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木から落ちた猿

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ワヤンとその登場人物〜ハルジュノソスロとラマヤナ 第22章

22. 白猿アノマンは不死身の呪文、魔法の呪文であるアジムンドゥリを持つ

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 ワヤンに出て来るアジ〈aji=護符・呪文〉は本当にあるのですか?あるなら、それはどんな『呪文 rapal 』、マントラ〈mantra=真言〉なのですか?というご質問をイマム・タウヒド氏 Bapak Imam Tauchid から1976年8月8日付けで頂きました。

 アジあるいは『アジ・ジャヤ・カウィジャヤン Aji Jaya-kawijayan 〈不死身の護符〉』は、ワヤンの世界だけではなく本当に存在する。ワヤンの世界にあるのは『パスモン〈pasemon=象徴〉つまり隠されたシムボルだけではない。アジ・ジャヤ・カウィジャヤンもオカルティズムや神秘主義での言い方で、ウェドトモでは『グルム・カラン ngelmu karang 』と呼ばれている。ウェドトモに書かれているグルム・カランは秘議とされている。『グルム・カラン』というのは超自然的なものであり、『カランガン karangan〈詩形式〉』でしか表すことのできないものだからである(kakarangan saking bangsaning gaib / pangkur 9)。『ボレ〈boreh=塗り薬・クリーム〉』(粉)にたとえられ、体内に浸透させてはならず、肌の外側に貼付けるだけでよい。グルムは突然の災厄をもたらすこともある、つまらぬ、信頼に足りぬものである( kapengkok ing pancabaya, ubayane mbalenjani )。
*Serat Wedhatama : pangkur 9

Kekerane ngelmu karang,
kakarangan saking bangsaning gaib,
iku boreh paminipun,
tan rumasuk ing jasad,
amung aneng sajabaning daging kulup,
Yen kapengkok pancabaya,
ubayane mbalenjani.

カランガン〈詩〉で伝えられるイルム〈教え〉なり
霊性から成り
塗り薬のごときもの
体内に入れず
皮と肉の間だけでよい
約束を違えれば
災厄に見舞われよう

 昨今『グルム・カラン』はもはや顧みられなくなった。というのも、今やもっと強力な武器が存在するからである。たとえば対戦車バズーカ砲(大砲)、原子爆弾、核融合システムである。先の『アジ』( ora tebas tapak paluning pande sisaning gurenda, tanapi tedaning kikir, tinatah mendat jinara menter 〈すべてが賄えるわけではなく、鍛冶屋が削ったハンマーの残りかすのようなものであり、大きいだけで中身の無いものであり、まかり間違えば胸に突き刺さる鋭いノミのようなものである〉)を持つ人がいかに超能力で不死身であったとしても、原子爆弾やバズーカをくらえば、骨も残らず粉々になってしまうだろう。今は白い putih 神秘学を学ぶことにしよう。それはたとえば、病気の人の治療や、困難に遭遇している人の手助けとなるようなものである。グルム・プティ ngelum putih 〈白魔術〉は本当にあるし、学ぶことも出来る。でもお許しを。ここで説明するわけにもいきませんので。
 筆者自身は1976年6月26日のサブトゥ・パイン Sabtu Pahing 〈sabut=土曜日、pahing=ジャワ暦の五曜のひとつ〉にセノワンギ、ナワンギ、P・T・イナルトゥ〈SENAWANGI=インドネシア・ワヤン藝術協会、NAWANGI=ワヤン財団、P.T.INALTU=インドネシアの出版社?〉が共同で開催したルワタン〈魔除け〉のワヤン・クリ、演目は『スドモロ SUDAMALA 』を経験した(『スドモロ』はサデウォ〈マハバラタの主役パンダワ五王子の末弟〉とスマル〈神性を帯びる道化〉が神を浄化 rewat する演目)。ルワタンの前日、とつぜんジュムブル 〈Jembur=東部ジャワの都市〉から来た人が『スマルのクリス〈keris=短剣、超自然の力が宿るとされている〉』の形をしたアジ・アジ/ジマット〈aji-aji/jimat=お守り・護符・呪文〉を差し出して来た。私はそのスマル(の形)のクリスを受け取り、その人はすぐに去ってしまった。お金を受け取ろうとはせず、彼によれば、無くなった親の意向であるという。そのスマルのクリスは今にいたるも私の手元にあり、事の真相は分からないままである。おふざけなのか、あるいは真剣なのか?はっきりしないが、明らかなのはスマル(クリス)がやって来たのはスマル(ワヤン)が神をルワット〈ruwat=魔除け・浄化〉する24時間前であるということだった。
 さて、アノマン Anoman の持つ『アジ・ムンドゥリ Aji Mundri 』の分析に入ろう。
 アジ・ムンドゥリはラコン〈演目〉『ロモ・タムバ Rama Tambak 〈ロモの架橋〉』においてウィビソノが作った天に架かる橋の強度を試すためにアノマンが使ったものである。アジ・ムンドゥリのため、その橋はアノマンに踏まれ genjot ると壊れてしまった。さらに、アノマンは太陽に昇ることができる超能力を持つことから、アルンコに派遣された。アルンコ国のマンリアワン Mangliawan まで半日で着いたのである。どういうことか?アノマンは司令官、使者であり、それはスリ・ロモからの白い〈善なる〉使者であることを象徴する。それゆえアノマンには後にロモドヨパティ Ramadayapati の名が与えられるのである。それは、アノマンがスリ・ロモの(内心の)力の頂点 puncak daya kekuatan であることを意味する。そしてロモはウィスヌであり、ウィスヌは真の正義である。真の正義とは唯一神ヤン・マハ・クアサ Yang Maha Kuasa 〈偉大なる力〉またの名マハ・スチ Maha Suci 〈大いなる聖性〉である。ヤン・マハ・スチの使者とはインサン・カミル Insan Kamil である。インサン・カミルとは神の恩寵、天啓を得た者である。手短かに言えば、スリ・ロモの使者 Duta アノマンは正義の聖なる使者を象徴するのである。
 普通の人間は多分インサン・カミルにはなれない。もっとも『勤勉 banter 』な人だけがジョヨボヨJayabaya やロンゴワルシト Ranggawarsita のような預言者、偉大なる哲学者になれるのである。アノマンのような白い〈善の〉聖性を持った人は注意深い。その注意深さは目ではなく良心/内心において注意深いのである。目がどれほど鋭くとも、葉っぱ一枚で隠されてしまえば、見る事はできなくなるだろう。しかし、真の目(心の注意深さ)はすべての存在の本質的『問題』を見る事ができるのである。障害となる鋼の壁が立ちはだかっていても、先を見通すことのできる真の目があれば、容易く乗り越えることができる。ウェドトモに言う。『Tuladan marang was paos, mring jatining pandulu (真実の目)』、それには次のような条件が必要となる(『tata--titi, ngati-ati, atetep talaten atul, sareh sanis kareng laku, kalakone saka heneng hening heling lan hawas』)基準、慎重さ、用心、真面目さ、勤勉、誘惑への抗い、すべての行為を確認すること、静謐、敬虔、静けさ、明確さ、穏やかさ、意識、記憶、警戒。手短かに言えば、人間はマーリファ ma'rifat 〈体験的直観の知識〉を得たとしても注意深くあらねばならないのだ。またマーリファを目指すためには、人間はザイード Zahid (苦行)と呼ばれる段階から始めなければならない。これは世俗の生活、つまり物質的生活を捨てなければならない。それは懺悔、warq〈訳注;語意不明〉、farq〈差異〉、静謐、タワカル tawakal 〈神の意志に身を委ねる〉、リドー ridho 〈実践〉からなる。しかしそれらの条件を満たしたとしても、自動的に人間がマハーバ mahabah 〈神への愛〉やマーリファを得られるわけではない。さらにもうひとつの条件がある。それは「『それ Nya 』の意志に沿う」ことである。人間は神 Tuan からの賜りものである天啓 Wahyu を得ることはできない、ということである。そのすべてはただ神の意志とその賜りものなのである。

 さて、ラウォノの持つアジ・ポンチョソノ Aji Pancasona 〈死んでも、大地に触れれば生き返る不死身の呪文〉についてはどうであろうか?

 ラウォノは『アンコロ・ムルコ angkara murka 〈強欲〉』の象徴である。我々はアンコロ・ムルコの欲望を今日殺すことはできる。しかし明日には確実にそれは蘇って来る。明日、また殺すことができたとしても、あさってには必ず生き返る。そのように続いていくのである。各人がラウォノ(アンコロ・ムルコ)を持っており、そのすべてが『ポンチョソノ』を備えているのだ。強欲(ラウォノ)はアノマン(白い聖性)がある(存在する)ことで消え失せるのである。それゆえ驚くべきことに、パンダワの時代〈マハバラタ〉にもラウォノは存在し、アノマンと対決するのである。ラウォノ(ゴドクモロ Godakumara )が現れて悪さをすれば、クレスノ(ウィスヌ)はアノマンを呼び、このアンコロ・ムルコさんを追い払うのである(1976年7月11日付けブアナ・ミングの『チャキル Cakil 』を読んでください)。

 上記の解説で知ることができるのは、アノマンがアルンコへ飛ぶスピードは、人間の思考のスピードを象徴しているということである。この世界に、人間の思考の速さを超えるものは無い。そしてロモウィジョヨ(アノマン)のアジ・ムンドゥリの力は、一点に集約された人間の集中力を象徴している。そして、これは『トリウィクロモ TRIWIKRAMA 』と名付けられるものであり、それは三つの力(創造、感情、そして意志)が『謹厳さmakarti 』を伴って一体化したものである。人間はその全体のエネルギーの10パーセントほどしか使うことができずに生きていると知るべきである。潜在的に秘められた残りの90パーセントのエネルギーをすべて使うことができたなら、それはある種のアジ・ムンドゥリということが出来るだろう。
 ワヤンにおけるシムボリズムというのは、このように滑らかで柔らかいものなのである。

1976年8月22日 ブアナ・ミング
by gatotkaca | 2013-04-14 01:06 | 影絵・ワヤン
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