ブログトップ

木から落ちた猿

gatotkaca.exblog.jp

ワヤンとその登場人物〜マハバラタ 第32章

a0203553_984916.jpg

・バリ島デンパサールにあるデウォ・ルチ像・

32. デウォ・ルチは真実のビモである

 神秘主義というものが何処においても普遍的なものであるが、神秘体験は各個人によって異なるということが明らかになったと思う。それゆえ、神秘体験というものはスフィー同士でなければ、他人に説明できないものなのだ。『ウィシク wisik 〈霊感・インスピレーション〉』というものはあるが、それは個人だけのものなのである。ウィシク、導きの光、バドロノヨ Badranaya 、デウォ・ルチといった名でよばれるもの(神秘体験)は他者に語ることはできない。その呼び名はもはや『ウィシク』そのものではない。それは『私的な領域』なのである。
 「スロ・デウォ・ルチ」もまた他の神秘主義と同様である。(デウォ・ルチと邂逅した後)ウルクドロはクレスノに尋ねられる。
 「ビモよ、そなたどんな体験をし、その道のうちに何を得たのだ?」
 賢者たるセノの答え
 「クレスノ兄よ、いずれその時が来れば話そう。」
 そのようであるなら、普通の人間に知り得る知識は何か?一般の人に対して教え得るのは、「マーリファト」を目指す教えの入門としての「行 laku 」の方法と「教義 ilmu 」だけである。
 ラコン「デウォ・ルチ」はあきらかに神秘主義の行、瞑想者の覚醒を描いたものである。多くの研究者たちが「デウォ・ルチ」についての本を書いている。そのひとつをここでやや詳しく紹介しよう。アブドゥラ Abdullah 博士が1973年にワヤン関係の雑誌「マジャラ・プワヤンガン majarah pewayangan 」の第五号、15〜20頁に発表したものである。専門家たちの意見を引用、抜粋して彼はラコン「デウォ・ルチ」におけるビモの体験を三つの段階に分けた。
 a. ルシ・ドゥルノがビモにティルトパウィトロ Tirtapawitra を探すよう命じる。彼はまずチョンドロディムコ Candradimuka 山へ向い、それから大海に入る。
 b. ビモがデウォ・ルチと邂逅する。そしてその体内に入ると、さまざまな光と象牙の人形を見る。
 c. ビモはデウォ・ルチから、サン・プロモノ sang Pramana に生命を与えるサン・スクモ sang Sukma についての最終的な教訓を授かる。
 ひとつづつ検討していこう。

第一段階
1. a. ルシ・ドゥルノがビモにティルトパウィトロを探すよう命じる
b. ビモはルシ・ドゥルノに師事していた。この物語における師弟関係は、師の命令が、たとえどれほど不可解で、困難なものであったとしても弟子は師を信じ、それに従わねばならないものとして描かれている。
 この師への信頼はしばしば遺骸の世話をする者のように描かれる。
2. a. ビモはチョンドロディムコの森の石や樹々を引き抜いて森を開く。恐るべき嵐が山を切り開くのだ。かくて二人のラクササ、ルクムコ Rukmuka とルクマコロ Rukmakala が現れ、ビモと戦う。この二人は実はバトロ・インドロとバトロ・バユである。
  b. この出来事は、瞑想を開始した人を象徴している。チョンドロディムコとは顔にある山、つまり鼻である。瞑想(メディテーション)に入る際には、息を整え、視線を鼻先に集中する。大風と二人のラクササに打ち勝つことは、呼吸と視線が鼻先に集中したことを描いているのである。
 ユングのシムボリズムによれば、山は意識を意味する。山を切り開くことは、意識から無意識の領域に入ることを意味している。
 瞑想の初期段階において、人は意識と無意識の中間にある。ウェドトモにおいては次のように語られている。
 「 Pambukaning warana, tarlen saking liyep layaping ngaluyup, pindo pesating supena, sumusuping rasa jati 」
 「帳が開かれ、眠りに入るときのよう覚醒と不覚醒、意識と無意識が夢のように交互におとずれ、『ジャティ jati 』なる感覚が広がる」
3. a. ビモが大海に入る。
  b. ユングによれば大海とは無意識である。意識界から去り、瞑想は無意識の世界に入るのだ。
 こういった状態を先のウェドトモの詩では、「帳が開く」と描かれている。つづいてビモが経験するような事がおこるのである。
4. a. ビモは大蛇と遭遇し、これを負かす。
  b. 大蛇は欲望、また強欲の性質を象徴する。これらを打ち破ってはじめて人は真実の道に至ることができるのである。
 ワヤン・クリの図像では、ビモのズボンに蛇が描かれている。これは彼がそれ〈蛇(欲望)〉を支配していることを意味する。

第二段階
5. a. ビモがデウォ・ルチと邂逅する。
  b. この邂逅によって第二段階に入ることになる。第一段階におけるすべての経験はルシ・ドゥルノの指示によるものであった。彼は実世界の師(外面的・物質的)であり、第二段階におけるデウォ・ルチこそが真正の師なのである。
 個々人のプロセスにおいても類似した事象を見出すことができる。無意識界へ入るには、まずサン・ウィク〈比丘・師〉からの指導を受けなければ、人は内面の奥深くに降りていき、そこで自分自身の真の師と邂逅し、生を感得することはできない。
6. a. ビモがデウォ・ルチの体内に入る。
  b. 真実なる師の生・視線は目指す先へ進むための絶対条件となる。
7. a. ビモは何も無い空間にいる。
  b. この融合の後、人間は何も無い、空なる、方向も無い空間にいたる。この場所で彼はさまざまな状況、知識の恩寵を得る。しかしここもまた他のなにものかへの『入り口』にすぎない。
8. a. ふたたびデウォ・ルチが見える。
  b. 真正の師は弟子に義務をさらに課す。ビモはもう目的を持つ事無くデウォ・ルチを見る。というのも彼の心と意志はデウォ・ルチにすべてあずけられているからである。こうしてビモは、デウォ・ルチの教えを体験し得るのである。
9. a. ビモはポンチョモヨ Pancamaya を見る。それは身体を導く心の光である。
  b. ポンチョモヨとは五の色また、さまざまな色を意味する。『身体の導き手』としてポンチョワルノ pancawarna 〈五色〉は五感の象徴である。それは人間にあらわれる善悪双方の欲望である。
10. a. ビモは四つの色を見る。赤、黒、黄そして白である。
   b. 四つの色は、人間の四つの欲望を象徴する。アマラ amarah 〈怒り〉、アルアマ aluamah 〈貪欲〉、スフィア sufiah 〈情欲〉、そしてムトマイナ mutmainah 〈愛情〉である。これらは人間が高貴なる存在に到達する道への障碍となる。
11. a. ビモは九つの色の炎を見る。
   b. デウォ・ルチは説く。この炎はこの世界すべての象徴である。それはビモの身体の中にもあり、大いなる世界(マクロコスモス)と内宇宙(ミクロコスモス)に違いは無いのだと。
12. a. ビモは象牙の人形を見る。
   b. これこそ人間の身体に生命を与えるサン・プラモノ sang pramana である。見出し難く、幸運でなければ見出せないものだ。これこそユングの言う「自己 Zelf 」である。
 個々のプロセスの最後にプラモノを見出し、その生を感得することになる。それは新たなる人間の誕生を象徴する。
 デウォ・ルチの物語は続き、さまざまな教訓が説かれるが、もう先のような現象は起こらない。

第三段階
13. ビモはこの世界〈デウォ・ルチの世界〉に留まることを望むが、デウォ・ルチは言う。「 iku tan keno, yen ora lan antaka 」(それは許されぬ。まずはこの世界を去るのだ)。
14. デウォ・ルチは続けて説諭する。プラモノが生命を与えるものであり、それはサン・スクモ sang Sukma である。
15. 人間とサン・スクモは一人の人間の鏡と実像である。「 Ingkang ngilo Hyang Sukma. Wayabg ouniku, iya sira lan kawula, 」(鏡たる神がヒワン・スクモである、私とそなたもまたその影にすぎないのだ。)
 このようなビモの経験した出来事は、彼の師ルシ・ドゥルノの指示した道を歩んだ結果である。であるから、デウォ・ルチは人が自分自身に邂逅すること、神秘主義者が最初に経験する出来事を描いた物語であるといえるだろう。
 この物語における三つの段階は、イスラーム神秘主義(タサウフ tasawuf )の三つの段階、タレカット Tarekat 、ハケカット Hakekat 、そしてマーリファト ma'rifat を描いているのである。
 さて、これらに関する専門家の解説を抜粋してみよう。

結論
1. 「ビモ・ブンクス」と「デウォ・ルチ」のワヤンのラコンは、まさしくインドネシア民族のオリジナルである。
2. ラコン「デウォ・ルチ」は(『瞑想 semadi 』とよばれる方法による)『神秘主義者の修業 perbuatan 』を描いている。それは存在の根源たる創造主を探し求め(サンカン・パラニン・ドゥマディ)、『マヌンガリン・カウロ・グスティ manunggaling kawula Gusti 』(神秘的合一)へ至るための人間の努力である。
3. ラコン「デウォ・ルチ」は我々に、自分自身を知る事の必要性を想起させる。人間は次のような段階を経て成長しなければならない。シャリアト Syari'at (スムバ・ラガ sembah raga 肉体的礼拝)、タリカット tarikat (スムバ・カルブ sembah kalbu 心的礼拝)、ハケカット hakekat (スムバ・ジワ sembah jiwa 精神的礼拝)、そしてマーリファト ma'rifat (スムバ・ラサ sembah rasa 感覚的礼拝)である。迷いや呪いのないように、指針を失わずに進む。それがマーリファトを目指すことである。『彼』を知ったなどと驕り高ぶる人間は『彼』の禁忌に触れることになるだろう。
 「Kalamun durund lagu, Aja pisan wani ngaku-aku, Antuk siku kang mangkono iku kaki,
Kena uga wenang muluk, Kalamun wus padha melok 」(ガムブ Gambuh 24)
 「すべての教えが明らかになってもいないのに、自分に価値があると誤った望みを抱いてはならない。そのような良識無き者は呪われよう。我が子よ。英知を修めし者のみが、すべてを明らかにする資格を持つのだ。」
5. ビモとデウォ・ルチの物語は瞑想(メディテーション)が知性と文化の双方に力を与えてくれることを教えている。
6. ビモはデウォ・ルチと邂逅し、マーリファトに到達したが、具体的・実存的使命を負う現実世界の生にとどまって生きた。サトリアとしての責務を全うし、国家の威信を護ったのである。
[PR]
by gatotkaca | 2013-05-28 09:13 | 影絵・ワヤン | Comments(0)
<< ワヤンとその登場人物〜マハバラ... ワヤンとその登場人物〜マハバラ... >>