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木から落ちた猿

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サティー(妻の殉死) インドからインドネシアヘ その1

 インドにはサティーと呼ばれる風習がある。これは夫の死に対して妻が殉死するという風習で、夫の亡骸の燃える火葬の炎の中に、妻が生きながら(!)飛び込んで殉死するという壮絶なものである。下記の記事にあるように現代でも行われることがある。持参金がらみで焼かれる花嫁や、集団暴行を受けて自殺する女性の問題などインドにおける女性問題は根の深いものであると言えよう。インドネシアにもこの風習は伝わっていたようで、現代でこそ行われることはないようだが、カカウィンやキドゥンといった古典文学ではサティア(サティー)が重要な場面としてしばしば現れる。サティアというものを知っておくのもインドネシア古典文学理解には重要であろうと思われる。
 下記の記事がサティー(サティア)の実体と、インドネシア古典文学でのサティアの例をあげ、わかりやすく解説してくれているので紹介する。

元記事はここ

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スティア Setia と女性ーー紀元前500年から2008年の記録

アリタ・CH Arita-CH

『その悲しみにもはや耐えきれず、この先に待つことは何もないかのように、ただちに、彼女(サティヤワティ Satyawati )は死への身支度を整えた。手にしたクリス(短剣)が引き抜かれ、鞘から現れた刃は白い光を放つ。かくて恐れることなく、その刃に身を突き刺すと、赤き香油のごとき鮮血がほとばしる。』
(カカウィン・バラタユダ 45. 1-45)

 ジャワの古の物語『カカウィン・バラタユダ Kakawin Bharatayuddha 』(1157年、ムプ・スダ Mpu Sedah 作)において、サルヤ Salya(サルヤパティ Salyapati )王に嫁いだ、ラクササ(羅刹)僧ルシ・バガスパティ Resi Bagaspati の一人娘、プジャワティ Pujawati 〈スティヤワティ(サティヤワティ)〉の有様はこのように語られる。サルヤは若き日の名をナラソマ〈ノロソモ〉 Narasoma といい、彼はラクササの息子となることを恥じた。夫の心が沈み込んでいることを知り、プジャワティはそのことを父ルシ・バガスパティに伝えた。かくて娘は、父をとるか夫をとるかという二者択一を迫られたのである。父と夫、どちらを選ぶのか。プジャワティは愛する夫、サルヤを選んだのである。その選択を父ルシ・バガスパティは誇りとして、彼女の名をプジャワティからスティヤワティに改めたのであった。サティヤ Satiya (スティヤ Setiya)とは、『the true or loyal one (誠実、また忠実なる者)』を意味する。(『カカウィン・ラマヤナ Kakawin Ramayana 17,62、『カカウィン・バラタユダ』46,1、『カカウィン・スマラダハナ Kakawin Smaradahana 』20,4)

サティヤ(スティア Setia )

 サティヤとはジャワ古語に見られる言葉で、インドのサンスクリット語サティー Sati の形容詞形であり、(誓いを立てた一人の夫(王)に対して)誠実、貞節、忠実であること、高潔、善なることを意味する。サティヤ(スティヤ)という語のより詳しい意味を探るため、まずはサティーという言葉の意味を調べてみよう。

サティー

 インドにおけるサティー Sati の語はデヴィー・サティー Dewi Sati の物語に由来し、この女神は別名ダクシャーヤニー Dakshayani としても知られている。デヴィー・サティー、またダクシャーヤニーは彼女の父ダクシャ Daksha の夫のシヴァ Shiva への侮蔑に耐えきれず、燃え盛る火の中に身を投じて犠牲となったことで知られている。自らを焼き、死んだあと、ダクシャーヤニーは山の王ヒマワン Himawan の娘、パールヴァーティー Parvati として生まれ変わり、再びシヴァの妃となった。

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三叉鉾をもつシヴァ神(1800年頃)


 デヴィー・サティーの、夫シヴァに対する完璧なる貞節の物語は、しばしばインドにおけるサティーの習俗を正当化するために引き合いに出される。このサティーという習俗は、夫の死に際して、その火葬の火の中に生きている妻が最後の忠節の証として自らを犠牲にするものである。

サンスクリット文学における2種のサティー

1. サハマラナ Sahamarana 、サハガマナ Sahamagana 、あるいはアンヴァロハナ Anvarohana
  夫人が、夫の死体を焼く火葬の火の中に木の杭に自らを縛って共に火に焼かれて死ぬこと。
2. アヌマラナ Anumarana
  夫は先に火葬にふされ、妻はその後別の場所で火に入る。時には夫の形見や遺灰などを持って火に入る。
 一方、戦争などの際には、敗北した王や王子の妃は敵の手に落ちることのないように自決(ジャウハル Jauhar )する。ジャウハルはラージプート Rajput の貴族の間で広く行われた慣習である。

スワーミ Swaami (スアミ suami 〈夫〉)とサティヤ(スティヤ)

 インドでは、配偶者に対する女性の貞節の形式が何世紀にもわたって継続され、刷り込まれている。インドでは叙事詩の世紀(紀元前500年から西暦500年頃)に、ダルマシャーストラ Dharmashastra と呼ばれる法に関する書物や、(ダルマ dharma 〈法〉に則った)正しい行動に関する論説が成立し、ブラフマンの男性たちによって設定された宗教的基準として人の行動を規定してきた。
 ダルマシャーストラには、ストリーダルマ Stridharma というイデオロギーが記され、このイデオロギーは妻の善なる生き方を定めており、妻の一人の夫に対する貞節が求められている。
 ストリーダルマのイデオロギーでは、夫にとって女性はある種の『神』であり、サンスクリット語においては、スワーミー Swaami (suami) の語は妻にとって文字通り『神、あるいは師』を意味する。理念的には、ひとりの妻の生の幸福とは、夫を満足させることにあり、また妻にとって懸念すべきは夫に対する献身が不完全・不徹底であることなのだ。
 献身とは、死によっても分つことのできない貞節を示すことなのである。結婚生活における妻の最高の献身の表明は、インドではサティーという形で表されるのである。

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夫の火葬の炎の中に身を投ずる花嫁。17世紀前半、ペルシア、サファヴィー朝時代。(ムハンマッド・カシム所蔵)

インドにおける女性とサティー

 自己犠牲としてのサティーの習俗が、インドを起源として他の文化圏にも取り入れられたものであるという確証は無い。インドでの女性の自己犠牲に関する最古の記録は、アレキサンダー大王のインダス遠征に随行したギリシアの歴史家、カッサンドリア Cassanderia のアリストブルス Aristobulus が紀元前326年に記したものである。彼はタキシラ Taxila (現在のパキスタン地域)の街で、女性が自己犠牲を行う習俗を目撃したと記している。
 インドの歴史書や、サティーの習俗を内包する文学作品の多くは、他国の人々の興味を惹くこととなった。18世紀末から19世紀の初頭、英国の植民地時代には、サティーについて書かれた書物から直接エキゾティックな物語が発展したが、サティーの習俗は非難されることとなった。
 1829年、英国政府のインド総督ベンティンク Bentinck 卿(1828〜1835年在職)はサティーの習俗を禁止し、20世紀に入ってからの1987年のサティー(禁止)法によって強化された。とはいえ、実質的な法規制にもかかわらず、この習俗は21世紀にいたるもまだ続いている。2008年10月13日のチェチャル Chechar 村の事件の報道では、ラルマティー・ヴェルマ Lalmati Verma という名の71歳になる未亡人が、夫のシヴァンダン・ヴェルマ Shivandan Verma の火葬の火の中に入ったという。

20・21世紀のサティーの記録

日付        名前               年齢
1987年9月4日   ループ・カンワール Roop Kanwar  18歳
2002年8月     クットゥ・バーイ Kuttu Bai   65歳
2006年       ヴィディヤワティー Vidyawati  35際
2006年8月     ジャーナクラニー Janakrani   40歳
2008年10月13日  ラルマティー Lalmati       71歳
 

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結婚式後のループ・カンワールと夫


サティーとサティヤ、インドからインドネシアへ

 サルヤ Salya 王の死の知らせを聞いて、サティヤワティ Satyawati はすぐさま彼の後を追った。心許した女官、スガンディカ Sugandhika を連れて、サティヤワティは戦場に向かう。血の川を渡り、腐りはてた死体につまづき、サルヤの遺体をさがし続ける。
 絶望の淵に沈み、彼女はクリス〈短剣〉で己の身を刺し貫く覚悟を定める。神々は彼女を哀れんで、サルヤの横たわる場所を示した。気丈にもサティヤワティは夫を生き返らせようとした。彼女を残していった夫を叱り、夫が彼女を本当に愛したことはなかったのだと非難した。そして泣きながら懇願する。天界に架かる吊り橋であなたをお待ちします、と。
 かくてサティヤワティは自らのクリスで胸を刺し貫いて死に至る。忠実なる女官、スガンディカはサティヤワティの胸からクリスを引き抜き、自らの胸深くに刺し入れたのである。

 カカウィン・バラタユダ(1157年)でムプ・スダが書いたサティヤワティの最後の献身の物語は、(かつて)インドネシアで行われたサティーの習俗を描いている。カカウィン・ラマヤナ Kakawin Ramayana (9世紀)からスンダのキドゥン Kidung にいたるまで、古代インドネシアのさまざまな文学において、妻が究極の献身として死におもむくさまが描かれる。これはかつてインドネシア社会で行われてたであろうサティーの習俗を反映していると言える。サティーの語は、後に『サティヤ』という語になり、夫と終生離れることなく、その死に際しては殉死して忠節を貫く女性を示す言葉となったのである。

インドネシア女性のサティヤ

 ジャワの社会においては、少なくとも9世紀以来、サティーの伝統が存在していたと考えられる。インドネシアにも女性のサティヤとしての自己犠牲の方法が数種定められており、インドにおけるそれとは少々異なっている。
1. 生きながら火の中に入って殉死する(インドで行われているものと同様)。
2. クリスによる自決。または共にいる者に刺させる(通常は女性の一族の男)。
3. クリスで自決した後、遺骸を荼毘に伏す。
4. 川や海に身を投げて殉死する。
 インドネシアにおいてどれほどの人数が、またどの地域でサティヤが行われたのかは不明である。しかし、歴史的記録によれば、殉死の伝統が最も大規模であったのはジャワ島とバリ島である。女性の殉死の伝統があるのは、他にはブリトゥン Belitung 島〈スマトラ東海岸に位置する島〉だけであった。

1416年

 サティーの風習は9世紀からインドネシアに存すると考えられているが、サティーに関する最古の記録は、鄭和(チェン・ホー Zheng He (Cheng Ho ))の遠征に随行した通訳、マ・フアン Ma Huan によってモジョパイト時代の1416年に書かれたものである。
 マ・フアンは1413〜15年の第三次明国遠征軍と共にジャワ島を訪れた。彼が目撃した事件として、モジョパイトの首都、ウィルワティクタ Wilwatikta で犠牲に供される女性の最後の様子を描いている。

 『その地域では一般的に、裕福な男性、村長や貴族が亡くなると、妻や側妾たちは彼女たちの夫に対して拝跪し、言う。
 「我らの死は、あなたと共に」
 火葬の日が来ると、彼らは木材で高い火葬用の台を建てる。二三人の者に付き従われた妻や側妾が拝跪し、炎が燃え立つのを待つ。そして頭を草や花で飾り付け、五色でデザインされたカイン Kain (布)を身に着け、妻と側妾たちは薪の山の頂上に続く階段を登って行くのである。彼女たちはしばしの間、泣き、叫び、踊り、それから夫の遺体が燃やされ、その火の中に身を投げた。彼女たちは共に生き、そして死んだ者への最後の献身として自らの身を火に投ずるのである。』

1436年

 フェイ・シン Fei Hsin も鄭和の遠征に随行した一人である。彼は第七次鄭和遠征の際にジャワ島を訪れた。彼は1436年の記録に、妻が夫の遺骸と一緒に生きたまま火葬にふされたことを記している。
 『村長が高齢のために亡くなった時、妻と側妾たち皆は嘆き悲しみ、それぞれ共に死ぬことを誓った。
 火葬が行われる日が来ると、妻、側妾、侍女たちは草と花々で飾られた冠をつけ、色とりどりのカインで着飾った。
 彼女たちは手をつないで海岸の静かな場所へ向かい、そこで砂浜に横たわった夫の遺骸の傍らに横になり、野犬たちに引き裂かれるのを待った。
 犬たちが遺体の肉をきれいに食べ尽くした時は、吉兆とされるが、遺体が食べ残された場合、女たちは悲しみの歌を歌って嘆くのである。
 それから薪が積み上げられ、女たちは皆夫の遺体と共に炎に焼かれるのである。』

1515年

 16世紀にアジアに住んだ(1512〜1515年、マラッカ)ポルトガル、リスボンの薬剤師、トメ・ピレス Tome Pires は、スンダとジャワで夫の死に付き従った常軌を逸した女性たちの様子を事細かに記している。
 スンダの社会においては王や貴族の妻たちが、夫の死に際して自らも火に入って殉死することには一定の『必然性』がある。身分の低い男性であってもこれと同様の事が行われるが、この場合は妻自身が自ら望んだ時だけ行われる。しかし、死を選ばなかった者たちは家族や社会から隔離され、『のけ者』となり追放され、阻害された生活を強いられ、再婚することもできないのである。
 一方、ブラムバンガン Blambangan やガムバ Gamba (スラバヤ〜パナルカン Panarukan )を含むジャワ社会においては、王や貴族が亡くなった時、妻や側妾たちは夫の後を追ってクリスで自決したり、生きたまま焼かれたり、あるいは海に入水する(これは社会で一般的に行われている)、と彼は記している。

1524年

 フェルディナンド・マゼラン Ferdinand Magellan の遠征に随行したヴェネチアの学者アントニオ・ピガフェッタ Antonio Pigafetta は、自ら望んで殉死する女性たちの意志と動機について記している。
 その記録の中で彼は、ジャワにおいては権力者が死ぬと、最も愛された妻は生きながら夫と共に火に焼かれる運命にあると記している。
 『花輪で飾られた籠の中の女性は、四人の男たちに運ばれる。彼女は落ち着いた表情で、笑い、彼女の死に涙する両親を慰撫し、言う。
 「今夜私は旦那様と一緒に夕餉をいただき、おそばで眠るのです。」
 火葬のための薪が積み上げられると、彼女はもう一度両親に同じ言葉を投げかけて慰め、燃え盛る炎の中に自ら飛び込むのである。』

16世紀末

 世界を旅した英国の探検家トーマス・キャヴェンディッシュ Thomas Cavendish は、16世紀末にジャワとバリを訪れた。彼はポルトガルサイドからの情報として、ブラムバンガンでは女たちが、亡くなった夫を追って殉死する、と話している。
 ピガフェッタの記録(火に入る)とは異なり、女たちはクリスを自身に刺して自決するが、火に入って死ぬことはない、とカヴェンディッシュは記している。
 『王が逝去すると棺に遺体が収められ、後に火葬された際には同じ棺に灰が入れられる。死の五日後に火葬が行われ、妃と側妾たちは定められた場所で王を追って殉死する。
 年長の妻、あるいは寵愛された妻がボールをある方向へ投げる。転がったボールが止まったところに妻や側妾たちが集まる。
 東を向き、クリスを構え、彼女たちは自らにクリスを突き立てる。血がほとばしり、その表情に痛みを刻んで、彼女たちの日々が終わりを迎えるのだ。』

1633年

 貿易商会会長のヤン・オーステルウィック Jan Oostrewijk は、最初のオランダ人目撃者であった。彼はバリを訪ねた際に女性の殉死を目撃している。
 ヤン・オーステルウィック自身の目撃談として、二人の王子の火葬の際、王子たちの後を追って76人の妻たち(第一王子に42人、第二王子に34人)が生きながら火葬の火に入って殉死した。何人かの女たちはまずクリスを自身に突き立ててから炎に入り、他の女たちは生きながら炎の中に飛び込んで行ったと彼は記している。
 二人の王子の火葬とは別に、ヤン・オーステルウィックはある王の火葬も目撃している。そこでは、王に従う22人の女官たちが(一族によって選ばれ任命された)護衛官にクリスで刺され、王の後を追って死の世界に投げ込まれる。


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夫の死に殉死するバリの女たちのオランダの最初の報告。1597年東インドへの初航海の報告書から。

1736年4月6日

 アブラハム・パトラス Abraham Patras (第24代蘭領インド総督)宛の報告には、ブラムバンガンの支配者バグス・パティ Bagus Patih が死んだ時、彼は9人の妻たちと一緒に火葬にふされたと記されている。

1813年と1820年

 スコットランドの医師、管理官、作家でもあるジョン・クロフォード John Crawfurd は、ミント Minto 卿のジャワ進軍の際、スタンフォード・ラッフルズ Stamford Raffles に同行した。その後1811年11月に彼はジョクジャカルタの宮廷の食客となった。食客として彼はジャワ語を学び、ジャワ貴族や文学者たちと個人的な関係を確立し、バリとスラウェシの大使館で働いた。
 1813年、彼はカランガスム Karangasem の貴族、ワヤハン・ジャランテグ Wayahan Jalanteg (ワヤン・ジランティク Wayan Jlantik )の火葬に際して20人の女性が火に飛び込んで殉死したと記している。
 数年後、ジョン・クロフォードはブレリン Blelling (ブレレン Buleleng 、バリ北部)の王から、父親であるカランガスムの支配者が亡くなった際に、74人の女性が殉死したという報告を得ている。

1829年

 バリの大使、ピエール・デュボア Pierre Dubois は、1829年、バンドゥン王、グスティ・グデ・グラ・パマチュタン Gusti Gde Ngurah Pamacutan の火葬を詳細に記している。
 この火葬に際しては、7人の女性が殉死し、その中には年老いて白髪になった王の乳母も含まれ、主人の死を追うのに4秒もかからなかったと言う。
 デュボアは記している。火葬にあたって、7人の女たちはそれぞれ家族と共に火葬の高台へ向かった。
 最初の女性は父のクリスを取り、腕に傷をつけ、クリスを父に返す前にその血を額に塗った。
 それから彼女は両手を胸の前で交差させ、炎の中に飛び込んだ。女たちのうち5人は同様の儀式を行い、残りの一人はクリスを突き刺して死ぬことを選んだ。
 近親の者たちに囲まれ、彼女は父の手からクリスを受け取り、肩口からまっすぐクリスを突き立て心臓まで刺し貫いた。それから父と兄弟たちが炎の中に投げ入れた。

1846年

 スイスの探検家・植物学者のハインリッヒ・ゾーリンゲル Heinrich Zollinger は、ロムボク島である女性が殉死した様子を記している。
 『白い衣装に身を包んだ女は、兄にクリスで刺された。しかしその傷では死にはいたらず、親族の男にさらにクリスで刺されて死んだ。それから一族の者たちが死んだ女を炎の中に投げ入れた。』

1847年

 1847年12月20日、ヘルムズ Helms はバリ島ギヤニャール Gianyar の王、デワ・マンギス Dewa Manggis の葬儀に列席した。その記録において、ヘルムズはデワ・マンギスの3人の妻が白装束に装飾品で身を飾り、天蓋に覆われて火葬の場へ向かったと記している。火葬の火が燃え上がり大きくなると、3人の女たちは炎の中に飛び込み、すでに灰になった夫と共に灰となったのである。

 上記のように、インドネシアでは多くの女性たちが普通ではない心持ちを有して、サティヤが人生の一つの型となっていることが明らかになった。以下では、文学やキドゥンの物語が女性のサティヤの原理をどのように補強してきたかを明らかにしていきたい。これらはインドネシの社会生活に長い間根付き、女性たち自身の心情にも深く影響を及ぼして来たのである。

(つづく)
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by gatotkaca | 2013-01-15 12:19 | 影絵・ワヤン | Comments(0)
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