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木から落ちた猿

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試訳「スマルとは何者か?」 第2章 その7

N・J・クロム博士とR・Ng・ロンゴワルシト

 N・J・クロム博士が著した「ジャワ・ヒンドゥーの歴史」はジャワ・ヒンドゥー史に関する最も基本となる書物であると言い得る。N・J・クロム博士の著作以外にはジャワ/インドネシアのヒンドゥー史に関して述べた学者・専門家は殆どいない。
 今問題なのは、何が、偉大なる学者N・J・クロム博士に誤りを犯させたのか?ということである。Wallahu alam bishshawabوالله أعلمُ بالـصـواب(神は正しいことをご存知だ=『神のみぞ知る』)。
 キヤイ・R・Ng・ロンゴワルシトだけについてであれば、ダランはもとより、(古代ジャワ)文化に関する学者たちでも、R・Ng・ロンゴワルシト(そして彼の「プストコ・ロジョ」)を知らない者は誰もいない。であるから、「プストコ・ロジョ・プルウォ」の書はワヤン・クリ・プルウォのダランの(知識の)手本となり母体となったのである。彼はまた、第六感に秀でた人としても知られている。彼は想念を、目を開くことなくはっきりと見ることができた。それゆえ、彼は完全なる知者(賢者)と呼ばれた。彼はその各著作の内に(それは科学的な実証に基づくものではない)、十分主要なる黙示的神託を含め、隠している。たとえば、ジャンガン・アスモロ・ソント Janggan Asmara Santa の問題などである。

正確な予言

 試みに、キヤイ・R・Ng・ロンゴワルシトの作品、「スラット・サブド・ジャティ」を見てみよう。これは彼が逝去する八日前、ジャワ歴1802年シャワル月28日、つまり西暦1873年12月17日に書かれたものである。※)Syawal イスラム歴の月は次のとおり。1.Muḥarram 2.Ṣafar 3.Rabīʿ I (Rabīʿ al-Awwal) 4.Rabīʿ II (Rabīʿ ath-Thānī) or (Rabīʿ al-Ākhir) 5.Jumādā I (Jumādā al-Ūlā) 6.Jumādā II (Jumādā ath-Thāniya or Jumādā al-Ākhira) 7.Rajab 8.Shaʿbān 9.Ramaḍān 10.Shawwāl 11.Dhū al-Qaʿda 12.Dhū al-Ḥijja
a. 八日を経ずして、地上を離れる時(逝去)が明らかになる。明日水曜日正午ロクキルマクプル Lokhkilmakpul で。
b. 1802年のジマキル Jimakir (一年を八つに分ける周期のひとつ)、シャワル月28日水曜日(1873年12月17日)に、サン・プジャンガ(Pujangga=宮廷詩人)は常世(alam Baqa)へ帰る許しを乞う。
 まさしく「サブド・ジャティ(真実の神託)」を著した八日後、彼は逝去した。ジャワ歴1802年ドゥルカイダ Dulkaidah 5日水曜日、西暦1873年12月24日のことであった(243頁)。
 キヤイ・R・Ng・ロンゴワルシトの著作には、まだ今日の時代にも影響を与えるものがある。
 彼の正確な予言であるとして、ソロの人々に信じられているものは他には、パンゲラン・ゴンドクスモ Pangeran Gandakusma に関するもので、予言はKPAA・マンクヌゴロ Mangkunegara 四世となった5年後のことについてであった。予言は、パンゲラン・ゴンドクスモのマンクヌゴロ四世即位以前に発せられた。それはマンクヌゴロ四世になる前に苦い災厄に見舞われるであろうというものであった。キヤイ・R・Ng・ロンゴワルシトの予言は正しく当たったのである。その災厄とは、愛する妃の逝去であった。その後幾年かしてから、パンゲラン・ゴンドクスモはKAPP・マンクヌゴロ四世に即位した。
 これと同様であるなら、ジャンガン・スマラソントがチャンディ・ディエンに現れたことも、真実の神託として、キタブ・ウィリッド・ヒダヤット・ジャティの導きで君主への道を歩んだ、ということを示しているのではないだろうか。
 この仮説が正しいと認識され得るなら、スマルもまた、まさしくその時に生きて存在したのである。人間としてかつて存在したとは言えなくとも、彼はサン・ヒワン・モヨの性質を持つものとして、あるいはシナル・イライ Sinar Illahi すなわち英知の光、ジナノバドロ(Jina=知、bhadra=光)、また聖なる愛、アスモロ・ソントの知の直感、受け取り手である存在として、そこにいたのである。欲する者なら誰でも、そして平穏高潔なる者であれば誰でも、光の導きの受け取り手となれるのである。
 この見解が受け入れられるなら、その考えは礎となる。今日、「心理学」の専門家らはアジアの中軸地帯がどこかを探すのに忙しい。軍事家、地政学家らが大人になってマッキンダー〈Sir Halford John Mackinder 1861 〜1947。サー・ハルフォード・ジョン・マッキンダーは、イギリスの地理学者、政治家である。ハートランド理論を提唱し、この概念は地政学の基礎的な理論付けとなった。事実上の現代地政学の開祖ともいえる〉のモンゴルは言うに及ばず、アジアの地政学理論に血道を上げる。しかし、「ディエンとスランディル Srandil (中部ジャワの地名)の間にいる」(この二つの地はスマルの神秘と聖なる地であることで知られる)者については1スーラ Sura(ジャワ新暦の1年)の一日ほどにも重要視しない。
 カール・ホウスファー Karl Housofer とハルフォード・J・マッキンダーの地政学理論はすでに古くさいものとなったが、希望的観測(世迷い言)と、一民族の政治的拡張の敗北の理論の一つとして、頑に守られ、既存の権力を培い続けている。インドネシア国はホウスファーならびにマッキンダーの地政学に断じて従わない。
 第二次世界大戦の際、滿洲とモンゴルの戦いは、単に中軸地帯(ハートランド 〈ハートランド (Heartland) は地政学の用語。ハルフォード・マッキンダーが『デモクラシーの理想と現実』の中でユーラシア大陸の中核地域を中軸地帯と呼んだことに始まり、後にハートランドと改められた。〉)を求めるための闘いではなかったか?太平洋戦争もまた、八紘一宇の存在を確信するためだけのものではなかったか?日本政府は八紘一宇、天照大神の信仰を世界の八州にあまねく押し付けようとした。それは世界を支配しようとする、一個の信念であり、それが支那を支配できるはずだと思わせたのである。支那を支配しようという野望が、彼らをモンゴルと滿洲支配へと向かわせた。しかしモンゴルは支配され得ず、八紘一宇の理論はソロモン諸島とポート・モレスビー(パプア・ニューギニア)の海で行き詰まり、1942年6月9日、井上(第四艦隊司令長官井上成美)中将と三川(第八艦隊司令三川軍一)中将の軍は、フレッチャーとマッカーサー元帥の軍によって全滅したのである。
 結局,日本は世界を支配することはできず、かわりにマッカーサーが日本を占領した。とはいえ、日本は軍事力では世界を支配できなかったが、今や経済力で世界を支配している、という声もある。
 上記の比較論とキタブ、さらには著者の役割の大きさから、「キタブ・プストコ・ロジョ・プルウォ」は明示的な見方をしてはならず、この書に隠された暗示的文脈を読み取らなければならない。それはC・C・バーグ C.C.Berg 教授の推奨するようなものである。彼は奨める。我々は年号に驚いたり欺かれたりしてはならない、と。
 ワヤンの作品に結びつき、また適したもので、ダランや創作者たちの手本として用いられて来たもののうち、今日まで続くものは一つだけである。「プストコ・ロジョ・プルウォ」こそがその役目を果たし、長く国と文学界に貢献してきたのだ。

(つづく)
by gatotkaca | 2012-02-01 00:40 | 影絵・ワヤン
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