人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

木から落ちた猿

gatotkaca.exblog.jp

バトロ・コロとは何者か? その1

 バトロ・コロ Batara Kala は、ジャワ、ワヤンの世界では、人食いのラクササ(羅刹)姿の神である。ルワタンと呼ばれる一種の魔除けの儀式は、現在ジャワでは主に、このバトロ・コロを魔除けするために行われるというのが、一般的理解であろう。
 ルワットは、「浄化・解放」を意味する語である。これがインドの「浄・不浄 Pure & Inpure」の概念から来ているものなのかは不明だが、モジョパイト期のジャワにおいて、一定の行為・状況が『汚れ』を引き起こし、この『汚れ』から脱却・解放されることが、『救い』である、という概念が生じていたことは確かである。「浄化・解放」の儀式たるルワタンそのものは、その概念が、古代から現代にいたるまでにいささかの変容を経ている。先に紹介したサンティコ論文にそって、あらためて検証してみよう。
 サンティコ論文があげた四つの例はいずれもモジョパイト期におけるルワットの概念を示すものであるが、これらは全て『汚れ』を負った個人が、高徳の存在による仲介を得て『浄化』されるとういう構成を持つ。ここで『浄化』される個人は、もともとは「清らかな存在」であったものが、一定の行為・状況によって『汚れ』を帯びる。さらに『浄化』は『解脱 Moksa』と直結していることが特徴的である。ルワタンの儀式は『(元は清らかであった)個人の解脱』を促すための『浄化の儀式』として理解されている。
 これは、現在のルワタンにおいて、儀式の対象とされるスクルタの規定とは、いささか趣きが異なる。現在スクルタとして規定される個人は、二つの異なるカテゴリーから構成される。第一は、オンタン・アンティン (男でも女でも、一人っ子の子ども)、クドノ・クディニ(ひとりが男でもう一人が女の兄弟)、ウグル・ウグル・ラワン(男の二人兄弟)といった個人の生まれながらの状況によるもの。第二は、飯炊きの道具ダンダンをひっくり返した者、日干ししている植物の種をひっくり返した者、米を炊いている最中まだ炊きあがらないうちに出掛けた女、トゥトゥップ・ケオンなしの家を建てた人といったように、一定の規範を破った者である。
 「スクルタであるとされる人はルワットされなければモロプトコ Malapetaka に遭遇することになる、とジャワの民間では伝統的に信じられている。モロプトコ(災厄)とは悲惨さや困苦のことであり、「人生に多大にして重大な危険となるもの」である。モロ mala とは汚れ、不浄、汚濁、悪徳を意味し、プトコ petaka は落ちる、落下することを意味する。つまりモロプトコとは「不浄に陥る」ことを意味する。古代ジャワ説話において、ロロプトコ larapetaka としても見いだされる。例えば、 tan pegat ing lara petaka mangsa ta baya ruwat asue のように。lara petaka の語は多少とも困苦の悲しみもしくは困窮をも意味する。(「RUWATAN MURWAKALA Suatu Peodoman」序文 (Duta Wacana University Press, 1996) 」
 モジョパイト期の文学作品では、ルワットを必要とする『汚れ』はあくまで個人の自覚的行為の結果として生じる。呪いを受ける場合も、呪いの原因は個人の行為に基づくものである。これは現在のスクルタ・カテゴリーでは第二の部類に属するものである。扱われる行為は、現在の規定では卑近なものになっているとはいえ、自覚的行為であることにおいては同じであろう。この段階では、生まれながらにしてルワットを必要とする者は想定されていないと考えられる。これは、これらの文学作品が、王族を対象としたものであることに起因するのであろう。王族がその生まれを『汚れ』として表明することはあり得ぬことであろうからである。もっとも民間において、生まれそのものも『汚れ』として規定する概念があったかどうかは、分からない。民間信仰はこの段階では、文学作品やチャンディ(寺院)建設といった、歴史的証拠を遺していないからである。
 これらを個人のルワットとするならば、共同体のルワットという概念も存在する。「スラット・プストコ・ロジョ・プルウォ」によれば、グルワット・ヌゴロ(国家の厄除け)がスリマハプングン王によって行われた。そのとき彼の国は疫病にみまわれていたのである、(チュムポロ「ムルウォコロ特集」『古代のグルワット・ヌゴロ』)とあり、疫病等のモロプトコ(災厄)を除く儀式としてグルワット Nguruwat が規定されている。モジョパイト時代の遺跡であるチャンデ・スク、チャンディ・スロウォノはこのグルワットのモニュメントとして建設されたという説もある。このチャンディには、スドモロ説話のルワタンの場面が描かれたレリーフがある。デウィ・クンティの出発から始まり、サデウォがドゥルゴのルワットに成功し、スドモロ(病を癒す者)の異名を受けるまでである。
 スドモロ説話を伴ったチャンディは、国家安泰を願って建設された。スドモロ説話は、今にいたるもブルシ・デサ(村の大掃除)やブルシ・カディパテン(kadipaten は王制時代の貴族の領土に相当する行政区)の儀式において、ふつうに上演される。だから村やカディパテンの感謝祭の儀式において、ラコン「スドモロ」は最も選ばれることの多い演目とされる。ルワタンの目的は二種あって、それに伴う演目も、共同体全体のルワットでは「スドモロ」、個人のルワットでは「ムルウォコロ」ということになる。「スドモロ」については項をあらためて論ずる。
 ちなみに、近年盛んに行われるようになったいわゆる「共同ルワタン Ruwatan Bersama 」は、あくまで「ムルウォコロ」上演をともなう個人ルワタンを、経済的理由その他により共同で行うのであって、共同体そのもののルワットとは異なるといえる。
 以上まとめると、ルワタンは古代ジャワ(モジョパイト初期かそれ以前)で、王族のディクシャ儀礼の変容として始まった。当初はヒンドゥー・ブッダ信仰との関係から、個人の『汚れ 』を祓い、『解脱』へと導く儀式であった。この個人的・小乗的儀式は、やがてチャンディ建設などの国家的事業へと発展し、それに伴い共同体全体の『浄化』儀式としてのルワタンも発想されて行ったのである。
 興味深いのは、この段階まではバトロ・コロ(コモ・サラ)説話がまだ登場していないことである。この段階でのルワタン説話では、モロプトコに陥った個人そのものがラクササ化し、ルワタンの『浄化』によって元の姿、『解脱』へと導かれるという構成が主流である。その後共同体の『浄化』儀式への発展が、疫病等の「外部から来襲するモロプトコ(災厄)」という概念を形成した。これが後の「外部から来襲するモロプトコ(災厄)」=バトロ・コロ(災厄の神)の登場を準備したのではないだろうか。そして現在のルワタンは、バトロ・コロの脅威からスクルタ(モロプトコに陥った人)を守る儀式へと変容していったのである。
 では、災厄としての神=バトロ・コロとは何者なのか?
(つづく)
by gatotkaca | 2011-09-13 16:42 | 影絵・ワヤン
<< バトロ・コロとは何者か? その2 ムルウォコロの文学的重要性 >>