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木から落ちた猿

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ワヤンの女たち 第12章

12. シント、苦しみの生涯の果てに大地に呑まれたひと

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〈デウィ・シント Dewi Sinta 〉

 なぜシントの生涯は苦しみに満ちているのだろうか?どうしてバタリ・スリ〈インドでのシュリー、ジャワでは稲(大地)の女神とされる〉の化身であるシントは大地の裂け目に呑込まれてしまったのか、信じ難いことである。こういった質問を読者の方々から受けた。
 たしかにシントはバトロ・ウィスヌの妃デウィ・ウィドワティ Dewi Widawati 、つまりバタリ・スリの化身である。ラマヤナを読めば、それがヒンドゥーの人々、またジャワ人の人生観・態度といったものから切り離せないことがわかるであろう。混乱や見当違いを避けるため、まず事前に論者は自身の立場と選択の確定することが望ましい。ロモとシントの物語 lakon を外面、内面、現象面から見詰めることが求められるのだ。象徴的に見れば、シントはスリ・ロモ(ウィスヌ)と協力して強欲を殲滅し、正義を執行する者である。ウィスヌ神の役割は〈世界を〉発展させることであり、ブラフマンは創造、そしてシヴァが破壊である。それぞれのウィスヌはモヨポド〈myapada 下界〉の法を定め、強欲を殲滅し続けるのだ。〈ヒンドゥーの世界観によれば、世界は創造・維持・破壊のサイクルを繰り返す。ウィスヌは世界が生まれる度に、世界の維持につとめるのである。〉

 森の中でシントはキジャン・クンチョノ Kijan kencana 〈黄金の鹿〉を見た。煌めき輝くもの、つまり黄金を追い求めることなど、たいした価値がないはずなのだが、シントはその欲求を消し去ることができず、ロモはシントの願いを聞いた。かくてロモは「己の義務を忘れる」にいたったのだ。ウェドトモ Wedhatama で『Durgameng tyas kalimput 〈危険に向かうという過ち〉』と述べられているものである。
 しかし、スリ・ロモ自身から見れば、所有欲などというものは捨て去る(放つ)べきものである。にもかかわらずシントは、まさしく自身の欲望にとらわれてしまったのだ。象徴的には、捕まえられるものは鹿ではなく、シントの方がラウォノによって現実化された自身の欲望によってとらえられ、絡み取られてしまったのである。ロモ・サーガではラウォノは『シントの父』なのである。
 ほとんどの聖典、良書において、神、または預言者の言葉として『餓えや渇きといったすべての欲望と戦え、さすれば欲望の代価として神への道が示される。神に愛されることは餓えや渇きの欲求にまさる。』とある。
 ヴェーダの教えにおいては、しばしば述べるようにポピュラーなものとして、『 cegah dahar lawan guling, Kawawa nahan hawa, angekes dur angkara 〈食欲をおさえ、そのまま耐えて、悪しき強欲を切り刻む〉その他』がある。
 ワヤンではシントは約十三年間『強欲の宮殿』にむりやり閉じ込められていた。さて、ワヤンは人生に想い起こさせる。幸福になりたいと思っても、それを追い求めることに行き過ぎがあれば、幸福どころか災厄にみまわれると。『目的論 teleologi 』(tele=遠く)的に見れば、シントとロモの別離は、ラウォノを通して描かれる強欲を滅ぼし、新世界をうちたてるというスリ・ロモの役割を果たす道をならし、整えるためのものであったと言える。
 ではスリ・ロモについてはどうであろうか?
 戦略的に見れば、アルンコ国のプラブ・ドソムコ〈ラウォノ〉を打ち負かすためには、屈強な同盟国と司令官が必要である。それゆえスリ・ロモはドソムコに〈不死身の呪文〉アジ・ポンチョソノ Aji Pancasona を与えるという偽善を為したスバリSubali を抑え、スグリウォの手助けをしなければならなかったのだ。アジ・ポンチョソノを得てラウォノは、大地に触れれば死ぬことはない身となった。それはスリ・ロモから見れば、スバリの過ちなのである。スバリこそ、ドソムコの強欲を肥やし増大させた張本人なのだ。ドソdasa が十であることはすぐ分かるだろう。であるから、ドソムコとは十の頭を持つ者を意味するのである。
 頭がひとつしかない人でさえ、欲求・欲望をコントロールすることは至難である。ましてや十もあれば言わずもながであろう。目は二十、耳も二十、口は十、舌が十、そして歯は320本もあるのだ。ラウォノ/ドソムコのような頭を持っている人を想像してみるが良い。
 現実には十も頭のある人などいないけれど、象徴的にとらえれば、その種の性質を持つ人はこの世にたくさんいると言える。強欲もむろん人間のもつ性質のひとつである。ラウォノ的欲望は誰もが持っているものであり、それはポンチョソノをも備えているものなのだ。ラウォノ的欲望は、アノマンの存在、白い聖性の存在があって消し去ることのできるものである。
 さて、シントとロモの関係についてである。ロモこそが、ラウォノを鎮め、シントを取り戻すべき人である。しかしロモはグナワン(賢者)・ウィビソノの協力を必要とし、黒い『クレンテン klenteng 〈カポック綿の種〉』が白い綿に包まれているように、白き者アノマンが共にあることを必要としている。
 シントがアヨディヨAyodya 国に帰還し得た後も、彼女はスリ・ロモに追放されねばならなかった。さらにシントは大地に挟まれて死なねばならなかった。これはロモの役割は終わったが、ウィスヌの役割には終わりがないということを意味している。人間の寿命は限られているから、ロモはバクティヨーガ baktiyoga を行い、ニルワナ(涅槃、バリではalam asuwung )に入る必要があったのだ。そして〈ロモの中にあった〉ウィスヌ神はスリ・クレスノに転生(nitis=ingkarnasi )したのである。シント、つまりバタリ・スリ、またウィドワティもスバドゥロ Subadra 〈クレスノの妹でアルジュノの妻スムボドロ〉に転生しなければならなかった。そのためにまずは母なるプルティウィ pertiwi (大地)に帰らなければならなかったのである。
 それゆえワヤン(マハバラタ)では、スリ・クレスノは後の日にデウィ・プルティウィを妃とするのである。そしてこの結婚からシティジョ Sitija が生まれる。シティ Siti は大地、つまりプルティウィを意味し、ジョ ja は息子を意味する。であるからシティジョとはプルティウィの息子を意味するのである。そしてここではシティジョが、大地に触れれば死ぬことはないというアジ・ポンチョソノを持つ。ポンチョソノを持つシティジョこそスリ・クレスノの敵対者となる。この父と子の戦いは、ワヤンでは『ゴジャリ・スト Gojali Suta 』の戦いと呼ばれる。
 そしてウィスヌ神は『(ふたつに)分裂転生 binelah inkarnasi 』し、スリ・クレスノとアルジュノになる。噛みたばこシリの葉が、色は違っても同じ味であるのと同様に。そしてウィスヌこそが、百のクロウォたちとして描かれる強欲を滅ぼす者なのである。クロウォ百王子はめくらのデストロストロ Destrastra の子である。ここでのめくらは、目が見えないことではなく、心が盲目であることを意味する。彼は他の視線を認めず、自分だけの目線で盲目的に行動するのだ。それゆえ、息子たちは悪を意味するドゥル Dur の性質を持つのである。
 さて、もういいだろう。あとは『ワヤンとその登場人物〜マハバラタ編』で述べたことである。再読してくださいね。

1977年1月30日 ブアナ・ミング

(つづく)
by gatotkaca | 2013-07-12 04:18 | 影絵・ワヤン
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