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木から落ちた猿

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「トリポモ、サトリヨ精神の神髄、そしてサストロ・ジェンドロ」 その22

18.戦勝決定要因としてのサトリヨ・ピナンディト(賢者のサトリヨ)の本質 その2

ワヤン世界の戦い

 現代の戦争では軍隊が勝利において突出した活躍をする場は無い。それは軍事力/技術に過ぎない。しかし陸・海・空軍、ミサイルの全てのポテンシャルと構成要素は『命令、統制、通信と連携と協力の統一』の中になければならない。そして勝利は物理的な力だけに頼っていては達成できないのだ。というのも、その全ては行為者たる人間に依存しており、武力行使の目的に応じてもいる。
 たくさんの陸・海・空での戦闘・戦争から、より大きな武力が勝利を保証するわけではないことが証明された。今日にいたるまで、『スロ・ディロ・ジョヨニングラト・ルブル・デニン・パンガストゥティ Sura Dira Jayaningrat Lebur dening Pangastuti 』という章句は有効なままである。その意味は、物理的な力がどんなに強力で、神のごとき力であり、勇猛であっても、それが正しい目的で使われなければ、正義と公正の前に滅せられ/敗北する、ということである。なにゆえヒットラーのファシズムや日本軍、インドネシアでのオランダ帝国主義は敗北したのか?なぜなら彼らは物理的武力を正しくない目的(アダルマ ADHARMA )のために行使したからである。彼らは略奪し、他者の独立の権利を侵した。かくて遅かれ早かれ物理的武力は正義(ダルマ DHARMA)の前に敗れ去ったのである。
 上記の説明から明らかなのは、不可視の戦争、また物理的戦争においても結果を決定するのは最終的には人間である(Man behid the Gun 〈銃の背後にいる人間〉)ということだ。決定要因たる人間(銃の背後にいる人間)という見解は多くの人の知るところとなり、一般的見解となっている。それゆえ最早問題とはならない。今、この論説で問題となる人間とは如何なる者か? 答えは、本質的目的と公正にもとづく正義を身につけた人間、である。それは『高貴なる精神と知性を身につけた人間 MANUSIA YANG MEMILIKI BUDILUHUR DAN KEPANDAIAN 』に他ならず、それはワヤンでは『賢者のサトリヨたる資質を持った人間』と呼ばれる。高貴なる精神と知性を身につけた人間が決定的要因となることを科学的に正当化できるだろうか?
 高貴なる精神と知性の問題に入る前に、戦争の勝因となる要因の本質を探るために、現実世界の戦争とワヤンにおける戦争を比較し、並べてみるのが良いだろう。シムボリックな方法として、ワヤン世界の戦争からラマヤナとバラタユダを選んで現実世界の戦争と並べてみよう。なにゆえスリ・ロモは神のごとき超能力を持ち、勇猛なるワウォノを敗ることが出来たのか?彼は数々の呪文、大地に触れることができる限り死ぬ事の無いポンチョ・ソノの呪文を持っていたのにもかかわらす。答えは『ロモがラウォノとの戦いで勝利し得たのは、スリ・ロモが正義と公正のために武器を取り、また必殺の武器グウォウィジョヨの矢を持っていたからである(知性のシムボル=矢)。スリ・ロモは正義、真実、そして聖性の使者である。聖性とは生命であり、生命とは公正、そして公正とは本質的力であり人間の生きる意味である。これこそ『高貴なる精神の武器 senjata Budiluhur 』と呼ばれるものに他ならない。いっぽうラウォノは、ロモから略奪し、シントを陵辱するという悪しき(アダルマ)目的のために物質的力を行使した。かくてスリ・ロモは「高貴なる精神」で武装し、グウォウィジョヨ/知性の矢で勝利したのである。
 この物語の真実を理解し、問題を明らかにするにあたって、さらなる問題が浮かび上がって来た。『高貴なる精神 BUDILUHUR 』とは何か?『真実と公正 BENAR DAN ADIL 』とは何か、またそれは誰のための『真実と公正』なのか?そしてこれらは、どのような関係にあるのか?これらの問題、高貴なる精神、公正、真実とは何かということに答えるため、我々は『哲学 FILSAFAT 』の世界に入って行くことになる。これらの答えは哲学によって得られるからであり、それは『人間とは何か』という問題の答えでもあるのだ。それゆえ、『精神BUDI 』『真実 BENAR 』『公正 ADIL 』とは何かを問うことは、人間の本質を知ることとなるのである。

人間の本質

 戦争において標的とされるのは、行為、要因の決定者としての人間である。であるから必要とされるのは人間というものを深く見直してみることである。人間の本質とは多様性の統合体〈Bhineka Tunggal 〉(多元的統一体)である神〈Ilahi〉に定められたもの〈kodrat〉である。人間は、外観的にはひとつであり、『身体 tubuh 』と名付けられるひとつの物であるが、実際は二つのものからなる。それは、
a. ワダグ Wadag ー肉体、すなわち形あるもの、可視のもので、五感からなる感覚の能力によって捉えられるもの。
b. ブディ Budi ー精神、すなわち形を持たず、目に見えないものである。根源的な三つの力を持つ。それは各々思考〈 cipta 〉、感覚〈 rasa 〉、意志〈karsa 〉と呼ばれる/

 肉体と魂のふたつは互いに分つことの出来ないひとつのものであり、有機的に結びつけられたドゥウィ・トゥンガル dwi tunggal なものである。これは、二つでありながら一つのもの、二つの総体で一つの完全なものとなるもの、を意味する。

 人間の〈神による〉運命の本質は、『大いなる存在 Maha Ada 』によって存在させられている個/個人ということであり、第一原因(プリマ・コーザ prima causa 〈原文:causa prima/第一原因:アリストテレスの唱えた事物生成の根本原因。自らは不動にして他を動かす「不動の者」でこれが神であるとする。〉)無くして存在し得ないものであり、この第一原因こそトゥハン・ヤン・マハ・エサ Tuhan Yang Maha Esa 〈唯一絶対の神〉である。しかし、父母や他の人間との関係を持つことによって、関係性を持つ性質を手に入れる。実際、被造物たる人間は三つの性質を持つ。人であること(個性/個人)、社会性の生物であること、そしてトゥハン〈神〉の被造物であること、である。真実、人間というものは、統一体ドゥウィ・トゥンガル(ふたつにしてひとつ monodualis )性と多様性(複数性)という本質的性格を持つ、多様的統一〈ビネカ・トゥンガル Bhineka Tunggal〉(単体かつ複数)の存在なのである。すなわち、

a. 肉体
b. 魂
c. 思考
d. 感覚
e. 意志
f. 個性
g. 社会性
h. 神の被造物

である。

科学

 人間は五感を持つがゆえに、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、感覚から得た知識を持つことになる。それらの知識は思考によって真実と現実を探査され、「脳で処理され、その構築能力によってある教義〈イルム ilmu〉を構成し」、かくて人間は科学と言う知性を獲得するのである。

高貴なる精神 Budi luhur

a. ウィチョクソノ Wicaksana . その本質において、人間は意志による抑制や要請、感覚による制御、思考による決定によって行為を為すが、それらは本質的には神の定めた運命に基づいている。人間は決定においては思考を、美を求めるにおいては感覚を、徳を達成するにおいては意志を用いて、それらを連動する能力を持つ。それら様々な人間の能力を身につけ、血肉としたならば、『ウィチョクソノ(英知=予測において正確なること、決定において正しいこと、行為において徳を有すること)の特質』となり、最終的には『有徳の行為』を為せるものとなる。
b. スシロ Susilla . 加えて人間には仮定に基づき、他者に何をすべきか、正しいものは何かを見出す能力がある。この種の能力を身につけ、血肉としたならば、『スシロ(倫理)の特質』となる。かくて『礼儀正しい行動〈を身につけた〉正しい身体〈tepa slira〉』に生まれ変わる。そして『公正なる行為』が生まれるのである。(スシロは「manjing ajur-ajer, cendek tan kena kaungkulan, duwur tan ngungkul-ngungkuli 〈入ることは出来ても、上がることはできなず、上に行けない:訳者:この訳は不明確であるので暫定的〉」と言われる)
c. アヌロゴ Anuraga. それから人間はまた矩を超えずに自らを抑えることが出来る能力を持つ。貪欲、強欲、高慢にならぬように。尊大にならず、『絶対者』に対する自らの不足を認めようとする能力である。この種の能力が身につき、血肉となればアヌロゴ(謙虚さ)の特質となる。かくて『謙虚なる性質』/行動が生まれ、最終的には『傲慢・貪欲でない』行為を生み出す。
d. スディロ Sudira. 最終的に人間は悪/醜悪/過ちなる行為を制御、拒否し、善にして正い行為を促す能力を獲得し得る。この種の能力が身につき血肉となれば、スディロ(勇気・胆力)の特質となる。かくて『勇気ある』/行動に生まれ変わり、最終的には強靭な行為を生み出す。
e. ブディルフル Budiluhur. 上記、四つの特質・性格/行動と行為が調和をもって身につき、堅固に一つとなり血肉になったならば、それがブディルフル(ウィチョクソノ、スディロ、スィシロ、アヌロゴ)の特質となるのである。

正義と公正

 ノトヌゴロ博士 Natanegara S.H. によれば正義と公正とは、

a. 科学は問題を探し求める。最も達成を望まれる問題こそが、人間にとって最も有用なものである。
b. 人間性 kemanusiaan:人間の敬虔さという特質こそが、行動と行為、神の被造物としての人間の本質、社会性と個性を統合する。それは同胞を愛する感情と自覚であり、誠実さに損得を抜きにして誠意をもって応えることであり、他の人の幸福のために互いに助け合うことであり、他者を苦しめず、自己の力で無理強いしないことである。インドネシア国家に当てはめるならば、それは抽象・普遍・現実的かつ永遠の意義を持つパンチャシラ(五原則)の哲学である。それは、あるべき現実として神の定めに従った人間の本質を形づくる絶対的団結の基礎である。すなわち、公正なる人間性とその文明はトゥハン・ヤン・マハ・エサを指向し、インドネシアの統一、代表民主制の英知による指導、そしてインドネシア民衆すべてにとっての社会的公正性を目指すのである。
c. 公正、そして真実とは、
1)公正 Keadilan:すなわち、ある者の生きていく上での権利(他者との関係性も含む)のすべてがかならず成就すること。
2)権利 Hak:それは、誰もがそれを受け、行うべきところのものを、受け、行うための力である(要求がなくともその力は与えられる)。
3)義務 Wajib:それは、ある者に負荷される行為あるいは不作為であり、行為あるいは不作為は為されなければならない(求められている行為でなくとも)。
4)真実 Kebenaran:タンオノ・ダルモ・マングルウォ Tanhana dharma mangrwa 〈ダルマは分けることができない〉(真実は分けることができない)

(つづく)
by gatotkaca | 2012-10-21 01:31 | 影絵・ワヤン
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