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木から落ちた猿

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スラカルタ・スタイルのワヤン・プルウォ 造形の側面からのレヴュー その2

 前回からのつづきです。ワヤン・クリ発展の歴史的沿革がまとめられているので、参考になりました。新規の情報はそれほどありません。

(つづき)

Ⅱ.歴史的概略

 最古のワヤン・プルウォのひとつは、中部ジャワのプラムバナン寺院の壁面レリーフに見られる(9-10世紀)が、ワヤンの物語(マハバラタ、ラマヤナ)は、さらに幾世紀か以前に神話化していた。その時代には、中部ジャワから東部ジャワへと人口が移行して(多分自然災害:洪水、火山の噴火、天災、飢饉その他によって)、権力・文化の中心は(10世紀には)東部ジャワに移行していたと考えられる。東部ジャワのチャンディ・パナタランやチャンディ・スク(14-15世紀)には証拠が残されている。そこには壁面レリーフとしてスドモロの物語が描かれている。バリに見られるワヤンの造形は、東部ジャワのそれと似ており、これは東部ジャワ王朝とバリ王朝が親族関係にあることによると思われる。東部ジャワに見られた造形がバリのそれに主要なインスピレーションを与えたことは多いに考えられる。
 既存の説によれば、ワヤン・ベベルはモジョパイト時代に創られ、上演されたのが最初である。これは定説といってよいが、疑問が残るところもある。今日見ることのできるワヤン・ベベルの造形はモジョパイト時代のワヤンの造形と比較してより新しいものであるといえる。ワヤン・ベベルが創られた時代は、モジョパイト王権(16世紀初頭)より下って、その文化的中心はデマク(中部ジャワ、1522年前後)に設定した方がふさわしいようである。知られているようにこの時代にはイスラム教がジャワ島北海岸の地方に広まり始めた。当初その時代の中部ジャワでは、ヒンドゥー教が大きな勢力を占めていた。中部ジャワのイスラム導入時代はヒンドゥーからイスラムへ信仰が移行する時代であり、ヒンドゥーとイスラムの価値観の衝突を回避するための妥協が必要とされた。ワヤン・プルウォ藝術にとってはことさら、この妥協はワヤン・クリ・プルウォの造形創作で行われ、イスラムの教義との衝突を避けるため、リアルな人間の絵姿は正当化されなかった。

 デマク王権末期(1478−1548)には、小さなサイズのワヤンが創られた。そのワヤンはキダン・クンチョノ(黄金の鹿)と呼ばれる。今日にいたるも、サイズの小さなワヤンは、キダン・クンチョノと呼ばれる。デマクの後、パジャン王国(1568-1586)の時代となり、間を置かず第二マタラム王朝(P.セノパティ)が立つ。おそらくこれが、ワヤン・パジャンとしてカテゴライズできる特別のものが見いだせない理由のひとつであろう。デマク-パジャン時代と同時期に、チレボンでもワヤン・プルウォが知られ始める(スナン・グヌンジャティの時代以来)。チレボンでのワヤン・プルウォのさらなる発展がどのようであったかは明らかではないが、ワヤン・チレボンの遺産は1セット存在する(おおよそ1世紀の間に)。そのワヤンの造形はデマクから(クドゥのように)直接枝分かれして形成され、スラカルタとヨグヤカルタの様式に影響を与えたといえる。

 パジャンから第二マタラムに政権が移り(1586-1680年、P.セノパティからスナン・アマンクラット2世まで)、ワヤン・クル・プルウォ製作に多くの発展がもたらされた。続いてカルトスロ(1680)への移行期にワヤン造形の改修と標準化の過程があり、キヤイ・プラムカ(1723-1730年前後)のようなワヤンの製作が行われた。この発展、変容、標準化は、カルトスロからスロカルト政権(1744年)、すなわちスナン・パクブウォノ2世(1727-1749年)への移行期まで続き、スナン・パクブウォノ4世(1788-1820年)の時代に頂点に達した。この時代にはいくつものワヤンが知られている。キヤイ・マング(1753年前後)、キヤイ・ジマット(1798-1816年)、そしてキヤイ・カドゥン(1799-1817年)である。キヤイ・カドゥンはワヤン・ジュジュタン(大きいワヤン)であり、今日に至るまで十分に神聖視されている。他にも1807-1817年にはキヤイ・デウォ・カトンと名付けられたワヤン・ゲドも製作されている。

 ワヤン・プルウォの造形が高い完成度で頂点に達したのは、S.パクブウォノ9世(1861-1893年)の治世もそうである。それは一人の貴族にしてワヤンに関する文化人でもあったG.P.H.スモディロゴの指揮によるものであった。この時代には「サストロミルド」と題する本も書かれ、ワヤン・プルウォの造形美術に関する質疑応答が記されている。これと同時期にK.G.P.A.A.マンクヌゴロ4世が、ワヤン・クリ・プルウォ造形美の傑作であるサトゥ・コタ(一箱=ワンセット)のワヤン・クリ・プルウォ、キヤイ・セブ(1850-1865年)を製作した。このワヤン製作の目的は、操作(ニャブット=ワヤンの操作、サブットから派生した語である)のし易さにあった。これにより、キヤイ・セブは後のワヤン・クリ・プルウォ造形の規範となったのである。

 周知のようにスナン・パクブウォノ2世の時代、1755年にスラカルタ王家の分家として(1755年ギヤンティ条約の帰結として)ヨグヤカルタ王家が成立した(ハマンクブウォノ1世)。政権の分立と新規の領土設定で、そのアイデンティティ確立のために新たな美術文化の形成が必要と認識された。かくてクドゥの様式を参照して、ヨグヤカルタ様式のワヤンが創られた。その発展は十分意識的に加速され、およそ19世紀末にはスラカルタ・スタイルと拮抗する、ヨグヤカルタ・スタイルのワヤン造形が成立した。ヨグヤカルタ王家の関与は相当に真摯なものであり、通説では王自身が製作したワヤンも存在するとされる。たとえば、キヤイ・ジョヨニンルム(ジャノコ)、キヤイ・グンドゥレ(クレスノ)、ならびにキヤイ・バユクスモ(ウルクドロ)である。ヨグヤカルタの貴族のひとり、G.P.テジョクスモは、20世紀初頭のワヤン・プルウォの造形美術、踊り、伝統音楽(カラウィタン)の設立者として著名である。

 日本の植民地時代(1942-1945年)の間はワヤン・プルウォの造形に新たな展開や創造はなかった。インドネシア独立後、ワヤン造形の新創作がいくつか起こり、それは物語や上演目的にまで及んだ。ワヤン・スル・パンチャシラ(1947年前後)、ワヤン・ワフユ、ワヤン・ゴレ・ローカル、ワヤン・スジャティ、ワヤン・ボネカ・パ・カスル、ワヤン・クルアルガ・ブルンチャナ、ワヤン・ウクル(スカスマン)、ワヤン・ゴレ・モデルン・ジャワ・バラット、ワヤン・ゴレ・メダンその他、これらすべてはワヤン・コンテンポラリー(現代ワヤン)の範疇に含まれる。

 総論として手短にまとめると、ワヤン・プルウォの造形美術の展開はいくつかの要素によって推進された。
1.時代から時代への美学的価値観の自然な展開
2.ヒンドゥーからイスラムへ=アニミスムからダイナミズムへの価値観の移行(多神教から一神教)
3.その他の目的。例えばスンカラン(年号を読み込む詩形式)、(王の)命令、その他。
4.ワヤン・プルウォ藝術の行為者と巷間(ダラン、見物人、パトロン、計画する者、権力者)からの影響。

 これらはスラカルタ地方やその周辺でのみ生じたわけではなく、程度の差はあっても他の地域でも生じた。とはいえ、比較的、ワヤン・クリ・プルウォの造形美術の創意においてはスラカルタが最も強く、ワヤン・クリ・プルウォの造形美術のコンセプトには全体としてスラカルタ・スタイルの影響が見いだせるであろう。

(つづく)
by gatotkaca | 2011-08-24 00:40 | 影絵・ワヤン
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