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木から落ちた猿

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おじいちゃんの絵

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 おじいちゃんの絵を描きたいとおもっていたので切ってみました。フィドルはデッサンがむづかしいです。モデルはぼくの好きなオールド・タイム・フィドラー。知り合いではありませんので、写真です。それを屋根の上に乗せてFiddler on the Roofです。
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 切り文字もやってみました。
 ちなみにぼくにフィドルを教えてくれたのは、カナダの人で、リチャード・ウィリアムという若いおにいさんでした。渋谷駅構内で弾いていて駅員さんに注意されていたのを、ひきとってきました。彼にはアイリッシュ・チューンを4曲(ジグ3曲とリール1曲)教えてもらいました。いまも元気にしているであろうか?
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by gatotkaca | 2011-06-30 23:36 | 切り絵 | Comments(0)

いつのまにか

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 2011-06-14「蝶の手前」の子のその後です。いつのまにかからっぽになっていました。今朝庭をとびまわっていたアゲハがそうなのでしょうか?
 まずは元気そうでよかった。
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by gatotkaca | 2011-06-30 23:26 | 雑記 | Comments(0)

ワヤンとは?その7 〈ダラン-6〉

 1602年、東方貿易を統合したオランダは「連合東インド会社 (Vereenighde Oost Indische Compagnie)」いわゆる「オランダ東インド会社 (略称VOC)」設立し、貿易拠点を求めて、ジャワに進出をもくろむ。マタラム王国で18世紀前半に3回におよんだ王位継承権争いは、オランダ東インド会社(VOC)の介入を誘い、王国に終焉をもたらすこととなった。
 パクブウォノ2世の死後、パクブウォノ3世(位1749-1788)の即位をめぐってマタラム王国で起こった第3次ジャワ継承戦争(1749~1755)において王国は「スラカルタ王国」と「ジョクジャカルタ王国」に分割された。その後1757年にスラカルタ王国にマンクヌゴロ王家が、1813年にはジョクジャカルタ王国にもパクアラムという分家が生まれ、結局マタラム王国は四つの土候領に切り刻まれ、全く無力化されてしまった。フランス革命の影響で1795年オランダに革命政府が樹立、VOCは1798年に解散する。インドネシア地域はオランダ直轄領東インドとなった。東インド植民地となったこの地で1928年10月26~28日、バタヴィアで開かれた第2回インドネシア青年会議において、会議の最終日である10月28日、「青年の誓い (Sumpah Pemuda)」が採択さた。ここにおいて、本来学術用語として生み出された「インドネシア」という言葉が、自分たちのアイデンティティを表現する用語として採用されたのである。ジャワ、スンダ、ミナンカバウ、バタック……といった個別の民族の枠を越えた、東インド国家に住む原住民族の統一体としての「インドネシア人」という概念が、歴史上初めて誕生した。その後の日本軍政下からスカルノを中心とした独立運動を経て、インドネシア共和国が誕生する。
 上記概括をみてもわかるように、ジャワにおける社会・共同体の変動はその後も歴史の動乱の中で、とどまることなく今日に至っている。共同体のアイデンティティーの不安定が収まらぬ限り、「語り部」たるダランの機能も収束せず、ワヤンは世界に類をみない即興性をそなえた芸能として展開しつづけたのである。

 ワヤンにおいてダランがその上演の全権を掌握し、語りも即興性を駆使してなおかつ高い文学性を保っていたのは、キ・ナルトサブド Ki Naurtosabudo を最先端としていた1970年代頃までが最高潮であったように思う。ナルトサブドはワヤンに使用されるガムラン音楽を、それまでの地域密着の定型から解放し、さまざまな地域のスタイルを導入して独自のガムランスタイルを確立した。また、その語りも、地語りを重視した伝統的「語り部」の様式から、心理効果を重視した、より演劇的な演出を取り入れた。このことによって、ナルトサブドのワヤンは、それまでのリージョン・スタイル(地域様式)から大きく脱皮し、汎ジャワ、汎インドネシア的展開を可能にしたのである。
 その後、1980年代の実験的要素の導入期を経て、現在のワヤンは、大きく様変わりして来ている。1980年代から台頭して来たキ・マンタプ Ki Manteb は、演出をより視覚効果の面の充実に傾け、その人形操作の技倆と相まって絶大の人気を博した。点滅するブレンチョン(一灯の光源)、ストロボやスライドの使用。戦いの場面でのカンフー風の派手なアクション。それらは観る者の目を釘付けにし、言葉の壁、文化の壁さえもものともしない汎用性を備えていた。一方で語りの重要な部分については、ブレーンの書いた原稿を読み上げ、地語りはほぼナレーションと化し、登場人物達の会話のテンポはより演劇あるいはドラマ的になっていた。
 2000年代に入ってからのワヤンの動向については、「日本ワヤン協会」の会報「ゴロゴロ通信」によせられた、ジャワの地でプロのプシンデン(Pesindhen ガムラン音楽での女性歌手)として活躍されている狩野裕美氏の寄稿にくわしい。(ゴロゴロ通信60 近頃のジャワ・ワヤンゴロゴロ通信67 ワヤン・クリ上演の意味 狩野裕美)
 こうした変化を、マスメディアの台頭に押された、伝統芸能ワヤンの形骸化として嘆く向きもあるかもしれない。たしかにダランの「語り部(共同体の調整者)」としての役割は終焉に向かっているのかもしれない。しかし、「語り部」を必要とする社会は、アイデンティティーに揺らぎを内包する内部的に不安定な社会であり、「語り部」が機能を終えた社会は、たとえ外圧や政治的不安定を抱えていたとしても、共同体内のアイデンティティーは一定の安定を得ている社会であるといえよう。ワヤン一千年の歴史においてダランたちは、自らを必要としない安定した共同体の実現にその命をかけてきた。ゆえにワヤンは一晩にわたる上演の、その語りの終わりに「災いのないように、ひとたび独立を果たせば、ここに永久(とわ)なる独立を Sepisan Murdeka Tetap Murdeka, Lir in Sanbekara」と唱えてきたのである。ダランの終焉はその祈りが結実しつつあることの証でこそあれ、何人もそれを嘆く必要の無いものなのだ。                
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by gatotkaca | 2011-06-30 22:21 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンとは?その6 〈ダラン-5〉

 ワヤン・ベベルは、記録によれば、マクラム王国2代の王セド・クラピア(在位1601-13年)即位のとき、魔除けとして上演されたのを最後に、以来新しく作られることがなくなったと伝えられる。そしてワヤン・クリ隆盛の時代がやってくるのである。
 現在のワヤン・クリおよびワヤン・ゴレにおいてダランはその語りに、一定の制約があるとはいえ、相当な即興性がみとめられている。その先後は歴史学的に確定したものではないが、ワヤン・クリ、ワヤン・ゴレともにワヤン・ベベルのあとに発生した形態と思われる。いずれにしても、ワヤン・クリが隆盛を極めていった時期には、社会体制は王制の安定期にはいっていたのであるから、本来ならダランの語る詞章は固定化が進んでおり、そのまま行けば現代のワヤン・クリの詞章もかなりの部分が固定化されていたはずである。
 現在のダランの語りに与えられた多大な即興性拡大の原淵、すなわち、「語り部」に即興を要請した社会・共同体的要因は何か。

 当時ジャワ島では、北岸に成立したイスラム小国群(デマク、チレボン、ジェパラなど)が栄華を誇ったヒンドゥー王国モジョパイトを内陸部に閉じ込め、1480年代以降激しく領土を蚕食して1520年頃までに滅ぼすにいたる。そして16世紀半ば、デマクを中心とする国家連合は、今度は中部ジャワ内陸部への進出、「マタラム王国(マタラム・イスラム)」が成立する。その頃、デマクで内紛が起こり、デマクはバンテン王国、チレボン王国などいくつかに分裂する。間もなくマタラム王国も独立、1590年代にはスラバヤを除く中部・東部ジャワ海岸地帯の全港市国家を支配下に置き、さらに西部ジャワのバンテン王国を攻撃した。
 そしてマタラム王国は、スルタン・アグン(位1613~1646)の時代に最盛期を迎える。マタラムは1620から1625年頃にスラバヤ港を攻め落とし、中部・東部ジャワのほぼ全域を手中に収め、西のバンテン王国とジャワ島を二分する強大な国家となった。
 スルタン・アグンの膨張政策は、中部・東部ジャワのイスラム化を徹底した。彼がバリ島征服に失敗したため、バリ島や小スンダ列島(ヌサ・トゥンガラ)には辛うじて伝統的なヒンドゥー文化が残されたが、遠征が成功していれば、バリ島もイスラム一色に塗りつぶされ、バリ・ヒンドゥー文化は失われていただろう。
 モジョパイトの王族やヒンドゥー教徒たちはバリ島へ亡命した。それゆえ現在バリ島はインドネシアで唯一ヒンドゥー文化を残しているのである。バリ島民たちは、自分たちはモジョパイト王族の末裔だと信じているといわれる。
 上記のような歴史的展開を反映して、ジャワ文化の共同体は、イスラム導入に伴うコスモロジーの転換、および共同体の分裂の危機を乗り越える必要に迫られたのである。形骸化しつつあった「語り部」の共同幻想(コスモロジー)の一元化を推進する装置として機能は再び活性化した。それに加え、ワリ・ソゴ Wali sanga と呼ばれた9人に代表されるイスラムの布教者たちが、ワヤンを積極的に布教活動に利用した。今日もワヤン・クリを代表する演目のひとつとされる「デウォ・ルチ Dewa Ruci」(1450年頃の成立とされる)は彼らによって創作されたとつたえられる。ワリ・ソゴのワヤン活用の特徴は、すでに存在したワヤンを全面的に否定するのではなく、マハーバーラタ、ラーマーヤナというヒンドゥーの物語を換骨奪胎して、その内にイスラムの理念をしのばせるという柔軟な方法をとったことにある。ワヤン上演を通じて、イスラム布教の最先端にその身を置くこととなったダランたちは、土着信仰、ヒンドゥー信仰を根強く身に染み込ませた観衆を前に、彼らの反応に即妙の対応を求められたことだろう。ここにいたり、固定化しつつあった「語り部」の機能は再び活性化し、ダランには多大なる即興性と上演の統制に対する絶対的権力が与えられた。「語り部」の復活である。
 ジャワのイスラム化が、ダランの語りに即興性を与えたであろうと推測できる傍証として、ジャワのイスラム化完了前に枝分かれしたとみられるバリ島のワヤンでは、その上演においてダランの語る重要な部分は、すべてカウィ語で語られ、固定化されていることがあげらる。ジャワのワヤンにおいてダラン=「語り部」に与えられた即興性に対する社会・共同体的要請は、イスラム化という宗教・文化改革に対応しようとする、共同体の一体性の回復・再構築への希求であったといえよう。
 
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by gatotkaca | 2011-06-28 22:40 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

Beautiful Dreamer

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 自分としてはちょいと新しい方法を試してみました。まだ研究せねばならぬようです。
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by gatotkaca | 2011-06-27 02:11 | 切り絵 | Comments(0)

水神祭

 25日は僕の町の水神様のお祭りでした。今年は町内会で4000個用意した参拝者へのお土産お菓子も足らなくなるほどの人出。途中雨もぱらついたのですが、本降りにはならず、参拝客に事故も無く、万事無事に終了。われわれ育成会は、祠のすぐ横でお守り販売を担当しました。毎年、地区に住む大勢の子供達がおとずれ、たのしみにしているお祭りが、今年も無事に終了し、神に感謝。お守りもたくさん売れました。(これで育成会も盛大に慰労会を催せる予定?)夕方からは、お守り販売のテント内で、町の長老集もぐびぐび酔い加減も絶好調でした。地方自治に献身する町内会の面々に敬意と感謝。

 よくよくみると水神の社の奉納者の名が「子供中(こどもじゅう)」となっていた。「若衆」「大人衆」「子供衆」(〜中とも書く)の子供中である。ああ、この水難から人々を守る神は、こどもたちの神であったのかと、妙になっとくしたことであった。
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by gatotkaca | 2011-06-26 01:46 | こども会 | Comments(0)

ワヤンとは?その5 〈ダラン-4〉

 今日みられるワヤンの形態で最も古体を止めていると目されるのは、ワヤン・ベベルと呼ばれる形式である。現存するワヤン・ベベルは東部ジャワのパチタン Pacitan と中部ジャワのウォノサリ Wonosari にある2種類が知られており、内容は異なるがどちらも扱う物語はパンジ Panji 物語と称されるジャワ固有の説話に基づく。これは複数幅の巻物に描かれた物語を繰り延べながらダランが語る形式のものである。絵巻物であるから当然場面転換やその順番、伸張は固定されていて動かしようが無い。伴奏のガムランは定められた曲をエンドレスに奏しつづけ、ダランの語る詞章は、一言一句たがえてはならぬとされている。ダランは手にした孔雀の羽の指示棒で各場面を指し示し、巻物を繰りながら上演を進行する。つまり、ここでのダランの語りは、固定詞章によるもので、ワヤン・クリ、ワヤン・ゴレにみられるような即興性は認められていない。前回の「語り」に対する論に即していえば、現存のワヤン・ベベルのダランが喚起する上演上の時間は、完全なる過去の再現である。ここでダランのはたす機能をシャーマン的なものとみなすべきかはやや疑問がある。むしろ前論で示した「調整」済みの共同体における詞章固定化の帰結とみるほうが自然な気がする。ワヤン・ベベル成立当時、(15世紀にはワヤン・ベベルの存在が歴史上あきらかになっているからそれ以前)ジャワではすでに中央集権的王制国家が出現しており、「物語」の機能は王権の補完・増補への寄与にあったはずである。「語り部」の共同幻想の一元化を推進する装置として役割はすでに終焉期に入っていたと考えられる。そして、ワヤンは王制の保護のもと、語り物から、多様なジャンルへの形態進化を始めた。今日みられるワヤンの多様な上演形態分化の萌芽はこの時期発生したのだろう。この後ワヤン・ベベルは衰退に向かい、現存するベベルは言はば生きた化石となったのである。
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by gatotkaca | 2011-06-24 19:53 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

橋口五葉、渡辺庄三郎、伊東深水

 千葉市美術館へ◆生誕130年 橋口五葉展◆2011年6月14日(火)~7月31日(日) を観に行ってきました。
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  橋口五葉はずっと気になっていた人なのだが、画集もでていないし、彼の全貌というのは皆目見当がつかなかったので、たいへんありがたい展覧会であった。五葉については「我が輩は猫である」をはじめとした漱石の著作の装丁者、そして東京江戸博物館のおみやげ絵はがき「髪梳ける女」の作者ということぐらいしか知識がなかった。今回四百点におよぶ展示は壮観であった。
 晩年の五葉は浮世絵の研究から自らの版画制作に着手し、大正三年「浴場の女」を発表。大正九年までに私家版木版11点を完成させたが、翌大正十年二月、流感から中耳炎を患い、脳膜炎を併発してわずか41歳で没した。これらの木版画および画槁も観ることができた。
 五葉が版画制作にはいったきっかけは、浮世絵商から出発し、一連の「新版画」の版元となった渡辺庄三郎との出会いであった。絵師・彫師・摺師を版元が演出し、錦絵にかわる現代の風俗画、風景版画を世に問うことをめざした渡辺庄三郎は、高度な彫摺術を活かした新作の下絵に、洋画家でありながら浮世絵に造詣の深い五葉を起用したのである。これが「新版画」最初の美人版画「浴場の女」を生んだ。
 しかし五葉はそのできに満足せず、五葉・庄三郎の共同は一作のみで終わった。その後庄三郎は、鏑木清方を通じて、当時十八歳の新鋭伊東深水の協力を得る。以後、深水は庄三郎のもとで六十数点にもおよぶ美人版画を製作した。「新美人版画」は伊東深水の名で記憶に止められることとなり、五葉は半ば忘れられた画家となっていった。
 「五葉,深水それぞれの第一作を出版した庄三郎は、その美人版画を比べ、五葉の繊細な才能、技術は認めながら、形は整っていて美事であるが、内面からにじみ出る女があまり感じられない、一方深水は、人間味そのままの女がにじみ出て感じられる」と述べた。(版画芸術60号・1988)
 たしかに巨星・伊東深水とくらべれば五葉の絵は若干生命力におとることは否めない。しかし、装丁・ポスターなどの仕事にみられるようにすぐれたデザイン感覚を持ち合わせていた五葉は、そのバランス感覚ゆえ、深水のようなデモーニッシュなまでの爆発力はついに発露させ得なかったのではないだろうか。今回あらためて五葉の諸作をみると、そのあやういまでのバランス感覚と繊細な美しさは、彼のはかない人生と相まって、とても愛おしいものにみえた。五葉、好きです。
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by gatotkaca | 2011-06-22 16:37 | 雑記 | Comments(1)

ワヤンとは?その4 〈ダラン-3〉

 ダランの考察に入る前に、まずは「語り部」の発生起源について考えてみたい。
 岸田秀のいうように人間の本能が壊れてしまっているかは別としても、その欲望の起源が外界との接触以前の全能の自己の回復を目指すことにあるのは多分間違いない。個人の欲望はそれが客観的にどうであるかと無関係に、過去の全き自己を想定することによって喚起され、営まれる。とすれば、個人の集合たる、共同体の欲望もまた、過去に存在したはずの完全なる世界を想定していることになる。ゆえに、祝祭・演劇・芸能の存在理由は、失われた完全なる共同体のコンセンサスを現世の時空間に顕現することにある。生命体の体内に老廃物が蓄積されるように、また、宇宙空間がエントロピーの増大を押し止められぬように、一定の共同体もまたその内部に澱を沈殿させ、共同体内の確執が顕在化し、その存在そのものが崩潰に向かっていくことは必然である。その崩潰をリセットするために、共同体は祝祭・演劇・芸能を生み出したといえよう。絶対的上位者としての神に祝福され、約束された完全なる共同体の原始の姿を、祝祭・演劇・芸能は現世に顕現させ、現世を予祝する。祝祭においては多くの場合、汚れを一身に請け負う供犠の提供によってこの円環が完遂することになる。ここに共同体のコンセンサスはリセットされ、ふたたび新たな歩みを進行するのである。
 共同体のかかえる共同幻想が安定していれば、顕現すべき絶対的上位者、神の依代たるシャーマンは直接神を降ろせば良い。そこで再現される時間は、完全であった過去のまま、原型のままでよいからである。観客たる共同体構成員はその原型に意義をとどめることが無い。過去はそのまま現在と同一視され、閉じた円環の中で、神・共同体規範・体制はアプリオリな存在として認知されている。この円環は同軸の永遠の中をまわり続けることになる。
 ところが、共同体が別の共同体と接触し、自己と異なる共同幻想を突き付けられ、それを拒むことが不可能になった場合、共同幻想の安定が揺らぐ。そのとき、「語り部」が登場することとなる。
 複数の共同幻想が対峙したとき、共同体は各々の共同幻想を相対化する要請を受けることとなる。一元世界が多元になる際、その擦り合わせが不可欠となる以上、各共同幻想はある程度の客観的批評を受け入れざるを得なくなる。この外部からのフィードバックを受け止める装置として、「語り部」があらわる。語り部の存在は、彼の語る「物語」が過去のものであることを決定する。シャーマンが過去を「現在」として喚起し、いわば時間を巻き戻す役割を担うのに対して、語り部は過去を「過去」のまま呼び寄せ、現世と相対的に並列してみせるのである。役者もふくめたシャーマンが、その全存在を憑依体に委ねるのに対し、語り部は、いわば覚醒した意識のまま物語を進行させる。共同幻想外部からの批判は覚醒した存在である語り部によって受け止められ、共同幻想は、多元的観衆の受認しうるものへと修正が施される。それまではトップ・ダウン式に固定されていた共同幻想が、語り部と観衆の間におこるフィードバック作用によってボトム・アップとトップ・ダウンのサイクルを形成しつつ、多元化した共同幻想を再度一元化するために調整・補完・増補される。多元化し流動化した共同幻想の瓦解をくいとめ、多様化した共同体構成員からのフィードバックを統合して再び共同幻想の一元化を推進する装置として、「語り部」は、「調整者」場合によっては「裁定者」として登場したのではないだろうか。
 そして、ある程度の一元化がすすめば、語り部の語る詞章は、固定化されていくだろう。もはや相反する幻想の衝突はなくなり、共同体の一体性の回復・再構築が終了すれば、喚起される過去は一様のもので足りるからである。その後に固定化された詞章の陳腐化を活性化させるために複数の「役者」の登場する演劇・舞踊劇が展開する。祝祭・演劇・芸能の歴史的発生起源はおおむねこのようなものであったのではないだろうか。
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by gatotkaca | 2011-06-22 03:20 | 影絵・ワヤン | Comments(0)

ワヤンとは?その3 〈ダラン-2〉

 ひとくちにワヤンといっても、その上演形態はさまざまである。影絵芝居ワヤン・クリと舞台で役者が演ずるワヤン・オランでは、これが同じワヤンという括りにあるのが不思議に思えるくらいだ。むしろワヤン・オランと一般のサンディウォロ sandiwara は一見同じ演劇形態に見える。Wikipediaによれば、Sandiwara は左のように説明されている。

Sandiwara adalah sebuah pertunjukan pentasan sebuah cerita atau disebut pula lakon dalam bahasa Jawa. Sebuah sandiwara bisa berdasarkan skenario atau tidak. Apabila tidak, maka semuanya dipentaskan secara spontan dengan banyak improvisasi.
(拙訳)サンディウォロとは、ジャワ語による物語(ラコンとも呼ばれる)を上演するものである。サンディウォロはシナリオを持つ場合もあれば、無いばあいもある。(台本が)無い場合は、即興を多用し、(流れにまかせた)自由な進行で上演される。

 ジャワ語で、即興もまじえて、ラコンを上演する。これではワヤン・オランとサンディウォロの差異がほとんど分らない。だが、このふたつは異なるものとして存在する。ワヤン・オランが広い意味でのサンディウォロに含まれるとしても、あくまでワヤン・オランというジャンルを形成する概念的基盤はあるはずである。では、ワヤンという演劇形態の根幹、ワヤン・オランとサンディウォロを分かつもの、すなわちこれがあればワヤンと呼ぶ、という要素は何であろうか?
 それこそがダランである。ワヤンの諸形態、クリ、ゴレ、オラン、ベベル、トペン、クルティク等に共通する要素はダランの存在である。ガムランもまたそうである、との意見もあろうが、近年頻繁におこなわれている新形式のワヤンにおいては、その音楽はガムランに限らない。そしてその場合であっても、(形だけでも)ダランは存在する。各形態でダランの果たす機能は若干異なり、とくにワヤン・オランにおけるダランの役割はほとんど形骸化しているとはいえ、ワヤン・オランはダランが存在するゆえにワヤンと冠されるのである。
 ダランはワヤンすべてのジャンルにおいて、つねに「語り部」として機能する。ワヤン・トペンやワヤン・オランにおいてダランは、ガムランの傍らで、劇全体の進行をうながす語りをおこなう。インド演劇におけるスートラダーラ Sutradahla に相当するといえるだろう(Sutra はサンスクリット語で「教典・聖典」を意味し、Dahlaは「流れ」を意味する。)スートラダーラはインド演劇においては座長でもあり、ダランと似かよった立場にあるといえる。ダラン Dalangの語はもしかすると ダーラ Dahlaの転訛かもしれないが、確証はない。ワヤン・クリの説明においてダランを「人形遣い」とするのは、誤りではないとしても、ダラン本来の機能を説明し得ないという点で、不備ではあろう。ワヤン・オランやワヤン・トペンにおいて、ダランは人形を操作することがないし、ダランの最も重要な機能は物語を「語る」ことにあるからである。それゆえにダランは一座において特権的存在として認識されるのであるから。

 ダランがおこなう「語り」とは何かという点については次回考察する。
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by gatotkaca | 2011-06-19 08:51 | 影絵・ワヤン | Comments(0)