人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

木から落ちた猿

gatotkaca.exblog.jp

スマントリとスコスロノ、魂と肉体の象徴

 スリ・ムルヨノ著「ワヤンの人物たち」("WAYANG DAN KARAKTER MANUSIA" oleh Sri Mulyono, PT GUNUN AGUNG-Jakarta, 1979)から。さらに読者の意見。これはやや突っ込んだもの。


読者の意見

スマントリとスコスロノ、魂と肉体の象徴

 ブアナ・ミング最新号の、ヘルダラン(ダランへの尊称)・スリ・ムルヨノ氏とブ・デさんの説に興味を引かれ、取り急ぎ私も別の角度からの意見を述べたいと思います。

 「イルム・ラサ(感覚的知)」の眼鏡をかけてワヤンの世界を眺めなければ、ワヤンが内包する教えに近づくことは出来ない。ワヤンの内には一般的には「明確」ではない、多角的に解釈され得る言葉や出来事でベールに包まれた教えが含まれているからである。であるから、感覚を研ぎすまし、内にあるものを調べ、見出さなければならないのである。

 スマントリとスコスロノは兄と弟であるが、その外見はひじょうに異なっている。スマントリは神のような完璧ですぐれた身体を持つ。一方、弟はとても醜い姿で、見た目はブト・バジャン(小さなラクササ)のよう、身体は侏儒で、醜い。

 これは魂と肉体からなる人間の存在をイメージしている。醜い外見のスコスロノは身体、美しいスマントリは精神(魂)、また洗練された身体である。スマントリとスコスロノは(訳注:一個の)人間の姿を描いているのである。

 スマントリがプラブ・ハルジュノ・ソスロに仕官(ゲゲル Ngeger)しようとしたことは、ある人間の魂がパンゲラン(トゥハン=神)を想起し、トゥハン・ヤン・マハ・エサ(唯一至高の神)に敬神し身を捧げることを切望したということを意味する。スコスロノにはそのようなことはなかった。というのも、人間の身体(肉体)はそういった高尚な理想を抱くことは無く、ただその精神(魂)によって支配されているに過ぎないからである。だからスコスロノは、スマントリについて行くことを望んだのだが、答えは「後で。」であった。これは、人間の魂(精神)がトゥハンに仕え、身を捧げようとするときは、まだ悟りの境地にはいたっていないから、身体(肉体)が伴うことに躊躇するものなのだ。(訳注:まず精神修養が先行するということであろう。)

 スマントリが自身の意思を表し、プラブ・ハルジュノ・ソスロに仕官が受け入れられた。しかし、ハルジュノ・ソスロは仕官を認めるための条件を出した。プラブ・ハルジュノ・ソスロに望まれる王女を連れてくることができたなら、と。スマントリは承知し、デウィ・チトロワティを連れて来ることに成功した。しかしスマントリはサン・プラブに王女を差し出す前に、ハルジュノ・ソスロの超能力を試したいと考えた。彼は王に仕えたいと願ったが、その王はスマントリを超える超能力の持ち主でなければならないからである。

 プラブ・ハルジュノ・ソスロの超能力を試したいという、スマントリの願いは快く受け入れられた。激しく、長い戦いが起こり、ついにスマトリはハルジュノ・ソスロに膝を屈し、サン・プラブの超能力を認めた。これは、「自身を捧げ、トゥハンに仕えることを人間の魂は、ラク laku (試練)を受けなければならず、それは容易く克服できるものではないが、受けなければならない『困難な試練』であり、この試練の全てはトゥハンに仕え、身を捧げるために必要なものである」ということを意味する。高尚な理想を抱く人間にとってはふつうのことである。しかし仕えることを受け入れられた人間の魂は、試練を達成したがゆえに、大きな誘惑にさらされる。うぬぼれて、人々に試練を与えるトゥハンの崇高さがどこまでなのかを試してみたくなるのである。人々がトゥハンの崇高さを確認しようとした時、人々ははじめて認めることを望み、トゥハンの民という感覚を得る。ということがこの物語において述べられるのである。

 デウィ・チトロワティをプラブ・ハルジュノ・ソスロに捧げた後、スマントリは仕官を受け入れられ、グスティ(主君)からの重い試練を達成したことに満足した。しかし、まだそれだけではなかった。ハルジュノ・ソスロはスマントリにさらなる試練を与えたのである。「タマン・スリウェダリ」を少しも缺けることなく移転させることである。スマントリがハルジュノ・ソスロの願いを実現できない時は、スマントリの仕官は受け入れられないのである。スマントリはひじょうに落胆した。全ての状態(出来事)が、トゥハンの崇高さを試そうとした人間に与えられた道であり、人々が、トゥハンの高貴なる性質と人間を超えた賢明さを理解する前の状態であることを意味する。これはトゥハンの超越性を試したいなどという傲慢な人間の魂に対する罰であり、それはさらに重いものとなるのである。この罰は人間の魂によって行うことが不可能なものであり、(試練としての)「タマン・スリウェダリ」を行うことは、人間の「肉体」の手によってなされなければならないのである。

 かくて魂(精神)は不安定になる。この困難を前にして、スマントリは兄弟、すなわちスコスロノを「求める」。彼はすぐさまスマントリの呼びかけに応え、花園の移転をやってのける。この若き兄弟は、共に仕えることを望んでいたから、仕官に同行する許しをえられるなら、スマントリの望みはどんなことでもするつもりであった。この意味するところは以下のようなものである。

 「魂」がその能力を超える困難な試練を受けるとき、かならず助けを求めることの出来る若き兄弟がいることを想起する。それは「肉体」である。「魂」はかくて「肉体」に願う。職務を果たし、仕官が受け入れられるように、と。もちろん「肉体」は承知する。「肉体」はただ「魂」(精神)の意志に従って生きるのみだからである。トゥハンへの献身と奉仕はそのようであり、「肉体」はとり残されることが暗示される。

 しかし不思議なことに、タマン・スリウェダリが無傷で移動させられた後、スコスロノはその代価として矢を射られ死に至ったのである。スマントリがサン・プラブの「伴侶 garwa」である娘たちに対して恥じたからである。命が失われる時、天界の門でスマントリを待っているというメッセージを残していった。これは、公正を缺いた「高貴さ」を求める魂には、仲間を恣にした報いがあることを意味する。しかしこの出来事は定められてあったのだ。トゥハンに仕え、その名を守る人間の魂の奉仕は、「彼の肉体」と一緒ではできないのである。魂の高貴さを求めるために「肉体」は取るに足らないという意味ではない。トゥハンへの献身と奉仕において、「肉体」無しに行動することはできない。例えれば、人が祈る(瞑想する)ことは、「肉体」を含めて生の完全性を求めるためである。しかし人間の「魂」がトゥハンへに仕えることを受け入れられた(カウロ・グスティ Kawula-Gusti との合一)なら、もはや「肉体」は共について行くことは出来ない。ゆえに、このラコンにおいてスコスロノは除かれなければならなかった。このような道筋で、魂の高貴さを求める人間を描くラコンは、世俗のものはあらかじめ排除されなければならないということを表現するのである。

 ラコン「スマントリの仕官(Sumantri Ngeger)」は、我々が既に亡き祖先たちの物語から意味を見出すことを示唆しており、それはここでは知恵ある読者の方々に委ねられているのである。

1976年6月28日、ヨグヤ
Png.
by gatotkaca | 2011-10-31 01:58 | 影絵・ワヤン
<< デウィ・チトロワティは夫候補の... スマントリはトリポモである >>