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木から落ちた猿

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ワヤンとその登場人物〜ハルジュノソスロとラマヤナ 最終回

34. 物語の核心と中心的価値観

 サプト・ルンゴ Sapta Rengga の物語〈七つの階層=世界のことだが、ここではマハバラタを指す〉に入る前に、これまで述べてきたワヤンの物語すべてに見られる、『リディン・ドンゲン Liding Dongeng 〈物語の核心〉』また、価値観、価値の本質についてはっきりさせる必要があるだろう。

倫理的教え
 1. 私見では、これまで述べてきた物語の数々は、本質的には倫理的教えを表現、顕示しているものだと考える。これまで述べてきたワヤンの物語は、『いずれが悪、醜いことで、いずれが素晴らしく、正しい、人間が為すべきことなのか』ということを人間が知り、区別することができるよう求めている。ワヤンにおいて、ふつう否定されるべき行為の具体的例としてあげられているのは、『殺すな、嘘をつくな、裏切るな、あるいは怒るな、偽善を為すな』その他である。
 しかしそれだけではない。もっと重要な二つの事がある。それは『ディレンマ』あるいは『選択』の問題である。人生はつねに選択というものと直面している。『シ・モロコモの実を食べるような、食べれば父が死に、食べなければ母が死ぬ』といったようなものだ。その選択、出来事はとにかく人間が選ばなければならないものとしてある。選んだとしても、その結果は満足のいくものではなく、また完全なものでもない。これは、心理的、哲学的に、人間はつねに完全に解決することのできない問題に直面している、ということを示しているのだ。
 人間は選択というものに直面し続ける。そしてその選択は自身にとって善なるものに寄り添い、悪なるものを退けることで決定される。かくて人間はひとつの立場に立たざるを得なくなる。善なるものを望むか、邪なるものを望むか。たとえばジョモドグニは『妻を殺すか、妻を罪人のままにしておくか』を選ばなければならなかった。
 ロモパラスは『母を殺すか、父の命令に抗うか』を選ばなければならなかった。
 ハルジュノ・ソスロバウは『王位を維持するか、ニルワナ〈Nirwana=涅槃〉を求めるか』を選ばなければならなかった。
 ウィビソノは『強欲に従うか、正義に従うか』を選ばなければならなかった。スリ・ロモはシントを追放するか、人々の非難を放っておくかを選ばなければならなかった。等々。
 人間が勇気をもって選べば、生きて行動する、決断するということに目的が生まれ、意味が生まれるのだ。その選択に確固たる意志が無ければ、まさしく人は人間性の獲得、実存の道を歩むことはできない。人は選択の自由を持つ。『これ』を選ぶか『あれ』を選ぶか。さらに言えば、選ばないということもすでに『選んだ』ことを意味するのだ。しかし選択には責任が伴わなければならない。

 であるから、人間の行動はつねに倫理的立場によって支えられている。彼はその行為のすべてにおいて、責任から逃れ、開放されることはないのである。これこそワヤンから得られる、人間のあるべき態度と為すべき行為はどのようなものなのかという教えである。

西洋の実存主義
 2. 実存主義的な人生に対する思想、見解では、人間は自分自身、そして選ばねばならない選択というものに直面する。この種の考えはヨーロッパでは19世紀になってはじめて展開した。その先駆となったのはセーレン・オービエ・キルケゴール〈セアン・オービー・キアケゴー Soren Aabye Kierkeggard 〉(1813-1855)であり、この種の思想は実存主義と呼ばれている。
 彼は言う。
ーー"Every one takes their revenge on the world. Mine consist in hearing my troubles and sorrow shut deep within me, while my laughter keeps everyone amused...........................
 I laught with one face I weep with the other." ( J. 23 )
ーー"Yes, I perceive perfectly that there are two possibilities, one can do either this or that."
ーー"........................Concentrated in one single preposition, I say merely either or."

訳(フアド・ハッサン Fuad Hassan 教授による〈インドネシア語から重訳〉)
ーー「人は皆世界から復讐される。我が世界は私が葬ってきた、そして私の中に集積する、さまざまな悲しみと困難に依存している。その一方で私の笑いは他の人を楽しませるのだ‥‥。ひとりに笑いかけ、別の者には泣いてみせる。」
ーー「そう、最初から私は二つの可能性があることを知っていた。一人の人間ができることは『これ』か『あれ』だけなのだ、と。
ーー「………‥一つの命題に還元できる。私が言うのは『これ』か『あれ』だけだ。

人生の教え
 3. 第三のテーマは生の完全性の教えである。これはインド哲学と密接な関係にある。なぜか?ワヤンの物語がマハーバーラタとラーマーヤナからその源泉を得ているからだ。さらに言えば、ワヤンのそれぞれのラコン〈演目〉は、ある王が国、王位を捨て、死を求めて彷徨い、苦行する物語であるとも言えるだろう。
 俗世の生活を捨てる、あるいは『mingkar-mingkur ing ankara, angekes dur angkara 』(欲望を抑制し、邪悪な貪欲を殺す)、また『禁欲であり続ける』という人生観は、東洋の人生観、哲学の理想のひとつである。しかしこれは、個々においては多くの場合誤って理解されている。世俗は重要ではなく霊的、精神、内心の生活が重要なのだとする説が多い。しかし現実には多くの人々が『精神を通して』世俗を求めるという誤用を犯しているのである。この種の人生観はあきらかに『ウェドトモ』の教えに反している。『ウェドトモ』は唯一神トゥハンへの献身的生き方、その道筋として『重要な行』である三つのものを求めよ、と教えている。それは『ハルト、ウィルヨ、そしてトゥリウィナス harta , wirya , triwinas 』である。
 ハルト(富)、ウィルヨ(地位)、ならびにワシス wasis (知識、見解)を持たない者は惨めで乞食や浮浪者となり、枯れ果てたチークの葉のような者となるだろう。世俗の生活(ハルト、ウィルヨ、トゥリウィナス)に背を向けた者は、そのすべてに規制されるのである。その意味は、子や孫、子孫たち(後継者たる世代)は飢えて死に、乞食や浮浪者となるということである。人が世俗を捨てても、その効力は子や孫、子孫には及ばないのである。
 スリ・ロモやアビヨソ Abiyasa 〈マハーバーラタの聖仙、パンダーヴァの祖父〉は子や孫たちを十全に導いた後、世俗を捨てている。左記に述べた子や孫とは、血族に限らず自己の後の世代すべてを意味する。ワヤンの教えでは、人間は俗世を全うする他ないとはいえ、それはすべてのものの上に場を占めようとすることではない。人間は強欲や貪欲を捨てた妥当な生き方をするべきであると示唆しているのである。

人生の百科事典
 8. ワヤンを知り、掘り下げた者にとって感じられ、明らかになることは、ワヤン・クリ・プルウォのダラン道 pedalangan が多面的、複合的機能を持っているということであろう。ワヤンとは生、自身の人生の言葉なのである。それはあたかも人生をすくいとる泉であり、決して干上がることはない。つまり、『ワヤンは生・人生の百科事典』なのである。大げさに思えるかもしれないが、その通りなのだ。現代では感じられるだろう。子どもたちの生活はワヤンとはかけ離れたものになってしまったと。彼らは『デメンニャル demennyar 』つまり新しもの好きであるから。けれどアメリカ大陸、オーストラリア、アジア、そしてヨーロッパのさまざまな大学がワヤンを研究し始めている。ワヤンが世界遺産となることも不可能ではないのだ。

結論
 9. これまで述べてきたワヤンの人物たちの解説から得られる結論としては、
 a. 我々はテクノロジーの時代を生きているとはいえ、ワヤンは未だ現代の諸問題の解決に資することができる。
 b. ワヤンは生・人生の百科事典である。
 c. その本質において、人間は自身の社会的実存と直面している。ワヤンは欲望を抑えるために、餓えや渇きに耐える『苦行 tapa brata 』を教えてくれる。世俗の問題から逃れ、海岸で孤独に暮らし、河に身を浸す。人間が貪欲にならないよう、すべての価値を物に求めるようにならないために。人生を具体的・実存的に見詰めなければならない。人間はトーマス・ホッブスの理論のように種々の欲望に駆られ生きるだけではない。人間性という価値観によっても行動するのである。人生ではそこにある問題から逃げてはならず、勇気を持って決断し、その選択に責任を持って答えなければならないものだ。『ミンカル・ミンクル・イン・アンコロ』を求めなければならない。なぜか?
 人間がホモー・ホミニ・ルプス(人は人にとって狼である)とならないように。
 d. ワヤンは自分自身の内面を深く考察し、疑念を無くそうとするため、長い間歩み続けて来た人の手助けとなる。このような内省に至らなければ、さらなる深層には届かないだろう。そうして最後には自身の根幹へと至るのである。
 e. ワヤンは、そこではすべてが人生を幸福たらしめる、ある煌めきを想起させる。能力を超えてまで欲望に満ちた追求を続けるなら、それはあきらかに災厄の原因となるであろう。
 f. ワヤンはまた『カルマの法』(Ngunduh wohing panggawe. Utang pati nyaur pati. Utang lara nyaur lara 〈行為には報いがある。他者に為した行為はそれに応じた行為を返される〉)を表現する。その意味するところは、誰あろうと、自身の蒔いた種はその果実を摘み取らねばならぬ。美徳を蒔いた者は美徳を摘み取り、受け取ることとなり、悪行を蒔いた者は悪を摘み取り、受け取ることとなる。
 g. ワヤンは人々に『パンジャン・プンジュン・トト・カルト・ラハルジョ panjang punjung tata karta raharja 』を願う。唯一神トゥハン・ヤン・マハ・エサへの献身で人々が公正と繁栄を求める様を理念的に語るのである。そこでは倫理的教えが実践される。それは何が正しく、何が誤っているのかを区別することのできる態度である。その態度は次のような箴言に現れている。『スロ・ディロ・ジョヨニングラト・スウ・ブラスト・トゥカップ・イン・ウラ・ダルマストゥティ Sura dira jayaningrat swuh brastha tekap ing ulah dharmastuti 』また『スロ・ディロ・ジョヨニングラト・ルブル・デニン・パンガストゥティ Sura dira jayaningrat lebur dening pangastuti 』。
 意味はこうだ。どれほど超能力をそなえ、力があっても、不正、不実、強欲の目的を持つ者は、高貴なる魂、平穏なる愛と平和の心によって必ず滅せられるのだ。

 有用でありますように。
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Wayang dan Karakter Manusia
oleh Ir.Sri Mulyono
Penerbit PT Gunung Agung - Jakarta 1979

ワヤンとその登場人物ーハルジュノソスロとラマヤナ
イル・スリ・ムルヨノ著 
1979年 ; PTグヌン・アグン出版:ジャカルタ

by gatotkaca | 2013-04-26 00:40 | 影絵・ワヤン
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