ブログトップ

木から落ちた猿

gatotkaca.exblog.jp

心のありどころ

「近隣への配慮から、窓を閉め切った部室で練習しています。節電でクーラーも付けられませんが、それでもみんな汗だくになりながらコンクールに向けて頑張っています!」

 友人のFaceBookのノートによると、小学校の吹奏楽部の顧問からの手紙に誇らしげに書いてあったという。友人の子供は熱中症でたおれ、39度の熱にうなされ、二日にわたり寝込んだそうである。友人は怒り心頭。当然であろう。
 「近隣への配慮から、窓を閉め切った部室で練習」「節電でクーラーも付けられません」「みんな汗だくになりながらコンクールに向けて頑張っています」こうしてバラしてみると、それぞれ別に間違ったことを言っているわけではない。むしろ「心づかい」と「がんばり」という一種の美談ともいえる内容である。「頭=心=脳」だけでものを考え、決めていくと、それがどんなに立派にみえることでも、どこかで「身体」が抜け落ちてしまう。ならべたものが、それぞれどんなに立派にみえても、それをつなげてしまったら、こんどは身体がついてこれなくなったのである。「心」は無限で、自由で、そして永遠のもの、と勘違いしているから、「身体」は当然それについていけない。結果は熱中症、場合によっては死である。
 養老猛のいうように、「心=脳」は「知る器官」である。「身体」の一部にすぎない。人は身体があってこそ人である。当然のことだ。しかし多くの場面でそれが忘れられている。頭の中だけで理想の世界が築かれ、それが成文化され、観念の世界を身体に押し付ける。震災復興、原子力発電所、閣僚の引責問題、いじめ、空気を読む、これらの問題を喧しく騒ぎ立てる連中の頭の中に、生身の身体はあるのか?
 「Mement-Mori 死を忘れるな」とは、まず、自らの目の前にある身体を見よということだ。そして、それが切れば血の出る生身の人なのだということを知ることである。からだは無限でもなければ、理想的でもなく、融通もきかない。できないことはできないし、それほど我慢強くもない。ある程度老化すればいやというほど明白なことだろう。「愛」だの「がんばり」だの、立派なことをいうと心は快適かもしれぬが、からだはどうだ?耐えられるのか?「心づかい」というが、その相手にもそして自分自身にも生身のからだがあるということに心をよせているか?
 われわれは詰まるところ、どうやっても自身の「からだ」からは逃げられない。はてしなく暴走する心に、身体を合わせていくなどということは、どだい無理無体というものだ。中庸とはそういうものであろう。心のありどころは結局その生身のからだなのだから。
[PR]
by gatotkaca | 2011-07-09 00:35 | こども会 | Comments(0)
<< ジャワのバタリ・ドゥルゴ その1 ダランと呼ばれることの困難 >>