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木から落ちた猿

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「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その28

22.サストロ・ジェンドロはマーリファの本質、すべてのイルムの終着点である(上)

 さて!サストロ・ジェンドロをより深く探っていく前に、サストロ・ジェンドロの基本を理解するために、ウェドトモ Wedhatama を読んでみることにしよう。
 〈これは〉別の機会に、他のプスタカ・ワヤン・シリーズで神の思し召し〈insya allah〉で特に説明して来たものである。
 ウェドトモに語られるヌサンタラ(ジャワ)の哲学によれば、ヒワン Hyang 〈神〉への礼拝(スムバ・ヒワン sembah hiyang)には四つの方法がある。第一はシャリアット syari'at と呼ばれる形式的礼拝〈Sembah Raga 〉、第二はタリカット Tarikat 〈Tarekat〉と呼ばれる精神的礼拝〈Sembah Cipta 〉、第三はハケカット Hakekat と呼ばれる霊的礼拝〈Sembah Jiwa 〉、そして第四がマーリファト Ma'rifat と呼ばれる聖的礼拝〈Sembah Rasa 〉である。
 サストロ・ジェンドロの初歩的理解のために、ウェドトモに遡り、スムバ・ジウォ Sembah Jiwa 〈霊的礼拝〉(ガムブ16詩節)で語られる、トゥハン・ヤン・マハ・スチへの真実なる礼拝を見直してみよう。スムバ・ジウォ、またハケカットはひじょうに重要で、クジワアン kejiwaan〈精神修養〉 、クバティナン kebatinan〈神への献身〉、クロハニアン kerohanian 〈霊的現象〉の求道において、最後の道ともいわれ( ing aran pepuntoning laku, kalakuan kang tumrap bangsaning batin 〈ウェドトモ:第四詩節・ガムブ:17歌〉)、ロコポロの書Kitab Lokapala においてはサストロ・ジェンドロは『プンカサニン・カウル Pungkasaning kawruh 』とも呼ばれる。
 このスムバ・ジウォは警告の聖性を受け止め、つねに永遠なる世界 alam baqa を想起することである( sucine lan awas emut, mring alaming lama amot )。
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Serat Wedhatama
pupuh IV
gambuh 17

Sayekti luwih prelu,
ingaranan pepuntoning laku,
kalakuan kang tumrap bangsaningbatin,
sucine lan Awas Emut,
mring alame alam amot.

真実重要なるものは
精神の最後の道とも呼ばれるもの
内面の活動を統制すること
すなわち聖なるものからの警告を心にとめ
つねに来世の永遠なる世界を想起することである
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 ハケカットの状態にいたる最初の状態は、朦朧とした意識の中で輝く光に包まれたようになり、意識と無意識の中間の状態となる。これがハケカットまたカスニャタン kasunyatan 〈中空状態〉と呼ばれるものである。それを記憶しておこうとしても、自分自身以外のものは何一つ見えない(tarlen mung prbadinipun kang katon tinonton kono 〈ガムブ-20〉)。そこには真実の炎がある(Nur Illahi )。光り輝く星のような。されど捉えることを誤り、見ることを誤るなかれ/注意せよ。制御していることは制御されていることであり、意のままにしていると思うことは意のままにされていることでもあるから。命ぜられることは命じていることであり、支配しているということは支配されているということなのだ。全ては開かれてあり、カウロ〈しもべ〉とグスティ〈主〉の間を遮るベール(warana gaib 〈神秘のカーテン〉)はもはや無い。
 実際にはそんなものはないし、本当に見えているわけでもない。であるから、人間はそれが本当なのかそうではないのかを知る必要がある。知っておくべきことは、その光が頭についている目ではなく、心の目に見えているということだ。
 それこそ唯一なるものへのイルムと呼ばれるものである。そのイルムだけが神秘のベールを開く力を持つのである。そのことを知ることのできない人は、ウェドトモで『卑しい人 orang hina 』と呼ばれる者になっている。訪れたもの tamu を自分勝手に判断しているからである。
 そう、ここにこそウィスロウォの見間違い(salah surup 〈思い違い〉)がある。スケシの炎を、真実の炎と思い込み、ウィスロウォとスケシの合一はカウロとグスティの融合(ハケカット)と思われたのだ。むろん実際ここで起こった合一は、スケシの欲望と、ウィスロウォの欲望の合一、融合にすぎない。二人の欲望が合わさり、10となった。それゆえ、ウィスロウォとスケシの合一はドソムコ〈dasamuka:十の顔の意、ラウォノの別名〉を生んだのである。そしてドソムコは不死である。というのも、ドソムコは男の欲望と女の欲望の融合のシムボルであり、それらの欲望は消えも死にもしないのである。
 卑しき谷間、性の欲望に堕ちたウィスロウォが、サストロ・ジェンドロに達していないことは明らかである。ここでのウィスロウォはウェドトモのガムブの24節を想い起こさせる。『Kalamun durung lagu, aja pisan wani ngaku-aku, antuk siku kang mangkono iku kaki 』。意味は、本当の経験、見識を得る前に、己を驕れるなかれ(『師の教え paguron 』を実践する)、さすれば幸福を得ること間違いない。されど逆であれば。間違いなく呪いと災厄に打ちのめされるであろう。
 では、ウィスロウォがサストロ・ジェンドロに到達し、完全なる解放を獲得するのはいつか?それは後の日に、ウィスロウォが自身白き欲望の顕現(ウィビソノ)によって悪しき欲望(ラウォノ、クムボカルノ、サルポクノコ)を滅殺し得た時である。ウィスロウォの解脱は、ラコン『マクト・ロモ Makuta Rama 』でグナワン〈ウィビソノ〉によって代理される。このラコンにおいて、グナワンは生の完全性を得て天界へ登るのである。

サストロ・ジェンドロ

 以前に分析したように、サストロ・ジェンドロと呼ばれるものは、
a. 『Ngelmu wadining bumi kang singker Hyang Jagad Pratingkah 』この世、全世界の秘密の英知であり、トゥハン・ヤン・マハ・エサに由来し、彼によって隠され/所有されている。
b. 『 Panguruwating barang sakalir 』すべてのものを解放し、すべてのものに安寧をもたらす。
c. 『 Kawruh tan wonten malih 』人間によって到達し得るものはこのイルムの他にはもはや存在しない。
d. 『 Pungkas-pungkasaning kawruh 』すべての英知の終着点であり、人間、またスーフィー sufi 〈イスラム神秘主義〉の最高の到達点である。ゆえにマーリファトによって獲得される知識であり、理性によって獲得されるどんな知識よりも質の高いものである。それゆえ、次のように呼ばれる。
e. 『サストラディ Sastradi 』(サストロ・アディルフン Sastra Adiluhung 、グルム・ルフン Ngelmu luhung 〈いずれも、特別に高貴・高質・高徳の言葉・英知を意味する〉)
 上記の説明に基づけば、サストロ・ジェンドロとは秘密のイルムであり(有象無象の人にとっては)、トゥハン由来のイルムである。そして人間の到達し得る最高の段階のイルムであり、あらゆる英知の到達点でもある。それゆえ、サストロ・ジェンドロは『イルム・カサムプラン Kasamupuran (完全性)、イルム・ムクスウォ Mukswa (天界)、イルム・カスニャタン kasunyatan (空:くう)、またイルム・スジャティ Sejati (真実)、あるいはまたタットワ・ジナナ Tattwa Jnana 、すなわち神学の精髄たる英知( Tattwa=「スジャティSejati(真実)」、また「ハケカット Hakekat (本質)」あるいは「現実の」)とも呼ばれるのである。
 その種の基準を持つイルムは『内面を知るためのイルム』の到達点(pepuntonig laku、pepuntonig urip、また生の道程の最終点)のすべての到達点であり、スムバ・ジウォ〈霊的礼拝〉とスムバ・ラサ〈聖的礼拝〉また『マーリファトを目指す真実なるイルム』である。いっぽう、トゥハンに近づくための方法の研究と道標の解明、つまり『学究的知識』は神秘主義、スーフィズム、またスロ Suluk と呼ばれる。
 つまり、サストロ・ジェンドロとタサウフ Tsawuf /神秘主義の目的は同じものであるよいうことだ。それはトゥハンとの直接的関係を獲得すること、真実、トゥハンの降臨を受けることである。これはワヤンにおいては、ハルジュノ・ソスロバウ/ウィスヌとの直接的関係を結ぶスマントリの人物像、グナワンとスリ・ロモ/ウィスヌ、アルジュノとスリ・クレスノ/ウィスヌ、といった関係性で描かれる。そこで築かれる直接的関係性が、サストロ・ジェンドロと呼ばれるのである。いっぽう、学究的知識においては、サストロ・ジェンドロはマーリファトと呼ばれる。そうであるなら、ある疑問がわいて来るだろう。マーリファトとは何か?と。マーリファトの意味は英知の到達点であり、ハムカ Dr.Hamka 博士によれば、イマン・アル・ガザリ Iman Al Gazali が『イルム・スジャティ Ilmu Sejati 』と呼んだものである。マーリファトはまた、近くからトゥハンを知り、知覚することをも意味する。
 マーリファトはスーフィー派の見解では、心臓〈心〉でトゥハンを見るということである。これと同様の、人間のもとにトゥハンが降臨するという教えは、スーフィーではリドー Ridoh と呼ばれ、強固な降臨を指す。マーリファトでトゥハンがスーフィーの心に入り込むと、その心は光に満ちる。ハルン・ナスティオン Harun Nasution 博士によれば、スーフィズムにおけるマーリファトの相同的側面〈Aspek Kembar 〉はマハーバ mahabbah (愛)と呼ばれる。マハーバとはトゥハンとの愛を形成する会合の関係とされる。対してマーリファトはグノーシス(心臓で直接的に獲得される英知)を形成する会合の関係なのである。
 トゥハンとのマーリファトを得た者は『アリフ・ビジャクサナ arif bijaksana〈英知の賢者〉』と呼ばれる。だが、マーリファトはそのような者だけに得られるものではなく、精神の修業と内面の道の研鑽に絶え間なく励み、トゥハンからお許しを得た賜り物、恩寵、希望に沿って生きることでも得られるのである。マーリファトは人智の及ぶものではなく、トゥハンのお望みに基づいた恩恵なのだ。さらにマーリファトとは、ウエドトモに語られるように、トゥハンの恩寵、また天啓 wahyu として人間に受け取られる賜り物なのである。ウェドトモによれば、
ーー天界 mukswa のイルムの探求において輝かしい能力を得たものは、誰あろうとアッラーの天啓を得ることが出来る。その者は礼拝の規律を知り尽くしている者である。(礼拝とは)魂と肉体の欲望 makartinya をしりぞけ、滅することである。そのような状態になって初めて親〈人間は成長した人〉 orang tua として語られる者となる。というのも、トゥア tua とは(以下の意味を含んでいなければならない)、欲望から解放され、「二つにして一つ dwitunggal 」である二つの要素の存在を認識する者だからである(パンクル Pangkur 12)
ーーアリフ・ビジャクサナたる人は、世界にあまねくトゥハンの大いなる徴を抱き、統合する方法において卓越する者である。もはや幕は無く、その最後に、魂の核心(霊 roh )がひじょうにはっきりと見える。すべてを遮っていた幕がはっきりと見える。感覚が明瞭に開かれ、すべての時代の循環が見える。あたかも境が無くなったかのように。苦行、また礼拝と呼ばれるものは、かようなるものであり、全世界とトゥハン(
の徴)の力の絶対性に自身を委ねることである。(シノム Sinom 16)
ーーこうして人間は最上の段階(「アリフ」)に到達する。かくて静謐なる場への隠遁を切望し、ことあるごとにつねに内面を研鑽し、繰り返し浄めるのである。外面的態度においては、クシャトリアの指針を保持し、徳と謙虚さを維持する。彼は共にある人の心にどのように対するかを熟知する。かようにして、完全なる善と宗教への渇望/愛をもつ人として語られることとなる。(シノム17)
 マーリファト獲得のための装置、道具立てとして、スーフィー派は『カルブ Qalb 、ロ Roh 、そしてシル Sir 』を挙げている。
a. カルブとは、トゥハンの性質と本質を知るためのもの。
b. ロとは、トゥハンを求めるもの
c. シルとは、トゥハンを見るためのもの
 シルはロよりもスムーズ・滑らかなものであり、ロはカルブよりもスムーズである。マーリファを獲得したいスーフィーが多くなれば、トゥハンの秘密に対する知識も増えることになり、トゥハンに近接する者も増えることになる。しかし、知ったからといっても、その知識はまだ真正のものとは言えない。トゥハンとは絶対者にして、無限のものであり、対して人間とは相対的で、有限の存在であるからだ。喩えて言うなら、茶碗に大海の水が入り切らないようなものなのだ。

三種の知

 上記の分析から人間の知には三種類あることが分かる。
a. 雲〈awam=有象無象・無益な〉の知。これは雲の人間(普通の人)の到達し得る知である。これは、聞くこと(話すこと)そして書かれたものによって得られるものである。たとえば、仲介者の告白によって、トゥハンが唯一の存在であることを知ることである。それゆえ、イマム・アル・ガザリは忠告する。雲なる人々は知的・正規・広範な思考をなし得ないので、深遠なるイルムを求める必要を感じない、と。ゆえに、彼は多くの困難な経験することになるだろう。自身の心に過ちを受け、逡巡をあらわにすることになる。このようなる者は、不正確なイルムを持っているため、修正が困難で結果的にすべてが台無しになるであろう。雲なる人がいたずらに深遠なる知をもとめれば、たとえるなら、泳ぐのが下手な人が大海に泳ぎ出すようなものである。
b. 神学の知、あるいは哲学である。これは知的で思索的、システマティックで理論的思考のできる人の知である。たとえば、暗喩〈原文:apa yang tersirat〉や理論に従って、トゥハンは唯一の存在であると知ることである。彼は知力と理論による、比較・調査・探索を信奉する。
c. スーフィーの知、また神秘主義の知。これはアリフ・ビジャクサナたる人によって到達される知である。たとえば、トゥハンが唯一の存在であることを、心臓〈精神〉で知ることである。彼はその信仰において、もはや障害となる壁が存在しないことを自身で認め、確信している人である。この知は、厳しく困難な道、ラク laku を経て獲得されるものである。それゆえ、マーリファトに到達するための神秘主義の知は、忠節の表明たる『シャリアト syarl'at 』、道を満たす『タレカット tarekat 』、そして到達点たる『ハケカット hakekat 』のすべてを参集して形成され、マハーバ、すなわちトゥハンからの恩寵、愛へと到達する。
 では、シャリアト、ハケカット、そしてマハーバとは何か?

(つづく)
by gatotkaca | 2012-10-30 20:40 | 影絵・ワヤン
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