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木から落ちた猿

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ナルトサブドの生涯 その12

 ナルトサブドへのワヤン上演依頼は増加していったが、グスティ・パンダワへの誠意がないがしろにされることは無かった。彼は規則に殉じて、時として自身のダランとしてのキャリアを損ねることもいとわなかった。幸いナルトサブドの名声は観衆に影響を及ぼしたので、ナルトサブドの方でグスティ・パンダワの仕事を考える決定権を持つに至った。収入から見れば、ワヤン上演で得る方がグスティ・パンダワから受け取る謝礼金よりはるかに多かった 22)。このナルトサブドの態度は、かつてサストロサブドから受けた恩を思えば過ぎたものではなかった。今、彼の持つ芸術家としての才能は、サストロサブドの手助け、後押し、指示、援助あってのものだったからである。彼の持つ才能は、サストロサブドへの恩返しとして、グスティ・パンダワを助けるために用いるのが相応しい。現行の社会において、『相互扶助のシステム』はすべての構成員によって活かされなければならない。他の人から受けた恩は、つねに受けた恩よりも多いお返しで報いられる。というのも、社会での通説は『名声を失うよりも、より多く返すほうが良い』(ティニムバン・カラ・ウウォン・アルウン・カラ・ウワン tinimbang kalah uwong aluwung kalah uwang )のである。社会におけるこのシステムは、とても敏感なものである。このシステムに違反すれば、結果的には社会から排除されることになる。
 1961年頃ナルトサブドはバライ・コタ・スラカルタ Balai Kota Surakarta 〈スラカルタ市庁舎〉でコンセルファトリ・インドネシア Pengajar Konservatori Indonesia 〈インドネシア音楽院〉(現在のスコラ・ムヌンガ・クスニアン・インドネシア Sekolah Menengah Kesenian Indonesia 〈インドネシア藝術高等学校〉)の教員スタッフたちとの上演を行った。サウィト・ボヨラリ Sawit Boyolali 〈中部ジャワの村、サウィトは村規模の行政区画〉のグリプト・ララス Ngripta Raras の一団とウィスモ・ヌグロホ Wisma Nugraha でカラウィタンの共演もあった。メンバーの大部分がダランであるグリプト・ララスは、公演が終わると、時間を割いてバライ・コタへワヤンを見に来てくれた。仲間のダランの上演を見に来たダランはふつう、ガムラン奏者たちの中に入って演奏に加わるものである。グリプト・ララスの団長、スリ・モロ・モロチャリト Sri Mara Maracarito  はクンダン奏者と代り、他のメンバーたちも、ボナン、グンデル、ルバーブなどの奏者と入れ替わった。上演が終わると、ナルトサブドはグリプト・ララスの団長と会い、お礼を述べて、グリプト・ララスのメンバーの演奏について語り合った。それから、一緒に仕事をしないか、と提案した。この申し出をグリプト・ララスは受けて、それ以来ナルトサブドのワヤン上演の大部分をグリプト・ララスのメンバーが伴奏することとなった。
 ナルトサブドはブン・カルノに愛されたダランの一人であった 25)。ブン・カルノ個人の持ち物である上着とズボンのセットを贈られたこともあった。この贈り物はブン・カルノ個人によるもので、1960年代初め、ナルトサブドがイスタナ・ヌガラでワヤン公演を行った後のことであった。インドネシア中のダランたちは、彼がそのような報償を受けるに値するアジマット(宝)として尊ばれることをもっともであると考えた。ナルトサブド個人としても、ブン・カルノに呼ばれることはダランとして認められたことの証であった。ブン・カルノによれば、人間は生きるにおいて四つの行いを為さねばならない。つまり、タウヒード tauid 、イバダー ibadah 、アフラック akhlak 、そしてブルイルム berilmuである。タウヒードとは、トゥハン・ヤン・マハ・エサ〈唯一神〉への堅固な信仰である。イバダーとは、トゥハンの名を讃え、その命に服し、その禁忌を避けることである。アフラックとは、人間は真実と虚偽、善と悪を理解し、社会生活において非難されることのない称賛に値する行為を為さねばならない、ということである。ブルイルムとは、人間は生きる糧として食料を求めるのと同じように、多くの知識を求めなければならない、ということである。ナルトサブドによってブン・カルノの教えは、プンデト(僧侶)が弟子や孫子に説教をする場面でしばしば語られた 26)。
 1963年、ナルトサブドは一箱のワヤン・クリを作り終え、スマランのジャラン・アングレック Jalan Anggrek Ⅹ No.7に一筆の土地を購入した。ワヤン上演での稼ぎによるものだった。その後家を建てるために貯金を始めた。むろん家を建てるのにもワヤン上演での稼ぎをあてにしていた。日常生活にはグスティ・パンダワからの報酬で十分だったからである。グスティ・パンダワからの報酬は、カラウィタンのリーダー、クンダン奏者、演目のアレンジ、ワヤン・ウォンの場面構成作者としての地位として十分なものであったし、仲間たちともお馴染みであった。毎日三四人の仲間の面倒も見ていた。日々の必要には十分な収入を得ていたからである。ワヤン上演の際、ナルトサブドは25,000ルピアから30,000ルピアの報酬を得ていた。当時、他の新人ダランは15,000ルピア程度であった。毎月10回弱の上演があり、2年半ほどで新しい家が建った 27)。ナルトサブドは、プングラウィトの報酬を他のダランの倍にして、プングラウィトたちが常に上演に参加するよう束ねていた。能力以上の報酬を得たと感じた彼らは、他のダランとナルトサブドの上演がぶつかったときには、必ずナルトサブドに従ったのである。
 1965年9月30日のPKI(インドネシア共産党)のクーデター未遂の結果、全インドネシアの藝術活動は、ほぼ半年間停止した。共産主義活動に関係したダランたちは、ある者は殺され、ある者は投獄された。ナルトサブドは他のダランたちのように、この運動には関係しなかった。新政府は藝術活動の再開を支持し、ワヤン上演も再開された。まさにそのあとに、ナルトサブドの飛翔があったのである 28)。
 ダランとしてのキャリアが登り調子になったナルトサブドは、個人的利益だけでなく、他人の手助け、芸術家たち、特にワヤンの発展に寄与することを喜びとした。彼は熱心に、ミシガン大学のワヤン教育プロジェクトを支援し、その担当者、パンダン・グリトノ Pandam Guritno にワヤンのパクムの書を貸し与えた。さらにデモンストレーション用に30体のワヤン人形をミシガン大学に快く売ったのである 29)。
 ナルトサブドとグスティ・パンダワの座長、サストロサブドの関係はますます親密になって行った。ナルトサブドはサストロサブド亡きあとは、グスティ・パンダワの座長となることを期待されていた。しかし、サストロサブドの希望は実現しなかった。彼が亡くなった後(1966年)、グスティ・パンダワの座長を引き継いだのは弟のサストロスディルジョ Sastrosudirdjo であった。ナルトサブドには公演のリーダーとしての仕事のみが与えられた。グスティ・パンダワに対する方針はサストロサブドとは異なっていたので、ナルトサブドとの間に緊張関係が生じた。家が建ったので、ナルトサブドと家族はグスティ・パンダワの宿舎からスマランのジャラン・アングレック十番-7の家へ越した。それ以来、ダラン業に忙しくなり、グスティ・パンダワの公演に行くことが稀になっていった 30)。
 1969年4月1日、ナルトサブドはカラウィタン楽団チョンドン・ラオス condong Raos を結成する。ナルトサブドはそのリーダーとなった。楽団員の大部分はグリプト・ララスの者であり、スマランとスラカルタの RRIからのメンバーも追加された 31)。チョンドン・ラオスはプロのカラウィタン楽団であった。メンバー全員がグンディン、クルネガン、踊りの伴奏、ワヤンの伴奏の訓練を積んだ者であった。チョンドン・ラオスを擁したナルトサブド一座は、さらに人気を博して行った 32)。これは、ワヤン上演の成功がダラン個人の能力によるものだけでなく、プングラウィトたちの力にもあることを知らしめることとなった。ナルトサブドが彼の指導の元にチョンドン・ラオスを結成したことは、プングラウィトのメンバーとの靭帯の強化が、プロのダランとして成功するために重要であるとの考えの表れである。
by gatotkaca | 2012-03-12 23:21 | 影絵・ワヤン
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