ブログトップ

木から落ちた猿

gatotkaca.exblog.jp

2013年 05月 09日 ( 1 )

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 第15章

15. 女戦士ウォロ・スリカンディはビスモを倒すために生まれ変わったデウィ・オムボである

a0203553_624149.jpg

 デウィ・オムボはプラブ・サルヴォからもビスモからも拒まれて『傷心』した。ルシ・ロモパラスの意見を聞いても、心乱れるばかり、ますますどうして良いのか分からなくなり、悲しみと怒りがないまぜになっていった。恥辱と復讐心で一杯になり、フラストレーションで絶望的になってしまった。片思いの人のような感情が彼女の心を打ち砕いてしまったのだ。彼女はヤムナ Yamuna 河の岸辺に『足をぶらぶらさせて ongkang-ongkang 』座り、自身の運命を考えていた。
 胸の内に考えを巡らし、彼女はビスモを殺す方法を思いついた。デウィ・オムボはすぐさま瞑想に入り、サン・マハ・バタラ・アグンに祈った。ビスモを殺すことのできる、少なくとも辱めることのできる超能力を与えて下さいと。
 デワタ・アグンの恩寵により、彼女の内に声が聞こえた。ビスモを負かし、殺すことのできる者に生まれ変わる(インカーネーション)のだ。その生まれ変わりとは誰か?ポンチョロラディヨ Pancalaradya 国のプラブ・ドゥルポド Drupada の娘、ウォロ・スリカンディ Wara Srikandi に他ならない。その声を聞いてバラタユダの時まで待ちきれなくなり、他の事は考えられなくなった。彼女はすぐさま生まれ変わるために『nglalu 』つまり自殺した。デウィ・オムボは谷で燃え盛る火に飛び込んだのだった。薪に火をつけ、台上に登り、炎の海の中に身を投げる。自身の物語に別れを告げ、魂はウォロ・スリカンディを求めて彷徨うのである。
 その頃、ポンチョロラディヨ国ではプラブ・ドゥルポドがダヤン・ルシ・ドゥルノに恥辱を飲まされ、傷心していた。その心は恥辱と復讐に燃え盛っていた。復讐する他に道は無い。恥を雪ぐにはルシ・ドゥルノを殺すしかないのだ。
 その手段はデウィ・オムボのとった道とは違っていた。彼はルシ・ヨディヨ Yodya とウパヨディヨ Upayodya という名の二人のプンデトに頼んで神へ捧げる儀式を行った。ルシ・ドゥルノを敗ることのできる息子を神の恩寵として授けてもらうためである。捧げ物が整い、儀式が始まった。花園のように花を浮かべた鉢を使い、儀式は長く続いた。とつぜん戦士の装束に身を包んだ赤ん坊が現れた。その手には矢と弓が握られていた。王はすぐさまその子を取り上げ、ウォロ・スリカンディと名付けた。この子は後の日には女戦士となるであろう。今もすでに『ウォロ Wara 』(女戦士)のようだ。その時、デウィ・オムボの魂はウォロ・スリカンディの体内に入ったのである。
 火を捧げた所からは、戦士の装束と武器を携えた立派な男の子が現れた。彼も王子として取り上げられ、ドゥルストジュムノ Drestajumena と名付けられた。この時もまたその身体にはドゥルノに殺されたプラブ・パルグナディ Palgunadi の魂が入ったのである。後の日のバラタユダで、ドゥルストジュムノはルシ・ドゥルノを殺すことになる。デウィ・オムボの化身ウォロ・スリカンディはルシ・ビスモを負かし、殺すのである。
 この物語から得られる教えはどういったものか?オムボとビスモの物語は、人間には自身の選択が用意されているということを想起させる。人生はつねに『あれ』か『これ』を選ばなければならない選択に直面している。選ばないこともまた『選んだ』ことを意味するのだ。
 このように、ワヤンは人には自身が選択しなければならない時が事前に用意されていることを示してくれる。『私は何者か、何がしたいのか』。人はひとつを選ぶことで行動する。確かな、満足し得る選択・決定というものは無い。人間の先行き/方向は不確かで揺れ動いてる。自身にとって確かで善なる選択を決めることなど、人間にはできない。人間は自身の実存を生き、歩むことはできないのだ。人間はただ選ぶのみ、それが人生を意味あるものにするのである。
 デウィ・オムボの人生は混乱、困苦、迷いに満ちていた。いっぽうルシ・ビスモは自身の選択に対して一貫して不動であったのだ。
 ではオムボとビスモのケースについて、心理学的アプローチを用いて哲学的考察をしてみよう。

オムボ
 デウィ・オムボが許嫁のプラブ・サルヴォのもとを再度訪れたのは、彼女自身の選択であった。彼女はプラブ・サルヴォにもう一度受け入れてもらいたいと望んだが、きっぱりと拒まれてしまった。デウィ・オムボは今一度ビスモのもとへ戻ったが、ビスモもまた彼女を拒んだのである。最後に彼女はルシ・パラスロモに助けを求めたが、うまくいかなかった。デウィ・オムボは運命に翻弄されたのだ。しかし彼女は、転生した後、ビスモを敗ることができるという『予言』を慰めとして、自らの悲惨な人生に幕を降ろした。
 度重なる不運は精神にコンプレックスを生む。精神的葛藤は重層的フラストレーションとなる。障害や閉塞の生むフラストレーションが自身の状況を作り出してしまうのである。自分自身から発生したものではない出来事(実存的フラストレーション)が、後になって最終的にはまたフラストレーションとなって降り掛かり、自身の性格に打撃を与えるのだ。
 デウィ・オムボの場合、ビスモが原因で彼女の目的を達成することができなくなった。だからビスモ自身が酷いことをしたわけではないのだが、彼を憎むにいたったのである。山を持ち上げてビスモの頭に投げつけてやりたい気分だったのだ。しかし彼女は、か弱い女の身であった。恨みと憎しみで、デウィ・オムボは自分の感情をコントロールできなくなり、補償行為もポジティヴな昇華もできなくなっていた。結果的に彼女は他者を遠ざけ、孤独と不安と恐怖の感情に沈んでいくことになる。彼女はまさしく深い孤独の恐怖に取り憑かれてしまったのだ。そして自分自身を手放してしまったのである。結果的に彼女は被造物たる者の本質を見失ってしまった。
 そうでしょう?自分自身と他者との関係を断ち切ってしまえば、結局社会や世界との関係も切ることになるのだ。そして自分自身を満たすこともできなくなってしまう。自分から関係を断ち切ってしまうことはトゥハン〈神〉との関係を絶つことでもある。要するにデウィ・オムボの精神は『統合 wurung 』できなくなり引き裂かれ、壊れ手しまったのだ(統合失調症)。その精神的疲労が頂点に達し、バランスが取れなくなって、ついに彼女は致命的で馬鹿げた決断に走った。つまり自殺である。

ビスモ
 ビスモの性格は違っている。彼もまたフラストレーションを経験した。ちがいますか?アスティノ国王になるという彼の目標、希望はスティヨワティ(ドゥルガンディニ、ロロ・アミス)によって妨げられた。ビスモは道徳的葛藤、倫理的ディレンマに陥った。彼が王になることを選べば、(父)スンタヌはデウィ・スティヨワティを妃にしたいという思いを妨げられ、父がフラストレーションを抱えることとなる。そうなれば父は苦しむだろう。彼は自分自身よりも父への愛を選んだのである。
 彼が父とデウィ・スティヨワティの結婚を承認すれば、彼は王位継承権を失う。ふたつの選択は同等の重みを持っていたが、彼はひとつを選ばなければならなかった。スンタヌ(父)の苦しみか、アスティノの王位継承権を失うという彼自身(ビスモ)の苦しみか。
 ここにおいてビスモは断固たる決断を下す。父とデウィ・スティヨワティの結婚を許すという二番目の選択肢を選ぶのである。この決断は彼がアスティノ王国の相続権を失うというリスクを持っていた。さらに彼はブラフマチャリヤとして生きることも決めた。この決定は、生涯女に触れてはならないというもうひとつのリスクも生んだのである。
 この出来事はビスモが(リスクをあえて取る)桁違いの気概を持った男であること示している。なぜ彼はこのような態度をとったのか?彼には、人生とはリスクと苦しみに満ちたものであるということが分かっていたのだ。リスクをとる決断は、彼が危険や不安と対峙しなければならないことを意味する。しかし人間にとって、決断できないということと選択を決定するということは同義であり、共に自分自身を否定することなのである。
 ビスモは先も言ったように、問題を見詰め、立ち向かうタイプの人である。彼は『決断』が苦しみを生むということを悟っていたのである。しかし彼は自分自身を信じ、自身の決断が自分にとって最善であると信じた。だから彼は物事に対し冷静でいられたのだ。彼は彼方にある結果を見通すことのできる、特別な感覚の持ち主であったといえる。
 こういった態度や性格から、彼は大きな戦いにおける司令官として相応しい人物であると思える。むろん司令官には決断力、作戦の計画力、先見性、熟達した行動力といったものが必要とされる。さらに臨機応変さや行動における英知も要求されるのである。それゆえ、司令官・指揮官を目指す者はビスモの態度、性格にならうべきであろう。
 新たな疑問として浮かぶのは、ビスモの人生の歩みはどうであったか?ということだ。その人生において、ビスモもまた孤独から逃れることできなかった。彼は世俗(王権)から離れたが、その孤独を人生のポジティヴな方向へ昇華させた。張りつめた孤独を、ブラフマチャリヤとして生きることで精神性を高める重要な要素に変えたのだ。
 彼はまさしく精神性の高い生き方をし、より高い人生の価値、トゥハンに心を開いた。彼の心は愛に満ちあふれていた(アスモロ・サンタ asmara santa )。彼の孤独が今や彼に以前の情熱を取り戻させたのだ。自分自身に対峙し、世界に向き合うこと(自身の再発見)へと。
 むろん、王と僧は見た目からして異なる。しかし、それは外見にすぎない。その本質は同じである。それは行動によって明らかとなる。なぜ彼は成功したのか?決断に際して彼は自分自身を信じた。精神性を極めた者は人と社会に対して王に匹敵する有用性を持つと。そしてそれは真実である。ビスモの生き方はあらゆる人に尊ばれ、手本とされるべきものである。この世の庶民、僧侶、そして大王たちによって。
 少々心理学的アプローチをしてみた。上記の二つのタイプの性格は、その社会的、文化的背景が異なっているとはいえ、フラストレーションに対峙したひとの類型の観察として有用性のあるものだと思う。

有益でありますように。
[PR]
by gatotkaca | 2013-05-09 06:24 | 影絵・ワヤン | Comments(0)