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木から落ちた猿

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試訳「スマルとは何者か?」 第2章 その6

マハパティ・サンジャヤ Mahapatih Sanjaya としてのスマル

 ワルシト・S Warsit S. 博士は「クバティナン周辺 Di Sekitar Kebatinan 」と題する書の17頁で述べている。
 「ホノチョロコの詩 syair Hanacaraka を創作したのは生粋のジャワ人で学者となり、小乗仏教 Buddha Hinayana の僧侶となったジナノバドロであり、彼はアシン・アルヨ Asing Arya の血筋でアガスティヤのヒンドゥーのマハラジャ、サンジャヤ(723〜744)の時代『エムバン・トゥワンゴノ Emban Twanggana またマハパティ・マンクブミ Mahapatih Mangkubumi 』としての職にあった」
 ジナノバドロまたの名、ダヤン・スマラソントはキヤイ・ルラ・スマルに他ならない。
 ジナノバドロとスマルは本当に同じなのか?もっと掘り下げてみよう。

スマルはジナノバドロであるが、ジナノバドロはスマルではない

ジナノバドロはインドネシア人の学者である

 N・J・クロム N.J. Krom 博士の「ジャワ・ヒンドゥーの歴史 Hindoe Javaansche Seschiedenis 」の103、107頁と、スチプト Sucipto 博士の「ディエン高原のチャンディ Candi Dieng 」の6頁に、以下のようにある。
 「中部ジャワではヒンドゥー教と仏教とが同時に発展し、衝突することがなかった。中国の記録によると、ホ・リン Ho-ling (Hēlíng =訶陵)で、7世紀の仏教文化の中心にあったのは、中流階級の人々であったという。664年〜665年、フイ・ニン Heui-ning(hui-ning=会寧)という僧が3年間滞在した。その仏教僧はインドネシアの大僧正のひとりと共に務めをはたした。中国語でその人物の名は、ジョ・ナ・プ・トロと記されている。つまりジナノバドロである。宗教の諸経典、特にニルワナ(涅槃)とブッダの火葬について翻訳した。
この記録は、中部ジャワがすでにヒンドゥー・ブッダの中心地となっていたこと、そしてインドネシア現地人の学者によって率いられていたことを明らかにする。7世紀の中部ジャワはすでに小乗仏教とヒンドゥー教の中心地となっていた。さらに驚くべきは、8世紀にはすでに長期にわたる発展を経た高度なレベルの建築群が見られることである。」

ジナノバドロはスマルと同一視できない

 現時点での問題は、ジナノバドロとスマルは同じであるのか?ということである。答えは「否」である。スマルはジナノバドロであるが、ジナノバドロはスマルと同一視できるのだろうか? まず証明しなければならないことがある。それはこのようなことだ。虎は動物であるが、動物は虎でなければならないわけではない。
 スマルとジナノバドロは語源解釈のみで決めることはできず、その意味付けは状況によって変化するのである。その理由は、用語が正しく定まり変化しないといえども、年月を経たダラン間における状況において、そこで認識される新しい解釈が現れるからである。スルヤント Soeryanto 博士が引用する「verba valent usu (言葉は使うことができる)」というラテン語のことわざは、用語は状況によって新しい解釈を生み出すという意味である。この問題に答えるために、我々は二つの意見を検討してみたい。N・J・クロム博士の意見と、キヤイ・R・Ng・ロンゴワルシト Kiyai R.Ng.Ranggawarsita の意見である。
 N・J・クロム博士は、西暦664年、インドネシア人学者、ジョ・ナポ・トロつまり「ジナノバドロ」にホリンで3年間「涅槃の諸」の翻訳と理解の教えを受けたフウ・ニンという僧について語っている。
 一方、キヤイ・R・Ng・ロンゴワルシトは、「キタブ・ロジョ・ワトロ kitab Raja Watra 」の14頁において、チョンドロ・スンコロ candra sengkala 「 putra tiga nata barakan (同胞の王の三人の息子)」の示す、ジャワ歴531年、西暦609年に、ジャンガン・スマラソントつまりスマルが、ルシ・マヌモノソ、そしてプトゥット・スパロウォ Putut Supalawa と共に、サプト・アルゴ/チャンディ・ディエンまたウレタウ Wretawu を建設したと述べている。
 このイタブ・ロジョ・プルウォまたロジョ・プルウォはプルボチャロコ Purbacaraka 教授によって、R・Ng・ロンゴワルシト自身の単なるオモン・コソン omog-kosong 、つまり根拠の無い世迷い言にすぎないと断じられ、事実ではないと考えられている。12)(一般的に受け入れられ得る)科学的には、根拠の無いものである。であるから、(ディエンにいた人間としての)スマル自体は存在しなかったということである。
 また、N・J・クロム博士の意見にも、L・C・ダマイス L.C.Damais によって真実性に反論が出ている。バンコクで第九回太平洋学術会議 Pasific Science Conggress が開催された際、ホ・リンは、N・J・クロム博士によって示されたカ・リンとは異なるものであろうとされた。

フウ・ニン Hwu-Ning が瞑想してジナノバドロを見る

 L・C・ダマイスの説が正しければ、N・J・クロム博士の説は誤りであることになる。ジナのバドロ自体はインドネシアに存在しなかった。そうであるならば、ジナノバドロとスマルは同一のものであるが、実在の人物としてインドネシアには存在しなかったということになる。
 この考えによれば、フウ・ニンもまた瞑想を行い(象徴的に)、ジナノバドロ(英知の光)を見出したということになるだろう。これは次のように説かれている。
 「そのとき彼は、手を胸の前で組み、足をまっすぐ伸ばして瞑想に入った。気の九孔を閉ざし、五感を集中して鼻先を見つめた。四元(物質世界)は遠ざけられ、心の内のすべては神に捧げられた。フウ・ニンはあらゆる行為を統制した。誠実に琢磨された最上の魂に育まれ(守られ)た最上の祈願に、自身の全てが捧げられた。かくて彼は秘密の扉を開くことが可能となった。その『望み』において彼は『世界を統べる』秘密を知り、秘密の『光』を見る力を得たのである。ついにフウ・ニンは英知の光、すなわちジナノバドロ、涅槃の輝きを見ることのできる力を得ることに成功したのである。」

ジナノバドロの実態

 先の話、また瞑想、沈思の各々の行為から、祈願する人間は英知の光、すなわち輝く光を受け、遭遇する力をもつということが言える。ゆえにフウ・ニンは仏説を理解し、涅槃経を翻訳しているということは、我々がジナノバドロの実態を探求し、大乗仏教の教典,例えばサン・ヒワン・コモハヤニカン Kamahayanikan を調べる際、重要な関連を持つ。
【訳注】:Sang Hyang Kamahayanikan は散文形式の文学作品である。背面に東部ジャワの王、ムプ・センドック Mpu Sendok (西暦959〜947年)の名が記されている。内容は大乗仏教の仏説および瞑想の方法など。:
 先の書によれば、ジナノ Jnana とは英知また仏陀の身体を意味し(135頁)、バドロ bhadra とは月、光、または光線を意味する。であるからジナノバドロとは英知の光を意味するのである。
 サン・ヒワン・コモハヤニカン教典の90段には以下のように説かれている。
 「これは、その名がヨーガダーラ Yogadhara (ヨーガ教典)のひとつにあり、三つの文字と三つの実態が示されている。アドワヤAdwaya には諸相がある。その名はアドワヤ、そしてアドワヤ・ジナナ Adwaya-Jnana である。アドワヤの名を持つものは、アマ Amah である。アドワヤ・ジナナと名付けられるものは、「存在するが不存在であり、存在と不存在の関係に影響されないものであり、それは具体化し得ないものに収束する。」感覚によって在るとされるものが存在、また感覚によって無いとされるものが不存在であるが、存在と不存在の間に感覚では不存在であるものがある。それは汝が想像力で感じる存在であり、汝の感覚がそのようであれば、それは存在するといえるのである。アドワヤ・ジナナを『存在する』と言うのに迷うことはないのである。」
 上記の段は以下のような図式で結論づけられている。
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 一方91段では以下のように述べられている。
 「アム・アー Am Ah の語には二つの解釈があり、一つは仏陀(その英知)の誕生に由来する。アム・アーとは父であり、一方アドワヤジナナ Adwayajnana はカウンターパート(対概念)としてのバラリ・プラジナ・パラミタ Bharali Prajna-Paramita であり、これは母として考えられている。13)
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 サン・ヒワン・コモハヤニカン教典によって説かれるのは、英知の光とは、仏陀、またディワルパ Diwarupa と呼ばれるものの一相であり、機能であり、また名の顕現に他ならない、ということである。他方、サマル、ガイブつまり謎とは『彼』それ自身の相、機能、あるいは名の顕現である。そうするとまた、93段で述べられている点についても、考察することとなる。
 「ジナナとは仏陀の身体である。その名サン・ヒワン・ディワルパ diwarupa と呼ばれる、アム・アーの音と共に平静を得る力を見出す教義の本質である。14)」
 であるから、ジナナが仏陀の身体であるなら、ジナノバドロとはシナル・バダン・ブッダ Sinar Badan Buddha (仏陀の身体=実態の光)であり、日々の言葉で我々が聖なる光( sinar Illahi )と呼ぶものである。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-01-31 00:06 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

試訳「スマルとは何者か?」 第2章 その5

「カウロ Kawula (召使い)とグスティ Gusti (主人)」としてのスマルとパンダワ

 セノ・サストロアミジョヨ博士はスマルについて次のように語っている。
 「このように考えるとわかりやすいだろう。つまりスマルとパンダワは多かれ少なかれ、「カウロ」(人間の世界)とグスティ(トゥハン・ヤン・マハ・エサ)を象徴し、また説明あるいは概念化したものだということだ。
 この理解においては、パンダワたちもまた、彼らが真理の境界線を踏み越えるようなことがあれば、キ・ルラ・スマルに見捨てられることになる可能性があるということは明らかだ。このことは、たとえばラコン「スマル・ボヨン(スマル失踪)」において描かれている。11)」

スマルは民衆である

 A・W・サルジャナ A.W.Sarjana は、1965年に出版されたその著、「イスモヨ・ティウィクロモ Ismaya Tiwikrama(イスモヨの神性啓示)」の6頁において、、次のように述べている。
 「イスモヨはスマルであり、スマルは民衆である。ティウィクロモは憤怒を意味する。だからイスモヨ・ティウィクロモとは、民衆の怒りと言い換えることができる。」

スマルはヒワン・イスモヨの化身、ルラ・ダダパン Dadapan (ダダパン村の長)である

 R・A・H・バングン・スブロト R.A.H.Bangun Subrata は1954年に出版された「スラット・トゥムルニン・ワフユ・モヨ Serat Tumuruning Wahyu Maya (ワフユ〈天啓〉・モヨ降下の書)」と題する著作において、このように説明する。
 「スマル、つまりバドロノヨはバトロ・イスモヨの化身、ルラ・ダダパンである。」
 これは詩編3から詩編7の二つの別々の歌で見出せる。以下のようなものである。
 「広大なウィロト国のダダパン村の先の長でバドロノヨという農夫がいた。バドロノヨには子がなく、友もなく、ひとりで生きていた。毎日ただ農場で歌いながら仕事をしていた。
 バドロノヨの姿と顔は醜かったが、彼はダダパン村の人々に心から慕われ、尊敬され、敬われていた。彼はまた優れたドゥクン(まじない師)としても知られていた。というのも彼は、何年もの間患っていたような病人を治療できたからである。バドロヨノにかかればすぐに治ったのである。だからダダパン村が賑やかだったのも不思議ではない。バドロノヨの家に助けを求めて、他の地域からの人々がたずねて来るからである。
 あまりにも多くの客に対応して忙しかったので、ほとんど彼は休むひまもお祈りするひまもなかった。それで彼は仕事をほうりだして、森の中へ神の恩寵を求めて放浪しようとした。手短かに言えば、現世の生活を捨てたのである。放浪してニロドゥソ Niladusa 山のふもと着いた。その山はブアサスロ Buasasra という名のジン・ガンダルウォ(魔物)の国として知られていた。
 ガンダルウォの王、バヌソスロには、ニ・ルトゥルンウィルウォ ni Lutrungwilwa という妃がいて、クチル kucir とクチュン kucung という二人の子があった。
 あるとき、バウサスロ王はルトノ・アガスティニ Retna Agastini というガンダルウォの娘に恋をした。アガスティニも断らず、よろこんで彼の妃になり、ニ・ルトゥンの二人の息子(クチルとクチュン)を国から追放した。燃え上がる恋心に目が眩んでブアサスロは深く考えずにルトノ・アガスティニの要求にしたがい、二人の息子と共に、ニ・ルトゥンを国から追放した。失望と悲しみに満ちた重い気持ちで、ニ・ルトゥンと、まだ成人していない幼い二人の息子は国をすて、森へ向かった。落胆と悲しみに胸がいっぱいのニ・ルトゥンの旅は長く続くことはなかった。というのも、旅の途中、ニ・ルトゥンはサン・コロルビ Sang Kalarubi と出会い、一目見るなり彼らは互いに恋に落ちたのである。
 はじめのうちは、クチルとクチュンは義理の父から過分なほど愛された。月日が経つにつれて顧みられなくなった。愛おしく可愛がられたのが、クチルとクチュンは今や平手打ちされ、杖で打たれるだけとなった。それでクチルとクチュンは、実の父のもとへ帰りたいと願った。運命は誰にも知ることはできない。クチルとクチュンの運命もまたそうである。旅の途中、彼らはバドロノヨと出会った。彼は自らの運命に想いを馳せながら座っていたが、それは子どもどころか、仲間を賜るというものですらなかった。二人の子どもの運命を知ったバドロノヨは、クチルとクチュンも同意したので、二人を自分の子どもにした。昔のことを忘れるために、二人の子はその名をノロ・ガレンとペトル、と代えた。これがノロ・ガレンとペトルのはじまりである。
 ところ代って、天界である。そのとき天界ではバトロ・イスモヨが妃、デウィ・コノストレンに別れを告げていた。バトロ・イスモヨは、品性高貴なるサトリヨを育て、導くためにアルチョポド Arcapada (地上)に行き、聖なる職務を果たそうとしていたのである。その職務遂行のため、サン・ヒワン・ウェナンにより、バドロノヨの身体に「入魂 manitis 」し一体となることが許された。
 サン・ヒワン・イスモヨの降下に合わせて、そのときバドロノヨは瞑想に入っていた。サン・ヒワン・イスモヨが彼の身体に入ったとき、彼の感覚は波打ち、揺れ動き、彼は意識を失った。バドロノヨが目覚めたとき、彼の姿は変わり、光り輝く満月のようになっていた。

 上記の説から明らかなのは、バドロノヨとはサン・ヒワン・イスモヨの化身であるということである。

スマルは宇宙の光(Cahaya Buana)である

 ワヤンのラコン「キラット・ブオノ Kilat Buana 」で、ブトロ・グルはブガワン・キラット・ブオノというプンデト(僧侶)となる。一方スマルもまたチャハヤ・ブオノ Cahaya Buana (天と地、すべての光)というプンデトになる。これについてジュインボル博士は、スマルが「de Stralende」(光を発するもの)、また光の源という意味の「sar」の語に由来し、光の神(太陽)、「Lichitgod (光の神)」であると言える、と意味付けている。キタブ・マニク・モヨにおいても「空(くう)の中の光 cahaya di sdalam sunya 」という意味付けが見出せる。このことは筆者に以下のようなウィリッド・ヒダヤット・ジャティ Wirid Hidayat Jati における説を思い起こさせる。
 「まずは無であり、あるのは空、からっぽ、空間であり、「ヌカット・ガイブ nukat gaib 」の中にあるのはクンQun とよばれるもの、つまり真実なるザット Zat (神の本質)、またマハスチ Mahasuci (聖なる)であるザットであった。ヌカットとは種子、また種を意味し、ガイブはヌル・ムハンマッド Nur Muhammad と呼ばれるサマル Samar 、すなわち影の無い輝く光であり、それこそが真実 Sejati の性質である。」
 ここで解き明かされているのはキヤイ・ルラ・スマルに与えられるいくつかの名であり、それは「スウンSuwung の諸象 」である。たとえば、
a. スマルとはガイブつまり謎(ミステリー)を意味し、それは知や超越者によっては到達できないものである。スマルは光を発するもの(光の神だが太陽神ではない)の意を持つ「sar 」の語に由来する。太陽神スルヨはスマルの養子である。スマルはバトロ・スルヨに明るい太陽 Surya となれるよう、「光を与えた」者である。
b. バドロノヨとは導きの「光」また、真実への導き、つまりヌル・ノヨ Nur Naya またヌル・チャハヤ Nur Cahya を意味する。
c. ジナノバドロとは英知の光 Cahaya Ilmu Pengetahuan また、魂の光、つまりアートマンの光、またヌル・ラフサ Nur Rahsa (秘密)の光を意味する。
d. モヨとはブラフマンの超越性 kesaktian 、つまり「クサクティアン・スニヤ Kesaktian Sunya (空)」を意味し、モヨ自体は見ることができない、つまり「タン・カサット・マタ tan kasat mata (目に見えない)」である。モヨとはマーヤ(幻影)であるが、サクティ(魔法)の意ではない。
e. ジャンガンJanggan 、キヤイそしてカカン Kakan とは賢者あるいは敬われる者への敬称である。それはインドゥン・インドゥン Indung-indung(母)、グルントゥン Geluntung 、ウル・グントゥン Ulu Guntung 、チェケル Cekel 、プトゥット Puthut (僧侶に仕える者)、マングユ Manguyu、ワシ Wasi(僧侶)、アジャルAjar (プンデト)、パンディト Pandita (プンデト)、ルシ、ブラフマンらである。
f. アスモロ Asmara とは愛を意味する。フィロテス phylotes また(タサウフtasawuf 〈神秘主義〉における)マハバ Mahabbah と同じ。マーリファ ma'rifat の上位段階である。
g. ソント Santa は聖性を意味する。であるから、アスモロソント Asmarasanta とは聖なる愛を意味する。
h. ドゥダ・マナン・ムヌン Duda manang-munung は男ではなく、女でもなく、両性でもないことを意味する。ドゥヌン(住処)を持たず、しかしどこにでも存在する(Immanent 〈内在する〉)。誰かの子ではなく、誰も子を持たないが、「子ども」(ガンダルウォ・バウソスロ)に付き従われている。手短に言えば、何者とも一緒にいない(tan kena kinayo ngapa )。
i. チャハヤ・ブオノは大地、天、そしてすべてのものの光を意味する。
j. ポノカワンとしてのスマルは、つねにサトリヨやプンデトと共にある。彼はあらゆるところに存在する。つまり、ワヤンのラコンにおいて、ラマヤナの中にも、マハバラタの中にも、パンジ物語、さらにゲドやマディヨにも、彼はいる。彼が真に真実を知る(pana)者だからである。

 スマルには様々な名、ガイブ、アスモロ(愛情)、ソント(聖性)、ヌル・モヨ、モヨ(ブラフマンの超越性)、そしてジナノバドロ(英知の光)、チャハヤ・ブオノ(大地、天すべての光)、が与えられている。それらが示しているのは(彼の)機能である。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-01-30 01:06 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

試訳「スマルとは何者か?」 第2章 その4

スマルはサン・ヒワン・モヨ Sang Hyang Maya である

 スラット・マニクモヨ Serat Manik Maya はこう述べている。サン・マニクはサン・ヒワン・バトロ・グルとなり、一方サン・ヒワン・モヨはスマルとなった。上記キタブ・マニク・モヨはピゴー博士によって解明された。

スマルはサン・ヒワン・トゥンガルである

 スラット・カンド Serat Kanda は物語る。ナビ・アダム Nabi Adam の息子はナビ・シス Nabi Sis 、ナビ・シスの息子はアンワス Anwas またの名をサン・ヌルチョヨ Sang Nurccahya 、サン・ヌルチョヨの息子はサン・ヒワン・ヌロソ Sang Hyang Nurasa 、そしてサン・ヒワン・ヌロソの息子はサン・ヒワン・ウェナン Sang Hyang Wenang とサン・ヒワン・トゥンガル Sang Hyang Tunggal つまりスマルである。それからサン・ヒワン・ウェナンの息子はサン・ヒワン・サムブ Sang Hyang Smbu 、彼はしばしばサン・ヒワン・バトロ・グルと呼ばれる。キタブ・カンドによれば、マニク・モヨはサン・イブリス Iblis 、イジャジル Ijajil (双方とも悪魔の意)の布教者であり、自身が「トゥハン(神)」であると主張する(プスタカ・ワヤン・シリーズ、スラット・カンド、第7章を参照)。

スマルはイスモヨ Ismaya の孫である

 キタブ・プストコ・ロジョ・プルウォ Kitab Pustaka Raja Purawa(古の王の書)の第四巻、またスラット・ロジョ・ワトロ serat Raja Watara の9頁から13頁の詩句には下記のように語られる。
 「……ルシ・マヌモノソ Resi Manumanasa は瞑想を終えると、すぐにヒワン・ウィセソ Wisesa に敬意を捧げた。ヒワン・ウィセソは天に昇り、視界から消えた。間もなくひとりの侏儒(短躯の人)が二頭の虎に追われて慌てふためいて走りながら、ディエン Dien 山またの名をサプト・アルゴ Sapta Argaに登って来た。ルシ・マヌモノソはその様を見て、二頭の虎に矢を射て助けると、二頭の虎はバタリ・コノストリ Kanastri とカニララス Kaniraras になった。その手助けに対して侏儒は感謝を述べ、ルシ・マヌモノソに仕えた。そしてバトロ・イスモヨの孫は……」
 上記の説に基づくと、ジャンガン・スマラ Janggan Smara 、ワヤンでの名はキヤイ・ルラ・スマル、はバトロ・イスモヨの孫と同じではない。理に合うように深く考えてみると、サン・ヒワン・ウィセソが天に登ると、その後、突然マヌモノソの前に侏儒が現れる。それはジャンガン・スマラ、つまりキヤイ・ルラ・スマルであるに違いない。この憶測が正しく受け入れられ得るものだとすれば、サン・ヒワン・ウィセソは即ちサン・ヒワン・スマル、ジャンガン・スマラであるということになる。少なくともスマルはサン・ヒワン・ウィセソの一側面あるいは実体化であると言える。

スマルはサプト・ダルモ Sapta Dharma である

 クバティナンの書と福音書は次のように述べる(アムステルダムのハルン・ハディウィジョノ Harun Hadiwijono 博士の論文からの引用)。
 「クバティナン派にはスマルをシムボルとするサプト・ダルモ派という一派がある。そのシムボルは以下のようなものである。
a. 人間を示す菱形。この菱形の四つの角の一つは上を,一つは下を向いており、あとの二つは右と左を向いている。上向きの角は「アラーの光 sinar cahaya Allah 」を表し、下向きの角は「大地の中心 sari bumi 」を表す。また左右の角は「人間を仲立ちするもの perantaran terjadinya manusia 」すなわちアダムとハワ Hawa つまり「父」と「母」を表す。
b. この菱形は深緑の色で縁取られ、これは「物質的身体 badan jasmani 」つまり人間の身体を表す。
c. 菱形の地色は薄緑で塗られている。これは「アッラーの光 sinar cahaya Allah 」つまり「ハワ hawa (空気)」また「グタラン getaran(振動)」を表す。これは人間の物質的身体の中には「アッラーの光」が広がっていることを表す。人間の中の「アッラーの光」は「ラサrasa」、また「ロ roh」と呼ばれる。
d. 菱形の奥に重ねて三角形が見られる。その三角に重ねて少し小さい三角形が中にある。その中心には四つの同心円が描かれる。第三の三角形は白で塗られている。これは父からの核(精液)、母からの核(卵子)、そしてアラーの光(左右と上の角)の三位一体が人間となる、ということを表している。白は清浄また聖性を表し、精神と肉体が浄められる(聖性を得る)ことを示している。
e. 第三の小さな三角形は、人間の九孔(目に二つ、耳と鼻に二つづつ、口に一つ、肛門と生殖器)を表す九つの角を持つ。
f. 四つの同心円があり,黒、赤、黄、そして白で塗られている。これは四つの欲望、ラウワマ lawwamah (貪欲)、アマラ ammarah (怒り)、スウィヤ suwiyyah (情欲)、ムトマイナ mutma'inah (愛情)を表す。さらにこの円形は、人間の生が
車輪の回転(チャクラ・マンギリンガン cakra manggilingan )と同じに、つねに変化しつづけること(タンサ・エワ・ギンシル tansa ewah gingsir )を目指している。人間の生はいずれその源に戻る。ゆえに人は「ブディ・ルフル(高貴さ) budi luhur 」を探すのである。人間の霊(roh)は、永久なる世界のヤン・マハ・クアサのもとへ帰る。身体はその源、大地の核に戻り、大地に帰る。黒、赤、黄、そして白の各色は次のような意味を持つ。黒は、口から出る黒い気、つまり人が話す悪口を表す。赤は、人が怒りをおぼえた時に耳から出る赤い気を表す。黄は、人がいろいろなものを欲しがると目から出る黄色の気を表す。白は、聖なる行為を表し、これは鼻から出る。
g. 中心の白い円にはスマルが描かれ、これは人間の額のひよめきにある十番目の孔を表す。白い色はヌル・チャハヤ Nur Cahaya (光線)またヌル・プタック Nur Petak (白い光線)、すなわち聖なる気(ヒワン・マハ・スチ)を表す。これはマハ・クアサ(偉大なる力)たるアッラーと関わるための能力を持つことを表す。
h. スマルの絵は、ブディ・ルフルをも表している。この絵は次のことを示している。彼の左手は何かを握りしめている。これは彼が高貴なる感性 rasa yang mukia (ロ roh)を持つことを意味する。スマルはプソコ(重代の宝)を持つ。これは彼が力強い言葉、聖なる言葉で話すことを意味する。さらにスマルは、五つの折り目のあるカムプ kampuh (カイン=腰布)を着ける。これは彼がアッラーの五戒を遵守して生きていることを表す。
i. 菱形の中には「サプト・ダルモ」が書かれている。これはサプト・ダルモ派によって行われるべき、七つの義務を意味する。さらにナプスnapsu、ブディ budi そしてパカルティ pakarti と書かれている。これは人間個人が善い、または悪い欲望を持ち、知並びに思考を持つことを示している。
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(つづく)
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by gatotkaca | 2012-01-29 01:31 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

試訳「スマルとは何者か?」 第2章 その3

スマルは光の源泉である

 人の意見は人間の数と同じである。髪は同じ黒であるが、意見は異なる。ジュインボル Juynboll 博士もまたそうである。彼はスマルの名は 、光線を意味する" Sar" の語に由来するという見解を持った。つまり、スマルは光線を発する者、またあらゆる光の源泉、神の光を意味する。さらに彼はスマルの人物像とトルコの英雄譚の人物、カラゴス Karags で演じられる春の神、ケスブランKesburanとを比較した。彼は " Semar" と” Sumar" の語を比較し、それが、子孫の広がりあるいは発展を意味する形容詞が多くの意味を追加したものであると主張した。それが多くの人の愛するべきものとなり、各々の地方で物語として知られるようになったという。

スマルは肥沃の神である

 先のジュインボル博士の見解は、チレボンの古代の遺物と記事に基づくモレンブレシェール Maurenbrecher による支援を得た。6)
 その古代遺物はカリウェディ Kaliwedi (カウェダナン・アルジャウィナグン Kawedanan Arjawinangun)村に保存されていた。二体のワヤン人形であり、幾枚かの白い布切れに包まれ、その一つはスマルとして、他はポノカワンの仲間の一人として知られていた。二体の人形はカリウェディ村の周辺の慣習に則った儀式において水を浄めるために用いられていた。その方法は下記のようなものである。
 ジュマット・クリウォン Jum'at Kliwonの夜に植えられた稲を、村の農夫たち全員が儀式の場へ運び、彼らが水田で用いるための水が浄められる。
 収納場所から出されたワヤン人形たちは、シャーマン(juru kunci)によって包が開けられ、(身につけられた)最後の布だけはそれぞれ別に横たえられた二体のワヤンに巻かれたままである。人形を包む布は、祝福され「幸運」を持っていると考えられている。そしてその布は人が新しい白い布と取り替えるのである。
 シャーマンは二体のワヤンを「チュムプリット(人形の支え棒)」に固定し浄められた水に浸す。ささやかな供物が置かれ、ワヤンは沐浴を終えて儀式は終わる。
 シャーマンがワヤンの手が本体から離れているのを見た時は、それは収穫の不作や村が疫病にさらされる予兆となる。彼らの信仰に従って、離れたワヤンの手は最初のように再び本体につけられる。ここではスマルは「肥沃の神」としての機能を付されている。


スマルはサマル Samar そしてミステリーである

 ダラン(ワヤンの語り部)の間では、ワヤンのスマルを創案したのはダランたち自身であるという主張がある。スマルは「サマル Samar 」の語から生じた。「 samar-samar 」は、不明確な、不確実な、秘密に満ちた、謎に満ちた、といった意味を持ち、簡単に言えばミステリアスということである。
 「サマル」の語は語幹「mar」と接頭辞「sa」からなり、「サマル」となる。あるいは光を意味する「sar」の語に「am」が付いて「サマル」となる。つまりサマルとは光が溢れ出すことである。
 「sar」の語は動詞「nyamar(隠す)」となり、それは何かを秘密にすること、暗喩にすることを、あるいは不明確な行為ということである。それゆえダランは、スマルとは「サマル(おぼろげ)」でなくなった、あるいは全てにおいて迷いのない人であると理解している。手短かに言えば、彼は世界のすべてに対してもはや「混沌」としていないということであり、それは彼が直面するすべての事柄を十分に咀嚼し、解決と調和を見出しているからである。
 たしかにスマルは秘密に満ちた人物である。その顔は女のようでありながら、身体は男である。彼はひじょうに魅力的でありながら、その容貌は醜い。彼はふつうの人間ではなく、スロロヨ(天界)の神である。彼はイスモヨであると言われる。
 これには多くの人の意見があるが、一例をあげる。
 「スマルはサマルの語に由来する。たしかにキ・ルラ・スマルの外見は混乱している。よく見ると,その顔は男であり,女のようでもある。それゆえ多くの人が彼を誤って呼ぶ。だから彼の身体を詳しく説明する人がいる。人は見て取る。その鼻は魅力的な女のように尖っており、その目は濡れて魅力的であり、他の人々の心を引きつけるのである。」
 スマルが丸を意味する「semat」の語に由来するという意見を持つ人もいる。これを詩で説明するとこのようである。
 「スマルは『スマット』という言葉がもとになっている。スマットとはその形が丸いこと。8)だからスマルは丸いのだ。スマットになっている人は誰でも、その理想がまちがいなく成就する。スマルに助けてもらえる人は誰でも、勝利と成功を手に入れる。ほんとうはスマルは神の創ったものではない。彼はスロロヨの神そのものなのだ。それはサン・ヒワン・イスモヨ。キヤイ・ルラ・スマルは称号また呼び名を持っている。キヤイ・ルラ・バドロノヨ Kyai Lurah Badranaya またキ・アグン・デドゥ Ki Ageng Deduk だ。9)」

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-01-28 00:55 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

試訳「スマルとは何者か?」 第2章 その2

スマルはインドのヴィドゥーシャカ Widhusaka(Vidushaka)である

 スマルという人物について、雑誌クンティ、クマンダンそしてユド・ミングで二度に渡って記事が掲載されたのだが、読者の満足を得られなかった。これは筆者宛の質問の手紙が溢れかえったことでも明らかであり、スマルの神話学的人物像のさらなる解明が求められているということである。 
 なぜこの人物には多くの疑問が投げかけられるのであろうか?それは、この人物ほど神話学的、また哲学的価値をもつ人物は他に無いからである。19世紀(1811年のラッフルズ)、西洋と東洋の3組の学者たちの著作から始まり、今日にいたるもいまだ活発に書かれ、議論され続けていることからも分かるだろう。かつて数度に渡って科学雑誌「プリスマ Prisma」やフェミニストfemin 雑誌「ルラキ Lelaki」などでもスマル問題は活発に議論された。
 筆者はただ「神の祝福に感謝する syukur Alhamdulilah 」のみである。というのも、今日我々は「哲学の時代 era falsafah 」の始まりを迎えているからである。それは、人間が秩序(科学的理論)による思考に対する欲求を持ち始めた時代、あるいは人生と我々のいる世界全体の秘密を考察するために、神秘学から理性的思考へとジャンプし、歩み出す勇気を持ち始めた時代でもある。理解の形成において困惑や混乱のないように、思考は古の時代よりも明確でなければならない。神話が理性的知と対立しないように。そしてまさしく「神話」は「理性」と対立しはしないのである。神話には哲学的分析を取り入れるべき要素があるからである。
 しばしば「理性」は乗り越えることの出来ない限界に突き当たる。そこでは「神話」こそが不知の領域へと自身を鼓舞してくれる。とくに神話は、 "tan wadhag (物理的・身体的でない)”、魂や霊的事象に関する推察に向けられ用いられる。
 筆者は、理性は当然ながら神話を排斥するものではないと考える。今日にいたるまで、両者はスムーズに並走しているのである。いずこかで、理性と神話は,お互いを補完し合うひとつの点で出会うのである。
 「哲学に相反しない神話学」を打ち立てて、我々はこの謎に満ちたスマルの人物像を分析して行こう。
 ワヤンのポノカワンとしての彼を除いて、スマルのワヤンの人物像は謎に満ちている。また愛すべき祖国(ヌサンタラ=列島)で信仰される神話的人物でもある。それゆえに真実、我々が慎重に検討し、深い哲学的方法で、隠された謎を解明する価値をもつものである。
 外国人(西洋人)で最初にワヤンを分析し著書を著したのはラッフルズであり、1811年〜1816年のことであった。彼がインドネシア総督を努めていた時であり、英国がインドネシアを植民地としていた時代であった。彼は職務の遂行に成功した人間であると同時にヨーロッパで、ワヤンについて書いた先駆者となった。しかし、その分析はまだ完全とは言えず、不満足なものであった。またスマル像についての分析も全般に不十分なものであった。
 半世紀後、第二の外国人ポエンセン Poensen博士が最初のワヤンに対する客観的な分析を行った。四半世紀の後、1896年、セルレアSerrureir 博士が、ワヤンに対する全方向的学究の道を開き、「ワヤン・プルウォの民族学的研究 Wayang Purwa een Ethnologische Studie 」と題する著作を著した。そのとき彼はライデンの「国立民族学博物館」の理事であった。
 スマル個人について、ポエンセン教授、またセルレア博士によって明らかにされたことは、要約すれば以下のようなものである。
 「スマルは神々に由来する。彼はパンダワたちの友であり、父である。そして神の超能力と魔術的力を持つ。彼はまたひじょうに賢く、困難から脱する道を知っており、つねに来るべき災厄に警告を発する。スマルはあらゆる状況で平静を保つことができ、その主人(パンダワ)の望みに添うことができる。であるから、スマルがアルジュノの愛の行為を手助けすることも珍しいことではない。彼自身のへんてこりんで滑稽な要素がはじめは彼の容貌に見出せるが、彼は敵の無礼な行為を好まない。彼は悲しいことがあるたびに泣き、嬉しいことがあるたびに笑う。」
 セルレア博士も、この普通ではないワヤンの人物の起源について議論している。彼の意見に示されているのは「スマルと息子たちは、ジャワ人の祖先たちの英雄物語を脚色するために、他国から輸入された、ジャワ人のファンタジーの造形物である。」
 セルレア博士は大胆に言う。インドネシアにおいて、インド神話に無い(スマルのような)ものはジャワ以外にはいない。そこで彼はこのように結論する。スマルという人物はインドに由来し、ヴィドゥーシャカ Widhusaka (Vidushaka)に倣ったものである、と。彼によれば、インドのヴィドゥーシャカはゲルマンのハンスヴルストHanjworst(Hanswurst)やイタリアのプルチネッラ Polichinel(Polichinelle, Pulcinella)やアルレッキーノ harlekijn(Arlecchino)(道化)と同様の存在である。
 彼はいつも、さまざまなラコン(演目)、物語で主人公から信頼されている。彼もまた主人の手助けという職務を遂行するだけでなく、自身の問題においても最後にはいつも成功するのである。彼はまたブラフマナ(僧侶)であったり、あるいはブラフマナの弟子であったりする。彼は穏やかな生活を好み、うまい食べ物が好きである。冗談や道化た行為の全ては詩的であり、穏やかで、刺々しくない。
 その比較から、セルレア博士はスマルはインドのヴィドゥーシャカの模倣であるという。セルレア博士のスマルに対する意見はそのようである。
 彼の意見は本当だろうか? その考えを、我々は,彼の後の他の専門家たちの意見と比較しなければならない。中でもセルレア博士の意見に反対する「ジャワ的風景の知識への貢献 Bijdrage Tot De Kennis van Het Javaansche Tooneel 」と題したG・A・J・ハゼウ Hazeu博士の論文に見られる意見と……。

スマルはヌサンタラの国の祖先である

 1897年、セルレア博士が「ワヤンとスマルはインド起源である」という論説を提示した一年後、学会においてセルレア博士の意見に対する反論する偉大な学者が現れた。それはゴダード・アレノ・ヨハネス・ハゼウ Godard Areno Johanes Hazeu 博士によって、1897年1月30日、午後3時にライデン大学に提出された論文である。
 G・A・J・ハゼウ博士は『セルレア博士の論説は支持できない』とはっきりと述べた。彼は自身に満ちて、後にワヤンと呼ばれるジャワの影絵芝居はジャワのインドネシア人によって創作されたものである、と述べた。とくにスマルについて、G・A・J・ハゼウ博士は、スマルがインド起源ではなく、インドネシア起源であることを強く主張した。名前、また上演方法、そしてその造形はスマルと息子たち(ガレン、ペトル)がインド起源ではなく、インドネシア起源であることを示している。というのもそれら道化、バニョル banyol の語は、(彼の登場する)上演自体が古代の著作においてしばしば言及されているからである。たとえば、『道化者 juru banyol、道化の影絵 haringgit abanyol、オノバンワル hanabanwal あるいはムコノ・リンギット pukana ringgit 』と呼ばれる存在である。ブランデスBrandes によって書かれた「キタブ・パララトン Pararaton 」においても『Jujuluk ira yen anapuk sira dalang citrarayu, lamun amade nisira Pager Antium, lamun hawayang banyol sira Gasak ketawang 』という詩句が見出せる。
 上記の詩句からある結論が導かれる。道化すなわちバニョルは、モジョパイト時代にはすでに舞台あるいはワヤンにおける上演で登場していたということである。
 さらにG・A・J・ハゼウ博士はいかのように述べている。
 「注意すれば、スマルとその息子たちは各々のドラマに現れ,彼らの名はひじょうに古くから見られる。スマルを表したワヤン人形は、インドでの役柄とはひじょうに異なる造形であり、それ以上に意味を明らかにすることが出来ない。スマルは、今日そのポジションが普通の道化や召使いのそれを超えている。スマルはつねに、パンダワの子孫たちを含む主人を保護し、尊重され、敬われている。彼はまたいつも彼らの祖先や子孫たちに良識ある助言を与える。スマルはまた神の計画を良く知り、人間や彼の主人たちは、困難に遭遇するとつねに彼の助言を求める。そうすると彼はそれを引き受けて天界へ飛ぶのである。」
 上記の説から、道化すなわちバニョルにおける特殊性は、古代の時代に起源を持ち、影絵上演において展開していたということを知ることが出来る。そして明らかに、スマルはジャワ起源の祖先(ネネ・モヤンnenek moyang)の一人の名であり、それは古代の影絵芝居つまりワヤンで上演されており、その性質は宗教的なものであったということである。5)
 言い換えれば、スマルは祖先のひとり、ジャワ起源あるいはマレイ・ポリネシアの、明らかにインドネシア起源の宗教の神話から生まれた愛すべき人物であるということである。

スマルはインド起源ではない

 さて,我々の考えは今や迷い無く、ワヤンの人物としてのスマルが真にインドネシア起源であり、ヒンドゥー民族到来のはるか以前の古代にヌサンタラの民族の祖先に由来すると確信を持って言うことが出来る。ここで我々が留意すべきは、その時代の道化の上演とスマル、ガレン、ペトルの宗教的特殊性ということである。これこそが後に哲学的観察に基づく意見となるのである。
 G・A・J・ハゼウ博士の論文の後ほとんど全ての学者たち、ヴァン・スタイン・カレンフェルズ Van Stain Callenfels 、ラセッルズ Rassers 、カッツ Kats 、そしてピゴー Pigeaud らは、スマルがインドネシアで生まれ形づくられた人物であるという意見に同意し、彼らはそろってG・A・J・ハゼウ博士の『スマルはインド起源ではない』という言葉に賛同した。
 しかしながら,後にこのスマルについての見解は錯綜し、混濁し、混乱してきた。しかし哲学の顕微鏡を用いて観れば、その錯綜は赤い糸と金の絹糸を見るように明らなものとなり、錯綜は束ねられ、ひとつの光明とすることができるだろう。まさしくスマルはヌサンタラの宗教神話の愛すべき人物というに止まらず、辛抱強く観察し,学ぶにおいて、十分に興味深い、哲学的・宗教的価値を持つ概念を形成しているのである。


(つづく)
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by gatotkaca | 2012-01-27 02:47 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

試訳「スマルとは何者か?」 第2章 その1

第2章
スマルとは何者か?


文学作品に現れたスマル

スマルとサデウォが神を魔除け(ルワット)する


 スマルの人物像(ワヤン)のミステリーを解明するのに最も重要な方法は、スマルの名が現れる古い文学作品を渉猟することであろう。たとえば、この本の第一章にみられた、『De Sudamala in de Hindu-Javaansche-Kunst ヒンドゥー・ジャワ藝術におけるスドモロ』と題されたヴァン・スタイン・カレンフェルズ P.V. Van Stein Callenfels博士の論文での、キタブ「スドモロ」の意味、内容の分析の試みのように。
 キタブ「スドモロ」がスマルの名を記した最古のキタブであることは、疑いなく明らかである。たとえば、15頁98、101詩節、つづく他の頁の詩節にもそのように述べられている。以下に引いてみよう。

詩節98(意訳)
 「さて、サデウォについて語ろう。彼は墓に縛り付けられている。彼はカポックの樹に縛られている。スマルがその足下でどうしようかと張り付いている。」
詩節101
 「スマルは言った。やって来た、あなたは誰です、と。私の名はカリカ、私によって敬われるお方。あの方が私を愛してくださるのなら、私はあのお方を自由にしてあげましょう。」

詩編Ⅱ16頁
詩節13

 「悪霊たちに、心も身体もふるえ上がった。スマルはセタンたちの争いに恐れおののいた。彼は一言も発し得なかった。」
詩節16
 「縄でくくられて,彼はおおいなる辱めを耐え忍んだ。スマルは心のうちで笑った。押し黙り、もう生きていられないと思った。神々は彼らを愛していないのであるから。」
詩節42
 摘み取られた花々で飯とサフランが掴み上げられた。彼は自由にされることをもとめた。彼は花々とナシ・クニンをまき散らした。スマルは鐘を鳴らして祈祷を歌い上げた(membunyikan genta-persembayangan)。

詩編Ⅲ19頁
詩節12

 「スマルは言った。そいつを放してはなりません、旦那様。そいつは罪を犯しました。そいつは、墓地で脅かそうと、わたしらに悪霊をけしかけたのです。」
詩節14
 「スマルは言った。カリカよ、お前は自由になりたいようだから、わしはお前を放してやる。カリカは言葉を尽くして応えた。ようこそスマル。」
詩節15
 「その言葉は温和であった。スマル兄(けい)よ kakandaku semar ”。兄は偉丈夫にして男伊達、まだお若い。たくさんの娘たち、若い未亡人たちが兄に恋心を抱いて、お目通り願いたいと望んでおります。」
詩節16
 「スマルは微笑んだ。カリカが彼の関心を引きたがっていることが分かったからである。彼は言った。わしはそなたを放してやろう。食べ物と供物を全部こちらへ、食器をすべて揃えて。」
詩節19
 「料理のすんだものはすべて、真ん中に置かれた。それからスマルは着物を捲し上げた。カリカよ行け。そなたは見てはならぬ。そなたには全てを見る資格が無い。」
詩節20
 「スマルの祈りと敬神はかくのごとくであった。彼は満腹するまで食べた。飯の籠はからっぽ。椰子酒も飲み干した。犬が齧る骨の欠片も残っていなかった。」
詩節21
 「腰布は解かれていた。おかわりがあれば、また食べ尽くしそうだった。カリカは思った。ほんとに無駄だった。スマルはわたしをけむに巻いた。

詩編Ⅳ 21頁
詩節25

 「キ・プトゥットは椰子酒と焼き米の酒、もち米の酒を徳利一杯に注いだ。彼らは落ち着いて食べた。スマルが食べ終わってから、彼らはその後である。」
詩節30
 「スマルはゆっくりと言った。さて、わしは一人で寝る。王子が結婚を決めるまでの間。わしはどうなるのかな。良かろう、覗いてやろう。」
詩節36
 「彼らが聖なる苦行者の前に現れると、畏敬の念を込めた敬意が払われた。聖なる苦行者は落ち着いた声で言った。トウォTowok よ、そなたは結婚するのだ。そなたにスマルが与えられよう。」
詩節37
 「高貴なる主の命は果たされた。トウォは拒むことはならない。よろしい。プトゥットよ、わしをそこへ。はやくわしをスマルのところへ連れてゆくのだ。」
詩節39
 「プトゥットは声を上げた。これこそ聖なる苦行者に敬意を贈られる者、そなたの善き伴侶、スマルなり。わが敬意と感謝を聖なる苦行者にお贈り致します。」
詩節40
 「スマルはかくて言った。さあ、可愛い子よ。お前の名はなんだい? わたしは、スマル兄よ、名はニ・トウォよ。わたしはまだ生娘なの。」
詩節65
 「スマルは見た。彼はその足を抱いた。ラデン・サクロは言った。スマル言うのだ。私は従おう。」
詩節66
 「スマルは許しを乞い、苦行所に入った。ラデン・パダパ Padapa と共に休んでいるとき、静かに王子に知らせが届いた。」
詩節67
 「スマルは言った。旦那様の兄上が旦那様に従ってる。ラデン・サデウォは驚いて外に出た。」

ビモの護衛としてのスマル

 「キタブ・スドモロ」の他にもスマルの名に言及する古代のキタブがある。「キタブ・ナワルチ Nawaruci」である。これは15世紀、エムプ・シワムルティEmpu Siwamurti によって中世ジャワ語で書かれたものである。ユトレヒト(オランダ)で1934年10月5日金曜日にプリヤフトモ Priyahutama 博士によって資料が提供された。
 「キタブ・ナワルチ」によれば、ウレクダラすなわちビマがアンダダワAndhadawa の戦場に赴き、インドラバウ Indrabahu を斃した。道中ビモに、ふたりのパナカワン panakawan 、ガガカムプハン Gagakampuhan とトゥワレン Tuwalen が付き従った。このあたり、詩句によれば以下のようである。(意訳)
 「煌めく速さで、彼(ビマ)はアンダダワの戦場を後にして、敵の頭を叩き付けた。頭はかくて二人の随行者、ガガカムプハンとトゥワレンによって運ばれた。」1)
 別の頁の詩句では以下のように語られる。
 「芳香をたたえた水を飲み、シリ(噛みタバコ)を口にして、シ・ダランとスマルはサン・パンゲラン(王子)の食べ残しを味わった。」

ジョデ・ソント Jodek Santa としてのスマル

 上記の分析に基づいてスマルという人物像は15世紀に登場したとして本当に良いのか?その答えは断じて「否」である。「キタブ・スドモロ」と「ナワルチ」(モジョパイト時代)で初めてスマルの名が現れたのだとしても、謎めいたスマルという人物がその時に初めて生じたということにはならない。このことは、さらに古い時代のいくつかのキタブ、ジャワ歴1110年(西暦1188年)にエムプ・パヌルEmpu Panulu によって書かれた「キタブ・ガトカチャスロヨ Gatutkacasraya 」の存在で補強されるだろう。このキタブには「ジュルディヤ・プラソント・プント Jurudyah Prasanta Punta」の名が述べられている。これは、後に「ジョデ・ソント Jodek Santa」となり、さらにルラ・デン・マス「プラソント Lurah Den Mas "Prasanta"」、そしてパンジ物語では、その人物はスマルとなるのである。2)
 今日まで多くの学者、識者、心霊(スピリチュアル)の専門家たちが、謎と疑問に満ちたスマルという人物の真相に近づき,解明しようとしてきた。我々も一緒に、数々のキタブや専門家たちの発見を渉猟し,目録を作り、問題の真実にせまり、「ダヤン・スマル Dahyang Semar とは真実なんであり、何者であるのか」という問題の答に挑んでみよう。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-01-26 02:28 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

試訳「スマルとは何者か?」 第1章

第1章
スドモロに現れた解説者としてのスマル


サデウォとスマルが神をお祓い(ルワット)する

  残存するワヤンの書の中で、「スドモロの書 kitab Sudamala 」は特殊なものといえる。著者はこの「スドモロの書」をチャン・チュウ・シャムTjan Tjoe Siem 博士からお借りすることができ、たいへん幸せであった。
 このスドモロの書はワヤンのラコン(演目)を語っている。それはプルボチャロコ博士によれば以下のようなものである。

●呪詛されたバタリ・ウモ
 サンヤン・トゥンガルとサン・ヤン・ウィセソはバトロ・グルにデウィ・ウモが夫を裏切ったと訴えた。バトロ・グルは怒り、美しかったデウィ・ウモは呪われ、女ラクササの姿のバタリ・ドゥルゴにされた。彼女はいつの日かサン・サデウォの名を持つパンダワの末っ子によって魔除けされるだろうと告げられた。かくてバタリ・ドゥルゴはストラ・ゴンドマユにおいて精霊たちの首領となることを命じられた。
●チトロセノ呪われる
 サン・チトロセノとチトランゴンドという二人のガンダルウォがいた。彼らはバトロ・グルに対して無礼を働いたため、罪を負った。サン・バトロがその妻と共に池で沐浴していた時の事である。二人のビダドロもまた呪われてラクササとなり、カラントコとカランジョヨの名を与えられた。後に彼らはプラブ・ドゥルユドノに仕えることとなった。
●クンティの不安
 今やコラワたちが、二人の超能力のラクササの助力を得たことが知られ、それはパンダワ陣営も知る所となった。その知らせを聞いてデウィ・クンティはひじょうに不安になった。困り果てて彼女は自らセトロ・ゴンドマユへ赴いた。そこで彼女はバタリ・ドゥルゴと対した。デウィ・クンティが二人のラクササの消滅を願うと、バタリ・ドゥルゴは命じた。その願いは承認される。もしデウィ・クンティが赤い山羊(ここではジャワ人を指す)を一匹贈る事に同意するなら、と。サン・デウィはその願いに同意したが、ドゥルゴの狙いがサデウォであることを知ると、同意を止め、その場を辞した。
●クンティ記憶喪失となる
 クンティが辞した後、ひとりの女セタン、カリコがドゥルゴに呼ばれ、デウィ・クンティを追い、憑依するよう命じた。サン・デウィは憑依され、記憶喪失のようになった。彼女は再びバタリ・ドゥルゴに伺候し、サン・バタリの願いに同意して王宮へ帰った。
●サデウォ生贄となる
 息子たちは母の到来を迎えた。彼らは困り果てていたところであった。というのも、母が目的も知らせずに出かけていたからである。今や彼らは心安らかになった。しかし突如、サン・クンティはサデウォがバタリ・ドゥルゴに捧げられることを求めた。もし与えられなければ、疑いなく彼ら全員が呪われるであろう、と。サン・サデウォはデウィ・クンティに曵かれてセトロ・ゴンドマユへ運ばれた。バタリ・ドゥルゴにサン・サデウォが捧げられた後、彼女は王宮へ戻り眠った。カリコはサン・デウィの身体から抜け出てセトロ・ゴンドマユへ帰った。
●サデウォ、スマルに守られる
 それからラデン・サデウォは(スマルの待つ)森のカポック綿の樹(ポホン・ランドゥranndu)に縛り付けられた。そこへカリコがやって来て、もしサン・サデウォが彼女を好いてくれるなら、彼の束縛をといてやろうと言った。かくて縛縄は解かれた。しかしサン・サデウォはカリコの望みに従わなかった。カリコは怒り、合図の音を鳴らした。あらゆる種類の怪物が、皆、叫び声を上げながら現れた。ムカデやサソリ、あらゆる悪鬼たちがサン・サデウォを苦しめた。しかしサン・サデウォの心は平静を保っていた。
 そしてバタリ・ドゥルゴが到来し、サン・サデウォに魔除けを頼んだ。サン・サデウォは同意しなかった。怒りに駆られてサン・バタリ・ドゥルゴは彼を飲み込もうとして脅した。しかしサン・サデウォは落ち着いていた。
●マハデウォがバトロ・グルに報告する
 見守っていたブガワン・ナロドはサン・サデウォが殺されようとしていることを知った。彼はソルガに戻り、サン・ヤン・マハデウォにサン・サデウォの状況を知らせた。サン・ヤン・マハデウォにサン・サデウォを奪い返す勇気は無かった。そこでサン・ナロドと共にバトロ・グルに伺候した。
●ドゥルゴ、サデウォに魔除けされる
 バトロ・グルは彼を取り返すことに同意した。彼はセトロ・ゴンドマユに降下し、サン・サデウォに命じた。「バタリ・ドゥルゴを魔除けせよ。余はそなたに入魂する」。バトロ・グルが憑依したサン・サデウォは言った。「バタリ、足下は我が主にまっすぐ立つ事を願います」サン・バタリは彼の求めに応じ、その時彼女の姿は変わり、美しさを取り戻した。
●サデウォ、スドモロの名を与えられる
 森の中の様子も一変した。薮や灌木は全て庭園となった。セタンやハントゥの全ては神に変化した。サン・バタリはサン・サデウォに大いに感謝した。かくてサン・スドモロ(汚れを浄化する者の意)の名が与えられ、さらにプラン・アラスの苦行所のブガワン・タムブロプトロの娘デウィ・パドポとの結婚が命ぜられた。かくてバタリ・ウモは天界へ帰った。
●サデウォの結婚
 サン・サデウォはスマルと共にプラン・アラスへ向った。そこでブガワン・タムブロプトロの娘との結婚が行われた。スマルも結婚を望んだ。彼に選ばれたのはサン・デウィの侍女、ニニ・トウォ(冗談・滑稽の意)であった。
 弟を追って、ラデン・サクロ(ナクロ)がセトロ・ゴンドマユを目指して来た。そこは既に庭園と化し、カリコが守っていた。カリコはサン・サクロをサン・サデウォと勘違いした。サン・サクロは彼がサン・サデウォの兄弟であると明かし、サン・サデウォのところを教えてもらった。兄弟の再会の後、サン・サクロはサン・パドポの姉妹、サン・ソコと結婚した。
●チトロセノ、サデウォに魔除けされる
 二人のラクササ、サン・カラントコとサン・カランジョヨはパンダワを攻撃して来た。戦闘が勃発し、パンダワは敗れた。兄たちの敗戦を聞いて、サン・サクロ、サデウォは迅速に国に帰った。挨拶を交わし,互いの慕情が解消して、彼らは戦場に身を投じた。二人のラクササは敗れ、ビダドロに変じた。彼らはサン・サデウォに感謝を捧げた。

魔術の書としてのスドモロ

 先の分析に基づいて明らかなのは、ラコン「スドモロ」は『ルワット』のラコンであるということである。信者たちは、キタブ「スドモロ」のキドゥン(祈りの歌)を真摯に敬虔な心をもって朗誦する。そうすることでサデウォとスマルがデウィ・ウモに対して行ったルワット(魔除け)が顕現するのである。キタブ「スドモロ」の魔術的力は信者に取って、まさにヤースィーン章(マッカ時代に啓示されたクルアーン第36番目のスーラ(章))や陀羅尼(死の祈り)のような特別な役割をもっている。
 そのキドゥンの神聖性や神秘的力から、キタブ「スドモロ」や同様の書はまさしく魔術の書、あるいはマントラ(呪文)の書と言われている。

解説者としてのスマルの登場
 キタブ「スドモロ」における、人間による神の魔除け(ルワット)、そしてキヤイ・スマル、サン・ヒワン・トゥンガル、サン・ヒワン・ウィセソ、サン・ヒワン・アシ・プラナ登場は、キタブ「スドモロ」の魔術書としての側面で、数多くの神々を奉じていた(多神教)祖先の信仰が一個の神すなわちサン・ヒワン・ウィセソニン・トゥンガル(ウィセソwisesa=ウェナンwenang=マハ・クアサmaha kuasa(大いなる力)と唯一(Esa)を意味するトゥンガルtunggal、またアシ・プラナAshi Pranaは生命を与えるものを意味する)へと移行するターニングポイント(明らかにそして決定的な復活)でもあることを明らかにしている。
 ここに現れるのは、神(バタリ・ウマ)が人間(サデウォとスマル)によって救済されるということである。この物語は神が人間よりも力の弱い者であるということを容易に理解させてくれる。さらに明白なのは、ダラン的見解において、神がキヤイ・ルラ・スマル・ジナノバドロ Kyai Lurah Semar Jnanabhadra に勝利し得るラコンは一つとして無い、ということである。
 あらゆる物語が、確かな目的を持って、意図的にそのようである。偶然ではない。バトロ・グルが、公正なるサデウォの魂に入魂する(manjin=入るージャワ語)のは、シヴァを崇拝する支配階級の感情を害することのないようにするためである。ジャワのキタブの作者たちはまた、通常はあからさまにせず、隠喩や象徴で韜晦するのである。
 サン・ヒワン・トゥンガル、サン・ヒワン・ウィセソそしてサン・ヒワン・アシ・プロノの記述とキャイ・ルラ・スマルの登場は、隠されてはいても、マハデウォ、マハ・クアサとしてのシヴァを否定し認めないという意図をもっていることが明らかである。
 ポリスの宗教(国家に信仰されるもの)に対するソクラテスの取った方法とは違っていた。ソクラテスは一神教のデモン(ダイモニオン)の教義を用い、国家の宗教に公然と異を唱えた。その率直・直裁のゆえ、ソクラテスは後に死刑に処され、毒を仰ぐこととなったのである。魂を奪う毒の一口が、罪を与えた支配者たちの名よりも賛美され永続されるとは、なんとも奇妙なことである。
 上記の分析に基づいて我々は、スマルが真実、何者でまた何であるのかということをさらに噛み砕いていこうと思う。

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-01-24 23:51 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

試訳「スマルとは何者か?」 序文

 ワヤンにはポノカワンと呼ばれる道化たちが登場する。これは親父と三人の息子たちで、スマル(父)、ノロ・ガレン、ペトルそしてバゴンの名をもつ。一晩のワヤン上演で真夜中、ゴロゴロという場面からが彼らの登場である。とくに父親のスマルは、ワヤン世界の最高権力者たるブトロ・グル(シヴァ)の兄ともされ、ワヤンの世界に多大な影響力を付与されている。
 このスマルが、どういった経過でワヤンの世界に導入されたのか、また彼の担う機能・役割は何なのか?といったことは、今日に至までワヤンに関心を持つ者にとっては、興味深い問題である。
 スリ・ムルヨノ著、『スマルとは何者か? Apa dan Siapa Semar? 』は、これらのスマルに関する問題を、網羅的、アカデミックに探索した名著である。日本語訳はでておらぬので、拙訳で恐縮ではあるが、ご紹介する。インドネシア語で130頁ほどの分量であるが、頭から全部、通して載せて行きます。しばらくは、この本の訳が続くこととなるので、ご海容のほどを。
 まずは序文から。

序文

ビスミラーイ・ラーマニ・ラーヒム
 この、いと弱き人間に恩寵をお与え下さった、栄光につつまれ、高貴なるアッラーのお御身に『神に栄光あれ』との感謝の意を捧げます。かの恩寵により、筆者はこの卑小なるワヤンの本を再び著すとができました。
 この本は新しい本というわけではない。1975年にBP・ALDAから初版が出版された『ワヤンの起源、哲学そしてその未来 Wayang, Asal-usul,Filsafat dan Masa Depannya 』という本の第十章と十一章を独立させたものである。今回の再版に際して題を改めた。基本的には初版と第二版に違いはないが、たくさんのご要望に想いを馳せて、この本では『スマルとは何者か? Apa dan Siapakah Semar? 』という点について独立させ、拡大し探求した。
 この本では多くの専門家たちの意見を比較した。NJ・クロム博士、ジョインボル博士、プリヨフトモ教授、プルボチャロコ教授、クス・サルジャナ博士、GAJ・ハゼウ教授、ピゴー博士、セルレア博士、キ・M・A・マックフォールド教授、セの・サストロアミジョヨ博士、ヴァン・スタイン・カレンフェルズ博士、I・R・プジャウィヤトノ教授、リー・クーン・チョイその他の方々である。
 上記専門家たちの意見を比較し、『スマルとは何者か?』という命題の意味と本質を探求した。
 ワヤンのスマルは一枚の皮に過ぎないとはいえ、それは深く、入念に学ぶに大いなる価値をもつ、象徴=シムボルである。我々はシムボルを持たない人生は無い、ということを意識しなければならない。文字や絵は言語のシムボルであり、それは人間というもののシムボルでもある。
 シムボル、つまり象徴とは真実なるものなのか?象徴とは具象(対象)に対する人間の概念の乗り物、また意味付けであり、それゆえシムボルは、精神の表現、客観的魂の態様、つまり人間の概念の意図する形象として、再びひとつの形を与えられるのである。それゆえ、象徴はつねに概念を指し示しているのである。
 であるから、象徴化(シムボライズ)とは、人間の精神の精髄たる活動、また核となる活動なのである。またシムボライズとは、具象的また非具象的な問題に対する、人間がもつ本質的な解決法でもある。たとえば典礼、宗教、神秘主義、神話、儀式、藝術作品その他。
 さあ、ここにワヤンのスマルの象徴する意味が横たわっている。ワヤンにおけるスマルは、難解な性質の象徴を担っている。ワヤンのスマルの人物像を学び、典礼、神秘主義、儀式、宗教、彼の担う規範と性質を知り、理解できるよう期待しよう。
 スナン・カリジョゴ IAIN(Institut Agama Islam Negeri 国家イスラーム学院)の布教学(Ilmu Da'wah)とガジャ・マダ大学の神学哲理の碩学、キ・M・A・マックフォールド教授も、プノカワンとスマルの役割が、ワリ・ソゴとイスラム布教者たちの説教者としての役割と成果を伝えることにある、という意見を持っていた。
 さらに著者の心を励ましてくれたのは、ジェンドラル・ビムビンガン・マシャラカット・イスラム(イスラム布教会)の理事、エフェンディ・ザルカシEffendi rkasi 博士の1975年4月24日にR・プジョスブロト Poedjosoebroto の著作のための激励の言葉である。
 「ワヤンの問題のあらゆる側面のなかでも、多くの人にまだ知られていないものに、イスラム布教とワヤンの関係がある。」
 ワヤンの人物を見回してみても、ワヤンを見たことのある人で、スマルを知らない人はいないと言ってもよいだろう。それはスマルがいつも魅力的であることと、入念にそして深く学ぶだけの価値があるからである。
 著者はこの本が、全てを言い尽くしているなどとは思っていない。多くの不足があるであろうし、また体系的な点での見落としもあろう。どうかこの謙虚さと深い敬意をこめた小さな贈り物が、好意をもって迎えられ、ワヤンに興味を持つ方々にワヤンの花園を見るためのささやかな手引きとなり得ますように。
 最後に、写真やワヤン、書籍をお貸し下さり、数々の価値ある提案、教示を与え、この本の出版に尽力してくれた友人、同僚たちに感謝の言葉を捧げる。とはいえ、この本の内容については、彼らは責任を負うものではない。

1978年6月14日
著者 Ir・スリ・ムルヨノ

(つづく)
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by gatotkaca | 2012-01-23 13:10 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ジャワの暦とワヤンの物語

 新年となったので、暦の話から入りたいと思う。かつて日本でも暦を見て吉凶を判断したように、ジャワ(バリ)にも特有の暦がある。ジャワの人と話をすると、暦はけっこう気にするようで、暦に会わせて行事があるようである。筆者は詳しくは知らないのであるが。ジャワ・バリの暦のサイクルをウクといい、暦はパウコンという(らしい)。以下パウコンの概略と、その起源に関わる物語を紹介する。

Wuku
ウクとは30週間でまわるタイムサイクルの名。1週間(プカン Pekan)、7日間単位からなり、210日で1サイクルとなる。ウク算法は主にジャワやバリで使用されている(ジャワ語ではパウコンpawukon という)。
 計算法の基本概念は、ポンチョウォロ Pancawara(パサランpasaran=市場、ルギ Legi (甘さManis)・パインPahing (苦さPait)・ポンPon (Petak)・ワゲWagé (Cemeng)・クリウォンKliwon (Aish)からなる)と七曜サプトウォロ Saptawara(プカン pekan=週 Senin,Selasa,Rebo,Kemis,Jemuwah,Setu,Ahad/Minggu)のふたつを合わせて計算する。ポンチョウォロは五日間、サプトウォロは七日間で構成される。ひとつのウクは、ハリ・パサラン hari pasaran (五曜)とハリ・プカン hari pekan (七曜)の関係で確定される。たとえば、ハリ・サプト・ポン Hari Sabtu-Pon はウクではウグ Wuguとなる。バリやジャワの伝統的信仰によれば、これらの日は、それぞれ特定の意味を持っている。

 ウクは30種があり、それぞれプラブ・ワトゥグヌンの王国の物語に基づく。この王はシントという妃を持ち、28人の子をもうけた。これらの人物の名が、それぞれのウクの名となっている。
 まずはプラブ・ワトゥグヌンの物語を紹介する(Ensiklopedi Wayang Indonesiaによる)

プラブ・ワトゥグヌン

 プラブ・パリンドゥリヨ Palindriyaの息子。母の名はデウィ・シントであるが、これはロモウィジョヨ(ロモ=ラーマ)の妃のシント(シータ)ではない。妊娠中、デウィ・シントは離婚を望んだ。自身の妹が第二婦人とされることを望まなかったからである。夫と別れてから、デウィ・シントは森から森へと彷徨い歩いた。
 彷徨のさなか、デウィ・シントは男の子を産み、その子はジョコ・ブドウ Jaka Budukと名付けられた(あるいはラデン・ウドゥグ Raden Wudugとも呼ばれる)。いたずらものであったので、幼い頃、ジョコ・ブドウは米柄杓で殴られ、頭に傷があった。
 思春期を通じてジョコ.ブドゥは向こう見ずな性格からさまざまな経験をした。自分の名が気に入らなかったので、彼は自身の名をラディテRaditeにかえた。その超能力のゆえ、ラディテはついにギリンウェシGilingwesiの王となり、プラブ・ワトゥグヌンと称した。
 幾年かの後、森で狩りをしている最中、プラブ・ワトゥグヌンは、後に妃となる美しい女と出会い,恋に落ちた。結婚後多くの子をもうけ、子どもは28人になった。
 ある時、プラブ・ワトゥグヌンは妃に頭のシラミを取ってもらおうとした。お妃は夫の頭にある傷跡が留められているのを見て、ショックを受けた。彼女はその傷跡の由来を尋ねた。プラブ・ワトゥグヌンが話すと、彼女はこの夫が実は自身の子どもであることが分かった。彼女はすぐさま分かれようと望んだ。しかし、プラブ・ワトゥグヌンは承知しなかった。彼は妃をひじょうに愛していたからである。王はその美しい女が自身の実の母であることも認めなかった。妃は条件を掲げた。もし王が七人のビダダリ(天界の妖精)を連れ来て、妻妾とすることができたなら、彼女は喜んでプラブ・ワトゥグヌンの妻のままでいるであろう、と。
 長考することなくプラブ・ワトゥグヌンは同意し、デウィ・シントの望みを叶えるべくカヤンガン(天界)へ出発した。しかし神々はプラブ・ワトゥグヌンの懇願を受け入れなかった。そこでプラブ・ワトゥグヌンは力に訴え、かくて戦いが起こった。神々はバトロ・チトロセノ、バトロ・チトロゴド、そしてバトロ・アルジュノウィノンゴに率いられたドランドロdorandara を動員した。神々を相手にしたその戦いにおいて、プラブ・ワトゥグヌンとその配下は優秀であった。
 神たちの敗北の報を受けたバトロ・グルは、すぐさまウィスヌの化身で、地上を放浪しているルシ・サトモトSatmataを迎え、敵に対するように命じた。ルシ・サトモトは了解し、バムバン・スリガティSrigatiという超能力の苦行者である息子を伴ってカヤンガンへ出発した。
 一方、圧倒され,これ以上の損害を避けるため、神々はプラブ・ワトゥグヌンの望みを受け入れざるを得なくなった。望まれた七人のビダダリが与えられた。
 プラブ・ワトゥグヌンは大いに満足し、七人の美しいビダダリを連れて地上に戻った。しかし、ギリンウェシの王の一行は途中でルシ・サトモトとバムバン・スリガティと遭遇した。ふたりは七人のビダダリを天界へ返すよう求めた。ワトゥグヌンは拒否し、戦いとなった。彼らの超能力は拮抗した。
 劣勢になったワトゥグヌンは戦場を離れ、ギリンウェシへ逃げ戻った。ルシ・サトモトとその息子が追いかけた。ギリンウェシ王国で戦いは再開した。ついにプラブ・ワトゥグヌンは、妃と子供たちの眼前で斃された。王が斃されたのを見てデウィ・シントと子供たちはベロ・パティbela patiの儀式を行い、王の遺骸とともに炎に焼かれたのである。
 ジャワ文化においてプラブ・ワトゥグヌン、デウィ・シントと子供たちはウクwuku(西洋占星術の星座に類する)のそれぞれの名となっている。

ウク一覧
1.シントーバトロ・ヨモ Sinta - Batara Yama
2.ランドゥプーバトロ・マハデウォ Landep - Batara Mahadewa
3.ウキルーバトロ・マハヤクティ Wkir(Ukir) - Batara Mahayakti
4.クランティルーバトロ・ランスル Kurantil(Kulantir) - Batara Langsur
5.トルーバトロ・バユ Tolu(Tulu) - Batara Bayu
6.グムブルグーバトロ・チャンドロ Gumberg - Batara Candra
7.ワリンゴ・アリット(ワリンゴ)ーバトロ・アスモロ Waringa alit(Waringa) - Batara Asmara
8.ワリンゴ・アグン(ワリンゴディアン)ーバトロ・マハルシ Wringa agung(Waringadian) - Batara Maharesi
9.ジュランワンギーバトロ・サムブ Julangwangi(Julungwangi) - Batra Sambu
10.スンサンーバトロ・ゴノ・ガネソ Sungsang - Batra Gana Ganesa
11.ガルンガン(ドゥングラン)ーバトロ・コモジョヨ Galungan(Dunglan) - Batra Kamajaya
12.クニンガンーバトロ・インドロ Kuningan - Batara Indra
※この週のクニンガン Kuningan =サブトゥ・クリウォン Sabtu-Kliwonは祝日になる。
13.ランキルーバトロ・コロ Langkir - Batara Kala
14.マンダシヤ(ムダンシア)ーバトロ.ブラフマ Mandasiya(Medangsia) - Batara Brahma
15.ジュルン・プジュット(プジュット)ーバトロ・グリトノ Julung pujut(Pujut) - Batara Guritna
16.パハンーバトロ・タントロ Pahang - Batara Tantra
17.クル・ウレット(クルルット)ーバトロ・ウィスヌ Kuru welut(krulut) - Batara Wisnu
18.マラケ(ムラキ)ーバトロ・スランゴノ Marakeh(Merakih) - Batara Suranggana
19.タムビルーバトロ・シワ Tambir - Batara Siwa
20.ムダンクンガンーバトロ・バスキ Medangkungan - Batara Basuki
21.マクタルーバトロ・サクリ Maktal - Batara Sakri
22.ウイェーバタラ・クウェロ Wuye - Batara Kowera
23.マナイル(ムナイル)ーバトロ・チトロゴトロ Manahil(Menail) - Batara Citragotra
24.プランバカットーバトロ.ビスモ Prangbakat - Batara Bisma
25.ボローバトロ・ドゥルゴ Bala - Batara Durga
26.ウグーバトロ・シンゴ・ジャンモ Wugu(Ugu) - Batara Singajanma
27.ワヤンーバトロ・スリ Wayang - Batara Sri
28.クラウーバトロ・サドノ Kulawu(Kelawu) - Batara Sadana
29.ドゥクットーバトロ・サクリ Dukut - Batara Sakri
※この週のアンゴロ・カシ Anggara Kasih =スラサ・クリウォン Selasa Kliwon はジャワでは聖なる日とされる。
30.ワトゥ・グヌンーバトロ・アナントボゴ Watu gunung - Batara Anantaboga
※この週のジュマット・クリウォン Jumat Kliwonは、ジャワでは聖なる日、バリではサラスワティの日とされる。

パウコンのワヤン
 パウコンの書に、ウクの17、クルウレットについて記され、説明されている。
1.クルウレットはサン・ヒワン・ウィスヌ神に伺候した。
 クルウレットはスンジョト・チョクロを持ち、彼の後ろにはパリジョト Parijatha (夜香木あるいは月橘、ジャスミンに似た花を咲かせる)の木が立っていた。スパハン鳥Sepahan (未詳)がその枝に止まっていた。前には家が一軒建っていた。
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2.状況説明
 a. 神   :サン・ヒワン・ウィスヌ
 b. 樹   :パリジョト
 c. 鳥   :スパハン
 d. 建物  :前方にある
3.解釈
 a. ウク・クルウレットの人(クルウレットのウクに生まれた人)は、注意深くて、仕事をきちんとし、寡黙で、知性とセンスに富む。
 b. スンジョト・チョクロを持つ、とは戦略に長け、心の安定と聖性を好むことを意味する。
 c. スパハン鳥は、頭の回転が早く、何をするのも卒がないことを意味する。
 d. パリジョトの木は、兄弟の間に少々苦労があることを意味する。
 e. 前方にある建物は、惜しみない富をしめすが、慢心すると続かない、という意味になる。
4.不運(事故)
 人を虐めると不幸になる。
 幸運を得るためには:7匹のヤギ、そのうち2匹は前足の毛が白いもの、すべて調理されているもの。百回のクテン ketheng の祈りの行をおこなうと、幸運が与えられる。
5.アイル・バ(洪水)に象徴されるのは、役に立たない大風呂敷の話をする、習慣・気質があることを意味する。
6.考慮すべきこと(perhitungan)
 綿の病気に注意。
7.生まれ
 それぞれのウクは7日間ある。ウク・クルウレットは次の曜日の組み合わせからなる
曜日         神       パダンゴン(Padangon)   パリンクラン(Paringkelan)
1 アハッド・ワゲ Ahad Wage  コロ Kala    ジャグル Jagur      ウワスUwas
2 スニン・クリウォン Senen Kliwon ウモ Uma    ギギス Gigis        マウル Mawulu
3 スラサ・ルギ   Selasa Legi スリ Sri     クランガン Kerangan   トゥングル Tungle
4 ラブ・パイン   Rabu Phing   インドロ Endra  ノハン Nohan       アルヤン Aryang
5 カミス・ポン   Kamis Pon   グル Guru    ワゴン Wagon      ウルクン Wurukung
6 ジュマット・ワゲ Jumat Wage  ヨモ Jama    トゥルス Tulus      パニングロン Paningron
7 サブト・クリウォン Sabtu Kliwon  ルドロ Lodro   ウルン Wurung      ウワス Uwas
*Paringkelan :パウコンの日とそれらの運命への影響(tengle, aryang, warukung, peningron, uwas, mawulu).

 意味とその気質は
コロ=悪,貪欲         ジャグル=虎→甘い、強い、無知  ウワス=横柄
ウモ=慈悲深い         ギギス=大地→包容力,強さ    マウル=憧れ
スリ=慈悲深い、愛多い     クランガン=太陽→慎重      トゥングル=拒む
インドロ=横柄、慎重      ノハン=月→慈悲深い       ワルヤン=忘れっぽい
グル=試すのが好き、報酬をあたえるふりをする ワゴン=毛虫→勤勉、堅実  ウルクン=不注意
ヨモ=怠惰,不注意       トゥルス=水→上品な望み     パニングロン=貪欲
ルドロ=怒り          ウルン=火→怒りっぽい      ウワス=横柄

 まあ,上記のようなこみいったパタンの組み合わせで、うまれた日による人物の性格診断や、日の吉凶を判断するわけである。特に12のクニンガン、28のアングロ・カシ、30のサラスワティの日などは重要視されるようである。クニンガンなどについては、松本亮の「ジャワ舞踊 バリ舞踊の花をたずねて」(めこん社 2011年)などでも触れられているので参照してください。
 しかし、暦の起源説話に登場するプラブ・ワトゥグヌンとその一族の運命は、悲劇的で、理不尽な話であるところが、なんとも不思議でもあり,また、ジャワ・バリらしいという気もする。妻であるデウィ・シントが夫ワトゥグヌンの後を追って火に入るのは、ヒンドゥーにおけるサティーの習慣を反映したものであろう。このような例は、マハバラタ(「カカウィン・バラタユダ」)における、アビマニュとシティスンダリにも見られるから、分かるが(今日の倫理感に合致するかどうかは別)、子供たちまで全員殉死するのは、特殊なように思える。残念ながら手元に資料が無いので、現在はこの物語の由来等は不明だが、調べてみると面白いかもしれない。
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by gatotkaca | 2012-01-05 18:27 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

謹賀新年

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本年もよろしくお願いいたします。
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by gatotkaca | 2012-01-02 15:55 | 切り絵 | Comments(0)