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木から落ちた猿

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試訳「スマルとは何者か?」 補遺 ボチャ・アンゴンその1

 「スマルとは何者か? Apa dan Siapa Semar 」、第2章中のボチャ・アンゴン Bocah Angon (若き羊飼い)というのが、何のことやらわからなかったので、調べてみました。
 スンダのパジャジャラン王国最後の王シリワンギが残したとされる予言書『ウゴ・ワンシット・シリワンギ Uga(Ugo) Wansit Siliwangi 』の中に出て来る人物で、いわゆるラトゥ・アディルのことらしい。
 ラトゥ・アディル Ratu Adil (正義王)とは、インドネシアの民間伝承における救世主としての人物像で、ヨーロッパにおけるアーサー王のような存在である。彼はヌサンタラ・ジャヤ(祖国の勝利/栄光)を達成する人物を考えられており、とこしえの平和と正義を地上にもたらすと信じられている。クディリ王国(1050〜1222年、東部ジャワにあった王朝)のジョヨボヨ王(1135以前〜1157以後)の予言書に最初の記載があるとされている。
 予言によれば、ラトゥ・アディルは最初は誰にも知られぬような存在で、貧しく、人々から侮られている、とある。また支配者層たる貴族/上流階級の没落にも触れている。これらのイメージは、初期のインドネシア民族闘争の指導者たちに大いに利用された。ラトゥ・アデイル思想の対流は、1825年のジャワ戦争の首謀者、パンゲラン・ディポネゴロ(ジョクジャカルタ王国の王子で、スルタンになり損ねて、オランダに対し武装蜂起した。)、ハマンクブウォノ九世(Hamengku Buwono IX 、1912年〜1988年。インドネシア独立戦争に貢献し、スハルトの治世下のジョクジャカルタ特別州知事、ジョクジャカルタの9代目スルタンおよびインドネシア共和国建国後2番目の副大統領)、スカルノ大統領らにアダプトされ、彼らはラトゥ・アディルのイメージを大いに活用して民衆をコントロールしようとした、と言えるだろう。
 ラトゥ・アディルはいつの日かインドネシアにヌサンタラ・ジャヤをもたらす英雄なのである。

 以下ネット上で見つけた『ウゴ・ワンシット・シリワンギ 』とそれに関する論考を紹介する。まずは『ウゴ・ワンシット・シリワンギ 』の本文から。(もとネタは『JALAN SETAPAK MENUJU NUSANTARA JAYA』というサイトです。)

…………
ウゴ・ワンシット・シリワンギ
(訳)
プラブ・シリワンギは、彼がいなくなる前に、民にパジャジャランから退くことを命じた。
『皆の忠誠によって、我らの旅は今日ここに至った。しかし資金の不足と餓えによって、これ以上そなたらとあることは困難となった。明日、また明後日、後の日に生き、豊かになり、パジャジャランを再興する日がくるであろう!今のパジャジャランではなく、新しいパジャジャランへ時を旅するのだ!選ぶが良い!我は止めないだろう。餓え、貧しき民の王たるには、我はふさわしくないから。』
聞かれよ!我に従う者は、南へ行くのだ。捨てて来た都へ戻りたい者は北へ、権力を握った王の元へ仕えたいのなら、東へ行くのだ!何者にも従わぬという者は、西へ行け!
聞かれよ!東に向かう者、汝と汝の子孫、兄弟ら他の者たちは権力者に仕えよ。しかし心せよ、後の日に彼らはそなたらを思いのままに支配するだろう。報復の機会を待つ者は、行くが良い!そなたらは西方へ向かうのだ!キ・サンタンを探せ!そうすれば、そなたらの子孫は、そなたらの兄弟や他のものを忘れないだろう。その地の良き心を持ち、志を共にする兄弟たちのもとへ行け。後の日に、真夜中、ハリマン山から助けを求める声が聞こえるだろう。それが合図だ。そなたらの子孫たちはチャウェネの谷で結婚を求める者によって呼び出される。耐え忍ぶのだ。いつの日か湖は溢れ出す!行くがよい!忘れるな!振り返ってはならぬ!
北へ行く者たちよ!聞かれよ!そなたらは街を知らぬ。目の前にあることに専念せよ。そなたらの子孫たちの多くは普通の民となるだろう。いかなる権力者といえども、権力を持ち続けることはできない。いつの日か来訪者たちが、遠くから、厄介な来訪者たちがやって来る。気を付けるのだ!
そなたらの子孫たちが訪問してくるだろう。しかし、決まった時、必要なだけにとどめるのだ。我は彼等が善き心を保ち続けていれば、助けを必要とする時また帰って来る。その時我は、目には見えぬ、そして我の言葉も聞くことはできない。彼らが良き心を持っている時だけ、彼らがひとつの志をもち、それを理解している時、それは真直ぐで良識ある行動をもつ真実の香りを理解するということであり、そうであれば我は帰って来る。我が姿無く、声も無く返って来たとき、芳香があるであろう。この日からパジャジャランは世界から消え去るのだ。街が消え、国が消える。パジャジャランは継ぐ者を残さない。受け継ぐ者たちの名のみが残るのだ。
仕える者の中にも心から服していない者が多いことの証に。しかし、いつの日かいなくなった者たちが再び集うことの出来るように。それは単なる礎にしかなれないかもしれない。さらに言うなら、多くの者たちは、利口者のふりをしている傲慢な者たちである。
これからたくさんのことに出会うだろう。ばらばらなかたちで。指導者は交替し、彼らが禁じるから。勇気をもって続けるのだ。禁じられたということは気にせず、闘いながら探し、笑いながら闘え。彼こそが子どもの牧者、アナ・グムバラ〈ボチャ・アンゴン〉である。その家は川のほとりにあり、その扉は石の高さ、ハンデウレウムの木とハンジュアンの木に閉ざされている。彼の率いるのは何か?水牛ではなく、羊でもなく、虎でもなく、牛でもない。しかし枯れ葉のついた枝、切った木の杖をもっている。彼は探し続ける。そして出会ったものすべてを集めるのだ。歴史・事件でいっぱいになる。ひとつの時代が過ぎ去り、また時代が訪れる。そして歴史・事件となる。各々の時代が歴史を作る。毎回それが繰り返されるのだ。
聞かれよ!我々の敵は、しばらくは栄えるだろう。チバンタエウン川の岸辺は乾き、牛小屋はからになる。おお、それこそ、白い水牛によって、国は破壊され、彼らは高みに立って都を支配し、そして王たちは鎖に繋がれる。白い水牛が支配権を握り、我々の子孫たちは使役される。しかしその支配は、多くの選択肢と贅沢に満ちているから、支配とは感じられないだろう。それからは、操られる猿の生き方となる。いつの日か我々の子孫たちは意識をもたげるときが来る。しかしそれは、夢から覚めるようなものだ。多くのものが失われ、さらに多くのものが壊される。たくさんのものが歴史に埋もれ、たくさんのものが盗まれ、売られてしまう!子孫たちの多くは、時代が変えられてしまったことを知らないだろう!そのとき、国中で騒動が起こる。扉は、指導者に率いられた彼らによって壊される。しかしその指導者は誤った方向を向いているのだ!
政をする者は隠れ、都は空となり、白い水牛は逃げ去る。国は猿に侵され破壊される!子孫たちよ笑ってよい。しかし笑いは断ち切られる。というのも、市場は病で物が無くなり、田は病で枯れ果て、稲は病で尽き、庭は病で荒れ果て、女たちは病で妊娠する。すべてが病に冒される。子孫たちは病の臭いにおびえる。どんどんひどくなる病に、あらゆる道具が使われる。為すのは我らの民族自身である。多くが餓えで死ぬ。それから我々の子孫たちは、作物を栽培しようと、土地を開拓する。彼らは時代が、また物語を変えたことに気付かない。かくて北の海から、かすかなうなりが聞こえて来る。鳥たちは、卵を孵す。大地は騒々しい!そこから?戦いが頻発し、仲間同士が傷つけ合う。そこここで病が猖獗し、かくて子孫たちは暴れ回る。定めなく大暴れし、多くの者が罪無くして死ぬ。明らかに敵であった者が友となり、明らかに友であった者が敵となる。突然、銘々勝手に指導者が乱立する。混乱に混乱が増し、多くの幼子がすでに父となっている。力ある者が台頭し、無差別に暴れ回る。白い者は破壊され、黒い者は追いやられる。多くの者が暴れ回り、島々はますます混乱し、巣を壊された蜂と変わらない。故郷は破壊され、追いやられる。しかし……止める者がいる。それは抗う者である。
かくてまた、ふつうの人の中から支配者が立ち上がる。しかしそれは古の支配者の子孫であり、神々の島の娘がその母である。あきらかに支配者の後裔であるがゆえに、新しき支配者は激しく迫害される!かくてまた時代は変わる。時代は変わり、物語は変わる!いつなのか?長くはない。夕刻に月が現れた後、続いて明るく輝く彗星が通り過ぎる。我らの旧き国に、またひとつの国が建てられる。国の中の国、そして指導者はパジャジャランの後裔ではない。
かくて支配者が現れる。しかし城を建てた支配者ではなく、彼は開くことを許されない。扉を建てた者は閉めることを許されない。道の半ばに水が溢れ出て、ブリンギンの木で鷲を飼う。まさしく支配者は盲目だ!盲目を強いられたわけではないが、目が見えない。すべての病と苦しみ、悪しき者と盗人が困難に陥った民衆を損ねる。ひとたび、勇気ある者は思い出すであろう。追われる者はその全てが苦しむものではなく、彼を思い出した人である。ますます多くの支配者が盲目となり聾者となる。偶像に礼拝して支配する。かくて子どもたちは容易く誤った団結をし、会話をもとにして規則を作る。自身が理解できない規則を作る。当然のことながらすべての池は干上がり、農作物のすべてが枯れ果て、たくさんの米粒が変になる。なぜなら、約束するのはたくさんの詐欺師であり、ただの約束に銃を突き付ける。賢いが高慢な者が多すぎる。
そのとき、髭をはやした若者がやってくる。やって来た者は全身黒い服を着て、古ぼけたサロン(腰巻き)をひらひらさせている。すべての過ちを目覚めさせ、忘れたことを思い出させるが、採り上げられない。それゆえに、自分だけが勝つことを望む高慢な者たちは気付かない。火に渦巻く煙で、空が既に赤いことに。採り上げられるどころか、髭をはやした若者は獄に入れられる。かくて彼らは他人の土地をかき乱し、敵を捜す。しかし実はわざと的を作っているのだ。
気をつけろ!彼らはパジャジャランの物語を禁じるから。彼らはこの間に騒動が起こることを知るのを恐れているから。盲目の支配者は、白い水牛によりますます支配され、彼らは動物の行いによって人間が支配されている時代に気付かない。奇跡の到来を期待する民衆があまりに悲惨に扱われたので、盲目の支配者の支配は長く続かない。支配者は犠牲に供される。自身の行いのために。その時はいつか?アナ・グムバラが現れた時だ!そこではたくさんの騒動が起こるだろう。それはひとつの地域からどんどん長く、どんどん大きく、国の全土に広がっていくだろう。狂ったことを知らず、従う者は掴み取り、戦う。太った若者に率いられて!戦う理由は?土地を手に入れるためだ。持っているが更に求める者、一部を求める権利を持つ者。静かに覚醒した者だけが、見るだけで持ち続ける。
戦う者はかくて静まり、はっきりと意識する。彼らは空っぽの命令を受ける。金を持った者たちによって、土地は尽きていたから。支配者たちは戦う者たちを恐れ、国を失うことを恐れて隠れる。そして彼らはアナ・グムバラを探す。その者の家は川のほとりにあり、扉は石の高さ、ハンデウレウムとハンジュアンの木で青々としている。皆は生贄を探すが、もういない。髭の若者と一緒に行ってしまった。チャウェネ渓谷へ新しい土地を開拓しに行ってしまったのだ!
見つけたのは枯れ枝に止まって鳴く鴉だけだった。聞かれよ!時代は変わるだろう。しかし後の日に、セテラ・グヌン・ゲデ山が噴火し、七つの山もそれにつづく。全ての地が再び騒乱となる。スンダ人が呼び出され、スンダ人は許される。全ては再び良くなる。国はまたひとつになる。祖国に栄光が戻る Nusa jaya labi 。ラトゥ・アディル(公正の王=救世主)が立ち上がるから。本物のラトゥ・アディルが。
だがその王は誰か?サン・ラトゥの出身は?いつの日かそなたらは知るだろう。今は、若き牧者(グムバラ)を探せ。
さあ、行くのだ!忘れるな。振り返ってはならぬ!

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次回は別サイトでの、『ウゴ・ワンシット・シリワンギ』の論考を紹介します。
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by gatotkaca | 2012-02-13 04:27 | 影絵・ワヤン | Comments(0)
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