそそのかしつづけてきたのです。(中略)もし怯儒のドゥルユドノがバラタユダを回避しようとしたならば、パンダワは永久にアスティノ国はおろかインドロプラストも手中にすることならず、その〈コラワの〉強欲はなお地にはびこり、世の悲惨の失せることはありますまい(松本亮「マハーバーラタの蔭に」121〜122頁)」。つまり彼は自ら兄弟殺しをパンダワにさせることで、パンダワの王権奪取を成就させようとするのである。
 クムボカルノはやや様相が異なり、彼はキ・ナルトサブドの解釈によるカルノとは逆に、自身の王を諌め続けるが、その甲斐無く、しかし祖国への忠誠のため、自身を犠牲に供する。だがこれも、ロモとラウォノによる正当王統の覇権争いとしてラマヤナを眺めるなら、ラウォノは王権維持のため、弟を犠牲に供する王であるとも言える(王権の維持は適わなかったが)。
 これらの物語は身内・兄弟の争いでもあったディポネゴロ戦争に参加したマンクヌゴロ四世にとって、自らの一族の運命を重ね合わせるに十分な物語でもあった。マンクヌゴロ四世は三人の英雄をサトリヨ(クシャトリア=武将・戦士)の鑑と詠い上げ、彼らの魂に鎮魂の祈りを捧げる。「スラット・トリポモ」はクサトリアの手本を掲げる書でありながら同時に、これら兄弟のため、犠牲として捧げられた者たちへの鎮魂のレクイエムでもあるのだ。
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by gatotkaca | 2012-09-26 01:16 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

スラット・トリポモ 付記:マンクヌゴロ四世

 プルワディ著「ジャワの古典文学」("Kitab Jawa Kuno" oleh Dr.Purwadi, M.Hum ; PINUS BOOK PUBLISHER, 2006 ) は14のジャワ文学の古典を紹介している。この第14章で「スラット・トリポモ」を紹介し、解説してくれているので下記に訳す。さらに付記としてこの書の作者とされている、マンクヌゴロ四世のWikiも訳しておく。

「スラット・トリポモ SERAT TRIPAMA 」

1.真の兵士たる教え

ダンダングロ (Dhandhanggula=詩形式の一種)

Yogyanira kang para prajurit
Lamun bisa sira anulada
Duk inguni caritane
Andelira Sang Prabu
Sasrabahu ing Maespati
Aran Patih Suwanda
Lelabuhanipun
Kang ginelung tri pakara
Guna kaya purun ingkang den antepi
Nuhoni trah utama

Lire lelabuhan tri prakawis
Guna ; bisa saniskareng karya
Budi dadya nanggule
Kaya sayektinipun
Duk bantu prang Magada Nagri
Amboyong putri dhomas
Katur ratunipun
Purune sampun tetela
Aprang tandhing lan ditya Ngalengka nagri
Suwanda mati ngrana

Wonten malih tuladhan prayogi,
Satriya gung negari Alengka
Sang Kmbakarna arane
Tur iku warna ditya
Suprandene nggayuh utami
Duk wiwit prang Alengka
Dennya darbe atur
Mnring saka amrih raharja
Dasamuka tan keguh ing atur yekti
Dene mungsuh wanara

Kumbakarna kinen mengsah jurit
Mring kang raka sira pan ngelenggana
Nglungguhi kasatriyane
Ing tekad datan sujud
Amung cipta labuh negari
Lan noleh yayah rena
Myang leluhuripun
Wus mukti aneng Alengka
Mangka arsa rinusak ing bala kapi
Punapi mati ngrana

Wonten malih kinarya palupi
Suryaputra Narpati Ngawangga
Lan yayah tunggil ibu
Suwita mring Sang Kurupati
Aning nagri Ngatina
Kinarya gul-agul
Manggala golonganing prang
Bratayuda ingadegken senapati
Ngalaga ing Kurawa.
Den mungsuhken kadange pribadi
Aprang tanding lan Sang Dananjaya
Sri Karna suka manahe
De gonira pikantuk
Marga dennya arsa males sih
Ira Sang Duryudana
Marmanta kalangkung
Dennya ngetog kasudiran
Aprang rame Karna mati jinemparing
Sumbaga wiratama.

Katri mangka sudarsaneng jawi
Pantes sagung kang para prawira
Amirida sakadare
Iung lelabuhanipun
Ajwa kongsi burang palipi
Menawa sibeng nista
Ing estinipun
Senadyan sekadhing buda
Tan prabeda budi panduming dumadi
Marsudi ing kotaman


2.グノ・コヨ・プルン Guna Kaya Perun

おお、兵士たちよ、なすべきは
彼の人に倣うこと
古の物語
マエスパティ国の聖なる王
ハルジュノソスロの右腕たる
その名はパティ・スウォンド
彼の人は献身の糧として
三つのことを身に付けた
グノ、コヨ、そしてプルンをつねにそなえていたのだ
最上の人間たる者として

献身の糧となる三つのこと
グノ、それは
つねに成功への努力を怠らぬこと
コヨ、その真実は
マゴド国と戦う司令官となったとき
彼はプトリ・ドマス(八百人の王女)を手に入れ
王に捧げたこと
プルン、それは明らかに、アルンコのラクササとの戦いで
スウォンドが戦場に散ったこと

もう一人の良き手本
アルンコの偉大な武将
サン・クムボカルノがその名
その姿はラクササ
されどその心は高貴なり
アルンコの戦が起こりし時
彼は兄に言った
国の安寧を護るためのみ我は戦う
ドソムコは圧倒され
彼は猿どもと戦った

クムボカルノは兄から命を受け
戦場に赴くことを拒まなかった
彼はクサトリア(武将)の魂を持ち
(ドソムコの強欲に)
その心を売り渡すことはなかった
されど故国を護るため
彼を育ててくれたアルンコ国と
祖先と父母への思いを忘れず
今や猿の軍隊に滅されることを望み
戦のうちに斃れることを善しとした

見習うべきもう一人
アウォンゴのナルパティ、スルヨプトロ
パンダワのもう一人の兄弟
父は違えど母は同じ
アスティノ国の
サン・クルパティに仕えし者
戦闘指揮官の誇りを賭けて
大戦争バラタユダでセノパティ(戦闘指揮官)となり
コラワの側に立つ

自らの弟サン・ダナンジョヨと対峙して
一騎打ちを挑む
スリ・カルノの心は晴れやかだ
サン・ドゥルユドノと交わした
友情に報いる道であるがゆえ
それゆえ彼は超能力の限りを尽くし
烈しく戦いそして矢を受け斃れる
最上の戦士としての祝福の中で

この三人がジャワ(ヌサンタラ)の人々の手本となる
すべての戦士たちの目指す者
彼らに倣いて
身を捧げよ
模範たる彼らを忘れるなかれ
侮られ、軽んじられた時に
古の志といえど
人の心に違いなどあろうはずがない
真実を求める道に

3.スリ・マンクヌゴロ四世

 スラカルタのスリ・マンクヌゴロ四世は国民的偉大な遺産を残した。それは「トリポモの書 Serat Tripama 」である。この書は戦士、国民の最上の手本として三人の人物を掲げ、詩の各連で彼らの人生と奮闘を詠い上げている。
 模範として挙げられている人物で興味深いのはパティ・スウォンドである。パティ・スウォンドは、幼い日の名をバムバン.スマントリといい、ブガワン・スウォンドグニ Begawan Suwandaguni の息子である。成長して後、彼はマエスパティ国王プラブ・ソスロバウに仕える。国の臣として彼は精神と肉体を賭して忠誠心を示すのである。
 マンクヌゴロ四世がパティ・スウォンドに捧げた讃歌は次のようなものである。

Yogyanira kang para prajurit
Lamun bisa sira anulada
Duk inguni caritane
Andelira Sang Prabu
Sasrabahu ing Maespati
Aran Patih Suwanda
Lelabuhanipun
Kang ginelung tri pakara
Guna kaya purun ingkang den antepi
Nuhoni trah utama

Lire lelabuhan tri prakawis
Guna ; bisa saniskareng karya
Budi dadya nanggule
Kaya sayektinipun
Duk bantu prang Magada Nagri
Amboyong putri dhomas
Katur ratunipun
Purune sampun tetela
Aprang tandhing lan ditya Ngalengka nagri
Suwanda mati ngrana

おお、兵士たちよ、なすべきは
彼の人に倣うこと
古の物語
マエスパティ国の聖なる王
ハルジュノソスロの右腕たる
その名はパティ・スウォンド
彼の人は献身の糧として
三つのことを身に付けた
グノ、コヨ、そしてプルンをつねにそなえていたのだ
最上の人間たる者として

献身の糧となる三つのこと
グノ、それは
つねに成功への努力を怠らぬこと
コヨ、その真実は
マゴド国と戦う司令官となったとき
彼はプトリ・ドマス(八百人の王女)を手に入れ
王に捧げたこと
プルン、それは明らかに、アルンコのラクササとの戦いで
スウォンドが戦場に散ったこと

 この詩句のうちにはパティ・スウォンドの戦士としての三つの資質を見ることができる。
a.グノ:専門家、賢人、達人を意味する。国家や民族に対する献身において、スウォンドはつねに知識と技術を研鑽し続けた。彼の成功は偶然や幸運ではなく努力によるものなのである。
b.コヨとは豊かなること、満ち足りていることを意味する。パティ・スウォンドは王の遣わされた際には、多くの戦果と報酬を得て戻って来た。彼が得た戦利品は独り占めすること無く、国に委ねられたのである。
c.プルンとは勇敢で、活気に満ち、国に対して積極的に働くことを意味する。スウォンドは見返りを求めること無く、つねに燃えるような情熱をもって働いた。その身と魂を犠牲にすることも厭わなかったのである。そしてアルンコ国王ドソムコとの戦いで戦場に散ったのであった。

4.国家守護の概念

 二番目の英雄はラデン・クムボカルノである。彼はアルンコ国王プラブ・ドソムコ(ラウォノ)の弟である。ラデン・クムボカルノはその姿はラクササだが、姿と異なりその精神は悪ではない。彼の祖国への愛はトゥムバン (tembang=詩・歌)の中でこのように描かれている。

Wonten malih tuladhan prayogi,
Satriya gung negari Alengka
Sang Kmbakarna arane
Tur iku warna ditya
Suprandene nggayuh utami
Duk wiwit prang Alengka
Dennya darbe atur
Mnring saka amrih raharja
Dasamuka tan keguh ing atur yekti
Dene mungsuh wanara

Kumbakarna kinen mengsah jurit
Mring kang raka sira pan ngelenggana
Nglungguhi kasatriyane
Ing tekad datan sujud
Amung cipta labuh negari
Lan noleh yayah rena
Myang leluhuripun
Wus mukti aneng Alengka
Mangka arsa rinusak ing bala kapi
Punapi mati ngrana

もう一人の良き手本
アルンコの偉大な武将
サン・クムボカルノがその名
その姿はラクササ
されどその心は高貴なり
アルンコの戦が起こりし時
彼は兄に言った
国の安寧を護るためのみ我は戦う
ドソムコは圧倒され
彼は猿どもと戦った

クムボカルノは兄から命を受け
戦場に赴くことを拒まなかった
彼はクサトリア(武将)の魂を持ち
(ドソムコの強欲に)
その心を売り渡すことはなかった
されど故国を護るため
彼を育ててくれたアルンコ国と
祖先と父母への思いを忘れず
今や猿の軍隊に滅されることを望み
戦のうちに斃れることを善しとした

 クムボカルノのキャラクターを評価する上で注意しなければならぬことがある。それはドソムコの弟としてのクムボカルノの役割と、一個のクサトリアとしてのクムボカルノの役割を分けて考えることである。
 クムボカルノは猿の兵団を相手に戦った。それは兄の誤った目的とは異なる志によるものである。彼は兄の考え方、性格には全く同意しなかった。彼が戦ったのは専らクサトリアとして、また国民としての義務を果たすためであったのだ。クムボカルノの選択にはナショナリズムの感性を見出すことができよう。このような本質は「wrong raight my country(我々の国は正しいか間違っているかのどちらかだ)」という名言にも反映されている。(*)
(*)[「我々の国は正しいか間違っているかのどちらかだ。正しいとすれば、正しいことを守って行かねばならない。間違っているとすれば、正しくせねばならない。」(カール・シュルツ(英:Carl Schurz,1829年3月2日 - 1906年5月14日)の有名な発言。彼はドイツの革命家であり、アメリカ合衆国の政治家、改革者および南北戦争の時にアメリカ陸軍将軍。著作家、新聞の編集者およびジャーナリストでもあり、1869年にはドイツ生まれのアメリカ人としては初めてアメリカ合衆国上院議員に選ばれた。]
 いかなる理由があろうとも、祖国は守らねばならない。そこは父母と祖先の地であり、自らが生まれ、そして埋葬されるべき場所だからである。

5.誓いの遵守

 アディパティ・カルノはデウィ・クンティとバトロ・スルヨの息子である。それゆえ、彼はスルヤトモジョ、またスルヨプトロとも呼ばれる。いっぽうデウィ・クンティはプラブ・パンデゥ・デウォノトとの間にプントデウォ、ウルクドロ、そしてアルジュノをもうけた。血統としては明らかにアディパティ・カルノはプンドウォの父違いの兄弟である。けれど成長してのち、彼自身はアスティノ国に仕えた。彼の軍人としての志はトゥムバンで次のように描かれている。

Wonten malih kinarya palupi
Suryaputra Narpati Ngawangga
Lan yayah tunggil ibu
Suwita mring Sang Kurupati
Aning nagri Ngatina
Kinarya gul-agul
Manggala golonganing prang
Bratayuda ingadegken senapati
Ngalaga ing Kurawa.
Den mungsuhken kadange pribadi
Aprang tanding lan Sang Dananjaya
Sri Karna suka manahe
De gonira pikantuk
Marga dennya arsa males sih
Ira Sang Duryudana
Marmanta kalangkung
Dennya ngetog kasudiran
Aprang rame Karna mati jinemparing
Sumbaga wiratama.

見習うべきもう一人
アウォンゴのナルパティ、スルヨプトロ
パンダワのもう一人の兄弟
父は違えど母は同じ
アスティノ国の
サン・クルパティに仕えし者
戦闘指揮官の誇りを賭けて
大戦争バラタユダでセノパティ(戦闘指揮官)となり
コラワの側に立つ

自らの弟サン・ダナンジョヨと対峙して
一騎打ちを挑む
スリ・カルノの心は晴れやかだ
サン・ドゥルユドノと交わした
友情に報いる道であるがゆえ
それゆえ彼は超能力の限りを尽くし
烈しく戦いそして矢を受け斃れる
最上の戦士としての祝福の中で

 カルノがなぜクロウォ方に味方したのか疑問に思うかもしれない。虚栄心に満ち、人を誹謗し、ずる賢いクロウォたちの褒められない性格を知っているからだ。だがカルノ自身もそのことを分かっていたということを知る必要がある。誓いを護るクサトリアの志に殉じて、彼は表向きはクロウォに進んで仕えた。しかしその心の内ではプンドウォたちの優秀さや美徳を認めていた。それゆえ、カルノの真価を評するには注意を要するのである。部分を見るだけで、物語全体に内包される哲学を誤解してはならないのだ。
 「スラット・トリポモ」のダンダングロのトゥムバンの最後の一節は次のようなものである。

Katri mangka sudarsaneng jawi
Pantes sagung kang para prawira
Amirida sakadare
Iung lelabuhanipun
Ajwa kongsi burang palipi
Menawa sibeng nista
Ing estinipun
Senadyan sekadhing buda
Tan prabeda budi panduming dumadi
Marsudi ing kotaman

この三人がジャワ(ヌサンタラ)の人々の手本となる
すべての戦士たちの目指す者
彼らに倣いて
身を捧げよ
模範たる彼らを忘れるなかれ
侮られ、軽んじられた時に
古の志といえど
人の心に違いなどあろうはずがない
真実を求める道に

 「スラット・トリポモ」の最後はこのように詠われている。既に述べた資料、分析に注意してまとめてみたい。
a.国民の各々が祖国守護の責務を負う。
b.愛国と祖国守護の義務に関する教えは、伝統的表現の中に見出せるものである。
c.慎重にそして注意深く、確たる信念を持って正邪を見分けなければならないという価値基準が内包されている。
d.民族と国家にとっての重要事項は、個人や部分社会の重要事項に勝る。
e.民族と国家の重要事項に対しては、魂、財産、身体をすすんで犠牲にしなければならない。

………………………………………………………………………………………………………………………
付記

マンクヌゴロ四世

 カンジェン・グスティ・パンゲラン・アディパティ・アルヨ・マンクヌゴロ四世 Kanjeng Gusti Pangeran Adipati Arya Mangkunegara Ⅳ (KGPAA Mangkunegara Ⅳ ) は1811年3月3日(ジャワ歴1738年サパル Sapar 月8日スニン(火曜)・パイン Senin Pahing ウィンドゥ Windu はサンチョヨ Sancaya )に生まれた。幼名をラデン・マス・スディロ Raden Mas Sudira という。父の名はKPH・アディウィジョヨ一世(kanjeng Pangeran Harya Adiwijaya )、母はKGPAA・マンクヌゴロ二世の王女、ラデン・アジェン・スケリ Raden Ajeng Sekeli である。ラデン・マス・トゥムングン・クスモディニングラト Raden Mas Tumenggung Kusumadiningrat の息子、KPH・アディウィジョヨ一世が、スリ・ススフナン・パクブウォノ三世 Sri Susuhunan Pakubuwono Ⅲと養子に迎えられたので、R・A・スケリはKGPAA・マンクヌゴロ二世の娘となり、R・M・スディロの血統がKGPAA・マンクヌゴロ二世の孫、スリ・ススフナン・パクブウォノ三世の曾孫となった。また彼は、VOC(オランダ東インド会社)と戦って戦死し、「Pangeran seda ing lepen abu 」の呼び名で知られる、K・P・A・アディウィジョヨ・カルトスロの曾孫でもある。彼の治世は1853年から1881年である。

伝記
 子供時代よりスディロは高い知性の持ち主として有名であった。「ババッド・マンクヌゴロ四世 Babad Mangkunegara Ⅳ 」には彼が誕生した際のエピソードが記されている。R・M・スディロは祖父のKGPAA・マンクヌゴロ一世から、養子とするために息子を望まれていた。幼かった子はプライヴェートな教育のみで、まだ公式の教育を受けていなかった。R・M・スディロはKGPAA・マンクヌゴロ二世から招聘されたオランダ人たちの指導を受け、またK・P・プランワドノ三世 Prangwadana Ⅲ となることを定められていたパンゲラン・リヨ Pangeran Riya の勧めもあり、R・M・スディロへの教育は特にオランダ語、ラテン文字習得に力を入れて行われた。教師となったのはDr・J・F・C・ゲーリック Gericke とC・F・ヴィンター Winter であった。

 10歳になった時、マンクヌゴロ二世により、カンジェン・パンゲラン・リヨに委ねられ、従兄弟である彼の長男となった。カンジェン・パンゲラン・リヨは引き続きR・M・スディロの教育と指導を任された。

 R・M・スディロはマンクヌガラン王家の風習に則り、軍事教育を受けるにふさわしい年齢として、15歳でマンクヌガラン王立軍の仕官候補生となった。H・F・オークス Aukes 中佐の記したところでは、オランダ・インド政府軍とマンクヌガラン王立軍とでは仕官候補生の教育が異なっていた。王立軍の仕官訓練員は教官ではなく、教練の補助を任されているのみで、ほとんどのことは成年の王立軍士官自身によって教練された。こうして一年間で教育課程に合格し、彼は第五師団の新士官に配属された。
 数ヶ月間の戦場任務の後、彼は父であるKPA・アディウィジョヨ一世が逝去したとの報告を受けた。悲しみにくれた彼は、司令官である祖父、KGPAA・マンクヌゴロ二世に、父の葬儀のため任地から帰還する許可を得なければならなかった。葬儀の後、彼は戦地に戻った。王立軍はパンゲラン・ディポネゴロの反乱軍を破り、反乱軍を率いていたパヌムバハン・スンキ Panembahan Sungki を捕縛した。
 パンゲラン(皇太子)となった彼は、KPH・ゴンドクスルモ Gandakusurma の称号を授けられた。彼はR・Ay・スミ Raden Ayu Semi と結婚し、14人の子をもうけた。間もなく1853年、KGPAA・マンクヌゴロ三世が逝去し、彼はKGPAA・マンクヌゴロ四世として即位した。即位後一年弱の年、マンクヌゴロ三世の臣下(ダレム dalem )の娘、R・Ay・ドゥヌク Dunuk と結婚した。

業績
 即位後、マンクヌゴロ四世はコロマドゥ Colomadu (スラカルタ市の北西海岸の地)とタクシマドゥ Taksimadu に製糖工場を設立し、ソロ〜スマラン間の鉄道建設の一環として、ソロ・バラパン Solo Balapan 駅を設立して都市間の流通基盤の発展に貢献した。また彼は約42作の書を著した。なかでも「スラット・ウェドトモ Serat Wedhatama 」は著名である。マンクヌゴロ四世は1881年に逝去され、マンクニゴロ王家の墓所、アストノ・ギリラユ Astana Girilayu に埋葬された。彼の治世はマンクヌガラン王家の最盛期であると語られる。
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by gatotkaca | 2012-09-23 00:58 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

モチョパット macapat とは?

 ガムラン(ジャワの古典民族音楽の一種)に詳しい人は良くご存知だろうし、いまさらなのだが、「スラット・トリポモ Serat Tripama 」の解説を紹介する前に、とりあえずジャワの伝統的詩形式、モチョパット macapat について解説しておこうと思う。Wikipedia bahasa Indonesia /macapat の項の記載をまとめておく。最後の参考文献もWiki が挙げていたものである。現地でジャワの人の発音を聞くと最後の t が落ちてモチョパに聞こえるのだが、ここではモチョパットと表記しておく。

モチョパット Macapat

 モチョパットとはジャワの伝統的詩形式、歌謡(トゥムバン tembang)形式のひとつである。各連の詩句はゴトロ(ガトラ) gatra と呼ばれ、各ゴトロの音節数(グル・ウィランガン guru wilangan )が定められている。歌謡で歌われる場合はグル・ラグ guru jagu という。モチョパットの名称はバリ、ササク、マドゥラ、スンダといった他の文化圏にも見られる。さらにパレムバンやバンジャルマシンといった地域にもかつては存在した。ふつうモチョパットの語は「モチョ・パパット・パパット maca papat-papat (四音節づづ読む)」を意味すると考えられている。これは、かつては四音節で構成されていた名残りであるといわれる。語源に関しては他の解釈もある。モチョパットはモジョパイト王国末期、ワリ・ソゴの活動の影響から生まれたと考えられている。しかしこれは中部ジャワの状況に限定されている。であるから、東部ジャワやバリ島では、モチョパットはイスラム到来以前から知られていたといわれている。

 マタラム新王国時代からモチョパットの形式 metrum を用いたジャワ古典文学の作品が一般に書かれるようになった。散文形式(ガンチャラン gancaran という)は一般的には文学作品には用いられず、「目次 daftar isi 」のみに見られる。トゥムバン・モチョパットの形式で書かれたジャワ文学の例として、「スラット・ウェドトモ Serat Wedhatama 」、「スラット・ウランレー Serat Wulangreh 」や「スラット・コロティド Serat Kalatidha 」が挙げられる。

 ジャワの伝統的詩作品や歌謡(トゥムバン)は一般には三つのカテゴリーに分けることができる。トゥムバン・チリ tembang cilik (短編・小形式)、トゥムバン・トゥガハン tembang tengahan (中編・中形式)、そしてトゥムバン・グデ tembang gedhe (長編・大形式)である。モチョパットはトゥムバン・チリ、もしくはトゥムバン・トゥガハンに分類される。いっぽう、トゥムバン・グデに分類されるものは「カカウィン」(ジャワ古語詩)である。とはいえ、マタラム新王国の時代には、音節の長短を使い分けることは未だ無かった。またトゥムバン・トゥガハンは、中世ジャワ語の伝統詩「キドゥン kidung 」に見出すことができる。〈訳者:この文節やや意味不明。〉

 カカウィンに比べれば、モチョパットの形式はジャワ語により適したものであるといえよう。というのもカカウィンはサンスクリット語に基づいた形式であり、モチョパットと異なり詩句の長短を無視しているからである。〈訳者:文意不明。カカウィンにもメータ meta と呼ばれる定型形式があり、詩句の長短は当然設定されている。〉

語源
 一般的にモチョパットは「モチョ・パパット・パパット maca papat-papat (四音節づづ読む)」を意味するといわれ、四音節を一単位としてしていた名残であるという。これは語源解釈にすぎず、他の解釈もある。ジャワ文学研究者アープス(Bernard Arps)はその著『トゥムバンの二つの伝統 Tembang in two traditions 』において別の意味付けを提示している。
 そこでは「パ pat 」の語は、モチョパットの歌謡に関連して、ジャワ文字の母音記号(サンダンガン sandhangan )の数を参照したものであるという説が挙げられている。〈原著を読んでいないので、現段階では詳細が不明だが、サンダンガンと4という数字の因果関係は不明。〉

 ロンゴワルシト著の「スラット・マルドウォラグ Serat Mardawalagu 」によれば、モチョパットとは「モチョ・パ・ラグ maca-pat-lagu 」(四音づつ歌う)の語が縮まったものであるという。「モチョ・パ・ラグ」の他に「モチョ・ソ・ラグ maca-sa-lagu 」、「モチョ・ロ・ラグ maca-ro-lagu 」、「モチョ・トゥリ・ラグ maca-tri-lagu 」があるという。通説では「モチョ・ソ」は最古の詩で、神によって創られ、詩仙ヴァールミーキに伝えられたといい、クディリ国のヨギスウォロ Yogiswara 王宮の詩人たちによって発展させられたという。
 この問題は今日トゥムバン・グデと呼ばれる形式も含んでいる。トゥムバン・グデに含まれる「モチョ・ロ」では、各ププ pupuh (トゥムバンの連=スタンザ=詩節)は、各連の音節数も四よりも少なく、ヨギスウォロで創作されたものと合致しない。第三の分類であるトゥムバン・トゥガハンの「モチョ・トゥリ」はジャンガラ王宮のプンデト(僧侶)、ルシ・ウィロモコ Resi Wiratmaka によって創作され、パンゲラン・パンジ・イヌカルトパティ pangeran Panji Inokartapati とその兄弟によって完成されたというのが通説である。そして最後にモチョパット、つまりトゥムバン・チリがスナン・ボナン Sunan Bonang (ワリ・ソゴの一人)によって創作され、すべてのワリ(イスラム伝道師)たちに伝えられたという。

モチョパットの歴史

 モチョパットは一般的にはモジョパイト王国末期にワリ・ソゴの影響下で創られたと考えられているが、これは中部ジャワの地域に限定された話である。であるから、東部ジャワやバリ島ではイスラム到来以前からモチョパットが知られていたことになる。バリと東部ジャワで著名な文献として、西暦1334年に完成したといわれる「キドゥン・ランガラウェ Kidung Ranggalawe 」と題されるものが例として挙げられる。この年代記とバリに見られる写本のすべては、より近年のヴァージョンではないかと疑問視されてもいる。

 モチョパットの成立年代に関しては、カカウィンとの関わりから、二つの異なる見解がある。プリヨフトモ Prijohoetomo はカカウィンとトゥムバン・グデの橋渡しとしてモチョパットが成立したとの見解を提出した。この見解はプルボチャロコとズートムルデル Zoetmulder によって否定された。二人によれば、ジャワ起源の詩形式であるモチョパットはカカウィンよりも古い年代に成立したものであり、ゆるやかにインドの影響を受けて形成されて行ったものであるという。〈訳者:ズートムルデルらによれば、サンスクリット語に基づいた雅語である、カカウィンに対して、同時代にすでに現地語であるジャワ古語を用いた詩形式があるていど発展していたという。〉

モチョパットの構成

 モチョパットの文学作品は通常いくつかのププ(詩節・連=スタンザ)に分けることができ、各々のププはさらにいくつかのポド pada (連)に分けることが出来る。各ププには同形の構成が適用される。このムトルム(metrum 形式)は語られるテキストの性質によって決定される。

 ポドの数は各ププによって異なり、使用される文字数に依存する。各ポドはさらにラリ larik (行)またゴトロ gatra (句)に分けられる。各ラリ/ゴトロはさらに音節/ウォンド wanda に分けられる。各ゴトロは定められた音節を持ち、同じメロディーで歌うことができる。

 音節数の適用規則をグル・ウィランガン guru wilangan という。各々のラリ/ゴトロに与えられるメロディーをグル・ラグ guru lagu という。

モチョパットのムトルム(形式)の種類

 主要なモチョパットのムトルム(形式)の数は15種ある。これらのムトルムはトゥムバン・チリ、トゥムバン・トゥガハン、トゥムバン・グデの三つに分類される。トゥムバン・チリに分類されるムトルムは9種、トゥムバン・トゥガハンは5種、トゥムバン・グデは1種である。

モチョパット分類

(1)トゥムバン・チリ/スカル・アリ Sekar alit (9種)

ダンダングロ Dhandhanggula


 ダンダングロはルウェス luwes(美しい・柔軟性がある)性質のムトルムとされる。この形式はワリ・ソゴの一人、スナン・カリジョゴの創案とされる。

ゴトロ数10行 
第1行10音節、脚韻 i
第2行10音節、脚韻 a 
第3行8音節、脚韻 'e 
第4行7音節、脚韻 u 
第5行9音節、脚韻 i 
第6行7音節、脚韻 a 
第7行6音節、脚韻 u 
第8行8音節、脚韻 a 
第9行12音節、脚韻 i 
第10行7音節、脚韻 a

Prajeng Medhang Kamulan winarni (10-i)
narendradi Sri Jayalengkara, (10-a)
kang junebeng nerpatine, (8-'e)
ambek santa budi alus, (7-u)
nata dibya putus ing niti, (9-i)
asih ing wadya tantra, (7-a)
paramarteng wadu, (6-u)
widagdeng mring kasudiran, (8-a)
sida sedya putus ing agal lan alit, (12-i)
tan kenger ing aksara. (7-a)

(訳)
ムダン・カムラン王国の話をしよう
時は偉大なる王、スリ・ジョヨルンコロの時代
彼が王に即位した
穏やかで洗練された思考を持つ人
政(まつりごと)の知に長けた最上の王
兵たちを愛で
女たちを愛する
英雄の魂はゆるぎなく
肉体と精神の働きは目覚ましく
魔術も通じない

マスクマムバン Maskumambang

ゴトロ数4行 
第1行12音節、脚韻 i
第2行6音節、脚韻 a 
第3行8音節、脚韻 i 
第4行8音節、脚韻 a 

Gereng-gereng Gathotkaca sru anangis(12-i)
Sambaté mlas arsa (6-a)
Luhnya marawayan mili (8-i)
Gung tinamêng astanira (8-a)

シノム Sinom

ゴトロ数9行 
第1行8音節、脚韻 a
第2行8音節、脚韻 i 
第3行8音節、脚韻 a 
第4行8音節、脚韻 i 
第5行7音節、脚韻 i 
第6行8音節、脚韻 u 
第7行7音節、脚韻 a 
第8行8音節、脚韻 i 
第9行12音節、脚韻 a

Tyas kumlungkung kumawagya, (8-a)
luwih maning lamun uwis, (8-i)
munggwing luhuring turangga, (8-a)
ngembat watang numbak siti, (8-i)
katon wsthanya kadi, (7-i)
kurang mungsuhing ngapupuh, (8-u)
anyanderaken kuda, (7-a)
mamprung alok cerik-cerik, (8-i)
kang mangkana mung samono notoging prana. (12-a)

キナンティ Kinanthi

 キナンティ形式はガンドゥルン gandrung (恋慕)、ピウラン piwulang (教訓)の性格を持つ。通説ではスルタン・アディ・エルチョクロ Sultan Adi Erucakra によって創案されたという。

ゴトロ数6行 
第1行8音節、脚韻 u
第2行8音節、脚韻 i 
第3行8音節、脚韻 a 
第4行8音節、脚韻 i 
第5行8音節、脚韻 a 
第6行8音節、脚韻 i 

Anoman malumpat sampun, (8-u)

Praptêng witing nagasari, (8-i)

Mulat mangandhap katingal, (8-a)

Wanodyâyu kuru aking, (8-i)

Gelung rusak awor kisma, (8-a)

Ingkang iga-iga kêksi. (8-i)

(ヨソディプロ編纂「スラット・ロモ Serat Rama 」から)

アスモロドノ Asmaradana

ゴトロ数7行 
第1行8音節、脚韻 i
第2行8音節、脚韻 a 
第3行8音節、脚韻 'e 
第4行8音節、脚韻 a 
第5行7音節、脚韻 a 
第6行8音節、脚韻 u 
第7行8音節、脚韻 a 

Aja turu soré kaki (8-i)
Ana Déwa nganglang jagad (8-a)
Nyangking bokor kencanané (8-'e)
Isine donga tetulak (8-a)
Sandhang kelawan pangan (7-a)
Yaiku bagéyanipun (8-u)
wong welek sabar narima (8-a)

ドゥルモ Durma

ゴトロ数7行 
第1行12音節、脚韻 a
第2行7音節、脚韻 i 
第3行6音節、脚韻 a 
第4行7音節、脚韻 a 
第5行8音節、脚韻 i 
第6行5音節、脚韻 a 
第7行7音節、脚韻 i

Damarwulan aja ngucireng ngayuda, (12-a)

Baliya sun anteni, (7-i)

Mangsa sun mundura, (6-a)

Lah Bisma den prayitna, (7-a)

Katiban pusaka mami, (8-i)

Mara tibakna, (5-a)

Curiganira nuli. (7-i)

(ランゲンドリヤン Langendriyan から)

パンクル Pangkur

ゴトロ数7行 
第1行8音節、脚韻 a
第2行11音節、脚韻 i 
第3行8音節、脚韻 u 
第4行7音節、脚韻 a 
第5行12音節、脚韻 u 
第6行8音節、脚韻 a 
第7行8音節、脚韻 i 

Lumuh tukua pawarta, (8-a)

Tan saranta nuruti hardengati, (11-i)

Satata tansah tinemu, (8-u)

Kataman martotama, (7-a)

Kadarmaning narendra sudibya sadu, (12-u)

Wus mangkana kalih samya, (8-a)

Sareng manguswa pada ji. (8-i)

(Haji Pamasa、ロンゴワルシト)

....................................
Mingkar mingkuring angkara, (8-a)

Akarana karenan mardi siwi, (11-i)

Mangka nadyan tuwa pikun, (8-u)

Yen tan mekani rasa, (7-a)

Yekti sepi sepa lir asepa samun, (12-u)

Samangsane pakumpulan, (8-a)
Gonyak ganyuk nglelingsemi. (8-i)

(マンクヌゴロ四世「スラット・ウェドトモ Serat Wedhatama 」から)

ミジル Mijil

ゴトロ数6行 
第1行10音節、脚韻 i
第2行6音節、脚韻 o 
第3行10音節、脚韻 'e 
第4行10音節、脚韻 i 
第5行6音節、脚韻 i 
第6行6音節、脚韻 u 

Jalak uren mawurahan sami, (10-i)

Samadya andon woh, (6-o)

Amuwuhi malad wiyadine, (10-e)

Ana manuk mamatuk sasari, (10-i)

Angsoka sulastri, (6-i)

Ruru karya gandrung. (6-u)
(Haji Pamasa, Ranggawarsita)

ポチュン/プチュン Pocung/pucung

 プチュンは12種のジャワ詩形式(トゥムバン・モチョパ)のひとつで、ひじょうにシムプルな形式である。〈訳者:上記の説明でトゥムバンの種類は12と表記されているが、実際は15種ある。誤植か?〉プチュンはふつうポチュンとも呼ばれる。プチュンは供養の際に歌われるものである。というのも、埋葬のときの死体を意味する「ポチュン pocung 」に近い言葉だからである。またポチュンには、鮮度の良いウォウォハン woh-wohan (果物)という意味もある。また「チュン cung 」の語は面白いクンチュン(前髪の房、髷のようなもの)を想起させる。というわけでこのトゥムバンは面白おかしい内容のパリカン parikan またブデカン bedhekan (tebakan)〈パリカン parikan=2連2節から構成される詩形式。サムピラン sampiran (皆で朗唱する部分)を含む〉として発展した。
 プチュンはクンドゥル kendur (緩い)性格のものであり、物語的クライマックスや内容を持たない。プチュンは特定の規則を持って作られ、語数などがランダムではない。
 トゥムバン・プチュンの規則を下記に記す。
1.グル・ゴトロ Guru gatra=4
この詩は4連(行)の詩句からなる。
2.グル・ウィランガン Guru wilangan=12、6、8、12
各連は上記の音節数で作られる。第一連は12音節、第二連は6音節、第三連は8音節、第四連は12音節となる。
3.グル・ラグ Guru lagu=u, a, i, a
各連の脚韻はu、a、i、a の母音で歌われる。

ゴトロ数4行 
第1行12音節、脚韻 u
第2行6音節、脚韻 a 
第3行8音節、脚韻 i 
第4行12音節、脚韻 a 


Ngelmu iku kelakone kanthi laku (12-u)
Lekase lawan kas (6-a)

Tegese kas nyantosani (8-i)

Setya budya pengekesing dur angkara (12-a)

(2)トゥムバン・トゥガハン/スカル・マディヨ Sekar madya (5種)

ジュルドゥムン Jurudhemung

ゴトロ数7行 
第1行8音節、脚韻 a
第2行8音節、脚韻 u 
第3行8音節、脚韻 u 
第4行8音節、脚韻 a 
第5行8音節、脚韻 u 
第6行8音節、脚韻 a 
第7行8音節、脚韻 u 

「スラット・プラナチトロ Serat Pranasitra 」から

ni ajeng mring gandhok wétan (8-a)
wus panggih lan Rara Mendut (8-u)
alon wijilé kang wuwus (8-u)
hèh Mendut pamintanira (8-a)
adhedhasar adol bungkus (8-u)
wus katur sarta kalilan (8-a)
déning jeng kyai Tumenggung. (8-u)

マンクヌゴロ四世の作品「スラット・スカル・スカラン Serat Sekar-sekaran 」より

cirining serat iberan (8-a)
kebo bang sungunya tanggung (8-u)
saben kepi mirah ingsun (8-u)
katon pupur lalamatan (8-a)
kunir pita kasut kayu (8-u)
wulucumbu Madukara (8-a)
paran margane ketemu (8-u)

ウィランロン Wirangrong

ゴトロ数6行 
第1行8音節、脚韻 i
第2行8音節、脚韻 o 
第3行10音節、脚韻 u 
第4行6音節、脚韻 i 
第5行7音節、脚韻 a 
第6行8音節、脚韻 a 

パクブウォノ四世 Sinuhun Pakbuwana IV 作「スラット・ウラン・レー Serat Wulang Reh 」から

dèn samya marsudêng budi (8-i)
wiwéka dipunwaspaos (8-o)
aja-dumèh-dumèh bisa muwus (10-u)
yèn tan pantes ugi (6-i)
sanadyan mung sakecap (7-a)
yèn tan pantes prenahira (8-a)

バラバ Balabak

ゴトロ数6行 
第1行12音節、脚韻 a
第2行3音節、脚韻 'e 
第3行12音節、脚韻 a 
第4行3音節、脚韻 'e 
第5行12音節、脚韻 u(a) 
第6行3音節、脚韻 'e 

キ・ロンゴワルシト作「スラット・ジョコ・ロダン Serat Jaka Lodhang 」から

byar rahina Kèn Rara wus maring sendhang (12-a)
mamèt wé (3-'e)
turut marga nyambi reramban janganan (12-a)
antuké (3-'e)
praptêng wisma wusing nyapu atetebah (12-a)
jogané (3-'e)

キ・パドモスコチョ Ki Padmosukoco の作品


kabalabak jroning jagad gedhe ana, (12-a)
yektine (3-'e)
jagad cilik sinorotan surya, kembar (12-a)
pandhane (3-e)
soring surya ana gunung gung saguja, (12-a)
blegere (3-'e)


ガムブ Gambuh

ゴトロ数5行 
第1行7音節、脚韻 u
第2行10音節、脚韻 u 
第3行12音節、脚韻 i 
第4行8音節、脚韻 u 
第5行8音節、脚韻 o 

Sekar gambuh ping catur, (7-u)

Kang cinatur polah kang kalantur, (10-u)

Tanpa tutur katula tula katali, (12-i)

Kadaluwarsa katutuh, (8-u)

Kapatuh pan dadi awon. (8-o)

メガトル Megatruh

ゴトロ数5行 
第1行12音節、脚韻 u
第2行8音節、脚韻 i 
第3行8音節、脚韻 u 
第4行8音節、脚韻 i 
第5行8音節、脚韻 o 

キ・ヨソディプロ Ki Yasadipura 作「ババッド・タナ・ジャウィ Babad Tanah Jawi 」から

"sigra milir kang gèthèk sinangga bajul" (12-u)
"kawan dasa kang njagèni" (8-i)
"ing ngarsa miwah ing pungkur" (8-u)
"tanapi ing kanan kéring" (8-i)
"kang gèthèk lampahnya alon" (8-o)

(3)トゥムバン・グデ/スカル・アグン Sekar ageng

ギリソ Girisa

 この形式は雄大(mrebawani)の性格を持つ。このムトルムは同名のカカウィンの形式(メータ Meta )から取られている。

ゴトロ数9行 
第1行8音節、脚韻 a
第2行8音節、脚韻 a 
第3行8音節、脚韻 a 
第4行8音節、脚韻 a
第5行8音節、脚韻 a
第6行8音節、脚韻 a 
第7行8音節、脚韻 a 
第8行8音節、脚韻 a

Dene utamaning nata, (8-a)

Berbudi bawa leksana, (8-a)

Lire berbudi mangkana, (8-a)

Lila legawa ing driya, (8-a)

Agung dennya paring dana, (8-a)

Anggeganjar saben dina, (8-a)

Lire kang bawa leksana, (8-a)

Anetepi pangandika. (8-a)

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参考文献
•(Inggris) Bernard Arps, 1992, Tembang in two traditions: performance and interpretation of Javanese literature. London: SOAS
•(Inggris) Hedi I.R. Hinzler, 1994, Gita Yuddha Mengwi or Kidung Ndèrèt. A facsimile edition of manuscript Cod. Or. 23.059 in the Library of Leiden University. Leiden: ILDEP/Legatum Warnerianum
•(Indonesia) Karsono H. Saputra, 1992, Pengantar Sekar Macapat. Depok: Fakultas Sastra Universitas Indonesia. ISBN 979-8184-02-5
•(Inggris) Th. C. van der Meij, 2002, Puspakrema. A Javanese Romance from Lombok. Leiden: CNWS. ISBN 90-5789-071-2
•(Inggris) Th. Pigeaud, 1967, Literature of Java. Catalogue Raisonné of Javanese Manuscripts in the Library of the University of Leiden and other public collections in the Netherlands. Volume I. Synopsis of Javanese Literature 900 - 1900 A.D. The Hague: Martinus Nyhoff
•(Jawa) Poerbatjaraka, 1952, Kapustakan Djawi. Djakarta: Djambatan
•(Belanda) Prijohoetomo, 1934, Nawaruci : inleiding, Middel-Javaansche prozatekst, vertaling vergeleken met de Bimasoetji in oud-Javaansch metrum. Groningen: Wolters
•(Belanda) J.J. Ras, 1982, Inleiding tot het modern Javaans. Leiden: KITLV uitgeverij. ISBN 90-6718-073-4
•(Indonesia) I.C. Sudjarwadi et al., 1980, Seni macapat Madura: laporan penelitian. Oleh Team Penelitian Fakultas Sastra, Universitas Negeri Jember. Jember: Universitas Negeri Jember.


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 というわけで、次回は「スラット・トリポモ」の解説です。

*本文中のgatraの語の表記が最初ガトロなっていました。ジャワ舞踊家、冨岡 三智さまより「本文でgatraをガトロと読んでいますが、ジャワ語読みするならゴトロ、インドネシア語読みならガトラです。」とのご指摘をいただき、9/20付けで訂正しました。冨岡さんありがとうございます!
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by gatotkaca | 2012-09-20 03:11 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

「スマントリ、スコスロノ兄弟の物語」そして「トリポモ」

日本ワヤン協会公演のお知らせです。
9月29日土曜日午後2時〜午後4時30分
東京家政大学120周年記念館 1階 多目的ホール
「スマントリ、スコスロノ兄弟の物語」(Sumantri Ngeger『スマントリの仕官』)
入場無料

午後1時30分よりランバンサリ有志による歓迎のガムラン生演奏があります。
よろしくお願いいたします。
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 原題を「スマントリの仕官(Sumantri Ngeger)」というこの物語は、ワヤンの主要な物語「ラマヤナ」「マハバラタ」よりもさらに昔の時代、ハルジュノソスロ王の時代を舞台にしています。「スマントリの仕官」のあらすじは次のようなものです。

「スマントリの仕官」
 スマントリは、苦行者ブガワン・スウォンドグニの息子として生まれ、姿美しく頭も良く、武芸にも秀でていた。彼には双子の弟、スコスロノがあった。スマントリの美丈夫ぶりに比して、弟のスコスロノは牙持つラクササ(羅刹)の醜い姿の侏儒であった。それでも二人は仲良く成長していった。
 長じてスマントリはウィスヌ(ヴィシュヌ)神の化身、マエスパティ国王ハルジュノソスロバウに仕官することを夢見て山を降りる。弟スコスロノは兄に追って来ないよう諭されるが、兄の身の上を案じてこっそりついて行く。
 スマントリはハルジュノソスロに仕官を申し出るが、条件を出される。それは、ハルジュノソスロが妃に迎えたいと願うマゴド国の王女、チトロワティの嫁取り競技(サユムボロ)に出て彼女を手に入れて来ることであった。自信無くサユムボロに向かうスマントリの後ろに、彼を案じて手助けしようとする弟スコスロノの姿があった。無敵の呪文を誇るチトロワティの兄、チトロセノと戦うスマントリ。間一髪の危機を人知れずスコスロノが助け、スマントリはチトロワティを獲得し、さらにサユムボロに参加していた国の王女たち、プトリ・ドマス(八百人の王女)を手に入れることに成功する。
 チトロワティをハルジュノ王に捧げようとするスマントリに、チトロワティが難題をふきかける。彼女はハルジュノ王が、スマントリよりも強いことが証明されなければ、王の妃とはならない、と言うのであった。
 スマントリはハルジュノソスロ王に一騎打ちを挑む。烈しい戦いのうち、両者の実力は拮抗しているかに見えたが、ハルジュノ王は怒り、ウィスヌ神の力を顕現して山のように巨大なラクササ、ブラホロとなりスマントリを打ちのめす。王の怒りを受け、スマントリは罰としてチトロワティの願う、マゴド国の庭園「スリウェダリの園」を一塊の土すら残さず、無傷でマエスパティに移すことを命じられる。途方にくれるスマントリにまたしてもスコスロノが助けの手をのばす。スコスロノは自信の超能力で「スリウェダリの園」を掌に収め、みごとマエスパティに移してみせたのである。
 喜びと驚きで園の中に駆け込むチトロワティ、彼女の前に醜いスコスロノが姿を現す。恐れおののいたチトロワティは、ハルジュノ王に化け物を殺してほしいと願う。
 ハルジュノソスロはスマントリに仕官の最後の条件として、その化け物を殺すことを命じる。
 化け物が弟であることを言えず、その殺害を命じられたスマントリは苦悩するが、ついには仕官のために弟を犠牲にすることを決意するのである。兄の手にかかり、死出に赴くスコスロノ。スマントリの耳には弟の魂の声が聞こえて来るのであった。「愛する兄上、スマントリよ。あなたはいつの日か、マエスパティを護るため、アルンコ国王プラブ・ラウォノと戦うこととなる。その時、私の魂はラウォノの牙に宿り、毒となってあなたの命を奪うだろう。そして我らは手を取り合って共に天界へ行くのだ」と。ここにスマントリの仕官は叶い、彼はマエスパティ国の大臣、パティ・スウォンドの名を得るのである。

 パティ・スウォンドはスラカルタの王家マンクヌガランの王、マンクヌゴロ四世の作とされる「スラット・トリポモ Serat Tripama」においても、戦士の手本たる三人の人物の一人に選ばれている。「スラット・トリポモ」はワヤン好きにかぎらず、ジャワでは人口に膾炙した詩で著名である。以下にその全文と訳を紹介する。

Serat Tripama

Yogyanira kang para prajurit
Lamun bisa sira anulada
Duk inguni caritane
Andelira Sang Prabu
Sasrabahu ing Maespati
Aran Patih Suwanda
Lelabuhanipun
Kang ginelung tri pakara
Guna kaya purun ingkang den antepi
Nuhoni trah utama

Lire lelabuhan tri prakawis
Guna ; bisa saniskareng karya
Budi dadya nanggule
Kaya sayektinipun
Duk bantu prang Magada Nagri
Amboyong putri dhomas
Katur ratunipun
Purune sampun tetela
Aprang tandhing lan ditya Ngalengka nagri
Suwanda mati ngrana

Wonten malih tuladhan prayogi,
Satriya gung negari Alengka
Sang Kmbakarna arane
Tur iku warna ditya
Suprandene nggayuh utami
Duk wiwit prang Alengka
Dennya darbe atur
Mnring saka amrih raharja
Dasamuka tan keguh ing atur yekti
Dene mungsuh wanara

Kumbakarna kinen mengsah jurit
Mring kang raka sira pan ngelenggana
Nglungguhi kasatriyane
Ing tekad datan sujud
Amung cipta labuh negari
Lan noleh yayah rena
Myang leluhuripun
Wus mukti aneng Alengka
Mangka arsa rinusak ing bala kapi
Punapi mati ngrana

Wonten malih kinarya palupi
Suryaputra Narpati Ngawangga
Lan yayah tunggil ibu
Suwita mring Sang Kurupati
Aning nagri Ngatina
Kinarya gul-agul
Manggala golonganing prang
Bratayuda ingadegken senapati
Ngalaga ing Kurawa.
Den mungsuhken kadange pribadi
Aprang tanding lan Sang Dananjaya
Sri Karna suka manahe
De gonira pikantuk
Marga dennya arsa males sih
Ira Sang Duryudana
Marmanta kalangkung
Dennya ngetog kasudiran
Aprang rame Karna mati jinemparing
Sumbaga wiratama.

Katri mangka sudarsaneng jawi
Pantes sagung kang para prawira
Amirida sakadare
Iung lelabuhanipun
Ajwa kongsi burang palipi
Menawa sibeng nista
Ing estinipun
Senadyan sekadhing buda
Tan prabeda budi panduming dumadi
Marsudi ing kotaman

(訳)

おお、兵士たちよ、なすべきは
彼の人に倣うこと
古の物語
マエスパティ国の聖なる王
ハルジュノソスロの右腕たる
その名はパティ・スウォンド
彼の人は献身の糧として
三つのことを身に付けた
グノ、コヨ、そしてプルンをつねにそなえていたのだ
最上の人間たる者として

献身の糧となる三つのこと
グノ、それは
つねに成功への努力を怠らぬこと
コヨ、その真実は
マゴド国と戦う司令官となったとき
彼はプトリ・ドマス(八百人の王女)を手に入れ
王に捧げたこと
プルン、それは明らかに、アルンコのラクササとの戦いで
スウォンドが戦場に散ったこと

もう一人の良き手本
アルンコの偉大な武将
サン・クムボカルノがその名
その姿はラクササ
されどその心は高貴なり
アルンコの戦が起こりし時
彼は兄に言った
国の安寧を護るためのみ我は戦う
ドソムコは圧倒され
彼は猿どもと戦った

クムボカルノは兄から命を受け
戦場に赴くことを拒まなかった
彼はクサトリア(武将)の魂を持ち
(ドソムコの強欲に)
その心を売り渡すことはなかった
されど故国を護るため
彼を育ててくれたアルンコ国と
祖先と父母への思いを忘れず
今や猿の軍隊に滅されることを望み
戦のうちに斃れることを善しとした

見習うべきもう一人
アウォンゴのナルパティ、スルヨプトロ
パンダワのもう一人の兄弟
父は違えど母は同じ
アスティノ国の
サン・クルパティに仕えし者
戦闘指揮官の誇りを賭けて
大戦争バラタユダでセノパティ(戦闘指揮官)となり
コラワの側に立つ

自らの弟サン・ダナンジョヨと対峙して
一騎打ちを挑む
スリ・カルノの心は晴れやかだ
サン・ドゥルユドノと交わした
友情に報いる道であるがゆえ
それゆえ彼は超能力の限りを尽くし
烈しく戦いそして矢を受け斃れる
最上の戦士としての祝福の中で

この三人がジャワ(ヌサンタラ)の人々の手本となる
すべての戦士たちの目指す者
彼らに倣いて
身を捧げよ
模範たる彼らを忘れるなかれ
侮られ、軽んじられた時に
古の志といえど
人の心に違いなどあろうはずがない
真実を求める道に

 これはダンダングロというモチョパット形式の詩編として構成されており、特定のメロディーがついて歌うことが出来るもので、トゥムバン・モチョパットと呼ばれるもののひとつである。次回はモチョパットと「スラット・トリポモ」の解説をいたします。
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by gatotkaca | 2012-09-18 03:51 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

夏のおたのしみ会

 去る8月20日から25日まで、毎年恒例のラジオ体操を行う。
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終わると皆にヤクルトを配ります。この日は最終日なので、お土産付き。
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 日にち変わって8月26日には「夏休みおたのしみ会」。
今回は、放下師(大道芸人)の佐藤 雅志さんをお呼びして、ジャグリングとマジックを披露していただいた。(佐藤さんのフェイスブック
 これはディアボロという駒の一種。
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 こちらは傘回し。
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 マジックいろいろ。
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 子どもらと記念撮影。
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 終わってからも子どもらにかこまれ、バルーンのお土産まで作ってくれました。
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 こういった、長年の修行の末に身に付けた芸を見せて頂くことは、子どもらにとっても重要な糧となると思います。佐藤さん、ありがとうございました。
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by gatotkaca | 2012-09-02 00:18 | こども会 | Comments(0)